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第六書・第四章

ゲッセマニに於ける祈り。
どのようにマリアはそれに与ったか

 我らの主イエズス。キリストが御聖体の秘跡を制定され、最後の晩餐も大体終わった頃、晩餐の高間から出てゲッセマニの園にお出かけになられます。同じ時、聖母は控えの間から出て来られ、御子にお会いになります。お二人は見つめ合ったまま、悲しみの剣で心臓を突き通されます。この悲しみ一の激痛は、人間にも天使にも到底理解できません。御母は御子の足許に身を屈め、神なる主を崇めます。主は神の威厳と溢れるばかりの愛情をもって話されます、「母上、御一緒に苦しみましょう。二人で永遠の御父の聖旨と人間の救いを成就しましょう。」 御母は御自身を犠牲として捧げ、主の祝福を願います。祝福を頂いた後、御母は控えの間に戻り、主の御受難の一部始終を神の特別なお計らいにより見ることになります。このようにして御母は、御子のそばにつきっきりで協力することができました。御母のそばには、御母にしか見えない天使たちが千位ほど付き添い、信心深い婦人たちも一緒でした。

 主は十二人の使徒たちと共に高間を離れ、エルサレムの東壁のすぐ外のオリベト山に向かわれます。ユダは主を裏切る機会を狙いながら、主がいつものように祈りで徹夜するであろうと考えます。これこそ、主を自分の仲間たち、学者やファリサイ人に手渡す絶好の機会のように見えます。主や随行する使徒たちの後をのろのろ歩きます。皆から見えなくなった時、ユダは来た道を引き返し、自分自身の滅亡に突進します。彼の心に突然、恐れ、不安と良心の呵責が襲います。ユダが主の死を急ぐ様を感知したルシフェルは、主は本当の救世主かもしれないから救世の御業を邪魔しなければならないと必死になります。ユダの裏切りで知り合った極悪人になりすまし、ユダに話しかけます。「主の悪行のため主を売り渡すのはもっともと思えるが、考え直すと違ってくる、主はお前が思うほど悪人でもないし、もしも奇跡的に祭司長たちやファリサイ人から逃げ出せたら、お前がとても困るだろう」と言ってユダの変心を迫ります。一方、主は十一人の使徒たちと共に、私たちの救い主を殺そうとしている人々の救いのために祈っておられます。アダムの時に始まった善と悪の激戦は、主の死に於て最終決戦となります。

 主の一行がケドロンの早瀬を渡り、オリブ山を登り、ゲッセマニの園に着いた所で、主は使徒たちに申し渡しました、「ここで待ちなさい。少し離れた所で私が祈る間、あなたたちも祈りなさい」(マテオ26・喘こ、「誘惑に負けないようによく祈りなさい」(ルカ22・州こ。この誘惑とは、最後の晩餐で説明があったように、主の御受難のため、使徒たち全員が悪者扱いされ、悪魔に色々と唆されることです。預言にあるように、牧者が虐待され、負傷すると、羊はばらばらに逃げます(ザカリア13・7)。主は八人の使徒たちをそこに残し、聖ペトロ、聖ヨハネと聖ヤコボを他の場所に連れて行きました。主は永遠の御父の方を見ていつものように御父を讃美し、ザカリアの預言の成就をお防いし、人類の救いのため、御父の正義、即ち、主の犠牲が行われるのを改めて祈りましたqこの時から、あらゆる慰めも助けも主から取り除かれたので、御受難はもっとも過酷なものとなったのです。「我が魂、死する如く悲しむ」(マテオ26・38)、「御父、もし能わば、この盃、我より取り去り給え」(マテオ26。39)。

 主の御苦しみは、主の愛の大きさと、人々が主の御受難と御死去の効果を気にしないことに比例しています。主の御苦しみは、血の汗となって表されています。主の御苦しみにより獲得された恩恵は、拒まない人たちに与えられ、聖人や義人にはより多く与えられました。拒む人たちに与えられなかった恩恵は、選ばれた人たちにまわされました。このようにして我らの主イエズス・キリストを頭とする聖なる教会が建てられました。

 さて、高間では、御母のそばに聖なる婦人たちが一緒でした。御母は神の啓示により、御子がゲッセマニの園で祈っておられる様が大変よく見えました。誘惑に負けないためによく祈るよう婦人たちに勧めてから、マグダラの聖マリアともう二人の聖マリアを連れ、他の部屋に行きました。聖母は永遠なる御父に、あらゆる感覚的・霊的慰めを断ち切るようにお願いし、願いが叶えられましたので、御子の受ける苦痛をそっくりそのまま受けることができました。あまりの拷問のため、何回でも死ぬはずでしたが、それだけは永遠の御父が御許しになりませんでした。御子と共に死ねないことは聖母の一番の苦しみでした。三人の婦人たちに申した通りです、「私の霊魂は悲しいです。私の愛しい御子が苦しみ、今死のうとしているからです。御子の拷問死にあずかることが私に許されていないからです。」 そして、少し離れた所に移り、御子に心を合わせて祈りました。悪魔が聖母たちに対し、怒り狂っていること、ある人々の堕落、永遠の救いか滅亡の神秘を熟知し、血の汗を流しながら祈り続けました。主が大天使聖ミカエルの訪問を受けたように、大天使ガブリエルに会いました。両天使が伝えた永遠の御父の聖旨も、お祈りも悲しみも全く同じです。

