エロイカより愛をこめすぎて 03



act.03 秘密
The Secret
From Eroica with too much Love







 イギリスのとある地方都市。
 少佐の単独任務二日目にして、滞在中のホテルに不法侵入者がいた。

「やあ」
「き…さま、どこから入りやがった」

 部屋の鍵を二つ見せ付ける伯爵。
 慌てて内ポケットを探る少佐。


(ない!)


 伯爵から二個とも奪い返そうとしたが、かろうじて一個しか奪えなかった。
「安心したまえ。君がここを引き払う時にはちゃんと処分するよ」

 安心なんかできるか!
 完全渋面の少佐。

「…誰に聞いた」
「わざわざ口止めなんかするからバレるんだよ」
 いけしゃあしゃあと伯爵が口にする。
 確かに部長以下部下全員には口止めした。
 どこからでも漏れる可能性は………確かにある(苦)。

「オレはおまえにペースを乱されるのがいやなんだ!」
 伯爵の顔が"心外だ"と訴える。
「君の邪魔なんかしたことないじゃないか」
「どの口がほざく!」

 少佐が伯爵のあごをつかんだ。
 憎々しげな少佐と対照的に、伯爵が嬉しそうに少佐を見つめる。

「……………」
「……………」

 伯爵のまなざしに誘われるように、徐々に二人の顔は近づき…


 ぼか


「あいた」

 少佐は伯爵の頭を殴った。
「あの流れで殴るか?普通。 仮にも君と私は…」
 少佐が実に嫌そうな顔をした。

「おれとおまえは…なんだ!
 伯爵は肩をすくめ『やれやれ』と失笑した。


「…………『天敵』だ」


     ***


 真っ昼間。
 奥まった路地のオープン・カフェでうつらうつらする伯爵。
 テーブルにはケーキ。

(信じられん! あいつ本当におたずね者の自覚はあるのか?)

 任務の合間にできた空き時間に、うっかり街中でアイツを見つけてしまった。
 見つけたくもなかったのに!

(あんなところであんなムボービに寝やがって。)

 明るい午後の日差しの中、ゆらゆら揺れるのどかな伯爵とは打って変わって、つい目が離せなくなった少佐の方が、 広げた新聞に隠れながらも一人で変な汗を流していた。

 うわ! という瞬間に、指一本で伯爵のつむじ付近を突いて顔面ケーキ埋没を阻止する少佐。
 相席したテーブルの向かいで、もう一人、ヒヤヒヤと伯爵を見守っていたご年配のシスターが、音なしで拍手して 少佐の反射神経を賞賛した。が、少佐が伯爵を起こそうとすると猛然と首をふって"いけません!"と止められる。
 そのシスターの勢いに恐れをなし、強引にうながされるまま、仕方なく少佐は伯爵の前のめりの角度を正させて、伯爵を寝かせたままその隣に座った。

 ほどなく。


 こて


 少佐の顔面が、全身が、悲惨に固まる。



(この野郎、ずうずうしくもおれ様の肩なんかに…!)


 天使様もかくや、と思われるほど寝顔のうるわしい巻毛の美青年。
 単品でも眼福モノの美しさだったが、そんな彼が、 長めの黒髪のハンサムな男性の肩に寄りかかって眠りこける図に、 向かいのシスター(の割に俗っぽいオバサン)のテンションが必要以上に上がっている(苦)。


(絶対に起こす!)


 と即座に少佐は拳を握り締めたが、その意図を察したシスターの顔面が猛烈に恐ろしいことになった。
 ものすごく不承不承少佐は拳を納めた。
『シスター』は今や少佐の唯一と言ってもいいくらいの弱点なのだ(苦)。

 目の前の特等席でしばらくうっとりと夢のような二人の王子様(苦)を堪能してから、 そのシスターは重ね重ね"起こしてはいけませんよ"と少佐に目配せしてようやく席を立った。

 シスターの姿が見えなくなるまでじっと我慢の子であった少佐が、しびれを切らして伯爵を殴り起こそうとした。
 が、気が変わったのか、そのままちら、と腕時計を見る。

(…監視の目が増えた?)

