里の風    小柏氏
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   鎌倉時代から戦国時代を生き抜き、江戸時代までを駆け抜けた西上州の武装勢力 小柏氏。鎌倉時代には京都勤番、戦国時代には北条に仕え小田原籠城、江戸時代に は御荷鉾山一帯の支配者になる。
  その800年の軌跡を追う。

小柏氏800年の軌跡

 

里の風     里に風が吹いている

 住む人は変わっても

 里はずっと変わらない

 風もずっと変わらない

 風は里の歴史を見つめてる

 風は過ぎたあの日を知っている

 

人は誰も風を見ない

 風は皆を見ている

 風は花を見ている

 風は川を見ている

 風は山をみている

 

 風の流れが見えるとき

 風で青葉のさざなみができる 

 風は雨の中を渡って行く

 風は雨の飛沫を連れて行く 

 風は空を渡って行く

 風は川を渡って行く

 風は田畑を渡って行く

 

 人は風の力を忘れてる

 風は雲を運ぶ

 風は木の葉を運ぶ

 風は種を運ぶ

 風は波を運ぶ

  風は時に木も倒す

 

  風は時間 時間は風

 風が通り過ぎる時、時間が見える

 風は時間をまたいで吹いている

 風のひと吹きは里に流れる百年

 風は今日から明日へと吹いていく

 春の風は希望

 秋の風は寂寥

  風は春を呼んでくる

  風は雪を連れてくる

           目 次

 

 平家の凋落

 

  平氏の末裔                 5

  清盛の孫・娘たち              6

   平家最後の戦い               9

   平家落人伝説               11

安徳天皇は生きていた           12

維盛の「青海波」             14

惟盛伝説                 17

御前岩の六代丸              21

 

小柏氏800年の軌跡

 

第一章 高政 鼠喰城で千人斬り        23

小柏氏の始祖             23

維基 鹿島神社建立          28

鎌倉北条氏と小柏氏         29

上杉氏と小柏氏 鼠喰城         29

関東管領・平井城の落日       34

豪族 高山氏            39

豪傑 小柏高政 血糊の宮        42 

    織田家と宝積寺の確執         49

菅原神社・妙義神社の鰐口         51

   生島足島神社の起請文と養命寺        56

竹花城と小柏城               58

 

第二章 豪族 小幡氏              61

     小幡氏の領地               61

国峰城落城 落武者信秀           62

秀吉攻め 小田原籠城           65

     宝積寺合戦                67

     幡氏旧領弁録について           71

     小幡図書助の実像             76

定重長篠の合戦に出陣          80

   定政小幡孫一を救う           82

 

第三章 お菊伝説                85

 宝積寺のお菊伝説              85

因果の水鏡菊が池             87

   二本木峠と小柏峠             94

    上毛菊婦伝               96

上野国甘楽郡中里村菊女事      100

    市川氏 春山大明神の記       103

 

第四章 江戸時代の小柏氏           106

大阪冬の陣に出陣            106

小柏家の権勢 名刀むかで丸      106 107

    重高 黒滝山不動寺の開基となる   108

潮音 重高に誌偈を贈る       111

   先代旧事本紀大成経         113

    徳氏と吉次兄弟の足跡        118

 

三波川妹ヶ谷の開拓者 竹野(小柏)  120

    妹ヶ谷の地名由来         120

「村上」とは何処か         121

竹野の妹ヶ谷入植期        127

妹ヶ谷城と小柏氏          131

三波川の柔術指南と血判状     135

  南牧衆市川氏            138

焙烙峠の伝説 御荷鉾山の山元    141

  當重 養命寺の中興開基となる    142

    小暮市右衛門 「大神」となる    143

切支丹宗門改め           144

御荷鉾山(みかぼやま)騒動        146

重基 秩父山で金を掘る       148

 

 第五章 風梅年代記           150

    好文堂風梅と芭蕉塚        158

上日野の獅子舞          160

 

 第六章 小柏舘最後の当主 八郎治重明  162

御鉾神社の建立と祭祀        163

    明治政府 地租大増税        165

小柏常次郎と秩父事件        167

    武士の商法敗れる          168

小柏家 落魄の風          171

    小柏氏正系図 作成者        175

 

 第七章 小柏氏の末裔           176

日野地区・三波川の小柏氏      176 178

甘楽天引の小柏氏         180

     小柏徳氏の天引移住       184

     熊野堂の磨崖仏         191

天引の笠塔婆          192

     天引黒渕古墳群の塚       193

     亀穴峠・鳥屋峠は昔の街道    195

中山道坂本宿の小柏         198

 

 

 第八章 小柏舘の発掘調査        199

二回目の文化財発掘調査      201

   あとがき              205

 

    補 稿

小柏氏の墓所について       207

     墓碑の分析             208

天引の小柏氏の墓所・墓碑      209

     時代の変遷による墓碑の形状     211

小柴氏と川邊氏           213

   平氏伝承 小柏氏と武士団     215

    小柏氏 年表             217

参考文献               224

    小柏氏家系図             225

平家の凋落

 

  平氏の末裔

 

一般に平氏は滅亡し子孫は絶えたと言われる、本当に平氏の子孫は絶えたのか?ここでは主に伊勢平氏・平清盛系を検証してみる。古文献などになかなか現れない平氏一族の行く末・末路を探ってみよう。まず清盛の弟たちの子(甥)であるが、経正、経俊、敦盛、通盛、教経、業盛、為盛など多くの者が一の谷の合戦などで討死している。

 

 


清盛    家盛     経盛    教盛     頼盛      忠度


 


   経正 経俊 敦盛  通盛 教経 業盛 忠快 光盛 保盛 為盛 忠行

 


重盛 基盛 宗盛 知盛 重衡 知度 清房 清定 清邦 

 


女子 徳子 盛子 女子 女子 女子 女子 女子

 


     行盛  清宗  能宗   知章  知忠

 


維盛           資盛  清経  有盛  師盛  忠房  宗実  

 


六代丸 夜叉御前 盛綱                 勢観   

 

源氏との合戦で討死が伝えられていない、その他の平氏の末裔の行方を追ってみる。

 

清盛の甥たち 

忠快

平教盛の子忠快は出家して青蓮院の慈円の弟子になり、後に能福寺住職になり阿闍梨にまでなったという。その後なぜか、平家の都落ちの際には還俗したのか同行している。そして壇ノ浦の合戦に加わり、囚われの身となり伊豆に流された。

1189年に許され、また慈円の元に戻って僧としての生活を始め、父の所領であった三条白河小河が忠快の手元に戻された。その後、源実朝・北条政子の主催する仏事に協力し1227年に没した。

僧から武士に戻り合戦し、また僧に戻るという一見不可解の人生を送った。一時武士に戻ったが、僧であったため子孫は残していないと思われる。

平保盛

平頼盛の長男。右兵衛・越前守・尾張守・左兵衛佐。従四位下・中宮亮・正四位。11837月、平氏の都落ちに同行せず。正三位に列せられた後出家した。親鸞に教えを受け、福井県武生市の城福寺の開基となったとされる。河内守に補せられ小谷城を築城し、小谷氏の祖となったとの説もある。子には頼清(庶子説有)・保教ありとする。

平光盛

平頼盛の三男であり清盛の甥になる。母は仁和寺法印寛雅の娘。正五位下に補せられた後、寿永2(1183)讃岐介となる。平家の都落ちの際には同行していない。左近衛少将・従四位下・備前守・正四位下・非参議・従三位等に列せられ、後に大納言となった。その後、正三位となり源実朝の任右大臣の勅使になり、更に従二位に列せられ、寛喜元年(1229)7月に没した。

子には教性、娘二人、源通忠室、松殿基嗣室がある。詳しい記録は少ないが、平家一族が皆、没落した後もしぶとく生き残り、公家として出世を重ねていった光盛は後世にその子孫を残している。

 

清盛の弟、平忠度の子忠行については伝えられている文献が見当たらない。足跡を残す間もなく早世したものか。

 

清盛の子供たち

重盛 病死 基盛 戦死 宗盛 刑死 知盛 入水 重衡 刑死 知度 戦死 清房 戦死 清定(養子) 戦死 清邦(養子、戦死か)不明。

 

清盛の孫たち

 

維盛 入水 資盛 戦死 清経 自害 有盛 戦死 師盛 戦死 忠房 刑死

行盛 戦死 清宗 刑死 能宗 刑死 知章 戦死 知忠 自害

 

平宗実(むねざね)

宗実は波乱の時代の波に翻弄された悲運の公家である。重盛の子にして維盛の末弟。生まれてまもなく2才(3才説あり)の時に左大臣藤原経宗の養子になった。土佐守には任ぜられていたものの、藤原氏として文字通り公家の生活を送った。

平氏が滅亡した年には18才になっていた。宗実に特に罪と言えるものはなかったが、経宗は周囲の者が鎌倉に密告し罪を問われ、一族に災いの類が及ぶのを恐れ宗実を追い出すようにして縁を切った。

 

 この後、宗実は聖俊乗房を訪ねて弟子にしてほしいと申し出て、髻を切り鎌倉へ連絡してもらっても構わないとまで言いきった。その際に鎌倉から何らかの沙汰があれば、それに従うとまで覚悟を披瀝したので、俊乗房も断りきれず出家することを認めたのであった。

その後、俊乗房は念のため鎌倉へ報告したところ、一度鎌倉へ出頭するようにとのことで、宗実は鎌倉へと送られる事になった。すっかり公家になってしまっていた宗実は、武家のように強い心を持っていなかった為に、道中では食が細くなり遂には飲食を断ってしまった。

これまでの鎌倉の処置を思うにつけても、命が助かるとは思えなかった。そして足柄山を越えて、相模の国に入った所で遂に息を引き取った。

 

織田親真(ちかざね)