 主が三度目に三人の使徒たちの所に戻って見ると、三人は眠りこけていました。「あなたたちは今や眠り、休みなさい。もう十分である。ついに時が来た。起き上がり出かけよう。人の子は裏切られ、罪人たちに引き渡される」(マルコ14・41)。これを聞いて使徒たちは起き上がり、主について八人の使徒たちの所に行きました。八人も悲しみにうちひしがれ、眠っていましたが、起き上がり、全員団結して自分たちの敵に向かうべきことを主から教わりました。敵、つまり悪魔は、一本一本の縄を簡単に引きちぎれます。二本か三本によった縄には勝てません。主はこれから起こることを使徒たちに前もって警告しました。兵士たちや加勢の者たちがこちらに向かって進んでくる物々しい音がもう聞こえてきます。主は彼らに会うため前進し、心からの愛を示しておられます。心の中で優しく信心深く祈っておられます、「ああ、心の底より待望せる苦痛、傷、侮辱、労働、困難と恥ずべき死よ、来たれ、早く来たれ。人の救いの故に燃ゆる愛の火は、汝らが全被造物の内、最も潔白なる我に会うことを望む。汝らの真価を知るが故に、汝らを最高の威厳にまで高めたし。死よ来たれ、死に値せず死を甘んじるは、我が死に打ち勝たんがためにして、罪の故に死刑となれし人々に生命を回復せんがためなり。我が友らの我を棄てるを許さん。我一人この戦いに臨み、友らのために勝利を得るを望むなり」(イザヤ53。3・)。

 祈っておられる生命の創造主に向かい、ユダは歩み寄ります。貪欲と主に対する憎しみの他に怖れがあります。もし、主が殺されず自分に会う時のことを思うと怖くて仕方がありませんが、今、裏切りを早くすませてしまうだけです。主に走りより、主の御顔に空々しい市丁和の接吻をして言います、「主よ、神が主を救い給わんことを。」 この挨拶は、主を騙せるというユダの悪意と大胆さをよく表します。この大逆罪は到底考えつくせない恐るべき罪の数々全部になります。裏切り、殺人、涜聖、忘恩、非人間的、不従順、偽証、不信心、比ぶべくもない偽善などであり、人となった神の人性に対して犯されたのです。

 御母は幻視により、主の輪縛の様子をそこに居合わせた人々よりももっと明らかに見ました。祭司長の館で兵士たちや召使いたちが、自分たちの創造主なる救い主を侮辱する様もよく見えました。御母は天使たちや婦人たちに、主を御自分と一緒に崇め、侮辱を少しでも償うように頼みました。御母は、主が囚人となり、最も残酷な仕打ちを受けることになると婦人たちに伝えます。婦人たちは御母を見倣い、距いたり平伏したりして、創造主の無限の神性と至聖なる人性を心の底から讃美します。聖母は主を讃美・崇拝し、悪意の人々の不敬や暴力の償いをします。不忠芙で頑固なユダが聖体拝領のすぐ後に主を裏切ったことに対し、聖母は主に恩寵を願いました。御子なる主は、威力な恩寵をユダに与えましたが、不幸にもユダはそれを無視したのです。

 主が縄や鎖で縛られ、殴られている時、聖母も同じ痛い目に遭いました。聖母が同じ苦痛を喜んで堪え忍んだことで、主の苦痛がある程度軽くなりました。

元后の御言葉

 私の娘よ、これらの神秘を授かり、書いても、主の御受難と御死去について日夜黙想することにょって、汝の臆病、忘恩と卑しさを克服するようにしないなら、大罰を受けることになるでしょう。「我は道なり、真理なり、生命なり。我に従ってのみ我が御父に達す」(ヨハネ14・6)とおっしゃった主に従い、侮辱され、鞭打たれ、苦しみ、十字架上で死ななければなりません。この世の楽しみを追い、苦労を嫌がるならば、永遠の生命は得られませんし、御父の子供でもないし、主なる御子の弟子でもありません。我らの主イエズス・キリストに従う者よりも、ユダに従う者の方がずっと数が多いのです。これらの多くは不忠実な者たちであり、悪いカトリック信者であり、ユダのような偽善者なのです。私と共にこれらの悪を嘆き悲しんで下さい。

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