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第六書・第五章

イエズスは、アンナとカヤファの許に引き出される

 イエズスは厳重に縛られ、ゲツセマ二の園から祭司長アンナの官邸に引き回されます。ユダは、自分の先生は魔法使いで、簡単に粗からくぐり抜けられると兵隊や召使いたちに入れ知恵をします。ルシフェルと仲間たちは、密かに主に対して無礼の限りを尽くすよう人々にけしかけます。人々はルシフェルの悪意に喜んで加担します。全能者のお許しになるぎりぎりまで、自分たちの創造主の人性に怒りをぶつけます。人々は主の首に重い鉄の鎖をかけ、腰にまわします。鎖の両端を大きな鉄輪に繋ぎ、この輪を手錠にして創造主の御手にかけます。従って、御手はしっかりと後ろにくくられます。この鎖は、祭司長アンナの官邸の土牢の穴の蓋を開ける時に使われていた物です℡御手を縛り上げたのにまだ飽きたらない人々は、一本の丈夫な柵を主の御首にかけ、胸の所で交差し、後ろで大きな結び目を作り、二つの端を前方に持って来て、人々が主をあつちこつち好き勝手にぐいっと引っ張れるようにします。もう一本のがっしりした綱を主の御腕に巻き、御腹を縛りつけ、両端を後ろに持って来て、後方へ主を強く引けるようにします。

 救い主は、敵を全滅できる御力を隠し、救いがもっと稔るように、ルシフェルや地獄の軍勢が助長した不信心な激怒がぶつけられるままになりました。人々は主をアンナの前に引き出した時、死刑囚として引き渡したのです。死刑囚はこのように縛るのが当時の習慣でしたから、主の死刑は既に決定したかのようです。涜聖祭司アンナは、大広間の執政官の椅子にふんぞり返り、威張っていました。アンナのそばにはルシフェルと大勢の悪魔たちが来ています。

 傲慢な態度でこの祭司長は主に、主の弟子たちや教えについて聞きました。主の御答えを曲解し、主をごまかし屋として決めつけるためでした。主は謙遜に朗らかに御答えになります、「私は世の人々に公然と話し、会堂や神殿で教え、何も秘密にしてはいない。私の話しを聞いた人々に尋ねなさい。人々は私の話しを知っています。」 主の教えは永遠の御父に由来し、主は話され、教えの名誉を守りました。祭司長の僕の一人が手を挙げながら走りより、主の崇むべき御顔をひつぱたき、叫びます、「祭司長に何というロのきき方をするか」、主はその僕のために祈り、他の頼もひっぱたかれる心構えができていました。それ以上の悪口を言わせないため、主は申されました、「私が悪い教えを述べたなら、その証拠を出しなさい。良い教えを述べたなら、どうして私をひつぱたくのですか。」 主の御声は天を震えさせました。その時、聖ペトロと聖ヨハネはアンナの官邸に到着し、顔見知りの聖ヨハネだけ中に入れてもらいました。しばらくして聖ペトロも入れました。邸の裁判の間につながる柱廊で二人は立ちました。寒かったので、聖ペトロは、たき火のそばに来ると、女召し使いは聖ペトロの悲しげな様子に目を留め、そばによって来て、聖ペトロが主の弟子であると判り言いました、「あんたはこの囚人の弟子じゃないか」、聖ペトロは弱気でまごつき、恥ずかしくなり、怖くなって言いました、「私は弟子じゃない」、こそこそ逃げ出しました。主がカヤファの官邸に連行された時、聖ペトロもついて行きましたが、そこでは二度も主を否認することになります。

 聖ペトロの否認は、主にとり、殴られることよりもっと辛かったのです。主は聖ペトロのために永遠の御父に祈り、三度目の否認の後でも聖ペトロを赦して下さるよう御母の御仲介もお願いします。一部始終を目撃しておられる御母は、愛、感謝、崇敬と礼拝に没頭しておられ、聖ペトロの不始末には泣き悲しみ、主が聖ペトロを過失から起き上がらせて下さることを確かめるまで祈り続けます。

