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リトルバスターズ! レビュー

・なにやら賢しらぶったことを書きます。
・でも主観です。
・個別ルートのレビューについては個人的な嗜好で偏ってます。

 賢ぶっていろいろ並べ立てていますが、まずプレイして感じたことがあり、「こう感じた!」とだけ言っても説得力が無さそうなので後付けでそれらしい理由を書いたに過ぎません。そこのところよろしく。
 あと、世界の仕組みとかに興味持てない、というか自分じゃ分からんだろうから興味ねーよふん、と尻をまくっているため、そういうことは書かれてません。そんなもん分からなくてもリトバスは面白いですし、そんなとこにリトバスの面白さはないんじゃないかとも思ってます。いや、自分がそこで楽しめないだけなんですけど。



リトルバスターズ! について


 リトバス本編ではたびたび理樹と鈴を指して「弱い」といいます。理樹と鈴はゲーム中幾多の困難を乗り越えて「強く生きる」と誓い、大団円を迎えるわけです。リトバスというゲームが言おうとしていることは、この強さ/弱さの問題に集約されていると受け取って構わないでしょう。
 じゃあ、その強さってなんでしょうか。
 リトルバスターズの面々は理樹と鈴を鍛え上げるために世界を構築しました。理樹は計略どおり各ヒロインとエンディングを迎え、そのたびに強さを得ていきます。それぞれのシナリオを通してみれば、人がいかに弱さと向き合うか、どうすれば強く生きられるかについて考えられていると思っていいはずです。
 クドは自分の存在価値を見出だすことができず、生贄として自身を鎖に縛ることで自分に価値を与えようとします。それを、距離を飛び越えて理樹と心を通わせることで自らを縛る鎖を断ち切りました。その鎖とは自分の存在価値の証明であり、歯車とならねばならないという強迫観念だったのだと思います。
 ここで求められる強さとは、人種や血縁、国家国籍を超えて、空間さえ越えて人の心が通じるということを信じる強さだと思います。
 美魚は他人と理解しあうということを信じることが出来ず、いつも孤独でいました。言葉一つで容易に反転してしまう現実と、その現実に自分が侵食されてしまうことを恐れています。その侵食から身を守るため、自分以外に人間が存在しない世界を求めます。それを理樹と心を通わせることで、自分とは外界との相対関係の中にしかなく、また、現実とは自分が信じる光景のことだと悟ります。
 ここで求められる強さは、他人になにを言われようと自分の信じる世界を信じ通し、意志を貫く強さだと思います。他人の善意を信じ抜く強さです。
 葉留佳シナリオは出生というどうにもならない問題を乗り越えて、仇敵すら許す強さでありましょうし、どこにも憎むべき敵が見当たらないという不条理を受け入れる強さです。理樹が断罪! 断罪! と喚いて討ち入りに行くようではだめなんですね。小毬シナリオは近親者の死や、身近に迫る喪失という受け入れがたい現実を受け入れ、その上で生きていくシナリオでしょう。姉御は終わり行く世界を受け入れるという決断を下しています。

 以上の部分に共通して見えてくる強さとは、現実を直視し受け入れて、それに寛容であることだと思います。弱さとは、現実から逃避してそれを拒絶することでしょう。
 これを正しいとするならば、リトバスには一つ疑問が生まれます。何を隠そうバス事故救出エンドのことです。
 理樹と鈴は現実を拒み、別の世界を切り開くことを決断します。これはリトルバスターズの皆の与えてくれた強さを全て否定してしまう行為なのではないでしょうか。