平資盛の子といわれている。平家滅亡後には近江の津田庄に逃れ、後に越前国丹生郡織田神社の神官、斎部親澄の養子になり神職についた。才覚があり、覚盛と名乗っていたと伝わっている。後に姓を織田と改め信長を生んだ織田氏の祖になったという。

平盛綱

平資盛の子(孫説有)。平家の系図上に名前の記載があるが、父の名前に関して諸説あり、謎のある人物といえようか。平家滅亡後に北条氏に仕えた。侍所所司となり、承久の乱の時には北条泰時と共に上洛している。

伊賀氏の乱を鎮圧し、御家人同士の争乱を鎮めるなどの実績を残し、御成敗式目の制定に関わった。北条家の家令になり政治力を発揮したが、北条泰時の死亡後に出家した。子には長崎時綱、平盛時、平頼綱、長崎光綱、長崎高光、長崎高泰が居る。(長崎氏の祖)多くの子孫を残しているが、鎌倉の追討を受けた形跡がないことから資盛の血は薄いのかもしれない。

源智(げんち・勢観)

平師盛の子。平家敗戦後は母と共に遁世していた。出家し慈円の弟子となり、勢観坊となり賀茂の上人と呼ばれた。知恩院()二世となり多くの信者が集まったという。後に浄土宗法然上人(源空)の近くで片腕的存在になったという。著書も数巻残している立派な僧であったが56歳で没している。

 

その他

平盛国 

平季衡の七男(孫説有)といわれている。平家一族ではあるが傍系である。右衛門尉、左衛門尉、検非違使に任じられ、富士川の合戦にも参加した気骨のある武将であり、清盛に意見する事もあったと言われている。

平家の都落ちに同行し、捕縛された後鎌倉へ送られ、軟禁状態にあった時に出家し毎日法華経を読経していた。自ら断食を強行し命を絶った。享年74才であったと伝えられるが、老人にして強靭な意思が感じられる。

関氏にあっては盛国は資盛の子としてあり、母は鈴鹿の関庄の女となっていて盛国が関氏の祖となったとある。盛国は源氏の追討を受けなかったものか、平家滅亡後には北条時政に降りその臣となった。盛国の子実忠は幕府御家人として鈴鹿郡の関谷の地頭に補せられ関氏を名乗ったとしている。

資盛には他にも妾が居たと伝えられており、その子孫が他にも居ると思われる。

 

清盛の娘たち

 

清盛の長女

藤原信隆に嫁ぎ、信仰心が厚かったと言われている。隆清という子をなして隆清は後に参議になった。都落ちには同行せず、和歌や絵画などの貴族の生活を全うしたようだ。

 

清盛の二女・徳子(三女説あり)

17歳の時に11歳の高倉天皇に嫁した。24歳になった時親王を生み、親王は清盛に擁立されて後の安徳天皇となった。徳子は安徳天皇と共に平家の都落ちに同行し壇ノ浦で入水した。

ところが源氏の平氏によって髪の毛を熊手に掛けられ引き上げられたという。後に都に送られ出家して建令門院徳子と呼ばれた。時を同じくして二位の尼も壇ノ浦で入水した。安徳天皇を胸に抱いて、三種の神器と共に海に沈み剣は失われた。鏡と勾玉は見つかったとされる。

 

清盛の三女(二女説あり)

左中将の藤原通憲の子成海範の許婚となったが、成憲が流人となった為、婚約は解消され後に左大臣藤原兼雅に嫁いだ。数人の子宝に恵まれた。都落ちには同行しなかった。子の忠経は右大臣となり、家経は中納言となったが詳しい事は詳らかになっていない。絵の上手。

清盛の四女・盛子

近衛基実に嫁いだ。器楽の演奏に長けていた。基実は24歳で急逝したため子はなしていないようだ。

清盛の五女(母は時子)

藤原隆房に嫁ぎ、隆衡を生んだ。都落ちには同行していない。指折りの琵琶の名手だったという。

清盛の六女・完子

関白藤原基通に嫁いだ。男子をなしたが都落ちに同行し平氏敗戦の後、都に戻ってきた。

清盛の七女・廊の御方

母は常盤御前で有名な義経の妹である。都落ちに同行して、平氏敗戦の後、都へ護送されて帰ってきた。仕えていた主で義兄でもある藤原兼雅の娘を産んだという。「書」に堪能だった。

御子姫

清盛の八女、母は厳島神社の巫女(内侍)だったと言われ、この為か「みこ姫」となったとされる。後白河法皇に18歳で嫁いだが19歳で短い生涯を終わった。入内後僅か1年で没しているため子孫は残していない模様である。

この他の娘たちの多くは若くして亡くなっている。

平の姓を名乗る氏族は非常に多く、源姓と並び二大姓ともいわれる。有名なのは桓武平氏であるが、この他に任明平氏、文徳平氏、光孝平氏がある。古い氏族であり、後世に多くの有名子孫を残し栄えたのが桓武平氏である。平の名前の由来は平安京の平(たいら)から取られたとする。また平の地名は若狭に平庄がある他、武蔵 常陸 上野 磐城 陸前 肥前 薩摩などが主なところである。こうした土地に住む平氏ゆかりの者たちは平姓あるいは多比良姓を名乗っている。

藤岡市上日野の小柏氏が本拠とした小柏村の近辺にも平の地名は幾つか散見される。小柏村の隣には上平があり、同じ上日野岡本の近くには芝平、下日野には塩平があり、日野小学校の近くには大平がある。

一山越えた吉井町には多比良(たいら)があり、多比良氏が勢力を張っていた。この他、関連は不明ながら、平井、向平、平石、栗木平、小平、琴平(神社)が見出される。この地方の平の地名は坂東平氏との関わりが類推される。多比良氏、小幡氏、高山氏も坂東平氏の流れを汲んでいる。古い地名は多くの場合、その土地の有力豪族・武士団と結びついている。

白倉には白倉氏があり、高山には高山氏、小幡に小幡氏、神保に神保氏、富岡に富岡氏、一宮に一之宮氏、高田に高田氏、長根に長根氏、庭谷に庭谷氏、奥平に奥平氏、安中に安中氏、秩父に秩父氏、新田に新田氏、足利に足利氏、千葉に千葉氏、三浦に三浦氏数えていくときりがない。

「多野郡藤岡地方史総説編」に南毛伝説として以下の話が掲載されている。

 平井村(藤岡市)に後家畑と呼ばれる所があった。城の内に平良文が築いた城があった。子孫の城主が家臣の妻に懸想し、夫を無実の罪で打ち首にした。その怨霊が祟り城は滅びた。その後、首切り場の畑を耕作する者は必ず妻をなくした。畑の中の首切り台にした大石を、ある人が運んで庭石にしたら、まもなく妻がお産で死亡した。石はやがて寺の持ち物になった。

「平良文は小幡氏の系譜にその名前が見られる事から、小幡氏の先祖であるとみられる」とする者があるが今は見つからない。平良文の生没年は886~953(952)年とされている。

平安期の武将であり、三浦氏・千葉氏・秩父氏などの坂東平氏の祖と言われている。中でも秩父氏との関連が強いとみられる。平将門の伯父にあたり武蔵・下総に勢力を有していた。

 平家最後の戦い

 

 平忠房は維盛の末弟であり、「丹後侍従」と呼ばれていた。生年は不詳であるが同じ藤原家成の娘を母に持つとされる弟・宗実の出生が1168年である事から、是より先1166年の出生と仮定すると、1184年の壇ノ浦の戦いの頃は18才くらいと推定される。屋島の合戦で敗れた後、ひそかに陣営を抜けて紀伊国へ入った。

当地の豪族・湯浅宗重を頼ったが、協力者を募って態勢を立て直す積りだったと言われている。湯浅氏は有田の強力な武士集団で、南北朝時代まで300年にわたって活躍し湯浅党と呼ばれていた。

 

頼朝の残党狩りは厳しいものであったが、各地に潜伏していた平家の残党、悪七兵衛ら猛者が500余名も忠房の元に集結した。これだけ集まれば鎌倉に情報が届かない訳がない。源頼朝が阿波成長に命じ、成長は千騎余りの軍勢をもって攻めたが湯浅氏は岩室城に籠り、激しい戦いが3ケ月も続いた。

忠房の一党は宗重と共に防戦し退くことはなかった。だがこれに業を煮やした頼朝の、「重盛殿には旧恩あり、そのお子は助命する」との言質を得て、忠房は周りの反対を押し切り降参人となった。

この頼朝の言葉を伝えたのは文覚上人であったという。忠房はその後、鎌倉へ出向後、京都へ送還される途中で、頼朝の命により後藤基清によって斬られたが、妻に藤原脩範の娘を妻にしていた事から、その子孫がなかったとは言い切れないものがある。

白糸浜長者・岩井左衛門の娘(白拍子花松)との間に、女の子が居たとも伝えられている。また一説には忠房の潜伏を湯浅宗重が鎌倉へ密告したとしているものもある。

「紀伊続風土記」の青木村の条につぎのようにある。

 

小松殿の御子丹後侍従忠房八島の軍より落ち、紀伊国住人湯浅権守宗重を頼んで

湯浅の城にそ籠られける。是を聞て平家に志し思ける越中次郎兵衛、上総五郎兵衛悪七兵衛、飛騨四郎兵衛以下の兵共附奉りしかは、伊勢伊賀両国の住人等我もわれもと馳集究竟の者とも、数百騎盾籠山聞しかは熊野別当鎌倉殿より仰を蒙りて、両三月の間に八箇度寄て責戦城の内兵命を不惜防きけれは、毎度に味方追散る熊野法師数を盡

し討れにけり。

 

