いつもの放課後の屋上だった。今日もお菓子日和。ポケットからアポロチョコをひとつ取り出し、さっそく封を開ける。 「えと、ん? あれー?」 甘い匂いはすれども姿は見えず。片目をつむって覗き込んでみたら、ちょっと溶けて中でくっ付いてしまっているようだった。軽く振ってみただけじゃビクともしない。 だから、えいや! と思い切って振ってみたら、中身がでろんと飛び出してきて服に落ちた。 「う、うわああああああん!」 「どうしたこまりちゃん。変な声だして」 後ろから話しかけられた。振り向いてみたけれど、涙でよく見えない。 「これ、使え」 何かが差し出されたみたいだった。私はそれを手にとって、まず涙を拭いた。渡されたのは青いチェックのハンカチだった。ちょっとだけ黄色くなりかけたお日様を浴びて、りんちゃんが立っていた。 「いやそーじゃなくて、チョコに使って」 「え。で、でも、悪いよ。ハンカチだし」 「悪くないから、使ってくれ」 ハンカチを両手で持ったまま、あたふたするしかできない私の隣に、鈴ちゃんはぺたんと座った。気遣わしげにアポロチョコを見て、それから地面に置いた箱とを見比べて、 「大惨事だな。……使って。もっと溶けたら、大変だから」 と言った。 「……うん。ありがと」 答えてから、ハンカチでそっとチョコの塊をくるんで、箱の中に戻した。もう食べられないけれど。ちょっと落ち込んだ。 「服、汚れちゃったな」 「うん。でも、このくらいだいじょーぶだよ。……きっと」 私は笑ったけれど、りんちゃんはまだ困った顔をしていた。 「洗って返すからね」 私がそう言ってやっと、りんちゃんは恥ずかしそうに顔を赤くしてから、コクリと頷いて見せた。鈴が一つ音を立てた。少しだけ笑ってくれているように見えた。一緒になって、ごろんと横になった。コンクリートがほんのりあったかくなっていて気持ちよかった。 それから、りんちゃんとお菓子を交換したり、おしゃべりしたりしながら、雲がゆっくり流れていくのを見た。そうしているうちに、子供の頃に読んだ絵本で、雲さんはどこに向かっているの? というお話があったのを思い出したりした。 「それで、雲はどこに行くんだ?」 りんちゃんは話題に乗ってくる。私はうろ覚えな絵本の中身を頑張って思い出しながら、詰まり詰まり話した。いちいち頷きながら、鈴ちゃんは私の話を聞いてくれていた。 こうしてりんちゃんと居るのは、すごく楽しい。 「なんか、楽しいな」 隣を見ると、同じようにねっころがった鈴ちゃんと目が合った。鈴ちゃんの向こう側、フェンスの向こうにも空だけがあって、なんだか不思議な気分になった。 「毎日こんななら、野球とかやんなくていいな」 「それ言ったら恭介さん、泣いちゃうからダメだよ」 「いや、あの馬鹿は泣いてるくらいがいい。というか、泣かせてみたくはあるな。あたしは見たことない」 「あはは……」 こんなこと言うけど、りんちゃんは恭介さんが大好きなのだ。知っている。……たぶん。 恭介さんが就職活動から帰ってくる日は、ちょっとだけ落ち着きがなくなったりする。うん。心配しているのだ。やっぱり。 「あ、そだ。ちょっといいか、こまりちゃん」 え? と、目を向ける。 「絵本を読みたいんだけど、なにかいいのあるか」 意外な言葉だと思った。りんちゃん、あんまり本とか好きそうじゃないから、やっぱり意外だった。 「どうして?」 「読書感想文、あるらしい。夏休みだけど。今読んどけばいっぱい遊べると思って」 そっか。夏休み、読書感想文か。 「もうすぐ夏休みなんだね」 読書感想文って絵本でもいいんだろうか。言うべきかどうか困ってしまった。 でも、やっぱりりんちゃんは、りんちゃんらしいなと思って、知ってる絵本について考えてみた。 「その前にテストとか、旅行とかあるけどな」 「……そうだねえ」 「テスト、やだな」 「うん」 それで、少し二人とも黙った。 