IC派国際会議の結末とインタナショナルに関する声明
戦後第四の堕落した基盤を解体し、革命的再建の闘争に結集せよ!

全世界の同志諸君、第四インタナショナル各国支部の皆さん、ならびに先進的プロレタリア、被抑圧諸階級の皆さん。

第四インタナショナル(JRCL)は、最近開かれた第四インタナショナル国際委員会派(以下IC派と称す)第三回国際会議の結末とインタナショナルの展望に関して次のように態度を明らかにする。

まず初めに、我々は国際会議の直後にIC派執行委員会によって決定され、IC派書記長によって伝達されたIC派と我々JRCLとの関係、すなわち、JRCLをIC派の同調者とみなす…とする取り決めを拒否する。

IC派自身が認めているように、我々とIC派指導部との間には、政治的に一致できる基盤がきわめて少ないことは明らかである。

我々にとって、それ以上に重大であるのは、第四インタナショナルの長い間の停滞と敗北の歴史に終止符を打ち、インタナショナルの革命的再建のための闘争を進めていく上において、IC派の存在とその綱領が、前進を阻む障害となっていることである。IC派綱領では主観的には過渡的綱領の継承が叫ばれつつも、第四インタナショナルの革命性を発展させるうえに必要な思想はどこにも見出しえないし、基本的な点で創立綱領の精神は総て歪曲されている。

腐敗堕落した戦後の基盤に位置づくIC派綱領は、我々の闘争を通して解体されるべき対象であり、それなしにはインタナショナル再建の基盤を獲得することはできない。

いかなる意味においても、わが同盟がIC派組織の同調者としてとどまる理由は存在しない。ただ、いさぎよい決別があるのみである。

1.国際会議の結果

IC派第三回国際会議は、戦後第四インタナショナルがいかに救い難い堕落に陥っているかを如何なく示した。会議は次の点で戦後第四インタナショナルの死を如実に示した。

①戦後第四インタナショナルの敗北と分裂の歴史を、再建されるべき第四インタナショナルの基盤を明らかにする課題として検討することなしに“第四インタナショナルの革命性はIC派によって継承されている”と確認した。

そして、ごていねいにも“第四インタナショナルは堕落していない”と付け加えた。

②IC派によって設定された第四インタナショナルの基盤とは、“再建される綱領と方法が過渡的綱領のなかに見出されるべきであり、それ以外に解決の道はない”(再建のための分科委員会決議)と語られる内容である。そのことによって、過渡的綱領から今日に至るまでの国際階級闘争の重大な敗北の歴史から、何ものかを学び取り、何ものかを綱領に付け加えようとする態度の一片さえも持ち合わせていないことを明らかにした。

③「中共批判的支持」に示される「批判的支持」の方法を「自己批判的」に再検討しなかったばかりでなく、わが同盟とウブリエル派(仏)の提案を「国家資本主義論と同一傾向である」と規定し、検討を拒否した。中共批判的支持、ベトコン支持、英国労働党批判的支持の正当性を再確認し、第四インタナショナルの運動をスターリニストと社民の付属物(批判的反対派)に引き下げてしまった。このようなIC派の政治状況は、およそまじめな論議を呼び起こしさえしない。

IC派を内部闘争によって改良する展望は閉じられた。かくして我々は、このようなIC派の政治的性格が何であり、その基盤はいかに形成されているかに注目しないわけにはいかない。

2.戦後第四インタナショナルの再建の基盤

戦後第四インタナショナルの危機の基本的特徴は、トロツキズムや過渡的綱領の解釈適用のいかんにあるのではない。それは、現時代の革命運動の源泉から、それ自体がかけ離れて存在するところにある。それはまた、不可避的に第四インタナショナルをスターリニストへの批判的支持者へと押しやり、運動の源泉から切り離されたところでの分裂と解体の連続であった。

1948年、再建のための第二回大会は、世界プロレタリア革命の敗北の上にのみ構築された国際的反動秩序(ヤルタ・ポツダム体制)の中に、新たなプロレタリア革命の源泉を見出すことができず、それを組織する方法の確立を通して成し遂げられる革命の武装に失敗し、第四インタナショナル再建の展望を閉ざしてしまった。

