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第三部 第二編 実践

第6章 課題


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第6章 課題

人間性はまず主体性である。主体性は課題の意識的追求である。課題を評価し追求する者として主体性は実現する。世界観は世界を観照するのではなく、主体として働きかける世界、主体を実現する世界での課題を評価する。世界観は実践論を課題論で締めくくる。[0001]


第1節 課題一般

当面の課題は理解するまでもなく遂げなくては生きていけない。乾けば飲む。飢えれば食べる。考える以前に生理的課題を達成しなくては生きていけない。意識するまでもないが、意識的課題に比べるまでもなく重要な課題である。人は進化の過程で獲得した能力により、意識しなくても日常生活の課題をこなしている。[1001]
意識しない課題もあるが、人は課題を意識することで主体的に生きる。意識しないで日々こなしている課題も改めて意識することで主体性は健全になる。人間の現実変革能力が自然環境を破壊するまでになった現在、生きることが社会的に決められた役割を果たすだけになってしまっている現在、主体的人間の課題を全面的に意識する自覚的生き方が求められる。[1002]
人は対象に秩序を見いだすことで未来を見通し、実現すべき未来を選択する。求める未来の実現を課題として意識する。課題は目指す目標であり、目標を実現する手段である。課題を目標と手段として具体的に意識する。[1003]

非日常的課題の見通しは難しい。動転する危急への対応では課題を理解することから難しい。世界観は非日常的課題も普遍性を追求することで見晴らす。世界観は実践主体を点検することで主体に関わる課題を整理し、優先順位をつける。[1004]
動的に変化する状況で優先順位は難しい。対症療法を選ぶか根治療法を選ぶのか。応急なら対症療法が優先されるが症状が安定したなら根治療法が大切になる。症状安定の見極めが難しいから、あるいは判断を放棄するから問題になる。対症療法をとり続けることで問題をこじらせてしまったり、対症療法の結果に対処するためにますます悪化させてしまうこともある。自分の関わる問題、自分の対応できる課題だけに限定してしまうこともある。社会問題の場合には歴史的経過もあるから判断は簡単ではない。[1005]
全体を見通すことは難しいし、常に全体に目を向けることも難しい。見通しの立たない課題は評価が一定せず、動揺する。見通しの難しい全体に対して完全性と健全性とを頼って評価する。[1006]

【課題の体系】

課題は体系をなす世界秩序を表現する。普遍的課題から個別的課題への体系である。世界の存在意志があって人間の課題を規定するのではもちろんない。世界秩序の有り様からそこに生きる人間が課題を見出す。人間が主体的に生きようとするとき、課題は世界の存在秩序として表われる。人間の主体性なくして課題など存在しようがない。[1007]
物理化学的存在として、生物として、社会的存在として、精神的存在として、文化的存在として人が主体的に生きることに課題が現れる。世界の秩序を利用して人間が生きる秩序に変換する課題は世界秩序の体系としてある。世界の秩序は階層をなし、階層間で相互に規定し合い、多様な物事が互いに規定しあっている。特に人間の現実変革能力の拡大は物理化学的存在課題が地球環境問題として、エネルギー資源、エントロピー問題として最も普遍的な課題を提起する。人類の存続に関わる問題として最も普遍的な課題である。ただ人類にとっての普遍性であって、地球生物にとっての普遍性ではない。人類が生き残れない地球環境になっても地球生物は生き残る。[1008]
社会存在としての人間の基礎的課題は社会代謝系にある。人類、国際間、国内、地域、職域、家庭といった規模で区分できる社会代謝系の課題がある。それぞれの規模の代謝系を維持発展させる課題がある。[1009]
個人にとっても課題は体系化すると見通しやすくなる。人生の課題、幼年期、青年期、壮年期、老年期それぞれの年代の課題、中期的に取り組む課題があって、日々取り組む課題がある。成長し円熟していく段階をなす過程がある。主権者として、様々な社会的役割を担い、家庭を担う者としてのそれぞれの課題がある。社会的存在の階層性に基づく課題がある。[1010]
課題は形式的に体系化できるが実践的には体系とは別に優先順位が決まる。将来課題と当面の課題が区別され、順序づけられる。順序づけられた課題も進捗状況によって、変化する環境条件によって優先順位が変化する。当面の課題であってもまず取り組む課題と余裕のあるときに取り組む課題がある。集中できるときに優先して取り組む課題と疲れているときにでもこなせる課題がある。[1011]

【課題評価基準】

課題評価基準に完全性と健全性がある。足りないことのない完全性と、余分なことのない健全性である。完全性は必要条件であり、健全性は十分条件である。完全性は外延に関わり、健全性は内包に関わる。課題追求での完全性は「完全なこと」ではなく「より完全であること」であり、健全性も「より健全であること」として評価基準になる。[1012]
評価する対象は秩序である。より完全な秩序、より健全な秩序を基準に追求する。世界の自然秩序、社会の運動秩序、人の生活秩序、人にとっての価値秩序である。部分的ではたちまちのうちに秩序は崩れ去ってしまう。自己組織化する全体性が秩序の完全性である。余分を含む秩序は歪んでやがて崩れ去ってしまう。余分な歪みを是正する秩序が健全性である。それぞれの秩序での完全性と健全性のフルイによって課題をすくい取る。[1013]

自然秩序は自然科学に学ぶことができ、技術によって確かめることができる。自然秩序の完全性は理論法則として理解できる。自然科学法則はより普遍的な理論へと完全性を追求してきた。対象相互の規定関係をより詳細に明らかにすることで、全体の普遍的規定を法則として表現する。全ての規定関係を欠けることなく整合させることで完全性を追求する。理論法則の完全性は予測結果によって確かめられる。理論法則が時と場所にかかわらず再現することで検証し、再現する環境条件を検証する。科学は秩序を法則として明らかにすることで完全性を追究する。技術は必要な法則だけを組合せることで健全性を追求する。[1014]

