差す一条の光で目が覚めた。周囲にはガソリンと鉄錆の臭いが立ちこめていた。 大勢の怨嗟のようなうめき声。すすり泣く声。なにとも知れないガラス片。数字盤にのみ原型を残す携帯電話。散乱する飴玉。べっとりとなにかに濡れる漫画雑誌。 底冷えのするような光景だった。 そんな地獄のような場所に僕は生まれ落ちた。 目眩を堪え身体を起こす。 肩胛骨から広背筋にかけての鋭い痛みが、僕の意識を繋ぎ止める。 「理樹っ! どこだ!」 名前を呼ばれた。力強い声だった。 「鈴、僕はここだよ!」 立ちはだかる障害をなぎ払い、地を踏み締めて僕は歩く。もう迷わない。差し伸べられた手を取る。小さいが、熱い血の流れる手だ。 「まず、外に出よう」 僕は比較的に形が保たれた窓を蹴破り、土の地面に立つ。鈴も僕の後に続く。 「これは、あたしらが乗っていたバスだな」 横倒しになった車体を見上げて鈴がつぶやく。バスの外にはさらなるガソリンの臭いと青黒い森閑が広がっていた。どうやら、地獄は地続きになっているようだった。 「鈴、怪我はない?」 呼吸を整えながら僕は訊ねた。身体を動かすには十分な酸素が必要だ。このことを教えてくれた親友を救うためにも、僕は入念に深呼吸を繰り返した。 「腓腹筋の辺りが痛むが、問題ない。捻挫とは違う。単なる打撲だ」 鈴はくまなく全身の関節を伸ばして、故障箇所が無いかどうか確認をしている。鈴は冷静だった。もし、鈴が怪我をしているようであれば、僕は鈴を安全な場所へ逃がすつもりだったけれど、その必要はないらしい。 僕はまず手頃な木に抱きつき、幹からへし折る。 「鈴、危ないからどいて」 鈴が距離を取ったのを確認して、僕はその質量のある木をバットの要領で構える。左足を踏み出し、腰を回転させる。大腰筋で生み出したパワーを殺すことの無いようバットを身体の軸に巻き付けながら、叩きつける瞬間に両の腕で押し出す。 この一振りで、半壊状態だったフロントガラスが綺麗にはじけ飛んだ。 「さあ、みんなを助けだそう」 僕たちは手を取り、横転したバスを見据えて、そう誓った。 二人して、また悪夢のような現実に乗り込んでいく。 全員を助けるのだから、要領よくクラスメイトたちを安全地帯へ運び出すことを考えた。僕たちはいつでも助けられる生徒を後回しにし、連れ出すのが困難な生徒を優先的に助けることにした。 「鈴! 1、2の3で行くよ」 両足を踏ん張り、根本で折れたシートを力任せに持ち上げる。引きつった大臀筋と縫工筋、大腿四頭筋が軋む。だがこの程度、他のみんなに突きつけられた現実に比べれば過酷のうちにも入らない。 やがてシートの下に潜り込んでいた女子の身体が現れた。スカートに夥しい血糊が付着している。 「よし、理樹、いいぞ!」 鈴がその子の身体を抱え、外へ向けて駆けだしていく。散乱する物々や垂れ込める暗闇が行く手を阻むが、鈴はそれらを物ともせず、軽やかに飛び越えていく。その背姿はしなやかで、強靱だった。鈴はもはや庇護の下でしか生きられないひ弱な仔猫ではなかった。一匹の気高い野生の豹だった。 「鈴、もうだいたい僕一人で運び出せる。鈴はシートを外して、怪我した人たちのベッドを作って!」 半数以上の生徒を助け出し、残りはすぐにでも運び出せる人ばかりになったとき、提案する。運び出しただけで満足してはいけない。中にはガラスで切ったのだろうか、腹直筋などにひどい裂傷を負っている人もいる。幸い筋肉に助けられてはいたが、破傷風が怖い。筋肉麻痺など重篤な症状にまで陥る危険だってある。