戸次川(へつぎがわ)(大野川)

天正14年(1586)四月、大友宗麟は薩摩の島津義久の豊後侵攻に対抗
できないと考え、前年に関白となり旭日の勢いの豊臣秀吉に豊後、豊前、
筑前、の所領をさしだし庇護を求めます。
また大友の一族高橋、立花両氏が守る筑前立花、岩屋の両城も、秀吉配
下の城となる。
秀吉も天下統一にあたって九州の島津の侵略を認めることは出来ず、宗麟
の申し出を機に島津家に対し使者を送り、大友家との停戦を勧告し、幕下と
なるように命じたが、鎌倉以来薩摩守護職の家柄を誇る島津義久は「我に
天皇の命を下すのは近衛家がすることで、秀吉のような、由緒無き仁から
命を受けるいわれなし」といって関白の朱印状を無視してとりあわなかった。
「九州の動乱の元凶こそは大友である」と批難し、秀吉にたいして「停戦
命令は受諾するが、大友家が肥後・日向の国境を侵してくるので、今後
防戦もやむおえません。」と弁明しますが、再度秀吉から「九州の半分を
与えるので、兵を収めよ。返答が無ければ親征する」という使者を受け取
った時はこれを無視し、戦闘体制に入った。
秀吉は天正十五年三月、自ら大軍を率いて島津征伐に出馬することを宗麟
につげ、それまで国元で子の義統とともに戦備を整え、個々の交戦を避けて
関白の西下を待つようにと命じた。
まず中国の毛利氏を九州・筑前に上陸させ、筑前で唯一島津軍に対抗して
いた立花山城の立花統虎(宗茂)と協力し、筑前から島津の勢力を一掃しよ
うとします。四国から土佐の長宗我部元親、信親父子の兵三千と、讃岐の
仙石秀久、十河在保の三千を豊後救援に命じます。秀吉は九州派遣軍の
検視として仙石秀久、黒田孝高、宮木豊盛らをつけた。
島津軍は二軍に分かれ、西周り軍は肥後を北上して筑後に入り、筑紫広門
が守る勝尾城を攻めて広門を降し、筑前の秋月種実の案内で大宰府に侵攻、
四王寺山の中腹にある岩屋城を攻撃して七月二十七日、頑強に抵抗する
高橋紹運以下、七百六十三名を玉砕、宝満城を開城させ、紹運夫人や次男
統増夫婦を捕らえ薩摩に連行した。
その後、立花城まで侵攻するも、関白軍の先鋒毛利軍が立花救援に向かっ
た報を聞くと薩摩に撤退してしまった。
一方、東廻りは「肥後口、日向口の両口より豊後へは乱入有るべく候」と、
十月に入り、豊後ルートがきまり、侵攻した。
肥後口は、義久の次男義弘が三男歳久をはじめ一族の島津忠長、新納忠元
伊集院忠棟らを従えて二万五千の軍勢で、八代から肥後へ進み、阿蘇郡
を経て十月二十二日、直入郡の西南部から豊後に侵入、二十四日、津賀
牟礼城(竹田市入田)に入って、此に本陣をおいた。秀吉軍6千の援軍を得
て、豊前の反乱を鎮めるために秀吉の軍監である仙石久秀と示し合わせ
府内城から出陣しました。津賀牟礼城城主は入田宗和は大友の家臣で
あったが、父の親真が宗麟の相続争いのときに、宗麟の弟塩市丸側に立
ったために宗麟に自刃させられたことやその後宗麟の家臣に讒言されて、
支城の子松尾城に逃げていた。そのため島津軍に付、恨みを晴らそうとし
ていた。また、薩摩軍新納忠元らの直入、大野郡内の大友家南部衆への
働きかけで、志賀、戸次一万田、朽網らの諸氏が島津に応じた。
肥後口を守るこれら南部衆の離反は、島津軍の豊後侵入を容易にさせ、臼杵
や府内に居住する宗麟、義統自身の身辺も危険にさらされることになる。
だが、南部衆の中でも岡城を守る青年武将志賀親次は、天険を利用して
勇敢に戦い島津軍をさんざん悩ませて撃退した。
一方、日向口から府内を目指す島津家久は上井覚兼、山田有信、吉利忠澄
伊集院久治らの諸将を従えて、一万余の軍勢で日向国境付近の梓峠をこえ
て豊後領に侵入、朝日岳城を守る大友家の武将柴田紹安を内応させ、その後
、三重郷の松尾山に本陣を置く。島津軍は緒方、野津院の大友方の属城を降
して佐伯地方を制圧するために、佐伯惟定が守る栂牟礼城をせめた。
この時、佐伯惟定は部下を指揮して果敢に戦ってこれを撃退した。