 熊野別当鎌倉殿へ飛脚を立、当国湯浅の合戦の事両三月の間に八箇度寄て責戦ふされども城兵命を不惜防く間毎度に味方散れ敵をしへたつるに及はす。近国二三箇国を

も給て責落すへき由、申たりけれは鎌倉殿其條国の費へ人の煩なるへし。盾籠所の兇徒は定めし海山の盗人にそ有ん、山賊海賊きひしう守護して城の口を堅め守へしと、そのたまひける其定にしたりけれは、けにも後には一人も無りけると云々。或記曰永和四戌午年南方宮方蜂起し、湯浅権守搆城国民を追捕し国中の野伏山族強盗の溢者共馳集り、其勢二三千計国中に打出と云。

 

 依之将軍家義満より是を退治せんと、同年十二月山名修理太夫義理舎弟、陸奥守氏清佐々木冶部太夫高詮本郷左近将堅詮泰一万七千余兵そそ向ひけると云々。去程に山名以下の諸将湯浅の城に押寄たるに、要害最嶮にして進退自由ならさりけれは先向ひ城を取り、二三日の程敵の位を見て未戦と云々。寄手城を守徒に見物すへきに非す、大手搦手手分を定め一万騎山名義理同氏清軍勢一度に進責上る。

 

 残り七千の勢は城中援兵の押とす、山名の軍勢攻上ると云とも土地嶮難にしてたやすく進むへき様なかりけるに、城兵厳しく矢炮を以て防きたれは寄手是に辟易し乍ち敗し引退く。

依之十二月二十六日の夜、山名義理舎弟氏清と計り夜討を以て勝利を得んと七百余人丑の刻計り、忍やかに打立ける城内には兼て忍の者を以て今宵の夜討を計り知りて敵の寄来る道路に伏兵を設け、不意に起て散々に戦けれは又寄手敗軍して討るゝ者敵不知は詮方なく、そ見江にける義理氏清又計議を回らし此上は水手を断切渇しさせは自ら落城なすへしと、案内者を以て水手の通路を尋軍士六百余人を以て昼夜番をなし、十二月二十七日より翌正月十六日迄城を囲み水手を取斬りたり。

 

今は城兵水に渇し防戦の術盡て同月十八日の夜半に、城兵潜に城を落河州へ落行ける寄手は是を知らす。十九日迄守り居しか人有とも不見けれは、若落行たるや責て見よと山名氏清か朗徒二千終に城を乗取り陣ゝに火を放し霞と共に焼立けり。

                          (句読点は付加)

 

微にいり細に亘って記述されている。本文中に古記録があったとの記述があり、史実に近いものであろうか。多くはこの伝説を史実であったと捉えている。忠房は祀り上げられただけであったと思われるが、平家最後の戦いともいえる岩室城攻防戦で、平氏一門の武将は失いかけていた武家としての意地を見せ気を吐いたのであった。忠房の最後については平家物語別本「延慶本」「四部合戦状本」には次のように記されている。

 

 「屋島ノ軍ヨリイヅチノ落給ケン行方ヲ不知。」

 

平家落人伝説

 

 九州佐賀市に落人伝説があり蓮池町には小松神社がある。「復刻佐賀市の文化財」によれば、平重盛を祭った小社であるとの口碑が伝えられている。

壇ノ浦の戦いに敗れた後、数艘に分乗し海岸伝いに南下して来て、山地に身を潜めながら逃亡を続け、長い日数を掛けて、一部の者は筑後川沿いに下り佐賀市蓮池町に土着したという。

 荒れ果てていた田地を開拓し時が経って源氏が滅びた後に、社を建立し人徳者の重盛を祀り、小松社と名付け落人たちの信仰の的となった。

人々はいつしかここを小松の里と呼ぶに至った。

 小松神社に春秋の2回奉納される踊り「小松の浮立(ふりゅう)」は佐賀市の重要無形文化財になっている。この踊りの楽器には笛がなく、別名笛なし浮立とも呼ばれるという。一の谷の合戦の際、一門が船で沖に逃れる時に平敦盛は愛用していた笛を、館に忘れ取りに帰ったために撤退が遅れた。

この時、はせ寄ってきた源氏の熊谷次郎直実に呼び止められ、討死してしまった事から、楽器の中からあえて笛を除外しているという。小松部落では今でも、家の新築の際には「小松の浮立」が演奏されている。

 この他、松阪市には六代丸の伝説がある。三重県松阪市のホームページには次のようにある。

 

 三重県松坂市に六代丸の墓と伝えられている物がある。落人が美しい山間部に隠れ住んだという。当地の日川寺は源平合戦の後、平家の落人が隠れ住んでいたという。

なめり湖から南へ細い山道を奥深く入った所で、人目を避けてひっそりと暮らすのには絶好の場所であるという。

 そこは山々に囲まれて、清流が流れ今でも非日常的な別世界を形成しているという。

この山の中腹にひっそりと佇む石塔が六代丸の墓と伝えられている。

                       

 

平家六代の墓2

    六代丸の墓と伝えられている。

 

 

 また、白山一帯の白川郷、飛騨、五箇山にも平家落人伝説が伝わっている。戦いに敗れた平家の敗残兵が、国境の山沿いに逃れてきて白川郷に住みついたという。これ等の地域では平維盛伝説が中心であり、白山信仰と関連しているものとみなされている。白山の坊数は6,000余もあったとされ、天台宗比叡山の3,000余の倍程もあった事から白山信仰の広がりが分る。

 このほか悪源太が遁世していたとする福井県の町、平家落人の里、平家の子孫を名乗る町は熊本県や北関東にある。これ等の町の多くは、谷川や山に囲まれた山村で温泉などもある。こうした土地では産業も少ない為か、主として観光客誘致に積極的に活用しているようである。

観光地として売り出すための目玉・看板として案出され、演出で作りだされ、それなりの規模と格式を、取り揃えて整備されている所も見受けられる。

 

安徳天皇は生きていた

 

安徳天皇は壇ノ浦で二位の尼に抱かれて、入水して果てたとされている。二位の尼は平清盛の正妻・時子である。従二位の位にあり清盛の死後は尼になっていた為、二位の尼と呼ばれた。

宇佐神宮の宮司家・宇佐家の伝承によれば、同家は神武天皇が東遷の際に立ち寄った時に、足一騰宮を建立し当主の妻を差し出し供応したという。そして神武の兵士たちには土地を与えて屯田制として生活させた。

この神武部隊の滞在期間は4年に及んだという。

 

都落ちして大宰府にくだっていた安徳天皇が、源氏方に加担していた緒方惟栄の圧迫を受け宇佐神宮宮司・公通の館に逃げ込み一時ここを皇居と定めた。この時に公通は、宇佐神宮にて斎戒沐浴・断食して七日七夜祈ったところ神託を得た。

それは嫡男・公仲を安徳天皇の身代わりとして、天皇を守護し奉れというものだった。

公仲の母は清盛の娘・浄子であり建令門院の妹であるから、天皇と公仲は従兄妹の関係であり年齢も同じ8歳であった。

かくして天皇は宇佐に残り、身代わりの公仲が安徳天皇として讃岐の屋島に移った。この後、平家は山陽道を制圧し勢いを盛り返したが、義経が下向して参戦した事により、たちまち劣勢になり壇ノ浦で亡ぶ事になる。こうして宇佐公仲は、天皇の身代わりとして二位の尼と共に壇ノ浦の藻屑となった。

安徳は30年ほど遁世し、公通の先妻の子公房の庇後を受けていたが、やがて宮司職を譲られた。

1214年に大宮司に補任され従五位下に列せられ、男子三人をなしたが宮司は長男に譲り出家した。実母である建礼門院や、平家一門の菩提を弔って晩年を過ごしたという。

この後、宇佐神宮の宮司職は安徳天皇の子孫が勤めた。真実かどうかはともかく、可能性として充分にあり得る事ではある。恐らくは事実なのであろう。宇佐公仲となった安徳は、宇佐家の系図上では公通の孫となっている。

 

三種の神器

 

三種の神器は、安徳天皇と共に都落ちに随判されていたが、二位の尼が携行して壇ノ浦に沈んだ。剣は見つからなかったが、鏡と勾玉は見つかって、義経が京都へ持ち帰り後白河法皇に返したとされている。

池や湖ならともかく、潮流のある海に沈んだ物が当時の技術で見つかるとは信じ難いものがある。それとも、鏡は二位の尼が小脇に挟んで入水したといわれているので、潮に流されて沈むのに時間がかかったのか。

 

徳島の安徳天皇

 

一説には清盛の弟教盛の二男国盛が、安徳天皇を擁護して徳島県吉野川奥地の粗谷山に逃れたという。国盛は百騎ほどの部下を連れて吉野川を遡行して、粗谷に入りその地の名主・喜多氏を殺し占拠すると共に周辺に支配地を広げたという。

後に阿佐庄に移り阿佐氏を名乗った。同家には向い蝶紋のある平家の赤旗と宝刀が今に伝わっているとされる。

事実とすればこの「宝刀」と呼ばれる刀が、壇ノ浦で失われた三種の神器の一つである可能性が高くなる。しかし国盛の伝説と阿佐氏の伝承が話の中心であり、安徳天皇のその後の動向・子孫にまつわる伝承は伝えられていない。

安徳天皇の事績・名乗った名前、改名したであろう後の名前・子供の有無・死因・死亡地などは一切伝わっていないのである。

この事から、ありそうな話ではあっても、今ひとつ真実味に欠けてしまう嫌いがある。また「国盛」の名前は平氏の系図上に見えないが、教盛の二男「教経」の別名としているものがある。

 この他、栗枝渡神社に安徳天皇の火葬塚がある、安徳天皇の御典医(堀川家)がいた等の話しが別々に伝わっている。

 

 

 維盛の「青海波」

 

