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恭介の長いひと月


 鈴が泣いている。足元の地面には動かなくなった黒猫が伏している。
「こいつ、なにも悪いことなんてしてないのに! こんなのおかしいだろっ、変だろっ!」
 鈴が俺の胸板を叩く。仇を討つように、何度も何度も、拳で殴りつけてくる。
「ま、間違ってる。嫌だ。あたしはこんなの嫌だ!」
 鈴は泣き続ける。俺はその細い両肩を抱いてしまいたい衝動を押し殺して、鈴に告げる。
「悪いことをしようと、すまいと、生き物はいつか死ぬんだ。それは絶対だ。変えることはできない」
 そう告げても、鈴は俺を殴り続けた。殴る身体を持たない現実の代わりなのだろう。
 死は絶対。大嘘だった。
 この黒猫の命を奪ったのは俺だ。俺がその気になれば、こいつは今日も鈴と一緒に遊べたはずだったのだ。
「こいつは爺さんだった。病気だった。いつかはこういうときが訪れていた。……ほら、お別れと言ってやれ」
「嫌だっ! 絶対嫌だ!」
 鈴は閉じきった瞳からとめどなく涙を零し続けた。いつまでもいつまでも泣き続けていた。
 また、失敗だった。鈴は受け入れることができなかった。現実で起きた初めての別れと同様に、鈴は何度同じ別れを繰り返しても、直視することができない。
 現実では、一度だって泣かせたことはなかった。ずっと俺が護ってきた。それが今では、何度こうして涙を流させたかわからない。それも、この上なく卑怯なやり方で鈴を追い込んでいるのだ。
「……わかった。こいつの墓は俺が作る。おまえは、理樹のところへ行け」
 耐え切れなくなって、俺はそう言ってしまう。鈴は頷きもせず、黒猫には目もくれないで走り去ってしまった。
 中庭に、俺と猫だけが残された。
 俺は冷たくなった猫を抱いた。俺が殺した何十か、何百匹目の猫だ。
 校舎裏へ向かって歩く。穴を掘るのに本当はシャベルなんて必要ないし、猫の死体だって消してしまうことができた。でも、俺はこいつのための墓を作ってやらないではいられない。
 猫の名前は忘れてしまった。猫同士でじゃれあっていても、鈴と遊ぶにしても、目立つことがない、自己主張しない奴だった。猫じゃらしに飛びつくのも毛皮の手入れもいつも最後の方で、すぐに他の猫に順番を譲っていた。
 輪から離れてぽつんといるところを構ってやったことがある。警戒していたのか俺にはなかなか寄ってこなかったが、鈴に頼まれていたモンペチを取り出すとおっかなびっくり近づいてきた。缶を開けて俺が樹の影に隠れると、控えめに鼻先を突っ込んでちみちみと食べていた。
 控えめだったが、どこに行くにも鈴について回っていた。鈴が外へ出るたびに近づいてきては、ソックスとローファーに鼻先を押し付けるのが習慣だった。鈴がニヤけながら背中を撫でると、さも嬉しそうに鳴いた。周りに他の猫がいないとき、ここぞとばかりに甘えていた。この猫はきっと、鈴を必要としていた。
 昨日、俺が病気をでっち上げてからもその習慣は変わらなかった。弱った足で懸命に鈴のくるぶしに縋りつき、鼻を押し当てていた。
 花壇の横に黒猫を横たえて、俺は用具置き場へ向かう。小さな家庭用の物置で、風雨に晒された白い壁に黒い汚れが浮いている。中に入ると、草刈機やエアポンプの古い機械油の臭いと、灯油の嫌な臭いが鼻を突いた。もう何度、この倉庫の扉を開けたか分からない。壁の釘に引っかかっているシャベルを手に取る。
「俺たちも手伝うぜ」
 後ろから声がした。振り返ると真人が立っていた。
「おまえ一人に、汚れ役をさせてしまうのは忍びない」
 それから、隣に謙吾も。
 三人して猫の下へ歩いていく。遠目にもその黒い毛皮はよく目立っていた。その姿は生きて動いているときよりもずっと重く感じられた。もうこの猫は鈴の匂いも嗅げないし、毛並みを整えてもらうこともできないのだ。
 猫を抱き上げると、毛皮からぽろぽろと黒い粒が落ちた。見れば、蟻だった。
 俺たちは深い深い穴を掘る。もう十分大きな穴になったが、それでも掘り続ける。猫が安らかに眠れるように、とか、そんな考えではないのだろう。自分たちの罪を地中深くに隠してしまいたいのだ。
 現実世界に、小毬を偽善者呼ばわりした奴がいたことを思い出した。
 募金なんて自己満足だと、そう言った。言った本人は小毬を貶めることで満足した。他人のためになにかをしようだなんて考えたこともない癖に、他人のためになにもしてこなかった癖に、小毬の善意を踏みにじったのだ。
 穴を掘る手を止めて、思わず笑ってしまう。こんなことを思い出してなんになると言うのだろう。俺がやっていることは理樹と鈴を助けたいという善意ゆえの行為だから、許せと言うのか。二人が生きる世界はそんな腐った場所だから、生半可なことはできない、だからしょうがないと言うのだろうか。
 きっとこういう行為を偽善と呼ぶのだ。俺自身そう考えているからこそ、そのことを思い出したのだ。自分の小汚い罪を正当化するために綺麗事を語る。自分の悪意で他人を傷つけておいて、それでも善人でいたいから、その悪意を隠すために善い行いをしてみせる。
「なあ、恭介」
 唐突に謙吾が口を開いた。
「なんだ、謙吾。……小毬に見られるとまずい。はやく埋めちまおう」
「なぜ猫を殺す」
 黄土を掻き出しながら、謙吾は言った。
「どういう意味だ?」
「こんなことで二人を強くして、なんの意味がある」
 俺には謙吾の問いが、理樹と鈴は黙って死ねという主張に聞こえた。
 瞬間、殴ってしまいそうになった。
 俺は代わりに、一段と深くシャベルを土に突き立てる。
「鈴を強くするにはこれしかない」
「仮初めの命とはいえ、命だ。それを奪う権利が俺たちにはあるのか」
「あいつらは仲間の死を乗り越えなければならない。あいつらが生きていくためなら猫ぐらいいくらでも殺す。これでもまだ手ぬるいくらいだ」
「死はなんにだって平等に訪れる。それはいずれ誰しもが気づくことだ。遅いか早いかの違いに過ぎない」
 謙吾がそんなことを真面目に言うものだから、思わず笑ってしまいそうになる。平等だというのなら、なぜこの猫は次の繰り返しでまた生きているというのだろう?
「小毬のようになったらどうする」
 小毬の名前を出すと、仲間の陰口を叩いているようで嫌な気分になった。生き物は殺せても陰口は駄目らしい。
「神北だっていずれは乗り越えたはずだ。いずれ、きっと。人間は、隣で支えてくれる人間さえいれば、いくらだって強くなれる」
 『支えてくれる人間』の部分を、意識したのか無意識なのか、強調しながら言った。
 あの二人には支えあって強くなる時間さえ残されていない。謙吾はそれがわからないような奴じゃない。謙吾は謙吾なりの考えがあってこう言っているのだろう。猫に猫なりの意識があったように。
 俺はなにも答えなかったし、真人はずっと黙々と、三人の中で誰より精力的に穴を掘っていた。三人黙り込んだまま穴を掘った。
 黒猫を穴の奥底に横たえて土を被せると、雨が降り出した。俺が降らせた。花壇から離れ、振り返ると、もうどこに猫が眠っているか分からなくなった。

