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我が青春の群像


 ここ数日、涼しくなってとてもすごしやすかったのが嘘のように今日は暑い。窓を全開にしても風がないせいで涼しくもなんともならない。自分の肌から汗が吹き出て、膜になっていくのが感じられた。
 窓を開けたせいで外のセミの声がそのまま入ってくる。涼しければ聞き流せるが、こう暑いとやたらに苛立つばかりだ。消すのが面倒だったために点けっぱなしのテレビから聞こえる、何も考えていなさそうな司会の声も気分を苛立たせるのに一役買っている。うるさいから消して、シャワーでも浴びてしまおうか――と思って、ベッドから立ち上がったときに、それはやって来た。
「……が更に効果を引き上げるんですよ、奥さん!」
 白髪の司会者が文字とイラストの書かれたボードを叩きながら、出演者に向かって言った。瞬間、俺はテレビの両端を押さえつけるように掴み、叫んでいた。
「これだっ!」


「お邪魔します」
 茜が、俺の他に誰もいないことを知っているのに、わざわざ頭を下げてから扉を通った。茜が靴を脱いで玄関に上がると、薄手の白いワンピースの裾が揺れた。俺が立てた予定の関係上、茜には薄着をして欲しかったのだが、ストレートに言っても茜は薄着をして来ないだろう。わざわざプールに誘ってから、うちに連れて来たのは正解だった。やはり、プールに行こうとする人間は薄着になるものだ。
「どうしたんですか?」
 あまり長いこと見すぎたらしく、茜がこちらをいぶかしげに見ている。あまり怪しまれては、これからの予定が崩れてしまう。
「茜の水着姿を思い出してたんだ」
「……もう」
 ふざけたフリをすると、茜は口を尖らせながら呟いて一人で居間に行ってしまった。
 俺が居間に行くと、茜は荷物を床に置いてテーブルの前に立っていた。適当に座るように言うと、茜は椅子にかけて机に肘をついた。かなり泳いだから疲れているんだろう。何か飲むか訊ねると、茜は冷たいものが飲みたいとだけ答えた。
 台所に行き、冷蔵庫を開ける。麦茶とジュースが置いてあった。ジュースと氷をグラスに入れて、茜に手渡す。
「ほれ、疲れたときは甘いもんだろ」
 疲れていなくても甘いものばかり口にする茜は、ありがとうと呟いてジュースを受け取った。氷とグラスがぶつかって、ベルのような音を立てる。瞬間、風が吹く。日光をさえぎるために閉めていたレースのカーテンが揺れ、ジュースの甘い香りとプールのむずがゆい香り、そして茜の汗の匂いが鼻先をくすぐった。茜がグラスを両手で持ち、目をつぶって一気に、しかしゆっくりと飲み干す。飲み終えたあと、机に突っ伏するようにもたれかかった。茜の長い髪の間からは無防備なうなじと、服の隙間からは日焼けをしなかったのか、ただ透けるように白い背中が見えた。自分でも気付かないうちにノドの奥が鳴り異物感が走る。かなり大きい音が出たと思ったが、そうでもなかったらしい。茜は気づいていない様子だったことに安心して、疲れたのかと訊ねると、茜ははいと答えた。
「かなり汗もかいてるな。風呂にでも入ってけよ」
「え……」
 茜が体は伏したままこちらを見上げたと思ったら、口を半開きにして、視線を左右に動かし始めた。
「汗かいたままで帰るのは嫌だろ?」