 自分の考えを言いますと、それは全然違います。
 現実を受け入れる強さとは、自分の思い通りにならないこともそれとして受け入れ、その通りに自分をコントロールする能力です。現実にあわせて自分を変化させる器用さです。これは社会に出て生きていく上では必要不可欠なスキルで、できない人間は淘汰されて消えていきます。
 恭介はそのことを重々承知していて、また自分たちの死を受け入れて欲しいと考え二人を鍛えていきました。そして二人は恭介の意思に沿って、恭介の思惑のまま成長し、ついに現実を受け入れる力を得たのです。仲間がみな死んでしまい、楽しかった時間も拠り所も全てが消えてなくなってしまった現実の中を生きていくための強さです。
 ですが、それは本当の強さなのでしょうか? と。
 恭介やみんなが一から十までお膳立てして、現実ってのはこんなものなんですよ、と教え込まれて、はいそうですか、と理解してみせることには、多分二人の意思なんてありません。恭介が野球をする口実で言ったように、そこには自分というものがなく、ただなんとなく流されるままの二人の姿があります。クドを日本に引き止める決断を下した理樹はループの中に消えていきましたし、小毬に生涯添い遂げようと決意をした理樹もまた、バッドエンドとして消されていきました。それらの決断にも絶対になにかしらの強さを必要とするはずなのに、その道を選んだ理樹の強さ(というか人格というか)は否定されます。それは恭介が望まなかったからです。
 言ってしまえば理樹と鈴が『恭介が望んだ方向に』強くなるのは当たり前で、虚構世界にいる理樹と鈴はセーブ&ロードを繰り返されるRPGのキャラクターみたいなもんです。ただ恭介が根気強くはぐれメタルを追い掛け回し、ようやっと二人が倒した。それだけのことです。強制されて仕方なく、そういうものだと納得することを覚えてみかけ上の大人になったに過ぎません。そんなもん成長と呼ぶのもおこがましい。その実、強い人間に敷いてもらったレールに乗っかって背中を押して貰い、強い人間に都合がいいように仕立て上げられたに過ぎません。リフレインに至っては模倣ですしね。もちろん学ぶというのは真似ぶってことですからおかしなわけじゃありませんけど。
 二人はあの決断のときに初めて、自らの意思で自らの取るべき道を選択したのです。
 目の前の現実に抵抗し、出せる力を全てを出し切り、強い人間であるところの恭介の意図さえ振り切って世界を自分の望むように作り変えてみせる。この考えは時に反社会性となって現れもしますし、他人に甚大な被害を与えることだってあります。このときも全員の決死の想いを全て無にする可能性だってあった。

 しかしそれでもなお、この意思を持ち実行することが本当の強さなのだ。

 リトルバスターズ! とはそんな作品だったのだと思います。



個別シナリオ


 個別シナリオは各キャラにスポットを当てますと、それぞれがそれぞれ、単なる「仲間」では解決できない悩みを抱えているということが分かります。自分だけ辛いんじゃねーんだよバーカ、とでも言いたげな感じですね。



能美クドリャフカ

 アイデンティティクライシス

 第一印象
 各所でボロクソに言われちゃいますが、単純な自分は「ああ、あの鎖はクドを縛るなんとかで、理樹と繋がることでその呪縛から開放されたんだなぁ、人間っていいなぁ、人間は歯車扱いされるべきじゃねえよなぁ」ということを考えたためいろいろと気にしませんでした。そんなんでよくレビューなんか書くわ。


 クドシナリオで最も強調されていたことの一つに、クドがいかに孤独であるか、という主張があります。
 孤独というのはなにも一人ぼっちでいるというだけでなく、過去現在の区別なく他の誰とも繋がりが持てない状態を指す言葉です。
 クドは「クドリャフカ」という、ソ連史に残る、その栄華の象徴的な名前を与えられていますが、そのソ連という国はクドが生まれた直後か直前に崩壊しています。また、祖父のソ連への嫌悪感から、その文化や歴史などについては殆ど知らされずに生きてきましたということは容易に想像できます。クドにとってソ連・ロシアを祖国と呼ぶことは難しいのではないでしょうか。
 また日本では「外人」という扱いを受けており、「外人の癖に英語が話せない」と笑われます。日本という土壌で、クドはあくまでも「外人」であり、どんなに日本語や日本の文化に通じていようと「日本人」ではありません。現代日本社会にも、クドは居場所を見出せません。たとえ多国籍国家にあったとしても、英語が話せないクドはそこに所属することができません。
 では「故国」と呼んだテヴア共和国ではどうでしょう。
 テヴアについてのキーワードに「積荷信仰」というものがありました。
 この積荷信仰とは、白人が自分たち土着民よりも優れているのは、能力が優れているのではなく、神が自分たちに賜れた贈り物(文明)を不当に横取りしているからだ。白人は神の贈り物を分捕る敵である。といった信仰です。
 シナリオを見てわかる通り、クドは積荷信仰の前で「外敵」であったわけです。故国テヴアにあってさえクドは敵とみなされた。ここにも、クドの居場所は存在しません。
 それじゃあ範囲を狭めて、家族という居場所はどうでしょう。
 これは僕の想像なのですが、お母さんがクドを身篭ったそのとき、少なくともベルリンの壁は崩壊していましたし、ソ連という国は終焉を迎えようとしていたはずです。
 にも拘らず、お母さんは「クドリャフカ」という、ソ連宇宙開拓史に輝く栄光の名前を娘に与えないではいられなかった。お母さんが宇宙開発に失敗したのも、素材の耐熱性が不十分だったということから鑑みて、功名心に急いたからとはいかないまでも、なにかしらの焦りがあったのだと思います。
 つまり、お母さんにとっての最大の関心は宇宙にあったんじゃないでしょうか。宇宙飛行士なんてやるくらいなんだから、ソ連でも多分立派な地位にいたのでしょう。ソ連の栄光の時代が忘れられなかったんじゃないの、と。そしてクドに、自分の遺志を継ぐ保険をかけたのではないか。そう思えてしまいます。お母さんの「立派な歯車になれ」という言葉は、共産主義の国の人だったこともあり、重い意味が感じられます。
 クドは家族とも繋がりを実感できていなかった。少なくとも、ただ自分を笑わないで受け入れてくれる他人の集まりの方に重きを置いた。だから現実ではお母さんの誘いを断ったのでしょう。