社会の運動秩序は社会代謝秩序である。自然環境、自然条件にあって人々に必要な物事を生産し、交換し、消費する代謝秩序であり、代謝秩序を維持発展させる秩序である。社会代謝秩序実現にとっての必要条件を整えることが完全性を表す。持続的拡大可能な社会代謝を実現することが完全性の追求である。社会代謝秩序の無駄を排することが健全性の追求である。社会代謝秩序を妨げる奢侈、争い、欺瞞等は無駄であり不健全である。無駄でない余裕は社会代謝秩序を安定させて健全性に貢献する。無駄かどうかは社会代謝秩序への貢献が基準になる。[1015]
人は生活に必要なものを生産し消費する。生産しなくては消費できない。動物が餌を獲得できないと死んでしまうのと同じ道理である。人は社会的に生産し消費することで社会を成り立たせ、生活を成り立たせる。生活をよりよくするためには、消費する以上の剰余を生産する。経済学者がどのような解釈をしようが、生産しないで価値は手に入らないし、拡大する生産は剰余価値の生産によって実現する。この生産・消費秩序を基礎に社会代謝秩序が発展する。生産・消費から流通、信用秩序へ発展する社会代謝秩序の実現が完全性の追求である。生産、消費に必要なものを全て取りそろえることが代謝秩序の完全性の追求である。[1016]
よりよい代謝秩序は再生産秩序と剰余価値配分秩序としての所有関係の健全性である。再生産価値は生産条件に必要な更新と、人々の生活消費に配分されることで健全性である。剰余価値は生産の拡大、社会的価値の蓄積に配分されることで健全である。剰余価値が社会的に所有されることが代謝秩序の健全性であり、私消されることは不健全である。投機が荒れ狂い、生産活動を疎外する状況は健全ではない。社会代謝の健全性は搾取、収奪の廃止として実現される。[1018]
社会代謝秩序の完全性が実現するほど健全性が問題になる。より大きくなる富を健全に使うことは難しい。価値配分秩序がより制度化するほど制度に寄生し、制度を私物化する者が現れる。その手腕によって社会代謝秩序そのものまでをも崩壊させるほどに健全性を損なわせる。社会代謝秩序の健全性の追求は経済民主主義の追求である。社会の健全性が民主主義によって保証されるように、社会代謝秩序の健全性は経済民主主義によって保証される。[1019]
社会代謝秩序の完全性と健全性の追求はどちらも欠くことはできない。搾取の廃止と民主主義の実現がなくては社会秩序が成り立たなくなることは現実が示している。[1020]

生活秩序は日々の秩序であり、生活の基礎単位である家庭の秩序であり、人それぞれの一生の秩序である。家父長制などの家制度も家庭秩序の一形態で歴史的制約の中で人々の生活を支えたが、商品市場経済の普及によって社会秩序の桎梏になった。人々の思いがどのようであれ、経済発展としての社会代謝の有り様が家父長制を成り立たなくさせた。家族、家庭は人の思いによるのではなく、衣食住、養育の場として築かれる。社会代謝系の構成単位として衣食住、養育をまかなう家庭を築く。家系を絶やさず、家訓を不変に守ろうにも、衣食住、養育を無視して家庭を守れない。[1021]
家庭秩序の中心は両性関係であり、親子関係である。同性婚も両性婚の社会形式に準じることで社会秩序内で認められることを要求している。両性関係は生殖だけでなく、衣食住をめぐる関係であり、精神的関係でもある。異性獲得競争は容姿、身体的能力だけでなく、衣食住に関わる能力、社会的優位性、知性をも争う。そして通常の両性関係は子の養育に至る。[1022]
子の成長にはそれこそ家庭の完全性と健全性が表れる。肉体的、精神的な完全性と健全性である。五体満足は生物としての完全性であり、人間としての完全性ではない。人間の完全性はもてる能力を伸ばし、発揮することである。どう発揮するかが健全性である。持てる能力を腐らせるのは不健全である。愛し合うか憎しみ合うか、尊敬するか軽蔑するかは家庭の健全性を表す。[1023]

価値秩序はまさに完全性と健全性の基準である。価値観の完全性は普遍性である。より普遍的に世界を理解することでより普遍的価値を理解することができる。時や場所、文化や歴史の違いに関わらず発揮されるのが普遍的価値である。価値の健全性は即人間性である。健全な価値は取引される対象ではなく、人間そのものの有り様である。[1024]
その上で人間にとって必要な優先順位が価値の大小を表す。主観的必要性は人によって異なるが、普遍的必要性が客観的価値を表す。価値評価は時と場合で相対的であっても、時と場合を超えた普遍的価値が客観的にある。普段空気や水の必要性を感じないが、普段でも絶対に必要であり、不足した場合最優先に求められる。物質的価値だけでなく、社会的、精神的、文化的価値を欠かすことなくより完全に満たそうとすることがより人間的なあり方である。[1025]
価値観の健全性は体系性である。世界秩序を理解することで価値の体系性を理解する。体系をゆがめる不要なものをそぎ落として健全性を追求する。不要であるか、必要であるかの基準が体系性である。体脂肪は気候変動、栄養補給の欠乏に対して健康を維持するために必要であるが、多すぎれば代謝に負荷をかけ生活習慣病の危険を増す。同じ質の物事でも量によって要不要が違ってくる。要不要の基準は全体との関係であり、それぞれの体系によって決まる。[1026]


第2節 一般的課題

誰でもが関わる一般的課題がある。一般的であるから抽象的であるが、日常生活のすべてに関わる課題である。一般化すると大切な、具体的な課題へ焦点が定まらなくなるかもしれないが、より大きな全体から共通の課題に向けて集中することで本質に迫れる。一般的課題の追求は“元気玉”の使い手への修行である。あらゆるものから、あらゆる秩序をつたって気をもらい集め、大きな仕事をする。[2001]
理念は掲げるだけの目標ではない。理念は現実に実現する課題である。理念を現実と切り放すことは現状の肯定である。理念としてだけ立派な課題は夢想なのではなく、現実に対していないのである。[2002]

