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かわいい妹たち


 目が痛む。閉じたまぶたの隙間から、点滴針かなにかのような凶悪な光が飛び込んでくる。カーテン越しであっても、太陽の光はまだつらい。
 寝起きの名残惜しさもまるで無く、あたしは眉間に力を入れたまま、一息で身体を起こした。毛布も掛け布団も、既にベッドの下へ追いやられていた。
 そしていつもの通り、身体中に散在する不良品の総点検を始める。あーあー、と喉から始まり、各関節や消化器、呼吸器、受容器類。……今日は、まあ上出来。目もだんだん光に慣れてきて、ようやく楽になってきた。頭はうすぼんやりするが、大したことではない。驚くべきことに、このまどろっこしい気だるさはあたしの記憶するすべての朝にこびり付いているのだ。
 ……でもそうすると、息苦しさや喉の痛みに指先の痺れ。そういった、十六年と少し分の朝の過半数に存在したそれらが無いというのは、ある意味変調と呼べるのではないのだろうか? ……ま、いいや。
 ベッドから起き出して軽く伸びをしたあと、手探りで寝癖を撫で付けながら部屋を出る。頭痛に耐えながら採光窓を見るに、どうやら太陽はもう南中しているらしかった。体内時計の再調整が必要だった。
 いまいち回転数の伸びてこない頭に活を入れて、洗面所を目指す。退院したての頃は自宅の間取りにさえ戸惑ったが、今では随分慣れたものだった。
 あたしにはもともと、鏡を覗く習慣など無かったのだが「女として生まれついた以上最低限の身だしなみは整えなければならない」と去年の夏ごろから急に女っ気づいた姉に諭され、めでたくあたしも女の子の仲間入りを果たしたようだ。そういえば、登校時間の差し迫る中、手強そうな寝癖と格闘していた姉の姿が思い出された。ついでに、一人分にしてはやけにボリュームのあるお弁当を作る背中や、気の抜けた笑い顔なども。
 そんな間抜けな姉は昨日の夜、今日は「友達」と出かけると言っていた。両親も狙いすまして家を留守にし、病弱なあたしは独り取り残された。
 ……どうせ、あと一週間もすれば、去年に輪をかけててんてこ舞いの学校生活が始まるのだから、今のうちにせいぜい楽しめばいい。と、あたしは思う。
 あたしは五分で手早く寝癖を直し、寝起きということもあって何度か歯ブラシを取り落としながら十分で歯磨きを済ませ、十分で服を選び、メモ書きにある『朝食』を五分で終わらせた。
 そのあと、桜並木を守る市民グループと行政のごたごたを報じているワイドショーを二十分だけ観てから、財布と玄関の鍵と分厚い薬袋とをコートのポケットに突っ込んで家を出た。一日三食必ず摂れと常々言われている。途中でドーナツでも買わねばなるまい。
 玄関の外は、日差しはあれども風は冷たかった。
 それでもまぁ、馬に蹴られて死にたかないし。


