マガ谷の針葉樹の木立の中を、潤んだ風がすり抜けてくる。セーラー服とスカートの裾をはためかせながら、真っ白な雲を運んでいく。私はこの風が好き。本当に好き。ここが、パンヤのコースでなかったら。 私のティーショットを眺めていたドルフが、インパクトの瞬間呟く。 「ア……OBになりそう……」 カチンと来た。でも私は何も言わない。打球の行方を一番よく知っているのは、私の手のひらに残る感触だったから。 「うー……」 「ドンマイ。残念だったね」 肩を落とす私に追い討ちかけてきたのは対戦相手のダイスケさんだった。パンヤ島に来てすぐに知り合った人の一人で、一番年配の人。貫禄ある体から生まれる力強いショットとシブい髭が自慢のナイスミドル、短気なのが玉に瑕。もちろん自称だ。 「気にせず、次のショットに集中することですな」 こっちはダイスケさんのキャディ、タンプー。アルバイトだけど。大きい体に無限の力、心優しい一面も持っているみたい。気は優しくて力持ちを地で行く白熊だ。受け売りだけど。 このコンビはパンヤ島で一番威圧感があると評判だった。なんたってでかい。 それで、ここはWizWizの5ホール目、ダイスケさんとPPを賭けた前半9ホールのスキンス対戦中。いまのところ私が30PP負けているけど、勝てばようやくあのウィング靴が買えるし、とても負けられるもんじゃない。もちろん学校の革靴よりゴルフに向いた紐靴だし、動きやすくなるから欲しいんだけど、それよりもあのデザインが好き。ここはもうひと踏ん張りしなきゃ。 そう意気込んだものの、なかなか差は縮まらない。やはり、最高飛距離の違いが大きなハンデになっていた。ダイスケさんくらい上手い人たちであれば、多少の飛距離差はトマホークとショートチップでカバーできるのだけれど、カバーできるような人たちの装備は桁違いに高い。そして高い装備を持つ人たちの最大飛距離は、当然ながら下層民のそれとは桁が違う。そのため、彼らが本当にカバー出来るかというと、実のところは判らない。判らないけれど、円筒形で重心が手元に近く、しなることもないアオダモの棒で250ヤードも飛ばす人たちだから、きっと出来るはずだ。 そんなわけで、技術面でもダイスケさんの方が上だからどうしようもない。アイテム未使用でトマホークなんか出るものではないし、実際第2ホールは挑戦して見事失敗している。 結局次の6ホールも2ホールと同じくダイスケさんのイーグルで終わった。これで私の負けは90PP。……とはいっても、まだ「ビギナー」を抜けられない私が「シニア」のダイスケさんにこれだけしか差がないっていうことは大したもんだと思う。実際の所は、力強い代わり正確さに欠けるダイスケさんがミスを続けてくれただけなんだけれど。 「うおっ!?」 WizWiz7ホール目、ダイスケさんのショットから。風は右から吹いている。このホールは途中で大きく右に曲がっているので、二打目は必然的に向かい風になる。一打目のミスが命取りになる。 もちろんそんなことは百も承知のダイスケさんのはずだったが、しかしインパクトの音は鈍い。 ダイスケさんのボールは少しずつ左に曲がり、結局バンカーの底に止まった。 「プー。右に曲がらなくてよかったですな」 「ドンマイですよ。ドンマイ」 残念そうに手を挙げて、私の掛け声に応えるダイスケさん。 ドンマイとは言ったものの、これは私にはまたとないチャンスだった。 私の飛距離とこの風を考えると、一打目はぎりぎりまで右に寄せなければならない。 「OBになりそう……」 「大丈夫よ。見てて……」 実になるアドバイスの一つも送れないキャディーからクラブを受け取り、構えに入る。ヘッドをボール添え、視線を集中させる。気持ち、叩く場所は左。フェード回転。少しは自信のあるカーブを意識してクラブを持ち上げる。イメージと身体のタイミングをリンクさせ、振り抜く。 「ナイショッ!」 「パンヤー!」 ボールは思い描いた通りに崖の方へ飛んでいく。風に流されて軌道は陸側に逸れ、ボールはラフのぎりぎりに落ちた。もちろんバンカーも避け切っている。 「やたっ。どもー」 快心のガッツポーズ。えも言えぬ快感。このまま行けば、このホールは……。 「ドルフ、ちょっとスコアカード見せてくれる?」 私は嬉々としてスコアを受け取り、すぐに憂鬱とした気分を取り戻した。 ドルフの差し出したスコアカードには、さっきの陶酔を無に返すような現実的で味気ない数字が刻まれていた。 今までで私は90PP負けている。ここで勝ったとしても、まだあと50PP残る。