現代唯識論

市川 徹
URL: www.maroon.dti.ne.jp/donsai/

要旨

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目次


自分にとって意識の存在は自明である。
なのに、科学は意識を定義できていない。
意識は表現された意識を意識する。
意識は意識できる範囲に封じられている。
意識は封じている世界も対象にする。
意識は思考して秩序を見いだす。
思考も表現して意識できる。

思考の対象世界は二元からなる。
存在は秩序の実現である。
存在秩序は相互作用である。
相互作用は実態を実現し、表現する。
表現は受容と双対する。
表現は存在表現と対象表現である。
対象表現は表現世界である。
対象表現の基本単位が信号である。

表現世界は存在一般である。
表現一般は区別のない混沌である。
混沌の表現を受容して対象が定まる。
対象化で受容主体が定まる。
最も発展した受容主体がヒトの意識である。
意識は進化して世界感を獲得した。
唯識論はもっぱら世界感の受容である。
意識は世界感を論理で超える。
人間は論理で世界観を獲得する。

人類は世界秩序を表現する科学を培ってきた。
科学は普遍性によって非科学を区別する。
科学も歴史として発展している。
科学は科学の限界を理解する。
世界は科学を踏まえて生きる所である。


自分にとって意識の存在は自明である。
意識は朝寝覚めて気づき、夜寝入って失われる物事の感じと、感じる自分自身である。
なのに、科学は意識* * は外部リンク)を定義できていない。
科学技術でも他者の意識の有無の判定は困難である。
意識が失われた植物状態* と判定された人でも問いかけに答えることができうる。『生存する意識 *
コンピュータの進歩が意識を生じるかの判定基準も定まっていない。
ChatGPT* チューリングテスト* は突破され、フェイクを見破れなくなっている。
意識の表現内容は主観である。
科学技術を用ってしても主観を客観化できない。
他者の意識の表現内容を自分の意識のように感じることは不可能である。
意識している表現を意識できるのは当の自分の意識だけである。
人の意識は身体反応や脳波* 等として推定できるだけである。
意識の表現、そして意識は物質ではない。
物質は相互作用して実現するが、意識の表現は物質と相互作用しない。
意識と同じく、心、精神と呼ばれる対象は表現できても物理的相互作用はしない。
存在は「表現」と「実態」との二元をなすとの解釈が「現代唯識論」の肝である。
意識は表現された意識を意識する。
意識は意識し、意識される。
意識は意識するものと、意識されるもの双対としてある。
意識は意識する主体であり、客体、対象を意識する。
意識は意識される客体を意識に表現する。
意識は意識される対象と、意識する主体とを意識する。
表現が意識の対象であり、意識自体が表現である。
意識の対象は意識の表現として意識可能になる。
意識は対象を失えば、意識自体を失う。
意識は何かを対象にすることで存在する。
何も意識しなくては意識は失われる。
意識には程度の違いがある。
意識には集中から散漫までの階調がある。
対象と一体になる意識から、表現を受容するだけの意識、さらに夢を見る意識まである。
意識は表現し、その表現を受容して再帰* する。
意識を実現する再帰構造こそ存在を発展させる機序である。
代謝* の同化と異化は再帰構造で実現している。
表現の再帰構造である自己言及* が論理を発展させる。
意識は意識自らの存在を受容し、認め、肯定し、否定しない。
デカルトは「我思う、故に我あり」と存在の根拠を意識に求めた。
意識は意識対象の表現を感覚として受容する。
意識は自らの身体表現を感情、気分として受容する。
意識は感覚と感情を記憶として表現し、受容する。
意識は意識できる限界を意識できる。
意識しなかった対象が意識され、意識された対象が意識されなくなる。
意識は寝ている間に意識がないことも、夢と現実の違いも意識できる。
意識は意識できない対象が存在することも意識できる。
意識は対象を再帰して対象化し、意識できる限界を超える存在を意識できる。
意識は意識できる範囲に封じられている。
意識は意識の外に普遍的対象世界が存在すると感じる。
意識できる限界を超える存在を意識できても、その存在の有り様は意識できない。
意識できない対象の存在を意識できても、その表現は受容できない。
意識が識ることができるのは意識できる範囲である。
意識が封じられた範囲に止まるのが唯識論である。
仏教の唯識* 論は受容している対象を分析する術を欠き、受容できる表現だけを対象に止まった。
プラトンの『洞窟の比喩* 』も同じ構造にある。
カントは物自体* と識る物とを区別し、識る先験的観念* を認識の基礎に据えた。
「唯識論」の時代的制約は超えられなくてはならない。
意識を封じているのは意識である。
意識を意識しか意識できない意識に封じているのは意識である。
意識は封じている世界も対象にする。
意識は世界を経験し、学んで識る範囲を拡大する。
意識は世界を識り、自らの身体経験から意識が脳の営みであることを識る。
意識は昼と夜、覚醒と睡眠を経験し、その程度を知る。