 大人気の少年漫画がある。どこぞの高校生が、他人の死を司る神の力を得て世界を作り変える。そんな話だ。
 そんな漫画にもこう書かれている。『死んだ者は、生き返らない』。
 公園に毒餌を撒いて、鳩を殺した奴がいるらしい。そいつはまだ捕まっていない。
 興味本位で犬を切り刻んだ少年は逮捕された。飼い主の悲痛な泣き声が印象に残った。
 猫を鍋で煮る動画をネットにアップした馬鹿がいた。
 そして俺もまた、同じように猫を殺した。もう何度目か覚えちゃいない。

  ◆

 ずっと理樹と一緒いたかった。ずっと鈴の世話を焼いていたかった。みんなで遊んでいたかった。
 俺はもう働きに出る。社会に出れば、仲がよかった連中ともバラバラにならなくてはいけない。そんなことはもう知っていて、その願望が叶わないことも理解していた。世の中とはそういう風に出来ている。遅かれ早かれ、別れは訪れてしまう。文句を言っても始まらない。泣き言を並べ立ててもどうにもならない。
 理解はしていたのだ。
 だが、あんな風に終わってしまうだなんて考えもしなかった。
 墜落するバスの中で俺は見た気がした。
 理樹と鈴は、横転して今にも爆ぜようというバスの前で立ち尽くし、どこにも行けなかった。
 その先の光景は、俺の想像だったと思う。
 二人は命を取り留めた。暗い部屋で縮こまり、ずっと俺たちとの思い出に浸っていた。なぜ自分が生き残ってしまったのかとずっと悔やみ続けていた。自分に生きる価値なんてないと苦しみ続けた。自分が死んで他の連中が生き残るべきだったと本気で信じていた。死んでいるも同然だった。
 そんなのは嫌だった。
 俺はずっと、せめて二人が人並みの強さを得るまででもいい。護ってやりたかった。しかしそれは叶わないことだとも悟った。世界は理不尽だ。俺と同じ無念さの中で死んでいった人間は大勢いる。絶対にやり遂げなければならない想いを抱いて、なすすべもなく沈んでいったのだ。
 そんな連中を差し置いて、俺だけが救われる。それこそが不公平で理不尽だ。そんなことは分かるさ。世界は公平に作られているのだ。その一点で世界は公平さを保っているのだ。
 それでも、俺たちは願った。せめて、生き延びる二人に猶予をくれ。二人が変われるだけの時間を。

