エロイカより愛をこめすぎたら 06 act.06 ただならぬ関係 (3) The Alarming Relations If Eroica put too much love
「…ギーゼラ姉さん。以前とは別の理由で、僕はエーベルバッハさんのことは反対だ」 グリュックスブルグ家。 フリードリヒは二、三カ月に一度程度、まったく格式は違うが、幼い頃はむしろ姉弟同然に育った従姉妹の住まう本宅へと遊びに来ていた。 グリュックスブルグ家の城は、広さではエーベルバッハ家に劣るが、格調高い美しさはこちらの方が上だ。 その居間のソファで、フリッツ君はテーブルに両肘をついて、姉と慕う従姉妹に対し重い口を開きはじめていた。 「もうフリッツったら。あなたにどんなに思われても、家のためなのよ? グリュックスブルグ家には…」 「そうじゃない。そんなことじゃなくて…」 フリードリヒは説明のしようがなくて忌々しげに一度言葉を切った。 が、やはりその言葉しか……なかった。 覚悟を決めて口にした。 「………………ご主人様は…ホモだ」 緊張感みなぎる長ーい沈黙の後、ギーゼラは「おーーーーーほっほっほっほ」と高らかに笑った。絵に描いたようにお上品に口許に手を添えて。 さらに劇場風に言った。 「婚期の遅れた人間を見つけると、皆よってたかってそう言うのよ。特に少佐は魅力的だもの。そんな噂はもう聞き飽きたわ!」 改めてソファに深く腰掛ける。 心を落ち着かせようと改めて従兄弟のフリードリヒを見据える。 「だいたい…」 軽く咳払いしてから声を潜めて言った。 「だいたい、あなたの口から聞いたのよ。『ご主人様はある女性にぞっこんだ』って。今更…一体何を言いだすの?」 その通りだ。だけど… フリードリヒは小さく頭(かぶり)を振った。 「………ご主人様の本命は……『彼』だ」 ギーゼラはひとつため息をついた。 「本当に当てにならないわねフリッツは。分家の血かしら。大人になってもぼんやりさんなんだから」 意地の悪い口調ではない。 むしろいとおしげに、子どもに言うように彼女はそう言った。 「姉さんだって見ればわかる! 姉さんも綺麗だけど………」 フリードリヒは申し訳なさそうに尻つぼみに言った。 「…『彼』にはかなわない」 ギーゼラのその表情の変化は、幼い頃から知っているフリードリヒくらいにしかわからない変化だった。 やはり気に入らなかったのだろう。 空気だけが冷たくなったのを感じた。 「そこまで言うのなら……会わせなさい、フリードリヒ。私が自分の目で確かめます」 ことさらやさしくそう言って、にっこりと微笑んだ。 「…そんなの…どうやって」 「本当にぼんやりさんね、フリッツは。あなた何のためにあそこで働いているの?」 くすくすと鈴が転がるように上品に笑う。 その笑顔。 生粋のお姫様だと、身内ながらフリードリヒはいつも思う。 いたたまれないような気持ちになりながらも、 (自分のためだよ姉さん…) 分家で貧しく、ただ、家事全般が得意だったためそれを活かして今の仕事にありついているフリッツ君は、心の中でつぶやいた。 *** その男を一目見て、ギーゼラは言葉を失った。 それまで、華やかな各国の社交界にも幾度となく出入りしたが、これほどまでに美しい男を見たことはなかった。 サングラスを取るなり、思わずつぶやいてしまった。 「男……性……?」 その金髪巻毛の豪華な青年はクス…と笑った。 「この失敬なお嬢さんはどちら様? フリッツ君」 エーべルバッハ家の庭の白いチェアで優雅に足を組んで雑誌をぺらぺらとめくっていた伯爵が、彼女の後ろでおろおろしている召使いに訊いた。 「も、申し訳ありません! 