 アンナ官邸からカヤファ邸へ主を引きずり回しながら、地獄の霊たちと無慈悲な人間たちは、主にあらゆる残酷な仕打ちをします。祭司長たちや僕たちが喚声の中に主の入場されるのを見るや、どっと笑い転げます。主は彼らの手の中にあり、逃げ隠れできません。祭司長カヤファは、生命の創造主を嫉妬と憎悪により、殺してやりたい気持ちで一杯です∩二商い壇の上の玉座にふんぞり返る祭司長の周りには、アンナ邸からついて来たルシフェルと部下の悪魔たちが全員そろっています。律法学者たちやファリサイ人たちが血に飢えた狼のように、優しい神の小羊を取り囲み、興奮しています。彼らは買収した証人を呼び出し、主に対する偽証を言わせます(マテオ26・59)。偽証人たちは告訴や証言を申し立てますが、お互いに食い違ったり、主とは関係がありません。我らの救い主イエズス・キリストは、これらのざん言やそしりに対し、何らの反駁もされません。主の沈黙に我慢できなくなったカヤファは立ち、言います、「お前のことを訴える大勢の人たちに対し、なぜ答えないのか?」主はカヤファにもお答えになりません。カヤファも他の連中も主を信じないどころか、主の御答えを悪用し、主を罠にかけ、ガリラヤ人である主の裁判をもっともらしく見せかけ、主の死刑を正当化しようと企んでいます。主の謙遜な沈黙はカヤファをかんかんに怒らせます。祭司長たちを扇動するルシフェルは、主の様子を一心に見つめます。絶とか蛇と呼ばれるルシフェルは、主を苛立たせ、しやべらせ、主が本当の神であるかどうかを確かめたいのです。そのため、ルシフェルはカヤファを激怒の極みに追い込み、威張りくさって質問きせます、「生ける神によりお前に命じる。お前がキリスト、聖別された者、神の子であるかどうかを言え。」 この質問は最も深い愚行であり、恐るべき涜聖です。主に対する疑いは、正しい理屈と正義に基づき、全く異なるやり方で解決されるべきです。神という言葉が涜聖者の□から発せられたにも関わらず、主は心の中で神を崇拝し、神の御名に対する尊敬の故に御答えになります、「汝の言えるが如し。我はキリストなり。人の子が全能の神の右に座し、天の雲に乗って来るを汝は見ゆべし」(マテオ26・64)。この御答えが自分の疑問の解決であると祭司長は考えず、怒り狂い、もう一度立ち上がり、神の名誉を守る熱心さを示す仕草として自分の法衣を破り、大声で叫びます、「こいつは涜聖した。この他の証人が必要であろうか。見よ、今あなた方は冒涜の言葉を聞いたばかりである。どう思うか」(マテオ26・65)。祭司長は、キリストが神の御子であるという確かな事実を否定しました。自分の職権により、この偉大な真理の認知と宣言をしなかった祭司長こそ涜聖の罪を犯しました。政府高官たちや高位聖職者たちの言動により叫船人は扇動され、大声で叫びます、「こいつを死刑にしろ(マテオ26・66)、殺せ、殺せ。」 悪魔の怒りに動かされ、人々は自分たちの最も柔和な主に襲いかかります。御顔をひっぱたき、蹴りつけ、御髪をむしり取り、御首に平手打ちをくわせます。全ての仕打ちは、犯罪者の中でも最も卑しく最も悪質の者に対してされるべきものです。これら全ての侮辱、批難と軽蔑は聖母が目撃し、体験するところとなりました。同じ時に、御体の同じところに同じ苦痛と傷が起きたのは、全能なる神の特別なお計らいによるのです。人間の生理学の原則によれば、聖母のひどい悲しみと心配は致命的ですが、神の御力により助けられ、御子と共に苦しみ続けることができました。救い主なる御子の聖心を十分に理解できたのも聖母だけです。神なる主が御自分の人性に於て受難されたので、主に従う人々に深く同情されています。以前に山上の垂訓で約束された通りです、「幸いなるかな、困難・苦労に堪える者、我を見倣いて喜び、人々の心と善意の国を所有せん。幸いなるかな、悲しみて涙を流す者、理解と生命のパンを頂き、永遠の喜びと幸福の実を収穫せん。」「幸いなるかな、義と真に飢え乾く者、恩寵と光栄の国に於て汝の求めをはるかに越える満足を我は与えん。幸いなるかな、赦しと愛の我を見倣い、攻め、迫害する人々に慈悲深き者よ、汝のため、御父の御慈悲を我、心より乞い願わん。幸いなるかな、心の清き者、肉欲を十字架に架けるが故、汝に平和と我が神性を示し、我に似る者となり、我が生命にあずからんことを我、約束するなり。幸いなるかな、平和なる者、自分の権利を他人に譲り、悪意ある人々に逆らわず、誠実と静寂の心を有するが故、汝を我が養子となす。義のため迫害を受くる者は、我が天国を相続する幸せ者なり。我と共に永遠に生くるなり。喜べ、貧しき者、慰められるなり。小さき者たち、世の中の嫌われ者よ、光栄を受くるなり。偽にしてごまかせるバビロンの高慢と壮観を嫌い、虚栄を捨てよ。苦難の火と水の中をくヾり抜けて我に来たれ。我は光と真理にして、永遠の休息と回復へ汝を導くなり。」