だが再建の展望に関わるいくつかの契機は、各国支部の実践を通じて創り出されていった。

フランス共産党が、人民戦線路線のもとにCGTを基盤としつつ、その基盤をブルジョア政府の支持機構へと帰ることによってフランス・プロレタリアートの展望を閉じたとき、第四インタナショナルを志向するフランス・トロツキストグループは、再度自己の運動の基盤と展望を問うことなしに第四インタナショナルの革命的再建の基盤に何ものをも寄与し得ない状況にあった。

英国労働党の一見強固な基盤さえも、戦中戦後を通じて行われた帝国主義とスターリニストの裏切り的協同によって初めて可能にされ、安定を保ち得たものである。

イギリス労働階級にとっての労働党官僚に対する闘争は、戦後の国際的反動体制に対する闘争を展望の基礎にすることなしには前進しない。SLL(IC派・イギリス支部党)の任務は、この政治指導をいかになすかにあり、それなくしてはイギリス・プロレタリアートを権力につかせ、プロレタリア・イギリス革命に国際的意義を与えることはできない。

戦後アメリカにおいて問題は最も鮮明である。世界資本主義の王座の位置を寸分の疑問の余地もないものとし、戦後のアメリカ帝国主義の反革命的役割を決定付けたものは何か。

それはすでに1920年段階において世界経済の中に支配的地位を確立した、アメリカ資本主義の富と力のみによっては説明されえない内容を持っている。

決定的な条件は、戦争から戦後にかけてのスターリニストとの取り引きの上に、崩壊した世界市場を資本主義市場として再組織し支配する権力を獲得したということの位置と関係の中にある。

戦後資本主義の復活が、スターリニストの支持によってのみ可能とされたという理由はその点にこそある。第四インタナショナルのアメリカ支持党が、こうした国際関係を基盤として運動するアメリカ帝国主義の政治と国内矛盾に対して、アメリカ・プロレタリアートの解放の展望と国際プロレタリアートの解放の展望を同等のものとして、政治的組織的に統一して闘うべきかどうかはあまりに明白である。

SWPの修正主義への転落の基礎を「伝統的なアメリカ・マルクス主義運動の弱さや、アメリカ社会に支配的なプラグマティズムに対する闘争の弱さ」(スローター論文)に求めることはできない。

それは、第四インタナショナルの綱領とは何のかかわり合いもないものであり、アメリカ階級闘争の性格とアメリカ支部党の敗北を、そのような点で総括するIC派の立場と方法は、ベトナム反戦闘争をめぐって分解しつつあるアメリカ新左翼を反スターリン主義へと指導し得ないであろう。

戦後世界階級闘争の性格と第四インタナショナルの運動の性格を決定する重大な事件は、創立された第四インタナショナルにとっての重大な試練の時期―それは過去の時代(第三インタナショナルの時代)の矛盾が一挙に爆発する新しい歴史時代―としての第二次帝国主義戦争の戦中戦後の時期に深く刻印されている。

それはすでに「ブルジョア秩序の側に移行したコミンターン(スターリニズム)が、帝国主義戦争への過程を通じて、自己を分裂せる帝国主義世界の一方の側に結びつけ、その中で生存権を獲得し、またその目的のためにロシア十月革命の成果と労働階級の革命的エネルギーを動員したことに始まる。

分裂せる帝国主義世界の一方の側とは、ファシスト諸国に対するいわゆる「民主主義」諸国である。「民主主義」諸国に支持を与え、「民主主義」諸国の防衛へと全世界の労働階級の闘争とエネルギーを提供するスターリニスト路線は、当然にも第二次世界帝国主義戦争の美化として理論化された(民主主義とファシズムの戦争―スターリン)。

労働者の闘争を民主主義的ブルジョア政府の樹立へと向ける運動は、ヨーロッパ各国の人民戦線であり、それはプロレタリアートの闘争を解体し、戦後帝国主義再建の基礎をつくった。

