大腸癌手術を受けて


   状況 

 経過

 2024年12月3日に大量の下血

 2025年2月3日 内視鏡検査

 4月26日 入院
 4月28日 午前8時に手術入室(約6時間のOP)
 5月 6日 午前中に退院

 6月 3日 抗がん剤治療 XELOX療法 第一クール開始

 6月24日 抗がん剤治療 XELOX療法 第二クール開始

 7月15日 抗がん剤治療 XELOX療法 第三クール開始

 67歳で定年退職時にドック検査を受検して、内視鏡検査で大腸にポリープたくさん有り、幾つかを切除しましたと説明されていた。

     
     67歳の時の検査画像(見つかった)


  数年前からそろそろ人間ドックを受けなければと、思いつつ引き延ばしてきた。

 ドック検査から12年が過ぎ、2024年12月3日に大量の下血をした。便器の中は真っ赤な血の海だった。「えー!」との思いで、次の日(12/4)に市内にある知り合いのドクターの知り合いと知っている内科を受診して、「しっかりと検査をしましょう」との勧めから、豊橋市民病院の消化器外科を紹介していただきました。

 指定された予約日12月9日に受診して、12月26日に事前検査をすることになりました。検査の結果、年末年始と相まって、内視鏡検査は、2月3日の予定になりました。内視鏡検査のをPCの画面で表示しながら説明を受けました。そして、私は「その画像データを印刷で良いのでいただけませんか?」とのお願いにドクターはけげんな顔をして「どうするんですか?」と、当然の質問が有りました。普通こんな要求をする患者はいないよとも表情に表れていました。

 私は、旅をするのが趣味でその際、何か遭った時、「過去の病歴のデータ」を見て対処してもらえるように、お守りとして持って行っていますと、答えたならば、ドクターは、「そうですね」と笑いながら快く印刷して手渡していただけました。これが、急展開の始まりとは、思いもしませんでした。


 いただいた画像には、下の画像が在りました
              
   正常な部分だが、底に何か?    癌の部分?          

 家に帰り、スキャナーで印刷画像の画像データを作り、かねてから親交のあるドクターに「こんな具合に大腸癌」と診断されましたと送信しました。

 お二人のドクターからは、「シリアスな状況ですよ」、「なんと言ったら」、との返事が有りました。お二人は、画像データから大腸癌で最悪開腹手術になると判って居られたんだと後日実感しました

 残りのおひとりのドクターが、藤田医科大学病院の関係の先生で「藤田なら、支援ロボットダビンチ & hinotori」で低侵襲の手術ができるので紹介状を書いてもらいなさいとの連絡が有りました。そして、豊橋市民病院の受診日の2月10日に藤田医科大学への紹介状を書いてくださいとお願いし、快諾していただきました。

 これで一息と思いきや、藤田医科大学病院のドクターから「この様に外来診療受診」の紹介状を書いてもらいなさいとの予想だにしない連絡が、ありました。

 2月12日午前8時過ぎ、豊橋市民病院から紹介状ができたので受け取りに来るようにとの電話が有りました。私から、実は、藤田の関係のドクターより、「この様に紹介状を書いてもらいなさい」との連絡が有った事を説明し、「この様に」紹介状をしてくださいと電話口でお願いしました。電話口の向こうの担当者が、「そんな事があるのか」と信じられないと疑っているのが良く解りました。

 豊橋市民病院から藤田医科大学病院に再度の問い合わせをしていただき、藤田医科大学病院の確認ができたから、受け取りに来るようにと改めて連絡が有りました。早速出向いて受付に出向くと「この人どうゆう人」という表情で紹介状を手渡してくれました。どう考えても患者から紹介先の条件をすべて指定する患者がいるとは、自分自身考えてもあり得ない事例です


 2月26日 指定の時間に診察を受け、改めて「自分は、大腸癌なんだ。思っていたステージをはるかに超えるステージに進んでいる事」をやっと自覚しました。そして、手術支援ロボットを使う手術は、普通ではないことを再確認しました。そして、説明図から自分の思っていた事の気楽さを微塵もなく打ち砕かれました。ここで、開き直り「なっちゃたもの、しょうがない。どうしよう、どうしようと思う」のではなく、「どうすれば良いか?、自分にできる事は?」と考える事に気持ちを切り替えました。