スキンスは最後に近いほど配分が大きくなるから、これくらいの差になれば逆 ボスン。 「ナイスショットですな」 タンプーの気の入らない声に思考が中断される。もう打った後らしく、ボールは見当たらない。ダイスケさんは振り抜き切ったそのままの姿勢で打球の行方を見つめていた。その風貌は、どこか在りし日の和製大砲を思い起こさせた。 「ナイスオン」 事も無げにタンプーが言う。ダイスケさんはにこりともせずタンプーと拳を合わせた。 ナイスオン? そんなまさか。バンカー向かい風のこの距離で、どうすればグリーンに届くというのだ。何かの聞き違いのはずだ。 しかし、幻聴説も虚しく、ボールはグリーンの上に有った。ダイスケさんが持っているのは……ドライバー? 「ナイスショットです……。よくウッドでバンカーから打てますね……」 ……ただの暇なおじさんに見えるけれど、やっぱりシニアなんだなぁ……と思う。ただ悔しいので、暇だからシニアなのか、と思い直した。 裾を引かれる感覚に気付いて首をめぐらせると、ドルフがクラブを抱えて見上げていた。もちろんウッド。こんなときアイアンを渡されるような情けないコミュニケーション・ギャップも近頃はめっきり減った。 屈んでクラブを受け取り、間髪置かずにショットの体勢に入る。こういうときに時間を置くと、動揺や余計な計算が生まれるのを私は知っていた。絶対に相手に飲まれちゃいけない。そう教わったのも今は昔。 力みのない全力の始動から繰り出されたフルスイングが向かい風を切り裂いてアズティックを捕らえた。ラインドライブのかかった飛球がバンカーを掠め、それでもグリーンに転がっていく。 「ナイスショット!」 ダイスケさんが大げさな称賛を飛ばす。タンプーもそれに倣ってポムポムと手を叩く。余裕なのか性格なのか嫌味なのかいまいち判断がつかない。 大丈夫。いける。飲まれてない。 私たちは続けざまにバーディーパットを沈め、儀礼的な称賛を送りあった。 8番ホール。 それにしても意地の悪いホールだ、と私は思った。 ルーキー時代に――まだこのコースの危険性が問題になる事もなく、今よりもずっと自由で、やや無秩序だったあの頃――いったい何度このフェアウェイに騙されたことか。 ダイスケさんの不恰好なスイングから放たれたボールが、強烈なスライス回転を持ってグリーンを跳ねた。わざとスイングを乱すことでアズティックをコントロールするという高等打法だ。言葉にすると実に胡散臭い。 私は、人の振り見て、ではないけれど、(もちろん振りとスイングを掛けた駄洒落でもない)基本に忠実なスライスショットでグリーンをキープした。フォームを自分から乱すような真似はしたくない。だから私はビギナーなんだろうか。 波乱もなくプレッシャーもなく、予定調和的に連続バーディーを決めた。最も高額のPPを賭けた最終ホール。私はセーラー服の上から中のペンダントに手を添えた。 「だ〜っ! くそ、また欠陥品掴まされたか。デュアル社はいい加減ブルジョア狙いをやめろってんだ」 ダイスケさんが悪態を吐きながら、ラッキーパンヤ補助剤の空き瓶を放り投げた。人相と相まってすごく怖い。だけどダイスケさんが崖の空洞から飛島に向き直ったとき、マナー違反だと知りながら、小さなガッツポーズが出るのを止められなかった。 いける――。私は震える手で、ロケットペンダントを取り出す。中身は親指の先ほどのカプセル。白濁した安物ではなく、洗練されたエメラルドグリーンの、ダイスケさんに言わせればブルジョア専用の純正品だ。 私がカプセルを口に運ぶのを見て、ダイスケさんが息を呑む。あからさまな焦りを露わにする。これだ。この為のお守りなのだ。 もし、これでシニアさんに勝てたら――。お守りのお礼をしないといけない。つまり、デートのお誘いの口実が出来る。パンヤばっかりじゃなくて、もっと違った、パンヤの外の――待っててね、ケン。 「……あ、OBになるかも」 「黙ってなさい」 つばが乾き切ってしまったおかげで、カプセルを飲み込むのには少々骨が折れた。 震えが少しずつ収まっていく。耳障りだった風の音が止み、その代わり、運ばれてきたグリーンの芝の香りを感じることが出来る。 コブラショット。上級者でも創始者でも、時には廃人でさえもしくじる大技だ。だが、いまは全く外す気がしない。風の読みも驚くほど冷静に出来る。緊張よりもずっと強い高揚感に身体が支配される。 「――行きます!」 クラブを構え、振り切った。 完璧なスイングだった。そして完璧な弾筋だった。