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一歩の距離


 潮の香りのする海風が吹き付ける。
 風は肌に張り付くようで、少し気持ちが悪い。
 時は9月の頭。未だ暑さの残る季節。
 前の月は人で賑わっていた海辺も、月が変われば物寂しい海岸へと姿を変えていた。
 その海岸を、二つの影が浜辺を歩いていた。
 前を歩く短い影、それを追う長い影。
 長い影は、海辺を歩くには不適合な長いジーンズを履いた背の高い男。
 短い影は、膝下まである白い薄地のフレアスカートを着た背の低い女。
 透き通るような短い薄紫の髪は、水面に反射する光を受けてきらきらと輝いていた。
「今日は私なんかに付き合って頂いてありがとうございます」
 右耳の辺りに飾られた白いレースのリボンが、振り返った際に揺れた。
「ああ、こっちこそな。藤林」
 海風を横に受けながら、二人は向き合った。
 あの日、二人が別れてから数ヶ月ぶりの対峙だった。


 砂浜に横たわる大きな石に二人、並んで腰掛ける。
「こうやって二人で話をするのも、あの日以来ですね」
 規則的な波の音に、言葉を乗せる藤林。
「教室で別れた時以来か?」
「はい」
 ミュールのかかとで、砂を踏みしめる藤林。
 俯いていて、その表情はよく窺えなかった。
「私には長かったです」
 下を向いたまま言葉を放つ藤林。
 俺はどうだろうか?
 杏と過ごす慌しい日常に揉まれ、ずいぶん短かったように感じた。
「思ってみれば、今の俺は藤林のおかげでいるんだな」
 高い空を眺めながら、ひとり呟いてみる。
「…これで、よかったんですよね?」
 そして、それが藤林にとって残酷な質問であることに気付いた。
「ああ」
 しかし、俺は藤林の決意を否定したくなかった。
 だから…俺は肯定した。
「よかったです」
 はっきりと、そう呟く藤林。
 俺の知っている昔の藤林とは違うと思った。
 言葉の端にも、強さや自信と言ったものを感じさせる。
 何が、ここまで藤林を変えたのだろうか。
「…私、昔占ってみたんです」
 思い出すように、サイドバッグの中を漁る藤林。
 そうして出てきたのは、7枚のタロットカード。
「大事に、使ってくれてるんだな」
「はい…大切な思い出ですから」
 こちらに向けた顔は、緩やかに微笑んでいた。
 潤んだ瞳は、どんな思い出を映していたのだろうか。
「聞いてくれますか?占いの結果」
 あくまで謙虚に、俺に尋ねる藤林。
 その顔に俺は、一つ頷いて返した。
 そして、数ヶ月ぶりに藤林の占いを聞くことになった。
「過去を表すカード……逆位置の恋人、意味は迷い・複数の選択肢」
 ゆっくりと言葉を紡ぐ藤林。
「どう進むか、あなたは人生の岐路に立たされました」
 俺は藤林の姉・杏の仲介を経て、藤林と付き合い始めた。
 そして、自分の本当の感情に気付き、このままの関係を続けるべきか迷った。
 本当の感情……俺が杏を好きであること。
 その事実は、藤林にとって辛い過去なのではないだろうか。
 しかし、藤林の口調はただ穏やかで、その言葉に特別な感情は感じられなかった。
「現在を表すカード……逆位置の力、意味は弱気・押しの弱さ」
 強い海風の吹き付ける中、更に言葉をすすめる藤林。
「その中であなたは、自分を押し殺してしまいます」
 海風に乱れた髪を直す事もなく話す藤林。
 そうして、俺と藤林は別れた。
 それは、藤林にとっていまだに押し込めてきた感情なんだろうか。
「未来を表すカード……正位置の正義、意味は決断・法律」
 風に負けないはっきりとした口調で、言葉を続ける藤林。
「やがてあなたは、何らかの決断をすることになります」
 その藤林の表情は、なぜかとても落ち着いたものだった。
 特別な感情があるとすれば……うれしいのだろうか。
「対策を表すカード……正位置の塔、意味は荒療治」
 そのまま穏やかな口調で、藤林は占いの結果を告げていく。
 海風ははたと止み、波音だけが世界を支配していた。
 ざざー、ざざー、と規則正しく。
「今の状況を脱するためには、何らかの荒療治が必要になります」
 俺には、藤林の今の感情が理解できなかった。
「周囲を表すカード……逆位置の戦車、意味は積極的・攻撃的」
 ふと見上げた空には、競うように飛ぶ二匹のかもめ。
 その様が、昔の杏と藤林を想像させた。
「周囲には、あなたと競うべき明確な敵が存在します」
 そう、俺は何か勘違いをしていたようだ。
「願望を表すカード……正位置の法王、意味は慈愛・結婚」
 まぶしい太陽が目に入り、視界が真っ白になる。
「その環境を越え、あなたは幸せになりたいと望みます」
 視界は白から黒へ。
 立ちくらみに似た感覚。
「わかりましたか?朋也さん」
 カードを膝の上で揃え、尋ねる藤林。
「ああ」
 くらむ視線の中、うっすらと藤林の笑顔が浮かび上がった。
 この笑顔は、どこから来ているのか。
 それは、藤林にとって割り切った過去だから、ではなかった。
「この占いは、私にしてはとても当たったと思ってます」
 両手でカードを抱え、自信ありげに答える藤林。
 その視線は、目の前にいる俺を通り越え、遠い過去を見ていた。
「この占いを聞いて、お姉ちゃんは髪を切りました」
 それは昔、藤林が杏を占った結果。
 杏に取って敵であった、双子の妹に送られたプレゼント。
「…これで、よかったんですよね?」
 先程と同じ質問を投げかけられる。
「ああ」
 それにも、はっきりと答えを返した。
 藤林の視線の方向に合わせ、後ろを振り返る。
 視線の先には、遠くまで続く長い海岸線が見えていた。
「結果を表すカード……正位置の運命の輪、意味は成功」
 最後のカードを読み終え、藤林はそれをバッグに仕舞った。
 そして、ふう、と大きく一息ついた。
「私にとっては、もう負けは見えちゃっていたわけです」
 複雑な表情で、藤林は海岸線を追っていた。
「占いって残酷ですね」
 そして、俺も同じ視線を追う。
「でも、占いは占いなんだろ?」
「はい…その通りですね」
 別々の道を歩き出した、元恋人の二人。
 こうして再び同じ視線を向かわせる事に、どこか温かさを感じていた。
「ここまででいいです」
 すっと立ち上がる藤林。
 スカートをぱっと払い、付いた砂を落とす。
 翻ったスカートの白が、薄く海の青を透かしていた。
「行ってあげて下さい」
 眩しそうに空を見つめる藤林。
 そして、一歩海の方へ足を進めた。
 確かめるように、真下の砂を踏みしめる。
「杏の所にか?」
「もちろんです」
 この一歩が、別れた俺たちの距離だと思った。
 立ち上がり、藤林に倣ってズボンの砂を払う。
「藤林はどうするんだ?」
 砂を踏んで楽しむ藤林に声をかける。
「私は、バイト先の病院に用事があるので…」
「そうか」
 この一歩の距離を保ちながら、言葉を交わす二人。
「ありがとな、藤林」
「はい、私もありがとうございます」
 向き合った二人の間に、湿った潮風が吹きぬける。
 あの日交わした「ありがとう」の言葉を、もう一度俺たちは交わした。
「んじゃ、またな」
 そうして、別々の方向へと足を進める俺と藤林。
 吹き付ける潮風は、どことなくすがすがしく感じた。
「あと、誕生日おめでとう、藤林」
 お互いに背中を向けたまま、俺はそう言い放った。
 見えるはずもないのに、藤林はそっと頷いたような気がした。



