エロイカより愛をこめすぎて 01 act.01 最後の七日間 The Last Seven Days From Eroica with too much Love
ただ
君の よろこぶ顔が 見たいだけ 一日目 「切…断?」 「早急に手を打たないと手遅れになりますよ、伯爵」 回転椅子を軋ませて、振り返るなり医師は無慈悲にそう言った。 *** ロンドン郊外。 とある診療所。 そこは知る人ぞ知る腕利きの医師が、一人で診察をしている開業医院だった。 患者同士の紹介の中でも、 特に選ばれた者だけが診療を許される医師優位のシステム。それでもキャンセル待ちが後を絶たない、保証つきの極秘診療所だった。 白い光に照らされたX線写真が、5枚ほど、青年医師の大きな机の上部に掲示されている。 腫瘍が見つかったのは一週間前。 それが悪性だとわかり、転移しているとわかったのが今日だ。 医師は、今日にでも手術を、と言った。 なかなかに伯爵好みの美青年ではあったが、もちろんそれどころではない。 彼が言っている説明のほとんどは、耳を通り過ぎて頭にも入らない。 医者のお世話になるような病気や怪我には、これまでとんと無縁だった伯爵だ。 普通の人間以上にそのショックは大きかった。 説明を受ける間中、どういう表情をしていいのかさえわからなかった。 *** どうやってたどり着いたのか、ロンドン郊外のそこそこ大きな公園にたどり着いていた伯爵は、芝生の上に仰向けに倒れていた。 大の字になってだが「倒れている」という形容が一番しっくりくる。 まだ日が高い。気持ちのいい日だ。本来なら。 ゆっくりと右手を掲げ、まぶしい日の光を遮る自分の手をじっと見つめた。 日の影を作るその右手は、光を遮るせいで黒く見えるが、縁ほど赤みを帯び、その向こうにヨーロッパ特有の、 弱いが白さの強い陽光を感じさせる。 手のひらを自分に向けたり、甲を向けたりして見つめ続ける。 不思議なほど、痛くも痒くもない。 26年もの間、器用に自在に働いてくれた美しい器官。 「切断」などと言われて 「はいそうですか」と言えるはずもない。 その上… 伯爵はやや勢いをつけて身を起こした。 芝生の上に投げ出された、長く均整の取れた美しい右脚。 どんな窮地もその俊足が救ってくれた。 こちらも右腕同様、何の違和感も感じない。 信じられない。 だが医者ははっきりとこう言った。 「リミットは七日です。それ以上は命の保証をしかねます」 *** 「ただいま、ボーナム君」 「おかえりなさい、伯爵。どうでした?」 先日腫瘍が見つかり投薬治療中であることは部下達も知っている。 「うん。薬が効いたみたいだよ。こないだよりちっちゃくなってるってさ」 伯爵はにっこりとかわいらしく笑った。お花が飛んでいた。 「よかった。あなたが病院なんて、ホントに心配しましたよ」 心底安心した様子でボーナム君が表情を緩めた。 「心配事がひとつ減ったから、留守番を頼んでいいかい?」 そう言いながら、すでに伯爵は心ここにあらずで携行品を整えはじめている。 「おでかけですか?」 「うん、ちょっと少佐のところにね」 「ああ、では気をつけ………ええ!?」 まるで近所に散歩に行くような伯爵の言い方に、ボーナム君の驚きの反応はワンテンポ遅れた。 *** 少佐の家に着いたのは、まだ夕暮れ前だった。 もちろん平日のこんな時間に「主」はいるはずもない。 忠実な執事の下、善良な召使い達が、ルーチンワークに勤しんでいた。 難なく玄関から侵入し、彼らに気づかれることなく、気ままに楽しげに屋敷内を散策する伯爵。 どの壁、どの床の、どの傷やしみにも「主」の歴史や気配を感じると、それだけで感慨深いものがあった。 どの部屋がこれまでどのように使われてきたかなど伯爵にわかるはずもないが、勝手な妄想を膨らませるだけで、 時折くすくすと笑い、時間はあっという間に過ぎていった。 広すぎる屋敷内、ようやく「主」の寝室らしき部屋に辿り着いた。 生活感はあるが清潔に整えられた部屋。 居心地のよい空間だった。 目を閉じて、その場の空気を胸いっぱいに吸い込む。 クスッと笑った。 すでに伯爵は少佐のにおいを覚えている。 不快でない程度に混じるタバコのにおいの割合も含めて。 大人しくされたことはほぼないが、なんだかんだと接触頻度はかなりになる。 それ以前に一度嗅げば忘れない、「愛しい相手」の大事な情報だ。 さすがにここは少佐のにおいに溢れている。 置いてある家具や机を指でたどり、ぼんやりと愛しげに眺め、すとんとベッドに腰を下ろした。 そのまま脱力したように仰向けに転がり、目にその天井を映し続けた。 ようやく肩の力が抜けた気がした。 (…少佐…) 伯爵は両手で顔を覆い、そのまま動かなかった。 *** ハッと気づいた時には、遠くにあの足音が聞こえていた。 (帰ってきた!) 窓の向こうはすでに漆黒の闇。 暗い部屋に光る時計の文字盤は21時を指している。少佐のベッドに転がった途端うたた寝してしまったらしい。 汗が全身の毛穴から噴出した。が、こんなこともはじめてではない。手早く安全・確実な物陰に隠れた。 遠くとも、あの威勢のいい足音ははっきりと聞き分けられる。 だが、帰宅直後に寝室に来るわけではないようだ。屋敷内のあらゆる場所に移動した末、やっとこの寝室に入ってきた。 