 いくら茜が他人と接しないように動くタイプとは言え、他人をまったく気にしないわけじゃない。やはり、そのへんは普通の女の子だ。俺が言うと、茜は自分の服に顔を近づけ、匂いをかいだ。プールを出たあとにシャワーを浴びているとは言え、塩素の匂いは取れ切れているわけがないし、家に着くまでに汗だってかいているだろう。茜が顔を上げ、こちらを見る。茜は口を開こうとしたが、閉じたままだった。
「どうした?」
「……入ります」
 茜が呟くようにして答える。
「よし、決まりだな! さぁ!」
 俺が立ち上がると勢いがありすぎたせいか、俺の椅子が音を立てて倒れた。茜は眉根を寄せ、
「なんでそんなに張り切ってるんですか」
「気のせいだろ」
 俺は答えながら倒れた椅子を直してから、茜の手を握る。白い手を引くと、茜はうつむきながら立ち上がった。金色の髪が流れる。再び現れたうなじはあまりに近くにあるせいでさっきよりも強烈に迫り、そこから香る茜の柔らかさは俺の鼻を圧迫した。途端、体の一部に血が流れる。
「わっ!」
 慌てて大声を上げて茜を無理やりに起こした。何があったのかわからないのだろう茜はこちらをいぶかしげに見つめた。
「……気のせいだ」
 開きかけていた茜の口を封じ、ドアを開ける。居間から出たところで手を離し、後ろから茜の背を押すことにした。茜が驚いたようにひっくり返った声を上げたことを無視して廊下を急いだ。途中、電話を置いている机に腰を強打しながらも風呂場に直行した。昨日のうちに片付けておいた脱衣所で、指が食い込むほど強く茜の肩を握り(茜はまた裏声を上げた)、急ブレーキをかける。
「風呂場だ!」
 俺が浴室の扉の方向に高々と手をかざすと茜はひどく冷めた顔で、
「そうですね」
 とだけ呟いた。俺は浴室の扉を叩き割るような勢いで開き、もう一度叫ぶ。
「風呂場だ!」
 「そうですね」を繰り返そうとした茜は、開きかけた口を閉じ、目を閉じてアゴを上げた。小さな鼻が、すんすんと鳴る。くくく、どうやら気付いたらしい。
「風呂だ!」
「わかってます」
 それだけ言うと、茜は誘われるようにして風呂場へと入っていく。風呂桶に向かって、髪が垂れないように左手で押さえながら、上半身を倒す。右手だけで風呂桶の蓋を転がし、腰を倒して風呂桶の中へと顔を突っ込んだ。
「う、うーむ」
 脱衣所にいる俺から見える風景はそれだけではなかった。立ったままの茜が上半身を大きく倒れこませれば、もちろん腰から脚にかけての柔らかなラインは後ろにいる俺に見せ付けるかのように、薄着から浮き立つ……男であるという理由から、俺は茜と同じようなポーズを取らざるを得なくなる。体の一部を抑えながら。しかし、そうもしていられない。今日の目的はそんなことじゃあなく、これから始まることだ。よし、と頬を叩き自分に喝を入れる。その音に反応して、茜が顔だけをこちらに振り向かせた。
「これは、」
 茜が蒸気で顔を赤くしながら言った。
「蜂蜜?」
 そのとおり、大正解。と俺が言うと、茜は真っ赤な顔を浴槽へと向けた。息を吸う音が聞こえる。浴槽から立ち上る蜂蜜の蒸気を一心に受けている茜に、(聞こえているかどうかは分からないが)「それは蜂蜜風呂なのだ」ということを教えた。俺の頭に、白髪の司会者の顔が浮かぶ。
「肌にいいらしいぞ」
「へぇ……」
 肌に良いとか悪いとかは、この際関係ない。大切なのは、
「入るんだよな?」
 それだけだ。茜がこちらを振り向く。
「入ります」
「よしよし」
 俺は作戦がまったく問題なくここまで進行したことに満足し、腕組みをして大きくうなずく。しかし、茜は不満げにこちらを見ている。
「どうした?」
「……出てってください」

