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全力キャッチボール


 子供にはキャッチボールを教えるのがいい、と誰かが言っていた覚えがある。
 キャッチボールとはボールのやり取りなのではなくて、心のやり取りなのだそうだ。ボールが身体に当たる痛みを知り、ボールを受ける相手への思いやりを知るのだそうだ。


 日が暮れる。グラウンドに校舎の影が伸びる。ランニングをするサッカー部の掛け声が一日の終わりを告げる。
 その中に一際大きな声がした。
「ラスト一球! 締まっていくぞっ!」
 サードに就いた恭介が気合を入れた。それに応えて、僕もバットを握り直す。二度ほど素振りをしてから、準備ができたよと鈴を見る。目が合って、鈴が小さく一つ頷いた。ワインドアップから、大きく振りかぶる。ぎこちなかったその動作も今では堂に入っていて、迫力があった。左足を腰より高く持ち上げて、そこから思い切りよく踏み出す。
「死ねっ」
 気合とともに白球が投じられる。真っ直ぐ。とても速い。バットには当たったもののどん詰まり。打球は鈍い音を残してショート、来ヶ谷さんの正面へ。
「オーライ!」
 そしてそれを捕るのは恭介だ。横っ飛びにから一回転。僕に投げ返す。僕は不意を突かれて、思わずそのボールを素手で止めてしまう。手のひらに重たい痛みが広がってきた。
「はっはっは、どうだ! 理樹もまだまだだな!」
 顔も服も身体中を真っ黒にして、恭介は笑う。心から嬉しそうに歯を見せて、つくづく子供みたいな人だと思った。
 来ヶ谷さんは外野のクドたちを見ながらニヤニヤと締まらない顔をして、打球に気づいている様子もなかった。
「よし、あがろう。みんな、ボールアップだ!」
 両手を上げて恭介がみんなを呼び寄せる。外野のクドと小毬さんが、キャッチボールをやめてホームへ集まる。真人やマネージャーの西園さんも来て、全員で終わりの挨拶。今日も疲れたねー、などと言い合いながら、グラウンドの整備が始まった。
「ちょっとよろしいかしら?」
 そこに、高慢な声と四つの影。
「ささおかかますみ!」
 トンボを放り出し、鈴が躍り出る。
「……いつも思うのですが、あなたワザと間違えてるのではなくって?」
「その発想はないな」
 笹瀬川さんは苛立たしげに髪をかき上げ、作業を止めた僕らを見回す。
「……あら、今日は、宮沢様はいらっしゃらないの?」
 心底残念そうな顔で笹瀬川さんが尋ねると、
「ああ、馬鹿なら剣道だぞ。後輩に引き摺られて、悔し泣きしていた」
 鈴が答えた。
 二学期になってからはなにかにつけて部活から逃げ回っていた謙吾だったが、今日はたまたま後輩たちに頼み込まれて剣道部に行っているのだ。
「あなたねぇ、そのような言葉遣いは改めたらどうなの? 馬鹿馬鹿って、いくら宮沢様の幼なじみだからといって失礼じゃなくって?」
「うん? アイツは正真正銘の馬鹿だぞ。むしろ馬鹿ってくらいじゃ収まらん。この前クロマティにジャンパーで爪を研がれてマジ泣きしてたからな」
 すると笹瀬川さんは顔を赤くして、
「ば、馬鹿にするのもいい加減になさい! なんでクロマティが宮沢様のジャンパーで爪を研がなきゃならないの!」
 全力でツッコミを入れる。
「うん? クロマティってのはあたしの猫だぞ。このあいだ拾ってきた」
 タイミングよく真っ黒い大きな猫が駆けてきて、鈴の身体によじ登った。クロマティだ。肩に前脚を引っ掛けてブラブラと楽しそうに垂れ下がる。
「こいつにジャンパーを引っ掻かれて泣いてたんだ」
「あー、そんなことあったね〜、慰めるの大変だったよ〜」
 と小毬さん。
 この人が嘘をつけないのを知っているのか、それを聞いた笹瀬川さんはギュッと目を瞑り、こめかみに指をあてて黙り込んでしまった。自分の中の謙吾と現実の謙吾が乖離してしまっているのだろう。ほんとうに不憫な人だった。
「……宮沢様の、物を大切にする精神には本当に敬服いたしますわ」
 そして受け入れた!
「あの、佐々美様、棗鈴との勝負は……」
 収拾がつかなくなりそうになったところで、後ろに下がっていた取り巻きの一人が言う。それで笹瀬川さんはハッとして、
「勝負よ! 棗鈴!」
 取り巻きから受け取ったバットの先を鈴に向ける。
 鈴は頷き、マウンドに登った。