空洞を縫うようにアズティックが飛んで行く。そして強烈なバックスピンを得たボールが、淡いグリーンの上に舞い上がった。……はずだった。 「えっ!?」 信じられない光景だった。私は飲み込まれてしまったのだ。そう、雲に。 神秘的に純白な雲が手を伸ばし、私のアズティックと夢を攫って行った。私の目にはそう映った。それ以外に言いようが無かった。 頭を抱えていたダイスケさんがおっかなびっくりグリーンを見つめ、異変に気付く。タンプーとドルフも続けざまに気がつき、四人は顔を見合わせる。 「OB、かな?」 「OB、なのでしょうかな……落ちるところが見えませんでしたな」 二人が困惑気味に言う。辺りを見渡して、もう一度ボールが見えないことを確認してから、再び私に向き直る 膝がカクリと抜ける。精も根も尽き果てて、私はその場にへたり込む。なんとか挽回できないだろうか。消えた瞬間は私しか見ていないはず。それなら、何とか誤魔化せるのではないだろうか。 そんな私の前にずんぐりむっくりのシルエットが現れる。私をかばうように、その小さな身体で大男と大熊の前に立ちはだかった。 「打ち直しだよ」 ドルフが厳然と言い放つ。 「打ち直しだよ。見たんだ。変な白い化け物がエリカのボールを叩き落すのを」 それを聞いたダイスケさんの表情の、なんと輝かしいことか。 「ああなんだ。やっぱり落ちてたんですな」 その後私は完全に気落ちしてギブアップした。 「そんなわけなの…ごめんね。お守り、使っちゃった」 クラブハウスで私は、ただただケンに謝るだけだった。部屋にはケンとキャディーのピピンと私の三人。ドルフは医務室で打撲の治療を受けている。小さいアイアンだったからそんなにダメージも無いだろうと思ったのだが、少々力を入れすぎたようだった。 「白い化け物、ねぇ……本当に居るのかしら」 ピピンはどこと無く胡散臭そうに呟き、肩を竦めた。もともとこういう性分ではあったのだけれど、タンプーが台頭してからというもの、その傾向がより極端になった気がする。 ケンは立ったまま腕組みをして考え事をしているようだった。私の発言の真偽でも考えているのだろうか。私はソファーで肩を落として俯いている。勝てなかったことよりなにより、ケンとの計画が最後の最後で水泡になったことが堪えた。 ……もう、しばらくWizWizには行きたくない。 私は心からそう思った。そもそも人気も落ち目のコースだ。別に困ることも無いだろう。 ケンが腕組みを解き、私に歩み寄ってきて、肩に手を置いた。 「よし。じゃ、その白い化け物でも見に行くか」 マガ谷の湿った風が私の髪を乱暴に打ち据える。5番アイアンの歪んだスイングから打ち出されたボールがさらに歪んだ弾道を描き、グリーン脇の深いラフに消えた。 「ドンマイ。風がある。使い慣れないクラブだからしょうがない」 ケンがそう言って私に笑いかける。 何でだろう。私は思った。 ケンとラウンドするのは楽しいのに、気分がさっぱりすっきりしない。何でこんなことに。 クラブが鋭く風を切る音がする。 「ないっしょー」 「パンヤー」 「ナイスです」 皆に遅れて、私も気のない賛辞を送る。 「ないあぷ」 ハンマーを片付けながら、まんざらでもない様子で片手を挙げ声援に応える。あどけない、可愛い笑顔だ。 「ありがとう。だが、これくらい出来なくてはな」 ウェイトレスはそう言って、きゅらきゅらと年代ものの大砲を引きずって行った。 「何であんたがいるのよ……」 9番ホールに向かう途中。初等魔法使いに飛行自粛勧告が出された向かい風の中で、私はそっと呟いた。 「まあ許してくれ。ジュニとビギの中に混じってというのは私も心苦しいんだ」 思いがけず、離れたところを歩くクーちゃんがこちらを振り返って言った。聞こえてたのか。 「クー。そんなこと言ってると足掬われるぞ」 ケンが苦笑いで口を挟む。エリカも滅多なこと言うもんじゃない。そんな視線をこちらに投げかけてくる。こういう人付き合いのバランス感覚も、ケンの魅力の一つなのかもしれない。 クーちゃんはちらりとケンの顔を見上げてから、気にした風もなく続ける。 「今回は新しいクラブの調整。コントロール重視ではなかなか勝ち辛くなってきた。ここは風もあるし、試し打ちにはちょうどいい」 一度言葉を区切り、私たちを見やる。 「それに。ここは順番待ちしなくて済むからな。浅はかな阿呆連中は皆海に出た。あの、船乗りの精神をかなぐり棄てた鉄の塊の上だ。だいいち、人工芝の上のパンヤのどこが楽しいというんだ」 「……ああ、シルビアキャノンね。