従って、世界帝国主義の復活は、スターリニストの支持なしには成し遂げられなかった。だがそればかりではない。

スターリニストは、帝国主義と帝国主義の分裂の一方の側に立つことによって、東独を含む東欧諸国と北朝鮮の権力を支配下におさめた。それは、世界帝国主義の危機をプロレタリア世界革命へと転化することではなしに、分裂せる一方の側の帝国主義の勝利に援助を与えることによって、勝利した帝国主義者から受け取った報酬である。この報酬の取り決めこそヤルタ・ポツダム会談でなされたのであり、それがブルジョアジーとスターリニストの戦後の国際的反革命体制を準備した。

中国における毛沢東の勝利は、この同じ国際関係の中の産物である。それは、当初、帝国主義者とスターリニストの双方によって、蒋介石国民党の運動が支持されていた。だが、中国内の階級矛盾が歴史的、国際的関係の中で鋭さを増し、蒋介石をして世界帝国主義との公然たる同盟へと追いやったとき、毛沢東に率いられる中共スターリニストは、農民によって構成され、武装されたスターリニスト私兵の軍事行動によって権力を掌握した。

「中国革命」の源泉と中共スターリニストの基盤は、IC派が語るように、太平洋を隔ててアメリカ帝国主義に直面しているためでも、またキャノンが語った“訓練されたカードルを多く擁していた”が故に成功したものでもない。まして、ドイッチャーが語る“毛沢東主義はレーニン主義を源泉としている”などは論外である。

それは、左翼ブルジョアジー、農民、プチブルジョアの運動を直接自己の基盤とするブルジョア革命でしかない。

中国における反植民地独立の運動は、本来プロレタリア革命の展望においてしか実現されない性格をもって出発した。だが20年代の第二次中国革命の悲惨な敗北と30年代の毛沢東による再度の国共合作は、都市プロレタリアートを粉々に打ち砕き、左翼反対派を追放し、中国プロレタリアートの解放の展望を完全に閉ざした。中国民族の独立と統一の運動は、中国労働階級の敗北を土台としてのみ、現在の姿を保ちえている。

しかしながら余りにも長い間、先進帝国主義諸国の餌食となって食い荒らされ、破壊され、野蛮化された中国社会の矛盾は、民族の独立と統一を公然たる買弁ブルジョアジーと大地主の手による統一としては許されない反乱―農民、中産階級、プチブルジョアジーの運動を尖鋭に増加させ、蒋介石国民党の基盤を急速に掘り崩していった。中共スターリニストは、ただ、この中国社会の深刻な矛盾の中で、分裂せるブルジョア勢力の一方の側に位置づくことによって権力を掌握したにすぎない。

それが、毛沢東の言う「四民ブロック」理論であり、新民主主義論の実態である。

中国革命を何らかの点で東欧と区別するならば、それは、ヤルタ・ポツダム会談の中で、中国革命の性格を民族独立ブルジョア革命とする点では一致しつつも、毛沢東が権力を掌握することについて見通しを持ち得なかったところにあるであろう。

だがしかし、毛沢東の勝利は、帝国主義とスターリニストの反革命的協同路線の産物であり、この路線の枠を決してはみ出したものではない。

それどころか、マルクス主義を僭称し、ロシア十月革命の成果に寄生するスターリニストの支配の故に、毛沢東の勝利は一旦敗北した中国プロレタリアートが、再度起ち上がる展望を閉ざし、アジア諸国の独立運動とプロレタリア革命の展望に対する巨大な障害物となった。

それはまた、戦後国際反革命体制の最終的完成を意味し、現代プロレタリア革命を絞殺する巨大な物質的基礎となっている。

第四インタナショナルの時代としての現代は、1933年から38年において秩序化され、戦争から戦後にかけて打ち固められ、中国革命をもって一応完成させられた帝国主義とスターリニストの世界反革命体制によって特徴付けられる。その体制は、世界階級闘争を普段に帝国主義とスターリニストの両極に引き裂き解体する基礎となっているが、しかし一方では、そのことによって累積する矛盾の拡大が、この体制自らを根本的に転覆せずにはやまない巨大な運動の源泉を無限の可能性を持ってつくり出している。