意識は区別と関係を知り、意識と対象を区別する。
意識は運動、休息、傷病、成長、老化を経験し、生死を知る。
意識は身体、感覚、感情、記憶を意識する。
意識は他者と共働し、コミュニケーションし、経験を共有する。
科学が世界の有り様、それを受容する認知を明らかにする。
意識は経験し、学んで意識を識る。
意識は脳神経信号* 処理によって実現している。
信号処理は信号を変換するだけでなく、表象を表現できる。
感覚はまさに信号表現であり、信号に干渉すれば感覚は変容する。
脳に電磁刺激で干渉すると幽体離脱* などと意識は変容する。
脳神経も他の神経細胞と同じに入力する信号に応じた信号を出力していることに変わりはない。
意識は脳神経信号処理表現だけを対象にしている。
意識は脳神経信号処理によって世界を表現し、その表現を受容している。
意識は対象を表現し、その表現を受容して意識を実現している。
意識の対象世界は秩序を実現し、表現している。
実現する秩序の表現を受容して脳が進化した。
脳の神経信号処理は秩序の実現を予測する。
脳は環境条件に対応して生き残る身体反応を再現するよう身体を制御する。
環境条件に対応して生き残る身体反応は本能と呼ばれ遺伝する。
脳は環境条件に対応して生き残る身体反応の表現を潜在意識として受容する。
潜在意識が身体を制御し、顕在意識を実現している。
無意識は意識ではなく、意識以前の神経信号処理の表現である。
無意識は神経信号処理による意識を媒介する表現である。
神経信号はナトリウムイオンとカリウムイオンの流出入による膜電位* 差と、シナプス* での神経伝達物質* の放出、吸収の表現である。
神経信号は神経細胞網のつながり方、信号伝達効率の変化* によって神経信号を処理する。
神経細胞間の信号の表現は意識に受容されない。
神経細胞間の信号処理表現の大部分は意識を媒介するが、意識にはならない無意識である。
意識は身体の神経細胞網で制御する対象を神経信号で表現し、受容する。
神経系の表現が意識である。
神経系が媒介して表現する対象とその受容が意識表現である。
神経信号は伝えられるだけでなく、神経細胞系での信号処理で対象を表現する。
個々の神経信号処理過程に媒介されてまとまった表現が意識の対象になる。
神経信号は神経系で増幅、抑制、変換されて意識対象を表現する。
神経系での信号は中枢へ向かういくつかの処理段階毎に再表現され、受容される。
視覚の場合大脳皮質だけでも五次の領野を経て処理され、、大脳皮質は6層* からなり、第5層はさらにマイクロカラム* に分かれている。
神経系の信号は処理系統毎に、さらに信号毎に並行して処理される。
継起し、並起する神経信号処理が統合されて一つの世界が表現される。
顕在意識は生物個体にとっての対象の表現である。
生物個体としての身体と身体の対象からなる表現が顕在意識である。
顕在意識は神経信号処理を大脳前頭前野で統合して表現される。
世界は眼で見ているように意識されるが、光の届かない頭蓋骨で覆われた中で神経信号処理によって表現されている。
顕在意識は神経信号処理の最後に統合される表現である。
顕在意識は潜在意識に比べて極わずかな神経信号処理表現である。
顕在意識は身の回りの物事しか意識できない。
ただし、顕在意識は身の回りの物事の関係から抽象した表現なら意識できる。
潜在意識は意識できない意識である。
神経系の各段階での表現は潜在意識である。
感覚は意識されなければ常に潜在している。
身体の状態は情動として潜在し、感情として顕在化する。
記憶* も想起できれば顕在化し、保持されるだけであれば潜在する。
また、潜在記憶には手続き記憶* プライミング* 記憶等がある。
相手の動作に同調しなくとも、ミラーニューロン* は同調している。
顕在意識が動作を開始しようとする0.2秒前に潜在意識が始動する。『マインド・タイム*
自由意志* を問題になるが、すべての存在に時間の前後はなく、すべては同時に決定、確定している。
過去も未来も存在せず、決定はされるのであって、自由は存在ではなく、意識の問題である。
選択肢は多数考慮されても、実現する決定はその都度の選択である
顕在意識は潜在意識に封じられている。
潜在意識が感覚、感情、記憶を顕在意識として表現し、その意識表現を顕在意識が受容する。
目、耳、鼻、口、皮膚等の感覚器での神経信号がそのまま意識として表現されるのではない。
意識への段階を追って特徴抽出、記憶との比較等の処理段階毎に対象が表現される。
神経信号処理の各段階での表現は意識することができない。
潜在意識は神経信号表現の恒存性と再現性によって対象を個別として表現する。
神経信号表現に表現される恒存性、再現性は存在秩序を反映している。
存在秩序の表現は繰り返す経験によって検証され、経験も検証される。
潜在意識が必要な神経信号を統合して顕在意識を表現する。
潜在意識は対象の存在表現と受容した対象表現がズレないよう常に調整している。
神経や脳の可塑性* が意識世界の恒常性を表現している。
身体は成長、老化を基本に変化し続けるが、潜在意識は同じ自分を表現し続ける。
視覚には大きさの恒常性* 色の恒常性* が物の関係のつじつまを合わせている。
盲点で光が届かなくても、補って穴を塞ぐ* までしている。