隣のバスルームで判別不可能な複雑な水音を15分前後させた後、パジャマを着込んで髪を拭きながら少佐がベッドに向かう。 伯爵は祈るように両手を鼻の前で合わせて息を殺していたが、少佐は遠くの視線にも気づく特異体質だ。気配を消すことだけで精一杯で、 本来なら見たくてたまらない少佐のパジャマ姿もお預けだった。 鼻歌まじりに枕や掛け布団を整えていた少佐の動きが不意に止まった。瞬時に伯爵にも緊張が走る。 (――バレた!?) 少佐の、空気中のにおいをかいでいるような鼻音がする。 しばらくその、「くんくん」としか言葉では書きようもない所作が続いたが、やや身をかがめベッドのにおいを嗅ぎ、 自分の髪のにおいを嗅ぎ、辺りのにおいを嗅ぎ、どうやら自分の洗いたてのシャンプーのにおいとかすかな異臭を混ぜてしまったらしい。 そっけなく部屋の明かりは消され、ごそごそと寝床に入る布の音とベッドの軋み音をさせ、聴こえるか聴こえないか程度の童謡ワンフレーズの後は、 漆黒と静寂がその部屋を包み込んだ。 *** 伯爵は、それでも用心深く、少佐の呼吸が深い寝息に変わるまでじっと暗がりに身を潜めていた。 部屋の中は真っ暗だ。 闇に慣れた目だけが、かすかに少佐の輪郭をとらえていた。 注意深くベッドの傍らに寄り添う。 暗闇の中の伯爵の表情がやさしい切なさを浮かべた。 少佐の寝顔など、いつまででも見ていたい。 もっと明かりのあるところで。 しかしそんな希望は贅沢だ。今となっては、 こうしてそばで様子をうかがえるのもこれが最後だ。 (少佐 愛しているよ これからもずっと…) 伯爵の瞳は、その暗闇の中、少佐の寝顔を映し続けていた。 *** カッと両目を見開くとほぼ同時に起き上がった少佐が壁のスイッチに触れ、部屋にはパッとまぶしい明かりが灯った。 「ドロボー!!」 青池先生の巨大な書き文字が城中にこだました。 「ご主人様、ご無事ですか!?」 執事が、少ないすだれ頭を振り乱して、どたどたと真っ先にご主人の寝室に駆けつける。 「侵入者だ。何者かが屋敷内に入りこんどる。全員叩き起こして探し出せ!」 あっという間に城中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。 *** さっさと庭に逃げ出していた伯爵は、窓の中、ものすごい勢いで真夜中の不法侵入者捜査に燃えている少佐を眺めて微笑んだ。 名残惜しげにその愛しい姿を瞳に焼き付け、 「君が元気そうでよかった」 そうつぶやくと、伯爵は闇にかき消えていった。 *** 結局賊は捕らえられなかった。 しかし帰宅してからずっと妙な気配は感じていた。…ような気がする。気のせいか。 諦めてとりあえず屋敷の者は全員寝(やす)ませたが、少佐は一人もの思いに耽った。 明らかに、何か禍々しいものの存在を先ほど感じたのだ。 旧東側の陰謀…か? 不意に少佐は眉をひそめた。 頬が一点、冷たい。 慎重に指先を当てるとわずかに濡れた。 不審げに、おそるおそる舐めてみる。…しょっぱい。 (…涙?) 旧東側の陰謀??? 珍しく少佐は完全に煙に巻かれていた。 二日目 「ジェイムズ君、もうこれもお下がりにあげるよ」 「…何が狙いですか? 伯爵」 ボンからいつ帰ってきたのか、伯爵は遅めに目覚めてから、食事が終わると、ものすごい勢いで部下達に大盤振る舞いをはじめた。 「狙いなんて何もないよ。いつも私のために頑張ってくれるご褒美だ。部下感謝デーだよ」 「ぼくはもっと擦り切れてからの方が好きです」 「わかった、じゃあこのパンツは?」 「いただきます」 ジェイムズ君は、はじめのうちは腐りかけの食料や使い古しの衣類などで単純に狂喜していたが、夜も更ける頃にはあまりにもおかしいと思い始めた。 ボーナム君に至っては言わずもがなだ。 ついにしびれを切らして、ボーナム君が、本当はまったく聞きたくない様を全面に露呈しながら恐る恐る伯爵に尋ねた。 「…伯爵、もしかして少佐と何かあったんですか?」 「少佐には会えなかったよ」 にっこりと伯爵が笑った。 「それよりボーナム君、今度の獲物はこれまでにないハイテクが必要そうなんだ。近いうちに一緒に電気屋さんに行こう」 「では、今度は何を?」 瞬間戸惑ったのをごまかすように伯爵は顔面に意味深な表情を浮かべると、ボーナム君をぎゅっと抱きしめた。 そうしてから罪のない笑顔でにっこりと微笑みかける。 「まだ秘密さ。でもかっこいい私をたくさん見せてあげよう」 いつもならときめき以外何も覚えられなくなる伯爵のボディ・タッチにも、その日はなぜか素直に喜べないボーナム君だった。 *** 気に入ったゴミを溜め込んでいるジェイムズ君の部屋で、二人は声を殺していた。 「あったぞ、ボーナム。この紙切れがあやしい」 その紙切れは恐らくA4だった紙の一部だが、診療に関する文字はないものの、その診療所の住所は判別できた。 「でかした、ジェイムズ。多分これだ」 「ゴミ漁りはぼくの管轄だ」 おかしなところで胸を張るジェイムズ君をそのままに、ボーナム君はその紙片を凝視した。 伯爵の様子は明らかにおかしい。 寝る間も惜しんで部下全員に出血大サービスのオンパレードだ。 今夜など、部下20人と同衾すると言い出した。 昔から気前の悪い人ではなかったが、これは明らかにおかしすぎる。 こんな風になったのは、ボンから帰ってきてからかと思っていたが、よくよく考えてみれば、あの診療所から帰ってきてからではないだろうか。 