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犬と麻雀とタコス


「知ってたか? オカルト的には牌磨きが一番なんだじぇ?」
 適当に言ってやると京太郎は大喜びでゴシゴシしだした。へっぴり腰には目をつむってやろう。働く男の背中は美しいものだ。
 それにしてもキモイくらいよく働くものだなあ、そーか、とうとう犬としての自覚が芽生えたのか。と思う。見守りながらタコスを食った。冷めてもタコス。うまかった。字余り。
 ともあれ京太郎の覚醒は喜ばしい。飼い主冥利に尽きるってもんだじぇ。
 だから全部終わってから。
「駅前に新しいタコス屋が出来たんだが、京太郎もこい! おごるじぇー!」
 と褒美をつかわしてやることにした。浅ましい京太郎のことなので、おごるの言葉に釣られてシッポ振って飛び掛ってくるに違いない。
 さあカモン!
「あ、ワリぃ、今日はちょっと」
 言いながら胸の前でパタパタ手を振る。
 思わず絶句。悪いと言う割にはニヤニヤ締まらん顔しおってからに。
「お前には犬としての自覚が足りんぞ!」
 言うに任せて飛び掛かってみる。そしたらひらりとよけられた。
「なぜ避ける!」
「当たり前だろ!」
「なんと反抗的な! 教育的指導だじぇ!」
 距離を詰めたら、卓を挟んでにらみ合う形になった。グルグルと、互いの出方を窺う。相手の一挙手一投足に想いを巡らせ、息遣いに心を寄せ合う。じっと目を見つめ合ったまま。
「……こうしていると、長年連れ添う老夫婦みたいだな」
「どの辺がだよ」
 じりっ……と。やがて動きが止まった。
「あっ、京ちゃんいた。遅いよー」
 そのとき京太郎に電流走る!
「京太郎、殺ったりぃ!」
 好機と見たり、前転の要領で卓を飛び越える!
 が……っ
「お、今いく今いく」
 京太郎はすでに扉に向けて歩き出していた。
 なぜ!
 着地を決めた私に、京太郎は振り向いて得意げな顔をしてみせた。なんだかよく分からんがとにかくすごい憎たらしいじぇ。
 そんなわけで、じゃあ! と立ち去ろうとするものだから、足を払ってみた。顔から綺麗に床に倒れる。
 京太郎は地面に這いつくばってバタバタもがくが、私が足首を掴んでるから立ち上がれない。手や顔面がワックスでピカピカの床に当たるたびにぺちんぺちんと音がする。
 ……これ楽しいじょ!
 ずっとこの人とこうしていたい。
 私が生まれて初めて感じた気持ちだったのだ。
 でも今はそれより大事なことがあるので、手を離す。膝が思うさま床にぶつかりいい音がした。
「どういうことだ。説明しろ」
「俺のセリフだ!」
「タコスより優先しなきゃならん用事ってなんだ!」
 偉そうだったから逆ギレしてやったら京太郎はあっさりビビった。
「え? ……あーうん。今度の男子個人戦でだな」
「聞いてないじょ」
「説明されただろうが!」
 ぬう。
「うむ。苦しゅうない。話すがよいぞ」
 私がイスに陣取ると、京太郎は生意気にも渋々という顔で隣に座って話しはじめる。というか腹が減ってきたじぇ。タコス食いたい。あの生地ってなにで出来てんだ? ……きっと夢か愛で出来ているのだ。
 じゃあ具は?
 甘くてしょっぱくて、たまにちょっとピリッと辛い。それは、柔らかな夢や愛で優しくくるまれているのだ。
 ――言わば人間そのものではないか。
「京太郎よ、タコスとは人間だったのか」
「聞けよ俺の話!」
 京太郎が逆ギレして雀卓を叩く。
 タコスより大事な話があるものか!
 正当ギレしようとしたそのときだった。
「須賀くん? どうした……あ、優希も一緒だったのですか」
 今度はのどちゃんだった。眉間に皺を寄せてかなり辟易してるのが見て取れるじぇ。
「あーホント悪い! ちょっと待っててくれ」
「なんなんだ? のどちゃんも絡むのか?」
「そうだよ今言っただろうが」
 あきれられてしまった。ちょっとヘコんだからイス回転する。ぐるぐる。腹減った。
「手短に話せ」
「へいへい」
 つまりのどちゃん咲ちゃん京太郎でお泊りマージャンをするとな?
 お泊り。なんとも甘美な響きだじぇ。
「私も混ぜろ!」
 立ち上がって京太郎の両肩を捕まえてみた。が、なんだか表情がかんばしくない。
「なんだその顔は! 三人じゃマージャンできないじぇ!? 合宿にかこつけてよろしくやっちゃうつもりなのかこのーっ! 私も混ぜるがいい!」
「お前は俺を何だと思ってるんだ……大体、ちゃあんと保護者だって」
「もう、京ちゃん! 先行っちゃうよ!?」
 のどちゃんの背中を押しながら咲ちゃんが入ってきた。そして私の顔を見る。京太郎はため息を吐く。
「個人戦の話がどういうわけか親父さんの耳に入って、そんで相手してくれるってからお言葉に甘えようってことだ」
 目が合うと、咲ちゃんはばつ悪そうに視線を外して頭を下げた。
 悪いなタコス! このゲームは四人用なんだ!
「とでも言うつもりか!」
「何の話だよ!?」
 ぬぬぬぅぅ、京太郎が咲ちゃんのどちゃんとお泊りだとぅ。
 これは……よく分からんが一大事だじぇ。
 咲ちゃんはどう考えても誘い受けだし、のどちゃんは精神的アレのそれ以前に誘ってる。京太郎が持ちこたえられるか?
 いや、ありえん! 京太郎ならそれはない! 私には信じられる!
 さて。
 イメージするんだじぇ、私。この局面を打開する必殺の一打を。
 ……。
 もう、この手しかないようだな。
 これだけはできれば封印したままでいたかった。
 だが、背に腹は変えられない。
 呪われた血をこれほど呪わしいと思ったことはないじぇ……。