横笛の優雅な調べがさやかな風に乗り、その場に居合わせた高貴な人々の胸を打つ。その音色は寂しく愁いを帯びて、時には悲しさを込めて切なく胸の底に響いてくる。舞っているのはきらびやかな衣装に身を包んだ平維盛である。

ただでさえ維盛の女人をも凌ぐ優美な面立ち、日本一ともいえるその美男子ぶりは宮廷女の羨望の的であり、何人か寄れば口の端にのぼり噂話は耐える事がなかった。 

 安元2年、後白河院五十賀のこの時、維盛が烏帽子に桜の枝、梅の枝を挿して舞った、「青海波」は後々までの人々の語り草となった。「安元御覧記」は次のように記している。

 

  左右互いに舞いを奏す、、、、、、青色のうへのきぬ、すほうのうえの袴にはえてる顔の色、おももち、けしき、あたり匂ひみちみるひとたゞならず、心にくゝなつかしきさまはかざしの桜にぞことならぬ。、、、、

 

          

野迫川村歴史資料館HPより

 

 女院からお衣下賜があり、父の大将重盛が座を立ってきて、これを受け取り女院に拝し奉った。「県礼門院右京太夫集」には、

 

 ――法住寺殿の御賀に青海波舞ひての折などは、光る源氏のためしも,思ひ出でらるゝなどこそ、人々いひしか。花の匂ひも、げにけおされぬべくなどきこえしぞかし。――

 

 とあり、維盛はこの頃源氏物語の光源氏になぞらえて、語られる事が多かったのである。この舞により維盛は大変な賞賛を浴びたが、一人維盛の名誉にあらず、平家一門の貴族的な優美さも改めて認識されるにいたった。青海波は雅楽の曲のひとつであり、管楽や舞楽などに用いられている。その文様は中国の青海地方の民族模様・山岳文様である。代表的な吉祥紋のひとつとされていて、波が左右に交互に重なる文様であり、色は藍と青の中間位の優美な色合いである。舞楽の衣装に使われている他、絵にも好んで描かれた。舞楽の装束にあってはこの曲の服飾ほど、「秀美なるものはあらじ」と言われるほどであった。

この他、今でも青海波の模様は古き町並みを残すための、石畳などにまで使われている。維盛の父平重盛は太政大臣平清盛の嫡男にして、権中納言 権大納言 大納言 内大臣を歴任し、1179年に出家し、熊野に参詣後まもなく病気になり41歳で没している。

名もない官女との間に惟盛を設け、側室の下野守藤原親方の娘、少勇輔掌侍との間に資盛を設けている。正妻の中納言藤原家成の娘経子との間には弟たち、清経、師盛、忠房、宗実が生まれている。その他、母名不詳ながら重真、行実、重遍、清雲、他二女の子供たちが居たとされている。

 さて惟盛ほど伝説の多い人物はいない。その伝説は熊野沖入水・その後の遁世についてのものが多いが、以下は浮名を流した伝説である。維盛が妻と妾である白拍子(巫女)とで三峰川(今の伊那市)の浦の地に一時住んでいたという。

 ところがこの白拍子は生活に疲れ、世を儚んで川の深みに身を投げたという。そして維盛は白拍子の霊を祀った。

この場所は「巫女淵」と呼ばれている。光源氏の再来ともてはやされた惟盛に、側室が居たという事は充分考えられるところである。世の女性からは、引く手あまたの状態であったであろう事から、他にも女性が居たと考えるほうが自然であろうか。一の谷の決戦の時、小松一門は三草山の守備についていたが、義経の勢いに乗った軍勢に、態勢を崩され敗走を余儀なくされた。

一説には維盛は重病で三草山には布陣せず、屋島で療養していたとあるが、維盛は出陣したものの体調が優れず、大将軍には弟の資盛を立てていた事からこうした話になったと思われる。

 

この三草山の戦いの後、師盛は一の谷の助勢に廻り討死、資盛、有盛は屋島へ撤退して行った。平家の時代は終わったと考えていた惟盛は、部下を連れて三十艘ばかりの船を用意させ一時四国へ退く事にした。

「玉葉」によると、維盛卿三十艘ばかりの船を率いて南海を指して去りおわんぬ云々とある。

この後、惟盛は暫く屋島に逗留していたが、時代の趨勢を見極め劣勢を挽回し、有利な条件で講和を結ぶためには、形だけでも援軍が必要と考え熊野へと渡った。援軍を獲得できる僅かな望みが絶たれた場合には、身の処し方を父に仕えていた滝口入道に相談する積りで、数名の従者を連れただけで熊野に入った。

「高野春秋」に次のように記されている。「小松維盛、従者阿波守宗親及び二三の輩を拘引し、屋島内裏より来奔し、戒を心蓮上人(東禅院の元祖なり)に受説す」

 熊野権現は朝廷との繋がりも深く、公家や庶民にも広く信仰され熊野詣は行列を作るほどだったという。

維盛が頼みとしていたこの熊野三山は、従来からの源氏との関系、また時代の趨勢が源氏の世に傾いていく流れを読み取り、維盛の話には耳を傾けなかった。

維盛は平家の嫡流であり、本来であれば統帥権を握ってもおかしくない立場にあったが、今は叔父である宗盛が兄弟たちと計り方針を決定していた。

 維盛の母の身分が低かった事も原因していた。弟たちは身分も名もある母の腹によっていた。長い間の公家的な生活が沁み込んでしまった維盛には、武士の棟梁としての才覚と気迫が不足していた。

このため、維盛の平家一門での立場は清盛亡き後から、次第に微妙なものになっていたのである。これまでの合戦で取り立てて、功績を挙げていなかった事も一因になっていたかもしれない。

世の中が大きく変わろうとして時間は急速に流れていた。平氏が例え九州勢を糾合して、反攻に移ったとしても京都から東国一帯までを固めている頼朝を、排撃できるとは思えなかった。

 

 熊野で援軍を得ることを諦めた維盛は、次善の策と考えていた滝口入道に会うため高野山に向った。滝口入道は元は重盛に仕えていた武士であったが、父の反対にあい失恋し、結果として出家した者であった。

滝口入道と夜を徹して語り合った維盛は、自分は反抗の首謀者でもなく一門のしがらみに引きずられただけであるので、出頭するゆえ助命の儀お許しありたいと院の御所へ使者を送って伺いをたてた。

(法王)も気の毒に思われ頼朝へ伝えたが、頼朝の返事は取り合えず鎌倉へ参れとの命令であった。維盛はこの期に及んではやむを得ずと、従者と共に出家する道を選択した。

従者の与三兵衛重景と石童丸が、先に滝口入道に剃髪してもらい維盛がその後に続いた。入道の案内により、維盛は高野山の峰ゝ、お堂を巡礼し父重盛及び先祖の供養をした後、那智の浜へ出た。

維盛は沖の島へ渡り松の木を削り、辞世を綴り終えると小舟から海へ飛び込み、波の下の補陀落の世界を目指した。この頃には夕闇が迫り、陸の方からはしかとは確かめられなかった。観音信仰の補陀落渡海を演じたのであり、入道が全て計らった事である。那智には今も補陀落寺がある。

この後、京の都では維盛入水の話が噂となったが、弟の清経も瀬戸内海において入水しており、人々はさして奇異な事とも思わなかった。

 

 

 

 

  惟盛伝説

 

十津川村(奈良県吉野郡)に惟盛の墓がある。十津川村のホームページに次のようにある。

 

 「平惟盛は平清盛の孫で、桜梅少将と呼ばれるほどの当代随一の美男子だったといわれています。平家一門の滅亡を前に寿永3年(1184年)那智の海に入水、27才で果てたと伝えられています。

奈良県野迫川村には平家盛衰の物語を題材にした資料館、平維盛塚などがありますが、十津川・五百瀬(いもせ)にあるこの墓が本物だという根拠は、廃仏毀釈前にこの地にあった寺の過去帳に、維盛の戒名が記されているところからきています。」

 

 ちなみに野迫川村と十津川村は、十津川を挟んで向こう側とこちら側との位置関係にある。平家物語、源平盛衰記では維盛の入水があたかも真実のごとく、記述しているがこれ等の話は、あくまでも物語であり史実の記録ではない。

仏教僧、高野聖、熊野行者などが語り物として、創作し仏教の布教に利用していた側面も強く持っている。(勿論史実を記載している部分も多いが)

いかに命の軽い時代背景があったとしても、民衆を助ける主命を担っている、仏教の高僧が必ず成仏できるからと自殺を勧め、しかも同じ船に乗りその脇から海に飛び込ませ、死ぬのを見ていたという事は全く考えられない。

 世話になった主家の嫡子であり、貴人でもある惟盛を助けこそすれ、自殺するのを手伝う僧など居ようか。

この頃、絶大な信仰を受けていた熊野には、焚身捨身して熊野の沖にある補陀落へ渡る「補陀落渡海」という信仰があった。海に入水し、死んだ事にすれば全く別の人になって、残りの人生を生きられるというものである。

これは現代でもよく言われる「死んだ積りになれば、何でも出来る」という事にも繋がっていようか。

 

また別の伝説はいう。維盛は熊野沖での入水を演じた後、行者たちに案内されて、那智大社の北の山を越えた色川郷という所に身を隠し蟄居していた。後世この地に残した子孫は、畑などを開拓し繁栄したという。

この地では「香」を作り、毎年那智大社に香を一荷収める他、行事は何も行われなかった。この地は「香膠」(こうばた)と呼ばれた。この地の小松姓、色川姓がその維盛の子孫とされている。この説は「大日本史」にも採用・記述されている他、現地にも伝説が残っている。

「大日本史」には維盛は熊野に入り、船に乗り夜の那智の海に漕ぎ出し、偽って海に赴いて死んだ事にし牟寠郡藤縄に隠れる。子孫は後に香を那智大社に貢ぐようになり、その地は香膠と呼ばれるようになったとある。維盛はこの地で蕗を食べて死んだという口碑が今に伝わっている。