 さて、孤独なクドはさんざ笑われます。昆布食ってるだけで笑われるし、英語の時間にも笑われます。まるで要らない子ですよね。宇宙飛行士には制限に引っかかってなれないわけですが、それどころか母親に言われたような歯車にさえなれそうにない。
 そこでクドは考えたのではないでしょうか。自分の名前の由来となったライカ犬クドリャフカは、その身を犠牲にすることで、多くの人々に希望を与えた。自分も命を捧げれば、コウモリとカモノハシの話のように、誰かの役に立てるのではないか?
 クドは母親への贖罪の意味を込め、命を捧げて歯車になる道を選びます。生贄の役をまっとうできれば、自分に最低限の価値を見出だすことができる。その想いこそが、理樹の下に帰ることを阻み、宇宙に縛り付ける鎖だったのではないでしょうか。

 まぁ、クドは理樹にも母親にも必要とされていないと思い込んでたんじゃないっすかね。だから世界を救うなんていう漠然とした目的に命を捧げようと考えた。コウモリみたいに人の役に立つことじゃないんですよね、あれ。具体的になにかのために、という意思があったならば、あんな道は選ばないでしょう。多分。
 リトルバスターズも肉親も理樹も信用できなくて、そういう繋がりとか意識しないでいられる国も社会も文化も歴史もない宇宙に憧れた。そう言う意味で社会体制が崩壊していたテヴアの牢獄ってのは宇宙みたいなもので、誰とも繋がることが出来ない場所です。
 そんなクドを救ったのは、クドを想う理樹の気持ちと、母親の遺品でした。クドは最後の最後で、他人との繋がりを求めたのだと思います。というか、他人との繋がりを信じた。理樹が自分の死を望んでいない、自分を必要だと思ってくれていると信じられたからこそ、あの呪縛から解き放たれた。そして理樹がクドに想いが届くと信じたからこその結末でした。

 特徴的だったのが、えきぞちっく(自称)なマスコット、身長の設定、英語が苦手な設定、日本大好き設定と、発売前から公開されていたギャルゲーのキャラ然とした設定がすべてクドを苦しめ、シナリオの根幹に位置しているという点でしょう。あれは上手い。
 事前情報が伏線といえば、美魚の眼鏡も意図的なら上手い。再利用にしても、それはそれで上手い。



西園 美魚

 解離性障害

 第一印象
 料理ができて面白くて明るくて人気者で積極的で、美鳥の方がいいんじゃね? と考えた自分は永久にループしてりゃいいと思います。
 美鳥は美魚ちんの理想の人格で、現実の自分とのギャップに耐えかねければ母呼びにけり、でなくて、鈴よりペチャパイな自分に絶望して現実なんてしらねーよフンッ! って感じなんだと思いました。


 クドシナリオで、孤独とは誰とも繋がることのできない状態にある、と言いましたが、じゃあ誰かと繋がるってどういうことよ? という問いに答えようというシナリオだったように思います。
 繋がるというのは互いに理解しあうということであり、人間は理解しあうことなど不可能だから、つまり人間は常に孤独である。美魚はこう考えたわけです。