 しかもひとつはドシロウト並の気配だ。

 ………罠か。
 あるいは本当にドシロウトか。

 伯爵の安心しきったような寝顔が少佐の目の端に映る。

 こいつみたいにわけのわからん奴だと厄介だ。
 少佐は諦めたように力を抜いて、少し様子を見ることにした。


     ***


 およそ十分後、ついに少佐が伯爵に声をかけた。

 が、怒鳴ったり殴ったりはしなかった。
 それどころかそっと静かに耳打ちするように、伯爵の顔のすぐそばで囁いた。

「…おい」

 目をこすりながら小さく伸びをして伯爵がゆっくりとかわいらしく夢から醒めた。

 実は少佐が伯爵に囁きかけた瞬間は、見る角度によっては、まるで少佐が、眠る伯爵に甘く口付けでもしようと しているように映ったのだが、そんなこと当人達にはまったく思いも及ばなかった…。


     ***


 目覚めた直後は素直にびっくりしていた伯爵も、そのうちいつもの余裕を取り戻し、少佐をからかうように言った。
「珍しいな、君が肩を貸してくれるなんて。もしかして………敵でも増えた?」
「現状おまえ含めて四人だ」

 伯爵は驚いた後に苦笑した。
「ふ。お疲れ様」
 当てずっぽうに言ったことが当たってしまった。

「まあ安心したまえ。私が一番強敵だから」
「ケーサツに突き出すぞ」
 そうやって、伯爵が目覚めてからは、ふたりはそのカフェで新聞越しに延々と言い争い続けていた。いつまでも終わる気配のないその地味な罵りあいに、 一人の青年がついに声を掛けた。

「失礼ですが…」

 伯爵と少佐の上目遣いの視線がその青年に向く。
「先輩、お久しぶりです」
 声を掛けられた伯爵は数秒きょとんとしたが、ついに思い当たったらしい。
 信じられないものを見る目に変わった。

「…テオ? ここで何してるんだ!?」

 その青年はこぼれるように笑った。
 伯爵とは方向性が違うが、とびきりのさわやか美青年だ。
「地元です。ここの地方紙のカメラマンしてます」
 立ち上がり、伯爵が彼の両腕を捕まえて改めてまじまじと見る。

「そう…か。そうなんだ。ホントに久しぶりだね! 元気にしてる? …っていうか君、まだ成長期だったんだ。私より大きくなってる。生意気だ!」
 からかうように言った。
 昔のままの、いやそれ以上に眩しすぎる笑顔で。

「先輩はきれいになりましたね」


 ぶはっ


 勢いよく派手に吹き出して、少佐が窒息しそうなほどむせ続ける。
 その新聞越しの様子に嫌そうな顔をする伯爵。

「紹介…してもらえますか?」
「――え? あ? これ? この人のこと言ってる?」

『これ』とは何だ(しかも指さしながら)、という少佐の睨み。新聞の影から。

「先輩の恋人でしょ? 今の…」


 ぶふーーーーーーっ!


 新聞の壁にコーヒーの茶色いシミが飛び散る。

「テオ、頼むからこのおじさんをあまり刺激しないでくれないかな。そうでなくても非常に厄介な男なんだよ。(これ以上興奮させると君の地元が破壊される)」
「先輩、随分趣味が変わったんですね。昔は本当に綺麗な子にしか興味なかったのに。本当に『おじさん』じゃないですか」
「………」

「はじめまして。学生時代の後輩のセオドア・ウィンクロスです。先輩には『特別に』お世話になりました」
「………」

『おじさん』はむっつりと押し黙っている。口をきく気もないらしい。
 伯爵はおざなりに紹介した。
「えっとこちらは保険調査員のフランツ・シュミットさん」
「よろしく」
 テオ君は常識的に感じよくご挨拶した。
「無駄なことだよ。無口なタチでね。口を開けば文句ばっかりだからむしろ黙っててくれた方がいいんだよ」
「そうなんですか」
「………」

 ちらっと『おじさん』は見たものの、テオ君はあまりおじさんには興味がないらしく、…というか伯爵だけに夢中なのは誰の目にも明らかだった(苦)。

「ちょっと前に先輩に気づきました。ファインダー越しにものすごく美しい人がいると思ったら…」
「君だって相変わらず素敵だ。ちょっと育ち過ぎたけど…」

 やたらとさわりあう(っているように見える)妙にキラキラしいふたり。
 思わず顔を背ける少佐(苦)。

「で、お二人があんまり絵になるんで失礼ですが撮っちゃいました」
「へーどれど…………」



「!!!」


 伯爵がものすごい驚きの目でその写真を凝視した後みるみる赤くなり、名状しがたい表情で少佐をガン見しては写真を見て赤くなり、 テオを見ては写真を見て、あからさまに異常な興奮ぶり。

