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第四書・第四章

我らの救い主キリストが乙女マリアから
ユダヤのベトレヘムで生まれたこと

 王の中で最高の王、主の主が永遠の御子の生れるために選んだ所は、最も貧しい洞穴でした。どんな旅人でも考えつかなかった宿泊所ですが、謙遜と貧乏の先生である我らの敷い主と御母にとって望まれた場所です。何もなく荒れ果て見すぼらしい所が光の最初の神殿となり(詩編112・4)、輝く聖マリアの心から出る正義の太陽の家となりました。二人は喜びの涙を流し、跪き、主を讃え、感謝しました。聖マリアは街の人々によって無視されたために、広大な謙遜の恩恵を受けたので、街の住民全員に神の祝福をお願いしました。天使たちは、王宮の衛兵のように自分たちの女王を守りました。天使たちの姿は聖ヨゼフにも見え、彼を元気づけたのです。聖マリアは洞穴をきれいにして、まもなく玉座となるように準備しました。聖ヨゼフもさっそく手伝いました。天使たちも二人の手伝いをしました。洞穴はまたたくうちに清められ、芳香に満ちました。聖ヨゼフは火を起こしました。その夜はとても寒かったからです。二人はこれから起こる出産のことに夢中になっていたので、食事をしようとしなかったのですが、聖ヨゼフにしつこく勧められたので従順に食事をしたのです。食後、感謝の祈りをし、聖マリアは最も祝されたお産が近づくのを感じ、聖ヨゼフに就寝するように勧めました。聖ヨゼフは聖マリアにも就寝を勧め、羊飼いたちが置いた飼い葉桶に自分の着物を敷き、生れてくる赤ちゃんのベッドにしました。聖ヨゼフは聖マリアから離れ、入口の隅に行き、祈り始めると直ちに聖霊に満たされ、恍惚となり、楽園にアダムが住んでいた時よりももっと素晴らしい眠りについたのです。

 全被造物の女王にいと高き御方は大声で呼びかけました。たちまち聖マリアは新しい啓示と神の御力で満たされ、神の御姿をくっきりと見ました。自分の至聖なる御子の神性と人性についてのあらゆる知識が更新され、神の御旨について書かれた広大な巻物が聖マリアに示されました。神の秘儀はあまりにもたくさんあるので、人間の言葉では言い尽くせません。

 いと高き御方は御降臨の時が来たこと、どのように御降臨が起きるかを宣言しました。素晴らしい神秘の説明は、主御自身についてであり、そして恩恵を被る人間についてです。マリアは玉座の御前に平伏し、神に自分と全人類のため、感謝と讃美を捧げました。同時に、将来自分の腕に抱き、乙女の乳を飲ます人となられる御言葉に仕え、拝み、育てることができるよう、新しい光と恩寵を神にお願いしました。最高のセラフィムさえもできない、神の母としての役目に値しないことを理解し、心からへりくだりました。塵にまでなり下がり、自分の無であることを認めた乙女は、この謙遜の故に王なる神により引き上げられ、改めて神の御母となります。神の御母であると同時に、自分の胎内から生れる神の御子の御母となります。この恍惚の状態が一時間以上も続いた後、マリアは意識(五官)を回復しました。幼児なる神が乙女の胎内で動き始め、乙女なる母体から出る準備を始めました。陣痛は全くないばかりか、マリアは喜びに満ち、それほどまでに高揚された神の脚力が起きてきました。マリアの身体は天の美により霊化され、御顔は光線を発し、まるで太陽の化身のようになり、言い表せない熱心さと威厳に輝き、熱烈な愛を燃やしました。マリアは飼い稟桶に旅き、天を見っめ、手を組み、胸に当て、神に包まれ、全身、全く神々しくなりました。この姿勢で御父の御独り子、御自身の御子、我らの救い主イエズス、真の神人を出産しました。時は真夜中、日曜日、創世の時から五一九九年にあたりました。この出産に於て、聖マリアは処女の完全さと清純を傷つけず、もっと神に近くなりました。神は乙女の胎を破ることなく、太陽光線が水晶の神殿を貫くように突き抜けたのです。

 幼子の神は、出産以前に自分の身とした身体がありました。至聖なる神の霊魂は、御生誕に於て身体全体から溢れ出し、神々しい変容を示したことは、タボル山で使徒たちの面前で変容された(マテオ17・2)のと同じです。御生誕の時の光り輝く御変容は、乙女に真の神人なる御子に対して心からの畏敬を改めて起こさせましたし、御子への愛のため、世の事物から背けたマリアの至純なる御日を喜ばせたのです。

 マリアは御子を産着に包み、桶の中に横たえました。二位の大天使、聖ミカエルと聖ガブリエルはその手伝いをしていたのです。二位の天使たちは人間の姿をしてそばに立っていました。受肉された御言葉が乙女なる母の胎を貫き出て光り輝いた時、天使たちは心からうやうやしく御言葉を受け取りました。司祭がホスチアを高く挙げ、信者たちに拝ませるように、天使たちは御言葉を御母の眼前にお運びしました℡御言葉は光り輝く太陽でした。神の御子の目と合った時、御母は甘美なる幼子をしっかりと見つめ、幼子の輝きで包まれました。天の王子は天の王女に抱かれ、御母に言われました、「御母よ、私のようになりなさい。御身が私に人性を与えて下さったので、今日より私は神人としての私に似た姿を御身のものにしましょう。」 最も賢い御母は答えました、「主よ、私を起こし、持ち上げて下さい。私は御身の芳香の後を追いかけます」(雅歌1・3)。親子の話しはもっと続きます、「私の愛する御方より私へ、そして私より私の御方へ、私の御方は私に近づきたいのです(雅歌2・16)。「見よ、私の母なる友よ、御身は美しい、御身の目は鳩のよう。」