 美魚はまず、

・現実とは記憶である。
・認識するとは記憶するということである。
・記憶は容易に変質しうる。

 ということを述べます。つまり、現実や認識なんてものはほんのちょっとしたきっかけで変化してしまう。それなのに、互いに同じ認識を共有するなんてありえない、と。
 美魚はかつて美鳥という妹がいる現実を認識していました。しかし周囲の大人たちの認識する現実では、美魚は美鳥という妹を持ってはいなかった。それだけのことのはずなのに、大人たちは自分の認識を疑おうともせず、美魚の認識を誤りであると断じます。
 そして美魚も、他人によって美鳥を忘れてしまう。つまり、自分にとっての現実は他人に干渉されることで簡単に変わってしまう。この世界が本当に不安定に作られているということに気づくのです。
 この世界に生きている限り、常に誰かに干渉される危険がある。自分が自分であるという認識さえ危うい。他人はなにを考えているのかさっぱり分からず、隙あらば人を傷つけようとするし、自分の認識さえも歪めてしまう。そして美魚自身も、雲の形が分からない美鳥に、自分の捉え方を押し付けてしまった。やはりこの世界では、誰かに干渉されて干渉して生きるしかない。
 だったら、自分しかいない世界に行けば、自分は何からも干渉されない絶対座標の存在でいられるんじゃないか?
 しかし、雲と空の例えのように、絶対座標なんてありえないんですね。白い雲があるから、空は青いと認識できる。他人が自分のそばにいるからこそ、自分は自分を自分として認識できる。
 一つの俳句をとっても、人によって受け取り方が変化する。ある人にとってはくだらないなんでもない句でも、ある人には何にも代えがたい力を与えることがある。そんなふうに、多種多様な認識に溢れているからこそ個人が光るのですし、他人と付き合うことが楽しいと感じられるわけです。
 小説を読んで感動したり考えさせられたりするのも、他人の内界や外界に対する認識と自分の認識が異なるということに気づかされるからで、もし他人が常に自分と全く同じ認識の上に立っているなら、創作物に触れて感動するなんていうことは起きないでしょう。



三枝 葉留佳

 料理一つまともに出来ないロクデナシのごく潰し。ダメな子ほど可愛いにも当てはまれない究極のダメ。

 第一印象
 やっぱり修羅場は面白い。
 はるちんが右手ではさみ持ってたり、ミントの香りだったり、ケーキ上手く焼けてたりしたのを見て「わー、設定揺れまくってんじゃん、大丈夫かよ」と無用な心配をしていたあたりから自分の注意力不足が伺えますね。それかよっぽど興味なかったか。


 三枝晶さんについてなんですけど、最初てっきり引ったくり未遂野郎で、「これのどこら辺が悪人じゃないんだろう」と憤ったものですが、読み返してみるとあれお婆さんの鞄を持ってあげてただけなんですね。ブログにすっごい恥ずかしいこと書きました。
 印象によって見え方が変わるテキストってすごい! ということで。

 このシナリオは、はるちんがすごく不憫な境遇に置かれているんだ、ということからスタートします。
 はるちんが苛められるのも、はるちんがKYなのも、はるちんがウザキャラなのも、はるちんが佳奈多より可愛くないのも、はるちんが佳奈多の完全下位互換のロクデナシのごく潰しなのも、全部仕方がないと片付けるしかないことなんですね。責めるべき相手がいないのです。はるちんは佳奈多を目の敵にしますが、それはもちろん無意味です。晶さんだっていい人です。両親だってはるちんが心を開いてくれないものだから、当たり障りのない言葉しかかけてやれないだけです。どんなことを話して欲しいのか言わないんですから当たり前っちゃ当たり前。お山の人々だって頭悪いカルトチックな旧習にスリコミ的に無自覚かつ無意味に従っているだけで別に悪いわけじゃないんです。悪いのは頭だけです。まぁバカは度を越すと罪ですけど。
 で、自分はこんなに辛い目に遭ってるのに敵がいない。悲劇のヒロインのはずなのに、その不幸がどうにもならない。ただ我慢して受け入れるしかないけど、そんなん嫌だ、と。
 佳奈多が敵になってみせるのは、そんな状態からはるちんを開放してあげるためなんじゃないでしょうか。自分が分かりやすい敵になってあげることで、はるちんは自分の境遇を悲劇と思える。自分を不幸なお姫様だと思っていられる。