【平和】

平和は戦争がないという消極的状態ではない。すべての人々が自らの能力によって、自らの生活を実現できる状態が平和である。人々の能力の実現を妨げる、その意志を奪う社会は平和ではない。殺し合いがなくとも抑圧の存在する社会は平和ではない。[2003]
平和のための戦争はない。武力によって平和は守れないし、武力によって平和はもたらされない。平和は破壊ではなく、社会秩序を建設することで実現する。社会秩序の建設に武力は妨げになるだけで、役に立たない。社会秩序が乱れる隙を突いて武力が介入してくる。[2004]
平和は分割することができない。一方に戦争や抑圧の地域があり、他方に戦闘のない地域がある、そういう社会は平和ではない。地域を分割し、平和を分割することはできない。他の地域の平和の保証なくして、全体の、自らの平和の保証はない。[2005]
平和はすべての人々の生活を豊かにする基礎である。戦争は一部の者に巨万の富をもたらす。そのおこぼれに預かれるのは限られた者たちである。[2006]

平和主義者を「現実を無視する夢想家」と武闘派はさげすむ。「自らを守れない者に生存の権利はない」「武力をふるう者に対抗できるのは武力である」と武闘派は主張する。今日の武力行使は男同士の殴り合いではない。今日の武力行使は「まずい時に、まずい場所にいる」「付帯的損害」の被害者と、大量の難民と、肉体的精神的傷痍軍人を生み出す。この現実を見ずに勇ましさを競う者こそ夢想家である。武力を誇りたい者は誇りたい者だけで奮うがいい。武力をふるう者は秩序を創造できず、人の秩序を奪い、秩序を破壊する。勇ましさを誇っても何も生み出せない。[2007]
武力同士がすくみ合っている現実が全てではない。その武力関係で世界を支配しようとしているのは産官軍複合体である。甘い汁を吸っている者のために、血と涙を流せという分けを理解できない。現実は圧倒的多数の人々が生産し、交換し、消費する社会によって世界は成り立っている。生存の権利は平和の権利である。平和の権利を守るのは武力ではなく、秩序を創造する力である。[2008]

【人権】

人権は個人の権利ではない、人間の存在そのものに基づく権利である。人類の権利であって、すべての人が尊厳を持って生きる権利である。人間は類的存在であり、社会的存在であり、人間関係にあり、その人間にとって人権はある。人間にのみ認められ、人間によってのみ尊重され、人間によってのみ否定される、人間が全責任、全義務を負う人間世界の権利である。人権は意識しようがしまいが、無視しようが生きている人すべてが担う課題である。人権は人間以外の物事のせいにはできない人間存在の課題である。[2009]
天賦人権であり、人権は普遍であり、人の人権否定は自らの人権否定である。肉体的にも、精神的にも、意識においても対等な人間としての存在の尊厳である。人間の人間に対する人間としての尊厳であり、人間以外の物事と比較も交換もできない人間独自の価値である。動物は余計なことを感じず、考えず可能な限り生きる可能性を追求する。自然は人権など容赦なく、時に人間など抗しようもない力で荒れ狂う。すべての人権侵害は自然災害ではなく、人間によって引き起こされ、人間によって放置される。人権の抑圧も弱者にしわ寄せされ、弱者から現れる。障害者、被差別者、少数者、傷病人、子ども、老人、女性への人権侵害から始まる。だからといって人権問題は弱者の問題ではない。弱者への人権侵害が行われる社会では健常者の人権も侵害されている。[2010]

人権は人それぞれの持てる能力を伸ばし、発揮する権利である。人権は守るものでなく、伸ばし発揮するものである。能力は始めから備わっているものではなく、訓練によって、発揮することによって現実的な力になる。人の能力は人によって機会を与えられ、人によって環境条件を与えられる。人は親によって存在を与えられ、人に監護されて飲食でき、成長できる。物をつかむことも、歩くことも自意識もないうちから意欲して自ら訓練することで獲得する能力である。自らの記憶もないが、意識もしていないが見ることも、聴くことも、感覚は経験して獲得する能力である。肉体的能力は適切な訓練によって伸びる。感覚は繰り返し意識することで研ぎ澄まされる。多様な関係秩序を繰り返し対象としてとらえることで思考は深まる。繰り返す多様なコミュニケーションによって表現力は豊かになる。人は道具を使うことでその能力を桁違いに拡張できる。人の能力は質も量も限りがない。[2011]
人の能力は拡張性と多様性によって非常に柔軟な可塑性を現す。致命的でない器質的障害は人間存在の障害にならない。人生の途中で器質的障害を負っても障害を越えて新たな創造をできるのが人の能力である。人間関係に連なっている限り、人間として存在し、人に影響を与えることができる。慰めではなく、植物状態になっても家族を励まし、医術の発達を要求する。[2012]
身体障害者と健常者の違いは一見分かりやすい。しかし障害は身体だけではないし、人間の能力の一部の障害であって、人間の否定ではない。健常な能力を比べれば健常者と障害者に違いはない。健常者間の能力差は障害者との差以上に大きい。むしろ人を虐げて平気な身体健常者の方が深刻な情緒障害者である。障害の問題は障害があることではなく、障害によって社会的差別が行われることにある。[2013]
社会的差別は障害者の障害のない能力についてまで否定する。障害があることで全人格を否定したり、要監護者にしてしまう。人権教育といえば障害者に注目してしまう。障害があるのに頑張っている人に接して同情し、励まされ、自らが健常であることに感謝し、障害を負うことを恐れる。障害者が健常者以上に能力を発揮するとに驚き、感嘆することは、人の能力を見くびっている。障害にかかわらず、もてる能力の限界を追求する普遍性に感動はある。[2014]
人権の否定は他人に対してだけではない。障害を負ったり病気になった時、すべてを失ったとの思いは自らの人権否定であり、すべての人に対する人権の否定である。つらくとも、人権を擁護する圧倒的多数の人々が励ましてくれる。[2015]
障害も負わず、病気にもならないにもかかわらず、自らの能力を発揮し、伸ばさないことは人権否定ではないが、人権無視である。超一流を目指す人との比較ではなく、今できることをなし、よりよく目指すのが人間性である。人との比較は励みにはなるが、元々器質も、経験も、環境条件も違う人との比較は相対的なものでしかない。これまでの自分との比較であり個人的ではあるが、人間としての比較であることによって人間にとって絶対的であり、普遍的である。[2016]