……セシリアさん、素敵だよねぇ」 ケンの言葉を切り裂いて、砲声がマガ谷に響いた。鼻の下を伸ばしたケンが腰を抜かす。クーちゃんだった。驚いた鳥やビックリした魔法使いや風化した岩壁が落ちるからやめろ、と警告されていたのだが。 「あの、女のプライドをも棄てた★★のところ、と言うべきだったか」 「いや、チャイナドレスくらいならクーの体操服も……」 「黙れ、★★★」 ……風上からの声なのに、ところどころ聞き取れない。 「クーちゃん……さっき、よく聞こえたね……」 「私は海賊だぞ? おまえら私をただのガキだと思ってるような節がある」 そのヘアバンドとコスチュームのギャップのせいだろう、と私は思うが口にはしない。 クーちゃんは、六人……いや、五人と一匹? 四人と一頭と一匹? 妖精って何て数えるんだろう……の先頭を歩きながら、さらに独り言のように。 「特にあの英国人。連中は誇り高きバイキングの威光をも忘れ、海を我が物顔で行き来しているそうじゃないか」 イギリス人? バイキング? 海? 気が付くとケンが私に近寄ってきていて、慎重に耳打ちした。 「……ダイスケさんが持ち込んだ本に触発されてさ……マックスさんを目の仇にしてるんだ。マックスさんも困ってた。セシリアさんと仲いいみたいだからね。……しかもこの前マックスさんにPP差で負けたもんだから……」 陰口を聞きつけて、クーちゃんが突然立ち止まってこちらを睨んだ。不幸なことに、クーちゃんの後ろを歩いていたのはタンプーだった。クーちゃんは身長差が作り出す死角に潜り込んでしまい、勢い余ったタンプーに激突された。 その後はクーちゃんを助け出したり、タンプーに八つ当たりする(潰したタンプーが悪いのか)クーちゃんをなだめたり、涙目で綻んでしまったドレスを見つめるクーちゃんを慰めたり、ドレスを繕ったり、歪んでしまった(よくクーちゃんは無事だったものだ)新品のパターをみんなで直したり。 そして、問題の9番ホールに着いた。 「ほら。早く打て。馬鹿熊のせいで思わぬ時間を食ってしまった」 「クー。だからそういうこと言うもんじゃないって。倫理委員会にいろいろ言われてるんだし……やり直しなんて利かないんだからさ」 コブラミスのあとの、私の第二打目。 隣ではあっさりと1オンを決めたケンとクーちゃんがごちゃごちゃと何か話している。タンプーはクーちゃんのお尻の下で蠢いている。そんなタンプーに、ピピンは同情の視線を投げかけている。 「それにしても、何にも起こんないじゃない。寒いんだから早くしなさいよ」 ピピンが中傷と非難を九割含めた皮肉を飛ばしてくる。ケンがすかさずたしなめるが、ピピンは聞き入れようとしなかった。 ピピンのおかげで、振り払えそうも無かった失敗の残像がはっきりと私の頭に浮かんだ。プロレタリアートの敵たるデュアル社の欠陥品は、私の胸の動悸を止めてはくれない。 「がんばって。二人とも大丈夫だったんだから。落ち着いて」 ドルフだけが私に温かい声援をくれる。 そのおかげなのか、濁った精神安定剤が今頃効き始めたのか、次第に手のひらの汗が乾いていく。二人とも大丈夫だったのだ。私が駄目なわけが無い。 祈るような目でドルフが私を見つめる。 ――今度こそ。 力み無いテイクバック。それを受けて流れるように回転する腰椎から肩。肘が伸び切り、力はつかえることなく手首の先、クラブの先に伝わっていく。そしてジャストミート。 会心の当たり。打球は空洞を抜けていく。 「お、ぱにゃー」 「ないすこぶ〜」 二人がそろって拍手する。続いてキャディーたちも拍手をくれる。立ち上がったタンプーが一番大きな拍手をくれた。 「まったく。ほんとに白い化け物なんているのかしらね〜」 ピピンが嫌味っぽく私とドルフに絡んでくる。 「いやはやまったく。そんな奇々怪々な生物なぞ、聞いたこともありませんな」 振り落としたクーちゃんに殴られつつ、タンプーも続く。タンプーに悪意はないんだろうが、言い回しが非常に腹立たしい。 「ほら、あれだ。コマンドが長押しになってたんじゃないか? さっきは」 ケンは時々よくわからないことを口走る。 「ま、よかったじゃない。妄想に打ち勝てて」 そんなことを言われながら、グリーンへ向かう。 みんなの笑顔を見ながら、私はほっと息をついた。さっきのは気のせいだったんだ、と思うと、自然と笑みがこぼれる。 「よかったじゃない。やっぱり私たちの気のせいだったんだよ」 明るい声でドルフを見やった。 ……瞬間、嫌な予感がした。ドルフの表情が硬い。 「――あれ?」 