「平家物語全注釈」によれば、この「大日本史」にいう伝承は「高野春秋」元暦元年三月十五日の条にも次のような説明記事があるという。

「この補陀落渡海の演出は滝口入道の計らいであり、入道が熊野山那智の海浜に誘引し、入水して往生すると称して二十八日の夜船を出した。

同行の信者たちが声を合わせ、高く念仏を唱える中を漕ぎ出して沖に消えた。世に入水と称すといえども、実は忍び姿となり深山の中に隠れ天年を終わる。その時、行年二十七才なり。この末裔保田庄のうち小松氏が是なり。下湯川・杉原・板尾・三个村を領して守護も介入しない所の領主なり。」

また「太平記」巻五「大塔宮熊野落事」にも同様の記事があるという。十津川竹原宗規入道の一族・戸野兵衛が、大塔宮護良親王を匿う時の言葉として、「平家の嫡孫維盛と申しける人も吾らが先祖を頼って、此処に隠れ遂に源氏の世につつがなく候けるとこそ承り候へ」と言ったという記事である。

「源平盛衰記」には、「維盛は熊野三山の参詣を終えて高野山へ入り、どうしても遁れられない身ならば、都へ行き院の御所へ参り我が身は首謀者の中にも入らねば、罪は深くもなし命は助けられたしと申し入れた。

院は殊の他、気の毒に思われて鎌倉へ仰せ遣わされけり。頼朝の返事には彼の卿を下し給いて、家来に従って下向し自分で申し立てるべしと申してきた。したがって院は鎌倉へ行くべしと仰せられた。

維盛はこれより飲食を絶っていたが二十一日も経つのに、鎌倉へ到着せず相模の国湯下の宿にて死亡したという記事が「禅中記」にあり、ある説では那智の客僧などが憐れんで滝の奥に庵を作って隠した。其処は今広い畑となり、子孫は繁栄して那智へ香を贈り、行事なく今は香疁という、入海は偽り。」   

 

とある。

和歌山県在田郡に上湯川村がある。ここに旧家の小松家が今もあり、維盛の子孫と伝えられている。維盛が日高郡龍神村の奥杉谷山中に、隠れ住んだ後その子孫が上湯川村に来て、近隣一帯を支配し仕える村民も多かったという。「紀伊続風土記」に次のようにある。

 

 旧家  地士 小松弥助

 伝え云う小松内大臣重盛紀公の嫡男三位中将維盛卿の後なり、維盛卿熊野にて入水と偽り、日高郡龍神村の奥杉谷山中に蟄居し、後子孫当地に移りこの地一円を支配し、村民も其の召抱えの者の末多しとそ代々小松弥助といふ元和五年よりりん米を賜り地士となる。今杉谷山に小松屋敷の跡並びに小宮三社其よ古跡ありとそ

 

 同じく紀州の熊野本宮の近くの、熊野街道に沿っている湯峰川渓谷の湯峰に伝わっている伝説がある。熊野沖で入水すると見せかけて、生き延び山を伝わって来て熊野本宮に詣で、近くの湯の峰に遁世していたとする。

ここは話のみで、物証は何もなく墓があるわけでもない。また寺に位牌や棟札があるという事もなく、子孫が何処其処に居るとも伝わっていない。このようにひっそり語られているのには、近くにある熊野本宮が源氏方に近かった事と関係があるといわれている。

少しでも噂話などが外部に漏れると、鎌倉殿にお伺いを立て維盛一党を、誅せねばならない事態になってくる事を恐れたのである。

奈良県吉野郡野迫川村にも維盛伝説が残っている。ここでは維盛は壇ノ浦合戦の前に、援軍を頼むために屋島から熊野に入った事になっている。そして山中を転々として生涯を終えたと伝えられている。

野迫川村には維盛塚があり、ここを中心として、歴史資料館などの平維盛歴史の里を大々的に整備している。

 

         維盛塚                

 

 

 

                   維盛歴史の里   野迫川村HP

 

 

 

  悲運の六代丸

 

六代丸は父維盛の容姿を受け継いで成長したため、一見美しい娘にも見えたといわれている。平家滅亡後は、遁世生活を送るため母に女装させられた事もあった。そのため、後に六代御前と呼び習わされるようになったとされている。

六代丸は京都の草深い山里に、母と妹と一緒に隠れ住んでいた時に、賞金の為に密告する人が居て囚われの身となった。

あわや鎌倉に送られようとする時に、これを聞きつけた文覚上人が、鎌倉に伺いを立てるからそれまで待つよう申し入れた。頼朝は文覚上人の手紙を受け取り、上人が自分の弟子にして出家させるからと、あまりにも熱心に助命を願っていたので、小松内府のこともあり当面、上人に預ける事を了承した。

維盛の父重盛が、池の禅尼の使いとして、頼朝の助命嘆願をしてくれた事は忘れていなかったのである。六代は上人の下で、暫くひっそりと暮らしていたが、数年もたつと鎌倉の空気がやや剣呑になってきた。このことを感じた上人により出家する事を余儀なくされた。

 栄枯盛衰は世の習いといわれるが、この時代の波は急速に動いていた。頼朝の恩人として権勢をみせた上人も、やがて罪を得て流人の汚名を蒙ることになる。高野山をかわぎりに熊野山にこもり、名のある山・寺を訪ねて修行を重ねていた六代は、これを聞き、上人が逗留していた大覚寺近くの宿所に戻ってきた。

知人などから情報収集しながら、思案している時に北条四郎が踏み込んで来て囚われの身となってしまった。

鎌倉に送られた六代はややあって、頼朝に面会し鎌倉の小さな寺に軟禁状態に置かれたのであった。頼朝はこの面会の時の印象を、心憎からず思ったとの事である。六代は元服前の公家の美少年であり、しかも今は僧でありながら凛とした気品は全身から漂っていた。生まれながらに、その身に備わった気高さが、その居住まいの中に自然に現れていた。

 

六代は兵を起こして、鎌倉に叛くなどは微塵も思っていなかったので、頼朝の思いはむしろ当然であり、自身が清盛の前に連れて来られ面会した時の事を思い出し、哀れにも思えたのではなかったか。

軟禁状態もほぼ解かれて、ある程度は自分の意思で外を歩き回れるようになっていた翌年、六代は許可を貰って上野国の名刹を訪れた。

 寺男を二人同道することが許可の条件になっていた。六代は生きる当てもなく、一日一日を生きてそして死んでいた。その心は朝生まれて夜には死んだのである。頼朝の気分しだいで、何時首を斬られるか分らない状態で、生きていくのには心の拠り所が必要だった。

平家の嫡流として、公家の華やかな生活しか知らなかった六代である。子供の頃に置かれていた環境・習慣から、全く別の質素な生活をおくるのには、相当な心の葛藤を抑える強烈な理性が要求されていた。

関東の名刹浄法寺(緑野寺)を訪ね、住職に生きる当てのない自分は、心の置き所を何処に求めればよいのか教えを請いたかった。都で別れたきりの、弟の維基にも一目会って別れを告げておきたい。

 上野国鬼石にある浄法寺は、伝教大師(最澄)が信仰を広めるために、末寺を立てたうちの一つで創建は815年頃といわれている。

本寺が延暦寺で、本尊は阿弥陀如来であり、東国の天台宗の拠点になっており武家にも広く信仰されていた。

維基は六代の異母弟であり、年も一つしか違わなかったが、六代と違って逞しく、野性的なところがあり、野武士のような風格を発散させる男で、弟なのに何故か頼もしいところがあった。

維基の母は武勇で鳴らす秩父平氏の娘であり、その血を引いている維基は着る物にはとんと無頓着で、言われなければいつも同じ袷を着ていた。維盛とは別居していたため、一人で山へ分け入って、鳥やウサギを捕まえたり、川に潜って魚を取っているような子供であった。

維盛の叔父知盛が永暦元年(1160)に武蔵守に任じられ、武蔵国に滞在した折に、人手が足りなくなり秩父党に申し付けて娘を出仕させた。仁安二年(1167)知盛は武蔵守の任期を終え都へ戻った。

この時、知盛室の請いにより都に同道してきた娘を、維盛が見初めて貰い受け、帰京した翌年嘉応元年(1169)維基の誕生となったのであった。源氏勢が上京し都が戦乱に、巻き込まれそうな情勢になった折に、維基は母と共に武蔵国へ帰っていたのである。

 

  御前岩の六代丸

 

新緑を揺らせて爽やかな風が吹いてきて、六代丸の頬をなぶっていく。足下に見える鮎川の清流の、せせらぎが心地よく響いてきて、うたた寝を誘うようだ。時折、鶯の鳴き声が聞こえてくる。

鶯はこちらで音を立てていても、よほど傍に近寄らない限り鳴くのをやめない。やがて六代丸の後ろで響いていた槌音がやんだ。

近在の石工親子が、今仕上げたばかりの石碑を首を左右に傾けては、ためつすがめつ角度を変えて出来栄えを確認していた。上日野や三波川は石を産出する為、この辺りには腕の良い石工が何人も居るのである。

断崖になっているこの岩壁にはところどころに、躑躅(つつじ)の花が咲いていて六代丸のお気に入りの場所だった。

ここの岩壁の僅かな岩棚に腰掛けて、鮎川のせせらぎの音を聞きながら、あっという間に過ぎていった華やかだった日々、やがて訪れるであろう自分の最後の時に思いを廻らせていた。

 六代丸は、傍らで鮎川の河原を眺めていた弟の維基を振り返った。維基は、ほんの少しの岩の出っ張りに生えた、躑躅の木の根元に跨って背中を岩壁に持たせかけていた。維基はひょっとしたら誰か来るのでは、そんな気がして河原とその上に続く叢と、雑木林をぼんやりと眺めていたのである。