「ルールはいつもと同じ、一打席勝負だ。守備はこちらで出す。謙吾は居ないが……まぁなんとかなるだろう。出塁すれば笹瀬川の勝ち。抑えれば鈴の勝ちだ」
 恭介が告げ、みんな守備位置に散った。僕も倉庫から持ってきたマスクを着けてホームベースの後ろに立つ。マウンドの鈴とキャッチボールする横で、笹瀬川さんと取り巻きの子たちが話をしている。
「佐々美様! 練習の日々を思い出してください!」
「今日こそにっくき棗鈴を打ち砕くお姿を!」
「バッティングセンターでの五百球、私たちはしかと覚えています!」
 口々に三人は激励を送り、笹瀬川さんは真剣な表情でバットを握り締める。
「準備はいい?」
 僕が歩み寄って尋ねる。笹瀬川さんが打席に入った。
「プレイボール!」
 サードの恭介が声を張り上げた。
 しゃがみこみ、笹瀬川さんを見る。両手に痛々しいくらいのテーピングを巻いていた。
今のところ鈴が六連勝している。そこに滲む血が、笹瀬川さんのプライドを表しているようだった。
 僕たちが野球を始めると、それまで鈴をなにかと目の敵にしていたという笹瀬川さんは、当然のように鈴に絡んできた。野球勝負。しかしそこで鈴が抜群の運動神経を発揮し、守りに助けられながら今日まで抑えてきたのだ。
 鈴が振りかぶり、ボールを投じる。鈴にはサインなんてわからない。ただ、鈴が気分で投げたボールを、僕が必死に受け止めるだけだ。
「す……ストライク!」
 僕の後ろに立つ審判役の子が、動揺しながらコールする。それもそのはずで、鈴のボールは内角ギリギリ、というか、笹瀬川さんギリギリの、それもシュート回転気味のストレートだ。それを笹瀬川さんは強引に振っていき、ストライク。
「棗鈴! 佐々美様になんてボールを!」
「あぁ、悪い。すっぽ抜けた」
 取り巻きのブーイングに鈴が気のない謝罪をするが、笹瀬川さんは意に介せず再びバットを構える。
 気を取り直しての二球目。今度は外だった。笹瀬川さんはまたバットを出して、一塁方向へ強いファールボールが飛んだ。これでツーナッシング。鈴が追い込む。外からは落胆の声がする。
「ふ、ふふ、ふふふ、おーっほっほっほ!」
 そしてなぜか、笹瀬川さんは唐突に高笑い。
「見えた、見えましたわ! 棗鈴、ついに破れたり!」
 そしてビッ! とバットでマウンドを指す。本当に絵に描いたようなライバル役の人だった。
「オーバーハンドとワインドアップに慣れるため、松坂と対戦し続けた今の私にとってみれば、あなたはよちよち歩きの子猫みたいなもんですわ!」
 そう宣言し、構えに入る。取り巻きの子らのボルテージも急に高騰し、笹瀬川さんに声援を送る。それでも鈴は動じずに、同じ様に振りかぶる。この辺の図太さという点で、鈴は本当に強くなった。
 三球目が放られる。笹瀬川さんは待ちかねたように始動する。
 が。
「ス、スライダー!?」
 笹瀬川さんはスイングの途中で器用に驚きの声を上げる。それも無理はなく、笹瀬川さんが鈴のスライダーを見るのはこれが初めてだった。
 空振る。僕はそう判断して、地面に膝をついて待ち構えた。ボールは女の子とはとても思えない変化を見せる。
「くっ!」
 だが笹瀬川さんにも意地があった。体勢を崩されながら、手をめいっぱいに伸ばす。
 金属バット特有のかん高い音がした。