新たな身体運動に習熟するには潜在意識が担えるまでの練習が必要である。
潜在意識は身体各所からの感覚信号の脳への到達時間のズレを調整して今現在を表現している。
潜在意識が顕在意識を含む世界を表現している。
潜在意識は意識を向けなくとも、意識できる背景世界を描いている。
潜在意識は意識を集中する必要があるとき、必要のない表現を無視する。
慣れは意識しなくてもできるよう潜在意識が担っている。
慣れは慣れるほどに階調をなして深まるが、どうやってかの説明はできない。
錯覚* は潜在意識の表現であるから、錯覚と分かっても修正できない。
意識は思考して秩序を見いだす。
思考は受容する表現に秩序を予測し、結果から予測を検証する。
思考は受容した区別と関係の恒存性と、再現性からの秩序を表現する。
対象の秩序を見いだす思考は意識そのものの本来の働きである。
秩序を見いだし、秩序を利用して進化し、意識を実現した。
思考は秩序を区別と関係の論理として表現する。
問題を解き、答えを出すのは潜在意識である。
顕在意識の求める対象は潜在意識がその秩序を表現して明らかになる。
試験問題とは違い、実践での問題は答えが出てから明らかになる。
顕在意識の問題設定自体が潜在意識によって準備される。
思考も表現して意識できる。
言葉、図像等で表現しなくては自分が何を考えているか意識できない。
音声や文字を伴わない内言語は反省にとって特に重要である。
色の階調も色名* で区別でき、ワインの味も言葉* で深まる。
閃きは潜在する思考でもたらされ、表現されて顕在意識に受容される。

思考の対象世界は二元からなる。
物心二元論ではない。
「心」も「精神」も意識が意識する対象であり、意識ではない。
プディングは食べて確かめられるが、致死毒は食べるわけにはいかない。
感覚の対象世界が実在と感じられるが、思考の対象世界こそ実世界である。
一元論を否定し、唯物論を止揚する。
感覚は物質からなる一元世界を表現している。
あたかも眼で対象を見ているかのような一元の表現が対象操作を容易にしている。
しかし、感覚で捉えることができるのは幾重にも媒介された表現でしかない。
唯物論の成果を踏まえた上での二元論である。
実態については科学が物質として解明を進めている。
表現は存在とは認められていないが、実態と共に実現する存在である。
表現される秩序を識って、秩序表現を踏まえてこそ、実態を識ることができる。
現代唯識論は存在としての表現が主要な問題である。
表現が実態とともに存在の元をなす。
実態が相互に作用して存在を実現する。
表現は根源的であるとともに、最も発展した表現が意識である。
受容できるのは表現であり、表現だけが知りえる。
故に、世界は唯識である。
実態は受容の対象でなく、不可知である。
すべての科学は物質ではなく、データ表現だけを根拠にしている。
科学理論* もすべて仮説である。
自然科学では存在の基礎である物質* を定義できず、物質は哲学的に定義される。
カントは実態を物自体* と表現した。
論理実証主義は表現である言語のみを対象とした。
実態は表現される論理によってのみ理解できる。
論理は存在が実現する秩序表現を反映する。
同一律* 排中律* 矛盾津* 推移律* は秩序表現の、そして論理の基底である。
存在は秩序の実現である。
実態は存在秩序の実現として表現され、受容できる。
実態の存在は全体のエントロピー* の増大と局所的エントロピーの減少を表現している。
エントロピーは混沌性、区別と関係の秩序度を表現する。
存在は全体秩序が失われるなか、個別秩序を実現する。
全体秩序が失われるのは熱力学第二法則* として表現される。
全体は秩序が失われ、混沌へ向かって平衡化過程にある。
個別秩序は平衡化過程にあって散逸構造* として実現する。
散逸構造は非平衡開放系として保存され、区別され、表現される。
存在秩序の発展として宇宙の歴史が実現している。
個別秩序は区別と関係の実現である。
相互作用は分化し、相互連関し、構造化し、階層化して歴史的に発展してきている。
その相互作用は極微から極大まで稠密な存在を実現している。
存在の相互作用は多様な区別と関係のすべてを表現している。
実態は存在の全体であり、部分としての個別を実現する。
実態は物理でのエネルギー* とも解釈できる。
エネルギーは膨張して温度と圧力が下がるに従って区別と関係の秩序を実現する。
エネルギーは質量と等価* で相互転化する。
存在秩序は相互作用である。
存在は相互作用として現れ、表れる。
存在の基礎をなす物質は相互作用して実現している。
物理的物質の相互作用は今日四つの基本に区別されている。
物質の相互作用を基礎にすべての存在が実現している。
相互作用しない存在は意識が描く表現=観念としてのみある。
世界は相互作用として展開する。
世界は相互作用の確定過程としてある。
相互作用には前も後もない、現在進行形の実現している過程である。
物質は相互作用して物理量* を確定する。
相互作用が実現するまでは「ゆらぎ* 」、「重ね合わせ* 」、「もつれ* 」等々と表現される。
存在は環境条件の偶然を介して、必然の秩序を実現する。
存在のすべてが共に実現、出現し続ける過程にある。