ここからは見えないが、雑木林の上には曲がりくねった小道があり、左へ行けば名無村から峠を越えて秋畑村、右に行けば下日野村を通って金井村となる。上日野小柏村からも小半刻ほどの距離がある、この渓谷に人などが来る筈がなかった。六代丸は今仕上がったばかりの、父の追悼碑の前に立ち僧衣の袂で、碑に僅かに残った石砂を払って維基を促した。

用意してきた酒と線香を供え、惟基と並んで額ずき法華経を誦し始めた。六代丸は半刻ほど身じろぎもせず、先に逝った平家の一族の霊を弔った。今生きているのは妹の夜叉御前を別にして、自分たち兄弟の二人きりだった。

この断崖・絶壁は後に御前岩と呼ばれるに至った。幼名六代丸は平正盛から数えて六代目にあたる事から命名された。正盛、忠盛、清盛、重盛、維盛、六代丸の順である。出家してからは妙覚と名乗り、三位中将維盛の子だった事から三位の禅師とも呼ばれた。

 

 禰寝氏の系譜によれば、六代丸の名は「高清」になっている。高清の子とする清重が建部氏となり、後に禰寝氏を名乗り大隈国の禰寝院南俣に入り、源頼家により地頭に補任されたという。

清重の名は清盛の清、重盛の重をとって清重としたという。禰寝氏の系図を見ると、その子たちの名前の頭には清をつけ二文字にしている。大隈半島で勢力を拡大し、後には島津家に仕え長く繁栄した氏族である。

 実在が確認されている人物「高清」は頼朝に許されたが、反逆を恐れた頼家により斬られたとされ、この点は確かに六代丸に類似している。

 

 

「小柏氏800年の軌跡」

 

第一章 高政鼠喰城で千人斬り

 

小柏氏の始祖

 

 上州は古くは上毛野国・上野国と呼ばれ、武蔵国とならび大国に列せられ、上毛野氏が国造として任じられ東国一帯と共に支配していた。上毛野氏は古い氏族で崇神天皇の皇子の豊城入彦命を祖としている。

 また上州には有名な多胡碑があり、多胡郡の新設に伴い711年に設置された物とされる。この多胡碑から南西に直線距離でおよそ11キロの所に、西上州の秀峰・御荷鉾山がある。東御鉾山・西御鉾山の北麓には、鮎川の清流が西から東に向かって流れている。

 鮎川は決して深い谷ではなく、何所にでも見られる普通の小川であるが、上日野の西部から上流は渓谷の趣き・景観をなしている。この鮎川の一帯、下日野・上日野は古くは日野谷と呼ばれた。 

 

 上州日野谷に君臨していた武士団・小柏氏は伊勢平氏の系譜を継いでいる。その系図には桓武天皇より、連綿とした系譜が記されている。平清盛の子重盛の嫡子、維盛の子維基が小柏氏の始祖である。維盛の嫡子六代丸は出家している。また清盛は天皇のご落胤との説もあり、妊娠した女(むすめ)を父の忠盛が娶らせられ清盛が生まれたという。

別の説には、これは清盛サイドが意図的に作った話という。小柏氏正系図によれば同氏の祖「平維基」は六代丸が生まれた翌年に出生している。

小柏氏系図は代々の継承者の名前が載っているだけではなく、主だった人には事跡が添え書きされている。

この添え書きには別記ありと書かれていて、系図の他に詳細な記録があったことを示している。

この系図は太い巻物となっており、タイトルは汚損して読み難くなっているが、かろうじて「平姓上野国小柏氏正系図」と読む事ができる。

系図に名前の記載はないが、妹の夜叉御前は維基の次に女子と記載されている。一般に系図には女子の名前は記載されない、○○の女(むすめ)とか○○の妻○○の妹と記載されている。夜叉御前は維基が生まれた翌年の出生ということになる。

系図によると維基は幼名平太郎といい、上野国小柏(現在の藤岡市上日野町小柏)に移り住み、後に土地の名を採り小柏氏に改称したという。

 

藤岡市が刊行した「ふるさと人ものがたり」の小柏氏の項には、

「身分を隠した伊勢平氏の直系とあり、上日野小柏の高台に『小柏様』と呼ばれる屋敷があり、集落を眼下に一望できた。

半ば伝説化したこの一家の活躍の跡を尋ねる。小柏氏は伊勢平氏の末裔で、始祖は父維盛が武蔵国司在任中に生まれた平維基であり、壇ノ浦合戦後は源氏から逃れ日野の奥に隠れ住んだ。

そして身分を秘して、小松姓を小柏姓に変え、建久7年(1196)には鹿島神宮を創建したという。」

と記されており小柏氏の事跡の説明が続いていくが以下は略す。

 

「藤岡市史」では「小柏」は豪族小柏氏が居館を置いたところから命名されたとしている。その屋敷跡は現存している。

清盛の嫡子・平重盛一族は京都付近の小松谷に住み、小松姓を名乗っていたが、源平合戦に敗れたあとその子孫の小松維盛が日野谷に落ちのび、隠れ住みついた時、「小松」を「小柏」と改姓したといわれている。(市史通史編・近世)

父の中将維盛が、武蔵の国司の時に東国の諸士に甚だ崇敬されていて、この頃に妾があり、ある時懐妊し維基が生まれたという。

「公卿補任」等によれば、維盛が武蔵野守に任じられた記録は、見受けられないようであるが、或いは目代であったか又は一時的な任官であり、辞令のないままに赴任したのか定かではない。

上日野小柏(村)から鮎川をさかのぼった所に御前岩がある。ここに六代丸と弟の維基の足跡が残っている。

 

「群馬懸多野郡誌」によれば、「小柏を隔てること十数町、人家のなくなる所に鮎川の源流がそうそうと音を立てて、断崖の岸を洗う所がある。ここを名づけて御前岩という。高さ二十丈で絶壁の頂は天高く、中空に聳えており、岩壁の腹には躑躅(つつじ)や楓が彩っている。

遥かに御荷鉾山の秀峰に対峙・向き合うようであり、足元を見れば水石の粼ゝ(りんりん)としているのを弄ぶかのようである。」と形容している。更にこの岩は平家維盛の子息六代御前が、弟の維基と共に小柏村に蟄居していた折に、ここに碑を建てた旧跡という。

そのとき建てた碑は、嘉永年間の山崩れの時に何処かへ流されてしまい、今は崖の中腹に石の階段のみが残っている。と記されている。

(* 一町は109mか。十五町として約1.6キロか。)

 

「多野藤岡地方誌・各説編」には小柏から1キロ余の所の断崖の景勝である。として平維盛の長子六代が弟・維基と共に小柏村に隠れ住み、その時ここに碑を建てた旧跡であると伝えている。その碑は嘉永年間(1850頃)の山崩れの時に流失したといい、岩の中腹に石段だけが残っている。

とある。

資料として購入した国土地理院発行の、二万五千分の一の地形図は何度も目を通していた。「上野吉井」と「万場」の2枚である。御前岩の痕跡らしきものを探してつぶさに見ていたところ、小柏村より上流の地点に墓石状の小さな記号を見つけた。この記号は昭文社の三万分の一の地図にはないものだ。記号一覧を参照するとこの記号は記念碑と書いてある。

 この記号の少し下流の所は両岸から崖が迫っているように等高線が密集している。両岸は急斜面で川幅が狭くなっているように見える。とすれば急流となっているのだろうか。「多野郡誌」の記述と一致する。

 これはてっきり御前岩の記念碑に違いないと思ったが、現地調査に行く機会がなかった。数ヶ月も経ってから漸く現地を訪れた。山へ入るのは、やはり木の葉の落ちて見通しの利く冬が良い。

 

小柏から上流へ向い注意深くそろりそろりと進み、やがてこの辺りかと思った地点を少し過ぎた辺りに石碑を見出す事が出来た。それは川に向って少し路肩の部分がせり出した安全地帯に設置されていた。

 これだなと思って近づくと、なんとそれには「県道昇格記念碑」と書いてあった。群馬県はこんな碑も建てるのですね。小柏から1.6キロはとっくに過ぎていたが、念の為に更に会場(村)の方へ向って行って見たが何もない。

紛らわしいと思いながら、もと来た道をゆっくり引き返した。右手に鮎川をじっくり眺めながら行くと、蒼い水を湛えたお釜があった。青と緑を混ぜ合わせたよぅな吸い込まれるような、手をつければ冷たくて千切れそうな色をしている。深さも3m以上ありそうだ。

この渕に見とれながら少し上流へ戻ると同じように深いお釜があった。対岸からは大岩が迫って渕を作っている。お釜の上は小さな滝状の流れを作って急流となっている。手前には雑木や弦状の木が生えておりよく見えない。覗き込みながら更に近づいて行くと、対岸は屹立した岩盤状になっている。

これがそれらしいと思いながら何枚か写真を撮った。高さはおよそ20mくらいか。水面近くは大岩が何枚か重なっているように見えるが、上部は断崖状で直角に近い角度でそそり立っている。御前岩なら中腹に石段が残ると聞くが、目を凝らして探してみても潅木や弦状の木が垂れ下がっている他、草なども付いていて判別は出来ない。

しかし小さな橋の反対側から、上流の方を覗くと流水域は2mほどに狭まって急流となっている。やはりこれは御前岩だ。

戻ろうかときびすを返した時ふと欄干の端に目が留まった。橋の名前のプレートが貼り付けてある。近寄ってみると「御前岩橋」としてあった。翌日、休日明けで開館した市立図書館に行って、住宅地図を検証したところ同橋は「御前岩橋」と記載してあった。 

                 

       鮎川の渕 

 

 

       午前岩 

 

 

 

               