「よぉし! そういう話ならもっかいみんなで打ち納めだじぇ!」

「ほぇっ?」
「ほーら、そうと決まれば早く座るじぇ! 場所決めなんて知ったことかぁ!」
 ダーッ! と走って席に着く。
 のどちゃんが腰に手を当てて、やれやれとため息をついた。
「……もう。掴み取りでいいですから、場所はちゃんと決めますよ」
「え? 和?」
「いいじゃない、京ちゃん。半荘一回くらいなら、ご飯も間に合うし」
 かかった!
 ものの見事に引っかかってくれたじぇ! フハハハハッ! スジ安全という迷信にすがる原始人のようだ!
 咲ちゃんものどちゃんも、今でこそニコニコしてるが、すぐそのキレイな顔をぶっ飛ばしてやるじぇ!
 京太郎にふさわしいのは真の雀士なり。
 そしてそれは誰なのか。
 我こそが、二人に印籠を突きつけてくれようぞ!




 神様神様、なんかこの勝負だけは負けちゃいけんと本能が告げておるのです。お望みとあらばタコスだって一日二千円までに節制します。なんならパンチラだって惜しくはありません。
 だから、どうか――!
「なにぶつぶつ言ってんだ?」
 運命のダイスロール!
 握りこぶしに生涯充填してきたタコスぢからを集める。
 はぁぁぁぁぁ!
「いざ、開放!」
 ポチッとな!
 きゅるるるる!
 仮親、対面京太郎。
「もたもたするな! はよ振れい!」
「お前が言うか!」
 京太郎の親決め。きゅるるんる。サイの目は――七!
 起家はこの私!
「よくやった! 誉めてつかわすじょ!」
 そんでもってもっかいポチッと。
 右六で開門。のどちゃんがドラをめくる。
 第一山を掴む手に、また念を込めた。
 負けたくない。いかなのどちゃん咲ちゃんと言えども、負けたくないのだ。そう、京太郎に相応しい雀士を決める運命の戦いなのだから!
 そして配牌!

(き――来てる! 来てるじぇ! タンピンドラ1! 高目三色!)

 そして――

「ダブリーいくじぇえ!」

 七ワンを河に放る。
 待ちは五−八ワン!
 ソバ聴だが、これは好形! ダブリーに通常の読みなど無意味なり! 現物追ったら高目の八ワンは溢れるじぇ。まさに神の配剤なり! ツモって8000オールまであるじょ!
 してやったりと見回すと、京太郎は明らかに挙動不審。咲ちゃん渋い顔。そんでもってのどちゃんはポーカーフェイス。
 ふふふ、ほれみたことか。ここは私の独壇場だじぇ!
 下家ののどちゃん、第一ツモ。
 手がいつものようにちょっと止まる。でもいくら考えても無駄無駄むだぁ! さあカモン! 飛び込んで来い!
「――すみません、九種九牌です」
 パタン。のどちゃんが手を開ける。
「確認お願いします」
「……」
 ぽかーん。
 確認もなにも、中張牌がいっこ、にこ、
「ちょ、ちょっと待つじょ! それ九種九牌っていうか国士リャンシャンテンじゃないかー!」
「親のダブリーにぶつける手はありません」
 のどちゃんはどこ吹く風で卓を開いて、がちゃっと牌を流し込み始める。
「原村さんはすごいなあ、私なら全ツッパだよ」
 それはそれで怖いんですけど!
 ぐ、ぐぬぬ……。
「あ、リー棒はこれでも供託です」
「知ってるじぇ!」
 隅にべちっと点棒置いて、ごしゃっと穴に放り込む。
 なあに、まだ親番は継続中!
 私の流れは途切れない!