存在のすべては今現在相互に連なってある。
時空間は秩序実現の形式表現であり、実態ではない。
過去も未来も存在しないから確かめようがない。
世界は相互作用の区別と関係を表現する。
物理的相互作用関係が空間と時間を定め表現する。
時空間は相互作用関係の秩序表現として存在する。
秩序関係の表現であるから多次元時空間* 位相空間* も表現される。
秩序関係の表現であるから虚数時間* 陽電子* の遡及する運動として表現される。
時間は関係表現であるから、過去、未来との相互作用はありえない。
過去は現在の化石、古文書等の遺物に媒介される表現として存在する。
実態は環境条件に応じて相互関係を確定する。
物質は他との相互作用に応じて波動と粒子の相反する一方を表現する。
物質は圧力、温度の環境条件に応じて相が気体、液体、固体と変化する。
物質は相互に作用して物理量が確定し、表現される。
相互作用は実態を実現し、表現する。
存在は相互作用の実現であり、存在の有り様であり、実現の有り様である。
実現は「実」を現すのであり、「実」を「実態」とし、その「現れ」を表す。
実態は表現対象として受容できる。
人は受容されることを前提に、様々な対象表現を媒体に用いて表現対象を示す。
表現対象は表現される対象である。
意図しての表現の意図が表現対象である。
表現対象は実態ではなく、表現されるだけである。
対象表現間の秩序から実態を識りえる。
表現される世界を受容しても一面でしかないが、表現から表現の実現過程を理解して、表現の構造、裏面を含めて理解することができる。
表現の仕組みを理解できるから3D映像が作られる。
テレビは画面の映像を鑑賞するだけでなく、放送作品の制作、放送・表現技術を知って制作者の表現意図を理解できる。
表示画面の中に描かれる人や物は存在しないと理解できる。
実態の表現が本質であり、表現は現象である。
本質も現象もともに表現である。
実態は存在する物事の本質を表現し、表現は現象する他との区別と関係である。
本質を表現する存在秩序が、他との相互作用である現象に表現される。
物事は内面と外面の関係に表現され、「内面」は秩序の機序であり、「ソトヅラ」は他との区別と関係を表現する。
実態は構造化し、階層化する。
実態である物質秩序は構造化し、階層をなす。
相互作用関係の恒存が構造を実現する。
散逸過程に相互作用関係が開放系として保存されて構造が実現する。
宇宙が膨張* し、温度と圧力の低下に伴って相互作用が分かれ、組み合わさり、素粒子、原子、分子と物質進化を実現した。
引き続き化学反応を多様化させ、有機化学反応系へと分子進化を実現した。
さらに有機化学反応系は生化学反応代謝系、細胞系、多細胞系から情報処理系へと生物進化を実現した。
生物は人智を超える見事な物質代謝* 系を実現し、更新している。
意識も表現を受容し、意識自らを表現している。
物質の階層は物理、化学、生命、文化の大きな区分からより小さな区分の重層をなす。
実態の構造、階層は相互作用の表現である。
相互作用自体の秩序が破れて、分化し、構造化し、秩序を実現してきている。
それぞれの階層で組合せの質と量で異なる実態を実現している。
実態として階層ごとに規定された相互作用を担い、階層に応じた存在表現になる。
物理的階層だけでなく、意識も含むすべての階層で存在表現が重層する。
受容される表現も階層構造をなす。
階層表現の受容によって個別性が選択される。
個別性の受容によって他の階層は捨象される。
ミクロの振動エネルギーはマクロでは* として受容される。
ミクロの運動エネルギーはマクロでは圧力* として受容される。
熱、圧力として受容する側もマクロの構造体である人が担うる。
実態の検証は原理的に不可能であるが、存在表現も人間の科学で受容仕切れていない。
ブラックホール* は見ることも、触れることもできず、直接観測できない。
暗黒エネルギー* 暗黒物質* 量子もつれ* 超ひも* Dブレーン* 、生命の誕生、意識の実現等基礎基本は不明である。
これらが明らかになっても、さらに不明な基礎基本がある。
表現は受容と双対する。
表現と受容の双対は相補関係である。
表現は実態とともに相互作用で実現し、翻って表現は受容と双対する。
表現があって受容され、受容されなければ表現はない。
表現と受容の双対は認識の素の関係である。
表現と受容の存在関係が発展し、意識が実現して認識になる。
表現と受容の双対は認識以前の存在関係からある。
表現は存在の区別と関係である。
相互作用関係は互いに受容されて表現される。
存在は他との区別を表現して受容される。
例えば、文字は人に受容され、読まれて文字としての表現である。
受容されない、読まれない文字は印、シミであることさえない。
知覚されなければ存在しないとの独我論さえ生じる。
個別の表現は受容によって規定される。
個別は階層表現の選択に応じて対象化される。
例えば、金属塊も原子レベルではほとんど空洞である。
相互作用で表現される距離、時間は受容によって規定されて測られる。
さらにその際、測定する尺度自体を受容側が規定する。
例えば、海岸線の長さ* は尺度によって異なる。
受容側、計測者が計測手段を、精度を選択する。
そして、対象として特定する。
表現と受容は実現し、保存される。