   ◆       ◆


「ゲンジ丸ぅ……いっしょに行こうってば〜」
 わたしがいくらお願いしても、ゲンジ丸はまるで動こうとしてくれない。朝の散歩のときもずいぶん渋っているみたいで、二回目になるともうだめだった。冬のあいだにだれも散歩に連れて行こうとしなかったせいで、すっかり怠け癖がついてしまっていた。
 だから、今日は二回。
 わたしはゲンジ丸の手綱を引っ張るのを諦めて、紐の輪っかから手を抜いた。ずっと力を入れていたせいで、手のひらがひりひりした。
 押してもダメなら引いてみろ! ということで(さっきから引っ張ってたけど)、ゲンジ丸の横にしゃがんで、ゲンジ丸の目を(どこだかわかんないけど)じっと見つめる。しゃがみこんだ芝生の地面は思ったより温かかった。
「お願いだからさ〜、遠くまで行かないから〜」
 わたしはゲンジ丸の大きな背中をくすぐるように撫でながら、精一杯頼み込んでみる。
「付いて来てくれたら、ソーセージだってあげちゃうかもよ?」
 そう言うと、ゲンジ丸はしばらく考え込むような唸り声を上げた。わたしはだいぶ期待したのだけれど、ゲンジ丸は結局、大きな身体を丸めてわたしにお尻を向けた。
「むぅ〜……」
 ……薄情者。わたしのお小遣いが底を突いているのに勘付いてるんだ。この一週間毎日ソーセージを買ってたし、その前の一週間は友達と遊びまわってたし。わたしの財布には、もう紙のお金が入っていない。
「もう! 知らないっ! ひとりでいくからいいもん!」
 わたしが大声を出して立ち上がると、ゲンジ丸はびっくりしてこっちを向いた。ふさふさの毛の奥から、わたしを見上げている。そのままじっくり十秒。
 ゲンジ丸はまたわたしに尻尾を向けて、のそのそと日陰に潜り込んで行った。
「……ほんとに知らないんだから」
 チルド室のソーセージを全部処理することを誓って、わたしは門を出た。向かうはいつもの散歩コース。
 歩きなれた道だけれど、隣に誰も居ないせいか何だか新鮮。
 あと一週間もしないうちに、それが普通にならなきゃいけないんだけどね。
 ふと振り返ると、冷たい風に乗って、わたしの家の方角からマドレーヌの匂いがした気がした。その風に押されるみたいに、わたしは早足になった。


   ◆       ◆   


 常に気を遣い続けている人間は、常に気を遣われ続けている人間の気持ちがわからない。 これは、あたしの持論。あたしの人生経験で巡り合った数少ないサンプルから導いたものだ。……むしろ、数少ない人生経験、と言ったほうがしっくりくるかもしれない。
 それはさておき。
 別に、気を遣ってる側の人は傲慢だーとか独善的だーなんて言うつもりはないのだけれど。ただ少々、頭の巡りは悪いんじゃないかとは思う。だがまぁ、気遣いのできる人が一番気を遣ってることは、他の人に気を遣わせないことなのだから、気を遣われる側の気持ちがわからないのも無理はない。そしてそういう人々のそういう意識は、往々にして気を遣われる人に疎外感を与える。気を遣ってくれるのはありがたいのだが、同じようにお礼しようにも、そうさせないような防衛線を張り巡らせているのでなかなかお返しが出来ない。隙を窺っているうちに感謝の念が沈んでいって、一種のフラストレーションとして凝り固まる。そこでひとたび引け目や居心地の悪さを感じれば、あとは密度の高いストレスになるだけ。それに気付いたのはつい最近。こうして何の問題もなく歩きまわれるほどの余裕が持てるようになってからだ。
 そんなわけで、あたしはこのところ不愉快だ。あの姉たちに二度と気など遣わせてやるものか。
 あたしは拳を握り締める。爪も食い込まないほどの非力さで。

 あたしは商店街の真ん中を歩いていた。
 春休み最後の週末ということもあり、かなり混み合っている。子供に手を引かれるコート姿のくたびれたお父さん方や、道端で喚声をあげる女子高生やらが目に付いた。人々はみな健康そうであり、傾きかけた太陽の光に目を痛めるような人間はなかなか見当たらなかったし、肩で息をしながら歩き回っているような女子高生も見かけない。往来のど真ん中に停められた自転車やバーゲンの看板に気を配りながら人ごみを歩くのは、なかなかキツかった。
 どこかに腰を下ろせるところはないだろうかと、膝に手をついたまま辺りを見回す。特に労せずして、無難な距離に無難なファーストフードの看板を見つけた。お医者さんには止められていたような気もするが、コーラの一杯くらいなら問題ないだろう。
 そう思って歩き出したとき、そのファーストフードの店内に、溢れ返るカップルを見た。 どれも面識のない人々だった。それでもあたしは、反射的に目を逸らして、看板に背中を向けた。姉の姿がちらつきかけるのを、太陽を睨んで押し止める。
 やっぱり人ごみは好きじゃない。
 あたしの足は自然と繁華街から遠ざかっていくようだった。