第四インタナショナルの任務は、この無限の可能性をもってつくり出される源泉を、意識的に引き出し、それを政治的にも組織的にも物質化することである。

これが、現時代の国際階級闘争の性格であり、“現代が第四インタナショナルの時代である”と結論される理由である。

そして、我々はそれを裏付ける歴史的経験を、56-57年の東欧革命から現在のベトナム戦争にいたる諸事件の中に見出すことができる。

1948年の第四インタナショナルの再建のための第二回大会は、まず自らの敗北の意味を問わず、国際階級関係に関する基本的判断においても誤っていた。

それは、戦後数百万の票を獲得するまでに成長したフランス・トロツキストグループが、人民戦線の運動とドゴール政府の成立の中で後退を強いられたことを、第四インタナショナルの敗北として自覚する一潮流―アーディ派(ウブリエル派)を生み出した。

戦後第四インタナショナルに批判的なこの潮流は、自己の敗北に無自覚な戦後第四インタナショナルに対して死の宣告を下し、再建大会への参加を拒否した。

「再建された」第四インタナショナルが、1953年パブロ修正主義によって分裂させられたとき、キャノンとペン(彭述之)によって書かれた論文「パブロ修正主義反対」は、このことに何ら触れていない。

パブロが、スターリニストの東欧、中国の掌握と、被植民地の民族独立の事実をとらえて、戦後情勢を革命勢力の歴史的前進と評価し、スターリニスト党の民主主義的変質が可能であると展望したとき、キャノンとペンは、先進国革命が勝利していない事実を指摘して反論したのみであった。

反対にキャノンは、その中で「例外的条件」の中では、スターリニスト党はプロレタリア革命を成し得るとして、中国とユーゴの例をあげ毛沢東の運動をたたえ、スターリニスト党への批判的支持の立場を定式化さえした。

SLLを中心とする現IC派は、このキャノンの立場を継承し、今や、「批判的支持」の方法をトロツキストの歴史的任務にまで高めようとしている。

自らの隊列(第四インタナショナル)の敗北と、革命的プロレタリアートの残虐な絞殺の上にのみ成立したスターリニスト権力に、批判的支持をおくることほど馬鹿げたことはないであろう。

レオン・トロツキーによって創立された第四インタナショナルは、戦争から戦後にかけて勝利し得なかった。再建のための第二回大会は、この重大な事実に着目しえず、その革命的再建に失敗した。そして自らは、現時代の革命的源泉に位置づくことができず、不可避的にスターリニストと帝国主義の対立の一方の側(スターリニストの側)に基盤を求めざるを得なかった。

パブロ修正主義は、この基盤の中から生まれた最も体系的な日和見主義の思想である。

IC派は、パブロ修正主義の公然たる台頭に危機を感じて結成された。だが、この危機を第二回大会の再検討としてではなく、それを擁護することによって解決しようとした。

したがって、今や、第二回大会を基盤とする戦後第四インタナショナルに位置づくことによっては、その革命的再建を成し得ないということが明白となった。

これが、戦後第四インタナショナルに死を宣告する理由である。

だが同時に、階級闘争の歴史は、この戦後第四インタナショナルの敗北の中から、第四インタナショナルを革命的に再建する部隊の登場を促し、その基礎を拡大している。

3.“米中戦争”と“労働者国家擁護”について

「中共批判的支持」をめぐる論争の中でIC派が我々につきつけた切り札は、“米中戦争”においてどちらを選ぶか、という設問であった。

そもそもIC派にとっては“米中戦争”という仮定の事態が、第四インタナショナルの綱領を根本的に変更するに足る新しい衝撃的な事態のように把握されている。

問題をもう少し冷静に具体的に考察してみる必要がある。戦後の歴史的経過をみるとき、常に国際情勢は東と西の対立として、帝国主義とスターリニズムによって決定されてきた。