存在のすべては相互作用として実現しており、相互作用はすべて表現と受容である。
実態を知ることはできなくとも、存在のすべては表現されている。
表現は存在表現と対象表現である。
存在表現は表現媒体の表現であり、対象表現は媒介される表現である。
存在表現は実態を直接表現する。
存在表現は全体に対する部分の表現である。
存在表現は全体に対する部分の有無を表現する。
存在表現は他に対する個別性を表現する。
相互作用は互いの存在を個別として直接表現する。
物理的存在基礎であるエネルギーは一般に「仕事をする能力」と説明されるが、他と区別される関係では定義されていない。
存在としてのエネルギーは相互作用を実現する元と解釈できる。
エネルギーは相互作用を実現する元であって、実現する対象ではなく実態の表現である。
エネルギーの相互作用によって粒子、あるいは波動が実現し、表現される。
存在表現は表現の媒体表現である。
表現自体が媒体と表現からなる。
言語学では言語の二重性* として存在表現は能記、対象表現は所記として区別する。
あるいは、シニフィアン* シニフィエ* と表現する。
存在表現として文字は字形の区別を表現する。
文字の実態はインクと用紙の空間配置の表現、ディスプレイ画素の明暗配置等の表現媒体である。
漢字である「字」の存在表現は偏旁冠脚の形組合せ、画数等の表現である。
対象表現として文字は読み、意味を表現する。
漢字である「字」は読み「ジ」又は「あざ」、「あざな」の表現を媒介する。
さらに、漢字の「読み」は音訓の区別、使用時代の違いも表現する。
対象表現は互いの区別と関係を表現する。
存在表現は受容されて対象表現になる。
存在としてではなく、受容の対象としての対象表現である。
光はそれ自体が電磁波、あるいは光子を直接表現する。
電磁波、光子は他の相互作用場との区別を表現する対象である。
電磁波は振幅、波長、位相表現する。
光子は位置、方向を表現する。
ひるがえって、「光」も言葉による表現の対象として対象表現になる。
対象表現は相互関係として区別と関係を表現する。
エネルギーは質量と相互転化するから、質量がエネルギーの対象表現であると解釈できる。
エネルギーの存在表現は相互作用力である。
存在表現である相互作用力は対象表現として電磁力、弱い力、強い力、重力の四種類に区別される。
宇宙膨張を加速する暗黒エネルギーが第五の相互作用力の対象表現であるかも知れない。
それぞれの対象表現は他との相互作用関係で表現を確定する。
対象表現も存在を表現して表現を重ねる。
存在表現と対象表現の区別は実態が実現する階層毎に相対的に区別される。
原子は分子を構成する実態の存在表現であるが、分子の構成要素として対象表現である。
原子は実態である存在表現の核子と電子からなる構成物としても対象表現でもある。
いずれにしてもこうした言語表現として、このすべては対象表現である。
受容と切り離される実態は表現できず、識ることのできない対象である。
相互作用は相互の関係と、継起、並起する相互作用間の関係を実現し、表現する。
これも相互関係の直接表現と、関係の関係の間接表現である。
相互関係の直接表現は即自であり、関係の関係の間接表現は向他、対他である。
相互作用は単独ではなく、相互に連関して存在のすべてを実現し、表現している。
相互作用は作用する双対関係を表現する。
双対関係は相互の媒介を表現する。
相互作用による存在の表現ではないが、双対関係の表現として押印を例にする。
押印されなければ印面は可能性としてあっても印影ではない。
押印されないハンコは工芸美術品でもありえるし、柘植、角、チタン等の塊でありえ、さらに分子、原子ではハンコの存在表現はない。漢委奴国王印は国宝として評価される。この価値評価が存在表現とは別な対象表現の存在を実証している。
押印されなければ印面は彫られた形だけの存在表現に止まる。
押印によって印面と印影の対象表現が実現する。
印面と印影とは押印に媒介されて実現する対象表現である。
印面と印影とは反転した鏡像関係の対象表現として双対する。
印面は印材に媒介され、印影は文書に媒介されて対象表現される。
印面の対象表現は押印に関わりなく保存されるが、押印により印影証明の根拠を表現する。
対象表現の価値は受容されなくては存在しない。
押印の相互作用実現ではハンコと文書がそれぞれ印面、印影の対象表現を媒体する存在表現としてある。
この印面と印影の例は人が制御する押印行為であり、対象表現の双対関係の説明に適している。
相互作用の表現実現、双対関係の典型例は電子、陽電子の対生成がある。
対象表現は相互作用する互いの区別を間接表現する。
電子と陽電子は互いに対立する電荷の違いを表現する。一方は陰電子であり陽電子ではなく、他方は陽電子であり陰電子ではない。
「陰・陽」は相反関係を区別する表現であり、どちらを「陰」、「陽」のどちらで表現するかは発見史の問題である。
「陰・陽」は互いの区別、「電子」は他との区別を表現する。
相互作用は継起して経過を表現する。
相互作用は継起し表現は媒介されて継承される。
押印された印影はコピーされて別文書の表現に継承される。
意識を実現する神経信号処理表現は分子、細胞、神経系と各階層での情報伝達に表れる。