「あと、それだけじゃなくてだな」 またりんちゃんの顔を見た。 りんちゃんは少し恥ずかしそうにしていた。 「こまりちゃんがどういう本読んでるのか、気になったから」 思いもしていなかった言葉。それでも、なんだかとても嬉しかった。 泣きそうになってしまった。 「……最近はあんまり、読んでないかなあ」 声が震えてしまわないよう注意しながら、そう答えた。 「そーなの?」 うん、と頷いてみせる。 「じゃあ、オススメはある?」 私はもう一度、自分の知ってる絵本のことを考えた。でも、どんな本にしていいか、よく分からない。 言葉を探すうちに、時間が過ぎていく。気がつけば空が、夕焼けになろうとしていた。 「あの……めんどーならいいぞ」 りんちゃんが、そんなことを言った。 「面倒だなんて!」 身体を起こして、思わず声を上げてしまった。驚かせてしまったみたいで、りんちゃんも一緒に飛び起きる。 「な、ど、どうしたこまりちゃん」 大きな目をもっと大きく開いて、りんちゃんが言う。 「面倒だなんて、そんなこと全然ないよ!」 私が言うと、りんちゃんは納得したような、しないような顔で、そうか? と言った。 「……今日はちょっと、思いつかないや。また今度、探しておくよ」 「うん。わかった。楽しみにしてる」 それでひとまず、絵本の話は終わりだった。 それからまた、いろんな話をした。友達の話や先生の話や、授業の話や、お菓子の話だった。 りんちゃんが立ち上がった。もう少しここにいたいから、と言うと、りんちゃんは頷いた。冷たくなってきた風の中に、鈴の音が混じった。 ばいばい、と言うりんちゃん。真赤な夕暮れに染まっていた。いっぽ歩いて、遠くなるたび、鈴の音も小さくなっていった。 りんちゃんのための絵本を探そうと思った。 りんちゃんのために、私が贈る絵本だ。 誰もいない図書室で、誰もいない本屋さんで、私は絵本を探して歩いた。 絵本と言っても、いっぱいある。本当はこういうお話なんだよ、という、悲しくて残酷な物も、いっぱいいっぱいある。 それに、有名な話でないなら、絵本は他にもいくらでもあった。 本屋さんの片隅にある、絵本専用の棚。全然大きくはなかった。一目で見渡せるくらいの大きさだった。 その中で、星の数ほどの猫さんや犬さん、小人さんが、冒険したり、友達と出会ったり、悲しんだり、喜んだりしていた。そのどれもがいろんな人たちの手によって作られて、きっとどこかで誰かに語られているのだろう。 どんな本がいいだろうと、ずっと考えていた。 りんちゃんのために選んであげるなら、どんなお話がいいだろうなと、考えていた。 どのお話も本当の本当は、やっぱり怖い話だったのかもしれない。本当は悲しいこともあったはずなのに、相手は子供だからと、嘘ばっかりついているのかもしれない。 友達に、嘘なんてついてしまいたくはないと思った。 りんちゃんは、私の一番の友達だから。 でも、りんちゃんに悲しんで欲しくはないとも思った。 それで私は、一冊の本を手に取る。 やっぱり嘘はついてしまいたくなかった。 日曜日の屋上だった。空は真っ青に澄んでいて、上り始めた太陽がまぶしいくらいだった。 私は抱えていた絵本を、鈴ちゃんに手渡した。きちんと可愛い紙で包装した、リボン付きの贈り物だった。 「こうまでしてくれなくていいのに」 と鈴ちゃんは困ってしまったようだったけれど、笑ってありがとうを言ってくれた。大したことじゃないよ、と私は答えた。本当に大したことではない。 「どんなお話なんだ?」 「んとね、見てのお楽しみ、かな?」 ふみゅ、そーか。鈴ちゃんは納得してくれたみたいで、大事そうに胸の前で本を抱きしめていた。 「あ、そだ。絵本と言えばだな」 思い出したように、りんちゃんが言う。 「このあいだ、見せてくれたこまりちゃんの絵本、できた?」 私は困ったような笑顔を作って、まだなんだよ〜、と答える。