藤岡市の旧美九里村は、古くから開けた村落でありさまざまな伝説が今に残っている。美九里の龍田寺の屋根裏から見つかったという、「神明縁起之覚え」にも文覚上人が信州善光寺への参詣の際に立ち寄った時の状況が記されている。

資料の文字は薄くなっており、詳細の意味は判然としないが、本郷・神明村の境に明神の社があり、頼朝公の時に建つたとされる社という。

地頭高山遠江守の時にこの周辺に困りごと(冰嵐)が発生し難渋していた。名僧と呼び声高い、文覚上人が中里弾正の家に宿を取っていた時に、高山殿が祈祷を依頼したという。

上人は弾正をお供に参宮し内宮、外宮、土主明神、瓶子明神、飯玉明神など十二社を建立したようである。

そして地頭が社領として十二社に百石を寄進した。同社は地頭が替わっても諸役免除となり、その証文が神明の宝物となっていたが、火災により焼失してしまったという。このため、右の通り先祖代々の申し伝える事を書き記し置くものなり。この時、天正十二年。

かろうじて判じられる部分は以上である。同文書は高山家系図と一緒にあったので同家所蔵の物であろう。

「多野藤岡地方史総説編」によれば、美九里村(藤岡市本郷)の葵八幡の近くに、「文覚上人の垢離(こり)の水」がある。直径が約91センチ,深さが約1.9メートルの井戸である。

旱魃の時に文覚上人がここで水垢離をとって、雨乞いをしたところ雨が降ったといわれている。上人が袈裟をかけた楓の木もあった、という。文覚上人は六代丸の助命嘆願をして、一時は六代の命を救った高僧である。元は北面の武士であったという。出家してからの荒行はつとに有名である。

藤岡の本郷から道を西に取れば、東平井・平井城を経て下日野から上日野に至る。

この地に文覚上人の足跡があるという事は、六代丸の伝承がある事と併せて考える必要があるかもしれない。

 

日野の地名は相当古くからあったものらしく、「群馬懸多野郡誌」によれば和訓栞、和漢三才圖會に「日野は上野の邑名なり」とあり、上野名跡考には「日野は多胡(郡)の南部なり。属邑十二、或いは火野なるべし。

上古防人と烽(とおひ・とふひ)とを置きて蝦夷に備えられしといへり」とある。

また日野大宮社天文十七年の棟札に「穎野」とあるが、火野は仮説であり、穎野は音を当てたものではないかとしている。

なお、同社後代の棟札は「日野」と記してあり、他の古書、旧記には皆「日野」とあるとのこと。よって関東平野の西部に始めて山脈の起こる所であり、御荷鉾山の峻峰より朝日を迎え、夕日を送るところから日野と呼ばれたのではあるまいかと推測している。

平井以西が日野谷(ひのやつ)であり、鮎川に沿って東西に十里あると言われ、西南部には西御荷鉾山(1300m)東御荷鉾山の秀峰がそびえている。所々に集落が出来るにつれ、日野郷と呼ばれた事もあった。

和名抄に見える多胡郡俘囚郷が上日野に当るとされる。天正年間に至り、上日野、下日野、金井となり、寛永年間に入りこれを三村として名主を置いた。そしてこの形は明治二十二年の町村施行まで続いたが、三村合併して日野村と改称した。

また古くは日野は鼠食郷(ねづはみ)、井池庄のなかとして記載されたものもあるが詳細は不明なりとしている。

井池は多胡にあり鼠食は日野にある。(同郡誌)鼠食の名は今は鼠食城(跡)として残っている他には見当たらないようである。あまり良い名前ではないため、他の名称に変わったものか。

「群馬県姓氏家系大辞典」(角川書店)に、次のような記事がある。

「小柏・おがしわ(藤岡市)日野谷から南の三波川谷にかけて、小柏姓があり、上日野字小柏が発祥地とされる。

平清盛の子小松内大臣重盛の子に維盛があり、重盛(ママ)が武蔵国司の時に、妾腹に生まれた維基は、のち鎌倉幕府を恐れて上野国小柏に隠れ、小松姓を小柏に変えて始祖になったという。(小柏氏系図)

子孫は鎌倉幕府執権北条氏に仕え、幕府滅亡後は山内上杉氏に属し平井城に出仕したという。

小柏高政の時、国峰城主小幡重貞と姻戚関係を結び、武田氏方として子息定重と共に長篠合戦で戦死。なお、定重は菊女伝説に登場する。後は弟定政が継ぎ、代々日野谷を支配した。」

 

維基 鹿島神社建立

 

小柏維基は上日野村鹿島に鹿島神社を建立している。現在、鹿島神社は別名を「日野お天狗」といい、またお天狗様とも上の天狗とも呼ばれている。同社の祭祀は、氏子や村民によって連綿と続けられ今に至っている。

夫婦和合の信仰もあるらしく、境内の端にそれと分る石碑が幾つかあり、男女抱擁の石碑「陰石」と呼ばれる物もある。

「多野藤岡地方誌・各節編」及び「群馬懸多野郡誌」によれば、同社は延享元年(1744年)に火災(祝融の災)により消失し、村民により再建されている。この際に(延享二年)奉納された棟札によれば、願人酒井與惣左衛門とあり、この人が発起人代表であったと見られる。

棟札に「当社は小松内大臣平重盛の末裔、小松平太郎維基が上野国小柏村に蟄居し、建久7年9月(1197年)に本姓を小柏と改称した際に創建した」とある。更に「所蔵していた甲冑・武具を奉納したところなり」との記載がある。「翌二年八月村民相計り、これを再建す」と続いている。

「藤岡市史・通史編」では、上野国神名帳には登載されていないが、鎌倉幕府の神社保護政策の時期と一致する事などから、社伝の通り中世には存在していたと思われる古社であるとしている。

鹿島神社は旧村社であり、(明治九年に上日野村社となった)諏訪社、八坂社、天神社、熊野社が合祀された。

 

慶応三年には神祗伯王家、駿河守藤原朝臣より正一位鹿島大神宮神璽及び副翰を下賜された。祭神は「武甕槌命」であり、宝物には鏡二面(径四寸・三寸三分)、古刀一振り(相州住友光作)、古槍一筋(天国藤原吉次作、穂先一尺二寸)、扁額二面(鹿與紅葉乃賦、寛延二年東都空門子覚胤撰と源義恭筆)春には太太神楽、秋には山車と獅子舞が行われているという。

「甘楽町史」にもほぼ同様の記事がある。祭神は武甕槌命であり、小松内大臣平重盛苗裔小松平太郎維基が、本姓を転じて小柏と改称の際を持って、創立し所蔵の甲冑戒具を納めたる所なり。としている。

「上野雑記」にある小幡伝説によると、天正18年(1590年)の小幡国峰城落城の折、城主上総介信貞の嫡男信秀が供も連れず一人で峰伝いに逃れてきて、疲労困憊の果てに鹿島神社を見つけ、これ幸いと本殿のうちに隠れ一夜を過ごしたという。

城を攻める寄せ手は大勢であり、果敢に戦ったが防ぎようがなくなったと家臣の浅香民部により、落ちて行くよう進言されたものという。

しばし時間を稼ぎ、信秀が自害したように見せかけ、城には火を放って後を追いかけて行くので、安全な秋畑の山伝いに落ち延びるようにとの言を入れての事だった。

同社で一夜を明かした信秀は、翌朝参拝に訪れた天引村向陽寺の和尚と顔を会わせる事となり、仔細を話しひとまず向陽寺において保護される事になった。

この向陽寺の和尚はその昔、武田の家臣であり、豪の者であったそうな。この時、信秀はまだ十代の若者であった。後に出仕の機会を得ている。 

 

 

鹿島神社  

 

   

 

                     

  鹿島神宮の石碑

 

鎌倉北条氏と小柏氏

 

 小柏維基は成人するまで、産衣のままで暮らしたと記載されている。(於襁褓之中為成人)おそらくは掻巻に帯一本締めただけの格好で通したという事であろうか。鎌倉殿を恐れて諸所を流浪し、上野国小柏村に至り遁世していた。

ここで小松の称号を小柏に転じたという。(小柏氏正系図)松の木が柏の木になっただけの改姓で、ありそうなことではある、柳にすれば小柳、杉にすれば小杉となり栗なら小栗である。

半分は元の本名を残しており、世を忍ぶ仮の姿であればよく用いられそうな変名スタイルといえる。井戸氏には同系統に熊井戸氏、古井戸氏、大井戸氏などがあり、小柴から分かれた姓に、文字を分解したと言われる小此木氏がある。

関連は不明だが小幡氏が居城としていた国峰城の近く、南側に小松という地名がある。系図には維基が小柏の始祖となり、子孫が連綿と相続しているとある。

維基の子維里は通称小柏太郎と名乗って小柏村に住んだ。維里の子時基は世襲制でもあったのか、やはり小柏太郎とされている。

 

1221年に後鳥羽上皇が、鎌倉幕府倒幕の軍を起こし承久の乱が勃発した。この後、六波羅探題が設置され朝廷は監視を受けるようになった。小柏時基の子維仲は市太郎を名乗り、北条陸奥守時村に従って鎌倉に住み、後1278年時村が六波羅探題に任じられ、京都六波羅入りした時に同行している。

維仲の子重胤は右衛門太郎と名乗り、六波羅探題となった北条左馬介基時につき従い京都に住んだ。

基時はこの後1315年に鎌倉将軍執権となった。小柏重胤の子時實は市次郎を名乗った他に事績の記録はない。時實の子實親は與市と名乗り、鎌倉で奉仕していたが、守邦親王の治世に執権、北条相模守高時(宗と号したと云う)の時、元弘三年(1333)に新田義貞に攻められ、鎌倉が陥落した時に討死している。弟の實季(小柏兵庫助)もこの時一緒に討死した。義貞が上野国から鎌倉へ侵入した時点で北条高時は自害して果てた。