 そうして世界が生まれた。
 世界の始まりには光なんてなかった。言葉さえなかった。壁のような暗闇だけが広がっていた。だが俺たちは通じ合った。理樹と鈴を救いたい。二人を死なせてしまいたくない。その想いがまずあった。
 その世界を作った奴らは皆俺と同じ想いを持っていた。それぞれが皆、辛いことや苦しいことに耐えながら、今日まで必死に生き延びてきた。そうしてやっと、生きていくことに意味を見つけることができそうだった。それなのに皆死んでしまった。仕方がないことだ。皆死んでしまったのだから。
 だけど皆、死ぬわけにはいかなかったのだ。成し遂げねばならない想いを持っていた。どんな過酷が待ち受けていようと、やり通さねばならないことだった。
 しかしその世界には、辛いことなど一つもなかった。自分自身の思うが侭に世界は変わった。死んだ人間だって生き返った。遠く離れた人間と想いを通わすことさえできた。それはまるで幼かった日、リトルバスターズが生まれたばかりのころの、不可能のない輝かしい世界だった。
 望めばいくらでも楽しいことが待っていた。俺たちは、願いを忘れそうになった。ずっと野球をやって遊んだ。みんな下手糞だった。それでもずっと遊んでいられた。理樹も鈴も、いつだって幸せそうに笑っていた。
 クドの母親が生きて、この学校を訪れたことだってあった。能美は普段子供扱いされるといじけるくせに、そのときばかりはずっと甘えきっていた。西園が明るくなって野球に参加していたこともあった。カゲナシなどと呼ばれるべくもなかった。三枝は貴重なサウスポーとして重宝がられた。元々センスがあったのだろう。皆から褒められ、めきめきと上達していった。
 幸せな世界だった。小毬じゃないが、世界に生きる全員が幸せになれる世界がそこには広がっていた。誰一人、涙を流す人間なんていなかった。
 だがすぐに歪みは訪れた。
 世界はどこにも行かない代わり、俺たちをどこにも運ばなかった。世界は決して変わることなく、俺たちも変わらないままだった。外界を捨て、どこかへ逃げ込む人間と同じ。俺たちはその世界で生きちゃいなかったのだ。
 皆、そのことに気がついた。
 俺は使命を思い出した。世界の抜け穴を潜る。その先に待つのは絶望に満ちた現実だ。現実には激痛と無力感が待ち構えていた。痛みに挫ける自分。動かぬ身体に甘える自分。二人を救えない自分。
 何度も力尽きながら、俺はあらゆることを試した。その先には皆の死しか待ってはいなかった。どうあがいても、二人を救うすべを見つけ出せないでいた。紛れもない現実だった。
 それから俺は理樹と鈴を強くするという、そのことだけを考えるようになった。現実から目をそむけないでいられるだけの強さがあれば、二人は救われる。助けられる。俺がその方法を絶対に見つけ出す。あと何度死んででも必ず見つける。だからそれまでに、俺は二人を強くしなければならなかった。
 他のメンバーがなにを考えているかなんて知ったことではなかった。リトルバスターズが始まる直前、俺たちの新しい人生が始まろうとしていた日から、理樹が挫けてしまうまで。何度だって繰り返す。俺に与えられていた役割をこなしていく。そう決めた。
 始めは俺も、世界を出来る限り自然な形に保とうとした。二人が生きていく世界の形を留めたまま、二人が強くなっていくのを待った。ときには二人を言葉で諭した。ときには手を上げてでも教え込んだ。しかし、駄目だった。
 二人は現実の世界を生きていながら、現実を見ていなかったのだ。鈴が黒猫の死体から目を逸らしたように、二人は断ちがたい夢だけを見ていた。

  ◆

 また猫を殺した。
 理樹は鈴を慰めきれなかった。そして俺を責めた。なぜ鈴に猫を与えるのかと問い詰めてきた。
 決まっている。鈴を強くするためだ。しかしそんな答えで理樹は納得すまい。
「いけないことなのか? 鈴は望んで猫を可愛がっている」
「でも、その分別れが辛くなる。辛い別れが多くなるんだよ。鈴にはきっと耐えられない。残酷だよ」
 本当ならば言い返してやりたかった。現実をなにかと一緒に歩いていこうとするなら、こんなことは当たり前に起きるのだ。ある日突然、脈絡もなく。その予兆があり、別れを告げる猶予があるってことは、もうそれだけで幸せなことなんだ。
 だが、理樹の言い分はもっともだった。確かに今の鈴には辛いことだろう。乗り越える強さを持たない人間に過酷を突きつけても、ただ押しつぶされていくだけなのだから。だから俺は反論しなかった。