アメリカを先頭にして全世界に張りめぐらされた帝国主義の軍事網がそうであったし、クレムリン官僚の収奪機構としてのコメコンの結成、ワルシャワ条約がそうであった。

朝鮮戦争、東西ドイツの分断と対立、スエズ動乱、キューバ危機、こうした一連の事件は総て東と西の対立であった。

国際プロレタリアートは、その中で幾度か、この東と西の対立と取引によって決定される反動の体制に衝突を試みたが、何れもそれは失敗に終わっている。その最も悲劇的な例は、56-57年の東欧革命の敗北である。

「冷戦」から「平和共存」へと、この対立と取引の様式に変遷はあっても、変わらず一貫しているものはプロレタリアートのイニシアティブの喪失と帝国主義の復活強化、スターリニスト体制の拡大ではないのか。

核戦争の恐怖さえも、プロレタリアートの敗北の上に、あるいはそのためになされる帝国主義とスターリニズムの対立と取引のための戦後の反動的な道具である。その意味において、核均衡の時代としての現代は、世界革命にとっての最大の歴史的反動の時代である。

米中戦争の可能性が、ベトナム戦争の深刻化を通して生み出されていることは事実である。

だが、この戦争の性格を人民日報のいうように「進歩的戦争」として規定するか、あるいはタス通信がいうように「戦争は人類を皆殺しにする。社会主義の建設には平和が必要だ」として反対するか、我々はその何れでもない。

この戦争を反動としてとらえるか否かが、IC派と我々との根本的な相違である。

“米中戦争”においてどちらを選ぶか。こうした問題の立て方こそIC派の諸君が東西対立として示される戦後の情勢の中で、常に東(スターリニスト)の側に立っていくことを意味し、東西対立関係そのものを反動体制として、それへの衝突を繰り返してきたプロレタリアートに対立してきたことを意味しているに過ぎない。

第四インタナショナルは、米中戦争をまさしく反動の戦争としてとらえる。

これに対する任務は、帝国主義とスターリニズムを打倒し、労働者階級が新たな権力を樹立する局面として、国際的反戦の革命的闘争を組織することでなければならない。

「ハノイを守れ、ベトコンを支持せよ」というスローガンは、プチブルジョア意識としては、アメリカ帝国主義の狂暴な嵐へのヒューマニスティクな現われとしてみることもできよう。

だが、このようなヒューマニズムを階級対立と階級闘争を否定し去るプチブルジョア思想として拒否したところから出発した「共産主義者」の政治方針とみるとき、それは意識的な反動のスローガンでしかない。

レーニンによって「戦争と革命の時代」として規定された帝国主義時代は、反帝のスローガン自体の中に、帝国主義に直接買収され、飼いならされた社民(労働官僚)から大衆を切り離す思想的意義を持ちえていた。

しかし、第三インタナショナルの死と第四インタナショナルの創立として印される現時代は、「反帝」という言葉のみをもってしては革命的とも進歩的ともみなしえない。

それは、帝国主義世界体制が、「労働者国家」を反革命の道具に変えたスターリニストの支持によってのみ生命を保ちえている、という根本的な性格によって特徴付けられているがゆえにである。

現代世界の一切の矛盾は、この歴史的生命を失った帝国主義がプロレタリアートの敗北によってのみ、あるいは敗北と屈服を持続させる体制を持つことによってのみ延命しているという関係において存在している。

反帝闘争は、従って、不可避的に第三インタナショナル以降の労働階級の敗北とスターリニズムの歴史的反動を問うことなしには発展し得ないであろう。

「中共批判的支持」と関連して、IC派によって提出されている問題は、「労働者国家無条件擁護」のスローガンである。中共問題に関連して労働者国家擁護のスローガンが提出されることは、それ自体IC派の混乱を示すものでしかない(IC派は中国を労働者国家と規定している)。