分子間の情報伝達も細胞の各所で系統立って複雑に構成されている。
遺伝情報はDNAの塩基列に保存され、世代を超えて複写される。また、RNAに複写され、アミノ酸からなるタンパク質を作りだし、生体や酵素になって表現型* を表現する。
継起する相互作用に媒介されて過去の対象表現も継承される。
先行する相互作用は原因を表現し、継起する相互作用は結果を表現する。
原因結果は必然とは限らないが、相関する。
因果は偶然であても、相関関係に止まらない継起関係の表現である。
対象表現は媒体変換を経て伝わり、保存される。
視覚は対象と直接相互作用するのではなく、光を媒体として知覚する。
光による物体表現はカメラで電気信号表現に変換され、画面表示へ、網膜像へ、視覚野での解析表現をへて意識表現へ変換される。
変換の際に媒体の存在表現に重ねられて対象表現は変容しながら伝わる。
特にアナログ変換は表現媒体の性質によって表現を変容させる。
デジタル表現であれば信号の表現規約さえ守られるなら、対象表現は完全に保存される。
規約=プロトコル* は送受信、表現と受容とを論理的に規定することで情報処理の基礎技術になっている。
累積する過去の対象表現は重なって次第に薄れ、やがて消失する。
ただし、表現全体は表現一般として実態とともに永遠である。
対象表現は表現媒体の変化によって消えても、媒体自体は消えることなく変化する。
文書は燃えても痕跡を残し、灰になったら灰であると表現し、文書であったことを表現する。
技術を用いて灰からも文書表現を読み取ることができるようになる。
相互作用は並起して時空間を表現する。
相互作用はすべて連なって実現し、時空間を表現している。
相互作用は変化を表現し、対象表現の形式的変化が時空間である。
単独の相互作用は経過を表現するが、相互作用間の連なりは時空間の広がりを表現している。
相互作用の並起の度合いも秩序を表現する。
より強い相互作用の結びつきが秩序を実現し保存される。
非平衡散逸過程にあって保存されるのは相互作用関係がより密接な開放系である。
開放系である細胞も膜を作って内外を区別し、表現する。
散乱することなく面に反射する光は束になって面の形、明暗を表現する、
相互作用の秩序は個別を表現する。
対象表現は他に対する区別として部分、個別を表現する。
太陽からの光は媒体として同じであっても、地上の様々な光景を間接表現している。
対象表現は区別であり、境界である。
表現しているのは他との区別であって、存在の次元を一つ下げる。
三次元の立体物であってもその表現は境界面の二次元である。
ホログラフ* であっても二次曲面の立体像であって、三次元である立体の内部まで表現していない。
ホログラフは存在表現ではない。
干渉縞は縞であって干渉ではない。
対象表現自体が表現構造をなす。
対象表現は直接表現と媒介表現の階層をなす。
直接表現である文字は何に書かれようが、何で書かれようが、書体が異なっても記号として同じ表現である。
文字は対象表現の媒体であり、媒介関係が順に重なって句、文節、文、文章、意思、思想へと表現の階層をなす。
対象表現は媒介する各階層毎に定まり、それぞれの秩序関係を表現し、保存する。
読み手による多様な解釈は表現の問題ではなく受容の問題である。
対象表現は相互作用の継起で重層する。
継起する相互作用毎の表現が追加され重なる。
並起する相互作用の表現が干渉する。
対象表現は重層して相互関係が多様に受容される。
一つの対象表現が多面的表現として受容される。
光の束は像を表現するが、その像は色形、材質、位置を表現する。
対象表現の構造は関係の関係を表現する。
対象表現間の関係が関係の存在を表現する。
存在関係の表現が対象表現として秩序を表現する。
時空間は存在関係の秩序表現の典型である。
秩序表現間の関係表現はは数量関係、論理関係も表現する。
すべては存在を表現し、他との区別を表現している
存在しなければ表現されようもない。
表現は単に意識に受容される影ではなく、客観的相互作用表現として存在している。
存在は相互作用でどのように変化しても、変化に応じてすべてを漏らさず表現している。
相互作用はエネルギーの運動表現であり、存在する総エネルギー量は保存され、増えも減りもしない。
ただし、非局所的なもつれた量子に表現はなく、受容、観測できない。
量子の表現は存在の理解に関わり、本質的問題として残っている。
表現が存在するから表現を受容する主体として意識が実現し、存在している。
対象表現が客観的存在であるから主観としても認識できる。
錯覚が錯覚であると認識できるのは、表現が客観的に存在するから受容との差異を区別できる。
意識も存在であるから表現を受容し、存在を認識できる。
痛みは脳神経信号処理による表現でり、幻肢痛すら存在する。
肢は存在しなくとも痛みは脳での神経信号処理表現として存在する。
「逃れられない苦痛」は表現の存在証明を必要としない。
対象表現は表現世界である。
今現在の表現・受容対だけが存在する。
受容できるのは今現在双対している表現だけである。
「過去」も、「未来」も存在しないのであるから、「今現在」は今現在しかない。
「過去」、「未来」は存在表現ではなく、秩序の対象表現として存在する。