―――――――――――――――――――――

「……なんで?」
 無邪気に首を傾げて見せた。
 そんな俺の反応に、茜は僅かに言い淀んだが、
「このままじゃ服が脱げないじゃないですか」
 と凄んで見せた。その声の刺々しさに俺は少なからず動揺したが、そんなことで挫けてはいられない。
「出ていってください」
 茜はイントネーションに力を込めて、再度言い切る。
「それは、できない」
 俺も負けじと、間髪置かずにはっきりと意志を示す。今度は茜が動揺する番だった。
「……なんでですか?」
「茜の着替えが見たいから」
 そしてゆくゆくその先が。
 ここまで来れば、もうごまかしなど不要だった。
 俺の気迫が伝わったのだろうか、茜は押し黙った。俺はこの好機を逃さずに、一層のたたみ掛けを図る。
「茜。おまえの気持ちは、わかるよ。そりゃ初めは恥ずかしいだろうさ。だが、できないと思っているうちは、何事もできないものだ。ほら、病は気からとよく言うだろ? だからまず、なんでもやってみることから始めるのが、人として正しい姿勢じゃないか?」
 茜はじっと顔を伏せ、俺の軽やかな弁舌を聞き入っていた。肩を萎ませ、日の差さない風呂場に立っている。どんな顔かは見えないが、俺の言葉に改心したのは確からしい。あと一押しだった。
「だから、脱ごう」
 茜が風呂場から出てきた。そのまま、俺の方へ歩みよってくる。まっしろな素足が、ぺたぺたとフローリングを踏む。
 それから茜は俺の眼前に立つと、おもむろに俺のTシャツの襟を掴んだ。何事だろうかと思っていると、茜はシャツを鷲掴みにしたままずんずんずんずん歩き始めた。
 茜は無言のまま、薄暗い居間まで俺を引きずっていった。後ろ手にバシンと脱衣所のドアを閉め、シャツを離した。
「浩平は、ここで、大人しくしててくださいね」
 最接近距離で、俺の目を覗き込むようにしながら、茜は言った。低く、囁くような声だった。茜の肌はまだ赤くなったままだった。白いワンピースが汗で張り付き、その色が透けて見えようかというほどだった。窓の外の清々しい明るさに比べて不健康に薄暗い室内で、それはやけに鮮明に見えて、俺は純情っぽいめまいを感じた。
「絶対に、覗かないでくださいよ」
 そう念を押して、頬を染めた美しい娘は、ドアの向こうに消えて行った。
 俺が何も言わなかったのは、茜の肌のあの赤らみに、恥じらいとかではなく、憤怒とか激昂とかの感情を見て取ったからだった。