 そんなロクデナシを受け入れてくれる人が現われたとき、状況が変わります。ロクデナシのごく潰しな自分を認めてくれる人に出会うことではるちんは現実も捨てたもんじゃねえな、と思うことができ、他人を許すことを知ったのです。
 他人を許す強さを手に入れたはるちんの前に敵はない。お山の人々だって胸を張って許して見せることでしょう。そんなシナリオ。

 というか、ギャルゲーのヒロインが「別に主人公じゃなくてよかった」なんて言うもんじゃないっすよ。そして最後まで理樹である必要性ってのが出てこなかった。現実の人間関係なんてのも、もしかしたらこんなんなのかもしれません。
 自分より全てにおいて優れた人間がいたら、自分は必要がないのだろうか。いやそうじゃない。唯一の自分を必要にしてくれる人も居るはずだ、と。
 逆に言えば、誰でもよかったはずなのに気が付けばその人でなければならなくなっていた、ということこそが人と人が親密になるということなのではないでしょうか。

 こんな風に罵るのは愛です。自分はとても好きです。



来ヶ谷 唯湖

 リトルバスターズ・エクスタシー不動の一番バッター

 第一印象
 うわこれ都乃河さんかよ。
 レビューに困ります。
 とりあえず世界の秘密についての考察は、いまさら自分がやっても仕方がないんじゃないかというくらいたくさんあります。そして姉御のシナリオは世界の秘密がほとんどすべてです。てなわけでシナリオから外れた部分を。


 姉御にとって、6月に雪が降ることを誰もおかしいと指摘しない世界ってのは現実そのものなのかもしれません。姉御だけ住んでいる世界が違う。姉御の見ている世界では6月に雪なんて降らないのに、他人にとってはそれが常識である。この乖離がシナリオの根底にある気がします。子供のように笑えなかった、というのはここに根ざしているのではないでしょうか。リトルバスターズと出会ってやっと人間になれた気がした、と姉御は語りました。つまり、この世界では他人と違う人間は人間じゃないんでしょうね。
 当然のように世界の理を語ってみせる数学を姉御が許せないのは(あるいは許せなくなったのは)、その当然が姉御にとっては真実ではないからなのかもしれません。つまり、姉御が見ている世界とは言葉の一つで容易に変わり、常に変動し続ける世界です。それと数学の普遍性が似つかなかった。
 理樹がシナリオの最終盤に感じた、世界の不完全さ、というか、まるで人形劇を見ているようだという違和感は、たぶんそのまま姉御の見ていた世界なのでしょう。だからこそ理樹はトゥルーエンドでも姉御と心を触れ合わすことが出来た。他人の気持ちを理解できない人間の気持ちを理解することができたんですね。
 数学が嫌いなことと、バスターズが好きなことはもしかしたら密接な関係があるんじゃないかと思うのですが。
 計算によってすべてが理解可能な世界というのは、つまり姉御にとってはもはや既知の世界ってことで、そこにはなんの感動もない。だからこそ、なにをしでかすか分からないリトルバスターズの面々に惹かれたのではないかなと。

 まぁしかし気になるところも多いシナリオでして。
 あからさまな悪者ってのは見せられても胸糞悪いだけだからなんとかしてください。同じ下衆でもサッカー部は理由があったじゃん、同情は出来ないけど情状酌量はしてもいい。でもなに? あの人たちは。そりゃ悪意も選びたくなるわ。
 シナリオ終盤には全くこれっぽっちも関わってこなかった勝沢さんと数学教師のことですね。他人の気持ちが分からないからああいう嫌がらせをするのではありません。そもそも相手が傷つくと思わなかったら嫌がらせなんてしないわけです。相手が嫌がらせを受けて傷つくのを知っているからこそ嫌がらせをするのです。言われるがままに嫌がらせをしたってのは関係なくて、ようはどうすれば効率よく対象を参らせることが出来るか、と考えた末の行動なわけです。
 葉留佳シナリオに出てきた馬鹿と決定的に違うのは、自分が悪意を持って他人を傷つけていることを自覚しているかどうかです。葉留佳シナリオのお山の人々はある意味自己防衛のために他人を傷つけていますが、こいつらはどうにかして泣かしてやろうと相手を傷つけたい一心で行為に及んでいます。
 問題なのは、あの世界の事象は全部仕組まれたものだとして、この悪意も全て仕向けられた出来レースだったのかもしれないということでしょう。ただの都合で人為的に悪意が発生するってどうよ。
 姉御が数学教師を痛めつける道を通るとあの悪意は必ず発生します。そこには姉御が見ていた変化なんてありません。もし現実の世界が変化に溢れるものだとしたら、この悪意は意図して誰かに仕向けられた悪意だと思っていいのではないでしょうか。
 この悪意がそういうものだったのなら、あの世界にある善意とやらも全部偽物でしょうよ。そんな世界で『善意を信じる』なんて抜かしてもお寒いだけじゃね? いろんな思考回路を持った人間がいて、いい人間もいれば底意地が悪いのもいる。むしろ底意地が悪い奴らばっかりの世界で、それでもなお善意を信じてみせる。それが言いたかった強さじゃないの? この悪意は恭介その他が無理無理引き出したものなら善意がそうじゃないとは言えないわけで。出来合いの善意に触れてやっぱ人間みないい人だーってか。勝沢さんらは善意なんて一片も信じてもらえてなかったあたりにきな臭さを感じます。