だが、IC派にとっては、そもそも労働者国家擁護のスローガンとスターリニスト支持のスローガンとは少しも矛盾しない。

第四インタナショナルの歴史的生命は、ロシア十月革命によって示される十月の成果の上にあることは明白である。その意味において、労働者国家をその破壊から防衛する任務は、綱領を構成する上での前提である。

だが「官僚打倒の闘争は労働者国家擁護に従属し、労働者国家擁護の任務は世界革命の利益に従属する」(マルクス主義の擁護―トロツキー)が最も基本的、原則的立場でなければならない。

労働者国家が官僚によって反革命の道具に変えられ、帝国主義市場に包囲される中で、構造そのものとしても解体を開始しつつある現在、“帝国主義の攻撃から労働者国家を守れ”というスローガンは、一体何を意味するのか。

IC派の諸君は、トロツキーの「労働者国家の擁護の任務は世界革命の利益に従属する」という部分については故意に口をつぐみ、「官僚打倒の闘争は労働者国家の擁護の任務に従属する」の部分のみを強調する。

だが、そうであったとしても、労働者国家を擁護するための闘争の方法は何か。それは、“労働者国家が危機にあるから、当面スターリニストと協同する”ということにはいささかもならない。

たとえ、そこで、スターリニストとの協同を、スターリニスト批判的支持という言葉で置き換えようとも、いささかも変わりない。

この問題の意味する結論は、我々にとって次のようでしかない。

すなわち、スターリニスト官僚は帝国主義の手によってではなく、第四インタナショナルの(労働階級の)闘争によって打倒されなければならない。労働者国家は再度変革されなければならないし、その変革は帝国主義とスターリニストを打倒する闘争によってしかなされ得ない。

労働者国家擁護のスローガンを唱えることが、第四インタナショナルの唯一の独自性の基準でもあるかの如くとらえる政治的水準と立場は、自らがスターリニストの一分派に転落していることを示すだけである。

4.日本革命的共産主義運動と第四インタナショナル

1957年、日本革共同(JRCL)の創立によって公然と開始された日本革命的共産主義運動は、意識的であれ無意識的であれ、運動の出発点から第四インタナショナルをめぐる闘争であり、戦後第四インタナショナルの現状に対する衝突である。

それは一言で言って、戦後日本階級闘争が第二次帝国主義戦争から戦後にかけての第四インタナショナルの敗北に印される国際反動体制に直接規定され、それを土台として、それに結び付けられて展開された歴史過程を反映している。

だが、日共スターリニスト、社民との闘争の鋭さとはうらはらに、第四インタナショナルの戦後の現実をせいぜい一般的な停滞としてしかとらえられず、否、むしろそのような問題意識を持ち得なかった革共同は、左翼組合主義としての自己に過渡的綱領のスローガンを接木して独自性を保持しようとした。

だが、安保闘争と三池闘争に象徴される日本階級闘争の巨大な発展は、かかる「トロツキスト」党の独立的形成を困難な状況に置いた。

スターリニスト日共や社民によって“反アメリカ帝国主義”“民族独立”“民主主義擁護”のスローガンがショービニスティックに叫ばれれば叫ばれるほど、「トロツキスト」党を含む左翼諸派は、反日本帝国主義と議会主義反対のスローガンを対置して大衆を戦闘的に組織していった。

日共、社民の破産と、そのことによって促進される巨大な階級の分解にもかかわらず、革命的な翼は、自己の基盤を確立しえず、情勢は支配階級によって終息させられ、破産した既成指導部は、闘争の敗北の上に再々度生命を取り戻し、一層拡大さえしてきた。

日本反スターリン主義運動の限界は、一言でいって次のように特徴付けられる。

それは、スターリニスト日共は“方針が誤っており、裏切るが故に悪い”という批判の枠を基本的に破り得ないところに集約される。

それはまた、IC派の方法そのものである。

何十回裏切りが証明され、階級闘争が敗北してもなお、存在し拡大さえしているスターリニストの基盤とは一体何か。

それは、日本革命の展望においてどのようにかかわりあうのか、ただ単に“彼らによっては革命は果たされない”ということの故に否定されるのか、それとも、現代革命の運動の源泉にかかわるものとして、あるいは、現代革命の性格を決定するものとして、革命的左翼はその中でどこに位置づくのか、あるいは、どのような性格の運動を源泉とするのか。