   ◆       ◆


 階段を登りきると、冷たい風がおさげを乱暴に撫でつけてきた。風が肩の向こうに駆け抜けていくまで、わたしはじっと目を瞑ってリボンを押さえていた。
 髪型を変えようか、という話をしたときの、ちゃるとよっちの反応を思い出す。二人は思うさま笑い、『先輩には変化球なんて見送られてジリ貧になるだけだよ』と言った。それはたしか、まだそれが笑い事で許せた頃の話。
 結局、タカくんを打ち取ったのはまっすぐな人でした。みんなから好かれていて、みんなに親切で、頭がよくて、お弁当とお菓子を毎日作れる可愛い人。他の人のために、泣いたり笑ったりできる人だった。
 良妻賢母型はすぐ飽きられる、という話を誰かがしていたけれど、タカくんがそんな人じゃないことは、わたしはよく知っていた。
 目を開けると、夕焼けの中にピンク色のかけらがひらめくのが見えた。目線の高さに、川沿いにクレヨンでなぞったようなピンク色の線が伸びていた。春はもうインターホンのカメラに笑顔を映して、ドアノブに手を掛けてる頃なのだ。
 なんだか嬉しくなって、次々運ばれてくる花びらを、大きく口を開けて受け止める。でも、何度挑戦しても上手くいかない。タマお姉ちゃんなら、風に吹き飛ばされたやつでも簡単に取っちゃうけれど、わたしにはまだ難しい。
 タマお姉ちゃんはすごい。わたしには真似できない。頭もいいし、優しいし、カッコイイし、スタイルもいいし、まっすぐで女の子っぽいところもあるし、わたしみたいにうじうじしないし。わたしが勝てるとこなんて一つもないのに。
 タカくんは……。

 向こうに帰る日。タマお姉ちゃんが『まだこれからよ』と言い切って、ここから空を見つめていたのを思い出した。ストレート一本。小細工なしで、もう一度。
 あのとき、まだ桜はつぼみをつけているだけだった。次に帰ってくるのは、夏休み。
 ……花びらキャッチが見られないのは、残念だなぁ……。
 もう、タマお姉ちゃんの花びらキャッチは見られないかもしれない。そう思うと、すごく寂しい。

 橋の手すりをなぞりながら歩いた。足元で揺れていたおさげの影が、少しずつ遠くなっていく。小さい頃、タカくんの背中を追いかけてた頃からずっとこうやって揺れていた。
 いっそ切ってしまおうかと思ったこともあったけど、結局やめた。タカくんを困らせるだけだしね。この髪型も、気に入ってるし。
 空にマーマレードの色が滲み始めている。
 ノルマは五枚。五枚止めたら、帰ろう。


   ◆       ◆


 結局あたしが腰を落ち着けられたのは、太陽があんず色に染まり始めた頃だった。ドーナツの包みを抱えて堤防に腰掛け、川の流れを見つめる。面白みも何もないけれど、とりあえずそうしているのが楽だったのでそうしていた。
 足がだるかった。オーバーワークというやつだろう。こんなところまでくるつもりなんてなかったのに。まったく、馬鹿なことをしたと思う。だからといって、家に帰るつもりもなかったのだけれど。
 あの姉のことだから、一人で留守番してるあたしのために帰ってこないとも限らない。事実、昨晩両親が家を空けると聞いたとき、すごく複雑に顔色を変えて電話台に飛びつこうとしたくらいだし。もしあのときあたしが止めていなければ、あたしはいまごろベッドの中で、お姉ちゃんにりんごを剥いてもらいながら、楽しい楽しいあいつの話を聴いていたかもしれない。それも、ため息交じりの。
 お姉ちゃんは、あたしのことになるといまだ盲目だ。常に気を利かせている。それこそ、仏壇の位牌でも相手にするように。
 両親に対しては今更だが少しずつ甘えられるようになったし、あいつに対しては、それこそ愛玩動物のように、目に余るほど……。
 『足手まといの妹です』。
 今となっては懐かしいフレーズだ。もうとても使う自信がない。はたして誰が否定してくれるというのか。