【自由】

実践論、課題論での自由は実践主体の自由である。論理的自由が自由度とその値決定であるように、実践的自由は選択肢と選択である。物理的自由は取りうる状態の対称性が自発的に破れて定まる。実践的自由は可能な選択肢の評価と実現条件の獲得である。[2017]
実践主体にとって選択肢は秩序の組合せ可能性である。対象の秩序、対象と主体の関係秩序として主体を取り巻く客観的秩序がある。客観的秩序を無視することは夢想であり、実現しようとすれば破綻する。永久機関を開発しようとしてもできない。エネルギー効率を高める研究は自然秩序を利用して活動の自由を増す。誰の世話にもならない自由な暮らしはできない。誰の世話にもならない暮らしは人を納得させて奪うしかない。暴力で従わせるか、言葉巧みに騙すか、複雑な仕組みで煙に巻くか、何らかの人間関係秩序を手段に納得させて手に入れる。世界秩序の組合わせ可能性が選択肢であり自由の客観的条件である。[2018]

選択は主体による対象との関わりである。実在対象から離れた主観の観念対象との関わりでは選択のしようがない。主観は観念対象をそれこそ自由に規定できてしまう。主観は主観の対象に対して自由であるが、主観自体は決して自由ではない。主観は対象を選択するのではなく、空想するだけである。主観の自由は主観を実現する主体の経験によって規定されている。今までになかったものを想像する自由は、既知のもに変化を加えるのがやっとである。思想の自由など実在世界との関わりなしに何の価値もない。主観、観念は実在対象に重ね合わされて価値を表わす。[2019]
実在世界では主体であることが自由を実現する。なにものにも規定されない自由は偶然によって保障される可能性であるが、可能性であって実現性ではない。偶然に身を任せることが自由なのではない。偶然を実践によって確定することが主体の自由である。コイン投げでは表裏いずれかが偶然に出るが、第三の偶然を想定する観念的自由は実践的自由ではない。たまたまコインが立ってしまっても、たちまち手のひらの上でどちら側かに倒れる。実践的自由は投げることであり、その結果表裏いずれかの状態に確定する自由である。秩序の可能性を選択して組合せ、実現することが実践的自由である。「自由は必然性の洞察である」。[2020]
可能性の選択は無条件ではなく、世界秩序に従っている。やりたいことのために睡眠時間をなくせないし、寝てばかりいたのでは何もできない。睡眠は1日最大24時間から最低限生命維持に必要な時間の間にある。睡眠以外の多様な自由度との組合せで睡眠時間を決める。実践的には目覚まし時計を利用するか、自らの生理的欲求に任せるか、実現方法選択に迷っても現実に睡眠時間は決まり、定まる。地上を歩き回る自由があっても、どこへ行くかを主体が決定する。地上を離れる自由は飛行機等を利用することで可能になるが、一般人は定期航路を利用するしかない。自家用機を利用するにはさらに大きな秩序、飛行技術、免許制度、飛行機購入等によって空を飛ぶ自由度手に入れる。主体が利用可能な自然秩序、社会秩序、経済秩序を組合せて自由が可能になるが、どこへ移動するかは主体が実践的に決定する。天候が悪化すれば自由度は制限されるが方法、目的地を決定するのは主体である。実践主体は身一つ、意志一つであり、両立しない物事を同時に果たすことはできない。選択肢の可能性と選択決定とは相補的関係にある。[2021]
選択肢は主体的努力で拡大することができるし、あきらめることもできる。選択肢を拡大することが自由拡大になる。選択肢は対象秩序を理解する科学によって拡大し、対象秩序を組合せ利用する技術によって現実的になる。技術は物質操作技術だけでなく、物質制御技術を含むみ、肉体的技術と精神的技術からなる。また対象を操作する技術だけでなく、主体自身を制御する技術もある。[2022]
訓練によって技術に習熟し、技術によってより少ない訓練、労力で物事を成し遂げられるようになる。訓練自体が技術によってより効率化し、容易になる。繰り返される技術利用は心身の作業過程を道具に置き換え、客観的手段にする。訓練、道具の利用による能力の拡張は、自由獲得能力の拡張である。空を飛べるようにもなるし、海に潜ることもかなう。[2023]
技術の専門家である職人は一つの仕事にも用途に応じた多様な道具を使いこなす。微妙な違いを実現するために多様な道具を使い分ける。素人は様々な作業にそれぞれ特化した道具を買いそろえる。素人は道具を使いこなすのではなく、自らの能力を道具の能力に限定してしまう。特定の道具がなければ特定の作業ができなくなってしまう。技術は主体のものではなく取引される客体になる。技術が商品として提供され、購入するだけで技術を自由に用いることが可能にはなった。しかし特化した道具によって実践主体としての創造性を失い、技術を消費するだけの受動体になる。職人は道具を自由に使いこなし、素人は道具を購入する自由で喜ぶ。[2024]