 聖マリアは御子を見習うことにより、御子のようになれると理解しました。どのようにして模倣するかも教わりました心永遠の御父の御声も聞こえました、「これぞ、心より愛せる我が子なり」(マテオ17・5)。とても多くの秘儀を受け、神々しくなった最も賢い御母は答えました、「永遠の御父、高められた神、主、宇箇の創造主、諸国民の渇望せる御方を私の腕に抱くための許しを私に下さい(ハガイ2・8)。御身の価値なき母、賤しい婢なる私に御旨をお聞かせ下さい。」 直ちに御父の御声が響きました、「汝の独り子を大切にし、見習い、育てなさい。私が命令する時、御子を犠牲にしなければならない・ことを覚えておきなさい。」 御母は答えました、「御手の中の被造物を御覧下さい。御身の恩寵により私を飾って下されば、御身の御子なる私の神は、私を使って下さるでしょう。御身の全能により私を助けて下されば、私は御子に忠実に仕えられるでしょう。この何でもない人間が御子を腕に抱き、哺乳することを無礼と思わないで下さい。」

 この会話の後、神の御子は光り輝く御変容を中止し、苦しみを受けられる普通の人間となりました。その有様を見て、まだ跪きながら、御母はうやうやしく御子を天使たちから受け取りました。御母は腕の中の御子に言いました、「私の最も甘美なる愛すべき御方、私の目の光、私の霊魂の全て、御身は正義の太陽としてこの世に時機が熟していらっしやいました。罪と死の闇を追い払われます。真の神よ、御身の僕たちを救い給え、全人類が救い主の御身を見ますように(イザヤ9・1)、私が御身にお仕えできるように、御身の碑である私の不足を補って下さい。」 御母は永遠なる御父に向かって言いました、「全宇宙の崇められる創造主よ、御身の御目に叶ういけにえと祭壇がここにあります(マラキ3・4)。今より、人類に慈悲をお与え下さい。人類が御身の御怒りを受けることになっているのと同様、御身は御子と私により宥められます。御身の審判が中止され、御身の慈悲が私たち人類に与えられますように。御言葉が罪に染まった肉体をまとい(ロマ8・3)、こ人間や罪人の兄弟になったので、私は主の兄弟たちのために心より仲介致します。主よ、御身は無価値の私を御身の御独り子の母にして下さいました。私が母となったのは人類のためですから、人類に対し、私は愛することをやめませんし、人類の救いのため世話をし、見張りをすることをやめません。永遠の神よ、私の懇願を受入れて下さい。」 慈悲の御母は人類に向かって言いました、「悲しむ人たちは慰められます。堕落した人たちは引き上げられ、不安な人たちは安息を得ます。義人や聖人に喜んでもらいましょう。古聖所にいる預言者や王は新しい希望をもらい、全人類が主を崇めましょう。生命に近づき、救いをいち早く受け取りましょう。私は全ての人たちのため、救いを預かっています。」そして、至福の御母は、御自分の最も貞潔な唇を御子の唇に合わせました。御子もそれを殴っていたのです。

 一部始終を見聞きした天使たちは歌いました、「天には栄光、神にあれ、地には平和、善意の人々にあれ」(ルカ2・14)。

 聖ヨゼフを起こす時間になりました。恍惚の眠りの中で御子の誕生を知らされていましたが、実際に自分の目で見ることを他の誰よりも先に許されたのです。聖ヨゼフは聖マリアの腕に抱かれた御子を恭しく拝み、御足に接吻しました。聖ヨゼフから産着や掛ける布を受け取り、聖マリアは御子に着せ、くるみ、桶の中に横にしました。聖マリアはこの桶に前もって藁や干し草を置いておきました。近くの野原からやって来た牛は、既にそこにいたロバと一備になって主の両側に平伏し、自分たちの息で主を暖めました。「牛はその飼い主を知り、ロバは主人の飼い葉を知るのに、イスラエルは知らず、私の民は悟らない」(イザヤ1・3)と預言された通りです。

元后の御言葉

 自分たちの神が貧困により蔑まれ、誰にも知られずこの世に生れ、飼い葉桶の中に横たわり、動物たちに囲まれ、極貧の御母しか頼りにならず、威張りくさった世の人々から追い払われているのを見て、それでも無視できる人がいるでしょうか? 天地の創造主が嫌悪し、批難する虚栄や誇りを誰が好きになれるでしょうか? 謙遜、貧乏は、永遠の生命に至る道として主が愛します。この真理と模範を考慮する人は少数ですし、これらの偉大な秘儀の実を稔らす人は少数です。

 私の模範を見習い、主を畏敬し、畏れなさい。私が御子を抱いたように、御聖体を汝の心に受け取りなさい。聖体拝領に於て、主を本当に頂き、所有するのです。神が汝の心の中に入られると、私に勧めたように、「我のようになりなさい」とおっしゃるのです。主は天より降り、謙遜と貧窮の中に生れ、その中で生き、死に、この世とそのごまかしを軽蔑するというまれな模範を示されました。

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