大腸癌手術を受けて
経過
67歳で定年退職時にドック検査を受検して、内視鏡検査で大腸にポリープたくさん有り、幾つかを切除しましたと説明されていた。
数年前からそろそろ人間ドックを受けなければと、思いつつ引き延ばしてきた。
ドック検査から12年が過ぎ、2024年12月3日に大量の下血をした。便器の中は真っ赤な血の海だった。「えー!」との思いで、次の日(12/4)に市内にある知り合いのドクターの知り合いと知っている内科を受診して、「しっかりと検査をしましょう」との勧めから、豊橋市民病院の消化器外科を紹介していただきました。
指定された予約日12月9日に受診して、12月26日に事前検査をすることになりました。検査の結果、年末年始と相まって、内視鏡検査は、2月3日の予定になりました。内視鏡検査のをPCの画面で表示しながら説明を受けました。そして、私は「その画像データを印刷で良いのでいただけませんか?」とのお願いにドクターはけげんな顔をして「どうするんですか?」と、当然の質問が有りました。普通こんな要求をする患者はいないよとも表情に表れていました。
私は、旅をするのが趣味でその際、何か遭った時、「過去の病歴のデータ」を見て対処してもらえるように、お守りとして持って行っていますと、答えたならば、ドクターは、「そうですね」と笑いながら快く印刷して手渡していただけました。これが、急展開の始まりとは、思いもしませんでした。
いただいた画像には、下の画像が在りました
正常な部分だが、底に何か? 癌の部分?
家に帰り、スキャナーで印刷画像の画像データを作り、かねてから親交のあるドクターに「こんな具合に大腸癌」と診断されましたと送信しました。
お二人のドクターからは、「シリアスな状況ですよ」、「なんと言ったら」、との返事が有りました。お二人は、画像データから大腸癌で最悪開腹手術になると判って居られたんだと後日実感しました
残りのおひとりのドクターが、藤田医科大学病院の関係の先生で「藤田なら、支援ロボットダビンチ & hinotori」で低侵襲の手術ができるので紹介状を書いてもらいなさいとの連絡が有りました。そして、豊橋市民病院の受診日の2月10日に藤田医科大学への紹介状を書いてくださいとお願いし、快諾していただきました。
これで一息と思いきや、藤田医科大学病院のドクターから「この様に外来診療受診」の紹介状を書いてもらいなさいとの予想だにしない連絡が、ありました。
2月12日午前8時過ぎ、豊橋市民病院から紹介状ができたので受け取りに来るようにとの電話が有りました。私から、実は、藤田の関係のドクターより、「この様に紹介状を書いてもらいなさい」との連絡が有った事を説明し、「この様に」紹介状をしてくださいと電話口でお願いしました。電話口の向こうの担当者が、「そんな事があるのか」と信じられないと疑っているのが良く解りました。
豊橋市民病院から藤田医科大学病院に再度の問い合わせをしていただき、藤田医科大学病院の確認ができたから、受け取りに来るようにと改めて連絡が有りました。早速出向いて受付に出向くと「この人どうゆう人」という表情で紹介状を手渡してくれました。どう考えても患者から紹介先の条件をすべて指定する患者がいるとは、自分自身考えてもあり得ない事例です
2月26日 指定の時間に診察を受け、改めて「自分は、大腸癌なんだ。思っていたステージをはるかに超えるステージに進んでいる事」をやっと自覚しました。そして、手術支援ロボットを使う手術は、普通ではないことを再確認しました。そして、説明図から自分の思っていた事の気楽さを微塵もなく打ち砕かれました。ここで、開き直り「なっちゃたもの、しょうがない。どうしよう、どうしようと思う」のではなく、「どうすれば良いか?、自分にできる事は?」と考える事に気持ちを切り替えました。
3月26日 再び、診察日で入院案内の詳細に案内を受けました。4月26日入院、28日手術の予定を聞かされて、各種書類にサインして、「ああ一月後か!」思いながら帰宅しました。
「縁は、異なもの味なもの」と言うけれど、最近お付き合いをさせていただいている医療関係の方に「藤田医科大病院でhinotiriでの手術予定です」と話したならば、何と!!!、「私は、そのhinotoriの開発に携わっていましたよ」と想像もつかないご返事をいただいて、改めて世間の狭さ?、人の巡り会いの不思議さをつくづく実感しました
4月26日入院、28日の手術を待つのみの準備をしました。