選択肢を制限されて選択の自由はない。選択肢の様々な制限を洞察することも自由の要件である。自然秩序による制限、技術的限界による制限、歴史的社会的制限、政策的制限、主体自身の思い込みによる制限、主体性の減衰による制限等がある。[2025]
政策的制限は分かりやすい。政治的対立の場で権力にる制限である。権力は国家権力に限らない。企業、労働組合、政党、同好会あらゆる組織で権力による制限はある。人と人との相互作用は制限ではない。対立関係があって、一方の力が強い場合に他方への制限が行われる。[2026]
選択肢は情報操作によっても制限される。圧倒的多数の人々は情報をマスメディアに依存している。情報だけでなく、情報を共有すること自体をマスメディアに依存している。マスメディアのマスは送り先が「大」なのであって、提供する情報が「大」なのではない。マスメディアの提供する情報は限られており、取材すら選択されている。提供される同じ情報を、感情を共有することで不安を回避することはできる。しかし共有する情報が現実を反映しなければ共同幻想になる。[2027]
道徳的自由は誰もが守ることのできる人権としての自由である。環境条件はどんなに厳しくても、自己決定権は残されている。主体としての自己実現は人間としての存在そのものである。抹殺されない限り、自己決定することができる。かえって環境条件が穏やかな時ほど自己実現はゆるみ、自己決定すべき選択が曖昧になる。[2028]
競争に勝つことで自己を実現しようとする者が、同じ望みをもつ者と競争するのは勝手である。協調することで自己実現を望む者に競争を強制することは勝手ではすまない。「競争しなければ人は怠けるから、社会、組織は競争させなくてはならない」との思いは自らの怠け癖を認めている。すべての人に競争を強要し、格差を作り出して驕る勝手は許されない。[2029]
自由は実在世界の自由度探求をすべて尽くす努力によって現実的になる。可能性を汲み尽くすことによって現実的自由は獲得できる。[2030]

【民主】

民主はすべての人々の対等な関係である。すべての人々とは自己決定のできる自然人である。自己決定のできない監護を要する子ども、老人、傷病者も自己決定できる者と対等に遇される。対等はそれぞれのもてる能力を発揮し、伸ばすことのできる人間関係である。[2031]
民主はまず政治的民主主義である。政治的民主主義はまず意思決定権である。政治的意思決定、社会的意思決定は構成員が意見を交換し、互いの意見を理解した上で、平等の議決権を基に多数決で決定する。[2032]
意思決定では物事の理解が前提になる。より普遍的理解によってよりよい意思決定ができる。民主的意思決定は物事の多様な理解の仕方、多様な選択肢を理解しての決定である。決定者がどれだけ多様な見方、選択肢を知っているかが民主主義の程度を表す。今日の全体主義は決定権者の選択肢を制限することで最大の支配力を発揮している。選択肢の制限は情報統制による初歩段階から、選択肢を探す気にさせない高度な段階まである。[2033]

政治的民主主義は制度の問題であり、制度の運用の問題であり、やはり理念の問題である。政治的民主主義制度は議決制度、選挙制度、権力分割相互牽制制度として整備されてきた。しかしそれぞれに制度上の問題があり、運用上の問題がある。問題の評価基準は主権者の意思が正しく反映されることである。現状は政治不信、無関心があり主権者の意思が反映していない。原因は政治が社会的強者間の争いに終始していること、政治的相互連関が循環的に作用し、その連関を現実に断ち切れないところにある。[2034]
政治の循環する相互連関を断ち切ることができるのは選挙である。選挙での民主主義の実現が政治的民主主義実現の端緒である。原理中の原理は選挙権と被選挙権を同じ比率にし、一票の重みを同じにすることである。民主主義の基本中の基本が出発点である。[2035]
選挙権行使は投票だけでなく選挙運動である。選挙権は自己決定のできる自然人のものであり、自然人が運動費用を負担し、組織を作って選挙運動をする。自然人ではない法人、組織、団体に選挙運動権はない。人が人と議論して結論を出すのが選挙運動であり、社会的圧力や利益供与、買収は許されない。政党助成金などとんでもない非民主主義制度である。この選挙運動の原則中の原則は主権者の選挙権行使であり、主権者が民主的であればすむ。小中学校の教科書に書いてあるとおりの民主主義を実践すればよい。[2036]
民主的選挙ができるように選挙運動を取り締まるが、取り締まりが民主主義に敵対する。高級官僚の選挙運動は野放しで、下級官僚が休みの日にビラを配布して起訴される。権力者に政敵の情報が司法機関によって提供される。[2037]

民主主義は政治だけの問題ではない。あらゆる関係で自然人が自己決定できる人間関係を築くことである。そして基礎になるのが経済関係である。すべての人が自らの生活財の選択、消費を決定できることが経済民主主義の指標である。すべての働く意欲のある人が働けて生活財を購入できることが経済民主主義の基本である。自由競争が経済民主主義ではない。競争は同じ条件から出発して成り立つのであり、引き続く競争は同じ条件の出発にはならない。自由競争は強者による収奪の自由でしかない。[2038]
社会代謝過程で私的利益を追求する者が民主を歪め、破壊している。民主を実現しようとする運動の実質は私的利益の追求者との闘いとしてある。社会的には剰余価値を搾取、収奪し、そのおこぼれにあずかろうとする者たちとの闘いである。個人的には楽をしよう、面倒を避けようとする自分との闘いである。[2039]
文化においてもすべての人が創造的能力を発揮でき、文化を楽しむことが民主的文化である。指導者は皆の創造的能力を引き出し、発揮する環境を整えるのが役割である。指導は支配、強制するのではなく、文化運動自体も民主主義によって創造性が発揮される。金銭は経済関係であり、文化は文化的価値で社会関係を築く。経済が文化につくすことはあっても、文化が経済につくしたのでは創造性が失われる。[2040]
様々な人々すべてを結びつけるのであるから、民主は最も困難な社会的課題である。しかし民主を実現できるほどに社会的力は強力になる。強制によって統制される力ではなく、一方的に利用される力ではなく、自律的力こそが最も強力な力になる。[2041]