 姉御はなぜ夏服だったのか? 一体何者なのか? どこまで世界を動かせるのか?
 自分には手に余るので考えないことにします。考えても自分には分かりそうにないので。
 ミステリーみたいな楽しみ方なんて求めてません。鍵ゲーにも、いらないと思う。個人的な好みです。

 姉御は好きなんです。乙女チックなのがいいと思います。楽しい人だと思います。すごく優しい、傷つきやすくて純粋で、でも強い人。



神北 小毬

 ほんわりきゅーとなメンヘル少女

 キュート cute 形
 若い女性の、活発でかわいらしいさま。

 かわいらしいとは、決して顔が可愛いと言っているわけではない。

 第一印象
 こ、こいつ自分が可愛いと思ってる。そうでなきゃこんな服飾は選べない。しかし作中では「優しい優しい」と言われども一言も「可愛い」だなんて言われない恐ろしさ。
 まぁ、可愛いですけどね。横向かなきゃ。むしろ正面見て目を閉じてりゃ。目を開けるとケバいのは狙ってやってるんでしょうか。
 すごく鍵っぽいシナリオだなぁと思った。老人ホームをボランティアで訪問し、歌まで歌ってしまう小毬は優しい上に強い子だなあ、なんて思ってたら、生き物の死を認識できないときた。そんな状態で老人ホームってのが恐ろしすぎる。いや、小毬の発病が恐ろしいんじゃなくて、老人ホームで振りまく笑顔がなんか空恐ろしい。服のセンスはもしかして病的ななにか?


 死別は避け得ないというそのメッセージがリトバス全体へ強い力を与えています。
 他のメンバーはあらかた現世への未練があるからこそ世界の構築を手伝っているとも取れますが、この人だけはその理由がない。だって自分じゃ知らないんですから。ほんとのほんとに鈴が好きで理樹が好きで、最後まで心配でたまらず、ずっと一緒に居たくて居たくて、それでも最後は笑ってお別れをする。すげえ。神々しい。
 このシナリオが言いたいことを自分が曲解しながら要約しますと、人間死んだら生き返らないんだから、死んだ人間についてウジウジ考えててもなんにもならない。だからさっさと忘れて次のこと頑張ろうぜベイビー、みたいな。
 すごく正しい姿勢だと思います。死んだ○○はそんなこと願ってないよ、という言葉は嘘臭いものですけど、でも生きてる人間に力を与えられる。そして生きてる人間は、言葉は悪いけれどそんな風に死んだ人間を踏み台にしてでも前に進まなければいけない。
 大変実践的な考えだと思います。
 そして、自分の思ったとおりに物語を作り変えるっていうのが、最後に理樹と鈴に作用したんじゃないでしょうか。そうなってくるとこの部分はすごく大切。



棗 鈴

 俺ならいっぺん殴る

 第一印象
 登場時、ほんとに初期の印象。
 こんなムカつくガキは見たことがない。「しね、ばーか」。ああん? 言うに事欠いてそれか低能児め。死ねって書かなきゃOKだなんてのはゆとりの考えることだぜ? 鍵は痛い子ばかりだけれどみんな心根は真っ直ぐだった。こいつは一見まともな腐れ野郎じゃねえか、と。毎朝一番に来て誰も見てないのに黒板を綺麗にしてくれる人だって居る(たまたま見たのです)のに、その人が評価されないでこいつが男に人気あるってのが分からない。世の中とはかくも過酷なのだな。
 そんな彼女も今では大好きになりました。でも特殊学級は露骨過ぎると思うんだ、僕。
 Hanabiですねえ。当初は鈴がお姉さんキャラだったということで、Hanabiやりたかったんだろうなぁ。