 ……ちょっと目の調子が悪い。立ち上がって、ぐっと力を込めて目を押さえる。そのまま、誰に見せているのか、あたしは出ないあくびを出してみた。
 火照った頬に当たる強い風が気持ちいい。今日は、少し疲れた。
 斜面に向けて歩き出そうとして、ふとあたしは足を止めた。桜最前線の並木の下で、年下と思われる可愛い女の子が大口を開けて飛び跳ねていた。もしそれが老若男女入り乱れての大行進だったり、女の子のサンダルのネズミ捕り機でもぶら下がっていれば、その違和感は若干ではあろうが拭えただろうが。
 残念なことに。酷く残念なことに、その少女はたった一人で、それも何か得難いものを切実に追い求めているように見えた。
 本来なら一瞬でも早く離れるべきだったのかもしれない。
 しかし、あたしはそのとき、どこか捨て鉢な気分になっていた。あたしは足音を忍ばせながら、いたずら心を前面に押し出して、その女の子にに近づいた。

「サクラって、おいしいの?」

 声を掛けると、少女は驚いたように、というかあからさまに驚いて、あたしの顔を見返してきた。続けてあたしが驚いた。その少女の顔を、あたしはよくよく知っていた。面識が全く無いにもかかわらず。
 その女の子は、姉の恋敵「だった」と有名な女の子だった。その手の話は聞くも話すも腹立たしいが、少々拭いがたい印象が残ってしまっている。名前は、確か……。
「えと、……うん。ちょっと苦いけど、甘いんだよ」
 そう言って、少女はエヘヘと恥ずかしそうに笑った。同輩とは思えない、あたしにはできるべくもない表情だった。永遠の美少女、という単語が思い浮かべられた。
「お腹、空いてるの?」
 あたしの言葉に。少女は再びびっくりしたように目を見開いた。その反応に、あたしは赤面しそうになる。明らかに変な奴だと思われた。……もともと他人とコミュニケーションをとるのは苦手なのだ。自分の間抜けさを呪う。
『あ、ご、ごめん。変なこと聞いちゃったね』
 そう言おう。そう言って場を繕って、早いところ別の場所へ行こう。思い立って、あたしは口を開く、その寸前。
「う……うん。お昼から何も食べてなくって」
 少女はもじもじと赤面して、エヘヘと笑った。まったく悪意の感じられない、文字通り無邪気な笑顔だった。
 これは一体どんな流れだろうか。いまさら、この少女が大幅にずれていることに気が付く。
「……よかったら、ドーナツ食べない? あたし、もうお腹いっぱいでさ……」
 あたしはあくびを装って口を開けた。その途端、ひときわ強く風が吹いた。
「あ、すごい」
 舌先に謎の異物感。うわあごに押し付けると、植物特有の苦味とほのかな甘みがした。



「それでね、わたしの飼ってる犬、ゲンジ丸って言うんだけどね……」
 防波堤に女子高生二人が肩を並べて、黄昏の中語り合う。
 あたしにはわからない。恋に破れた少女とその恋敵の妹が、いったいどうすればこうなるのか。
 彼女はあたしのことを知らないようだった。まあそれも当然。もしかすれば名前くらいは知っているかもしれないが、生憎あたしは女の子の半分程度しか出席していない。妙な後ろめたさもあったが、とりあえず名乗らないままにした。よくよく考えれば、彼女とは同級生なのだ。このままでいれば、今後彼女との良好な関係は望むべくもない。
 それでも、今日はそんな気分だったのだ。後のことなんかよりも、今、何か没頭できる物が欲しかった。
 彼女の話は殆どが要領を得ないものだったが、あたしにすれば、彼女が語るものは全部が全部、楽しい話だった。結局のところ彼女は、あたしがどう足掻いても体験できない、できなかったことを語っているのだ。
 彼女は今、どんな思いであたしと話をしているのだろう。