「危ない!」

 誰かが叫んだ。
 薄暗くなったグラウンドで白球が真っ直ぐ尾を引いて、鈴を襲った。その小さな身体が弾かれるように倒れこむ。ドシャ、という、鈴の身体と土の地面が激しくぶつかる音が聞こえた。
 悲鳴が上がった。
 僕はその光景に一瞬、動けないでいた。
「だっ……大丈夫ですのっ!?」
 そんな僕など意にも介さず、バットを放り出して笹瀬川さんが鈴に駆け寄る。遅れて僕もその背を追う。
 みんながマウンドに集まってきた。みんな不安げに表情を曇らせている。背筋から、冷たい汗が這い出てきた。
「棗さん? どうです、動けますの?」
 真っ先に近寄った笹瀬川さんが、介抱しようとしゃがみこもうとしたときだった。
 突然、鈴がビョンと跳ね起きる。あまりに唐突で、笹瀬川さんが驚いて跳び退る。
「大丈夫だ、これくらい。大げさだな、おまえ」
 けろっと鈴はそう言って、右手でスカートの土を払った。その仕草を見て僕は心から安堵する。大丈夫。なんともない。いつもの通りの鈴だった。
「お、大げさですって!? 胸にボールを当てて、心臓が止まってしまうことだってありましてよ!?」
 そんな鈴の両肩を掴んで笹瀬川さんは捲くし立てる。その剣幕から心底鈴の身を案じていることが窺えた。ソフトボール部の次期キャプテン候補で、エースな笹瀬川さんだ。きっとピッチャー返しというものがどれほど恐ろしく、危険なものかを知っているんだろう。僕にはおおよそ想像しがたいことだった。
「んっ」
 そんな笹瀬川さんを意にも解さず、鈴はグローブを突き出す。覗き込むと、そこには軟球が収まっていた。
「またあたしの勝ちだな!」
 誇らしげに言って、鈴は満面の笑みを浮かべて見せる。
 途端に笹瀬川さんは、日が落ちたグラウンドでもわかるくらいに顔を紅潮させて、
「お、覚えてらっしゃい! 今度こそマウンドに這いつくばらしてやりますわ!」
 歯を食い縛り悔しげに捨て台詞をはいた。
「鈴! 大丈夫か!?」
 二人の睨み合いを仲裁するように、離れたところから声がした。恭介だった。ソフト部の取り巻きの一人を連れて、なぜか校舎の方から駆けてくる。手には大きめの箱をぶら下げていた。救急箱かと思ったが、どうやら違うらしい。オレンジ色のハートが描かれたプラスティックの箱だ。前面に白抜きのアルファベットで、AEDと書かれていた。
「うっさい、お前はいちいち騒ぎすぎなんじゃ!」
 歩み寄ろうとした恭介を、ふかーっ! と蹴り倒さんばかりの勢いで威嚇する。みんなの前で心配されるのが恥ずかしいのだろう。恭介はそんな鈴を見て、安心したように顔をほころばせて鈴の頭を撫でた。鈴は今度こそ恭介を蹴り上げて、リトルバスターズにようやく笑いが戻る。
「……ふんっ、帰りますわよ、あなたたち」
 笹瀬川さんはもう鈴を一瞥もしようとせず、取り巻きを連れ部室の方へ引き上げていった。
 四人の背中は暗がりに溶けて、すぐに見えなくなった。
「それじゃ、よし、片付けるか」
 恭介の言葉を端にして、わらわらとグラウンド整備が再開された。みんなに倣って僕も手近なトンボを持とうとすると、
「おい、理樹。お前はいいぞ」
 え? と思い恭介を見る。恭介は僕に歩み寄ってきて、小声で耳打ちした。
「鈴のこと保健室に連れていってやってくれないか?」
 言われて、僕はやっと気が付く。あれだけ派手に倒れたんだ。身体のどこかを打っていてもおかしくない。それなのに、僕は起き上がった鈴を見て安心するだけだった。
 他人に言われるまで、なんで思い至らないんだろう。
「後片付けは僕がやっておくから、恭介が付き添ってあげればいいんじゃない?」
 思いもかけず、声が冷たくなってしまったのを感じた。
「つれないこと言うなよ。俺じゃ、あいつ聞かないからさ。ほら、彼氏なんだろ? いいとこ見せてやれよ」
 ちゃかすように言って、恭介はうり、うり、と肘で小突いてくる。
 だけど僕は、とても頷く気になれないでいた。なにも答えず俯いて、悔しさに唇を噛み締める。
「……そんな気に病むなよ」
 こんなとき、恭介が口にしたのは慰めだった。
「誰だって恋人が倒れたら冷静じゃいられない。そうだろ? 俺だって、AEDがある場所なんて運動部のやつに聞かなきゃわかんなかったさ」
 どんな思いで恭介はこの言葉を僕に投げかけているのだろう。僕には想像さえできない。
「ほら、失点したら取り返せばいいだろ。保健室に引っ張ってでも連れてって、いたわってやれば十分だ。それはおまえにしかできないんだから」
 最後の言葉だけ僕は受け止めることができた。納得して、頷いた。
「……うん。わかったよ」
 僕はトンボをずりずり引き摺る鈴に声をかける。
「鈴。保健室に行こう」
 鈴は露骨に不審そうな顔で僕を見て言う。
「なんだ? おまえもちょっと心配性過ぎるぞ。恭介が移ったか?」
「いや、恭介は移んないからさ。……鈴の身体が心配なんだよ」
 歯の浮くような言葉だと自覚しながら、なんとか口にした。
「理樹、もう少しドシッと構えてたらどうなんだ。彼女としてはそこが心配だな」
 鈴に逆に心配されてしまった。それでも、僕は食い下がる。
「どこかぶつけたでしょ? 足捻ったりしてない?」
「うっさい。だいじょぶじゃ」
「今は痛くないかもしれないけどさ、あとから酷くなったりすることもあるんだよ? 診て貰うだけでもすれば、安心じゃない」
 鈴は困ったように眉を寄せて、う〜……、と唸る。腕組みをしながら、作業を続けるみんなに目をやる。
 きっと、自分だけ片付けをサボるようで気が引けているのだろう。かといって、僕に心配もさせたくない。板挟みになって、鈴は僕とみんなを交互に見やり、唸り続けていた。可哀想だとは思ったが、僕も引くわけに行かず、どうしたものか途方に暮れてしまった。
 そこで助け舟を出してくれたのは小毬さんだった。
「鈴ちゃん、行ってきなよ。あとは私たちでやっとくからさ」
 いつの間にかそばに立っていた小毬さんが後押ししてくれる。
「……でも、そうするとみんなが迷惑する」
 申し訳なさそうな、消え入りそうな声で鈴が呟くと、
「そんなことないって。みんな気にしないよ。それに私、鈴ちゃんがケガした〜、て聞いたほうが困っちゃうからさ」
 そう言って、ニッコリと笑ってみせる。
「ね? お願い、鈴ちゃん」
 その言葉はどれほど鈴の気持ちを前に進めただろう。鈴は少しのためらいのあと、力強く頷いて、声を張り上げる。
「みんな! 理樹を連れて保健室に行ってくる! ……その、なんだ。明日はあたしと理樹で後片付けする。だから今日は大目に見てくれ」
 なに水くせぇこと言ってんだー! これも筋トレの内だぜーっ! となぜか外野に居る真人が馬鹿でかい声で応えると、他のみんなも口々に気にするな、と返してくれた。
「……よし。行くぞ」
 鈴が僕の手を引いて歩き出す。