 その夜、俺は理樹の部屋に行かなかった。
 夜風に当たろうと思い寮の外へ出た。月明かりの多い晩だった。見回りの教師がこないよう仕向けて、自販機の方へ歩き出す。学校中の灯りが落ちて繁華街からも離れたここ一帯の夜空には、多くの星が浮かんでいる。空を仰ぎながら思うのは、あの星は一体なんの光を受けて光っているのだろう、という、至極どうでもいいことだ。いったいいつの光なのだろう。この世界には、太陽の光があの星に届くだけの時間がない。ならばこの世界が生まれる前にできた光だろうか。それはない。この世界の前には、光なんてなかったはずだ。
 背後から、ふぅっ、ふぅっ、ふぅっ、という、熱のこもった息遣いが聞こえてきた。結論を出すことなく、振り返る。
 真人が制服姿のままランニングをしていた。俺を追いかけてきたということではなく、ここで会ったのはたまたまだろう。
「よお真人、筋トレか?」
「おう、よく分かったな」
 そりゃ、おまえが一人でやることっつったら筋トレくらいしかないだろう。というか、見れば誰でも分かる。
 突っ込もうと思ったが、そんな気力が湧かなかった。
「なんだぁ? しけたツラしやがって。おまえもやるか、筋トレ。すっきりするぜ」
 大きく歯を見せて笑う。止まって俺と話をしているときでも、両足を大きく上げ下げしている。
「いや、いい……遠慮しておく。それより、鈴に蹴られたところは大丈夫だったか?」
 あのあと取り乱した鈴を落ち着かせようとして、真人は思い切り向こう脛を蹴り上げられていたのだ。鈴の八つ当たりのとばっちりを食ったわけだ。
「はっは、あのくらいで堪えるようなヤワな鍛え方はしてないぜ」
 足踏みを続けたまま、器用にズボンの裾を上げてみせる。
「動かしてたら見えないだろ。ちょっと止まれ」
 ごつごつしたふくらはぎを掴んで、動きを止める。
「こ、これは……」
 真人の脛は、青白い月明かりの中でも、はっきりと見えるような大きな大きな痣になっていた。痣というより、内出血と表現したほうがしっくりくるような代物だった。
「どうだい、恭介。俺の筋肉は」
 真人が得意げに視線を下げる。
「って、なんじゃこりゃあああああ!」
 絶叫。
「うおお! なんだか痛くなってきたぁ!」
 悶えながら座り込み、脛を押さえる。
「……すまん。真人。俺がしっかりしていれば……鈴の奴に、こういう加減も教えてやらないとな」
「くぅぅっ! な、なぁに。これしきで死ぬような筋肉じゃねえ」
 とはいっても、革靴で蹴り上げられて耐えられるほど鍛えられるものでもないだろう。
 俺が黙っていると、真人は次の瞬間には笑顔になって立ち上がり、
「だからそんな顔すんなって。鈴に蹴られんのも、最近悪くねえと思ってんだ」
 そんなことを言った。
「……おいおい、それ、ちょっとあぶないだろ」
 それを聞いて、真人はいつものように大口を開けて笑った。この表情は昔からまったく変わらないでいた。
 真人の言おうとしていた意味はわかった。鈴のキックは、なんというか、俺たちの証しみたいなものなんだと思う。鈴の信頼の証拠でもあるし、変わらない日々そのものなのだ。
「治すか、傷」
 俺たちならば、怪我の一つや二つ消してしまえる。なかったことにできる。それは俺たちが生きている世界が偽者であるという証拠だが、真人の痣は紛れもない本物だった。
 脳裏に焼きついた痣は痛々しかった。痣が浮いているのは真人の脛だが、俺には他人の怪我に見えないでいる。この痣は鈴の弱さの象徴のようだった。
 俺はそれを隠して、なかったことにしたかったのかもしれない。
「いや、これは俺の鍛え方が足りなかったって証拠だ。ありがたく貰っておくぜ」
 不敵な笑みにニヒルなセリフ。こいつはどこまでも頼もしかった。
「なぁ真人」
 あん? と真人が聞き返してくる。
 唐突に訊ねてみたくなった。残酷な質問であることは承知の上で。
「なんでおまえは身体を鍛えるんだ?」
 鍛えたところで、また始まりに戻ってしまうのに。続いていかないのに。
「なんだよ、珍しく真剣な顔したと思ったら」
 真人はつまらなそうに言う。
「この筋肉は俺自身だが、俺じゃない。筋肉に終わりはねえんだ」
 難しいことを言おうとしたのか、その先が続かなかった。真人は頭を掻いて考え込んだあと、面倒になったのか吹っ切ったのか、快活に言う。
「よーするにあれだ。筋肉は俺の使命なんだよ。筋肉が先にあって俺を俺にしてんだ。ほら、いつも筋肉筋肉呼びやがるおまえならわかんだろ? 筋肉がなきゃ俺じゃない。最強井ノ原真人がただの井ノ原真人になっちまう。だからそんなの関係ねえんだ。……それだけか?」
 頷くと、真人は「続きしてくらあ」と痣のことなど忘れたように、また走り出していった。
 真人は筋肉が使命だといった。筋肉が先にあって、真人を真人にする。ほどよく意味がわからないのがあいつらしいと思った。
 真人は人知れずその使命をこなしていた。どこから始まったわけでもなく、どこへいくでもないこの世界で。
 よく分からないが、俺も使命を果たそうと改めて思った。この使命は俺の前にあって、俺のすべてなのだから。