 ひときわ冷たい風が吹いたところで、ちょうど話に区切りがついた。鉄塔の航空障害灯やビルの明かりが見え始めると、急に肌寒さを感じるようになった。詳しい時間はわからないけれど、お目玉を食らうことは覚悟する。
 緩やかな沈黙が続いた。花びらと少女のため息が混じった風が聞こえた。
「……それじゃ、わたし、そろそろ……」
 少女が立ち上がるのに倣って、あたしも腰を上げる座りっぱなしだったせいで、足の指先が冷たく痺れている。
「また、会えるといいね」
 そう言って、少女は街の灯りにも負けないほど綺麗な笑顔で手を上げて、背中を向けた。
「ちょっと待って」
 思いもかけず、あたしの口から声が出た。なぜ、呼び止めたのかは分からない。
 駆け出しかけた小さな身体が硬直して、くるりとこちらに向き直る。おさげが揺れている。
「あたしも、そっちなの」


   ◆       ◆


 帰り道もお話は続いた。同い年くらいの女の子でしか話せない話題なんかもした。そのときは、女の子の方からもお話してくれるようになった。
 もし今日、ずっと一人で過ごすようなことになっていたら、わたしはどうなっていただろう。
 分かれ道に差し掛かって、女の子が突然足を止めた。
「あたし、こっちだから」
 女の子は、すこし残念そうにそう言って、暗い道の向こうを指差した。楽しいおしゃべりの時間も、とうとう終わりに着いてしまった。
「それじゃ、今度こそ……」
 名残惜しさを表に出さないように、わたしはもう一度、さっきよりも精一杯手を上げて、走り出そうとして――。
「ちょっと待って」
 つんのめって、危うく転びそうになる。
 女の子はわたしの顔を見つめて、何かを決心したように一度頷き、口を開いた。
「あたしの名前」
 言われて、そういえば全然自己紹介なんかをしていなかったことを思い出した。
「あ……うん。わたしは、柚原このみ」
 精一杯明るく言ったつもりが、女の子は居心地が悪そうに顔を伏せてしまった。よく見れば、肩で息をしているのが分かる。
「あたしの、名前はね」
 小さな、掠れたような声だった。もしかしたら、どこか具合が悪いのかもしれない。
「だ、大丈夫……?」
 わたしは女の子の手を取る。女の子の白い手は汗をたくさんかいて、冷たくなっていた。そんなこと気にもしないで、女の子は先を続けようとする。
「あたしの名前は、」
 そのあと、女の子が大きく息を継いだときだった。
 ぜんぜん人気が無かったこの分かれ道へ向けて、若い二人組みが近づいてくるのが見えた。どうも、高校生くらいのカップルらしかった。
 …………。
「「あっ」」
 その姿を見て、わたしと女の子は全く同じタイミングで茂みに飛び込んだ。
 女の子はさっきまでの不調振りを感じさせない機敏さだった。なんで女の子まで飛び込んだのかは、わからないけど。

「……たかあきくん、今日はありがと。楽しかった」
 女性の方が名残惜しそうにつぶやくと、たかあきくんの方は何も言わずに女性を抱きしめて、その髪にはなを押し付けた。女性は女性で、たかあきくんの胸に顔を埋めて、じっと動かない。さぞや暖かいことだろう。
 風が吹いて、二人はお互いに温もりを預けあうようにして抱き合っていた。ようやくお互いの身体を離れ、二人は見つめあいキスをした。それはそれは永いキスだった。
「……たかあきくん。……もうちょっとだけ」
「愛佳……。大丈夫、なのか?」
 そこが二人のお別れの場所だったのだろうか。それでもたかあきくんを離すのが惜しい愛佳さんは、少しだけ、少しだけ、たかあきくんのうちの方へついて行きました。……わたしのうちの方へ。