僕の従姉妹で、ギーゼラ…グリュックスブルグ…」 「おや、大層なお名前だ」 伯爵は微笑むと組んでいた足を正し、彼女の手を恭しく取った。 「はじめまして。ドリアン・レッド・グローリア伯爵、イギリス人です。ちょっと足を痛めているので座ったままで失礼」 「伯…爵…!?」 「イギリス…人…!?」 ふたりはそれぞれ違った驚きの言葉を驚きの表情で反芻した。 ひとつの嘘をつき通すには、いくつもの嘘が必要になる。 伯爵は複雑な表情でため息をついたが、微笑みながらとりあえずフリッツ君の疑問に釈明した。 「…妹もイギリス人だ。お父上の手前、少佐が嘘を…」 二人ともさらに何か言いたそうだ。 遠慮なくどうぞ、と上品に頷く。 「妹君は本当に…その…ご主人様とはもう?」 「ええ。心変わりを。情けない妹です」 訊いてきたフリッツ君にではなく、ギーゼラ嬢に向かって苦笑交じりにそう言った。 彼女が注意深く口を開いた。 「……あなたは?」 「私が何か?」 やや驚いたように彼女に聞き返す。 それからフリッツ君をチラッと見て、先日庭で逃げ出したそのうしろ姿を思い出した。 口が軽いのか、あるいはこのお嬢様に頭が上がらないか。 「…ああ、少佐ですか」 困ったものだ、という風情で伯爵は笑った。 「あの日、フリッツ君に誤解されたようには感じましたが、あんな堅物は私にも無理ってものですよ。あの日は私が少佐にからかわれたんです。 私は確かに男性が好きですが、どちらかと言うとこちらの、先日亡くなられたお父上とか…そうそうフリッツ君もおいしそうだ。お気をつけなさい、お姉さん」 その気たっぷりで伯爵はフリッツ君に流し目を送った。即座におびえるフリッツ君(苦)。 この青年の言うことは一理ある、とギーゼラは思った。 これだけの美形が迫れば、世の男性の大半は、たとえ素にその性質がなかったとしても流される可能性は十分にある。 だがしかし、今問題にしているのは、あの『鉄のクラウス』なのだ。 女性ですらそうやすやすと落とせる相手ではない。 それはギーゼラも五年もの間、見せ付けられてきた紛れもない事実だった。 ただ… ただ気になるのは、この男性のここでのたたずまいそのものだ。 はじめて足を踏み入れた少佐の自宅。 歴史を感じる立派な居城だ。 ギーゼラも好感は持った。が、まるでこの家…というか屋敷…というか庭…というかここの空気そのものが、この美青年をやさしく包み込むように、 護っているように在ると感じられるのはギーゼラの考えすぎなのだろうか。 ギーゼラは声高にスピリチュアルのようなものを唱えるタイプではなかったが、心の中では静かに(キリスト教の「神」以上に) 『大いなる意志』的な存在を信じる方の女性だった。 伯爵は、片手で頬杖をついて雑誌に目を落とし、つまらなそうにパラパラとページをめくっていた。 「そんな話を私にしても仕方ないですよ。妹とはいえ私には関係のない話だ」 「では、私の味方をしてくださる? 私、少佐の子を産みたいの」 スパーーーーンと頬をはたかれたような気がした。 (庭の木々もいっせいにざわめいた(気がした)。) 「姉さん!!」 「あなたは黙っていなさい、フリードリヒ!」 毅然とした口調で彼女は言った。 「ドイツに貴族制はなくなったとはいえ、グリュックスブルグ本家は、現デンマーク、ノルウェー王家にもつながる由緒正しい血統です。 それを私の代で止めるわけにはいかないのです」 女性が初対面の男性にはしたない! と慌てているのは、むしろ完全庶民感覚を体得したフリッツ君ただ一人だった。 そうだろう。 家名や血統に本当にこだわっている家の者は、正直もうなりふりなどかまっていられないのだ。まるでお天気の話のようにいつもそのことを気にかけている。 それくらいのことは伯爵もわかっている。グリュックスブルグ家の血統の良さは『本物』なのだろう。 