このように離反相次ぐ中で、志賀親次、佐伯惟定のように二十歳前後の若い
城主が主家大友に叛かず、死力を尽くして島津軍と戦い城をまもった。
その頃、宗麟は臼杵の丹生島城にあり、子の義統は府内にいてともに島津
侵攻に備えていた。だが、同紋衆(一族または大友家紋を許された重臣)
らは、各自防衛のため自城に籠っており、宗麟、義統父子の周囲には力に
なる有力武将は少なかった。既に斜陽の大友家は家臣団の統制がとれず、
家中団結して島津と戦うことができない様相になっていた。
義統の身辺を守るため、府内に集まったのは吉弘統幸、宗像鎮継、大津留
鎮益、田北統辰らが率いる四、五千の兵だったといわれる。
ただ幸いなことに、秀吉の命で大友氏援助のため、九月になって四国の長宗
我部元親、信親父子、仙石秀久、十河在保のが豊後府内に到着した。九月
十三日上野原に集結して、仙石秀久が総指揮をとった。
秀吉義統に書状をもって、こまごまと島津への作戦を指示しているが、その中
で「島津こと、九州の逆徒らを召し連れ、その国の境目まで、罷り出るの由、
たとえ、かの悪党、合戦を挑み申し候とも、かまいなく、堅固の覚悟これ有る
べく候、四国、中国の勢、追っつけ着岸あるべく条、その間、聊爾(軽はずみ
)の働き(行動)、無用に候」「大友家文書録」と戒めている。
ところが、義統は所領地の宇佐郡内で反乱軍が蜂起したので、これを鎮圧に
豊前に出兵したのである。
宗麟は臼杵に隠居していたが、秀吉の指示を守れといったに違いないが、
案の定、島津軍は彼らの留守を好機を逃さず肥後、日向の二方向から侵入
してきたので、豊前へ出陣していた義統や四国勢は豊後の危急を聞き、
十一月初め、急ぎ府内に帰ってきた。島津軍は松尾山の陣営から、いよいよ
府内への進撃を命じ、支隊二千余騎を宗麟の住む臼杵の丹生島城の攻撃に
向かわせた。臼杵に侵入した島津勢は、三日間、城を包囲し、宗麟の建てた
切支丹聖堂や、建造物を焼き払い、十字架を切り倒すなど城下を蹂躙した。
この時、宗麟(五十七歳)は自分が命名した「国崩し」なる二門の南蛮砲を
発射させ、人馬に損害を与える威力を発揮した。島津隊は府内からの援軍
を恐れて臼杵には長陣せず、城下を焼き払うと本陣と合流して、府内へ向
かった。府内に向かうには途中の利光に、戸次川を眼下に望む鶴賀城
立ちはだかる。城将利光鑑教は大友への忠義を守って忠節を尽くす清廉
な武将であった。
島津軍は、鶴賀城の南一キロの大塔の梨尾山に布陣して、城への攻撃
態勢を整えた。
鶴賀城は別名利光城ともいうが、大分と臼杵の連絡用地であり、戸次川
(大野川)上流地方から大分に侵入する島津軍にたいして、大分および
臼杵への援護、連絡上の軍事的要城であった。
島津軍は一万八千余の軍勢で鶴賀城を包囲し、城将利光宗魚は二千の
城兵を指揮して勇戦し、機をみて城外に打って出て、大塔付近で敵勢と戦
ってこれを破り城へ引き揚げた。さしもの島津軍も攻めあぐみ、いったん梨
尾山の陣営に退いた。
ここで引き上げていく様子を櫓の上からみていたところを、敵兵に狙撃され
あっけない最後をとげてしまった。
翌八日、城は再び包囲されたが、城主の死を隠して数日間、猛攻にたえて、
降伏もせずに、府内の援軍を求めた。
仙石秀久は勇猛な武将として知られるだけあって、「関白殿下の戒めはよく
承知しているけれど、利光氏の危急を聞いてこれをみすてては武士として義
に反する。貴殿らが賛成しないのならわが軍勢だけで行く。」といって、出陣
の準備をはきめた。
長宗我部らは、仕方なくこれに従うことになった。十二月十一日早朝、仙石、
長宗我部父子、十河らの四国勢と、大友義統、田原親盛、奈多鎮基など、
大友家同紋衆の六千の連合軍は府内を出発した。別に戸次統常(鎧ヶ岳
城主)のひきいる百余騎が先導となって戸次川西岸を進み、連合軍は竹
中山の鏡城に着いて陣を敷いた。
右翼隊 第一陣 桑名太郎左衛門 兵力 一千、第二陣 長宗我部信親
 兵力 一千、第三陣 長宗我部元親 兵力一千、