「………」
 少佐はすでに不審感も露にその異常な伯爵の様子をうかがっていたが、ついに新聞をテーブルに置くと立ち上がり覗き込もうとした。

「…なんだ」
「君は見ない方がいい!」
 伯爵が慌ててパッと身を引いて胸に写真を押し当てる。

「テオ君、君は天才だ! この写真、実に素晴らしいよ! 私に譲ってくれるよねモデル代に」
「…いいです…けど」

「愛してるテオ! カメラマンは君の天職だ!」
 叫んでがばりとテオを抱きしめる。


「!」


 テオが真っ赤になって雷にでも撃たれたように硬直した。

 くらっとした。
 信じられない! なんという心地よさ! 眩暈がするほどいい匂い!

「おい伯…」
「君はさっさと仕事に戻りたまえ。敵に出し抜かれるよ!」
 むしろ少佐には冷たく言い放ってテオの肩を抱き、親密に説得を開始する。

「で、でできればネガも譲ってくれないか? 拡大現像して部屋に飾りたい」

 興奮のあまり声が上ずる。
 間近の伯爵にドキドキしながらも、テオが失望混じりに呆れる。
「…そんなにいいんですか、あんな人が」


「今はそんなことより早くネガを!!!!!」


 伯爵はすでにもう目が血走っている(…)。

「一体何の写真だ。ふざけるなよおまえら」
 少佐が一瞬の隙をついて伯爵の手からサッと写真を奪い、取り上げた。


「あーーーーーーっ!」と絶叫を上げる伯爵。


 写真を見た途端のっぺらぼうになる少佐。
 その後青ざめてガチガチガチガチ震え出す。

 そこに写っているのは、眠りこけるこの阿呆に今まさになにやらを致そうとしているかのような(←実際は「…おい」と言っただけ(苦))誰だこれは!!!(怒怒怒)


「返してくれ! それは私のだ! 破ったりしたら承知し……あーーーーーーっ!!!!!

 言ってるそばから、ビリビリの粉々に破った挙句、靴でグリグリと踏みにじる。少佐はテオの胸ぐらをわし掴む。

「おいきさま、どういう悪意であんな写真捏造しやがった!」
 カチンと来たテオは、少佐の迫力に負けず振り払った。

「失礼ですね! 僕は真実以外撮りませんよ。一応報道カメラマンですから」
「のぞき屋がきいたふうな口をききやがる。さっさとネガを出せ!」
 テオが睨み返した。

「お断りします!」
 少佐の目が細まる。
「…と言ったら?」


「いい度胸だこのくそがき」

 エンジン全開に頭から湯気を出す少佐とテオの間に、正気に返った伯爵が強引に割り込み事態を食い止める。

「落ち着け少…フランツ、こんなところで乱闘は目立ちすぎる!」
 言い終わる前にテオを振り返る。
「なあテオ、何か望みがあるなら私が何でもきくから。ここは素直に私にネガを…」

 少佐を睨んでいたテオの視線がゆっくり伯爵に移った。

「………………何でも?」

 コクコク!
 必死でうなずく伯爵。




「じゃあ………、その人と別れてください」


 なに?

 は?



 少佐、伯爵、ふたりがそれぞれ「何を言われているのかわからない」という顔で、テオを穴が開くほど凝視する。

 テオが伯爵の手をきゅっと握った。
 伯爵を見つめるテオの瞳には熱以上の何かが篭っていた。


「今でも…忘れられないんです、先輩」


「…………」
「…………」

 真っ白なふたり。
 背中で、出てこようとする少佐を押しとどめていたはずの伯爵が、いまやよろり…と少佐に寄りかかっていた。


「先輩…愛してます。今でも…」

 テオの瞳からポロリと一粒、涙。

「…………」
「…………」

 完全に毒気を抜かれて呆然としてしまった伯爵と少佐。
 しばらくしてからやっと正気に返って、伯爵と少佐、ふたりほぼ同時に困惑の視線を見合わせる。

「そういう話なら…悪いが君は席を外してくれ。私とテオの問題のようだ。ネガは私がキチンとするから」



     ***



「テオ、私より背も伸びたのに、相変わらず泣き虫だね」
「先輩に関すること以外では泣きませんよ。昔も今も…」

 鼻をすすりハンカチを握り締めるテオに、伯爵はやさしく微笑んだ。
 やわらかな薄茶色の髪を撫でる。

「懐かしいね。元気にしてた?」

     *

 寄宿舎時代。
 伯爵は文字通り、「うるわしい男子食べ放題ツアー」に参加しているような月日だった(苦)。

 実家で、そのありとあらゆる手練手管をすでに身に付けていた伯爵は、上からも下からも尋常じゃないほどにモテまくり、 公認の恋人は複数、あまつさえ教師にまで手を出した、食指さえ動けば。