「ちょっと失礼」 伯爵は彼女をそばに呼ぶとざっと彼女の目と歯と匂いを確認した。 とりあえず健康体ではありそうだ。 「皮肉なものですね。お父上がご存命なら必ずやあなたのお力になられただろうに…」 伯爵は少し淋しそうに笑った。 「わかりました。そういう話なら、私などに通すよりよっぽど適任者がいます」 *** 「コンラート、こちら『本物』の嫁候補だ」 「はい?」 「グリュックスブルグ本家の一人娘でギーゼラ嬢。今NATO重役付きで働いてらっしゃるそうで、少佐とは面識もあるそうだよ」 「はあ…」 『…それで?』と、当惑気味の執事の顔に書いてある。 ギーゼラ嬢が上流社会の子女らしく上品に執事にご挨拶した。 「はじめまして。突然の失礼お詫び致します。あとはわたくしからお話しましょう」 *** 「彼女はどう?」 「『どう』……と言われましても…」 深まる執事の眉間の皺。 「申し分ない『家』だろう」 執事が伯爵を困った目で見た。 「はあ…ですが…。ご主人様はこういった謀(はかりごと)を何よりも嫌われます」 言い訳をするように、執事は懸命に言った。 「実は以前にも旦那様のご指示で2、3度あったことなのですが、結局バレた挙句の、ご主人様による私どもに対する報復というものが、 もはや言語に絶するというか、二度と御免被ると申しましょうか…」 何か恐ろしいことを思い出したらしい執事の汗の量はただ事ではなかった(苦)。だが伯爵は事務的に言った。 「だったらこれで最後にしたまえ。少佐ももういい歳なんだから覚悟した方がいい。このチャンスを逃したらこんないい話は二度と来ないよ」 「ですが……ご主人様のお好み…というものもあることでしょうし」 「そこをうまくやるのが君の役目だろう!」 伯爵はやや感情的に言った。 なんせ誰よりもこんな話を進めたくないのは、ほかならぬ伯爵自身なのだ。 なんとか気持ちを静めて改めて冷静に執事に訊いた。 「…今まで関わってきた中で、少佐と一番いい感じだったのは?」 さっさと答えない執事に、伯爵の視線が催促する。 不承不承、恐る恐る執事が口を開く。 「…申し上げてよろしいので?」 伯爵が嫌そうな顔でこまかく頷く。 聞きたくもないことを聞かなければならない役まわりにイライラした様子で、伯爵は、銜えたタバコに火をつけようと何度もライターを カチカチ言わせてしていたが一向に火がつかない。 「……………………エーディット様です」 ぶはっ! げほっげほっげほっ! 何言いだすんだ君は! すでに伯爵は真っ赤だ。タバコは落ちっぱなし。 慌てて怒鳴るように補足する。 「『女性で』だ!!」 しばらく執事が真顔で思案する。 挙句言った。 「………やはり…エーディット様かと」 「君わざと言ってるのかい?!」 真っ赤になった伯爵が癇癪を起こしたように金切り声を上げた。 大真面目に眉間の皺を深める執事。 「いえ、本当に。どのお嬢様のこともしっかり覚えておりますが、どう考えても、エーディット様のことをご主人様は一番気に入っておられました ………というか、伯爵様はなぜそのように赤くなっておいでなので? あれはお芝居だったのですよね?」 「そっ…そうだけど! 君がそんな大真面目にしみじみ言うから…恥ずかしいじゃないか!」 「それは失礼を致しました。真面目なお話かと思い、つい…」 このすっとぼけ執事! いまいましげに伯爵はライターをぱちんとテーブルに置いた。 「少佐はあの時必死だったんだよ! 君がそんなこと、一番わかってあげられるだろうに!!」 「はあ、それはまあ…。つまり私が申し上げたかったのは、伯爵様のような女性がお好みなのではないかと…」 伯爵がものすごく納得しがたいという顔でしばらく執事を凝視した。 