 保健室から昇降口へ向かう廊下。誰も居ない。明かりも殆ど消えていて、二人分の靴音だけが響いた。怖いのだろう、鈴が僕のほうへ擦り寄ってきたので、その手を繋いだ。
「なんともなくてよかったよ、ほんと」
 鈴は少しはにかむ。温かくて、ほんの少し豆のできた小さな手が、僕の手を強く握る。かつての、柔らかいだけの弱々しい手とは似ても似つかなかった。
「心配、してくれたんだな」
「当たり前じゃないか。鈴になにかあったら、僕はどうしたらいいのさ」
 微笑みかける。鈴も上目遣いに僕を見て、今度ははにかむでなく、笑ってくれた。それだけで、充実した嬉しさが、僕の胸を包んだ。
「……理樹は優しいな。たぶん、いつもあたしのことを考えてくれてかいるだな」
 そんな、あけすけで恥ずかしくなってしまうような、真っ直ぐな言葉だったからだろうか。
 ぎくりと心臓が軋んだ。
 胸の中に靄がかるようにして広がっていたやましさが、はっきりと影を落とし始める。
 僕は鈴に駆け寄ることもできなかったし、機転を利かせて応急処置に走ることもできない。保健室に連れて行ったのだって、恭介に言われるままのことだった。それなのに鈴は、本心から僕を優しいと言ってくれる。
 違うんだよ、そうじゃない。僕は強くなったつもりでいても、気持ちばかりでなにもできないままなんだ。鈴を守ろうにも、知らないことが多すぎる。
 口に出してしまいたかった。そうしても、鈴はきっと僕を許してくれるに違いない。
 そんな僕の目を、鈴の視線が射抜く。そしてなにを思ったのか、鈴は僕の前に回りこんで肩に手を置いた。
 それから、飛び上がるように唇を重ねてきた。
 ほんの一瞬、ぬくもりが伝わってくる。
「なにか困ったらこれに限るな」
 僕は棒立ちしたままで、唇はすぐ離れてしまう。鈴は恥ずかしそうに僕から離れ、
「だいじょうぶだ。一緒に強くなろう」
 僕の気持ちを見透かすように――いや、見透かして、言った。
 鈴はやっぱり、恭介の妹なんだなと思う。相手がどんな立場にいて、どう考えているのか、全部わかっているのだ。その相手が、どんな言葉を欲しがっているのかも。
 僕は中腰になって、鈴の華奢な背中に手をまわす。鈴と僕の心臓が重なる。鼓動から唇から、温かなものが僕の身体に流れ込んでくる。


 そんなだから、頼みごとがあると笹瀬川さんに呼び出されその話を聞いたとき、冷静ではいられなかった。
 昼休みの裏庭で、笹瀬川さんは開口一番こう言った。
「棗さん、女子ソフトボール部に入る気はありませんの?」
 その言葉がどういう意味なのか、考える気も起きなかった。遠まわしでもなんでもない。女子ソフト部への勧誘だった。馬鹿馬鹿しいと切り捨てて、さっさと帰ってしまってもよかった。でも、それでは笹瀬川さんの顔が立たないだろうと思いとどまる。
「……いったいどういう風の吹き回し?」
「新人戦が近いのはご存知ですわよね?」
 疑問文の応酬になった。話が噛みあわない。だから僕は黙って頷く。最近、謙吾がよく部活に引っ張られるのも新人戦のせいだ。
「ですから、今ならまだ間に合うと思ったんです」
「間に合うって、どういう意味さ。いったいなんのこと?」
 そんなこと聞かなくてもわかりそうなものだ。我ながら、まったく往生際が悪い。
 笹瀬川さんは呆れを隠そうともせず声のトーンを落とす。
「あなた、本当にわからないのでして?」
 僕の目を正面から見据えて、笹瀬川さんは続けた。
「わたくしはですね、あなたたちから見ればどうかは知りませんが、この世界ではそこそこ、名の知れた選手ですの。……自惚れではなくってよ? そんなわたくしを、いくらオーバースローでとは言え七打数で無安打。そんな女子選手がいたらチームに欲しくなるのは当然じゃなくって?」
「君が鈴のことを評価してるのはわかったよ。僕も鈴の運動神経はわかってる」
 わかっている、と口では言う。だが僕は果たして、本当にそんなことが言えるのだろうか。鈴と野球をするうちに、鈴の才能をどれほど理解していたというのだろう。
「でも、鈴は本当にソフトボールでやっていけるの? あの鈴が、今からチームに溶け込めると思う?」
 鈴の一番近くにいるはずの人間から出る言葉とは思えない。今いる鈴が、望んで人の輪に入ろうとするなら、上手く行かないわけがない。
「だから今なんですわ」
 察しの悪い鈍感な男に、じっくり言って聞かせるように笹瀬川さんは言う。
「先輩方が引退され、我が女子ソフトボール部は新チームになりました。私をキャプテンとして、新人戦に向け形を作ろうというときです。人の配置も流動的ですわ。逆に、次の大会で土台は殆ど固まってしまいます。ですから、もし新しい人を受け入れようと思えば、今しかありませんの。……それに、棗さんのボールの扱いは正直非凡です。遊びではなく、真剣にトレーニングを積めばきっとものになりますわ」
 そうか。笹瀬川さんは正式にキャプテンになっていたのか。とすると、この話は、本当の本当に本気なんだろう。考えてみれば、プライドの高い笹瀬川さんがわざわざ他人に根回しなんてするのも、笹瀬川さんがどれほど鈴を必要としているかという表れなのかもしれない。
 にわかに、立ちくらみを覚えた。僕はそれを誤魔化そうと、大げさにため息をついた。
「なんで僕に話すのかな?」
「あなたが棗さんの彼氏だからでは不足でして? 直接本人に言えば、一蹴されるに決まってますわ」
 鈴なら、本当に文字通り一蹴するんだろうな、と思った。だが、もし僕が話せば、どうするだろう? 想像することができなかった。
「もし直枝さんさえよろしければ、棗さんにお伺いを立てて下さらなくって?」
 僕はそれにどう答えただろう。よく思い出せないでいた。
 ただ後になってから、鈴にちゃんと話さなければいけないなと考えた。
 鈴は一部の女子の中では、特にグラウンドのことで揉める運動部の子の中では、まだ評判が悪いと聞く。鈴にしたって、いまさらソフトボールを始めるだなんて言いだすはずがない。
 だけど、とてもとてもあり得ないこと。そういう風に笑い飛ばしてしまう気力が、上手く湧かない。脳裏に、楽しそうにゴムボールを追い回した幼い鈴と、白球を投じる今の鈴とが浮かんできて、なかなか消えない。