  ◆

 鈴は理樹のことが好きだった。これでも兄だ。それくらいのことはわかる。
 だがそれは異性として見る好きなのかどうかは、判断の分かれるところだった。鈴には恋愛なんて早すぎると思うし、鈴自身恋愛のなんたるかなど知るよしもなかった。だが、恋を知らないからといって恋をしないとは限らない。むしろ恋をするということはきっと知っているとか知らないとかの次元のことじゃないはずだ。
 だからやっぱり、鈴は理樹に恋をしていた。
 しかし生来へそ曲がりというか強情というか、可愛らしく言えば不器用な妹で、自分の気持ちに素直になれない、というか、自分の気持ちとかもよく分かってないんだろうなという節がある。
 自分の気持ちを知ることは、自分の気持ちと折り合いを付けることに繋がる。自分の気持ちを整理できれば、他人の気持ちも理解してやることができるようになる。
 理樹は自分の気持ちを知ってはいるが、折り合いを付けるということになると極端に下手だった。自分より周囲に良くなるようと考えていた。そんなことでは駄目だった。
 誰にでも好かれようという人間は、結局誰にも好きになってもらえない。自分も、誰か一人を好きになるということができなくなる。自分の気持ちに正直になるということができなければいけなかった。
 折りよく、理樹に片思いする女子がいた。杉並というらしい。ある繰り返しのとき、俺は彼女を利用することにした。
 彼女は鈴と違いろくな友達を持っていなかったが、友達は友達で、その友達を使った。
 放課後の教室に理樹と杉並が残った。
 開け放たれた窓から、澄み渡った空の光と昼下がりの夏めいた風が吹き込む。白いカーテンと杉並の髪だけが揺れた。風が通り抜ける音が聞こえてくるほど教室は静かだった。
「手紙のことなんだけど……」
 理樹が切り出した。
「……手紙?」
 杉並はその言葉を聞いてきょとんとした顔をする。当然だ。杉並はなにも知らないんだから。
「えーと……僕を呼び出した……よね?」
 自信がなさそうに、恐る恐る確認を取ると、
「え? あっ……」
 思い当たる節があったのだろう。杉並は目をぎゅっと閉じた。前日、勝沢たちにそんなそぶりをさせておいた。そのせいだろう。
「……どうしたの?」
「誰かが、私が呼んでるって?」
「いや、手紙が靴箱に入ってて……」
「ごめんなさい……それ、私じゃなくて……」
「え?」
「私の連れのどっちかが……」
 杉並がそう言った途端、理樹の表情に安心の色が浮かぶ。責任を負わないで済んでよかった。そんな顔に見えた。
「あのふたりのどっちかが勝手に杉並さんの名前を使って、手紙を書いて入れたってこと?」
「うん……たぶん」
 安堵のため息だろうか、大きく息を吐き、理樹は微笑みを浮かべる。
「あの、手紙、どんなこと書いてあった?」
「……あの、なんて言うか、オーソドックスなラブレターみたいな感じ」
 口ごもりながらの答えを聞くと、杉並は頬を赤く染めて、さらに強く目をつむった。理樹は気づかなかったようだった。
「お友達でしょ? たちの悪いいたずらだ……災難だったね」
 そんな杉並に笑いかけて、立ち去ろうとする。
「え? あっ……」
 その背中に杉並は手を伸ばすが、届かない。追おうとする足もすぐに止まってしまった。理樹が教室の扉に手をかける。
 そして杉並は大きく息を吸い込んだ。見るからに大人しそうで、告白なんて一生できそうにないような女子だ。
「内容はっ、本当だからっ!」
 空気が震えた。
「好きなのは……本当だから……」
 多分ただ一度の覚悟と決めて、口を開いた。今まで出したこともないような勇気を、生涯のうちの、ただ一回のはずのこの瞬間に振り絞って見せた。自分の存在が劇の駒に過ぎないだなんて思ってもいないようだった。
 いたずら半分、暇つぶしの一環として高宮と勝沢は思っていたはずだ。杉並それでも、友達が与えてくれたチャンスを殺すまいと考えたのだろう。二人の中にあった、雀の涙ほどかもしれない、そう呼べるかも疑わしいような思い遣りを、無にするわけにはいかないと思ったのだ。理樹との仲を考えれば、今告白するだなんてリスクが大きすぎる。杉並は優しい子だった。だから理樹に惹かれることができたんだろうとも思う。
 理樹は足を止めて、ぎこちなく振り返る。
「謙吾とか恭介とか……じゃなくて……?」
 杉並とは対照的に、理樹の顔は血の気が引いていた。
 はっきりと頷いて、つばを飲み込み。
「私は直枝くんのことが……好きだから」
 杉並は言った。
 どうやら理樹にも、杉並の真意が伝わったようだった。
 俺に興味があるのはこの先のことだ。残念ながら杉並の勇気も決断も、この世界では生かされない。先に続いていかない。ここではただ理樹の心だけが試されている。
 理樹はなにも答えない。現実の理樹もきっと、リトルバスターズの誰かに惹かれていたんだと思う。この世界では鈴だった。
 それなのに、理樹は逡巡している。杉並の心を裏切れない。どちらを選ぼうと、杉並の心は消えてしまうというのに、そのことを知らない理樹は迷い続け。
 どのくらい時間が経っただろう。
 やがて理樹は、杉並に頷いて見せた。
 理樹は鈴の想いを足蹴にしたことに気が付いていないようだった。
 杉並はしばらく呆然としたあと、想いが届いたことに感極まって泣き出し、床に膝をついてしまった。理樹は曖昧な表情を浮かべたまま、恐々とその肩に手を置いた。
 念願を叶えた杉並の表情は眩しかった。それも当然だ。一度きりの、すべての想いを込めた勇気が報われたのだから。
 やがて杉並は泣き止んで、腫れぼったい目のまま満面の笑顔を浮かべた。細められた目からこぼれた涙が床に落ちるのをを待たずに、俺は世界を閉ざした。

  ◆

 理樹を強くするならば、自分が支えなければいけない人間がいればいいんじゃないかと考えた。鈴を強くするならば、他人と繋がることの喜びと、失うことに耐えることを教えてやればいいんじゃないか。
 俺は少しずつ世界を変えていくようになった。
 リトルバスターズの女子連中が、理樹に好意に近い気持ちを持っていることは知っていた。あいつらは理樹に救いを求めていたんだと思う。もちろんそのことも利用した。この世界は何度だってやり直しが利く。どんな結末になろうと、なかったことにできるのだから。