もう時間的に診療はしていないだろうが、じっとなどしていられない。 嫌な胸騒ぎが止まらない。 「伯爵を頼んだぞジェイムズ。ここに行って直接聞いてくる」 三日目 「ジェイムズ君、ボーナム君が見当たらないんだけど…知らない?」 「実家に帰りました」 伯爵は拳を口唇に当てて、ジェイムズ君を眺めた。 嘘なのは声とその言い方でわかる。 ――何を機嫌を損ねているんだか。 ご機嫌取りの猫撫で声を出してみる。 「ちょっと電気屋さんに一緒に行こうと思っただけだよ」 「伯爵は今日一日ぼくのものです! 伯爵の寵愛を受けるのはこのぼくだけです!!!」 もう一度、拳を口に当てて、伯爵はジェイムズ君を眺めていた。 ――何をそんなに盛り上がっているんだろう? 「わかったよ。じゃあ、今日は一日ジェイムズ君だけに付き合おう。貸切だね。とりあえず一緒に新しい電卓でも見に行こうか」 伯爵は実に楽しそうにかわいらしくにこにこと笑っている。 ジェイムズ君はこれまで見たこともないような悲愴な顔で、自分の尽きせぬ独占欲を満たしてくれる、と言い出した伯爵を見つめた。 四日目 「おやおや、ボーナムさん、いらっしゃいませ。ご主人様に何か御用でも?」 玄関を開けるなり驚いた執事は、それでもぬかりなく伯爵の存在を確かめようと辺りを見まわした。 「今日は私一人です。少佐にではなく、あなたにお話があります執事さん」 いつも愛想のよい、感じのよいその丸っこい髭の男性は、今日は随分憔悴して見える。というか尋常でないほどに目が真っ赤だ。 一晩中泣き明かしでもしないとこうはならない。これはただ事ではない。 「……もしや伯爵様に何か?」 「伯爵は関係ありません。私の個人的なことで執事さんにお願いがあるんです」 静かに、だがいつにない気迫で、ボーナム君は執事を見つめた。 その気迫に呑まれ、執事もひとつ息を呑んだが、ほどなくにっこりとやさしく笑って客人を屋敷に招じ入れた。 「お入りください。ご主人様もボーナムさんならお許しくださるはずです。お話は中で伺いましょう」 *** ボーナムさんの頼みごとは、『紫を着る男』を譲ってほしいということだった。それはもちろん、執事である自分には到底無理な相談だった。 だが、ご主人様に直接言わず、私に来たということはよほどの事情があるのだろう。 伯爵の本当の病状を突き止めるまでに丸一日、ショックから立ち直るために一晩を費やし、真相は絶対に打ち明けない覚悟で事に臨んだ ボーナム君だった。だが、伊達にあの「少佐」を育て上げた執事ではない。結局のところ根気負けし、結局口を割り、ボーナム君につられて 執事までとめどない涙を流すことになった。 「ご存知の通り、伯爵は少佐の目の敵ですが…ですが伯爵はあの絵を本当に気に入っているんです。私ができることはなんでも致しますから、 どうか私にあの絵を…。伯爵の未練を…少しでも少なくしてあげたいんです…」 ハンカチで目元を押さえる。 気持ちはわかる。 が、それでも執事にはどうしようもなかった。 ご主人様に、下手すると何十年も様子どころか所在すら気にされない一枚の絵だが、ご主人様の所有物を他人に横流す手助けをするようなことは、 エーベルバッハ家の執事の辞書にはあり得なかった。ただボーナム君につられて涙は抑えられなかった(もともと執事は涙腺が強い方ではなかった)。 その日エーベルバッハ家では、いい年をしたおっさんが二人して昼間から泣き続けていた。 *** その日の異変は少佐の自宅だけではなかった。 「少佐…またドケチさんからコレクトコールです…」 少佐の、顔と言わず身体と言わず、とにかく全身から不快そのもののオーラが放出されていた。 朝からひっきりなしにゴミから情報部に電話がかかる。 しかもコレクトコールで。 部下たちも最初のうちは取り次がなかった。が、その頻度と声が普通じゃない。取り次ぎ回数が十本を越える頃、堪忍袋の緒を切らせて、 ようやく少佐がはじめてその電話に出た。が、どんなに怒鳴り散らしても、ソレは一言も発しない。 ――コレクトコールで無言電話。 一体どういう嫌がらせだ、と切った途端にまたかかってくる。 「少佐…あのまた…」 怒髪天を突いた。 「ゴミからの電話なんぞ今後一切取り次ぐな!」 窓ガラスが砕け散りそうな少佐の怒号に、身を縮こまらせる部下たちと、さらに宙を舞う書類たち。 *** 疲れ切って家に帰ってみれば、執事の両目が異常なくらいに腫れている。 こんな恐ろしい顔面の執事は、物心ついてから一度も見たことがなかった。 本当に恐ろしかった。疲れも吹き飛んだ。 「留守中…何があった」 執事がくるっと少佐に顔を向ける。 笑っているのかいないのか(恐らく笑っているのだろうが)、その腫れきった上まぶたと下まぶたの間から、ちゃんと見えているのか いないのかも不明のまま、執事は少佐に顔を向け首をふった。 「何もございませんよ。今日もお勤めご苦労様です」 「君のその目は…どうしたのかね」 やや沈黙の後、 「久しぶりに屋根裏の掃除をしておりましたら、虫が目に入りまして、なかなか取れず難儀致しました」 「…両目にかね」 「さようでございます。それよりご主人様」 「なんだ」 執事が、腫れた目の向こうから、じっと少佐を見据えた。 「私の心配より、あの絵の心配をしてください」 「どの絵だ」 「『紫を着る男』でございます。