 それから少しばかり後、俺は入道雲と日射しの下で、せっせと好感度アップに励んでいた。茜があんなにつれないのも何もかも、すべては好感度が足りなかったせいだと気がついたのだ。
 とんと使っていなかった自転車を引っ張り出して、チェーンとギアをがりがりとすり減らしながら商店街へ急ぐ。ペダルは重いしベタつくシャツは気持ち悪かった。だが、悪い気持ちは不思議としない。晴天の開放感が成せる業なのか、それとも煩悩が昇華される副作用なのか見当もつかなかったが、ともかく気分は爽快だった。
 休日の只中にある商店街の賑わいも、この炎天下で多少くたびれているように見えた。いや、それは陽炎とか俺の肉体疲労の加減でそう見えただけのようだった。
 その証拠に、山葉堂に群がる女子高生たちはすこぶる元気で健康そうだった。生クリームやら練乳やらがたっぷり乗ったワッフルを、夏の太陽が降り注ぐ店先で幸せそうに食んでいる。餡子に色とりどりのフルーツが盛られたものもあった。彼女らの笑みは、俺に数週間前の太陽を思い起こさせた。畏敬の念を込め、俺はその様子をいつまでも眺めていた。
 そんな彼女らが、時折こちらを指差して奇異の視線を向けているのに気が付いて、俺は自分の目的を思い出した。カウンターに並び、プレーンワッフルを五つ買い求めた。
 ケーキと同じ厚紙の箱をママチャリのかごに入れる。清々しい青空の下、俺はまたペダルを漕いだ。不思議と自転車は軽快なまでに走っていった。急いで帰れば、湯上りの柔肌にバスタオルを巻いただけの茜と鉢合わせできるかも知れないではないか。
 勢いに任せて居間に飛び込んでみたが、どうやらそんな都合が良いのか悪いのか分かり辛いシチュエーションにはならないようだった。茜は長風呂だった。よく考えれば、そんなことで好感度を下げることが俺にとってプラスになるわけがなかったので、まったく残念ではなかった。
 麦茶を一息に呷り、汗まみれのTシャツを着替え、茜のバスタオルを用意すると、やることがなくなった。仕方がないので、ワッフルを皿の上に展開するなど、やがて始まるめくるめくティータイムの準備をする。箱からワッフルを取り出し、白い大きめの皿に並べ、冷蔵庫の練乳をテーブルの上に置いた。蜂蜜が風呂場に置きっぱなしだったのを思い出して、自分の中でせめぎ合いをしたりした。新しく買ってこようかとも思ったが、風呂用に準備した二瓶のうち、片方は半分以上残っていたはずなのでやめることにした。ワッフルの配置がいまいちなので並べ替えようとしたとき、髪を下ろした茜がドアを開けた。
 まずワッフルに気付き、しばらく視線を止めたあと、ついでとばかりに俺を見る。
「買って来てくれたんですか?」
 どこか胡散臭がっているような口ぶりだった。口ぶりに限らず、表情も胡散臭そうというか、まんま胡散臭がっているようだった。それにもめげず、俺は気取った風にならないよう、
「まあ、家に招いて風呂だけってのも、あれだしな」
 とだけ言って立ち上がり、部屋の隅にあった扇風機を持ち出して、ソファーの横に置く。「微風」に設定して、扇風機の電源を入れた。座ったらどうかと勧めると、茜はなにやら迷った風にしてから、ソファーに浅く腰掛け、上目遣い気味に俺を見た。それから、
「ありがとうございます」
 と言って、照れ笑いした。まさにはにかんだという感じの、控えめな微笑みだった。風に髪を乱されて、前に垂れた長い髪を払うとき、はだけた胸元が反則的に薄赤く染まっているのが見えた。
「……あの、浩平」
 ん? と聞き返しながら、俺は茜の隣に座る。すると、スプリングが沈むのに合わせて、茜が少しだけ、こちら寄りに座り直した。肩と肩をすり合せるようにして、顔を俺の耳元に寄せ、つぶやくように言う。
「さっきは、すみませんでした」
 俺はまさに舞い上がり、そして激しく動揺した。いったいどこに茜が謝る理由があるというのか。そして、この謝罪はどういう意味を含んでいるのだろうか。
 平静を装い、横目で茜を見ると、茜はもう俯き加減にそっぽを向いてしまっている。それでも、顔を赤くしているのはわかった。こんな反応が返ってくるとはまったく思っていなかった。どのように対応すれば良いか、冷静に考える必要があった。
「あ、蜂蜜、取ってくるな」
 蜂蜜は、風呂場の棚に置いたはずだった。茜の横を抜け、脱衣所へ歩き出そうとしたときだった。
 不意に、柔らかい湿った何かが俺の手に触れた。振り向くと、茜がソファーから身を乗り出して、俺の手首を掴んでいるのだった。それはもうばっちりと目が合った。なにか、とてもとても切実な視線に見えた。
「……行かないでください」
 「微風」にさえ掻き消えてしまうのではないかという、小さな声だった。茜は最高潮に赤面していた。髪の間から覗く耳まで、赤かった。羞恥の、恥じらいの、赤面だった。微風に乗って、いつもと違うシャンプーの匂いがした。
 また前屈みになる必要が生まれる前に、茜の柔らかくて湿った手を解いて、風呂場に急いだ。俺は混乱していた。酷くテンパっていた。一体何が、彼女の好感度をここまで引き上げたのだろうか。答えが出るとは思えなかったが、考えずにもいられなかった。
 その答えは、風呂場に入ってすぐに導かれた。

 俺は蜂蜜の壷を二つ腕に抱いて、リビングに戻った。
「なあ、茜」
 茜は羞恥に俯いたまま、呼びかけには反応せずに、じっとソファーに座っている。
 俺は自分の間抜けを悔いながら、一つ大きく息をつき、尋ねた。
「蜂蜜、食った?」
 茜がさらに赤面して見えたのは、随分高かった夏の日が暮れかけているからではないようだった。

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