 雨の日のことだった。校門の前で女同士が言い争う声が聞こえた。
「理樹くんは……っ、理樹くんだけは、私を見捨てたりしない! お、おまえらとは違う! 理樹くんが、私とあんたを間違えるわけなんてない!」
 三枝が泣き叫んでいる。見るからに哀れで惨めな姿だった。雨に打たれて、トレードマークのツーテールが重く垂れ下がっていた。涙腺が狂ってしまったように、三枝の両目は雫を溢れさせる。それもすぐ雨粒に溶けた。枯れきった声で何度も何度も、うそだ、うそだと繰り返していた。理樹はその声に、今にも耳を塞いでしまいそうだった。
 二木はそんな三枝を侮蔑するように笑って見せ、
「へぇ、よっぽど彼氏を信頼してるのね。……そうよねぇ、あなた達はお互い相手に同情してあげてるんだから、相手に裏切られるわけないわよねぇ」
 馬鹿馬鹿しい。そう忌々しげに吐き捨てた。
「違う! 私たちは、信じあってるんだもん!」
 叫び声が悲痛に震える。理樹は二人から離れたところで、戸惑うことしかできないでいる。
「知ってた? そういうのって、病気なのよ? 互いに寄生しあって、相手を養分にしてるの。だからいつまで経っても吸い枯らさないで続いていく。いつまで経っても変わらない。進歩しない」
「違う! 違うちがうちがうっ! そ、絶対にそんなんじゃない!」
 三枝は顔を両手で覆い、二木を見ることもできず支離滅裂な反論をする。
 二木は鼻で笑う。
「……あらあら、随分根が深いみたいね。これはもう手遅れかも」
 やれやれ、と肩をすくめる。
「こんなロクデナシと付き合えるんだから、あなたも大したものね」
 二木が理樹に顔を向ける。
「あなた、見るからにひ弱よね。自分がない。流されるままにしか生きられない。誰かに道を示してもらわないと生きられない」
「理樹くんは関係ないでしょうっ!」
 理樹が槍玉に挙げられた途端、三枝が顔を上げて、二木をにらみつける。抱えられるだけの憎しみをすべて詰め込んだような視線だった。
「この子が求めれば、あなたはなんだって差し出すんでしょうね。この子がいなくなれば、あなたはまた自分をなくしてしまうから。そうやってこの子を食い物にしてるのよね」
 二木は三枝など意にも介さず理樹を見つめる。口調は落ち着いていたが、言葉の端々から抑えきれない悪意が滲む。仇敵を追い詰めるかのように、理樹に迫る。理樹は自分に向けられた負の感情に怯え、立ち竦んでしまっていた。
「……なにも言い返せないの? それはあなた自身、自覚してるってことなの? この子を利用して、そうと気づかれないように踏みつけて、自分の利益にしてるって、気づいてるってこと?」
 違う。理樹の口はそう動いたように見えた。だが、俯く理樹の口は静かに怒りを燃やす二木には見えなかったし、声は雨音にかき消されて届かなかった。
「ただ一時の安息を得たいがために他人を不幸にする。それじゃ、あいつらと変わらない。――あなたこそロクデナシよ」
 二木がさらに一歩、理樹に詰め寄ろうとしたときだった。
「りっ……理樹くんを、馬鹿にするなあああああああああっ!」
 俺は三枝の手に握られたはさみを見た。ほの暗い空の下でも、真っ白い銀色に輝いていた。
 理樹が駆け出した三枝から目を逸らした。
 俺はその刃が二木の制服を貫き、左の脇腹に食い込んでいく様を見た。二木が驚いたような目をした。本当にスローモーションのように、二木の身体が仰向けに倒れていく。痛みに歪むだろうと思った顔は、しかしどこか安らいでさえいるように見えた。代わりに、三枝の表情が耐え難い苦痛の色を帯びた。
 浅かった。内臓にさえ届いていない。とても致命傷には至らない。俺にはそれがわかった。我を忘れた激情の中で、三枝の足は止まった。多分、肉親の情というものがそうさせたのだ。
 三枝は血に濡れたはさみを取り落とし、座り込んで声を上げて泣き出した。理樹は近寄ることもできないだろう。
 それを見て俺は考えた。
 考えて、しまった。
 今ならば無理なく二木を死なせることができる。造作もないことだ。理樹に、自分の弱さの果てを知らせることができる。自分の罪を見せることができる。逃れられない現実ってやつの一片を見せつけてやれるのだ。
 ……嘘だ。
 二木を殺すのは俺だった。現実で俺たちがそうされたように、二木という人間を閉ざすのだ。そんなことが許されるはずがない。そう思った。
 だが、この世界はやり直せた。この世界は虚構だった。その気になればすぐにでも二木は生き返る。何事もなかったように、ストレルカを従えて校内を歩き回る。すれ違った能美とおしゃべりをする。そして、貴重な笑顔を見せる。この世界で見られた光景は、望めば次の世界でも見られるはずだった。そこからはなにも奪われていない。
 むしろ、そんな現実の道義を持ち出して、理樹たちの未来を奪うことこそが罪なんじゃないか。これは何百回に一度のチャンスなのだ。結果として理樹が強くあろうと願うなら、この繰り返しの二木の死には意味があるんじゃないか。現実の二木は、今もきっとピンピンしている。この世界で何度二木が死のうと、それは作り話なのだ。夢の中で人を殺してなにがいけないというのだろうか。
 この世はゼロ・サムゲームだと言っていたのは二木自身じゃないか。偽者の二木とこの三枝が不幸になって、理樹と鈴が幸せになる。まさにその通りじゃないか。
 俺は続けて考えてた。
『これがお前の弱さの結果だ。目を逸らしたお前に与えられた罰だ。お前は強くならなきゃいけなかったんだ。わかるだろう?』
 絶望し、挫け、縋りついてくるであろう理樹へのための言葉だった。
 俺は誓ったのだ。
 綺麗事などいらない。そんなものは俺の使命の邪魔にしかならない。俺にはもう、必要がない。
 二人のためになら、どんなルールだって犯すし、倫理だって踏みつける。
 そう誓ったのだ。
 誓ったのだ。
 神も仏もいないなら、俺が神になる。俺が恐ろしい地獄を見せてやる。そして助けてやる。誰も差し伸べてくれない救いの手になる。
 思えば、