あのご先祖様のうるわしい…」 少佐が目を細めた。 どう考えてもひっかかる。昼間の虫のしつこい嫌がらせといい… 「…おれの留守中伯爵が来たのか?」 「いらっしゃいません」 嘘をつくな、という少佐の無言の眼力に執事は答えた。 「本日お見えになったのはボーナムさんです。ですが、そんなことより、ご主人様は、あの絵をもっと大切になさってくださいませ」 きっぱりとそう言い、それ以上の追求を許さぬ風情で、目頭を押さえながら執事は走り去るように下がっていった。 *** 実に嫌そうに、けげんそうに、パジャマ姿の少佐は『紫を着る男』を眺めていた。 (この絵が一体なんだというんだ。) 総合的に考えて、あいつに何かあったとしか考えられない。 別に、あいつに何があろうが一向に構わないのだが、身内同然の執事をこんな状態にされては放置もできない。 本当はまったく知りたくもない奴のことを、わざわざ調べなくてはならないようだった。 五日目 「部長のところにもコレクトコールの無言電話が!?」 驚愕の表情で少佐が身を乗り出した。 「何を言っとるんだね君は。SISにこの機密と、ミスターLの孫娘に贈り物を届けてもらいたいだけだ。 君がロンドンを忌み嫌っているのはわかっている。確実に届けばよいだけなのだから、別に部下を行かせてくれてかまわんよ」 おかしい。 話ができすぎている。 おれをあの変態野郎の元へ行かせようという大いなる意思が働き過ぎだ。 「部長、確か彼女の誕生日はまだ先ですが」 「写真をはじめて見たんだ。たまらんぞ? 実にかわいらしい娘だった」 少佐は寒気のあまり思わず立ち上がった。 (ホモの上にロリコンか!) 「よろしく頼んだよ少佐」 「…了解しました。失礼します」 おぞましさから逃れるように少佐は部長室を退室した。 *** 「Hが階段から落ちた!?」 情報部内に震撼が走る。 内線電話がまた一人、骨折患者を病院に運んだことを伝えた。 ロンドン出張を命じた途端、すでに部下2名が相次いで突然の身内の不幸や交通事故に見舞われていた。 週末を含めたロンドンへの出張を、少佐ほど嫌がる部下は一人もいなかった。が、ここまでくると誰もがその指名を恐怖した。 少佐は立ち上がり、自分の机のそばをしばらく落ち着きなく行ったり来たり歩きだした。部下の誰もが、次は誰が指名を受けるのかと 固唾を呑んでその上司の歩調を見守っていた。 「部下…………………」 部下達が書類やコンピューターの陰に身を潜め、うかがいつつも皆息を殺している。 「A!」 「は…はははいいっ」 最古参の一人、Aは顔面を真っ青にさせて上司のデスクの前に立った。 目に見えるほどガタガタと震えている。 真面目だが小心者の部下Aの涙目は、少佐に憐れをもよおした。 Aの肩をひとつ叩いた。 「…留守を頼む。ロンドンにはおれが行く」 情報部内にまたしても震撼が走った。 あの少佐が自らロンドンへ! その忌み嫌いっぷりも、その理由も、部下の誰もが知っていた。 心中察して余りある。 部下達は、ちょっとやそっとでは壊れないであろうが一応上司の身の心配と、『お金の神様のたたり』への恐怖のせいで、 もはや一言も発することができなかった。 *** 伯爵の家では、連夜の宴がいかがわしくもくりひろげられ続けていた。 伯爵の部下は全員、伯爵のお手つき・もしくはお気に入りであり、 そのいかがわしい雰囲気は屋敷の外にも漏れ出るほどロンドンの空気を汚染していた。 そんな、常軌を逸した屋敷に、一人の硬派が緑色の瓶を携えてやってきた。 時刻は夜八時ごろ。 早めにボンでの仕事を切り上げ、飛行機に飛び乗って到着した。 とりあえず『お金の神様の呪い』も少佐には及ばなかったようだ。 乱暴に部屋のドアを開け放った音が、時間感覚も無視して飛散していたハートマークを一気に吹き飛ばしかき消した。 「邪魔するぞ」 宴に興じていたはずの全員がその姿に一瞬にして凍りつくと、皆めいめいの悲鳴を上げて一目散に逃げ出していた。 その場に取り残されたのは、驚き過ぎて、立ち上がることもできなかった伯爵だけ。 しばらく見つめあってから、 伯爵はいつものように親しみのこもった笑顔を少佐に向けていた。 「やあ少佐、いらっしゃい。今日は一体何の御用?」 *** 「君に迷惑はかけたくなかったんだけど……いろいろ裏目に出たようだね」 「きさまなんぞ、息しとるだけで迷惑だ」 伯爵の酌を受けて、ぐいっと少佐がグラスを空けた。 その男らしい呑みっぷりに伯爵が嬉しそうに目を細めた。 「よかったよ、少佐。禁酒はやめたんだね」 「今だけだ。酒はろくなことにならん。踊り出すなよ伯爵」 少佐の酌を受けて、伯爵が懐かしい昔を思い出すように笑った。 「大丈夫。この数日ちょっと羽目を外しすぎたみたいでね。さすがに私にもそんな元気はなさそうだ」 「きさまの生活はろくなもんじゃないな。そうだろうとは思っとったが…」 先ほどの退廃的な室内の様子を、思い出すだけで寒気がする、と言わんばかりに少佐が言った。 「今週は特別さ。『謝恩感謝週間』なんだ。日頃のみんなの働きに、真心こめて感謝してる」 「気色の悪い感謝の仕方だ」 伯爵が声を立てて笑った。 「君にはそうかもしれないけど、人生の喜びは人それぞれだからね」 伯爵がグラスの氷をカランと鳴らした。 グラスを見つめる伯爵のそのまなざしを、少佐はただ黙って見つめた。 