 放課後といっても、まだまだ日は沈まない。夏も終わったはずなのに、陽射しだって十分強い。鈴は今日も中庭で猫たちと戯れている。僕は近くの石段に腰掛けて、鈴たちを微笑ましく思いながら眺めている。
「今日もおまえたちは可愛いな」
 鈴は一匹の猫を抱き上げたまま、芝生に寝転ぶ。他の猫たちもその周りを囲むように群がりだした。
「こら、そんないっぺんにおなかの上に乗るなっ、苦しいだろうが」
 身体中に猫をひっつかせながら鈴は笑う。僕の前で鈴は、猫を可愛がるのを隠そうとしなくなった。
「り、理樹っ、おまえも手伝え。あたし一人じゃ手が回らない」
 僕は頷いて腰を上げる。すると、何匹かの猫たちが競うようにこちらに向けて駆け出してきた。
 もし何事も起こらなければ、こんな時間はまだまだ終わらないように思えた。

 笹瀬川さんのことを打ち明けられないまま、数日が経った。僕たちはなんの変わりもなく野球をし、たまに別の遊びをして、時折鈴と二人で過ごす。僕も鈴もそんな日々が、いつか来る終わりへ向かっていることを知っていたし、だから覚悟もできている。そう思っていた。
 ところが実際はどうだろう?
 僕は鈴の心変わりに怯えている。鈴と過ごす時間が失われてしまうことが恐ろしくてならない。もし鈴が、自分の持つ可能性に賭けて飛躍を目指す決断をしたらどうしよう。そんなことを考えてしまうのだ。
 僕には鈴に打ち明けないでやり過ごす道と、打ち明けて反対する道と、応援してやる道が用意されている。選択を間違えれば、僕は掛け替えのないものを失ってしまうかもしれない。もしそうなっても、やり直しは利かないのだ。
 しかし僕には、どの道が正しいのか本当にわからなかった。鈴が勢いでその気になって、僕が応援などしてしまえば、やめようと思っても引っ込みがつかなくなってしまうかもしれない。僕が鈴に話しさえしなければ、鈴はなにも迷わない。
 そう考えたときに浮かぶのが、いつかの日の誓い。
『これからは強く生きる』
 この言葉に背くことだけは、絶対にあってはいけない。この誓いを裏切ることは、僕にとって掛け替えのなかったものたちへの裏切りに他ならない。
 ……鈴には、笹瀬川さんの言葉をそのままにして伝えよう。僕の余計な感想などは付け加えずに、ただそのまま。