「大丈夫だよ! きっと助かる!」

 思考が途切れた。
 理樹の声だった。
 コンクリートの地面に倒れ、浮いた水溜りに血を流し続ける二木に、理樹はおっかなびっくり近寄った。肩を抱き上げる。二木の息があることを確かめて、傷口を素手で押さえる。
「葉留佳さん、まだ、手遅れじゃない! 間に合うよ! だから、き、救急車を!」
 理樹の言葉で、三枝に意識の色が宿る。だが、三枝を動かすには至らない。三枝の目はその光景を未だ真実と捉えられないのだろう。
「信じて! やり直せるから、きっと! みんな、生きてるんだから!」
 理樹の止血は粗末なものだった。女子の服をめくることがためらわれているのかもしれない。理樹の手からアセロラ色の血が滴る。動脈を傷つけていた。そんなことでは、救えるものも救えやしない。
 放っておいても、二木が死なないことは分かっていた。
 だが。
「理樹、なにやってる! 傷口を直接押さえろ! 死ぬぞ!」
 気がつけば、駆け寄らないではいられなくなっていた。
 雨の中、水溜りを跳ね上げて二人に駆け寄る。理樹がはっとしてハンカチを取り出し、二木の服の中に突っ込んだ。二木が呻き声を上げる。理樹をあそこまでコケにしたのだから、そのくらいは耐えて欲しいものだ。俺は救急車を呼んだ。

 サイレンが近づいてきた。二木が運ばれていく。三枝は震える足取りながら、気丈に救急隊員と話をしている。
「……恭介。なんでこんなことになっちゃったんだろう」
 理樹がしゃくりあげながら、俺に縋りつく。その手を握る。雨に濡れ、冷たくなってしまっていた。
 俺は多分、この世界で初めて理樹の肩を抱いた。
 こんな閉じきられた世界でも、理樹は生きていたのだ。
「取り返しがつかないことになったな。これは、おまえの罪だ。おまえの弱さが招いた事態だ。決して、無かったことになんてできない。……だが、おまえはよくやった」
 理樹、おまえは俺の希望だ。おまえは、俺を俺に繋ぎとめてくれた。俺をこの一度、救ってくれた。多分、おまえが二木を救わなければ、俺はおまえを救えなかった。
 だからこそ、もう一度誓った。
 俺は救われなくてもいい。これからは、どんな手段を使おうと俺は理樹と鈴を救う。どんな非道を成してでも、二人を強く鍛え上げる。それが俺の証しになるんだ。
 そのためなら、あらゆる罪も背負う。なにかをなかったことにするなんて、もうしない。すべて受け入れてやろう。

  ◆

 メンバーの抱えていた苦悩を、トラウマを、じわじわと刺激していく。触れたくない現実を突きつけてやる。一緒に野球をした仲間を少しずつ、理樹でも追いつけるような早さで追い詰めていく。ときには一息に突き崩した。理樹は戸惑いながら、必死に打開策を探し始めた。
 だが理樹は救えない。
 メンバーは現実に耐えかね、精神を蝕まれていった。
 長い間必死に護ってきた自分を失っていった。
 現実を捨て空想に逃げ込んだ。泣き喚き悲鳴をあげる恋人の前で、理樹は無力だった。恋人が傷つく以上に理樹は傷ついた。何度でも繰り返した。
 能美は現実に起きた母親との別れをなかったことにして、この世界でやり直そうと思っていたらしい。単に現実を忘れようとしているだけだった。そんな能美の故郷をめちゃくちゃにする。名も知らない人間が大勢死んだ。能美は現実と同じく笑いものにされた。能美の拠り所をすべて奪った。理樹だけを頼るように仕向けた。
 理樹は悩み抜いた末、能美を日本に留める決意をした。理樹自身が決意した。それは多分、能美を大事にするあまりの選択だったのだと思う。だがそれは誤りだ。理樹には、離れた人間と通じ合うことを信じる強さが必要だった。鈴と二人でずっと寄り添って生きていけるわけではない。離れていても強さを分け合える。そんな人間になって欲しかった。
 だから理樹に思い知らせてやった。
 そのためには、能美の母親だって殺した。いつか、能美がノックを受けるのを微笑みながら見守っていた人だ。俺が想像できる最も残酷な死なせ方をした。理樹が愛する能美の心が、根元からへし折れ崩れていく。その様を見せつけられて、理樹はようやく自分の罪を知る。何度でも。理樹が能美を支えられるようになるまで。ずっと繰り返した。
 小毬が無意識のうちにひた隠し、自分を保つために抑えつけていたトラウマを暴いた。また猫を殺した。小毬もまた、見なかったことにすればなかったことになると信じていた。自分の兄を見なかったことにして捨てていたのだ。
 死別を許せないと思っているようでは駄目なのだ。人は死ぬ。どこであっても、その死は取り消せない。そう言いたいがため、小毬を壊した。無償の善意も、小毬が作った理樹や鈴の幸せな笑顔も、すべて踏みつけた。
 三枝は誰かに自分を必要として欲しいと願っていた。可哀想な境遇を隠して健気に生きる自分を褒めて欲しがっていた。全部ぶちまけた。今まで三枝の築いてきたものが数日で消えた。そこから生きていかなきゃいけない。

 謙吾は俺と向き合おうとしなかった。真人は理樹を支えながら、いつもバカをやってみんなを笑わせていた。理樹たちを見守ることに決めたようだった。
 誰も俺を責めなかった。当たり前だ。俺は俺がこうと信じたことをこなしているだけなのだから。
 ただ一度だけ来ヶ谷が、
「苦しくはないのか?」
 と訊ねてきた。
「苦しい? なにがだ」
「氏に加虐趣味があるようには思えんからな」
 来ヶ谷は初めから傍観するつもりのようだった。メンバーとは普通に接するし、ノリよく話題を振り撒きもする。ときには二人に手を貸してやる。だが、それ以上なにかするそぶりを見せなかった。
「必要なことだ」
「うむ。賢明な恭介氏のことだ。氏がそう考えたなら、きっとその通りなのだろうな」
 来ヶ谷はそれ以上なにも言ってはこなかった。