左翼隊 第一陣 十河存保 兵力一千、第二陣 仙石秀久 兵力二千、
予備隊 大友義統 兵力不詳
島津家久はこの状況をみて、鶴賀城の包囲を解き、梨尾山の南約四キロ
の坂原山まで退き、斥候を出して連合軍の追跡を確認させた。島津の退却
を知った仙石秀久は、「直ちに戸次川を渡って敵を蹴散らせ」と命じた。
元親、信親父子や存保らもこれに続き、右翼隊の土佐勢は東岸の山崎に
兵力を集結し、元親の子信親は南面の脇津留に進み、左翼隊の秀久、
存保の讃岐勢は、迫の口に布陣した。
一方、島津家久は、斥候の報告によって豊後、四国の連合軍の兵力が
案外少ないことを知り、直ちにこれを攻撃するため、一部を鶴賀城の監視
にあて、軍を三分して北方に前進させ、第一陣の伊集院久宣の隊を敵
右翼の長宗我部軍にあたらせるとともに、本荘主税助の第三陣を敵左翼
の十河、仙石の軍に向かわせた。そして第一陣の後に、新納大膳正の
第二陣が樹林に隠れて前進し、その後に大将家久の主力軍がひかえた。
家久は、「今日の相手は、上使軍(秀吉派遣)である。一万八千の将兵
一人も生きて帰ろうと思うな」と厳しく言い放って、決死の覚悟で臨んだ。
島津の先鋒、伊集院隊が敵の長宗我部勢を攻め立て激戦の火蓋がきっ
ておとされた。
元親は、「土佐の兵は、四国でもその名が知れた者たちだからここで後れ
をとり九州の兵たちに笑われては天下に恥を残さぬようにせよ。一歩も退
な」とお互いに激戦した。この奮戦に島津の伊集院隊は突き崩されて退却
、元親らは、これを利光村まで追撃して薩軍を討ちとった。家久はこの状況
を見て怒り、自ら戦闘に加わろうとしたが、第二陣の新納隊が代わって出撃
、敗退した第一陣を収容し、長宗我部軍を再びもとの陣地脇津留まで押し
返した。また、島津の第三陣、本荘隊は鶴賀城の東方高地に待機していた
が、第二陣の奮戦に呼応して、直ちに敵左翼に攻めかかり、仙石秀久の
本陣に向かって進んだ。家久の指揮する予備軍も、第二陣と協同して山崎
の敵右翼陣に向かい、緒戦で敗退した第一陣も再び戦線に参加して鶴賀城
の北方数キロにわたって両軍の死闘が展開された。「両豊記」は、「只二時
(四時間)ばかりの合戦に両陣の討死二千余人に及べり」と記している。
新手を代えて攻め寄せる島津軍の猛攻に、四国勢の奮戦もおよばず、敗
れて下流の中津留河原へと追い込まれ、ここで最後」の死闘を演じたが、
ついに府内へと敗走した。この合戦で、四国勢は十河存保、長宗我部信親
、桑名太郎左衛門をはじめ、1千余人が討死した。
また、大友義統の部将戸次統常は、大野郡鎧ヶ岳城主戸次鎮連(鑑連、
道雪の猶子)の子である。統常は父鎮連が敵方に内応したために、父の
汚名を晴らすべく、この日、戸次川を死に場所と覚悟して、手勢百余人を
率いて出陣し、島津の第二陣、新納隊と戦い、ついに壮絶な死をとげて
主家への節義を貫いた。
統常は立花道雪の孫にあたり、墓は大野郡大野町藤北の常忠寺にあり
、法号は「常忠寺殿節宗義円大居士」である。
また、軍監の仙石久秀は敗戦後、府内から自領の讃岐に逃げ帰ります。
軍監の立場でありながら、秀吉の命令を聞かず無謀な戦いをした久秀は
、秀吉の怒りを買い、後に所領を没収されます。

戸次川の戦いは、島津軍の勝利に終わり、翌日には大友側の丹生島城、
府内城も占領、宿願の豊後を手に入れます。
しかし、秀吉にとってこの戦いは、単なる前哨戦に過ぎず、翌年自ら25万
の大軍をもって九州入りし、5月には島津義久らを降伏させ、島津家の九州
統一は夢と化したのである。

この戦いで安東家も戸次鎮常の家臣として奮戦し、安東差右衛門、安東
記助常治
の討死者をだした。その後、安東家の子孫は府内藩、臼杵藩、
、柳川藩、に仕えることになる。

地図の安藤は安東氏の故郷です。戸次川は大野川の事で付近地元での呼称
十河、長曾我部氏の慰霊碑 供養地蔵
  
鏡城跡(大分市竹中) 鶴賀城跡(大分市利光)
   
戸次鎮常の墓(常忠寺)
大野郡大野町藤北の常忠寺