 東一局一本場。配牌。
 ほれみたことかっ! 一メンツ二リャンメン、ファンパイ対子のドラドラヘッド! 流れは完全に我!
 第一打3ソー!
「チーです」
 いきなり晒す。
「のどちゃん、尻が軽いじぇ」
「腰が軽いでしょう」
 ふふふ、まあそうとも言うな。だが鳴いてみたところで私のツモの流れが止まるわけがない!
「ポンです」
「それ、原村さんその二ワン、ポン」
「ポンです」
「お、俺もポンだッ!」
 ――ツモ番がこない!
 目の前でグルグル回って、やっと第二ツモ。それでもリャンメンがいっこ埋まる。打牌。三フーローのどちゃんは……ムダヅモ! しかも中!
「その中ポーンッ」
 張ったじぇ!! 中ドラドラで5800聴牌! 3副露で4センチやってるのどちゃんは餌食にしか――
「ロン。タンヤオドラ1で2000は2300です」
「……あ、はい」

 東二局。
「チー」
 のどちゃんまたも尻が軽い。5巡目に2ピン食っての234リャンメンチー。手出しが3ピン。
 早和了優先?
 ……いや、たかが3300のリードで手を縮めることはのどちゃんならしないじぇ。赤含みの5800、ドラ暗刻で親マンのテンパイまで十分考えられる。
 私はカンチャン2つのリャンシャンテン。ここは二枚切れの西トイツを大事にしながら、後々危険なのどちゃんの現物で下りるじぇ。
「優希ちゃんの8ソー、ロン。白ドラドラの5200」
「あ、はい」



「それです。ロン、8000」

「そいつロンだ! 1300! ……の、親は?」
「2000でしょ」
「2000!」
「ドラ1乗ってますよ」
「3900!」
「ていうかテンパネ、50符だしね。点数計算くらいは覚えようよ」
「ち、ちょっと待て。……4800!」



 東場が流れて南一局最後の親番。
 諦めちゃダメ。諦めたらそれで試合終了なんだじぇ。だから念を込めた。
 神様神様、どうか私に、ほんの少しでもお力をください!
 配牌。

1ワン2ワン3ワン3ワン6ワン8ワン9ワン1ピン1ピン3ピン5ピン北北白


 微妙すぐる糞配牌。
 染める? ……いや、今回のドラ4ピンが生かせない、オタ風トイツで染めは無いじぇ。チャンタも同じ理由で苦しい……。
 こういうときは真っ直ぐ、愚かでいいから真っ直ぐ道を切り開くんだじぇ!

 ――そのとき、頭の中に声がした。

『イッツーが見える。白が重なるかもしらん。赤五ワンは生きとる。この手は染め一択じゃ』

 ぼんやりと浮かぶメガネの輪郭。
 なんで広島なのか全然分からない方言。
 なぜそれが頭に浮かんだのか、私には分からぬ。
 分からぬが、今はその声に沿おうと思った!
 打、5ピン!
 そして二巡後、当然のように持って来る4ピン。

「カン」

 そんで咲ちゃんが手牌を晒す。リンシャンの前に新ドラ表示牌に指をかけて、
「えっと、暗カンだとリンシャンツモってもドラ開いていいんだよね?」
 確認とって、のどちゃんが頷く。カシャッと開いてドラ4だった。
「ツモ。リンシャンタンヤオ、旧ドラ1のドラ5で4000・8000」
「京太郎、5000点貸せ」
「あ? トビ終了じゃないのか?」
「まあカジュアルゲームですから。……リー棒がなくなりますし、1万点貸しでいいんじゃないでしょうか?」
「待ってくれ! それは私のプライドが許さん!!」
「どの口が言うか!」



 で、終わった。
「は、あはははは」
 これは……この結果は……

「やっぱり原村さんは強いや」
「宮永さんも、私にはないものがあります」
「次元がちげぇよ……」

 そんな会話が聞こえてくる。
 この結果は。

「あ、そうそう。よかったら優希ちゃんも、うち来ない?」
「個人戦はトータル四回だし、その予行だろ? 得点めんどくさくねえか?」
「京ちゃんそんなレベルじゃないじゃん、トータル得点とか」
「最近ひでぇよ!」
「宮永さんに同意です」
「和、お前まで……」

 ――面白すぎて涙が出るじぇ!

