アクセス解析
カウンター

ある晴れた日のカクテル光線


 売り場はこれでもかと冷房が効かされていて、初めは快適だったんだけど、湿ったシャツが冷やされてきてそろそろ寒かった。
「では、こちらのストライプ柄などいかがでしょう? お客様は細身でいらっしゃいますし、あまり幅広なものよりも、こちらの細目のものの方が映えるかと」
「なんか、色が年寄り臭いな。地味だ。ほかの色は?」
「でしたらこちら、明るいグリーンや水色などご用意しておりますが」
 店員さんに差し出されたのを、ひっくり返したり指で摘んでこすってみたり。
 買い物が、今日に限ってやたらと長い。
「んー……これ、いいな」
 頷きながら、顎に手を当て毎度のように唸って見せて。
「ご試着なさいますか?」
「よし理樹、着てみろ」
「いい加減寒いんだけど」
「つべこべ言うな。あたしだって寒い。というか、むちゃくちゃ寒いぞ」
 試着室に向かいながら、鈴が二の腕を手で大げさにこする。いや、そんな無理してくれなくとも。
 後ろを窺うと店員さんがなんとも言えない苦笑いを浮かべていたので、恐縮して頭を下げた。取り繕おうと言葉を探す間にネクタイを押し付けられて、真っ白いカーテンの向こうに鈴が消えた。
 それにしてもネクタイ一本で試着ってどうなんだろうね?
 ため息をついて、抱えていたワイシャツに袖を通す。
「お優しそうな方ですね。おに……ご主人様ですか?」
「いえ。まだ違います」
「あらっ! それはおめでとうございます。ご予定はいつごろに?」
「ん? ……んー、あー、まー、はるごろ? です」
「そうですね。ジューンブライドとはいいますけれど、あれは外国の文化ですから。日本でしたらやはり温かくなってきて明るい雰囲気のある春ごろがよろしいかと」
「あたしもそう思います」
 もしや出て行きづらい会話なのかと思ったけれど、間違いなく適当に相槌を打っているだけだった。
「こんな感じでどう?」
 カーテンを引きながら尋ねると、鈴は一瞬目を輝かせて、それから首をかしげてまた顎に手を当てようとした。
「僕はこれがいいな」
 慌てて口にする。
「ええ、とてもお似合いですよ。スラッとして」
 いいタイミングで合いの手が入る。鈴は顔を傾けたまましばらく僕の顔を見つめていたけど、やがて首を元に戻してにっこり笑った。
「うん、かっこいいな、そこそこ」
 店員さんがシャツとネクタイを手にレジへ走って、鈴は満足げだった。背中に手を回して胸を張って歩いている。新品のスニーカーが照明が映る白い床と擦れてきゅっきゅと音を立てた。
「上着もみてくか」
 鈴はまた軽い調子で、店の一角を指差す。天井から、青地に白く縁取られた赤で大きく「夏物売り尽くし」と書かれたポップが下げられていた。鈴はこういうのに弱いんだろうか。一年じゅう出てそうなセールののぼりに釣られたくらいだし、弱いのかもしれない。
「さすがに冬服はまだ置いてないんじゃない?」
「ん? そーいうもんなのか?」
「いや、わかんないけどさ」
「礼服ならあるんじゃないか?」
「礼服にも冬用とかあるでしょ。あとお金持ってないし」
「むう、そーか」
 そんなことを話しながら歩いていたら、レジで袋詰めも終えた店員さんが僕らを待っていた。
 店から外に出たときは暖かくて過ごしやすいくらいと思えたんだけど、陽に照りつけられて新しく汗が浮かぶと、やっぱり暑かった。
 ショッピングモールの広い駐車場にはたくさんの車が並んでいて、フロントガラスの光が眩しい。熱した黒いアスファルトからはかげろうが立ち上っている。人通りを見ると、家族連れの人の多くが帽子を被っていた。お父さんが野球帽、お母さんが白やベージュのソフト帽、子供たちは麦わら帽や、幼稚園の制服だろうか。紺のベレー帽をしている子もいた。
 出てくる前に言え、と言われるかもしれないけれど。
「鈴は服とか見なくていいの?」
 尋ねてみても、隣の鈴は歩く早さを変えないで僕を見た。
「お金ないんだろ?」
「さすがにスーツとかは無理だけどさ。見るだけとか」
「あたしのは別に今日じゃなくていい」
「でも、パーティとかって女の子の方が気、遣うんでしょ?」
「理樹のセンスには期待してないからな」
「……あ、そ」
 そういうことなら納得しておこう。