宇宙背景放射は138億年たっても今現在の表現である。
対象表現の基本単位が信号である。
信号は人工物に限らず、物理過程、生理過程でも情報処理を担う。
信号は背景との区別と他との区別を表現する。
信号は背景と区別される個別を媒体に表現される。
信号は信号間の区別と関係の形式を規約化して表現する。
信号は背景と区別が規約表現されれば、複合される媒体、抽象的表現でもよい。
信号は対象表現間の秩序関係を規約化して表現媒体にする。
存在秩序が表現されているから、人は言語を習得できる。
煙は規約として火のあることを表現し、狼煙の表現媒体になる。
言語はコミュニケーション規約の典型である。
記号は人のコミュニケーションから生まれた規約化された信号表現である。
情報通信技術の規約は発展して、匂いや味までも再現しつつある。
人工知能の実現を否定する根拠は人間の自負心の存在だけである。

表現世界は存在一般である。
一般は表現としてであって、実態はすべて個別である。
一般は一つの表現で他のすべてとの区別を表す。
存在はすべて表現している。
存在は意識にかかわらずすべての区別と関係を表現している。
表現は人が受容、知覚しなくても存在すべてを表現している。
表現は存在するのであって、誰かによる表現以前に、何かの表現以前に、存在一般の有り様である。
表現は区別と関係であり、個々の表現は端的、明確である。
区別と関係が明確でなければ表現にはならない。
表現が曖昧であるのは表現する者、受容する者の解釈の問題である。
解釈にかかわらず表現は端的、明確に存在する。
端的、明確でない例外はもつれた量子であり、それは表現されない。
非局所性が端的、明確を否定している。
対して受容は表現の一面、一部であり、それも鮮明とは限られない。
表現と受容が双対していても対象表現のすべてを受容しない場合がある。
観測であっても設定した物理量だけを、設定した精度でしか測定できない。
測定も相互作用であり、一度に一つの関係表現だけを受容する。
すべての相互作用関係は重層し、重複している。
存在表現と対象表現は秩序でありながら混沌でもある。
秩序は明確な区別と関係であり、混沌は相互の関係を区別できない。
フラクタル次元* は整数次元の秩序も含み、混沌と秩序は論理的にも両立する。
存在の相互関係、媒介関係の表現全体は人にとっては混沌でしかない。
人の視点を取ることで、人にとっての物の存在秩序が捨象されて見えてくる。
秩序は存在の内にあり、混沌は相互の関係にある。
究極の秩序は唯一の対称性で区別がない。
究極の混沌も多様でありながら、区別は一様に失われている。
表現一般は区別のない混沌である。
表現一般は一様、等方である。
宇宙原理* は一様性と等方性である。
物の存在はヒトの感覚を超える多様な性質を表現している。
多様な性質の表現はヒトにとってであり、存在全体は一様、等方である。
ヒトが受容できるのは表現の極限られた一部分である。
一様、等方な表現一般は限定されて個別を表現する。
全体秩序の対称性が破れて存在表現は個別化する。
表現一般の限定は区別と関係による存在の特殊化である。
光は一般に明暗の階調を表現している。
光は波長を特殊化することで多様な性質を表現し、錐体* 細胞の区別で色も表現する。
方向に定まりのない散乱する光一般も、絞りの限定で背面に像を結び、表象を映す。
混沌の表現を受容して対象が定まる。
受容表現を対象化して対象性が定まる。
対象の受容で基点が特定し、方向、対象性が定まる。
元々、表現と受容は双対して実現する。
表現一般は対象表現としての受容で選択される
表現と受容の双対関係は対象表現の受容で対称性が破れる
左右、上下、前後等は基点が定まることで区別を表現する。
受容する対象表現の階層を選択して個別としての対象性が定まる。
分子の運動が圧力として、速度が熱として受容される。
空気分子のまとまった流れの表現が風として受容される。
動物は操作することで対象を個別化する。
ヒトは操作して個別化した対象を意識に表現する。
操作はすべての感覚を動員して対象を個別化する。
ヒトも一つの感覚で経験するだけでは知覚能力を獲得できない。
臨界期* までに利用できるすべての感覚の体験が必要である。
受容者にとっての表現が選択される。
人は存在するだけでなく、生活することで生死を軸に受容する時空間を定める。
専門家も対象を選択して分野が定まり、分野が定まって対象の分節* 基準が定まる。
対象化で受容主体が定まる。
主体は対象表現を受容して表現全体を制限、捨象する。
意識の対象化は個別表現以外のすべてを捨象する。
動物進化での感覚能力の獲得は表現受容の発展史である。
生活環境条件に応じて感覚能力を獲得し、獲得した感覚能力で環境条件に対応する。
最も発展した受容主体がヒトの意識である。
表現をどのように制限して受容するかが、意識の記号接地問題* となる。
受容の設定によって表現は主観化され、個別は意味づけられる。
対象表現を主体との相互関係に受容することが意味づけである。
「意味」、「価値」は客観的存在ではなく、「意味づけられ」、「価値づけられ」、「見いだされ」る対象表現である。
同じ文章でも読み手の受け止めは異なる。