 駅前には、見覚えのある影が立っていた。
 左の髪に結ばれた長いリボンが印象的な、藤林の双子の姉。
 俺の恋した女の子の姿。
「杏…」
 俯いた表情が、ゆっくりとこちらを向いた。
 と思ったら、突然俺の胸へと飛び込んできた。
「朋也…おそいわよ」
 顔を俺の胸に埋めたまま言い放つ杏。
 その、肩まである髪を優しく撫でてやる。
「不安だったのか?」
「…そんなことないわよ」
 すっと、一歩後ずさる杏。
 胸から何かを取り出し、握り締める杏。
「信じてるからね」
 握り締めたのは、以前杏にプレゼントしたアメジストのペンダントだった。
 その手を、大きく両手で包み込む。
「あ」
「大丈夫だ、俺の恋人は杏だから」
 そのまま、杏の体を引き寄せる。
 一歩分の距離が、すっと埋められる。
「ねえ、聞いていい?」
 軽く抱き合いながら、言葉を交わす俺と杏。
「椋と、何を話していたのか」
「ああ」
 二人の間から、心地よい温度が伝わってくる。
「昔、藤林が杏にした占いの話」
 杏に二人の間の一歩を詰めさせたきっかけになった話。
 そう俺は付け加えた。
「なるほどね」
 ゆっくりと体を離す杏。
 そして、右手で俺の左手を強く握った。
「んじゃ、聞いちゃったんだ」
 そのまま、ぐいっと引っ張る杏。
 そして、駅の方へ走り出した。
「ちょ……」
「今日は特別な日だから、とことん付き合ってもらうわよ!」
 左手にペンダント、右手に俺の手。
 楽しそうな表情で、俺を引きずる杏。
「わかった、わかったから、もっとゆっくり」
「だめっ!大切な時間を少し椋にあげちゃったから、その埋め合わせ」
 手をつないで走る二人の姿は、周囲からは恋人どうしに見えてるだろうか?
「あたしは、もっと幸せになりたいんだからっ!」
 つないだ手にも、心地よい温かさが伝わる。
 確かな犠牲を産みながら、手に入れた大きな幸せ。
 これは、昔いっしょにいたいと思っていた人がくれたプレゼント。
 この伝わる温度は、紛れもない幸せの形なのだろう。
 少なくとも俺と杏は、そう思っているはずだ。


「杏、誕生日おめでとうな」
 走る恋人の背中に、小さく投げかけた。

あとがき

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