 麻枝さんの書くシナリオによく見られる特徴として、純真無垢で世間知らずな女の子が荒波に揉まれて酷い目に遭うという点が挙げられると思います。鈴シナリオもご多分に漏れずその形に当てはめられるわけです。
 鈴シナリオはロマンチックな他のシナリオと比べ、おおよそロマンのない、お金という即物的な壁にぶつかります。これは庇護から外れた少年たちにのしかかる過酷そのものです。本当の意味で、二人が現実を生きるために必要な強さを持たないことを見せ付けられます。
 麻枝さんの書くロリっ娘は適者生存の法則に適ってってないように見えます。
 たぶん、それこそが意図なのではないでしょうか。
 罪の無い彼女らが苦しみもがく姿こそが、世の中がいかに理不尽で不条理で、そして過酷なものかを映し出す。そんなふうに考えているのかもしれません。
 そしてもう一つよくよく主題に挙げられるのが記憶です。
 ですが、鈴シナリオに限ればこの主題が全く関わってきません。
 これがどういうことかと考えますと、麻枝さんは記憶とはその人となにかを繋ぐ命綱みたいなものだと考えている節がある気がします。
 その人は本当に存在していたのか。記憶を失っても続く愛はあるか。
 それが鈴シナリオには陰も形も出てこない。
 思いますに、それは鈴は猫だからです。猫は自分が見ているものを現実だと捉えます。自分の手を引いて歩いてくれる理樹君がいれば、それが鈴の現実なんです。鈴にとっての現実とは手で触り目で見えるそれだけだから、そういった迷いを生まなかった。世界を作り変えることが出来ると鈴が心から信じれば、それが鈴にとっての真実なのです。
 そういう意味で、鈴は強い子でした。鈍いともいいます。

 鈴は徐々にコントロールがよくなっていくわけですけれど、これはコミュニケーション能力の向上と比例しますよね。
 鈴は150キロの真っ直ぐや、ニャックルやニャーブといった変化球を投げるわけですけど、これはもしかしたら鈴の性質、意地っ張りで素直になれない性格のことなのかもしれません。鈴の隣にいられるのは、それを全部受け止められる人間、つまりはキャッチャーだと。


 男連中については書かなくていい気がしてます。黙して語らず。ただ理樹と恭介は相思相愛だな。
 なぜ理樹がこれほど愛されているのか? という疑問には最後まで答えてもらえなかったわけですが、今にして思うと、そこに答えがないということこそが答えなのでしょうな。なんで俺こいつと付き合ってんだろ? と友人について考えても満足に説明できないのと一緒で。



全体的な感想


 野球面白い。試合以外は。いや、試合は手に汗握りますけど。
 でも試合が操作できないってのは片手落ちなんじゃないっすか? せめてヒーローインタビューとか、イベントCGとか欲しかった。野球が面倒だからとスキップされるような仕様にすべきじゃなかったかも。鈴のフラグは試合に勝たないと立たないとかさ。仲間との絆の結晶みたいなイベントなんだからさ。あと佐々美様が影薄いよ。
 ほんとにリフレインが全てなゲームですね。個別ヒロインはリフレインの伏線! そりゃ上手く出来てましたとも。二周目以降、「ループを知っていたんだからこう思ってたんだろうな」と想像を巡らせることが楽しくてなりません。
 ですけど、そういう楽しさってのはシナリオ単体でも出せるもののはずで(今までやってきたんだから)、個別にある楽しさは全体の構造に寄りかかりすぎてる印象があります。いろいろ鑑みても。
 そう言う意味で、単体でも楽しめたシナリオというと美魚とクドだったんじゃないかなと。自分がアイデンティティとか小説とか東西冷戦の話が好きなものだから単体でシナリオについて考えられるという点で。
 都乃河さんのシナリオは送りバント的な渋さは光れど、地味な気が。どっちも尻すぼみだった。4番打者としてやっていけるかどうかは判断しづらく、リフレインなんて俺が食ってやるぜくらいのパワーを見せて欲しかった。

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