先頭のクーがらしくない声を上げる。 「ボールが足りないぞ」 ボールがない。私のボールだけがない。あるべきはずのところにない。 「……天井に擦ってたとか」 「コントロールが難しい打法だしねー」 「抜けたと思ったんですがな」 「まぁ気を落とすな。機会があれば教えてやる」 ラフで膝をつく私に、口々に声を掛ける。誰も信じやしない。ただし、全員表情が硬い。 三人と一頭がそっと谷底を覗き込む。白い霧に覆われた、決して光の届かない谷底を。 「………………」 無言の時が流れた。 やがて、ようやくピピンが口を開いた。 「とりあえず進みましょっか」 ごく軽い口調で。 気を取り直して、後半折り返しのホール。ブルーラグーンの15番ホールを思い出させる大きく湾曲した形が特徴的だけど、切り立った崖とそびえる城がショートカットを狙いにくくしている。 それも、私よりずっと上級者である二人には関係がないみたいだ。 「ナイトマ〜」 「ナイッショ」 ケンの打球は、崖と壁の隙間を直進しちょうど反対側のOBぎりぎりに着弾した。ケンは派手なのが好きらしく、ビギナーだった頃からずっとトマホークの練習ばかりしていたと聞いた。その成果は、十分に出ているみたいだけど。 続くクーちゃんの打順。刻むことなんて考えていないかのようにグリーンに向かって構えていたが、向き直った先は平凡なものだった。 「なんだ。クーはパワーがないのか」 ケンがなぜかつまらなそうに言った。同調するように、ピピンは聞こえよがしにため息をついて肩を竦めた。 クーちゃんが振りかぶる。しかし、その頭についていると思った大きなハンマーはなく、それより二回りも三回りも小さい7番アイアンだった。 「パンヤッ」 打球は高く上がったあと、百数十ヤード先の右よりのラフに着地、停止した。ケンも私と同じくクーちゃんの意図が読めていないみたいだった。 最後、飛距離のない私はいつも通り。下り坂に乗せてODだけはもらっておこう。続く次も私のショット。このホールは刻むと一番遠くなるという変な形をしていた。 で、ようやくクーちゃんのセカンドショット。私もケンもその様子を注視する。付き合いが長いのか、タンプーは訳知り顔をしていた。いや、いつもそんな顔だった気もするけど。 さっきの一打でパワーが溜まったクーちゃんは、特殊ショットの構えを見せる。向かう先はグリーン。短く飛ばした分、私より距離はずっと近い位置にいる。ここからなら確かに届く。 でも、問題はやはり崖と城。最初の位置と違って通れるところが全然ない。ジュニアのケンがわからない顔をしているんだから、ビギナーの私がわかるはずもない。こんな場所から、一体どうやって。 「まぁ見てろって」 私たちの思いを読み取ったのか、クーちゃんは不敵に笑みを浮かべて、構えに入った。荒削りで豪快なフォーム。クラブの形状。 「ナイスショットですな」 インパクトが光る。トマホーク……いや、弾道はパワーカーブだ。二種類の特徴を併せ持った炎を纏う打球は崖を避け、城のテラスの隙間を通り、塔の頭をなめるように抜けていく。着地点の爆煙が消えたところには、綺麗にグリーン上で止まったアズテックがあった。 こんな奇跡みたいな軌道のショットを見ると、さすが魔法の玉だなぁと思わざるを得ない。 「お見事」 ドルフが言う。呆気にとられていた私とケンも、続けてクーちゃんに言葉を送った。ピピンは拍手こそしたものの、そのあとつまらなそうに舌打ちしたのを私は聞き逃さなかった。 このホールは私がバーディ、残り二人がイーグルで終了した。 それからは私とドルフを除いて、みんないつもどおりの明るいラウンドが続いた。六人中二人が落ち込んでいるというのに、気負うことなく明るく振る舞えるのが彼らの長所なのだ。きっとそうなのだ。 鈍い打球音の後、ケンの打球が谷底に沈んでいくのが見えた。 やっちまったと膝を突いて肩を落とすケン。その様子にみんなが慰めの声を掛ける。もちろん私も。結構重要なことだ。 「あーあ。イルカにでも会いたいのかしらね〜」 ピピンってば……なんだってこの娘は。 私は空気読めー、と心の中で言ってみる。ケンも苦々しげな笑みを浮かべた。 特にクーちゃんとタンプーはピピンの発言によほど腹を立てたらしく、肩がぶつかりそうなほど詰め寄っている。 「な、なによ……ちょっとした軽口じゃない。ムキになんないでよ……」 二人の剣幕にピピンは後じさる。 そこでようやく、二人の様子が尋常じゃないことに気がついた。もしかして、止めに入るべきなんじゃないだろうか。 