気休めとはいえ、できるだけ清潔な環境に置く必要があった。 「任せろ!」 鈴は気合い一閃、手近な座席に手を掛ける。べきべきと小気味のいい音を立てて、シートが分断されていく。僕は地面に伏している二人の男子生徒を背中に乗せて、また外へと向かう。 「理樹、大変だ!」 と、叫びと共に鈴の手が唐突に止まった。 背中に乗せた男子の姿勢を直して、鈴の下へ走る。さすがに成人に近い男二人を背負ったままでは、手助けは出来そうにない。 「どうしたの?」 「シートがちぎれた」 鈴はそう言って、リクライニングの部分からまっ二つに折れた背もたれを掲げて見せた。転落の衝撃で留め金かなにかが緩んでいたんだろうか。 「この際贅沢は言ってられないよ。持っていってあげて」 鈴は頷いて、また走り出す。僕もその背中を追って外へ出た。 途端、異変を感じる。 身体を駆けめぐっていた酸素の濃度が下がった気がした。次いでさっきよりもずっと濃密な、生々しい燃料の臭いが鼻を突いた。 まず、二人を避難を非難させよう。僕は背の高い草の上に二人の身体を横たえて、またバスに駆け戻った。 今は露出した車体の下の部分に回り込む。 何かが焦げる臭いがした。 そこには、よく見知った男子生徒の姿があった。 彼は僕の親友だった。 力強い前腕筋で僕の上眼瞼挙筋を開いてくれた。 脆弱な僕を導いてくれた大きな背中が燃料タンクに預けられ、黒い煙を上げていた。大胸筋を貫いて深々とガラス片が突き刺さっていた。 「ま、真人っ!」 駆け寄らずにはいられなかった。 真人は美しかった広背筋を焼かれながら、そこで流れ出る燃料を食い止めていた。 真人はあの大転落の中で僕をかばい、全身の筋肉を酷使しながら、それこそ血反吐を吐きながら、ここまで這って来たのだ。真人は強さの証である筋肉と、自分の命を引き替えにして、僕たちを守ったのだ。 「真人……バカだよ。真人は……」 真人の想いを無にするわけにはいかなかった。僕はまた車内へ駆け込んでいく。 真人はバカだ。そんなに動けたなら、もっとやるべきことがあっただろうに。そんなに動けたなら、さっさと逃げてしまえばよかったのに。 真人はバカだった。救いようのないバカだった。真人はいつだってバカで、バカだった。でもバカだからこそ強かった。あの虚構の世界で、真人は僕を見守っていてくれた。弱い僕が強くなるまで、ずっとずっと支えてくれた。真人がバカだったからこそ僕たちは絶望せずにいられた。あの暗く閉ざされ光も差さない澱んだ世界は、真人のバカだけが光だった。みんなが挫けずにいられたのは、徹頭徹尾バカだった真人のおかげだったんだ。 また一人、生徒を助け出した。鈴には散らばった持ち物でみんなの手当てをしてもらうことにする。 そして、最後の一往復に向かう。 僕は謙吾(と、なぜか居た恭介)を担ぎ上げる。途端、息が詰まった。長趾伸筋をフルに使ってかろうじて踏ん張る。僧帽筋や背柱起立筋が痙攣する。心筋が早鐘を打つ。横隔膜が動かない。酸素を取り込めない。後脛骨筋がこむらがえりを繰り返し、限界を告げる。文字通り全身の筋肉が悲鳴を上げた。大腿筋が引きちぎられるような痛みを覚える。 この場に膝をつければ、どれだけいいか。そんな甘えの芽を、僕は必死で摘み取っていく。 このくらいのことで音を上げるわけにはいかないのだ。 真人はずっと、この重みを背負っていたのだ。真人が挫けて落ち込めば、みんなの想いが消えてしまう。みんなの世界が崩れてしまう。