 夕食後の空いた時間、おばちゃんたちも引き払い、誰もいなくなった食堂に鈴を呼びだした。男にこんな人気の無い場所に連れだされ、鈴も警戒のひとつもすればいいだろうに。僅かな明かりの下、テーブルを挟んで向かいにちょこんと座るのは、いつもと変わらぬ鈴だった。
「で、大事な話ってなんだ?」
 まるい瞳を細めて、生あくびをする。大きく後ろに伸びたときに、髪飾りの鈴が立てた音が薄暗い食堂に響く。
 本当、なんの疑いも持っていない。鈴のその素直さに、寒気を覚えた。そんな仔猫みたいな鈴が、僕の話を聞いてどんな顔をするだろう。今の僕にはまるで想像がつかなかった。
 それでももう、あとに退く道はない。自分が唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえる。一度大きく息を吸う。僕は意を決して口を開く。
「笹瀬川さんっているでしょ? ほら、ソフト部の」
「帰るぞ、あたし」
 笹瀬川さんの名前が出た途端、鈴はとろけさせていた目を吊り上げて僕を睨んだ。
「わ、待って、聞いてよ、鈴」
 もしそのまま歩み去ってくれたら、どれだけ気が楽になったことか。しかし鈴は僕の気持ちを知ってか知らずか、ふん、と鼻を鳴らして、椅子に腰掛け直した。
「さささみがどうした? また文句言ってきたのか。理樹、あたしが代わりにとっちめてきてやる」
 腰を落ち着けたのも束の間、ガタッ! と盛大に椅子を跳ね飛ばして立ち上がる。
「いやいや、違うよ、そうじゃなくてさ!」
 あまりに短絡的な反応に驚きながら、僕は鈴をなだめる。前に勝負をしたときはわりかし仲が良さそうに見えたけど、そうじゃないみたいだった。それとも単に恥ずかしがっているだけなんだろうか?
「その笹瀬川さんに、鈴に聞くよう頼まれたんだけどさ。……鈴は、ソフト部に入る気はある?」
 ……沈黙。
 鈴は静止画のように、驚愕に目を見開いたまま固まってしまった。僕はそれ以上なにも付け加えるわけに行かず、二人は身じろぎもせずに目を合わせていた。食堂にはまた静けさが戻った。じっと、暗くて重い静寂が、肩の辺りに降り積もっていくようだった。
「なに? 佐々美が、あたしをソフト部に?」
 長い時間を経て、鈴が裏返った素っ頓狂な声を上げた。目は丸めたままだった。
「なんか、寝耳に目薬って感じだな。本当なのか?」
 とてもとても信じられない。そんな顔をしていたから、僕は必要以上に大きく頷き返してみせた。
 鈴は腕を組み、首を捻ってうなりだした。
「本当に本当の話なのか?」
 じっ、と上目遣いになって、鈴は僕を見据える。鈴が信用しないのも無理はない。笹瀬川さんと鈴は犬猿の仲だし、鈴にとっての野球とは、リトルバスターズでの遊びみたいなものだったんだから。
「疑う気持ちもわかるけどさ。本当の真面目な話なんだよ」
「ふむ」
 鼻を鳴らして、鈴も僕と同じように頷いてみせる。どうやら、本当のことだと伝わったらしい。
 そしていささかの葛藤も見せることなく、
「よし決めた。断ってくる」
 と、言ってのけた。
「……いやいやいやいや」
 拍子抜けして、変な声が出てしまった。おもわずたじろいでしまう。それほどまでに清々しい笑顔だったのだ。
 気がついてはいたけれど、改めて、鈴は強くなったのだと思う。前までならば、こういうことがある度に迷って迷って、ずっと悩み抜いていたのに。
「ん? どうした、理樹」
「鈴。これって大事な話だと思うんだよ。……なんていうか、もう少しゆっくり考えた方がいいんじゃない?」。
「あたしはちゃんと考えて物を言ってる」
「だから、そうじゃなくてさ……」
 再三口を挟む僕に、鈴は胡散臭げな視線を投げかけてくる。
「鈴。鈴って、野球好きでしょ?」
 訊くと、そりゃな、と鈴は小さく頷く。
「だったら、その好きなことを自分の進路にできるって、いいと思わない?」
 これはただの、話を持ちかけた人間としての社交辞令みたいな、考えのない言葉だった。鈴の態度を見る限りには、僕には鈴の考えが、どうあろうと揺らぎそうにないものと思えたのだ。
 だから鈴が見せた動揺に、僕は驚かないでいられなかった。
 鈴は僕から顔を背けた。にじりだすようなしぼみんだ声になる。
「……あたしは別に、今のままでいい」
 鈴はそう言って、テーブルの上の自分の手に視線を落とした。
「理樹と、他の連中と、授業が終わって、みんなでわいわいやって、笑ってるのが好きなんだ」
 俯いたまま、鈴は野球の日々を思い出しているんだろうか。
 僕も薄く目を瞑る。小毬さんを三振にとってガッツポーズする鈴。恭介に外野の頭を超えられて、悔しさと寂しさが混ざったような顔をして肩を落とす鈴。笹瀬川さんをアウトに取った、心底からの嬉しそうな顔。ホームベースを挟んだ向こうの鈴の姿を、ありありと思い出すことができた。その鈴の笑顔は本当に晴れやかで、まばゆい、手の届かないものにさえ思えた。そして、本格的な試合ができず、つまらなそうにする顔も、同じく思い出された。やっぱり、鈴は本当に野球が好きになっていたんだな、と思った。
「じゃあ理樹、おまえは、あたしにどうして欲しいんだ?」
 鈴が顔を上げる。目を釣り上げて僕を見据えて、そんなことを言った。苛立つような、怒りを孕んだ目。けれどもなぜか、鈴のその言葉は喧嘩の売り文句なんかじゃなくて、もっと大切な問いなんじゃないか、と思わせた。
 僕はどうして欲しいか? 決まってる。そんな馬鹿な話があるか、と一蹴して笑って欲しいのだ。
 しかし、それならなんで僕は食い下がったりしたんだろう。結局のところやっぱり、鈴の導く答えを掻き乱しただけじゃないか。
「……鈴に才能があるなら、その道を選んでもいいと思う。鈴なら、きっとできるから」
 だけれど、この言葉も、まるきり嘘ではないのだ。
「そうか。理樹はあたしにソフトボールを頑張って欲しいんだな?」
「違う、そうじゃなくてさ。……鈴にもし、ソフトボールのすごい才能があって、ソフトボールの代表選手に選ばれたりして。僕たちの中から、そういう人が出るってのはすごいことで、応援したい。もしそうなったら、僕も応援したい。だけどさ……」
 いったい、僕はなにが言いたいのだろう。そして鈴は、どういう答えを期待して僕に尋ねてきたんだろう。
「……理樹、最近あたしには、おまえの考えていることがよくわからない」
 鈴はなんだか懐かしい、今にも泣き出してしまいそうに唇を噛み締めて言った。奇遇だね、鈴。僕も、自分のことがよくわからない。なんだか、僕も泣き出してしまいたかった。
 なんだろう。ただ、部活をやるやらないっていう、それだけのはずなのに、なんだって僕たちはこんなに迷わなくてはいけないんだろう。
「お互い、頭を冷やすとしよう。それから答えを出せばいいじゃないか」
 そう言って鈴が立ち上がる。そのまま歩き去るのかと思ったが、違った。
「ほら、いこう」
 僕は少し迷ったが、差し出された鈴の手を取る。鈴の右手は前よりも少し硬く、逞しく、温かかった。


