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第一書・第八章

マリアの幼年期

 この王女である子供は同年の子供たちと同様に育てられました。違った点は、食事の量が少量で、睡眠時間も短く、両親を困らせることなく、決して自分のことで泣きませんでした。最も可愛らしい子供でした。世の罪のため、救い主の御降臨のため、しばしば泣き、嘆息しました。普段は快活で、荘厳さがあり、決して子供っぽくありませんでした。賢慮なる母アンナは誰とも比較できない心配りと愛情深さを示しました。ヨアキムも同じでした。子供も神から大変愛されている父を愛しました。父は他の人たちよりももっと娘を愛撫しましたが、尊敬、謙遜、控え目の気持ちを決して忘れませんでした。

 幼子の元后は恩寵に充ち満ちていました。自然の理と恩寵とはお互いに協力しました。眠っている時、愛徳も他の徳も感覚に頼らずに行なわれました。この特権は神の御母で全被造物の女王にとり特別ですが、他の人々にもある程度、与えられているようです。

 普通の子供が生後一年間話せないのは、知能が発達せず、会話に必要な他の能力もないからです。幼子である元后は御孕りの時以来、諸能力が完備しており、口を開け、舌を動かして話すことができたのに話さなかったのは、人々を驚かさないという聖マリアの知恵と英雄的な謙遜のためです。子供のマリアは両親の手に恭しく接吻しました。この接吻は両親が生きている限り続きました。両親に対する尊敬は従順によって示されました。両親の考えは、言葉に出さなくとも、マリアにはすぐ判りましたので、お考えに添うよう努力しました。

 二歳になった時、貧者に対する特別の同情と愛徳の行ないを始めました。母アンナから施し物をねだり、心の優しい母から何でも頂きました。貧者のため、そして至聖なる娘のためでした。慈悲と愛徳の女主人であるマリアが貧乏人を愛し、敬うためでした。頂いた物だけではなく、自分自身の食物も貧者に分配しました。ヨブの評判と同じです。幼い頃から同情の心が育ちました。(ヨブ31・19)。施しの時には、貧者のため取り次ぎ、身体と霊魂から重荷を取り除くというもっと大きな恩恵を与えたのです。

 もっと崇むべきことは、同年輩の子供たちと一緒に読み書きを習うという謙遜と従順です。読書などは両親から教わりましたが、聖なる母アンナは、この天の王女に見とれていました。同時に、王女を通していと高き御方を祝福しました。全能者が定めた三年の終わりが近づくことの恐れと、自分の誓願が時間通りに守られるという自覚が強くなってきました。アンナと夫が頂いた恩恵の数々を思い出しました。娘マリアが神殿への奉献を自分から言い出した時、アンナは御旨の通り娘を主に捧げることに決めた反面、掌中の宝物を失いたくない強い感情に悩まされました。この大きな悲しみでアンナは死んだかもしれないほどでした。マリアは自分の命以上に大切でした、「私の愛する娘よ、長年お前の誕生を願いました。三年間しか一緒に住めませんでした。しかし、御旨が行なわれますように。お前を神殿に送るという約束を違えたくありません。行く日が来るまでどうぞ辛抱して下さい」とアンナは娘に言いました。

 至聖なるマリアが満三歳になる二、三日前、神殿への出発の時が来たこと、神の奉仕に奉献されることを教えられました。マリアの至純なる霊魂は、喜びと感謝の内に神に申しあげました、「アブラハム、イサクとヤコブの最高なる神、私の永遠にして最高なる神、私はあなたを讃美する価値がありませんので、私の代りを天使たちにしてもらいます。御身は何も必要とされないのに、地をはいずる卑しい小さな婢である私に尽きることのない慈悲を下さいました。私は地上の最も卑しい所にさえも住む価値がありませんが、私を御身の家の中に召し使いとして招いて下さいました。私が実家を離れることを悲しむ両親に、御身の御意志に従うよう鼓舞して下さい。」

 同時に、聖アンナは娘が満三歳になる時の奉献の様子を幻視しました。アブラハムが息子のイサクをいけにえに捧げようとする時よりも、アンナには悲しいことであったに違いありません。主はアンナを慰め、娘がいなくなる後アンナを助けると約束しました。聖ヨアキムも同じ幻視を頂きました。お互いに話し合い、主の意志に従うこと、謙遜に実行することを決心しました。ヨアキムにとっても悲しいことでした。

元后の御言葉

 私の愛すべき娘よ、生きている者全員が死ぬべき運命にあること、いつ死ぬか判らないこと、生きている間の短いこと、死後の永遠には終わりがないこと、永遠の生か死かはこの世に於て決定されることをいつも思いなさい。この世の危なっかしい巡礼に於て、神の愛を頂くか、神の怒りを招くか、誰も判断できません。この不確実さのために理性を正しく用いるならば、同じ主と友情を得ようと最大の努力を払うでしょう。考える力がつくほど育った子供は、神から徳に向かう道の案内をして頂き、罪から離れさせてもらいます。善を選び、悪を棄てるよう教えて頂きます。更に神は絶えず、秘跡、教義や戒律を与えます。天使たち、説教師、司祭や教師を通して特別な苦難や恩恵、他人の例、審判、死や御摂理による出来事により、人間を前進するよう励まします。生活の出来事は人々を神に近づけるため、救われるためなのです。恩恵の助力は、人間が自由にもらえます。これに反対するのは、罪の助長にかぶれた劣悪の傾向です。五官に傾き、卑しいことを喜び、理性を混乱させ、コントロールの利かない欲望の偽の自由へと意志を魅惑します。悪魔も魅惑やごまかしで人間の内なる光を暗くし、きれいな外側の下に毒を隠します。いと高き御方は人間を見棄てず何度も呼び戻します。人間としての器に応じ、もっとお与えになります。霊魂が自己をコントロールして得た勝利の報酬として、情熱や性欲の力は弱まり、霊魂は自由に高く舞い上がり、自分自身の価値や悪魔たちよりも高く昇ります。しかし、人間が自分の低い望みや忘れっぽさよりも高く昇るのを怠るならば、神や人の敵に負けます。神の善から離れ、いと高き御方の呼びかけに応じなくなり、神に助けを頼まなくなります。悪魔たちや人間の欲情が人間の理性を誘惑し、全能者の恩恵を受けつけなくさせます。主の訪問を歓迎するか拒否するかが、救いか亡びかを決めます。この教義を忘れないように。敵には激しく抵抗し、主をいつも求め、神の光に照らされた戒律を守るように。私は両親を深く愛しましたが、両親を離れることが御旨であることを知り、実家を出て神殿に入りました。

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