日常的に自分の意見をまとめ、議論して交換し、異なる意見を理解することで民主主義は成り立つ。自分の意見をまとめることだけでも努力を要する。異なる意見の理解は普遍的な背景理解による。流行の意見を受け売りするのでなく、与えられた情報を評価し、足りない情報を探す。民主主義を支えるのは情報である。[2042]
議論にも技術が必要で、慣れなければ議論の勝ち負けにこだわり、意見を出すことも躊躇してしまう。議論して理解を普遍的に深めることのできる相手に出会い、議論の機会を得ることもますます難しくなっている。民主を妨げ、破壊する者は議論の場を奪い、議論をかき回し人々を疲れさせる。情報ネットワークは普及しているが、民主主義が忘れられると議論は「炎上」してしまう。[2043]
皆が全ての問題を理解することは不可能であから、一般的問題は皆が理解できるように解説し、専門的問題は分担して理解する。そのための情報機関として教育機関があり、研究機関があり、報道機関がある。それぞれの情報機関でも民主が実現されることで、民主社会の基礎ができる。[2044]

【平等】

民主はすべての人々の対等平等を求めるが、同じであることを求める絶対的平等ではない。多様な個性、能力をもつ人格の対等平等である。人々の違いを前提にした上での対等平等である。[2045]
対等平等は同じ条件を持つ人を同じに扱うことである。同じ条件でありながら偶然に違った扱いをせざるを得ないなら、固定せずに改めて偶然に扱う機会を繰り返し用意するのが対等平等である。クジで処遇を決めるなら、次に処遇を決めるときも実績などでなくクジで決めるのが対等平等である。[2046]

異なる条件の人を平等に扱うには結果の平等あるいは機会の平等を目指す。結果と機会の違いは普遍性と個別性の違いである。[2047]
人間として誰にでも必要な物事は結果を平等にする。健康を維持するために必要な最低限の衣食住は結果としての平等で保障する。人々の生活は健康で文化的であることを保障することが結果の平等である。社会政策的に最低限を保障することが結果の平等である。[2048]
人それぞれの違い、個別性に基づく平等は機会の平等による。能力の違い、価値観の違いがあるのに条件を同じにしたり、結果を同じにすることは能力、価値観の違いを否定する。参加条件を明確にして公開することで、機会は平等になる。結果の違いは能力の違い、価値観の違い、あるいは偶然によるのであり、その範囲に限られる。[2049]
絶対的平等が必要なら、偶然にまかせて平等を実現する。普遍的な平等は結果を対等にする。個別的な平等は機会を対等にする。対等である関係の絶対性、普遍性、個別性を明らかにしなくては「平等」の議論は混乱する。[2050]

【独立】

独立は主体性の実現である。独立は相互に依存しつつも、自己決定できることである。独立は国家主権と人格に関わる。制度としての社会組織は様々な目的、規模で階層をなすが自己決定の単位としては国家と個人の問題である。会社組織等の独立性は相対的な関係であるが、国家と個人の独立性は絶対的とは言えないまでも基本である。自己決定権が失われては国家も個人も成り立たない。[2051]
国家も個人も社会的存在であり、独立は孤立を意味しない。国家も個人も社会代謝連関にあって基本になる個別存在である。相互依存する物質代謝の全体として社会代謝は実現しており、その部分として国家と個人は独自の有り様を現す。どちらも他と関わる事で独自性を表し、誇りにする。[2052]

個人の独立も個人だけに限られず、共に生活する人々が自分たちで自己決定できることである。社会的関係での自己決定権を集約するのが国家である。個人と国家が自己決定権者として他者、外国によって生命、生活を脅かされないことが独立である。[2053]
独立は主体性であり、他者か独立を促しても主体性のない者にとっては余計な負担でしかない。主体的自己決定を求める者が支配、従属、干渉を告発し、拒否する。支配する側、客観的立場に立って独立性を判定する資格はない。客観的には干渉し、抑圧する侵略に反対することで互いの独立を守る。[2054]
理念としての独立は明確でも、現実には「独立を支援する」ことを口実に干渉が行われる。自ら他国への従属を受け入れる国がある。判定基準は自己決定権の行使であり、現実の力関係での主体性である。独立を実現するのは決して他国との交戦権ではない。[2055]

独立は主体の全般に関わり、政治的、経済的、精神的、文化的課題である。一部分だけでは独立は達せられない。国家の独立は民族的、地理的、歴史的、文化的独自性としてある。社会の基礎である経済は発達するほど相互依存を強めるが、相互依存であって一律化ではない。それぞれの独自性を尊重した上での互恵である。[2056]
競争市場では強いものが有利であるにもかかわらず、市場開放は強者の勝手を要求する。人間関係は競争がすべてではなく、協調が社会の基本であり、取引倫理も文化的に一様ではない。商品市場での消費文化は儲けのための文化であって、文化を創造はしない。創造を保護するための著作権ですら商品の排他権、独占権にしてしまい、創造性が共振することを妨げる。軍事侵略だけが独立を脅かすのではなく、社会活動全般にわたって独立の課題がある。[2057]

【環境】

太陽からの熱エネルギーが宇宙に拡散していく過程で地球環境が維持され、生命活動が可能になっている。地熱はあるにしろ太陽から低エントロピーで秩序だったエネルギーを受け入れ、高エントロピーの熱エネルギーを排出して地球の生命活動は維持されている。エントロピーの流れとエネルギー代謝は地球環境を絶対的に規定している。科学技術の発展によっても変えることのできない基礎原理である。[2058]
地球環境で生命は秩序を作り出すことによって生存しており、社会も秩序を作り続けることによって維持される。秩序が崩れる全体の過程にあって、部分的秩序を作り、維持することは全体の過程に逆らう創造である。秩序が崩れることを最小限にし、秩序を作り出すことを最大限にすることが環境課題である。それぞれの生産財は秩序を組合せた秩序であるから役に立つのであり、生産財の交換、保管も物理的、社会的秩序によって実現している。財の生産、流通過程だけでなく、消費過程での秩序維持も含まれる。廃棄物も分別しなければごみになるが、分別によって資源になる。エネルギーは買えても、人それぞれが生きるうえで増大させるエントロピーは金銭でも取り返すことはできない。[2059]
秩序を作り出すことは秩序を理解することによって可能になる。物理化学的、生物学的、社会学的、知的秩序を理解することによって、秩序を組合せて新しい秩序を作り出すことができる。科学と教育によって未来へ持続的に発展することが可能になる。[2060]