 しかし、僕たちに猶予の時間は与えられなかった。
 食堂で鈴と話して二日が経った放課後、僕たちの練習場に、笹瀬川さんが現れる。この日、笹瀬川さんはひとりだった。
「棗さん。お答えを聞きにきたのですけれど」
 守備位置に散る、みんなの奇異の視線をものともせずに、笹瀬川さんはマウンドの鈴に歩み寄る。肩で風と一緒にそういうものも切り捨てていくような、堂々とした姿だった。
「なんだぁ? 理樹、あの女なに言ってやがんだ?」
 打席の真人が怪訝がって、ホームベースの後ろにしゃがむ僕を見た。僕はそれを黙殺してマウンドの成り行きを見ている。
「まさか、直枝さんからなにも聞かされていないとは言わせませんよ」
 笹瀬川さんが疑い深く僕に目配せをする。ここに至ってはもう、僕はなにも挟むべき言葉を持たなかった。すべては鈴が、鈴自身のこれからのために決断を下すだけなのだ。
「理樹から話は、全部聞いた」
「そう。それはよかったですわ。では、お答えを頂けますか? 棗さん、あなたは我が女子ソフトボール部に来る気がありまして?」
 その言葉にようやく、リトルバスターズの面々が状況を飲み込んだ。ざわざわと、マウンドを中心にして波紋が広がる。
「はぁ? なに訳わかんねえこと言い出すんだ、あの野郎」
 真人だけが状況を理解していないが、気にしなくていいだろう。来ヶ谷さんと西園さんは僕に鋭い視線を向けていて、小毬さん、クド、葉留佳さんはオロオロとマウンドに目をやっていた。恭介だけが、我関せずとストレッチをしていた。
「どうしました? 答えを出すだけのお時間は差し上げたつもりでしたが」
 鈴は答えなかった。
「わたくしは、貴女ならもっと厳しい、広い場所でソフトボールを楽しめる。そう見込んで声をお掛けしたのですよ?」
 それは暗に、僕たちのやっていることが身内のお遊びで、僕たちが足を引っ張っている。そういう当てこすりだったんだろうか。
 鈴はやはり、答えなかった。黙り込んで俯いて、まだ小さくて細い肩を震わせている。
「……貴女にはやはり、ここで彼氏と一緒に球遊びをしてるのがお似合い――」
 言われるままの鈴が不憫に思え、立ち上がって歩み寄ろうとした、そのときだった。

「佐々美っ! あたしと勝負しろっ!」

 鈴が突然、怒声を上げた。笹瀬川さんはおおいにたじろぎ、鈴から二歩、三歩と後じさりした。
「もしおまえがあたしを打てなかったら、そんな奴がキャプテンのチームなんか、こっちから願い下げじゃあボケェッ!!」
 校庭中に響き渡る、鈴のヤケクソみたいな叫び。考えも何もない、野生と本能の表れみたいな声だった。
 それが鈴の出した答えだったのだろうか。どういう意図があるのか、僕には測りかねた。
 驚いていた笹瀬川さんも、鈴の言いようにみるみる顔を高潮させる。憤怒の形相で鈴を睨みつけ、
「ボっ……このわたくしに、ボケですってぇっ! それから、わたくしだけならまだしも、我がソフトボール部を愚弄しようだなんて! それが貴女の答えというなら、わかりました。受けて立とうじゃありませんか!」
 そうして、二人の間におそらく最後の火花が散った。僕の手の届かない場所で、二人の戦いが始まろうとしていた。