 3月26日 再び、診察日で入院案内の詳細に案内を受けました。4月26日入院、28日手術の予定を聞かされて、各種書類にサインして、「ああ一月後か!」思いながら帰宅しました。


 「縁は、異なもの味なもの」と言うけれど、最近お付き合いをさせていただいている医療関係の方に「藤田医科大病院でhinotiriでの手術予定です」と話したならば、何と!!!、「私は、そのhinotoriの開発に携わっていましたよ」と想像もつかないご返事をいただいて、改めて世間の狭さ?、人の巡り会いの不思議さをつくづく実感しました


 4月26日入院、28日の手術を待つのみの準備をしました。

 4月28日 午前8時に手術に病棟から自分で歩いて入室。見覚えのある機器とこれが、hinotori?思う手術機器が、並んでいました。

 名前、誕生日を確認され、注射をしますよと言われてからは、まったく記憶なし。


            
       術前の説明図                 説明を受けた手術のスケッチ図
       黒丸が病巣部分 黒線部を切除


 基本的には、がんの周囲を十分な安全域で切除し、リンパ節も切除しています。その後、残った腸管を吻合(つなぎ合わせ)することが一般的です。私の場合、RS部と呼ばれる屈曲部を中心に両側に約10センチつまり20センチ程長さを切除しました。転移があった関連のリンパ節も含んでの切除でした。

 6時間後、手術が終わったことをHHUで名前を呼ばれ、XYLが「手術おわったよう」、看護師さんが「手術終わりましたよう」の声を聴いて目覚めました。

 ここで予想だにもしない肩関節の痛みに襲われました。左肩は激痛、右肩は更に超、超激痛に襲われていました。はっきりと記憶にはないものの「肩が、痛―い、痛ーい、痛い」が、第一声だったのじゃーないかと思います。妻が、左肩を揉み、右肩を看護師さんでそれぞれ揉んでくれているのが記憶に残っています。

 奇しくもレオナルド・ダビンチのウィトルウィウス的人体図様に、腕を肩の高さに挙げた形での6時間も手術台に固定されていた為に起きた筋肉の硬直が、起きているのだろうとの説明でした。これは、HHUにいる間に少し和らいできたもの右肩は、大きく改善されることなく、一般病室に移っても続き、シップ剤の処方を受け、夜寝るときだけこのシップを張るようにしています。

    術後、肛門ありますよと聞いた時、ある意味「ホット」しました。


    自覚症状について


 2025.12.3  鮮血便で「何だ!!!、これは?」 と、初めての自覚した症状。これまでにこのような症状は、一度もありませんでした。


 振り返って見ると、以前は、便秘も自覚しながら、息めばそれなりの太さの便が、出ていた事を記憶している。しかし、この頃、便秘と共に、しっかりと息んでも出てくる便は、「細くニュー」としか出ない状態になっていた事を覚えています。


   排便時のイメージ
          
    普段                      癌等が、通路を塞ぐ

 上図の様なイメージでの排便に変化したのでは無いかと思い出している。これは、私が、どうだったのかとその感覚の変化を思い起こしての感じです



 反省

    私の歯は、自前の歯で31本健在だ。

 これは、50年程前、JRALの電話級アマチュア無線技士講習を4回ほど頼まれて開催した。その時の講習者のXYLさんのご主人が、歯科医だった縁から現在で55年程お付き合いをさせていただいてきている。

 歯が、うずき出すとすぐ「先生、痛い」と言っては、受診して連続して3回以上通院した記憶は無い!!!。この様にしたからこそ、現在も31本の自分の歯がありますと言える。虫歯は、確かにある、しかし、31本は、自分の歯である。


 では、今回の大腸癌について再度考えると、冒頭でも述べたように検査を延ばし、延ばし、にしてきた事で下血と言う自覚症状で初めてその異常に気づいた。歯の場合、初期のうちに軽い痛みとして感じることができた。しかし、内臓の関係の場合、自覚症状が出現した時点で、多くはその病状が、かなり進んでいたと言う話を聞いている。自覚症状の出る前の初期の状態で対処すれば、このような大がかりな手術を受ける事は、無かったのでは無いかと思う。

