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消臭剤の朝


 ファブリーズはどこにあったっけ。
 立ち上がろうとして、自分が思いのほかくたびれていることに気づいた。ふくらはぎの辺りがじんわり痛む。揉み解そうと手を伸ばせば、腕がだるい。背中も張ってる気がする。若返りたいなんて思わないけれど、歳は取りたくない。
 よっ、と声に出して、立ち上がる。オヤジ臭いからやめろって鈴にはいつも言われてるけど、いかんともしがたい。
 玄関。靴箱の上。床の間。洗面台。いろいろ探し回ったけれど、一向に見つからない。確かに鈴が使ってた記憶はあるんだけど。
 それから家中探して回って、トイレの消臭剤で代用できないかと考え始め、やっとタンスの引き出しにファブリーズを見つけたとき、トタトタと階段を下りる足音が聞こえてきた。微かに鈴の音が聞こえた。
 ファブリーズを手に持ったまま台所へ行く。
「なにしにきたの?」
 問いかけてみても返事はない。りんりんと首輪を鳴らしながら僕の前を素通りして、鈴の椅子の足に身体を擦り付け始めた。ホントに可愛げがない。
 脱衣所に戻って、明日の背広に念入りにファブリーズした。こうも線香の匂いがするとかなわない。ついでに自分の髪にも吹きかける。頭皮に一抹の不安がなくはないけど、シャンプーだけで落ちるかどうか不安だった。
 猫はまだ鈴の椅子にじゃれついていた。
「なに、ご飯?」
 にゃおん。振り向きもせず答える。僕はうすらぼけた記憶を頼りに、キャットフードを探して皿に盛った。乾燥タイプの餌(猫のお医者さん推奨:糖尿病予防タイプマグロ味)がカラカラと音を立てると、興味深げにこっちを見だして、でも寄ってくることはしなかった。まあ勝手にしてほしい。こっちは朝から出勤なもので。
 階段を登って寝室へ向かう途中、空き部屋のドアが半開きになっているのが見えた。廊下の灯りが差し込んで、南向きの大きな窓が見えた。その左右にぶら下がったカーテンには爪あとでボロボロになっていて、その下の壁や、鈴の両親がくれた古臭い勉強机も同じだった。我が物顔で何様のつもりなんだろうか。犬は人に猫は家に付くというけれど、だったらもう少し大切にして欲しい。なに考えてるんだろう。鈴の両親も両親で、予定もないのになに考えてるんだろう。
 寝室のただっぴろいベッドに独りで寝転んだ。電気は点けないままで、枕元の充電端子を携帯に差し込んで開く。電池マークが点滅する下に着信アイコン。ちょっとうんざりした。開いてみれば案の定鈴の母親からだった。葬儀の形式というのはこんなに人を執念深くさせるものなんだろうか。極楽浄土で幸せにって、知りもしない坊さんにお金を出すだけで幸せになれるなら誰も苦労しないと思うんだけど。そんな嘘っぱちにすがるほど僕らは落ちぶれてない。人は死んだらそれっきりってことくらい知ってて欲しい。本当、なに考えてるのかわからない。
 電話帳編集のコマンドを選ぶ。フォルダの上から二番目『親戚』。もう連絡を取ることもないだろう。削除の項目を選びかけて、眠かったのでそのまま携帯を置いて目を閉じた。まぶたの裏の暗がりに目が慣れると、案外早く眠れた。

 翌日僕が出勤すると、同僚がみんな驚いた顔をしていた。まあそんなもんだろうと思う。席を立って、トイレに入った。鏡を覗くと、光の加減のせいで妙に酷い顔をしていた。袖をまくって顔を洗っているとき、背中のドアが開いて、同期の奴が顔を出した。
「……大丈夫なのか?」
「うん、まあ、なんとか」
 ポケットから薬を取り出す。もう半分くらいまで減っていた。また病院にいかなきゃならないのかと思うと憂鬱になる。
「まだ休めるんだろ?」
「あと一週間かな? でも、いつも迷惑かけっぱなしだし」
 言いながら錠剤を口に含んで、手で水を掬う。鏡越しに見た同僚の顔は複雑で、哀れんでくれているのか、非常識だと困惑しているのか、よく分からなかった。
「仕事してた方が気が紛れるからね」
 僕が落ち込んだ風にそう言うと、やっと微かに笑って、控えめな同情の言葉をくれた。
「あんまり無理するなよ」
 薬を飲み下して、鏡越しに頷いて見せるとドアが閉まった。用も足さないで、どうやら僕の後をつけてきただけらしい。悪い奴じゃないのは間違いないけど、相変わらず抜けている。
 トイレから出て席に着くと、上司がなんの気なそうにやってきて体調を訊ねてきた。いや、大丈夫ですよー、なんて返していたら、
「気を遣うことないよ。規則で大丈夫ってなってるんだからさ。こういうときはお互い様だよ。仕事も少ないし。……それに、みんな気にしちゃうみたいだからさ」
 なんて言われてしまった。僕は空気が読めていないようだった。結局根負けして帰されてしまった。
 昼間の街を歩いた。やることなんてない。どこかでお昼でも食べようかと思ったけれど、サボリのサラリーマンと一緒に見られるのは嫌だからやめた。本屋でなにか買おうか。そうは思っても本なんて読みたくない。
 スクランブル交差点で香水の匂いとすれ違いながら、中学校のころはこういう休み時間が大好きだったなあ、なんてことを思い出した。自分の未練がましさにいささかあきれる。こんなんでこの先やっていけるんだろうか。そう思ってまたあきれた。やってけるやってけないじゃなくて、やってかなきゃならないのに。