しばらくしてからようやく少佐のその探るような視線に気づいた伯爵は、急に体温が上昇したように感じて、まるで弁解するように付け加えた。 「というか、正確には私の『未練を絶つ週間』なんだ。とにかくこれまで後回しにしてきてやり残したことを、 この際全部やろうと思ってね。いつまでも未練たらしい男は美しくないだろう?」 はん、と少佐が鼻を鳴らす。 「きさまの未練たらしさなんぞ、今にはじまったことじゃない」 「そういえば君も結構しつこいよね」 「黙れ、変態」 瞬時に手元のクッションで少佐が伯爵の顔面を叩いた。 叩かれてからも伯爵は笑い続けた。 会話の内容はともかく、二人は不思議なほど穏やかにモーゼルを味わい続けた。 ゆったりとソファに身を預けた伯爵が、 少佐の横顔を幸せそうに見つめていた。 「どういう風の吹き回しか知らないけど、念願かなって君とこうしてゆっくり酒が飲めて嬉しいよ。これでまたひとつ未練が減った。 今日は来てくれてありがとう、少佐」 少佐は聞いているのかいないのか、ただ黙ってグラスを傾けていた。 *** 少佐が背広の袖口を押さえ腕時計を見た。 「伯爵、そろそろおれは帰るぞ」 「えっ…あっ、ああ、そうか。そうだな、遅くまで…悪かっ…た」 時間のことなど、すっかり忘れていた。 とりわけ話が弾んだとかでも何でもないのだが、この時が、いつまでも続けばいいと、それだけ思っていたかのように。 立ち上がる少佐を、座ったままの伯爵が目で追う。 未練。 そんなもの断ち切れるはずもない。 振り返り、伯爵を見下ろした少佐。 が、今度は逆に伯爵がうつむいた。伯爵は、そうしてしばらく座り込んだまま、息を殺しているようだった。 「ごめん、少佐。最後にひとつだけ…」 そう小さくつぶやくと、ゆっくりと伯爵も立ち上がる。 「未練」は美しくないと、さっき口にしたばかりなのに。 伯爵が間近の少佐の目を見つめた。 声が震えないようにするのが精一杯だった。 「一度でいい。抱きしめさせてくれ」 少佐が拒絶を返す前に、伯爵の両手が少佐の首にすがりついた。 今の自分に残された力の限りで抱きしめる。 もう二度とこの腕には抱けないのだ。 伯爵の両手がきつく震えていた。 「伯…」 忘れない。何を失っても忘れない。 この腕の感触、君のぬくもり、君のにおい。 涙が溢れて止まらなかった。 *** 伯爵は、少佐に力一杯しがみついたまま、泣き出した挙句に気絶した。 少佐は、どうすることもできず、ただ立ち尽くしていたが、半ば諦めたように片手で伯爵の背中を支えた。 そうしてそのまま振り返りもせず、少佐は、ドアの影から中の様子をうかがう二人の忠臣(一人は今にも「いやいや伯爵〜〜」 と言って出てきそうなのをもう一人に必死に抑えられているのだが)にドスの効いた声で警告する。 「おまえら、おれにここまでさせたこと、後で後悔するなよ」 *** ふっ…と突然、伯爵は意識を取り戻した。 あれ? 私はいつから眠っていたんだろう。 確かにこの数日、ほとんど眠れていなかったので、気絶するように眠るのも仕方ないと言えば仕方ないが。 それにしてもすごい夢見たな。急に少佐が訪ねて来るなんて。 医者に告げられたあの日、何を置いても真っ先に未練を捨てに行ったはずなのに。 結局捨て切れていないんだな、夢の中の少佐の言うとおり。 伯爵は自嘲するような笑みを浮かべた。 でも…夢でも、嬉しかった。 夢のくせにやけにリアルだったし。 伯爵はくすっくすっと小さく笑い出した。 抱きしめがいがあると言うかなんと言うか。君ってホントにいい身体… 「死後硬直かと思ったぜ」 え? と思い顔をやや上げると、太いくせに妙に色気のある首の上に少佐の頭らしきものが乗っている。 ぼんやりと、タバコの煙をくゆらせて。 なんだこれは。 数秒間、現実世界をさまよった。何が起きているのかわからなかった。 私は今まで何の隣で寝ていたんだ? がばっと身を起こした。 辺りを見まわせば、夢の中で少佐と飲んでいたあの部屋のソファの上にまだいた。 自分だけでなく、少佐殿も。 ―――夢の続き??? 「あの…え? 飛行機…は…?」 「もう間に合わん。明日の朝一で帰る」 伯爵の目は泳ぎまくった。 どこからが現実だかわからない。 どうしようもなく、恐る恐る訊いていた。 「君…本物?」 夢がジロッと睨み付けた。 夢じゃない!? 伯爵は内心のパニックを抑えながら、とにかくその場を取り繕った。 「き…君に迷惑はかけたくなかったんだけど………」 「大迷惑だ!」 身を起こすと、イライラと忌々しげに、少佐は吸っていたタバコを灰皿に押し付けた。 ギロッと伯爵を再度睨み付ける。 伯爵がその凄みに多少身を引く。 少佐はひとつ大きなため息をつくと、伯爵の方に手を伸ばした。 伯爵の鎖骨辺りに指先を当て、とんと突く。 それだけで伯爵はすとんと ソファの背もたれに倒れることになった。 面倒臭そうに少佐が背広の上着を脱いでゆく。 伯爵の口は驚きのあまり半開きになった。 ネクタイを緩めながら、非常に不愉快そうに、少佐が覆いかぶさってきた。 「本当におれには大迷惑なんだからな。きさまの未練なんぞ…」 伯爵はあっけにとられてただ呆然とそれを見ていた。 *** 「ちょ…ちょちょちょちょちょっと待て…少佐…あの、こういうやり方は知って……」 「きさま、おれをバカにするか」 すぐそばにある顔面が伯爵を見上げると、無駄なほど凄みを効かせている。 ムードもへったくれもない。 