「…それ本気で言ってる? 私がどれくらい追い掛け回されたり殴られたりしたか教えてあげようか。ワールドワイドだよ!?」 「は…確かに…………。ご主人様は、確かに伯爵様を………」 しばらくいろいろな表情で伯爵を見つめ、顔色を赤から青、果ては緑や紫にまで変化させた挙句、最終的には哀れみのようなまなざしをたたえつつ、 なんとか搾り出すように執事は言った。 「………………………嫌っておいでです」 「………(知ってるよ・怒)」 もう伯爵は何も言わなかった。 *** 「ギーゼラ嬢、あなた手先は器用ですか?」 面接官のように真面目に伯爵は訊いた。 「そうですね。針仕事などは好きな方ですが…」 微笑んで愛想よく答えるギーゼラ嬢。 「まさか泥棒…………なんてことはしたことありませんよね」 「はい? ええ、はい。…はい?」 そのいたいけな視線に刺されるように感じて、伯爵はうめいた。 「いえ、なんでもないんです。変なことをうかがってすみません」 情けなさに片手で顔を覆い、伯爵は巻毛が何本か抜けた気がした。 *** 「ただい…」 『ま』を言う前に少佐は家の中をざっと見回した。 ここはおれの家か? 本来ここにいるべきではない人間が一人混じっている。 「おかえりなさいませご主人様」と執事。 「おかえりなさいませ、少佐」と彼女。 「…何か御用かね」 鞄類を執事に渡しながら少佐が尋ねた。 「私の友人だ。通りで動けなくなったときに助けていただいた」 少佐はチラリとその偉そげな居候を見た。 「出かけたのか、その足で」 「確かに君の家は広いけど、閉じこもってちゃ息がつまるからね」 しゃあしゃあと言う。 「他人に迷惑をかけなくなってから出ろ」 口の中で、伯爵にだけ聞こえるか聞こえないかという声で非難する。 「聞こえないから無視するよ。NATOの職員だって?」 「……ああ」 少佐は向き直ると彼女に慇懃に言った。 「うちの居候が世話になったようで」 「私も先日お世話になりましたわ。ご恩返しになりましたかしら?」 「ではうちからも『モンブラン』を贈りますか」 そのそっけない切り返しに、少佐を見上げる彼女のこぼれるような笑顔。 「使ってくださっています?」 「どうだ執事」少佐が勢いよく振り向く。 「それはもう! もったいないほど………ご主人様がご愛用で…」 喜んで返事をしたが、彼女の表情に途中から「まずい!」と軌道修正したものの、すでにどうしようもなく尻つぼみとなりそう言った。 少佐は笑って言った。意地のいい感じではなかった。 「いただきものをおれが使わなければならんという決まりもあるまい。役に立ってるそうだ。礼を言う」 「何よりですわ」 空気じゅうにピリピリと充満するこの少佐の嫌悪感。 なんとか体制を立て直した彼女のがんばりに敬服しつつ、伯爵はできる限り明るく提案した。 「立ち話もなんだから、夕食をご馳走したらいかがかな。ここの食事はなかなかイケますよ、ギーゼラ嬢」 (居候が何言い出しとる!(怒)) という少佐のものすごい目はもちろん無視だ。 「まあ。じゃあお言葉に甘えても……よろしいのかしら、少佐?」 上目遣いのギーゼラ。 少佐は彼女に一瞥もくれずに言った。 「…どうぞお好きに。おれは済ましてきた」 唖然とする3人。 どう考えても済ましていない時間だった(苦)。 去り際、ギラッと伯爵を睨む少佐。 「十分もてなせよ伯爵。きさまの客人だ」 そう言い捨てて、苛立ちを隠しもせぬ靴音を響かせ、少佐はさっさと自室に向かってしまった。 「…嫌われたかしら、私」 「こんなところでめげてたらいけませんよ」 伯爵は首を振った。 *** 他に人気のないところで(とりわけギーゼラがまわりにいないことを確認して)、おろおろと執事は言った。 