 二人の姿が見えなくなってどれくらい経っただろう。
「柚原さん」
 女の子に呼びかけられて、ようやく我に返る。
「……え、えへへ〜……すごいの見ちゃったね〜……」
 顔がこわばって上手く笑えない。
 女の子は、すごく自然な笑顔を浮かべていた。
「あたしの名前は、小牧郁乃っていいます。あなたと同じ高校に通ってます。この春から二年生です」
「え? 二年生ってことは、わたしと同級生?」
 なんだ、そうだったんだ。ぜんぜん気が付かなかった。
 こまきいくの。頭の中で繰り返す。忘れないように。
 って、あれ?
「……小牧、さん?」
「はい。小牧です。姉が三年に居ます。ちなみに一年のときは入院していてほとんど授業に出ていません。そのせいで姉の足手まといを今日までずっと自負してました」
 女の子は、きっぱりとした口調で、わたしを混乱させる言葉を口にし続ける。わたしはまず何か言い訳しなきゃと思い、そのあと何を言い訳するのか考えたけれど結局わからず、つまり終始混乱していたのでした。
 郁乃ちゃんは立ち上がって、茂みから出た。わたしも慌てて追いかける。
 郁乃ちゃんは街灯の下から、真っ暗な空を見上げていた。タマお姉ちゃんと、同じ顔で。それは、何年もの時間を掛けてようやく戦いの場所に立ったピッチャーのような顔だった。
「柚原さん」
 郁乃ちゃんがわたしの顔を見据えて、不敵な笑顔を浮かべた。
「……学校でまた会いましょう」
 そう言って、郁乃ちゃんはわたしに背中を向けた。
「あ、ま、待って、小牧さん」
 混乱しきりの胸を押さえながら、今度はわたしがその背中を呼び止める。
 とても意外そうな顔で、郁乃ちゃんがこっちを向く。
「わたしのこの髪型、似合うと思う?」
 郁乃ちゃんは面食らったようにたじろいで、それでもすぐに笑って頷いてくれた。

 それで決心がついた。

 十六年間温存していた決め球であります。隊長。


   ◆       ◆


 書店の紙袋を抱えたまま玄関の戸を開けると、案の定母が飛び出してきた。私たちがどれだけ心配したと思ってるのか、に始まり、お前は小さいときから病気ばかりで、と続き、お姉ちゃんの話が顔を覗かせて、頼むから心配掛けないでおくれ、と締められた。あたしよりも、その誰よりも妹思いな優しい優しいお姉ちゃんの心配をした方がいいんじゃないか。あたしは本屋に寄っていたのに。まだ帰ってきてないなんて、いくらなんでも遅くはないか。もちろん口にはしない。
 適当に受け流して……といいたいところだが、負い目あるこの身にはなかなかハードなお説教だった。
 自室に閉じこもって、紙袋の中身をベッドの上に展開する。異様な光景だった。まさかわたしのベッドの上にファッション誌が陳列されることになるとは……。
「うわ……なるほどこれ毎日読んでたら……」

『カジュアルに行きたいときもオシャレにキメたいときも似合うスタイルがいい。それってワガママですか?』
『大人すぎないオトナ』
『カワイイを独り占め!』

 比喩でなく目が痛む。頭も痛み出してきた。ええいくそ、この程度で諦めてなるものか。

 五分後、あたしはそれら雑誌を全てベッドの下に押し込んだ。所詮外見なんて宣戦布告みたいなものなんだ。インパクトがあって一朝一夕で出来ること……。
 これしかない。
 あたしは右肩にもたれかかる髪の束を握り締めた。今までで一番強い力で握れた気がした。

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