これからはじまるのが『そういうコト』だとはとても思えない。 「いや、だけど、一応、私は女性ではないから…その…」 「なんだ」 必死の愛想笑いも引きつりはじめる。 「君に重戦車並みにこられると、私にも甚大な被害が…」 今更ごちゃごちゃ言いはじめた伯爵に、眉間の皺を深めて不機嫌さ丸出しだった少佐の表情が、はじめて徐々に愉快さを帯びてくると 実に満足げにうなずいていた。挙句言い放った。 「…いい気味だ」 「しょ…」 少佐のアップで伯爵の視界が暗くなる。 「う…うわーーーーーー!ひーーーーーー!わーーーーーーー!!!」 * 部屋の外では、伯爵の断末魔のような悲鳴に、忠臣達が皆青ざめたままガタガタ震えていた。 六日目 朝。 伯爵の寝室。 ベッドの中。 全裸骨抜きの伯爵様がシーツにくるまって転がっていた。 すでにきちっと背広ネクタイを着込んだ少佐殿。 振り向き、伯爵のその再起不能な様子を一瞥すると歩み寄り、ギシッとベッドを軋ませて、少佐が伯爵の横たわる枕元に腕を突いた。 「…おい、大丈夫か」 巻き毛にうずもれた伯爵の横顔にカッと朱が走った。 少佐はそのままベッドの傍らに腰掛けると、ライターを取り出しタバコに火をつけた。 信じられない。 身を寄せ囁かれただけで、瞬時に全身に火がついた。 伯爵はうつぶせたまま枕に頭を沈めてぶるぶるぶるぶる震え出した。 しょ…少佐…君は一体… 少佐とのソレは想像と全然違った。 男性遍歴は、幼児期のお稚児さん時代から恐ろしい数に昇るはずの伯爵だったが、あんな風に他人にふれられたのははじめてだった。 知らなかった。想像もつかなかった。 少佐がこんな風に他人にふれるなんて。 テクニックだけの問題じゃない。そんな問題なら伯爵がここまで落ちるはずがないし、テクニックだけの話ならもしかしたら伯爵の方が上だ。 そうじゃない。そういうことじゃないんだ、もっと根本的に…。 不感症ではないことは昔から知っていた。が、まさかここまでこういうことが『うまい』とは。 ゆうべの×××を思い出すだけでくらりと目が回る。 少佐は『人間の身体』というものが実によくわかっていた。知識ではもちろん、おそらく経験でも。嫌が応にも少佐の過去を想像させられ、 それだけで血液が逆流しそうだった。 そして、それより何より問題なのは… ブルブルブルブル震えたまま、伯爵は口唇を噛み締めた。 ゆうべなど、何事もなかったかのようにすでに身づくろいを整えタバコをくわえている少佐。 こっちは身じろぎひとつできないような大打撃を受けているというのに…! というか君は本当にあの少佐か!? 伯爵の拳が白いシーツを握り締める。 はじめのうちは、ただ恐ろしいばかりだった。伯爵もできる限り抵抗した。 「それ」が嫌だったのではなく(本来、嫌なわけがない(死))、 ひたすら「大怪我したくない」という、まったく色っぽくない理由で。しかし、ついに観念してからは、 伯爵が気づいた時には少佐の雰囲気はガラリと変わっていた。 今でも信じられない。 恐れていた通りに重戦車並みに乱暴されたならまだマシだった。少なくともこんな精神的ショックは受けなかっただろうから。 だが、実際は真逆だった。少佐がベッドであんなふうに他人にふれるなんて…。 思いもしなかったのだ。 もともと、少佐にぞっこん惚れていた伯爵が、正気を失うのも無理はない。 ひどい。君は残酷だ。 あんなにやさしく愛されたら、一層未練が絶てなくなる。 もうこれからは、君を抱きしめることすらできなくなるのに。 *** 「……………」 「……………」 部屋の扉の外で青ざめてガタガタ震えていたはずのボーナム君とジェイムズ君が、ついに『もうこれ以上耐えられない』 という風情で部屋に乱入してきた。 伯爵のベッドに駆け寄る。 「伯爵! 大丈夫ですか伯爵!」 ベッドの中では伯爵が、依然布団をかぶってその身を震わせていた。 この野獣少佐に一体どれだけひどいことをされたのかと、二人とも真っ青になったまま涙ぐんだ。 「おいたわしや伯爵、言葉も発せないほどに…!」 「ぼくの伯爵になんてことを! オニ! 悪魔! 人でなし!」 忠臣達の恐怖を殺しての必死の非難に、少佐は「フン」とだけ言ってさっさとその場を退場した。 *** それにしても身体の節々が痛い。 今日は一日ベッドから出られない、と伯爵は大人しく過ごしていた。 身を起こし、ヘッドボードに背を預けたまま、窓の外をぼんやりと眺める。 病が進行しているのかもしれない。 もう、覚悟を決めざるを得ないところまできているのだろうと、伯爵は思った。 *** 「少佐〜〜〜〜! そこにいるのはわが盟友、エーベルバッハ少佐ではありませんか〜〜〜〜!」 SISの建物中に響き渡るようなその明るい声を、きっぱりと無視して、少佐がカッカッと廊下を歩む速度を速める。 「ロンドンに来るならなぜ私に一報くださらなかったのですか〜」 「………」 息を切らして建物出口手前で追いついたそのおちゃらけ者を、少佐は実に嫌そうにチラ見した。コメントするのも億劫だった。 「用は済んだ。よい週末を」 「水くさいですよ、少佐。今夜もロンドンに泊まるんでしょう?」 少佐がどさっと書類を落とした。 そんなことおれは一言も… ロレンスは人差し指を口の前でウィンカーのように動かした。 「チッチッチ、図星ですね。ささ、とりあえずあちらでお茶でも…。