 寄宿舎の三学年下に入ってきたセオドア・ウィンクロス。

 その素材の抜群の美しさに目を付けたのは伯爵だけだった。
 真面目なテオはまったくセンスの悪い眼鏡をかけ、ひたすら地味に日陰の道を歩いていた。同類項の地味な友人たちからは、 普通に「テッド」とか呼ばれていた。


 窓から差し込む午後の日差しだけがひどくまぶしい、薄暗い図書室。
 寝たふりをしていた伯爵は、その日はじめてテオに声をかけた。

「…その眼鏡、気に入ってるの?」
「グ、グローリア先輩!」

 背後の書棚にぶつかるほど後ずさり、まばらにしかいないまわりの者も眉をひそめるくらいテオは動揺した。

「へえ、嬉しいね。僕の名前知ってるの? セオドア君」
 巻き毛を指先に絡めながら無邪気に笑う。

 信じられない思いでテオが見つめた。
「だって、先輩は……有名人だし……」
 その名の通り、輝くばかりの先輩はおどけたように微笑む。
 テオは完全に真っ赤になって震えている。

「それに、すごく……綺麗だから…」

 まるで罪の告白でもしているかのような痛々しいほどの恥じらいが実にかわいらしかった。

「ありがとう。じゃあ僕も君の知らないすごいことを教えてあげる」
 そう言うと、まるで『小声にしなくちゃまわりの人の迷惑になるからね』とでも言わんばかりにテオの肩を抱いて隅に誘うと、 その震える耳元で、そっと誘惑するように囁いた。


「その野暮ったい眼鏡さえ取れば、君もものすごく綺麗だってことさ」



     ***


 そんな感じで急速に近づいた二人。

 他の者と同じ呼び方は嫌だと言って、伯爵だけは彼を「テオ」と呼ぶことにした。
 それでも伯爵は手は出さなかった。ただ優しく紳士的に、 甥か姪のようにテオを扱った。
 そのうちむしろテオの恋心の方が次第に募り、自分でも抑えきれぬものとなり、 ついにはグローリア先輩のとんでもない『秘密』にぶち当たる。

 趣味は『泥棒』。

 それも『かわいい』レベルのものだけでなく、すでに明らかな『大物』にまで手を染めていた。先輩のストーキングを重ねていたテオは(苦)、 ついにその現場を押さえてしまう。
 そしてテオはその『秘密』をネタに、先輩を脅して分不相応の自分が先輩の『恋人』になれたと今でも思い込んでいた。

     *


「君の中ではそういうことになってるんだ。それならそれでもいいんだけど……」
 憧れの先輩はおよそ十年後にクスッと笑った。

「君に目を付けたのは私が先だ。君にそう言わせるように、すべて私が仕組んだんだよ」

 もちろん伯爵はテオを気に入ったからそうやって手を出したのだし、手に入れた後でも気に入っていた。 が、真面目なテオには伯爵の相手が自分だけではない、ということがどうしても理解できなかった。
 テオを『恋人』にしても、その他の数限りない『恋人』と縁を切るなどあり得ず、テオは壊れるくらい泣いた。

 伯爵は、終わりにしてあげることにした。

 テオが最も忌み嫌う『多情』という面を徹底的に見せ付けて、テオの方から愛想を尽かさせた。テオの美しさを本当に愛しく思っていたからこそ、 本音を言えば残念だったが。


「君は本当に素敵だったからね」
「…………今は?」
 スプーンでコーヒーをかき混ぜながら昔を懐かしんでいた伯爵が目を上げる。

「今でも…僕は先輩の好みに入れてますか?」

 伯爵が微笑んだ。
「君は相変わらず美しいよ。元がいいんだから当然だけどね。私の目に狂いはない。で、今はもっと素敵になった。恋人くらいいるんだろう?」
「…僕の話、聞いてないんですか?」
 伯爵がひとつ息をついた。