 駐車場を抜けて大通りに出る。僕らと入れ替わりに何台かの車がモールに入っていった。
 ここからアパートまではけっこう距離があるけれど、鈴は足腰の丈夫な子で、乗り物など使おうとしない。僕はといえば、体力のピークはそろそろ過ぎ去ってしまった感があり、鈴のペースに合わせるのが少しだるい。
 僕の思いが伝わったのか、鈴が歩くペースを落としてくれた。
「楽しみだな、結婚式」
 やけに嬉しそうな声。隣に並んだ顔を見る。
 怒られるから言わないけれど、鈴がこういうのに興味を示したのが意外に思えた。
「理樹はどうだ?」
「いや、そこまででもないけれど、僕は」
 嫌な気持ちもしないけどね。
 その答えを鈴はどう受け取ったのか。また、ペースを戻して歩き始めた。小学生の一団が、マウンテンバイクみたいな自転車で僕らの横をすり抜けて行った。少し風が吹いたが、涼しくはならなかった。
 案内状の、新郎の顔を思い出そうとした。でもその前に、『往信用ハガキが付いたままでしたので当局にて切り取らせていただきました』という手書きのメモを思い出して笑ってしまった。『折り返し投函してください』と書かれていたのを見て、鈴は本当に、往復はがきの裏表を折り返して出したらしい。
「なんだ、一人で笑って。きしょいぞ」
「いや、ごめん。思い出し笑い」
 世間知らずさが不安になる反面、そういうところが好きだ。やっぱり。
「どんな子だっけ? 結婚するのって」
「なんだ、覚えてないのか。招待されといて」
 まあ半分引きこもりみたいなもんだったもんな、お前。
 鈴はそう呟いて一人で納得していた。かなり酷い言われような気がするけれど、ともかく鈴の答えを待った。
「まーあれだ。地味な奴だった記憶がある。地味だったかもしれない。そんな感じ」
「鈴も覚えてないの?」
「いーや、あたしはぼんやり思い出せる。なんというか、地味だった」
 不毛な言い合いだった。
 なんでこんな二人を、人生の門出に招待してくれたのか。二人で考えてみてもわからなかった。当日、それとなく聞いてみることにしようと、二人で話した。

 家まであと四分の一くらいのところまで来て、鈴がお昼にしようと言った。これだけ歩けばおなかも空く。鈴にリクエストを取っても「なんでもいい」というので、目についたラーメン屋に入った。『冷やし中華始めました 六百円』。
 お昼時ということで、カウンターには薄水色の作業着の背中が並んでいた。テーブルにはおじいさんたちが座って、タバコを吸ったり漫画雑誌を読んでいたりした。壁掛け型の扇風機がぬるい風を吹きつけてきて、ラーメン屋さんの匂いがした。テレビではNHKのニュースが流れていた。厨房にはせわしなく湯気が立って、鍋を振る音がした。
 入れないかな、と店を出ようとしたら、レジ台の奥のドアが開いて、愛想のよさそうな割烹着のおばさんが出てきた。
「お二人ですか。座敷でよければ開いてますが」
 促されるまま僕らは畳の部屋に通される。たぶんいつもは家族連れが入るんだろう。それか仕事帰りの人たちがお酒を飲んでいくか。二人で使うには広い部屋だった。薄暗く思えたけれど、電気がつけられるとすぐ解消された。
「ご注文お決まりですか?」
 僕らが座布団に腰掛けたころ、鉛筆を手にしておばさんが尋ねてくる。まだメニューも見ていなかった。慌ててあたりを探すと、カベの一角、短冊に手書きのメニューが並んでいた。
「あたしチャーシューメン」
「張り切るね。……じゃ、冷やし中華」
「チャーシューメンと冷やし中華ね。ちょっとお待ちください」
 おばさんが立ち上がり、戸が閉められた。「チャーシュー一丁、中華一丁!」という元気な声が聞こえた。
 網戸の窓から風が抜けて、風鈴が微かに音を立てた。あぐらをかいて、後ろに手を付きながら背筋を伸ばすと、天井の木目が見えた。節穴の部分がぽっかり穴になっていて、その奥は真っ暗だった。
 引き戸を少し開けて、厨房の方を見る。やはり忙しいのか、おばさんがせわしなく動き回っていた。でもまあ、このくらいの方がゆっくりできていいかもしれない。
「少し待とうか」
「うん。漫画読む?」
「僕はいいや。鈴は?」
「あたしもいい」
 鈴は女の子座りして、ぺたりとテーブルに頬を乗せた。
「行儀悪いよ?」
「んー、冷たくて気持ちいいぞ? 理樹もどうだ?」