こんな時のために、私がとっておきの店をご紹介しますよ、ハンブルグの夜の帝王」 くすっくすっと小突いてくる。 情けなさに脱力し切ってしまった少佐は、ロレンスに引きずられるように、再びSISの建物内部に戻らされていった。 *** SISの応接室。 秘書の女の子が下がった途端はじまったロレンスの耳打ちピンク・トークに、いつもどおり数回乗ってやった挙句に少佐が嫌そうに言った。 「…任務中じゃないのかね」 「まあまあ、そう言わず。ロンドンの子は一度味わったら病み付きになりますよ」 ぶふぉっ 少佐が口に含んだネスカフェを勢いよく吐き出した。 「どうかしましたか、少佐」 「いや」 少佐の背中に嫌な汗が伝った。 *** その日、いつにない強引さでロレンスは、少佐を夜の街に連れ出すことに成功した。 タクシーの中では、狂喜のあまり壊れたのではないかと思われる (もともと壊れていると言えなくもないが)ロレンスを目の当たりにして、少佐はもう何も言えなかった。ただ、黙ってそのはしゃぎまくる ロレンスを眺めれば眺めるほど、ゆうべの伯爵の『人生の喜びは人それぞれ』という言葉が頭をかすめた。 (そんなにおれとああいう場所に行きたいのか…) タクシーを降りれば、夜の街では山盛りの女たちが少佐に色目で迫ってきた。商売女でも素人女でも、女に色目を使われるのは少佐にとっては珍しいことではないので、 いつもなら何の感慨もないのだが、彼女達の手を変え品を変えの本気の迫り方を、はじめていつもと違う視線で眺めている自分に気づいた。 (そんなにおれとやりたいのか…) いつもなら不快感がほとんどのその感覚が、今日は新鮮な驚きとして感じられた。 『人生の喜びは人それぞれ』 あの時の伯爵のまなざしや口調がやけに目の前にチラつく。 伯爵。いまいましい巻毛の変態泥棒。 少佐にとって腹の立つ人間は山ほどいたが、伯爵ほど癇(かん)に障る人間は他にはいなかった。そういう意味ではダントツ第一位だった。 普通の人間なら、一睨みで追っ払えるはずの少佐が、伯爵には本当に手こずらされ煮え湯を飲まされ続けた。 「おれはきさまが大きらいだ」と言えば「私は君を愛しているよ」と意味深に笑った。 その意図のほとんどは、自分に対する嫌がらせだと知っていた。 あいつはおれの嫌そうな顔を見る度に、心底嬉しそうだった。根性の捻じ曲がり方が尋常ではなかった。 その上、その遠慮のない悪だくみに関しては伯爵以上の者はおらず、少佐がそのまま脳溢血で倒れそうになるほど何度でも少佐を怒らせた。 どんなに追っ払っても、しつこく少佐をからかい、まとわりつき、ちょっかいかけては任務の邪魔をした挙句、大抵伯爵は逃げた。逃げ切られた。 その知力・体力比べでは、お互いの卑怯さも含めた上で五分と五分。 悪い意味でもいい意味でも、少佐の血をこれだけ熱くさせる人間は他にはいなかった。 それが、この先そうではなくなる、というのが信じられなかった。 「……………………」 いつも嫌がらせばかりするくせに、絶対絶命のときは、もしかしたら自分よりも有能かもしれないと思わせる唯一の相手。 お互いがお互いを本気で嫌悪し合っているということはもちろんよくわかっていた。が、実はお互いが言葉にできないレベルで 理解し合っていることを感じる瞬間があることも知っていた。 そして、伯爵が、戯言やたわむれではなく、『ホモだから』という大雑把すぎる理由でもなく、一個の人間として、本気で自分に惚れている らしいということも、もちろん少佐にも、もうとっくにわかっていた。 「……………………」 こういう考察自体が、少佐は大嫌いだった。 なので、この一連の流れも含めて、再び少佐の中には伯爵に対する抑え切れぬ怒りがふつふつと込み上げてきた。 *** 「別件で用がある」 店の前で、ゴゴゴゴゴ…という重低音を背負いながら突然少佐が言い出した。 「そんな少佐、ここまできて…!」 もちろんロレンスはごねた。が、耳に入らぬ様子で大通りに向かいタクシーを呼ぶ。 『人生の喜びは人それぞれ』 そう言ったとき、伯爵が何を望んでいるのか、少佐にはわからなかった。今考えればそれも、『隠し通そう』という伯爵の意思に負けたようで、 それが逆に腹立たしかった。 「悪い。おれの分も楽しんでこい」 タクシーに乗り際、ロレンスを振り返った少佐は珍しく笑っていた。 *** 「な、なんだ君は! ボンに帰ったんじゃなかったのか!?」 まるで大型の猛獣が獲物に襲い掛かるような、色気もへったくれもない捕獲劇の末、再び伯爵は少佐に追い詰められていた。 無論顔は真っ赤だ。 信じられない。 少佐がじりじりと間合いを詰めてゆく。 「き…君はいつも相手にこんなふうに…」 「伯爵、おれは絶対に『かぼちゃ』をきさまなんぞに渡さんぞ?」 驚いて伯爵は対峙する少佐を凝視した。 「おれの過去の詮索をするくらいなら、今しかできんことを必死で考えろ。さっさと盗めるうちに盗まんと、おれは親父への腹いせに、 いつアレを燃やすかわからんからな」 後ろ手に壁に手をついたまま、(身を守るために?)火のついたような目で少佐を睨んでいた伯爵の眼力がだんだんその強さを失うと、不意に目をそらした。 そして搾り出すように言った。 「同情…か」 その屈辱的な伯爵の表情を少佐は眺めた。 「ふん。誰がきさまなんぞに同情するか」 少佐は伯爵の腕をつかんだ。 