私が身構えると、二人は同時にピピンの肩を掴んだ。 「GJ! まさにそれだ!」 「流石ですな。伊達に妖精やってませんな」 クーちゃんとタンプーはそれからピピンにあらん限りの賛辞を送り、ケンを凹ませた。 なんなんだこいつら……。 楽しかったり悔しかったりしたラウンドも、気がつけば17番ホール。モチベーションの下がった私は±0を行ったり来たり。そんな私を尻目に、二人が一打差のデッドヒート。パターの調子が悪いながらクーちゃんが一打リード。そんな中。 「あれ? 刻むの?」 ドルフが言った。クーちゃんが上級者のセオリーとは違った方を向いているのに気がついたのだ。しかしクーちゃんは金色のハンマーを構えて、ドルフの言葉を気にするそぶりも見せずにさっさとショットしてしまう。タンプーも何も言わずに拍手するだけだった。 「クー。それはハンデのつもりか?」 ケンは苦笑いを浮かべてクーに尋ねる。 「違う。ただ日和っただけだよ」 「あら。クーにしては正直じゃない?」 無愛想にクラブを仕舞うクーちゃんを見て、ピピンがすかさず混ぜっ返した。クーちゃんは表情を崩すこともなく、そしてケンたちを見ることもなく、二打目の計算をしている。 「……ビーム狙いでいいかな」 挑発するように呟いたクーちゃんに肩をすくめて、ピピンがケンにドライバーを手渡す。ケンはクーちゃんのリアクションを見ないように意識しながらクラブを受け取り、ケンが打球姿勢に入った。今日始めて見せる、凛々しい、真剣な表情だった。 湿気を含んだ重い風が、私たちを追いかけてきた。 「見てろよ――」 呟いて、一閃。 力強いスイングだった。向かい風を、切り裂くというより叩き割るような強引なスイングだった。フェード回転のかかったトマホークショットの弧が測ったように谷間を抜けていく。私たちに見えないところで爆音が響く。 ピピンが両手を精一杯あげてガッツポーズ。クーちゃんに嫌味な笑みをたっぷり贈って、光を残して消えていった。 ケンの方は純粋な改心の笑みを見せる。 どうだ。これで並んだぞ。ケンはクーちゃんの顔を見ることもなく歩いていく。 そしてクーちゃんは、どこか人を見下すような不敵な笑みを浮かべた。 「まあ、結果を見ればわかる」 私のショットを無視して、クーちゃんはアプローチショットを決めた。 「何で? ケン、ちゃんと打ったわよね!?」 ピピンがいつになく取り乱しながら、放心しているケンの肩を揺さぶった。世界が終わると聞かされたような、信じられないという表情だった。 クーちゃんはそんな二人を尻目に、パターを立てて熱心に芝目を読んでいる。 結局は、ケンのボールも消えていたのだ。岸壁に着弾した跡を残して。そしておそらく、クーちゃんの予想した通りに。 「一体なんなんだよ、これは……」 ケンが頭を掻きながら自棄気味に言った。誰も答えなかった。 ピピンはいかにもつまらなそうなのを装い、しきりにグリーンエッジを蹴飛ばしていた。 私はどんな言葉をかけて良いのかわからなかった。 マガ谷の空の霧が赤みを帯び始めていた。渓谷のコースはもうじき暗闇が覆い被さるだろう。 「なあ、お前ら。ギブアップしてくれないか?」 クーちゃんが、悪びる様子も無く言う。 「……おまえ、それ本気で言ってる?」 ケンが立ち上がってクーちゃんに歩み寄る。ピピンも流石に腹に据えかねたようで、軽口を飛ばすこともせずグリーンエッジを削っている。私とドルフはもはや蚊帳の外で、呆然と、場の空気が殺伐としていくのを眺めていることしか出来なかった。……というよりも、することがなかった。 「あぁ……ま、悪意があって言ったわけじゃないよ。日も暮れ始めた。ここの最終ホールで日没なんて洒落にならんからな」 つまらなそうに言いながら、クーちゃんはさっさとパットを決めた。そんなクーちゃんに、ケンは舌を噛み潰したかのように眉を寄せる。グリーンエッジは土が露出して久しい。 「それに――」 クーちゃんがカップにパターを突っ込むと、そこから水色の淡い光が霧の空に伸びて行った。 「おまえら、どうせ化け物とやらの正体になんて気付いてないだろ?」 三人と一匹が顔を見合わせる。 「だから、私が見せてやるって言ってるんだ」 ごく軽い口調でそう言う。意味ありげな視線を私たちに寄こすと、クーちゃんはきゅらきゅらと大砲を引きずりながら歩き出してしまった。 引き止める隙も無く、またスコアカードをどうすればいいのかもわからず、私たちはまた顔を見合わせて、相手がリアクションを起こすのを待っていただけだった。どう反応すればいいものか見当も付かなかった。