 内視鏡手術(内視鏡治療)は、大腸カメラを肛門から挿入し、がんの病変を内側から切除する方法なのである意味簡単に対処できる。


 病気を含め物事に「たら、ば」は無い。では、検査をしたからと言って万病を発見できる訳では無い事も明らかだ。だからと言って、ほったらかしていいわけではない。

 数年に一度、いや最低3年に一度位の割合で検査をしていれば、「ここまで進行する以前に発見できたのでは?」と思えてならない。

 世の中には色々な人、それぞれの考え方が在るけれど、病気の検査に関して聞いていると、「明日検査があるから、「何々を控えた」とか、検査の結果が怖いから「検査を受けたくない」と言う輩が多い。普段と変わらない生活の中で検査する事が、大事なのだ。

       馬鹿な事を言うな!!!。

 病気により早く対処する為にに検査をするのだ。そして、可能な限り、一日でも早く治療をする。早期発見、早期治療、これが最善の病気の治療だ。

      自覚症状が、有ってからでは遅い!!!。肝に命じよ

 くどいが、私の大腸癌も もっと早く発見 していれば、内視鏡下の手術で済んだ。今回、最悪、開腹手術も視野に入れての説明だった。幸い、私は、最先端技術の国産手術支援ロボットhinotori?での低侵襲手術での大腸がん切除術を受けられた。手術から1週間で退院し、約2週間で、体力を使うことは無理だが、ほぼ普段の日常生活に戻る事ができたた。多分、以前の全く同じの生活習慣に戻れるのは、約一か月位経過しないとダメだろうと思われる。




    経 過

 4月26日 午前入院

 4月28日 午前手術室入室 (約6時間の手術時間と聞いた)

 私は、hinotoriという支援ロボットでの手術なのでいわゆる低侵襲手術で済んだ。4月28日の手術の次の日からリハビリで30m位の距離を歩行し、手術から2日目(4/30)に一般病棟に移り、トイレを含み、自分で歩いての行動となった。もちろん、せき込む、くしゃみ、姿勢の変化で「おなかに痛みが走るのをを感じながら。ほとんどが、トイレとの往復、懇談室への往復で1,500歩位歩いていました。

 4月30日 一般病棟へ

 5月2日 昼食から病院食
  メニューは、米飯100、鱈の春野菜あんかけ、ジャーマンポテト、大根サラダ和、ロールケーキ(抹茶)と予想外の一般食!!!!。もう少し、柔らかい物を想像していたけれど、その後、退院するまでこの手術に対応した食事と思えない一般食でした。

 5月4日 夕刻
  主治医の診察時に経過は良好なので「5月6日以降に退院できますよ」と告げられました。

 5月6日 午前中に退院
  帰宅してからの夕刻から、これまでに経験した事が全くない無い、「吐き気、そして、極度な気力、食欲の減退」に襲われ、午後10時過ぎ、3回連続で激しい嘔吐に襲われましたが、床に就く事ができました。

 5月7日 外来受診
 昨日の出来事を電話報告し、受診 ドレーン傷縫合



 手術12日目の5月10日では、微かに痛みを感じる程度まで戻ってきた。腹腔鏡手術ならば、もう少し大きな傷になっていたはず。そして、開腹手術ならば、まだまだ痛いと言っていたのでは無いかと、想像する。


 この記述は、私の体験談です。「もし、たら?、あの時に」は、ありません。あったとしたら自分への言い訳です。今、思うことは、やはり積極的に検査を受け、自分の体の状態を把握して置くべきだと強く、強く思います。手を抜き、なっちゃったでは、「あの時こうしていれば」思っても手遅れで悔いしか残らない。