 そうは思うんだけど、外灯の点いていない玄関で鍵を開けるのに手間取って、ただいまに返事がないのに戸惑って、やっぱりダメだなと思う。
 猫は鈴の椅子の上で眠っていた。スーパーの袋をテーブルに乗せると、ピクピクひげを揺らした。僕はその正面の席に座って、テーブルの下から寝顔を眺めていた。飼い主が死んだことなんて分かってないようなのん気さで、あきれを通り越して感心してしまう。それともなにか、幽霊でも見えてるんだろうか。
 下らないことを考えていたらかんぴょう巻きに醤油をかけてしまった。その醤油のしょっぱいことしょっぱいこと。味わうからに身体に悪い。『自炊』なんて慣れない言葉が頭に浮かんで憂鬱になる。
 そう言えば、猫は匂いでものを判断してるとか、そんな話を聞いたことがある。線香の匂いが酷いけど、ここから鈴の匂いをまだ嗅ぎ取ってるとか。僕にはそんなの、分かるはずもない。
 もし家中にファブリーズしたら、こいつはどんな反応をするだろう。自分の飼い主がいなくなったことに気づいて、どこかに消えてしまうかもしれない。いや、多分消えると思う。そういう奴だ。恩だなんて思ってないに違いない。抜け毛ばかりで肌が丸見えのまま拾われてきて、変な病気にかかって、いつも鈴を心配させていた。そのくせ元気なときでも食う寝る遊ぶで鈴を振り回していて。今だって鈴が椅子に座ろうとしていたらどうするつもりなんだ。鈴はバカみたい甘かったから、きっと笑ってずっと立ってたんじゃないかと思う。腕を組んで、頷いたりして。
 ため息が漏れた。意味のない想像だった。
 ……シャワーでも浴びて寝てしまおう。
 食器を流しに戻そうとして、今日のは別に捨てちゃって構わないことに気づいた。猫は眠ったままで、僕が風呂から出ても静かに背中を上下させていた。

 分厚い羽毛布団の中は薄ら寒くて、夜中に何度も目が覚めた。そのたび暗闇の中で携帯を操作した。電話帳編集。フォルダ名『家族・友人』。もうフォルダごと要らなくなった。震える指でフォルダの削除を選ぼうとして、できないまま眠りに落ちた。
 もう会うこともない人間のアドレスなんて、残しておく意味はない。そのはずなのに、みんなのアドレスは女々しくメモリーに仕舞われている。そんなだから僕はなにもできないままなんだ。
 そんなことを考えていたら、隣の部屋からコリコリ音が聞こえてきた。またあいつが爪を研いでいるらしい。
 この家にはまだ本当に、鈴の匂いが残ってるんだろうか、と思った。
 僕は毛布に鼻を押し付けてみた。いくら嗅ぎ取ろうとしても、洗濯洗剤の無機質な甘い匂いがするだけだった。そうすることで、鼻腔の奥に染みついた鈴の匂いが、少しずつ薄らぐ気がした。息をすればしただけ、鈴の匂いが削り取られる気がした。
 眠ってしまいたくはなかった。猫が爪を研ぐ音が辛うじて僕の意識を保っていた。でも明日は仕事に出なくちゃいけないし、僕はまだ生きていかなくちゃいけない。早起きして家に消臭剤を撒かなきゃいけない。そのために眠りはゆっくりと近づいてくる。
 いつまでこうして生きていけばいいんだろう?

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