 理樹と鈴は、少しずつだが、着実に強くなっていった。現実から目を背けないでいられるようになった。現実に対処して、自分がどうするのが最善の道であるかを考える力が、徐々に芽生えていった。これならば二人は、目を覚ましてからでも生きていけるかもしれない。そう思うことができた。
 しかしあるとき、謙吾が綻んだ。
 この世界に古式が現われるようになった。現実で、謙吾が救ってやれなかった少女だ。古式は謙吾に頼り、世界に絶望し、自らの命を絶つまでに思いつめた。古式の使命は弓道だった。そう親に教えられていたらしい。そして古式はそれを失った。
 いつか、謙吾は言っていた。
「俺は、武道とは人を高め、護るためのものだと思っていた。邪悪を打ち払い、己を鍛え、弱い人間を救うものだと。……だが、古式は救わなかった」
 謙吾は俺が、この世界で命を奪うことを嫌った。
 そして当てつけのように、死に瀕する古式を救った。
 俺は真人の筋肉と同じ、謙吾の使命とは剣道だと思っていた。だが謙吾はそれをかなぐり捨てて、古式を救うことにした。何度でも。
 相変わらず、俺と向き合うことはしない。
 俺が俺の考え、望んだようにこの世界を生きるように、謙吾も自分の意思のままに生き始めた。
 謙吾はかなぐり捨てたのは剣道だけではなかった。今まで保ってきた外面もすべて捨て、バカになった。それからの謙吾は、こんな世界でも楽しげに生きていた。
 そして謙吾は、二人が強くなることを拒んでいるようだった。
 その理由はすぐに察しがついた。
 二人が強くなるということは、この世界が終わってしまうということだ。この楽しい時間を俺たちが永遠に失ってしまうということだから。
 そんなことに耐えられるほど、謙吾は強くなかった。謙吾はみんなが大好きだったのだ。現実ではできなかった野球をした。最初は古式に見せてやるための、一つの模範と思っているようだった。だがすぐに、それは謙吾の生きがいに変わった。本気で、まるで初めてゴムボールとグローブに触れた小学生のように、心の底から野球を楽しんでいるようだった。
 いつからか、この世界、この日常こそが、謙吾の護るべき使命になっていたのかもしれない。
 改めて、人生とはかくも過酷なものなのか、と思う。
 この狭い、閉じられた、偽物の世界であっても、人は互いに傷つけねばならない。自分がこれと信じたことを貫くためには、自分が信じる道を進むためには、他人の道を踏みつけて進んでいくしかない。
 これが、無数の人間が生きる世界だったらどうだろう。
 陣取りゲームのように、他人の領地を奪う。その他人は場所を奪われる。まさに二木が言ったとおりのゼロ・サムだ。たとえ現実であっても、世界は広くなんかないんだ。俺たちの生きる世界は、あれだけの人間が生きていくには狭すぎるのだ。夜空の無数の星のように、それぞれが自分の場所で輝き続けられればいいのに。
 そんな世界を夢想してしまう。相手の光を受けて、目いっぱいに、届くところまで輝く。お互いに全力で光り続ける。そんな世界だ。
 しかしそれは叶わない。俺の願いが届けば、謙吾の願いは完膚なきまでに破られる。古式をもう救えなくなる。楽しい時間は崩れ去る。
 だが俺は生きる。こんな紛い物、作り物めいた、それこそマンガそのもののような世界で生きて、誓いを貫く。
 そのためには謙吾だって足蹴にしてやる。
 来ヶ谷も謙吾と同じようなことを考えてらしい。だが止まるわけにはいかない。無理やり、強引に世界をやり直す。
 西園にも望む世界があったらしい。自分の分身が生き続けていられる世界だ。そんなものは理樹にも鈴にも必要がない。西園がいない世界に意味はない。あくまで西園は西園でなくてはいけない。人間に代えなんて利かない。それが現実だ。
 マンガの世界の住人も、こんなことを考えているのだろうか。終わってしまったマンガの中で、ずっと同じ虚構を繰り返していたりしているのだろうか。
 もしそうだとすれば滑稽だ。そこには時間なんて流れていないし、どこにも続いていかない。俺たちも一緒だった。
 だが間違いなく言えることは、俺たちは、たとえ虚構の世界であっても、こうして生きている。
 これから、理樹と鈴は俺たちをバネにして現実の世界を生きる。
 あの二人のことだから、きっと反発するだろう。他人を踏み台にするなんてできるわけがない。だから俺はあの二人が好きなんだ。生きていて欲しいと思うんだ。他のメンバーも、この一心だけは揺らがないと思う。この世界で俺たちは互いに利用しあってきたかもしれない。それは望むと望まないとに関わらず、自分の想いを成し遂げようと懸命に生きた結果だ。俺たちは考えていること、見えているものが違いすぎる。すべてを分かり合えているとは思えない。だが、この想いだけは通じ合っている。それを信じた。皆の想いを、無駄にしてくれるな。
 俺は二人をこの上ない過酷に陥れてやろうと思う。鈴と理樹が得ている強さは、あくまで仲間が前提だ。二人は仲間が一人もいない、敵だらけの世界を生きていかなければならない。
 二人は出会ってから一度たりとも離れたことがない。近づきもしなかったが、いつも隣に寄り添っていた。もしこの別れを乗り越えることができるのであれば、きっと俺たちとの別れだって乗り切れる。
 これを、俺の勝手な妄想で終わらせて欲しくない。
 絶対に終わらせない。

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