「おれはな伯爵、他人(ひと)の懐中物をくすねるこの手も、逃げ足だけは速いその足も、昔から大大大きらいなんだ。せーせーするぜ」 なん…… 伯爵の表情に答えるように少佐が言った。 「現行犯で捕まえてやるからさっさと『かぼちゃ』を盗みに来い。五体満足でないきさまなんぞ、捕まえてもおもしろくもなんともな…」 伯爵の表情が奇妙に歪み、そのまま堪えきれぬ風情で少佐を抱きしめていた。抱きしめられたまましばらく少佐は突っ立っていた。 そうしてそのまま伯爵はうんともすんとも言わなくなった。しびれを切らした少佐がついに口を開いた。 「―――なんだ」 「…今しか、できないことだ」 伯爵の声は震えていた。 医者に告げられたあの日、残された時間を、自分が愛した者たちが喜ぶことに使い尽くそうと思った。大抵の者は、自分が何をすれば喜ぶかを知っていた。 伯爵はまわりの者に愛されていたし、伯爵もまわりの者を愛していたから。ただ、本当は一番喜ばせたいはずの相手を喜ばせる術だけは自分には何もなかった。 ただ黙って『消えてあげる』ことしか、少佐にしてあげられることが何もない。 あの日痛いほどそう思った。 それが、少佐が一番喜ぶ望むこと。 いくら片思いとは言え、その切なさはたまらなかった。 思い出されて自ずとすがりつく伯爵の腕に力がこもった。 そうして伯爵に首にすがりつかせたまま、少佐は暇そうにタバコを一本くわえるとライターで火を点けた。パチンと閉じて、再度内ポケットにしまう。 「…つまらん」 「………」 伯爵は少し考えた。そして覚悟を決めた。 「―――よろしい。では明日、楽しみに待っていたまえ。君に一泡吹かせてやろう。で……」 つい先ほどまで逃げまわっていたのが嘘のように、いまや強気の表情にうって変わった伯爵が、今度は少佐の足を引っ掛け、 トンと胸の辺りを小突いてベッドに倒した。 そのまま優雅にガウンを床に落とす。 「せっかくきてくれたんだから、今夜はとりあえずこの私が…」 ゆっくりとその上に馬乗りになり指を鳴らした。 少佐がくわえていたタバコも取り上げる。 「ゆうべはこの私がやられっぱなしだったからね(信じられないことに)。私の愛を思い知るがいいよ、少佐」 部屋の明かりが消えた。 七日目 早朝。 またしてもベッドの中、全裸骨抜きの伯爵とすでにきっちり着込んだ少佐。 昇天したシーツの蓑虫のような伯爵を覗き込むと、少佐が言った。 「おい、おまえ。そんなんで、本当に今日中に『かぼちゃ』を盗めるのか」 ―――カッ 一瞬で、伯爵が頭のてっぺんからつま先まで真っ赤になった。 「せいぜいがんばれ。期待してけーさつ呼んどるぞ」 そう言って少佐はさっさと朝一の飛行機で帰っていった。 (なんて男だ…!) その日も伯爵は、真っ赤になったまま屈辱的にブルブルと身を震わせることしかできなかった。 …それにしても身体の節々が痛すぎる。 *** 午後に入って、少佐の自宅に電話がかかった。 執事に受話器を渡され、新聞に目を通しながら上の空で少佐が応対する。 「ヒゲだるまか。どうした、まだ来んのか」 「それが…」 *** 伯爵があまりに節々が痛過ぎると訴えるので、急遽、例の診療所で調べてもらったところ、悪性の腫瘍が全部消えていると… 「なに?」 「お陰様で」 「……………………………………………………」 「……………………………………………………」 電話口の二人の沈黙はしばらく続いた。が、 「ふざけるな、この大バカ野郎ーーーー!! こんなことにおれを巻き込みやがって! 腹いせに今すぐ『かぼちゃ』を燃やしてやるって あのバカに伝えとけ!!」 がちゃん!! 腕いっぱいに伸ばして片手で耳を塞いでも、鼓膜が破砕されそうな少佐の怒声。 すぐそばのベッドの中、身を起こして体育座りに頬杖ついたまま電話のやりとりを聞いていた伯爵がため息混じりに言った。 「…伝わったよ」 「盗みに行きますか?(ていうか行けますか?)伯爵」 「行きたいのはやまやまだけどね…」 カッ 少佐の顔が脳裏にチラついただけで、伯爵は真っ赤になり逃げるようにバッと布団の中にもぐりこんだ。 そんな、らしくない伯爵の様子に、気持ちのよくない汗をダラダラ垂らしてボーナム君の笑顔も引きつる。 伯爵が布団の中から降参した。 「一応私は病人なんだ。少し休ませてもらうよ」 後日談 「わっ! また、何しに来たんだ!」 突然訪れた少佐の姿に伯爵がパニックを起こす。 少佐がけげんな顔をした。 「…伯爵、この前も思ったんだが、身体は完治しとらんのじゃないか?」 ひたすら当惑する伯爵を、ベッドのすぐそばまできて少佐がしげしげと凝視する。 「いつも顔が真っ赤だが。そんなに熱が下がらんのか」 「…………」 そのまま腕を組んでごく間近から自分を凝視し続ける少佐に、伯爵は頭を抱えた。 (君がそうやって寄ってくるからだよ!) 顔半分を読んでいた本に隠して困り果てたような伯爵の視線と、タバコをくわえたままいぶかしげな少佐の視線かかちあった。 ……もう伯爵は何も言えなかった。 FIN
エロイカより愛をこめすぎて
act.01最後の七日間 The Last Seven Days From Eroica with too much Love
ニ00九 十二月二十八日 脱稿
サークル 群青(さみだれ)
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