 主がひどい仕打ちを受けたことで、この祭司長たちと聖職者全員の怒りはだいぶ静まりました。真夜中を過ぎていたので、この悪人たちは、救世主が夜中に逃げ出さないようにしっかり見張ることになりました。縄で縛られたままの主を、最もずぶとい泥棒や犯罪人のための地下牢に閉じ込め、鍵をかけました。そこは光も入らず、不潔と悪臭に満ちていて何年間も汚いままに放置されています。

元后の御言葉

 私の娘よ、よく聞きなさい。永遠の御父は、世の中を破壊しようと思われるほど怒っておられます。聖旨を知りながら従わない教会の子供たちを厳しく罰する御考えです。御父を宥め、罰を遅らすのは、私の取次と、私が御父に捧げる御子の功徳、この二つしかありません。ダビデの言うように(詩編69・21)、御悲しみになる主を慰める者は少数です。頑固な心の者たちは、審判の日に自分たちが主に対し、私に対し、自分自身に対し、非人間的であり、残酷であったことを悲しむでしょう。人類を永遠の御父に和解させ、御父の恩寵を再び頂かせるため、主がどれほど苦労されたかを良く考えなさい。神の御血により買い戻された者、そして私が母の胎内に宿り始めた時から今まで、人々の救霊のために求めた全てを忘れてしまうか、またはぶち壊し、台無しにしてしまう大勢の人たちのために泣き、苦しみなさい。主の聖なる教会の中に、信心深そうに見せかけ、主を批難する偽善と涜聖の司祭たちに従う数多くの信者たちがいることを悲しみなさい。高慢と贅沢が尊敬され、貪欲と虚栄が盛んになっています。聖なる信仰は阻止され、大勢のカトリック信者にとって、信仰は不活発となり、死んでいます。

 これらの罪を考え、御受難の時と、全生涯に於て私がしたことをあなたにもしてもらいたいと私は願います。人々の涜聖を贖うため、私は主を祝いました。人々のそしりに対し、私は主を讃えました。不信仰に対し私は信徳を実行しました。もし、あなたが自分の弱さのために倒れるなら、自分の過失を嘆き、直ちに私の取次を願いなさい。普通の過失の代償として苦難を堪え忍び、どんな苦しみも喜んで受け入れなさい。苦しみは、病気、他人からのいじめ、肉欲とか、見えるか見えない敵からの攻撃かもしれません。これらの苦しみ全てを信仰、希望と高潔な感情により我慢しなさい。我慢すれば光明を見出し、真実を理解し、見える物事から心を解脱させ、主に向けます。主は苦しむ人たちの所に来られ、一緒に御苦しみになります。

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