4月28日 午前8時に手術に病棟から自分で歩いて入室。見覚えのある機器とこれが、hinotori?思う手術機器が、並んでいました。
名前、誕生日を確認され、注射をしますよと言われてからは、まったく記憶なし。
術前の説明図 説明を受けた手術のスケッチ図
黒丸が病巣部分 黒線部を切除
基本的には、がんの周囲を十分な安全域で切除し、リンパ節も切除しています。その後、残った腸管を吻合(つなぎ合わせ)することが一般的です。私の場合、RS部と呼ばれる屈曲部を中心に両側に約10センチつまり20センチ程長さを切除しました。転移があった関連のリンパ節も含んでの切除でした。
6時間後、手術が終わったことをHHUで名前を呼ばれ、XYLが「手術おわったよう」、看護師さんが「手術終わりましたよう」の声を聴いて目覚めました。
ここで予想だにもしない肩関節の痛みに襲われました。左肩は激痛、右肩は更に超、超激痛に襲われていました。はっきりと記憶にはないものの「肩が、痛―い、痛ーい、痛い」が、第一声だったのじゃーないかと思います。妻が、左肩を揉み、右肩を看護師さんでそれぞれ揉んでくれているのが記憶に残っています。
奇しくもレオナルド・ダビンチのウィトルウィウス的人体図様に、腕を肩の高さに挙げた形での6時間も手術台に固定されていた為に起きた筋肉の硬直が、起きているのだろうとの説明でした。これは、HHUにいる間に少し和らいできたもの右肩は、大きく改善されることなく、一般病室に移っても続き、シップ剤の処方を受け、夜寝るときだけこのシップを張るようにしています。
術後、肛門ありますよと聞いた時、ある意味「ホット」しました。
自覚症状について
2025.12.3 鮮血便で「何だ!!!、これは?」 と、初めての自覚した症状。これまでにこのような症状は、一度もありませんでした。
振り返って見ると、以前は、便秘も自覚しながら、息めばそれなりの太さの便が、出ていた事を記憶している。しかし、この頃、便秘と共に、しっかりと息んでも出てくる便は、「細くニュー」としか出ない状態になっていた事を覚えています。
排便時のイメージ
普段 癌等が、通路を塞ぐ
上図の様なイメージでの排便に変化したのでは無いかと思い出している。これは、私が、どうだったのかとその感覚の変化を思い起こしての感じです
反省
私の歯は、自前の歯で31本健在だ。
これは、50年程前、JRALの電話級アマチュア無線技士講習を4回ほど頼まれて開催した。その時の講習者のXYLさんのご主人が、歯科医だった縁から現在で55年程お付き合いをさせていただいてきている。
歯が、うずき出すとすぐ「先生、痛い」と言っては、受診して連続して3回以上通院した記憶は無い!!!。この様にしたからこそ、現在も31本の自分の歯がありますと言える。虫歯は、確かにある、しかし、31本は、自分の歯である。
では、今回の大腸癌について再度考えると、冒頭でも述べたように検査を延ばし、延ばし、にしてきた事で下血と言う自覚症状で初めてその異常に気づいた。歯の場合、初期のうちに軽い痛みとして感じることができた。しかし、内臓の関係の場合、自覚症状が出現した時点で、多くはその病状が、かなり進んでいたと言う話を聞いている。自覚症状の出る前の初期の状態で対処すれば、このような大がかりな手術を受ける事は、無かったのでは無いかと思う。
内視鏡手術(内視鏡治療)は、大腸カメラを肛門から挿入し、がんの病変を内側から切除する方法なのである意味簡単に対処できる。
病気を含め物事に「たら、ば」は無い。では、検査をしたからと言って万病を発見できる訳では無い事も明らかだ。だからと言って、ほったらかしていいわけではない。
数年に一度、いや最低3年に一度位の割合で検査をしていれば、「ここまで進行する以前に発見できたのでは?」と思えてならない。
世の中には色々な人、それぞれの考え方が在るけれど、病気の検査に関して聞いていると、「明日検査があるから、「何々を控えた」とか、検査の結果が怖いから「検査を受けたくない」と言う輩が多い。普段と変わらない生活の中で検査する事が、大事なのだ。
馬鹿な事を言うな!!!。
病気により早く対処する為にに検査をするのだ。そして、可能な限り、一日でも早く治療をする。早期発見、早期治療、これが最善の病気の治療だ。
自覚症状が、有ってからでは遅い!!!。肝に命じよ。
くどいが、私の大腸癌も もっと早く発見 していれば、内視鏡下の手術で済んだ。今回、最悪、開腹手術も視野に入れての説明だった。幸い、私は、最先端技術の国産手術支援ロボットhinotori?での低侵襲手術での大腸がん切除術を受けられた。手術から1週間で退院し、約2週間で、体力を使うことは無理だが、ほぼ普段の日常生活に戻る事ができたた。多分、以前の全く同じの生活習慣に戻れるのは、約一か月位経過しないとダメだろうと思われる。