第3節 社会的専門課題

一般的な課題が実社会で専門的課題として展開する。社会的専門課題はそれぞれの社会的役割で担う課題である。実践的に追求する課題であり数え上げても役立たない。ただすべての人にとっても無関係ではない。[3001]

【政治運動】

政治は社会代謝秩序を制度的に統制する。社会代謝秩序の統制制度を運用するのが政治である。人間関係、社会関係の統制を公式化する制度として政治はある。公式化する政治制度によって社会関係、人間関係は規制される。政治は社会秩序を制度的に統制することを目的に、統制権限の公式化を手段にしている。政治は公式制度を根拠に強制力をもつ。政治の強制力による争いは最終的に武力行使、戦争にまで至る。昔は予言力、武力が正当性の根拠であった。[3002]
制度の運用は人々の力関係で決まる。個々の力関係を社会的力関係へ組織しするのが政治運動である。民主主義社会では統制権限である権力の正当性を多数決=選挙で決める。民主主義社会では権力の正当性を繰り返し検証する。政治運動は政治の手段である権力行使を目的にし、制度の運用を手段にする。政治は正当な権力によって統制するが、政治運動は正当な統制によって権力獲得を目指す。政治と政治運動の相互規定は再帰して循環する。[3003]
個々の力関係を組織化するために運動の正当性を訴えて支持を集める。積極的支持に至らなくても、不承不承であっても人々が受け入れるようにする。政治運動は多数支持を集める理念、政策を訴える。選挙運動や投票は政治運動、政治の極端緒でしかなく、要求をまとめ実現し、支持を得るのが政治運動の基本である。[3004]
政治は国政に限らない。地方政治も、地域自治も、社会運動も、労働運動も、日常生活も公式制度の上にある。すべての分野、地域で人間関係、社会関係は政治運動と関わる。[3005]

【社会運動】

社会は人の生活の場であり、社会運動は人間の運動である。人々の互いの働きかけが共通の目的を形作って社会運動を形づくる。個人の要求、意見表明だけでは社会運動にはならない。要求、意見の表明を社会化し、実現を目指すことで社会運動になる。意見表明の媒体、機会を社会的に作り出すことで社会運動は組織される。[3006]
今日、社会運動はマスコミに取り上げられることで社会的に認知される。社会運動はマスコミに取り上げられることを手段とし、さらには目的にまでする。マスコミが社会的存在の認定を司っている。マスコミへの影響力が社会運動の力になっている。[3007]
情報ネットワークを介して情報交換、共有が可能になってきたが、実際には人間が動き、互いに働きかけ合わないと社会運動にはならない。情報ネットワーク上での盛り上がりは接続している時だけで終わってしまう。人々の関係は会議や共同作業等で感情が共有されて社会運動として継続する。[3008]
個々それぞれの社会運動が発展することで、より発展するために他の運動と結びつく。それぞれであっても一つの同じ社会に属し、社会の基礎にある普遍性によって連携する。それぞれの目的を追求しつつ、属する社会を担って連帯する。それぞれの目的追求を阻害するものに対して連帯を強めることで挑む。[3009]
異なる目的、組織を持つ社会運動が連帯するには信頼関係が前提になる。信頼関係は互いの組織内外の民主性、組織間の平等、内部問題不干渉によって築かれる。[3010]

【職域運動】

職場は社会の生産的活動の場である。同時に主要な権力闘争の場でもある。また生活の大部分を過ごす場でもある。[3011]
職域の社会代謝での役割は経営層だけが担う課題ではない。経営責任は経営層が担うにしろ、社会代謝に対する責任は職場の全員が負う。責任の軽重はあっても社会的責任は全員にある。社会代謝の健全性は職域で、それぞれの職場で担われる。[3012]
職域での取引は社会の経済的健全性を担い、表す。不当な取引は社会代謝を歪めるだけでなく、人々の生活を脅かす。経済的健全性が損なわれれば人々の生活の安全、健康までが脅かされる。同時に不当な取引は人による人の収奪である。職場内での搾取にとどまらず、国際的収奪につながる。フェアー・トレードなどが信頼されるには個々の取引だけでなく、関連する人、企業の健全性が問われ、健全な取引範囲が拡大することで保証される。孤立したままの健全性は健全ではない。より全体が健全になることで部分の健全もより確かになる。[3013]
職域、職場人事の健全性は社会の政治的健全性である。人事評価、地位、権限、報酬が取引されるのは健全ではない。健全でない人事を黙認することは政治的なれ合いになる。職責を果たさない者を許してしまうなれ合いが、人事取引に利用される。自らの職責に対して責任を果たすことが職場、職域の健全性追求の出発点である。[3014]
働けない者を助けることも大切であるが、働く者の運動が社会運動の中核である。働かない者を優先してしまう運動は社会的力にならない。働く中核を担っている人々の支持を得られない運動は社会的な力にはならない。[3015]