何度となく同じ出来事を繰り返し、僕の失敗を目にしながら、そんな重圧に耐えながら、僕がここまで強くなれるまで、ずっと守ってくれたのだ。 僕が背負っているのは、まさしく真人が背負っていた重石だったのだ。僕が背負わせていた重石だった。そして、今度は僕が背負わなければならない重石なのだ。 そう考えて、僕は全ての随意筋を酷使しながら、歩を進めようとする。 でも、限界だった。 身体が前傾する。つんのめる。足を前に出そうとするが、大腿筋全般が言うことを聞かない。ハムストリングスが音を立てて千切れていく。背中の二人の身体が、覆い被さってくる。 ――倒れた。 そう思ったときだった。 左の三角筋と前鋸筋の辺りに温もりを感じた。そして僕の身体が、重圧から僅かに解放される。 「こら、理樹。独りで無理するな」 鈴だった。鈴が後ろに回り込んでなぜか居た恭介を下ろし、二回りは小さな背中に担ぎ上げる。 「持てないないなら、素直に言え。あたしが少しは代わってやるから」 鈴はそう言って、僕の先を歩き出す。なぜか居た恭介に隠れて見えないが、強くて逞しい背中だった。 ふと、鈴の足が止まる。 「なんだっ、おまえら!」 鈴の眼前に、数人の男子生徒。 「直枝、それと棗。おまえたちは井ノ原をなんとかしてやってくれ」 申し出てきたのは、たしか、運動部に所属していた子だった。 「でも、君たち、怪我は?」 「なぁに、伊達に鍛えちゃいねえよ」 そう言って、はだけた小麦色の上腕二頭筋を盛り上げてみせる。僕の目から見ても、なかなかのものだった。 「これも井ノ原がトレーニングを教えてくれたおかげだな」 言うなり、僕の背中から謙吾を軽々と引ったくって背負ってしまった。鈴の背中のなぜか居た恭介も。 男子生徒たちは足を取られながら、それでも己の筋肉を頼りに、外の世界へ着実に歩いていく。僕はつい、その背中を見送ってしまう。 『筋肉旋風(センセーション)だ!』 脳裏に真人の言葉がよみがえる。 真人。真人の筋肉はいつのまにか、真人の肉体を越えて世界を包んでいたんだね。この冷たい世界に熱い血潮を流していたんだね。 ただ、強いだけじゃない。弱い物を包み込んで守ってあげる強さ。冷め切った身体に熱を宿す温かさ。どんな苦難も乗り切って見せる柔軟さ。それが、真人の筋肉だったんだ。そしてその筋肉はいつしかみんなに伝わっていたんだ。筋肉が世界を変えたんだ。筋肉が、ついにこの現実の世界に革命を起こしたんだ。 僕は鈴の手を取った。 二人の身体はボロボロだけれど、まだ筋肉は僕の心の通りに動いてくれる。筋肉は裏切らないでくれている。 僕たちは、真人の巨体を担ぎ上げた。途端に燃料が溢れ出す。 「いくよ! 鈴!」 二人で歩を合わせ、みんなの下へ駆け出す。やがて火の手が上がる。真人の塞ぎ方が十分ではなかったのか、すぐに炎は僕たちの行く手を阻む。だが、僕たちはそんなことでは立ち止まらない。衣服が燃えようと、皮膚が爛れようと、僕たちには四肢を動かす筋肉がある。筋肉がある! 背後から爆音が聞こえた。すぐさま灼熱が襲いかかってくる。真っ白な、圧倒的な壁のように見えた。だが僕たちは、決してその筋肉を止めなかった。 僕たちを嘲笑い、のし掛かり、隙あらば押しつぶそうとするこの現実を、筋肉が打ち破って見せた瞬間だった。 世界は強くて熱くて、優しい筋肉に包まれる。 あとがき脳みそ筋肉なのですーっ!とか、そんな感じにできてたらいいなぁ。少し筋肉分が足りませんでしたね。 強くなりすぎちゃった理樹君たちのお話です。筋肉革命エンドのIFストーリーでした。 |