「テオ、君は真面目すぎる。そこが魅力でもあるけれどね」
 伯爵の言葉を打ち消すようにテオが激しく首を振る。
「直します。もう僕だけを見て欲しいなんて言わない! だから…」
 テオはすがるように言った。今度は伯爵が優しく首を振った。

「あとくされの残るような別れ方はしてこなかったつもりなんだけど。私のミスのようだ。ごめんね。若気の至りだね」


     ***


「――さて、では本題に入ろうか。さっきの様子でわかったと思うけど、私はなんとしてでもあのネガが欲しい。 あんな男のことは二の次としてもね。だから君と取り引きしたい。何でもするよ。言ってくれ。 私のことがそんなに好きならとりあえずキスでもする? それとももっとスゴイこと?」

 言うなり伯爵はテオの腕を引いた。抱き寄せる。
 ふたりはすでにホテルの一室に移っていた。

「…あの人、『恋人』なんじゃないんですか?」
「そんなわけあるわけがない」

 囁きが言い終わらないうちに強引に塞いだ。

 甘い甘い口付け。
 長い口付け。

 熱い吐息の後に紡がれたのは感嘆の言葉だった。

「…成長したのは背格好だけではないようだね」
「…先輩が忘れられなくて、バカみたいにたくさんの人と付き合いました」

 伯爵が艶っぽく微笑んだ。
「素敵なことだ。人生は短い」


     ***


 深夜も過ぎてから、少佐はホテルに戻った。

 毎度真っ暗闇のとりこみ中、二人が言葉を交わすことは滅多になかったが、その日は珍しく伯爵が口を開いた。

「今日は帰らないかと思った」
「………」
「連絡もないからちょっと心配した。君に何もなくてよかった」
「………」
「少佐、今日のあれ…カフェでのこと、悪かった」

「…集中できんようだな、伯爵」

「え…少…?…ちょ…わっ…」



     ***


 ゆうべの×××ではじめて本当に腰を抜かした伯爵。

「…しあわせそうですね」
「…ああ、君のお陰でね」

 伯爵はテーブルにつっぷしていた。
 憮然とした表情で、テオはそんな伯爵を見下ろしていた。

 昨日は結局テオとはキス一回のみで交渉決裂し、「一日考えさせてくれ」とのことで本日あらためてホテルのロビーで待ち合わせたのだ。

「…別れてくれって言ったのに」
「別れて君とよりを戻すのかい? 本当にそれが君の望み?」

 身を起こした伯爵は、若干けだるそうに、向かいのソファに座ったテオを眺めた。
 テオはうつむいた視線でテーブルを見つめ続けていた。

「テオ君、今でも君を抱くくらい、私には造作もないことだ。お望みならいくらでも甘美な夢を見せてあげよう。だけど、そんなことをしても 傷つくのは君の方だよ。きつい言い方になるけど…」
 伯爵はテオのあごを摘まむと、しっかりと目を見合わせて自分の気持ちを伝えた。

「私は今も君の外見を好みだとは思うけど、君が言うような意味では君を愛していない」

「…じゃああの人は?」
「彼は……それこそ私の片思いだ。君と一緒だよ」

 テオは口唇を引き結んだ。
 あんなにまっすぐ自分のことは見たはずの先輩が、さっと手を離し、ごまかすように苦笑したからだ。

「恋人…じゃないんですか?」
「その言葉は当てはまらない気がするな。もう長いこと、私が一方的にじゃれてるだけさ」

 テオはしばらく考えてから注意深く質問した。
「『保険調査員』……じゃないですよね? 何者ですか?」

「テオ君…彼には関わらない方がいいと思うよ。彼のために言ってるんじゃない。彼はそんなことじゃびくともしないからね。 君のためだ。なんにせよ大怪我するのは君の方なんだよ」

「…だったら自分で調べます」
 立ち上がろうとするテオの手をつかんで、伯爵はひとつ大きなため息をついた。

「そういえば昔から頑固だったね、君は…」


     ***


「NATO軍、情報部の将校、エーベルバッハ少佐。その業界では有名人だよ。私が彼に惚れてることもね。 敵方の資料にも載ってるくらいだ」
 双眼鏡を渡して方向を指示した後、伯爵は説明した。