なんでもなさそうに、りんちゃんはそうかと頷いてくれた。 「あれ、最後、どうなるんだ?」 なんでもなさそうに、りんちゃんは訊ねてきた。 「森から出た小人は、そのあとどこに行くんだ?」 私は笑顔でこう答える。 「ごめんね。まだ考えてないんだ」 「あー、そうなのか」 「うん。ごめんね」 「いや、いい。決まったら、教えて」 「……うん」 「じゃあ、そろそろ、野球」 「……そうだね。行こうか」 二人並んで、朝の涼しい日差しを浴びて歩いた。 選んだ本は、本当に最高に幸せな最後を迎えるお話だった。 本当のことばかりが正しいわけじゃない、と思う。 絵本だってなんだって、結局どこかは本当じゃない。だからきっと、本当じゃないところを、誰がどんな風に思うか考えるのが大切なのだ。 そう思っても、私は不安だった。 りんちゃんは、どう思うだろう。りんちゃんに嘘つきと言われてしまうかもしれない。余計にりんちゃんを悲しませてしまうだけかもしれない。なにもしなければ良かったのかもしれない。 こんな風に思っているから、私の絵本の最後も、答えられなかったのかもしれない。嘘はつきたくないと思ってたのに、結局嘘をついてしまっていた。 どうしていいのかまた分からなくなってしまった。 怖くて、その場に立ち止まってしまいたくなった。 間違ってしまったら、私はもう直すことも謝ることもできないのだから。 廊下は薄暗かった。明るかった屋上に比べて、底冷えするような感じがした。次第に、足の動きが鈍くなるのが、自分で分かった。 「どうしたこまりちゃん?」 先を歩くりんちゃんが、振り向いた。思わず顔を背けてしまう。 それとほとんど同時、りんちゃんは何を言うでもなく突然私の腕を掴んだ。 「ほわぁっ!?」 で、すぐに走り出した。 「急ごう。みんなもう待ってる」 ぐいぐい、すごい力で引っ張られた。昇降口で一休み、息を整えた。私の靴はりんちゃんが出してくれていた。 また引っ張られる。校舎の外へ、また明るい場所に出た。もう息が上がってしまって、喉が渇いてきた。ちょっと、というかかなり苦しかった。 「遅ぇぞてめえら!」 真人くんの声がした。 「うっさい馬鹿が! だから走ってきたんだろうが!」 りんちゃんは全然余裕そうに怒鳴り返している。グラウンドに着くと、私は木陰に身を投げ出す。 その横に、りんちゃんが仁王立ちする。 「どーだ、こまりちゃん」 ……え? なにが? りんちゃんが何を考えているのか、分からなかった。 そしたらりんちゃんは、こんなことを言った。 「つまんないこととか、忘れちゃっただろ」 そして、地面にあぐらをかいて座った。 ……そっか。そういうことか。 「り、りん、ちゃんは、優しい、ね」 頑張って言ってみたけど、息が全然整わなくて、りんちゃんは聞き取ってくれなかったようだった。 「ちょっと鈴、小毬さんになにさせてるのさ……大丈夫?」 理樹くんが顔を覗き込んできた。まだ息が切れているので、頷くしかできなかった。 「鈴。考えなしに走るのはどうかと思うんだけど」 「あたし、これでもいろいろ考えてるぞ」 「あ、そ……」 鈴ちゃんは理樹くんの前だと、やっぱり色んな顔をしていた。二人はお日様の下でお話していて、それがすごくお似合いだと思った。 何でもいいから、とにかくちょっとでも、こうしていて欲しいと思った。 私が、なんでもいいから、見ていたいと思ったのだ。そしてできれば、ずっとそうしていて欲しいと思った。 「ねえ、りんちゃん」 ん? と振り返る。 「あのね、絵本の終わり、決めたんだ」 「お? そーなのか? 教えてくれ」 「うん。……えっとね、小人さんたちは、森を抜けたら、みんな幸せになったり、また悩んだりしながら、それぞれ楽しく暮らしていくんだよ」 それを、どう受け取ったのか。 ふーみゅ、とりんちゃんは腕組みした。 「そか。それなら、よかった」 りんちゃんは、すごく綺麗に笑って見せた。 |