この問題はまさしく第四インタナショナルの闘争の性格を決定する問題であり、戦後第四インタナショナル(IC派)によっては答えられない性格の問題であった。

1947年、二・一ストを頂点とする戦後日本革命の敗北が、単にアメリカ占領軍の銃剣と日共スターリニストの裏切りによるものではなく、日本占領を構成した帝国主義とスターリニストの取引による国際反革命体制に対して衝突した日本プロレタリアートの敗北であったという事実。

戦後日本労働運動を特徴づける憲法擁護、民主主義擁護の闘争が、単に階級闘争の理論に照らして、改良主義のスローガンであるばかりではなく、日本革命の敗北とひきかえに押しつけられた帝国主義とスターリニズムの取引の産物である戦後民主化政策擁護の枠を破り得なかったという問題。

ソ連、東欧、北朝鮮のスターリニスト諸国が、帝国主義諸国に比して進歩的であり、労働者的であるとするスターリニズムの支配、したがって単に日共の指導においてばかりではなしに社民の指導を通してでも、常に反帝の闘争が強化されればされるほど、スターリニズムへと組織化されていくという現時代の性格。

これらの諸内容は、日本の革命的左翼の闘争が日本における闘いとしては形成し得ない問題、すなわち、戦後日本階級闘争の性格を国際階級闘争の結果の上にとらえ返すことを通じてしか、解決し得ない問題として示すものであった。

組織論的には、戦後第四インタナショナルの否定とその克服として、自らを第四インタナショナルの再建の積極的な主体者へと飛躍させることなしには獲得し得ない内容である。

1962年、日本革共同第四回大会は、すでに安保闘争の過程で同盟から分裂していった黒田派(全国委員会)との党派闘争を総括して日本革共同運動の展望を次のように構成した。

それは第一に、日本の革命的左翼の運動は、直接には第四インタナショナルの運動から切り離されて出発したこと。

第二に、それにもかかわらず日本階級闘争の鋭さは、日共スターリニストの巨大な裏切りとそれに抗して戦う左翼の闘争を、世界史的な意味におけるトロツキズム対スターリニズムの闘争として凝縮して実現していること。

したがって第三に革命的共産主義党の建設をめぐる闘いは、第四インタナショナル対スターリン主義として存在しており、それ以外ではないこと。

だがそれは、基本的にIC派の方法でありIC派内部の一分派でしかなかった。戦後日本階級闘争の性格は、ただ第四インタナショナルの敗北に印される世界階級闘争の結果においてしか決定されえない。戦後日本の革命的左翼の闘争が、第四インタナショナルの運動から切り離されて出発したのではなく、第四インタナショナルの敗北によって結果付けられた国際階級闘争の中でこそ登場する基礎を持ちえたのである。より重大な問題は、そうした基礎の中から登場した運動がそれを意識的にとらえかえし得ず、堕落した戦後第四インタナショナル(IC派、IS派)に結び付けられて組織されたことである。

JRCL第四回大会は、自らの危機の克服の方法を国際党建設の闘争から自己を展望するのではなく、日本階級闘争と国際共産主義運動との関連を明らかにすることの中で、実際には危機にある第四インタナショナルの現実に自己を結びつけ、自らの展望を閉ざす結果となった。

だが黒田派が批判し、黒田派が寄生する基盤こそ日本革共同(JRCL)が自己を積極的に結びつけたこの戦後第四インタナショナルの現実であったのである。彼らはパブロ主義批判をもって第四インタナショナル批判に代え、戦後第四インタナショナルの欠陥の根拠をトロツキズムに探し求めた。

「永久革命論の限界」「トロツキー生産力理論」「トロツキー組織論の弱点」等々。黒田派によっては戦後第四インタナショナルの限界はトロツキーの弱さと誤りに起因しており、スターリン主義派の基礎はレーニンにあり、したがって現代共産主義運動はマルクス主義の再認識から出発することになった。