    でも、病気にはなる 「なっちゃったもの」は、認めるしかない。その後が、大事と思うしか無く。

 そして、前向きに付き合う以外無い。自暴自棄の様な生活をするのでは無く、それなりに付き合って行くしか無い。



 40年程前の「両側の鼻茸の手術」、30年前の「黄色靭帯骨化症の手術」、22年前の「心筋梗塞発症」、そして今回の大腸癌」と満身創痍状態となっている。今更、一つ増えても、何とかなる。それなりの生活をすれば良いと思えば簡単だ。大したもんじゃ無いと開き直る事にして、「まな板の鯉」と考え、すべてを先生方にお任せすれば良い思っただけ。

    黄色靭帯骨化症  http://www.maroon.dti.ne.jp/~ja2eib/oyl/oyl.html.htm
    心筋梗塞発症  http://www.maroon.dti.ne.jp/~ja2eib/Myocardial/Myocardial.htm


 年齢から考えて見れば判る事で、術後の生存率より、寿命に対しての生存率の方を適用した方が適当と思われる年齢だ。


     敢えて言います。

 医療は、治してくれるのでは無く、
自分が、治りたい、治したい」と思う気持ちに応援してくれるのです。そして、助けてくれるのです。しかし、すべてが、治る訳では無いことも判っているつもりです。




2025.05.28 追記

 5/27 外来診療受診結果
  手術時の説明、現在の状態、今後の治療の説明を受けました。

 手術時に生検用として採取したサンプルの培養の結果「悪性の兆候は無し」とドクターから説明を聞きました。患部に関係していたリンパに転移があったが、手術時に一緒に切除しているから心配は無いとの説明でした。

 ステージVAの状態で、現状、直ちに心配な転移を認めてはいないが、念の為、大腸癌の術後補助化学療法(XELOX療法)を受けることにしました。この術後補助化学療法は、任意との説明も有りましたが、後に「あの時・・・・」と思っても後の祭りなので、しっかりと治療しておこうとの思いからお願いしました。

 6月3日から始まり、11月18日に最後のサイクルになる日程です。この療法は、1日目に点滴を受け、2日目から15日目まで朝夕と薬を服用し、16日目から21日目は薬を服用しないで休養する。この3週間のサイクルを計8回(6ヶ月間)繰り返す療法と説明を受けました。


  


2025.06.08 追記

 抗がん剤治療 (XELOX療法)について

 第一クール開始

 6月3日の検査結果から抗がん剤治療は、XELOX療法となり、8クールの予定は、半分の4クールとなりました。
 まず、外来受診時の午前中に必要な検査を受け、午後から3時間の点滴を受けて帰宅しました。その後、ゼローダ錠剤を体重、身長から朝夕6錠の服用を2週間続け、3週間目は薬の服用しないで休み、4週間目の初日に再び外来受診をして点滴を受ける。これを4回繰り返す。

          

 薬の副作用について
  ガイドブックには、種々の副作用が、記載されていました。今日(6/8)迄に顕著に現れた症状は、

  1) 胃もたれ
  2) 軽度な吐き気
  3) 食欲不振(食べられない訳では無かった)
  4) 頻繁な便意(1時間から1時間半でトイレに通う。しっかり出るのは、2回位で後は、オナラと共に漏れる感じ)
  5) 気持ちの落ち込み(経験した事が、無いくらい落ち込みました)
  6) 冷たい物に触ると指先が、ピリピリと感じる

 最悪時は、5日目でした。6日目は、かなり回復して、休日の朝の仲間とのモーニングコーヒーに参加できました。



 2025.06.17 追記

  薬の副作用にだいぶ慣れてきた。今朝のゼローダ服用後、23日迄一週間の服用休止となる。 軽い倦怠感と少しの「やる気の無さ」は、相変わらず続いているが、さて、どんな具合になるのか?。
 直腸が、無くなっていることからだろうと想像するが、頻繁なトイレ通いも続いている。



 2025.06.23

 ゼローダ服用休止後、一週間経過 第一クール終了

  副作用と思しき症状のは、ほとんど感じなくなったが、トイレ通いは少し減っただけだった。全体では、80%位に「調子良い」と言える状態にもどった。


  