存在すべてが表現であることにより、逆立ちして受容すると汎神(心)論を抱く機序になる。汎心が意思を表現する。
ヒトは生活経験を意識表現として受容している。
同化と異化の統一である代謝秩序制御で意識が進化してきた。
自らの代謝秩序の制御には環境秩序、対象秩序への対応が基礎、基本である。
環境秩序表現、対象秩序表現を受容し、自らの代謝秩序との整合を意識は表現する。
最先端の科学的成果も、科学者の日常経験で獲得した認知能力が基礎にある。
意識は進化して世界感を獲得した。
潜在意識が表現する顕在意識が世界感である。
世界感の表現が意識である。
唯識論はもっぱら世界感の受容である。
世界感を反省できなければ唯識論を超えることはできない。
唯識世界に止まっていられるのであれば、悟れるのかもしれない。
唯識される世界感を探って、人類の認識は発展してきた。
世界感の反省は世界感の表現を実現している秩序を探ることになる。
意識は世界感を論理で超える。
論理は区別と関係の秩序を表現する。
論理は単に個別を対象にするだけではなく、個別間の関係と全体の関係を表現する。
論理は個別対象を要素と定義し、要素間の区別を集合と定義して関係を表現する。
対象秩序の論理による表現が法則である。
法則による対象秩序の説明が理論である。
法則と理論による表現が対象の理解である。
法則と理論による世界理解が世界観である。
世界観は論理によって表現される。
世界感を論理に従って反省して世界観を表現する。
人間は論理で世界観を獲得する。
秩序は他が変化しても不変な恒存として実現する。
あるいは、秩序は変化の中に度々の再現として実現する。
しかし、表現される恒存性も再現性も完全ではない。
世界は歴史的過程として実現し、ゆらぎがあり、必然であっても偶然を介している。
しかも、受容する表現は視点、方向によって異なり、受容能力にも制限がある。
ヒトの感覚は表現媒体のごく一部分を受容できるだけである。

人類は世界秩序を表現する科学を培ってきた。
人類はより広く、より深く世界の秩序を明らかにしてきている。
人による世界表現の受容はヒト以前の認識進化の過程を引き継いでいる。
科学は普遍性によって非科学を区別する。
科学は対象にする世界、担う人々、成果の表現すべての普遍性を追求する。
ただし、科学者であっても脳神経信号処理に媒介された表現を受容できるだけである。
表現を受容できるだけであるから科学も唯識である。
表現の元にある存在に直接できず、不可知論が成り立つ。
しかし、「知る」ことが対象秩序の表現受容であれば可知である。
また逆に、意識をイリュージョン=幻想であると* 存在否定することもできる。
しかし、幻想であっても「幻想」が存在するから知覚する。
クオークを直接観測できないが、痛み、痒みからは逃れられない。
科学も歴史として発展している。
科学は人類の普遍的社会的認識である。
科学の発展史には誤りもあれば、先取りもある。
自然科学の対象表現も歴史的に変化する。
熱素* は燃焼の説明のための空想だった。
波動である光の媒体としてのエーテル* は否定されたが、電磁場として復活した。
古代ギリシャの原子は分子、原子、素粒子と変遷し、ヒモ、超ひもになる可能性がある。
「物質」は存在の5%にすぎず、残りを「暗黒物質」「暗黒エネルギー」と名付けても実態は不明である。
波動でも粒子でもある量子、その量子の非局所性* を人は理解できない。
区別の関係から空想でき、科学的発見も導かれる。
対象表現の関係として秩序に反する表現もする。
馬と翼の組合せからペガサスが、角との組合せからユニコーンが想像された。
対象表現を否定して、非存在も表現できる。
自然科学の対象も空想の対象も表現としては同じである。
科学も世界の表現から普遍的秩序表現を抽象しているに過ぎない。
論理だけで表現される数学* 世界ですら全体を解明尽くせていない。
科学は媒介された表現であるデータを根拠にしている。
認識の進展には未知との遭遇がある。
未知と既知とを整合させて普遍性を回復する。
認識の進展には解釈間に亀裂が生じる。
解釈の裂け目の底を探査してさらなる普遍性へ掘り下げられる。
受容できる普遍性は尤度、尤もらしさであり、普遍性によってより尤もな理解をえる。
科学は科学の限界を理解する。
論理学には不完全性定理* がある。
物理学には不確定性原理* がある。
社会学には不可能性定理* がある。
科学も完全はなく、完成もない。
世界は理解するのであって、「世界を理解できた」との完了宣言は世迷い言である。
科学は相互作用の表現に秩序を見いだし、理解し、論理で表現する。
科学の誤りを正せるのは科学である。
非科学は経験則を普遍化せずに絶対化する。
非科学は一端認識した秩序表現を「教義」等として絶対化する。
似非科学は秩序表現の論理をねじ曲げる。
似非科学は存在の相互作用関係を欲得で歪めて解釈する。
科学も世界の表現だけを受容している。
世界の表現を唯感じ、唯解釈するなら唯識論を超えられない。
もつれた量子の非局所性は位置を観測できない。
観測を拒否する量子世界の存在を否定はできない。
唯物論も唯識に捕らわれては世界を理解できない。
唯識であることを前提に科学も始まる。
世界は科学を踏まえて生き、解釈するところである。
満足できる解釈に至って、満ち足りる。