 軍関係の建物の中で忙しそうに働く長めの黒髪。
 きびきびとした迷いのない所作。
 真剣な横顔。


「わっ」


 テオが突然声を上げた。
「どうした?」
「こっち見た! …偶然ですよね?」
 双眼鏡を片手に、テオが不安げに伯爵の腕を掴む。

「いや、特異体質だよ。プロとも言うが…」
 テオは言いづらそうに言った。
「あの…ものすごくおっかなそうなんですけど…」

「よかったよやっとわかってくれて。実際おっかないんだよ。昨日はヒヤヒヤしたよ。君があんなに彼につっかっかるから」
 伯爵が安堵の笑みを浮かべた。

「あの時は頭に血が上ってて…。それに久しぶりに先輩に会えて興奮もしてたし…」
 テオがもう一度、おそるおそる双眼鏡で少佐をうかがう。

「…僕、無謀でしたね」

「君は結構そういうとこあるよね。いつもは怖がりなくせに土壇場になると意外と大胆と言うか。う〜ん、『窮鼠猫を噛む』的な?」
 楽しそうに言う伯爵。

 テオはすでにとろんとそんな伯爵を見つめていた。
「…………先輩、本当にきれいです」
 伯爵が若干苦笑する。
「私もしみじみ君のことそう思うよ。きっと目や鼻なんかの配置が、お互いたまらないほど好みなんだろうね」
 誰もいない建物の屋上で、ふたりはうっとりとお互いを見つめあう。

「だったら僕と…」
「悪くはないけど、また君を泣かせることになる」
「もう泣きません」
「昨日も泣いてたよ。私は結構意地悪だからね」
 伯爵が笑う。

 テオが少佐のいる建物の方をちらっと見た。
「彼は私以上に意地悪だよ。だから安心なんだ。私と付き合うなら君ももうちょっと意地悪にならないとね」
 伯爵はいたずらっぽくウィンクした。

 が、テオは笑わなかった。つまらなそうに言った。
「あの人…男性を愛せるような人には見えません」
「…だろうね」
 伯爵は薄く微笑んでいる。

 そんなこと、伯爵だって百も承知だ。
 ただ、嫌なら………二度としないだろう。少佐の明快さはそういう意味ではありがたい。

 風が、伯爵の美しい金髪の巻毛を、むしろ乱暴になぶる。
 遠くの少佐を見つめる伯爵のまなざし。
 それを納得できない目でテオが見つめる。
 その視線に気づいた伯爵が繕うように言った。

「あのねテオ君。彼はわざわざ遠出してたまに味わう珍味みたいなものだ。今でも私は自宅に20人以上の男を囲ってる。 相変わらず私は君の手に負えるような男ではないんだよ」

 さらに納得できない風にテオが眉をひそめた。

「で、繰り返しになるけど、私が彼に惚れてることは敵方の資料にも載ってくらいの周知の事実だ。 残念ながら今さら君に脅されるようなネタなんて、『秘密』なんて何もない」

 最後には笑みを消してはっきりとそう言った伯爵だったが、テオはそんな思い人をじっと静かに見つめていた。


 ――あるんですよ先輩。
 先輩にもわかっていない『秘密』が。


     ***


「うっとおしいぞ。おれに何か用か」

 売店に立ち寄る途中、街路樹の幹に寄りかかり雑誌を眺めているその男の前に来ると、少佐が言った。 テオはちら、と少佐を見てから、動じる風もなく告げた。

「あの向かいのビルの六階からあなたを狙ってる男がいるんですが…」
『向かいのビル』には一瞥もくれないまま、少佐が少し首と肩をまわした。

「…目はいいようだな。いつ気がついた」
「五分ほど前」
「おれのストーキングは楽しいだろう」
「なかなか刺激的です」

 そっぽを向いて少佐が鼻の頭を掻いた。
「記事のネタにでもする気かね」
「いえ、今はオフなんです。ずっと働きづめだったんで、長期休暇を無理矢理命じられて…」

 少佐の顔に複雑な表情が浮かんだ。
 嫌な過去を思い出しそうになったからだ。
 タバコをくわえると同時に、銃口が後頭部に当てられるのを感じた。

「…で、なんの真似だ」
「痴情のもつれです」
「自らネタになろうと言うのかね」
「それもいいですね」

 頭は動かさず少佐はタバコに火をつけた。
 ライターをぱちんと言わせて内ポケットにしまう。

「そんなにあんなのがいいのかね」
「美しいものに惹かれるのは人間の性です。あなただってそうでしょう?」
 少佐の顔面に心からの不快感が表れた。
「思ったこともない」
「ではなぜ先輩に惹かれたんです」
「惹かれとらん!」
「…………」