 ちょっとだけ、誘惑に負けそうになった。
 童心に帰りたいのをぐっと堪えて、背筋を伸ばす。さすがにそりゃできない。
「猫、触りたかったなー」
 独り言みたいに鈴が言った。
「また今度行こうよ」
 いつになるかはわからないけど。
 鈴はテーブルに突っ伏したままで、頭を動かした。きゅいい、と音がする。頷いたのか、寝返りを打ったのか、わからなかった。
「テレビでも観るか」
 身体を起こして、物怖じせずリモコンに手を伸ばす。なんだかふてぶてしい。死角になってるからだろうか。
 ピシン、という独特の音がして、テレビに電源が入った。こう言っては失礼だけれど、店構えに比べてだいぶ立派なテレビだった。
『三遊間!』
 映像が浮かぶ前。鋭い男の声がした。人のざわめきが聞こえた。
 ランナーのヘルメットが、黒く日差しを反射して光っていた。
「はい、チャーシューメンひとつ、冷やし中華ひとつですね」
 おばさんが入ってきて、テーブルに料理が並べられた。チャーシューメンが僕の前に置かれた。それがまたいい匂いをさせていて、僕もラーメンにすればよかったなと思った。
「理樹、それこっちだ」
 おばさんが出て行くなり、鈴が冷やし中華を僕のほうに押し付けてくる。取り替えてくれやしないかとちょっとだけ期待したけど、だめだった。
 僕のほうは僕のほうで、おいしそうだとは思うんだけど。箸を割って、麺を啜る。ほのかにゴマの風味がして、まあ、冷やし中華だった。
 キィン! という、金属音がした。
 テレビを見る。紺の帽子の外野手が背走する、その向こうにボールが落ちた。三塁ベースを回るランナーの背中が映され、それから画面の下に得点が点滅した。5対0だった。
「なんか懐かしいね、野球」
「ん?」
 鈴はメンマを口からぶら下げて、目だけで僕のことを見た。
「いや、だから懐かしいねって、野球」
 あー、と言ったのだろう。でもメンマをかじったままだったので、「んうー」としか聞こえなかった。もぐもぐ、ごくん。
「あたしはそんなでもないな」
「そう? 懐かしくない?」
「なんかな、あたしらのと甲子園は違うと思う。上手さとかじゃなくて」
 そんなふうに言うから、てっきり続くものと思ったけれど、鈴はチャーシューを挟んで口に運んだ。結構大きかったのに、二つ折りにして丸々食べてしまう。それを見て、僕も冷やし中華に箸を伸ばした。
 白地に紺の刺繍が入ったチームの選手が、マウンドに集まっていた。
「負けた人らはこれ見てるのか?」
 なんの気なさそうに鈴が言った。口に食べ物が入ったままだったようで、その声はくぐもっていた。
 僕はキュウリと金糸玉子を噛みながら、どう答えようか考えた。
 多分、見ていない、という気がする。
 なんでそんな気がしたんだろう。また次を目指して練習をしているはずだから……ということではない。
 それで思い至ったのが、今野球をしてる彼らは、自分が家のテレビで甲子園を観戦するってことを、想定していないんじゃないか、ということだった。負けたあと甲子園を見ないこととは繋がらないけれど。
「見てないんじゃないかな」
 簡潔に、それだけ言った。
「そうか? ……そーか」
 鈴はまたチャーシューを食べて、僕は麺がくどくなってきたので紅しょうがをつまんだ。
 また、金属バット独特の鋭い音がした。
 打球が外野の芝を鋭く転がる。ランナーが連なって、ガッツポーズしながらホームに帰ってくる。ピッチャーがマウンドの横に膝を突く。
 8回、点差が7になっていた。
「先のこととか、考えないのか?」
 甲子園のことなのか、僕に言っているのか。判断がつかなかった。
 次の甲子園のことなんて、きっと彼らは考えてないだろう。みんな今に賭けてると思う。なにが起こるかわからないのだから。次なんてあてにはならない。
 じゃあ僕はどうなのか。
 どんぶりを手で持って、スープを飲み干そうとする鈴を見ながら、僕と鈴のことを考えてみた。
 甲子園が終わって、同級生の結婚式に出て、春になったら。
「僕ってそんなにセンスない?」
「なんだ、無視する気か」
「いやまあ、ともかく。センスないかな?」
「服のセンスに限っては、……中くらい。下の」
 下の中ときた。
 そっかー、なんて言いながら、頭を掻く。
 鈴のドレス、一緒に選びたかったんだけど。

戻る