それはケンたちも一緒だったのだろう。空を見つめて思案するような素振りをするだけで、ただいたずらに空が染まっていくのを眺めていた。 砲声が聞こえたとき、私たちはようやく我に返る。唇の片側だけ引き上げた微苦笑を浮かべて、ため息を吐き、歩き出した。 「それで? どうやって見せてくれるんだ?」 いつもどおり、ケンがクーちゃんの背中に話しかける。クーちゃんはどこからかワイヤーと普通のロープを調達してきていて、なにやら準備をしている。もちろんケンの質問など気にしている様子も無い。 「まさか、そのロープで釣り上げるなんて言わないわよね?」 半笑いのピピン。明確な悪意が端々に滲んでいた。 「……なんだか、嫌な雰囲気……」 不安そうにドルフが私の足にすがり付いてくる。私だって不安なんだよ。あんたの震えで膝が抜けそうになるんだよ。やめなさい。 ピピンの言葉にクーちゃんが上半身だけ振り返る。振り向きざま、1番ウッドをピシリとその鼻先に突きつけた。予想外のクーちゃんの行動にピピンは面食らい、後じさる。 「一触即発、ですな……」 タンプーも内心ハラハラしているだろうに、あくまで冷静に状況を観察している。 そのとき、クラブを突きつけたままのクーちゃんが表情を崩して、優しい笑みを浮かべた。 「そう。それだ。おまえは勘がいい。いいキャディーになるぞ」 クーちゃんは満足げにそう言って、今度は大砲に何か細工を始めた。 釣り上げる、と言ったかな。ピピンは。釣り上げるって、何を? 「その通り。これから、釣り上げる。そのために……」 クーちゃんはそこで言葉を止めて、作業に集中しはじめた。 え? 本当に釣るの? とお互い顔を見合わせた。しかし私たちには、薄暮に侵食されつつある空を不安げに見上げることしか出来なかった。 やがてクーちゃんが作業を終えて、額の汗を拭った。一息ついて、クーちゃんは身体全体でこちらに向き直った。 「……で、釣るって、何を?」 ドルフが尋ねるが、クーちゃんは一瞬ドルフに意味ありげな視線を投げかけただけで、質問には答えなかった。 「そこで、こいつと……」 コンコンとお気に入りの大砲を叩く。 「そいつで」 悪戯っぽい笑みだった。年相応の視線が私……の足元に注がれた。 「エ……まじで?」 「タンプー。タイミング、絶対外すんじゃないよ」 「プー。それは杞憂というものですな」 クーちゃんが打撃姿勢に入る。タンプーが大砲のスタンバイをする。 わたしは期待を視線に込めて二人のショットを眺めている。辺りには夜の影が落ちてきていた。ケンはぼんやりと霧の向こうを見透かそうとしている。 「じゃ、始めるぞ」 クーちゃんがあっさりと言う。タンプーは大砲の導火線に点火するため地面に屈み込み、私とケンは並んで固いつばを飲み込んだ。 大砲に込められるのではないかと心配していたドルフは、生き生きとした表情をして見せ、ピピンはそれを見て残念そうに舌打ちした。 クーちゃんはドライバーを取り出して、ティーショットの体勢に入る。折り良く風も止んでいて、その一瞬、辺りに静寂が生まれた。 「それじゃ、ちゃんと見てなさい……よ!」 静寂を突き破って、打ち切られた球は一直線に陸地に向かって行った。 口は悪いし態度も悪いけれどやっぱりシニア、それもアマチュア目前の上級者ともなるとコブラでも素で決めるんだな、と私は思った。……コブラ? 「ほれ、いまだ!」 クーちゃんの掛け声と同時に、タンプーの大砲が放たれる。 コブラショットの軌道に向けて、霧の中から薄闇のなかでも真白く光る何かが伸びてくる。それが何故か、神秘的で儚げな白さに見えた。そしてその何かに向かって、ひどく無粋で原始的な……猫がネズミを捕まえるのにでも使いそうな……そう言えばこの大砲も……巨大なハンモックのようなワイヤーネットが飛んでいった。 キューイ! というそれらしい悲鳴と、べしりっ! という情緒の無い着弾音が同時に生まれた。そして、白い化け物は谷底に消えていった――。 「……クーちゃん。あいつ、大丈夫なの?」 思惑通りことが進んだことに満足げに頷いていたクーちゃんが、私の問いかけに意外そうな顔をする。 「ん? ああ……あのまま放置したら餓死するんじゃないか? さすがに」 当然のことを当然のように言ってのけるクーちゃん。肝が据わっているというかなんと言うか……。 「案ずるな。ちゃんと策を用意してある。そのためのドルフであり……」 ドルフを見やるクーちゃん。 「こいつである」 巨大な釣竿のようなものを見やるクーちゃん。 