【科学運動】

科学は社会的な認識である。科学は科学者だけに担われるのではない。研究は科学者に担われるが、その先端も科学者だけではない。研究活動も社会代謝の一部分であり、社会的資源である原材料、エネルギー、施設設備、資料、人材によってまかなわれる。科学者自身もその才能だけでなく、社会的に教育されて育つ。科学者だけでなく、科学研究を補助する人、科学行政を担う人、科学の成果を解説する人、科学教育をする人によって科学は担われている。科学は社会の認識として社会を構成するすべての人々の認識の基礎になる。[3016]
科学は論文や理論ではなく、世界の普遍的認識である。普遍的認識は対象の普遍性と、認識主体の普遍性である。世界のあらゆる物事の普遍的秩序を認識し、物事の構造の普遍性を認識するのが科学である。世界のあらゆる物事、物事の構造は世界の秩序であり、秩序の有り様を理解するのが科学である。世界の秩序は昔から「理(ことわり)」と呼ばれ、探求すべき真理とされた。個別的な経験、知識を根拠に物事を解釈するのは科学ではない。[3017]
科学でも世界秩序のすべてを明らかにできてはいない。同じ秩序でも環境条件が異なれば異なった現れ方をする。法則として表現できている秩序は部分的秩序であり、他との関係秩序すべてが明らかでないのだから法則は仮説である。仮説であっても科学として知り得た世界の関係秩序は相互に規定し合っていて、法則関係は整合する。仮説であっても科学法則が説明する世界秩序の有り様は繰り返し検証されている。誤った仮説は検証によって否定される。検証での誤りは検証を繰り返すことによって正され、あるいは検証環境条件の違いを明らかにすることで検証される。科学は世界を説明するだけでなく、最も信頼できる世界についての予測方法である。[3018]
科学の成果は技術によって利用される。道具が善にも悪にも使えるように技術も、科学も善にも悪にも使われる。科学研究も社会から隔絶されてはおらず、研究そのものが社会を危険にさらす可能性がある。科学研究も社会の評価を受けながら、危険の可能性を統制する。科学は普遍的であり予測しない技術的利用の可能性を持つ。予測できなかった可能性についても、予測可能なのは科学の他にはない。科学は実用効果だけでなく、人々の基本的世界理解に影響する。社会が科学を評価できるよう科学者が説明することで科学の社会的正当性を主張することができる。[3019]
科学が社会代謝の一部を担っているからには不正もある。成果のねつ造だけでなく、成果をもたらさない研究を誇大宣伝して研究費をくすねることも起きる。研究予算を握る者が科学を理解して科学は健全に発展できる。科学の健全性は科学者の責任だけではなく、社会全体の健全性を反映する。[3020]
そして社会一般にとっての科学運動は非科学、反科学、似非科学との思想闘争である。世界を実践的に良くするには予測して変革し、予測を反省する科学的方法によるしかない。科学を妨げる非科学、反科学、似非科学との思想闘争を科学運動は担う。[3021]
思想闘争まで大げさでなくとも、日常的に何の効果もない「健康商品」が「科学的説明」を宣伝し、あるいは科学的に説明できないことを根拠に大量に売られている。法的には詐欺罪が適用されなくても、経済上は詐欺行為そのものである。健康に害が無くても、科学的世界観を歪めている。[3022]

【教育運動】

教育は何より次世代の育成であり、人間作りである。人類は百万年を超えて人間を育て、世代を重ねてきた。人間についての一致した理解がなくても人間を育ててきた。しかしすべての社会が続いたわけではなく、現在残っている個別社会の数以上の個別社会が消えていった。他から相対的に独立した社会代謝系として、独自の文化をもった個別社会の盛衰が人類の歴史としてある。個別社会にとって次世代の育成は存続の基礎である。人々が社会代謝を担えなければ社会は成り立たず、人間としての生活が成り立たなくなる。[3023]
人を育てることは普遍的に社会代謝の担い手の育成であり、個別的に人それぞれの能力の訓練である。人は互いに働きかけ合うことで社会代謝を実現し、担っている。社会代謝はますます高度化し、多様な担い手を必要とする。機械やコンピュータを使って社会代謝での生産、流通を担わせることはできるが、代謝系の制御、方向付け、そして消費は人間の問題である。[3024]
人それぞれの能力の訓練は基礎教育と発展教育がある。社会生活をするのに必要な能力訓練は基礎教育である。それぞれの個別的能力を見いだし、訓練し、発揮できるようにするのが発展教育である。能力の一部に障害があっても健常な能力を発揮できるようにするのが教育である。人間としての能力は障害の有無に関係なくそれをれの能力を発揮し、発展させる。[3025]

競争社会での教育は人を選別するための制度になってしまう。能力に差がない程に選別は厳しく、競争は激烈になる。教育が歪められ、教育運動までが歪む。社会が用意する地位、報酬を獲得するための技術教育になっている。本来ののそれぞれの能力を伸ばす教育は無視される。能力を発揮できず、自己実現ができなければ希望は持てず、社会は閉塞する。[3026]

【文化運動】

人々が互いに働き掛け合い、感情を共有し、表現することで文化が形作られる。人間が生きるのに文化は不可欠である。人の生活と文化は一体である。にもかかわらず特別に文化的であろうとすることは虚飾になりやすい。[3027]
芸術・スポーツはそれぞれのもてる能力を非日常的に発揮することにある。芸術・スポーツは非日常的表現、動きに価値がある。文化運動は非日常的である芸術・スポーツの日常化としてある。取り決めたルールに従って最大の能力発揮を目指して肉体と精神を働かせるスポーツも文化である。身体運動によって体力、覇気を発散できるといって、消耗することを目的にしては文化にはならない。スポーツは戦闘や肉体労働のための身体訓練ではない。相手を倒すことを目指さなくなった格闘技もやはり文化である。[3028]
スポーツは青少年の育成に有効であるが、競技スポーツは相手を倒す勝負である。対するに芸術の勝負は協調、共感にある。アメリカ合衆国のスポーツとベネゼラの音楽運動を対比するとおもしろい。[3029]
芸術・スポーツの専門家は人に真似のできない表現をし、動きをする。専門家の表現、動きを楽しむことも文化である。文化の基礎をなす人の感情表現には豊かさがあり、豊かさを享受するにも訓練が必要である。文化を愉しむことには限りがない。より豊かな文化を実現する、あるいは鑑賞の訓練する機会、環境を整えることも文化運動である。[3030]

商業主義の競争社会では芸術・スポーツは興行になる。芸術・スポーツの施設、設備もも商取引の対象になる。日常を離れての自己実現の場ではなく、サービスを消費する場になってしまっている。[3031]


第4節 個別的個人的課題

個別的個人的課題は人それぞれの課題であって世界観の課題ではない。しかし主体を対象にすることで世界観のうちに再帰してしまう。個別的個人的課題も世界観のうちに再帰する。世界観最後にまとめるべき生き方の問題であり、第8章で取り上げる。[4001]


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