“マルクス主義の現代的継承”を綱領獲得の方法とする黒田派が、階級闘争の歴史的結果から運動を展開してないという非マルクス主義的方法こそ注目に値する。中間主義者の特徴は、歴史の外に立って現実に反応しようとするところにある。“反帝・反スタ”綱領の組織的実践はその理論的裏づけの努力にもかかわらず、一方における反帝闘争(労働運動、大衆闘争の分野における戦術の強化、闘わない幹部批判)と、他方におけるスターリニストの方針と理論批判(スターリニズムはマルクス主義に反しているという批判)に分裂し、実際には“闘わないスターリニスト、社民”“闘う我々”という範囲を一歩も出ることができない。このような組織論の分裂をかろうじて統一して支えているのは、すなわち、マルクス主義の学習である。我々はこうした左翼中間主義潮流の存在を、基本的には戦後第四インタナショナルの堕落―スターリン主義への批判的一分派への転落―の結果が許しているものとしてみる。

情勢が帝国主義とスターリン主義へと引き裂かれている現時代において、そうした関係そのものの矛盾を土台として、そうした関係を拒否して情勢を変革する意識的指導部の力強い登場なくして、こうした歪曲された中間主義潮流の寄生を始末することは不可能である。第四インタナショナルを直接階級闘争の中でつくり出す任務は、セクト主義でも主観主義でもない。それは時代の要請である。

むすび

戦後第四インタナショナルの死滅にもかかわらず、依然として現代は第四インタナショナルの時代である。なぜなら“第四インタナショナルの敗北”によってのみ促進された反革命的支配体制が、ますます大衆をして“第四インタナショナルの敗北”を取り戻す闘争へと直接自己を結びつけ、それなしには革命の展望を見出し得ないが故である。「第四インタナショナルは敗北した、では第五インタナショナルだ」という叫びは、形式論理学としては納得できるかもしれない。だが、インタナショナルは、他人の恣意によってつくられはしない。では第五インタナショナルの歴史的基礎は何か?

情勢は依然として第四インタナショナルの創立綱領が明らかにした運動の発展線上にしかない。ただそれは、戦後の敗北によって一層反動化され複雑化されており、反対に敗北を飛躍的に取り戻すことのできる基礎を拡大しているにすぎない。戦後第四インタナショナルの死にもかかわらず、第四インタナショナルは生きている。敗戦の中から再生しつつある。第三インタナショナルの時代と第四インタナショナルの時代の性格の相違に匹敵する第五インタナショナルの時代の性格は存在しない。もしそれが見通し得るとするならば「労働者国家」が完全に帝国主義、スターリニストの手によって清算され、スターリニストとブルジョアジーの側にすっかり分離され吸収され、ブルジョア民主主義さえも暴力的に破壊され血なまぐさい反動の嵐が全世界を圧倒するときであろう。だが我々はそれを待ちはしないし、考える必要はない。第四インタナショナルは再建の基盤を、労働階級の敗北を基礎にして維持されたスターリニストの支持によってのみ生きながらえている帝国主義世界体制の矛盾の中に求める。この歴史的国際的階級関係に衝突するプロレタリアートを意識的に武装し、解放の展望を明らかにする指導が国際党を組織する方法でなければならない。

パブロ主義とIC派は、このインタナショナルが階級との間につくりだす政治的組織的関係にとって最大の障害物である。再建される第四インタナショナルは、これらの残存物を第四インタナショナルの席から完全にしめ出し、これらの諸派によって妨害されない国際的位置を一刻も早く獲得しなければならない。

戦後第四インタナショナルを我々の手によって解体しつくすことは同時に、戦後第四インタナショナルに寄生し、第四インタナショナルに敵対する左翼中間主義諸派の席も閉ざすことになるであろう。

IC派と訣別し、第四インタナショナルの革命的再建の闘争に結集せよ!

新たな第四インタナショナルの指導部を確立せよ!

(1966年7月 創立大会宣言)