 どんなに交わしても言葉には意味がないと、だんだんテオにもわかりはじめた。

「…写真はあれだけじゃないんです」
 少佐が長く煙を吐く。

「僕は特別頭がいいわけでも何でもないけど、ファインダー越しには真実しか見えません。あなたは先輩のこと…」

 その瞬間、テオが言ったものとはまったく方向違いから狙撃され、少佐はすれすれでかわしながら、間一髪でテオもかばった。
 数回の銃弾のひとつが少佐の頬を掠める。
 すかさず少佐も発砲していた。

「…野郎!」

 胆をつぶしたテオを安全地帯に突き飛ばすと、少佐は猛然と弾の出所方向へ走って行ってしまった。


     ***


 しばらくしてから少佐が一人の男をぼこぼこにした挙句捕まえて建物から出てきた。

「やっと尻尾出しやがった。おれが派手に脅されてると思って敵さんから動いてくれたぜ。 君にそういうつもりはなかっただろうがお陰で手間が省けた。礼を言う」
 ふん捕まえた敵の腕をひねり上げながら少佐が言った。

「…話の途中だったな。おれが伯爵をなんだって?」


     ***


 白昼、はじめて銃撃戦に巻き込まれた一介の地方紙カメラマンは、まだ震えが止まらなかった。
 それでも若者らしく、ライバル(とも言えないが(苦))に負けたくないという必死の強がりで、 先輩が昔どれほど策を弄して自分を得ようとしたか(最近知ったのだが(苦))、車を待つ二人きりの間、 テオは少佐にしゃべくり続けていた。実は何か口にでもしていないと、ますます震えが止まらないからだった。

「…なるほど。で、あのバイキンが年端もいかん健全な君に手を出したんだな。許しがたい行為だ。 あのバカに腹が立つだろう。おれが仕返ししといてやるぞ。あいつを懲らしめられるのはおれくらいだ」

 上の空で適当に相槌を打った挙句、少佐はそう言った。

 意図的ではないと、それはひしひしと感じるのだが………

 今のテオにはもの凄いノロケに聞こえる。
 いや、恐らく誰が聞いても………
 それとも意図的?

 テオは少佐を凝視した。
 少佐が気づいて見返す。

 確かにハンサムだ。…というか。

「…先輩のこともこんな風に助けたことが?」
「そんなくだらんこといちいち覚えてられるか」

 改めて見つめる。
 ――本当にこの人は、あの先輩と恋愛をしてるんだろうか?

 実は本当ははじめからわかっていた。
 すごく格好いい。
 悔しいけど。

 姿かたちもそうだけど、立ち居振る舞いというか、言動というか。
 そのすべてに表れる、何者にもとらわれない意思の強さ。自尊心。男らしさ。

 おじさん臭いのはまぎれもない事実だけど、独特のオーラがあって、一度気づいたらもう惹き付けられずにいられない。 その熱というか、風格というか、存在感というか。

 言葉遣いだって終止ひどいものなのに、なぜか品がある。
 ………品?

 とにかく世が世なら、絶対一般階級にはいないタイプだ。
 そもそも、あの奇跡のように美しい先輩の隣にいて、見劣りしない男をはじめて見た。

「…確かにハンサムですね。先輩の目に狂いはない」

 ゆっくりと少佐が改めてテオを見た。
 直後『ざっ!』とあからさまに身を引く。

「そういやおまえ、ソッチの人間だったか」
「本気で恋したのは先輩だけです」
「そういうおぞましい話なら聞く耳持たん!」
 嫌悪感を隠しもせず顔面中に露出させる少佐。

 テオが若干当惑の表情で少佐を見つめた。
(恋愛…………してるのか???)

 本当は最初からわかっていた。
 考えてみれば一目見たときから自ずと口していた。

『ふたりが絵になる』と。

 テオが伯爵を見つめることができたのは学生時代の4年ほど。
 自分の嫉妬深さゆえに恋人というポジションは長くはなかったが、そんな自分でも山ほどいた先輩の相手たちを殺そうとまでは思ったことがない。

 今思えばその理由も分かる。
 なぜなら、どんなに派手な浮名を流していても、先輩は本気ではないと心のどこかでわかっていたから。

 いつもどこかに余裕があった。
 もっと辛辣に言えば『遊んでいる』ようだった。
 当時の先輩の相手は、ある意味自分と同レベルの者しかいなかった。

 そんな自分が銃まで手にしたのは、今回はこれまでとは明らかに違うとわかったから。
 そしてこの男は完全に、先輩を自分の手の届かないところへ連れて行ってしまうと確信したから。