「これでハッキリしたな」
 ひとりきり立ち上がる。みんなが私の顔を見る。
「えっ?」
 椅子をくるんと回転させて、遠心力を最大限生かして飛び出す。
「みんな、京太郎をよろしく頼んだじぇえええええええ!!!!!!!」
 ドアが内開きでちょっとつっかえたけど気にするな! 走る走る、風を切って走るじぇ!
「あら、あなたたちまだ残ってたの? ……って、優希?」
 部長の脇を全力で走り抜ける。
 負けたんだ!
 心の中で繰り返す。何回繰り返してもよく分からん!
「私は負けた!!」
 だから声にしてみた。廊下にいい感じに響いた、頭蓋の中もすっきりするので何度も叫ぶ!
 私は、負けたのだ。




 カラン、とグラスに残った氷が音を立てた。
「やーめたって言っちゃう人はマージャン向いてないって言ってたけれど……恋にも、向いてないのかなあ」
 五個目のタコス。甘くて、辛くて、柔らかくて、歯ごたえもあって。とてもおいしかった。だが、皿に乗るタコスの味も、今日はどこか上滑りしていくようだった。いつもの半分も胃が受け付けようとしてくれない。
「どうしたいアミーゴ。浮かない顔だね」
 肩に乗る大きな手。焦点の揃わない目を、ぐっと上に持ち上げると、マスターの太陽のような笑顔があった。でもそこに輝いている、メキシコ湾を思わせるライト・ブルーの瞳が、今夜はなぜか辛かった。
「水割りをくれ」
 何度目かの注文。マスターの表情が曇る。
「どうしたい? 明日もハイスクールだろ?」
「いいから、くれ!」
 テーブルを叩いてみる。だけどその音はすぐに消えてしまった。私という存在はこの店の、この街の喧騒の中に溶け込んでしまって、誰にも見えていないかのようであった。
「……最後にしときなよ」
 テーブルに、薄い茶色の飲み物が置かれる。
 マクドナルドのコーラの残り、あれに似た癖になる味だじぇ。そう、まるで今の私みたいな。
 マスターが別の客の注文を取りに、離れていってしまう。私はまた一人になって、コーラの水割りを飲んでいた。
「負けちまった麻雀打ちにゃ、何も残りゃしないのだな」
 思わず、愚痴がこぼれた。
 私らしくもない。
「ふふふ」
 やっぱり笑えるじぇ。
「お嬢ちゃん、麻雀を打つのかい」
 不意に誰かの声。テーブルに大きな尻が乗っかった。それからコーラの原液も。
 見知らぬおっちゃんだった。
 その問いかけに、深く意味も考えず私は頷く。
「で、負けちまったのかい」
 負けた、という言葉がすとんと胸に落ちてくる。
 もう一度、頷いた。悲しかった。
「なにもかも、失っちまったじぇ」
 意地もプライドも、友達も、下僕も。
 失ってしまったものの大きさに、涙が溢れそうになった。
 おっちゃんは「そうか」と呟き、何度も頷くだけだった。
「でも、お嬢ちゃんは幸せかもしれねえなぁ」
 予期せぬ言葉だった。
 こんな酷い有様の、どこが幸せだというのか。
 その答えを尋ねてみようと、私は涙を拭った。
「見てみろよ、この街、この国をさ。賭けるものなんてありゃしねえ」
 ……そういう、ものなんだろうか。
「なんであいつらがみんなヘラヘラしてられるか分かるか?」
 首を振る。
「簡単なことよ。誰もてめえを賭けてねえからさ。てめえの失くしたくない物を、でっけえ金庫に隠して安心してやがるんだ。そういうもんに限って、ろくでもねえゴミクズばっかりなんだがな」
 吐き捨てるようにおっちゃんは言った。
「失くしちまったモンは、取り戻そうと思うなよ。そんなの、金庫から盗まれたって奴だけがやってりゃいいんだ」
 その言葉は、多分他人から見れば負け犬の遠吠えだとか、そういうものに聞こえるのかもしれない。みすぼらしいおっちゃんは、負け組と呼ばれる存在なのかもしれない。
 でも私には、世の真理を説く聖人のように映ったのだ。
「負けたら存分に悔しがれよ。それだけのモンを失くしてんだ、こっちは。勝った連中がゴチャゴチャ言っても気にすんな」
 おっちゃんは一人で勝手に結論づけて、離れて行った。尻ポケットから何かが落ちる。拾い上げてみると、コスプレ雀荘の残念賞だった。ポケットティッシュの裏で、メガネのメイドさんが語りかけていた。
『また来てつかあさい。サービス(はぁと)するけぇの』
 私にはおっちゃんのような生き方も無理だと知った。
 思い知らされた。
 テーブルに代金を置き、私は店を後にした。
 翌日私は学校を休んだ。