「……エ」 安心したのも束の間、ドルフはもともと青い顔をさらに白みがからせることになった。 「ほれ。大丈夫だ。おまえ傘持ってるだろ。母さんみたいに飛ぶんじゃないのか」 「いや、でも……ここ、底が見えないんですよ? 魔法使いの進級試験で底の石を取ってくるなんてのがあるんですよ?」 胴体に荒縄を括り付けられて、あとは放り投げられるだけというところまで準備を整えられてしまったドルフ。 「ケンーッ! ピピンー! 誰かこいつら止めてーッ!!」 ドルフは最後まで、憐れを誘う悲痛な声で私たちに救いを求めて来た。私はそんな彼に背を向けて、耳を塞ぐことしか出来なかった。 座り込んでいるケンは脱力しきった笑みで二度三度頷き、また膝に額をつけて動かなくなった。ピピンに至ってはめんどくさそうにシッシと手首をヒラヒラさせるだけだった。 ドルフが必死の抵抗を続けている。そりゃそうだ。抵抗に失敗したら必ず死ぬ。ロープが伸びきったときの衝撃でも死ねる。バタバタとクーとタンプーに掴まれた腕を振り回している。 「女々しいぞ! ドルフ! ……もしかしたら、単なるイルカに過ぎないお前が本当に飛べるヒントになるかもしれないんだぞ!!」 その言葉に、ドルフがぴたりと動きを止める。 「イ、イルカ……?」 何を言っているのか判らない、という表情で、ドルフがクーちゃんを見つめる。 「そら行って捕まえて来い。途中で落としたりするなよ」 言い終える前にドルフの身体は自由落下を開始していた。流石に今のは酷いと思う。やりすぎだ。 そんな私の視線に気付いたのか、クーちゃんが言う。 「うそは吐いてないはずだ。……要は、イルカが飛べることを証明すればいいんだろ?」 自由落下は果たして飛翔と言えるのだろうか。議論の余地がありそうだ。ドルフの絶叫を聞きながら、私はそんなことを考えていた。 『希少種のイルカ(ペンタシュター族)、マガ谷にて発見される』 既に絶滅状態にあるのではないか、という見解が成されていたペンタシュター族のイルカの一種が、谷底で衰弱していたところを通りかかった魔法学校の職員によって発見された。このニュースに多くの識者は驚きを隠せないでいる。 そもそもこのイルカは、かつてペンタシュター族ではもっともポピュラーな種族であり、純粋な魔法力と非常に多くのアズテックが得られることからマガ谷に多く分布していた。 ところが、「パンヤ」が広く普及するにつれ、人間は魔法力より利便さを求められるようになった。さらに近年、観光や移住を誘致するために海岸部に魅力的なコースが開発されたことにより、WizWizの競技利用者が激減。比例するようにイルカたちも姿を消し、この種の有力なものから派生したと見られるイルカが海に現れるようになった。現代ではこれがもっとも一般的なイルカとして知られる。 ここ数ヶ月、シルビアキャノンのコースが一般向けに公開されWizWizの利用者は過去最低を更新し続けていた。競技者の打球が特定のコースで消失するという苦情がしばしば寄せられたこともその背景にあると思われる。競技者が減ったことで餌に困ったイルカが霧の上部まで上昇し、無理にボールを食べる。そしてそれが更なる餌不足を招くという、なんともやりきれない悪循環だ。 ウィズ魔法学校の関係者は、「マガ谷に馴染み深い私にしても驚き。同じマガ谷に住むものとして、なんとか絶滅の危機から救ってやりたい」と話した。 (関連記事 19面 WizWiz利用者誘致運動) 「はぁ〜……」 パンヤ島新聞をテーブルの上に放り投げ、私はため息を吐いた。この島に新聞があるとは初耳だった。 訳もわからずアリンさんたちの撒き餌会に参加させられてから一週間になる。あれ以降、マガ谷でイルカが発見されたという話は聞かない。 あれから私のパンヤの腕は上達していない。ケンやクーちゃんにもいろいろと教えてもらっているのだが、なかなか。それでも、あきれ顔をしながらも丁寧に教えてくれるケンを見ていると、ピピンの「イルカに餌やり」という冷やかしも、そう悪い響きではない気がしてくる。 ドルフにとっては朗報なのかもしれない。 イルカは昔、空を飛んでいた。どこかに翼を忘れてきてしまっただけなのだ。あのぐりぐりとした純粋な目で探し続ければ、きっとドルフは翼を見つけられるに違いない。そしてそのとき初めて、生き別れたお母さんと並んで空を飛ぶ夢を見られるのだろう。 早くドルフに会って、そのことを話してやりたいと思った。 それにしても、ワイヤーの跡が刻まれたドルフのウェストはいつになったら元の寸胴に戻るんだろか。 |