経 過
4月26日 午前入院
4月28日 午前手術室入室 (約6時間の手術時間と聞いた)
私は、hinotoriという支援ロボットでの手術なのでいわゆる低侵襲手術で済んだ。4月28日の手術の次の日からリハビリで30m位の距離を歩行し、手術から2日目(4/30)に一般病棟に移り、トイレを含み、自分で歩いての行動となった。もちろん、せき込む、くしゃみ、姿勢の変化で「おなかに痛みが走るのをを感じながら。ほとんどが、トイレとの往復、懇談室への往復で1,500歩位歩いていました。
4月30日 一般病棟へ
5月2日 昼食から病院食
メニューは、米飯100、鱈の春野菜あんかけ、ジャーマンポテト、大根サラダ和、ロールケーキ(抹茶)と予想外の一般食!!!!。もう少し、柔らかい物を想像していたけれど、その後、退院するまでこの手術に対応した食事と思えない一般食でした。
5月4日 夕刻
主治医の診察時に経過は良好なので「5月6日以降に退院できますよ」と告げられました。
5月6日 午前中に退院
帰宅してからの夕刻から、これまでに経験した事が全くない無い、「吐き気、そして、極度な気力、食欲の減退」に襲われ、午後10時過ぎ、3回連続で激しい嘔吐に襲われましたが、床に就く事ができました。
5月7日 外来受診
昨日の出来事を電話報告し、受診 ドレーン傷縫合
手術12日目の5月10日では、微かに痛みを感じる程度まで戻ってきた。腹腔鏡手術ならば、もう少し大きな傷になっていたはず。そして、開腹手術ならば、まだまだ痛いと言っていたのでは無いかと、想像する。
この記述は、私の体験談です。「もし、たら?、あの時に」は、ありません。あったとしたら自分への言い訳です。今、思うことは、やはり積極的に検査を受け、自分の体の状態を把握して置くべきだと強く、強く思います。手を抜き、なっちゃったでは、「あの時こうしていれば」思っても手遅れで悔いしか残らない。
でも、病気にはなる 「なっちゃったもの」は、認めるしかない。その後が、大事と思うしか無く。
そして、前向きに付き合う以外無い。自暴自棄の様な生活をするのでは無く、それなりに付き合って行くしか無い。
40年程前の「両側の鼻茸の手術」、30年前の「黄色靭帯骨化症の手術」、22年前の「心筋梗塞発症」、そして今回の「大腸癌」と満身創痍状態となっている。今更、一つ増えても、何とかなる。それなりの生活をすれば良いと思えば簡単だ。大したもんじゃ無いと開き直る事にして、「まな板の鯉」と考え、すべてを先生方にお任せすれば良い思っただけ。
黄色靭帯骨化症 http://www.maroon.dti.ne.jp/~ja2eib/oyl/oyl.html.htm
心筋梗塞発症 http://www.maroon.dti.ne.jp/~ja2eib/Myocardial/Myocardial.htm
年齢から考えて見れば判る事で、術後の生存率より、寿命に対しての生存率の方を適用した方が適当と思われる年齢だ。
敢えて言います。
医療は、治してくれるのでは無く、「自分が、治りたい、治したい」と思う気持ちに応援してくれるのです。しかし、すべてが、治る訳では無いことも判っているつもりです。
2025.05.28 追記
5/27 外来診療受診結果
手術時の説明、現在の状態、今後の治療の説明を受けました。
手術時に生検用として採取したサンプルの培養の結果「悪性の兆候は無し」とドクターから説明を聞きました。患部に関係していたリンパに転移があったが、手術時に一緒に切除しているから心配は無いとの説明でした。
ステージVAの状態で、現状、直ちに心配な転移を認めてはいないが、念の為、大腸癌の術後補助化学療法(XELOX療法)を受けることにしました。この術後補助化学療法は、任意との説明も有りましたが、後に「あの時・・・・」と思っても後の祭りなので、しっかりと対処しておこうとの思いからお願いしました。
6月3日から始め、11月18日に最後のサイクルになる日程です。この療法は、1日目に点滴を受け、2日目から15日目まで朝夕と薬を服用し、16日目から21日目は薬を服用しないで休養する。この3週間のサイクルを計8回(6ヶ月間)繰り返す療法と説明を受けました。
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