「伯爵様、本当にご主人様はこの手のことがお嫌いで、私どもはもう二度と…」 「君がそんなことでどうする!! 最後のチャンスと言ったろう!! お父上が墓の下で嘆くぞ!!」 「…はあ…」 力なくつぶやく執事。 おっしゃることはごもっともだが、いやしかし… 執事の汗は止まらない(苦)。 *** 夕食後。 居間に、ぽつんと一人立ち尽くすギーゼラ。 少佐が廊下を通りすがる。 再度その部屋の前を通る。まだぽつんと立ち尽くしている。 仕方なく、ドア枠に手をついて少佐が声を掛けた。 「………あの阿呆は?」 ギーゼラは一瞬(わからない)という表情をし、確信は持てぬまま口にした。 「伯爵様…? …は急用があるとおっしゃって…」 急用? 何の急用だあの足で(怒)。 「…執事は?」 「さあ…」 「おい、誰かいないのか!」 屋敷全体に対して怒鳴ったが誰の返事もない。 「…食事は?」 「おいしかったですわ。…ごめんなさい」 「…何が?」 わかった上であえてそう言った。 ギーゼラは答えなかった。 そのまま済まなそうな微笑を浮かべ言った。 「少佐、電話をお借りできます? タクシーを呼びたいので」 *** タクシーが来るまで30分ほどとのことだった。 少佐がお茶を入れてくれた。 バルコニーにて。 少佐がぽつりと言った。 「…悪いな。いろいろと失礼を」 「いえ…嬉しいので。ありがとうございます」 「?」 少佐が怪訝な顔をする。 そんな時だけ視線を向けてくれる。 「お茶が…おいしい…です」 ギーゼラはお茶に話しかけるように言った。 「…ではもっと飲みますか?」 味もそっけもなく、裏も表もなく、ポットを手にして少佐が訊いた。 ギーゼラが微笑んでカップとソーサーを少佐に手渡した。 *** 遠いバルコニー。 お茶を飲む二人のシルエットを伯爵はそっと見つめていた。 きっと、恋する彼女の表情。 お似合いの二人。 うつむいて伯爵がふっと笑った。 こんな風に少佐を見る日が来るなんて、思ってもみなかった。 *** ギーゼラがタクシーで少佐宅を後にした。 ついに少佐は伯爵を見つけた。 何のことはない。東隅のバルコニーに奴はいた。 「…どういうつもりだ伯爵」 その背中に、むしろ静かに少佐は言った。 「何が」 手すりに両肘をつき、暗い庭を眺めていた伯爵が、肩越しに振り返る。 手には琥珀色の入ったグラス。 「この野郎、すっとぼけるつもりか! おい執事!!」 屋敷に怒鳴る。 「いないよ。私が安全な場所で寝(やす)むよう指示した。今日のことはすべて私がやらせたことだ。彼らに罪はない。君が怒りをぶつけるべき相手は……私だけだ」 言いながら伯爵は背と肘を手すりに預け、少佐の方を向いていた。 顔を上げた。毅然とした瞳で。 久しぶりに見た気がする。 奴のこんな表情。 「…よく言った。二度と見れんツラにしてやる」 少佐が非常にいい音で、目いっぱい指を鳴らした。 *** 広い庭中を逃げまわる伯爵。 暗く、視界が悪い。 でもそんな場所でも逃げることには慣れている。 ただ…ここは相手の庭だ。分が悪い。それに… 「きさま逃げるな! 殴らせると言ったろう!!」 「殴らせるなんて言ってない。殴れるもんなら殴ってみろって言ったんだよ!」 「絶対にぶん殴ってやる!!」 少佐は猛然と加速した。 伯爵は後悔した。 治ってきたとはいえ足を痛めてるんだった。 こんな足で、怒り狂った少佐から逃げ切れるわけがない。 *** 翌日。 ご主人様はとっくに出勤された。 客間のドアを静かにノックする執事。 「伯爵様、大丈夫ですか? お医者様をお呼びしますか?」 全然大丈夫じゃない。 昼近くなっても伯爵はベッドで布団をかぶったまま死んでいた。 「起きてこられますか? それともお食事をお運びしますか?」 