 2025.06.24

  抗がん剤治療 (XELOX療法)第二クール開始

   アカン、副作用が再び頭をもたげてきた。

  血液検査、尿検査をして、外来診察受診。検査データから同じ条件で第二クールを開始。病院で3時間の点滴を受け、自宅に戻り、夕食後からゼローダ服用を再開。

 点滴終了時、歩行すべく立ち上がったところ、正常な右足の足首が不安定な事に気づいた。歩けない事は、無いが「転倒するかも」と思いがヨギッタので、無理をしないで車椅子を準備していただき、残っている事務手続きに向かった。

 一階フロアーで事務手続き済まして、フジタモールで休憩し、症状の回復を待った。消えはしなかったが、歩行できるようになったのを見極め、足が踏ん張れれる事を確認して、家路についた。

 副作用と思われる症状

 上半身の冷や汗、水を飲むと舌先のシビレ、手の指先のシビレ、歩行の不安定感等再び現れてきた。また、オナラと同時に「むにゅ」と便が漏れる症状に現れてきている。これは、6/25になっても続いている。

 帰路の途中に数回「ろれつ」が回らくなっていることに気づいた。家族から点滴後、ろれつが若干回らなくなっていると言われた。

 また、「冷や汗」と言えないが、胸から顔にかけて冷や汗の様な汗が、しばしだ出てきている。

 家に戻り、一息ついた午後8時過ぎには、トイレ以外の症状は、軽くなって来てきた。

 その後、少量だが、「鼻水が、止まらない状態になり、6/25になっても続いている。



 2025.06.26

 朝から、いわゆる「胃が重い」「おなかの調子がおかしい」と言う状態になった。「うーん、駄目だ」と思い居間の座椅子にもたれ掛かって休むことにした。その後、お昼頃になって、処方されている「整腸剤」を服用したら少し楽にはなったが、結局、横になったりして夕方まで、過ごした。


 待てよと、思い、スマホのGoogleタイムラインを確認してみると「点滴」から二日目の6/6は、家から出ていない。つまり、今日と同じ、第二クールの二日目だ。そうか、同じような症状が、繰り返すのか?。と、思うと気分的に楽になった。

 悩まされたのが、「鼻水」です。少量だけど、絶えず、出てくる。


 2025.06.27

 同様の副作用が、続いている。第一クールの時よりも、少しきつくなったような気がする。一応、食事は、食べなければとは思わなくても、それなりに食べる事が、できている。

 一日中、家で過ごす状態になって、居間の座椅子にもたれ掛かり過ごす事になってしまった。

 療養中の適度の運動は、必要な事は判っている。、これでは「駄目だ」と思い、近くに歩道に手すりの有る所が有った事を思い出し、ここは車も安全に駐車できるので、「1000歩こう」と少し頑張って見た。副作用での若干の不安定さ、黄色靱帯骨化症のからの歩行の不安定を考えて、この手すりのあるコースを選択した。Googleマップで調べるとこのコースは、直線で400mあるが、車と止める事を考えるえ、250m位を往復すると約1000歩になった。


 2025.06.28
 状況は、昨日と変わらない。

 頻繁な「トイレ通い」も収まらない。短ければ、30分位で襲って来る。「プリッ、そらまめ大」と「オナラ」と共に出るだけ。しっかり、出るならまだしも前記の状態。参った、参った。一日では、十数回を越しているだろう。助かっているのは。、就寝した後は、夜中に一回おきるだけで済んでいる。

 ただ、午後から「鼻水」は、止まった。
 やはり、一日中家の中過ごしたので、昨日のコースで今日も1000歩の散歩に出た。


 2025.06.29
 かなり改善した。夜明けのコーヒーブレークに参加できた。

 2025.06.30
 より、改善された。
 入口の生垣を両側で15m程選定できた

 2025.07.01
 口の中にゼローダの薬の味が、残るもののほとんど気を使うことなく過ごせた。
 一日中家にいるので、1000歩の散歩にでた。


 2025.07.02
 口の中にゼローダの薬の味が、残っているが、ほとんど気にならずに手術前に近い気分になっていた。

 第一クールの時を思い出すと、点滴の薬の影響が、一週間位続き、弱まっていたような気がする。そして、この第二クールでも同様の状態になっているのだろうと想像される。ゼローダを一週間服用しているので、口の中にゼローダの味が残っていると思われる。後一週間ゼローダを服用して、服用休止に入った一週間でどうなるのだろう?。慣れてくるのかな?。