「ルールはいつもと同じ。いいな。カウントはあからさまなボール以外は、ストライクととる。いいんだな?」
 恭介の問いに、笹瀬川さんは無言で頷いて答える。恭介はそのままサードの守備に就く。今日は人数がいないため、審判が居ない。僕の後ろには誰もいないことになる。
 笹瀬川さんは、体育用のバットの中から、入念に選んだバットを手に持ち、素振りをしながら足場を固める。
 鈴はマウンドでロージンをいじくりながら、ピッチャープレートの土を足で払っている。
 いったい鈴は、なにを考えてマウンドに上がっているんだろう。本心から、笹瀬川さんの実力を疑ったわけではない、とは思う。しかし、それにも確信が持てなかった。鈴の本心はどこにあるのだろう。
 うだうだと考えるうちに、恭介がプレイボールを宣言する。笹瀬川さんがバットを構え、左足で小刻みにリズムを刻む。鈴がロージンを投げ捨て、振り被る。
 僕はただ鈴の球を受けるだけだ。なにかを考えていても、なにも考えていなくても、この対決は決着する。それがどんなものであれ、僕にはもう、止められはしないのだ。
 瞬間、鈴の指先から放たれた白球が唸りを上げ、マスク越しに僕の顎を捉えた。
 あまりの衝撃に、僕は仰け反って倒れる。しかし、鈴は気に止めた風もなく、足元に転がしていたスペアのボールに手を伸ばしている。
 鈴のボールの威力で、マスクは外れて弾け飛んでいた。脳震盪を起こしたように視界が歪み、マウンドの鈴が霞んで見えた。
 鈴は本当、なにを考えて、笹瀬川さんと対峙しているんだろう。心底から怒りを露わにして、鈴はマウンドに登っている。なにが鈴の怒りを掻き立てているんだろう。このままフォアボールにして、リトルバスターズを抜けるつもりなのだろうか。それとも、残りたい一心の力みなんだろうか。マウンドの鈴の表情は、ほとんど見えない。
 二球目、恐怖さえ覚えるような豪快な投球フォームから、とんでもない暴投が繰り出される。笹瀬川さんのバットが掠めホームベースでワンバウンドし、僕の胸にぶつかった。今まで見たこともないような、剛速球だった。男子だって、これだけ投げられるか怪しいほどだ。プロテクターはなく、その衝撃がダイレクトに伝わってくる。
 息が詰まった。
「だ、大丈夫ですの?」
 見かねた笹瀬川さんが、手を貸してくれた。僕はその手を取って起き上がる。
 その痛みで、視界がクリアになったのだろうか。
 鈴と目が合った。
 マウンドから鈴は、僕を助け起こす笹瀬川さんではなく、僕自身に向けて、怒りの眼差しを送っていたのだ。鈴は僕に対して、今まで見せたこともないような怒りを表明していたのだ。
 大きく息をつく。肺が膨らむと、胸の打撲が痛む。意識にかかっていた霞みが晴れた。
「ちょっと、タイムいい?」
 笹瀬川さんに断ってから、一歩ずつ、マウンドに歩いていく。鈴は僕を睨んだままだ。
「鈴。サインを出したいんだけど、いい?」
 ん? と、鈴は表情を少しだけ和らげる。
「さっき、バットに当てられてたからさ。まっすぐだけじゃ辛いと思うんだ」
 鈴の出した答え。この速球こそが、鈴の本心だったのではないだろうか。この制御の利かない荒れ球こそ丸々、鈴の気持ちそのままだったんじゃないだろうか。
 なら僕も、答えを出さなければならない。
「一緒に笹瀬川さんを抑えてさ、またみんなで野球しようよ」
 その後の鈴の、これまた見たこともないような、嬉しそうな顔。

 簡単に鈴とサインの打ち合わせをしてから、キャッチャーズボックスに戻る。といっても、鈴にはストレートとスライダーしかない。サインなんて意味がないのかも知れない。
 再びプレイがかかって、笹瀬川さんが構えに入る。
 笹瀬川さんにも意地がある。コケにされて黙ってられないという思いもあるだろう。自惚れかも知れないけれど、鈴のような素晴らしい選手と共にプレイしたいという気持ちも湧き出ているのかもしれない。真剣な表情の中に見える、どこか柔らかい雰囲気がそう思わせているのかもしれない。
 鈴の今までで一番速いストレートにも、バットを当ててきた。今日の笹瀬川さんには、下手をすると打たれてしまうかもしれない。むしろ、ド素人の僕がサインなんて出さない方がいい結果に結びつくのではないだろうか。素人考えなんて、笹瀬川さんにはお見通しだろうから。
 でも、それでいいんじゃないか、と僕は思うのだ。鈴がこれからも、今のように心から楽しそうな表情をしていられるなら、きっとどちらでも構わないんじゃないだろうか。
 そういった雑念を、僕は振り払った。集中すべきはこの瞬間なのだ。全力で頭を働かせて、配球を考える。打たれてしまえばそれまで、本望だ。などという気はない。全力で笹瀬川さんを抑える。
「プレイ!」
 恭介の声が聞こえてくるが、関係ない。僕は鈴が全力で投げてくれることを信じてサインを出すだけだし、そのボールを全力で受け止める。それだけを考えていた。

あとがき


 四万ヒット記念SSだったんですが、気がつけばもう二千ヒット近く過ぎてますね。鈴の投球能力は現実仕様にしてみました。自分のSSにしては割かし長い。だれないように気をつけると駆け足になり、困ったもんです。
 原作で疑問だったんですけど、普通新人戦っていったら秋ですよね。そんなに悪い怪我ってことになってたんでしょうか。それともやはり、そういう設定の世界だったのか。わかんないので現実準拠にしてしまいました。いいのかどうか。

 エンディングを迎えたあとの理樹くんたちは、果たして超人的な強さを手に入れたのか、というと、世の中そんなに甘くないんじゃないか、と思うわけです、はい。

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