 あの先輩に『ふさわしい人』なんてものが、存在すること自体驚きだった。
 まったく歯なんて立つわけがない。
 先輩にしてもこの人にしても、自分の想像もつかないくらい『違うステージ』の人間だということは、諦めの悪いテオ君にももう認めざるを得なかった。

 それでも人間はどうしても焦がれないわけにはいかないのだ。
 自分が『美しい』と思ったものや『格好いい』と感じてしまうものに。
 たとえ自分がどんなに背伸びをしたところで、手が届かないとわかっていたとしても。

 伯爵はテオの青春そのものであり、憧れそのものだった。
 あんなに眩しい人を、他に知らない。
 大切な宝物のような存在。
 今もそれは変わらない。多分これからもずっと。

『仕返し』…か。

「じゃあひとつだけ…」


     ***


 ようやく車が到着して、別れ際、テオ君はきちんと丁寧に少佐にお礼を言った後、少佐を見つめて静かに言った。

「――でも僕は先輩より、あなたに腹が立ちますよ、少佐」


     ***


「このネガを絶対に先輩に渡さないでください」
『仕返しにひとつだけ』と、コゾウに言われたのはそれだけだった。


 イギリスでの任務をようやく終えて、久しぶりにボンの自宅に戻った少佐は、机に肘をついて、親指と人差し指につまんだそのネガをしばらく眺めていた。

 確かにあんなくだらない写真一枚で大騒ぎした伯爵のことだ。
 アレ以上の何かが写ってるんだとしたら、それをあいつに渡さないことは十分仕返しになるのかもしれないが………一体全体何が写っているというのか。

 そもそもあの一枚を思い出すだけでもぞっとする。
 公衆の面前でそんなスゴイことをした覚えは全くないのだが、あの一枚のアレだって、全く「身に覚え」はなかったのだ(怖)。


『このネガを絶対に先輩に渡さないでください』

 コゾウのその言葉にどんな意味が含蓄されているのか、あるいは特に意味はないのか、ようわからんが、そんな考察自体が面倒だ。
 いずれにしろあんなのぞき屋に言われるまでもなく、一生『そんなこと』を伯爵に教えてやるつもりは毛頭ない。



 少佐はそっとそれを引き出しにしまうと静かに鍵を閉めた。








FIN



エロイカより愛をこめすぎて
 act.03 秘密

The Secret
From Eroica with too much Love


ニ0一0 二月十一日
サークル 群青(さみだれ)
 

はい! おしまい〜(笑)?(まだ多少手入るかもだが)
今回ちょっと趣向を変えて、制作途中のモノをバシバシ上げていくことにしてみたのは、 結果的によかったのか悪かったのか(苦笑)

ポニョもびっくりの、後半急展開尻つぼみ!
さんざん引っぱった挙句『秘密』ってソレ?…みたいな(笑)
いいんですー!コレ皆さんにはどうでもいいことでも私には大事なコトなんですー。

両思いになんてさせないぜ?(笑)
いや実質両思いでも、本人達的にはそうはさせないぜ?
…みたいなさみだれの妬み嫉みが、テオ君みたいな子を生み出したのかどうなのか(笑)

えっと、これは常に言いたいことなんですが、あまりキビシイ人には読んでいただきたくない(笑)
整合性うんぬん言ってましたが、できるかぎりは図りたいですが、できないところも当然あるわけで。 (例えば、冒頭、テオ君は写真を撮って焼いてから二人に近づいたのか?時間的に大丈夫?とか) さみだれさんの中にもたくさん、「あ〜どうしようもない。でもこうしたい」みたいのがあるわけで。
至らない点はすべて謝りますのでどうぞお許しくださいませ(笑)。

表題の「秘密」とは一体何のことなのか。
なぜ背景が白薔薇なのか。(花言葉は「尊敬」「純潔」「約束を守る」「私はあなたにふさわしい」だってさ!) おわかりいただけたでしょうか。(笑)
ええ、さみだれにとって重要な『秘密』はこれだけで、伯爵が学生時代から泥棒だったとか、少佐がこっそりイギリスで任務に当たってたとか、 テオ君は最初に伯爵の教えを受けたラッキー・マンだったとか、そんなことはどうでもいいんでございます(笑)

お読みいただきありがとうございました。
(by さみだれ)






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