「…ひどい顔なんだ。今日は何も食べたくないから。お心遣いありがとう」 伯爵はなんとか身を起こし、ベッドの中でけだるげに膝を抱えた。 「……承知いたしました」 「あ、コンラート」 廊下の執事が去り行く前に伯爵が中から声を掛けた。 「…やはりもう時間がないようだよ。君のご主人はもうかなり危ない状態だ」 私の襲い方がおかしい。 伯爵はベッドの上のガウンにしんどそうに袖を通そうとしていた。 「その件ですが伯爵様…」 執事の戸惑いがちな言葉。 「ご主人様は今朝方、ブリュックスブルグ本家に向かわれました」 「何?!」 思わずガウンをひっかけ伯爵はドアを開けてしまった。 ドアの前の執事の姿に慌てて一瞬でドアを閉める。 びっくりした様子の執事。 閉められたドアの向こうの伯爵にやさしく声を掛けた。 「あ…安心致しました。お顔はそれほど酷くはございませんよ」 *** ゆうべの少佐。 ふん捕まえられた伯爵は、骨の何本かを覚悟して歯を食いしばった。 少佐がこういうことをどれくらい嫌うかなんて容易に想像がつく。 少佐は確かに殴った。一回だけ。 だがそれも『渾身の力を込めて』というより、『形式上仕方なく』という感じで。 そして冷たく言った。 「…おまえ、バカだろう」 ムカッとした。 「もっと殴ればいいだろう! さあ、殴りたまえ!」 きゃんきゃんとわめく伯爵にひきかえ、少佐は妙に、変に落ち着いていた。 「殴っても言うことをきかん奴を、いくら殴っても仕方なかろう」 少佐は怒っていないわけではなかった。 静かに、確実に怒っていた。 そして泥のように抱かれた。 *** 少佐は、伯爵のプライドの高さを知っていた。 最も屈辱的なやり方で、少佐は伯爵に、延々と、二度とこういうマネをしないことを、徹底的に誓わせた。 「………」 「きさま好みのやり方だろう」 少佐は意地悪く言った。 * 夜明け前。 徐々に空が白んでこようかという薄闇。 不意に、痛めた方の足を少佐につかまれビクッとする伯爵。 これ以上何をするつもりだ…と、うつ伏せたまま肩越しに力なく少佐を見る。 「…おまえ、バカじゃないか?」 そう言って少佐は伯爵の足首に口づけたように見えたが、そのまま伯爵は気を失った。 *** 三時のお茶。 ようやく伯爵が部屋から出てきた。 口数は少ない。 執事がそっと言った。 「ご主人様が直接乗り込まれたということは、もう私どもがいくら何をしたところで、あちら様と何かということはまず200%ないかと…」 「…ごめん。まとまる可能性もあった話を、私がダメにしたな」 「いえ」 伯爵のダメージは相当のようだ。 片手で顔面を覆いうなだれている。 「本当に済まない。悪気はなかったんだよ」 遮るように執事。 「もちろん承知しております。ですが…」 執事はいつも以上のやさしさで、伯爵をいたわるように尋ねた。 「…伯爵様はご主人様のためになぜそこまで?」 伯爵はただお茶を見つめていた。 その表情からは何も読み取れない。 ようやくぽつりと、伯爵もまたギーゼラのように、お茶に話しかけるように口にした。 「少佐を……愛してるからだよ」 そんな伯爵を見つめる執事。 それからふっと顔を上げ、執事の視線にやさしい微笑を向け、言った。 「…君やお父上のようにね」 「ありがとうございます」 執事は深々と頭を下げた。 なぜか痛みのようなものを感じながら。 むしろそれを隠すために。 つづく
エロイカより愛をこめすぎたら
act.06 ただならぬ関係 The Alarming Relations
ニ0一0 六月二十七日
サークル 群青(さみだれ)
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