 2025.07.06
  相変わらず、口の中に少しゼローダの薬の味が、残っているが、全体副作用の影響が、弱くなってきている事を感じている。

 第二クールが、始まる日の診察で一泊二日の旅に行く事は可能か、否かをドクターに相談してすると、、この状態なで体調の大きな変化が無ければ、大丈夫でしょうと言われた。

 行程を考え、23時15分頃に走行距離約500q、四国の大歩危峡旅に就いた。この500Kmを12時間で走行とし、各所のサービスエリアで休憩し、午前4時頃から仮眠し、明るくなった午前7時前に新名神宝塚北SAを離れ、再び走行を開始した。約束してある、高知道「大豊IC」を出た所に在る「道の駅 大杉」に予定した12時に数分前に到着できた。ここで、高知のお馴染み局と1時間ほどの楽しいアイボール時を過ごした。

 副作用の影響は、有る。でもそれが、大きく影響して差しさわりのある状態では無く、注意していればよい状態だったので安心して旅を楽しんだ


 2025.07.08

 今日の朝でゼローダを二週間の服用が、終わった。副作用の状態に大きな変化は、無い。このまま、帰路についても昨日と同じ注意をしていれば良いと考えた。

 午前10時頃、大歩危峡宿を出発し、南海フェリーの乗船するべく徳島港に向かった。途中、小歩危峡展望台に立ち寄り、峡谷の景色を堪能した。途中、吉野川SA、、阿波PAと休憩して走行した。徳島港へは、フェリー出航時間の40分前に到着できた。
乗船したフェリー  第6便(船名あい) 徳島港発 13:20 和歌山港着 15:40 

 和歌山にも3.5MHzのお馴染みさん2局の方が、通りのコーヒー店でアイボールするべく待機していていただいた。1時間程と考えていたが、楽しすぎ約2時間ほど喋りまくった。

 陽が、西に下がった午後18時頃、何時か再会できたらとの思いを残し、モービルのハンドルを我が家に取った。和歌山道、東名阪道、名阪道、東名阪道、伊勢湾岸道、23号線バイパスを経て、 途中、香芝SA(西名阪)、伊賀SA(名阪)、御在所SA(東名阪)、道の駅にしお岡ノ山(23号バイパス)でしっかり休憩して日付の変わった、7/9午前0時2分に帰宅できた。


 この間、副作用の影響は、ほとんどなっ方が、一昨年に白内障の手術をした左目としていない右目の像のずれに悩まされた。これは、すで疲れると出てくる症状なので、出てくれば、休憩する事にしている


 2025.07.09〜2025.07.12

 副作用を微かに感じる状態で過ごせた

 2025.07.13〜14

 副作用を気にする事無く過ごせた。トイレの回数の手術前と同じようになっていた。


      



2025.07.15

 第三クール開始

  午前に外来検査を受け、午後から約3時間点滴を受けた。点滴終了後、前回は、足に影響が強く出て、歩行を断念して車椅子で移動したので、今回はと思い足に元に注意した。やはり、第2回より軽いが、足元は怪しいと感じたので車椅子をお願いして、移動し、フジタモールでしっかり休み、足元を確認して帰路に就いた。


2025.07.16〜18

 第2回までに出た副作用が、すべて再発した。トイレが、めっちゃ近くなった。しっかり出るわけでは無く、オナラと共に「プリっと」出るだけ。そして、油断すると漏れ出る状態になっている。


2025.07.19
 朝目覚めて、「あれ!変だ」と感じた。やる気が全くない。ローカル局から恒例のコーヒーブレークの連絡が有ったが、欠席の連絡をした。
 思い出してみると第一クール、第二クールの時も点滴から四日目と五日目に副作用が、より強く現れている。となると、今回も同様に現れたと思い、自宅でゆっくりすることにし、座椅子にもたれ掛かって一日を過ごした。







                    



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