 朝方の学校は当然ながら薄暗かった。天気は快晴。廊下が青白く染まっていた。
 麻雀部の部室。
 今日まで、何度足を運んだだろう。何度このドアを潜り抜けてきただろう。
 嬉しいこと、楽しいこと。そしてその何倍も大きな悔しいこと。いっぱいあったじぇ。目を瞑ればみんなの声が聞こえてくる。部長の優しい手が、咲ちゃんの太ももが、のどちゃんの胸が、……京太郎のツッコミが。
 だがそれも今日限り。
 私はもう、これ以上なにも失いたくないのであった。
 手の中には一日かけて書き上げた辞表。
 それに目を落とすと、大きな喪失感と共に、晴れやかなほどの開放感が、渾然一体となって私の胸に渦巻いた。
 さようなら、私の青春。
 せめて最後は、麻雀打ちらしく、潔く終わろうと思った。

 そして、扉を開く。





 逆光で目が眩み、部室の中がどうなっているのか、一瞬分からなかった。
 もしかしたら、私の脳が目の前の光景を上手く処理できなかっただけかもしれない。
 それほどに、私には信じられなかったのだ。
「よう。こんな朝早くどうしたんだよ」
 昨日までと何も変わらない、ぶっきらぼうな声。
 京太郎はこちらに目を向けようともせず、麻雀牌を磨いていた。一心不乱に。
「……なにやってんだ? きょーたろー」
「見りゃ分かるだろ。磨いてんだよ」
 それは分かるじぇ。
「なんでそんなことしてるんだ?」
 飼い犬根性が染み付いちまったんだろうか。
 そう思ったけど、どうも違うらしい。京太郎は不意に顔を上げて、こちらに歩いてきた。思わず、手の中の辞表を隠してしまう。
「おいおい……お前が言ったんだろうが」
「は?」
 京太郎はあきれたような顔をして、ぽりぽり頭を掻く。
「オカルトだよ。そうなんだろ?」
 言われてやっと、いつか言った口から出任せを思い出した。
「……そ、そんなこと信じてるのか」
 驚愕だった。
「ま、一応教わったことだしな」
 他力本願ここに極めり、弱い奴の典型だった。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
 そんなの、信用されても困るだけなんだじぇ。
 なのに、なんで私はこんなに嬉しくなってるんだろう。
「お前、これしか教えてくれなかったろ」
 京太郎はやれやれ、とため息を吐く。
「俺はもう行くから」
「行くって、どこへだ?」
「大会だよ。た、い、か、い。本番だ」
 男子の部、個人戦。
 ……そうか。もうそんな日だったのか。
 京太郎は大きな手で、部屋の隅に置かれていた大きな荷物を軽々と持ち上げて見せた。そして私に背を向けて、ゆっくりと歩き出す。
 私はそれを黙って見送ろうとした。
 京太郎は、私が立ち尽くしてるのを気にも留めずに、扉に手をかけた。

「あのな!」

 なぜ声が出たのかは分からなかった。我ながらカッコ悪いったらありゃしないじぇ。
 でも京太郎は、私の目の前で立ち止まって、振り向いてくれたのだった。
「なんだよ?」
 人の気も知らないで、変わらないぶっきらぼうな声。

「帰ってきたら、麻雀も教えてやろう!」

 未練たらたらだった。
 京太郎は本当に人の気も知らないで、
「覚醒した俺に教えられることなんてあんのか?」
 と言って笑った。
 そして、今度こそ扉を開ける。
「ま、帰ってきたらよろしく頼むわ」
 カッコつけて、背を向けたまま手を軽く挙げて。



 朝日を浴びて悠然と歩き去る、京太郎の背中は美しかった。
 見送りながら、自分の中に根付いていた意地やらプライドやらが消えていくのを感じた。




あとがき


 九種九牌は途中流局の一種ですから直前の場況は維持されるのではないか。
 たとえば天和が発生した局で、他家が配牌時点で九種九牌なので流局だと主張することは不可能なわけで。

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