同じ頃、高山越後守時重も同じく北条氏に属していて、武州関戸に新田義貞軍を迎え撃ち、粉骨砕身して働いたが同所で討死した。

高山(藤岡市)の高山氏は、南上州一の名族と言われた大氏族であり、小柏氏よりも古くから記録が現れ、「吾妻鏡」にも名前が記されている。その子孫は連綿と続き現在に至るも各方面で活躍されている

小柏氏は「ふるさと人ものがたり」に、維仲の時から北条氏に仕え、弘安元年(1278)時村の六波羅探題就任に従い、数年間京都大番役を勤めた、重胤も20年後に同じ役を果たしたとの記述がある。

 

上杉氏と小柏氏 鼠喰城

 

 上杉氏は藤原家の出であり、天皇家とも縁続きの日本史上の名族中の名族である。足利氏とも濃い縁戚であるが、ある意味では足利氏よりも上位にランクされる血統・家柄であった。

南北朝時代には足利尊氏によって、上杉憲房が上野守護に任じられた。憲房の子が憲顕でありいわゆる山内(鎌倉)上杉氏の祖となった。山内上杉は扇谷上杉、侘間上杉、犬懸上杉とは元々兄弟であるが後に相戦う事になる。

憲房が京都で戦死した後、憲顕は新田義貞が国司を勤めていた上野国に入り高崎南部の八幡の庄を与えられた。

この頃は南北朝の争乱が顕著であり、双方の勝敗もめまぐるしく入れ替わった。上杉憲顕は越後の守護も兼務となり上野支配は安定した。しかし尊氏は弟直義と対立し、直義方についた憲顕は武蔵野の合戦で敗北して越後に逃れた。

10年後、待望論が湧き起こり憲顕は再び上野に戻り関東管領に就任した。小柏實親の子重親は平太夫とあり、宮内少輔、従五位下とある。

鎌倉管領足利左馬頭基氏に属し、基氏の執政を勤めていた副将軍上杉民部大輔憲顕は鎌倉山内に住んだ。上杉憲顕に従い、小柏重親も近くに居を定め勤番していたが延文五年(1360年)に没した。

重親の子重家は小柏庄司を名乗り、上杉に仕え幾つもの手柄を立て頭角を現した。

重家の項には、歴代日野庄小柏村に住んだとあるので、本拠は小柏村に置いたまま鎌倉に勤番していたようだ。

小柏重家は第八代の関東管領上杉安房守憲方(右京亮)に従い、鎌倉に勤番していて数々の武功を挙げた。貞治6年十一月(1367年)には上日野小柏村に宝塔を建立している。応永年中に没して同所の嶽ノ本に葬られ、その墳墓は今もあると系図の添え書きにある。

嶽ノ本とは小柏屋敷跡の、西南の隅にある墓地のことであろう。この墓地には小柏氏歴代の石碑・供養塔などの石造物群があり、今も静かに木漏れ日のあたる木立の中に眠り続けている。

小柏屋敷に最後に住んでいた「逸」の墓碑もここにある。群馬懸多野郡誌によれば、この宝塔は九輪の塔であるとしている。その碑文を次に示す。

 

 謹募衆縁造立貞治第六丁未霜月日謹記  (1367年)

 

「藤岡市史・通史編」ではこれを小柏家墓地内、宝篋印塔と記している。宝篋印塔は、その内部に宝篋印塔陀羅尼経を納めて供養すれば、一切の罪業が消滅して寿命延長福徳無尽となるとの信仰により造立された物である。

もう一塔の碑文は

 

 逆修□阿庵 應永二十七巳年二月日  (1420年)

 

とある。どちらも一族の結束を強める目的で建立された結衆塔である。造立の趣旨は生前に死後の安楽を願うものであり逆修供養の物である。

 

重家は小柏館の下を流れる鮎川を渡った所、西御荷鉾山に鼠喰城を築造している。山崎一著になる「上野国古城塁跡の研究」などを見ると、尾根筋を利用した山城であったと思われるが、高低差を持ちかなりの規模を有しているようだ。

標高700mから950mに亘って四つの土塁・砦・本丸などに分れている。    

 「多野郡誌」に次のようにある。

 鼠喰城址 大字上日野村字御荷鉾山内にあり東西弐拾五間(45mか)南北四十

五間(81mか)ばかり、二段にして平坦なり貞治六年未年小柏荘司重家ここに築き住いすと上野鑑に見えたり。

 

鼠喰城(ねずはみじょう)はなんとも奇妙な名前・命名ではある。芋や食物でもない城がなぜ鼠喰みなのか。卑下・謙遜したとしても、築城した本人の名づけたものではなさそうである。

一説には鼠喰城に敵勢が押し寄せた時に、敵軍の野営陣地に白鼠が大挙して現われ弓の弦や刀の柄の糸を齧って切ってしまったという。

この為、さしもの大軍も戦闘能力を低下させてしまい散々に打ち負かされたという。(ふじおかふるさと伝説)

御荷鉾山の北面、標高九百mの所にあり、城(じょう)と呼ばれて南北六百mほどある。

南端は山頂に程近い。貞治六年(1367)小柏庄司重家が築いたものという。(群馬県古城塁址の研究下巻参照 多野藤岡地方誌・各説編)

 

     鼠喰城 図 

 

 明治8年頃の編集とみられる「上野国郡村誌」を見ると、上日野の項に古城嶽ノ城址、本村南釜伏山岳の中腹にあり、東西二十五間、南北四十五間、山を穿ち平坦に段になす。

 今に至り土を穿つ者、古城具・軍器等を得る。貞治6年未年当村平民小柏八郎治祖先小柏荘司重家築き、居住する事五年にして小柏へ転住すという。と記載されている。

 西御鉾山を釜伏山岳と呼ぶ事は、種々ある文献でも一顧だにしないものである。かつ鼠喰城を嶽ノ城と呼ぶ事も同様であるが、その城の規模からいってこの記事の城は間違いなく鼠喰城の事を指している。

 更に重家が同城に5年居住していてその後、小柏(村)に転住したという記事も初見のものであり、ちょっと奇異な感じも受けるが参考までに揚げておく。

 

小柏重家の跡を継いだ重徳は六郎を名乗り、鎌倉将軍足利基氏の第11代関東管領上杉安房守憲定に仕えた。この時代、小柏氏正系図では当初南朝の元号を使い後に北朝の年号を使用している。

1392年には南北朝間での和議が整い、朝廷は合議により統一された。上杉氏の守護国は上野、武蔵、伊豆、上総、下野の五カ国になり関東管領として支配を確立していた。

山内上杉は憲顕のあと五人が関東管領の職を勤めた。憲定の子、憲基の時に、上杉氏憲(禅秀)の乱が起こり、憲基は一時越後に逃れたが、寺尾、小幡、小柏(高家)、白倉氏を従え犬懸上杉(禅秀党)を打ち破った。上杉憲基は従兄弟の憲実を養子として、憲実は第14代の関東管領となった。

関東管領・平井城の落日

 

小柏重徳の後継者高家は平太郎であるが後に庄司と改名した。関東管領上杉安房守憲基およびその従兄弟憲実(後に養子となった)に属した。永享10年(1438)に後にいうところの永享の乱が起こり、この際に高家は軍功を挙げた。

これより先、憲実は養父が死亡した為に、僅か9歳で(1419)上野・伊賀2カ国の守護となり、関東管領に就任した。関東10カ国を支配する鎌倉公方の補佐となったのである。

この時代足利幕府将軍と、関東を治めていた公方とはその権力の範囲をめぐって時々対立していた。また公方と管領との間にも時によって微妙な対立があった。幕府の将軍人事に、不満を持っていた公方の足利持氏に諫言していた憲実は持氏に憎まれ、一時上野国平井城に戻った。

しかし持氏が兵を差し向けた為、これを迎えうつべく憲実は上野国、越後勢を率いて武蔵国に進出した。分倍河原において合戦となったが、持氏側の鎌倉の氏族の多くが憲実側につき、持氏は捕らえられた後、永享11年永安寺にて自害させられた。

憲実は自分の主君であるとして、幕府に命乞いをしたが入れられなかった。これにより、憲実は関東管領の職を辞任し剃髪して出家した。憲実は「賢人才知勇の人」と評価されていたという。

この後、憲実は多くの貴重な書籍を寄付して足利学校を再興している。出家していた憲実は、持氏の子供たちが兵を挙げた時には、一時俗界に戻り采配を振るって鎮圧した。その後は引退し諸国を巡歴した後、山口県長門市の大寧寺に住み1466年に没した。(ふるさと人ものがたり)

 

小柏高家の後継者重行は平治左衛門尉である。父の高家と共に上杉安房守憲実に属した。

重行を継いだ顕重は小柏宮内少輔で法名浄山である。当時関東管領の職にあり、上野国平井城に住いしていた上杉民部大輔顕定・兵部少輔房顕(前管領)に仕えた。

平井城に出仕している時に、上杉顕定から顕の一字を賜りこれにより顕重と名乗った。

この事は小柏氏が代々忠臣として仕えた結果だとの記載が小柏系図にある。しかし、小柏顕重は永正元年(1504年)武州立河原の合戦に出陣し討死してしまった。この頃、小柏家が属していた山内上杉と扇谷上杉との抗争が激しさを増していた。山内の上杉顕定、養子憲房は合戦下手だったのか、武蔵国須賀谷で敗れ(両上杉氏の戦死者七百余)、同国高見原で敗れ、相模国菅生原でまたおくれをとった。

翌年には相模真巻原での合戦にも敗れ、続く同国須賀谷原の合戦では漸く勝利を手にした。

その後、相模国菅生原での合戦にはまた敗れてしまった。10年後の9月23日、上杉顕定は立河原において、扇谷上杉、駿河今川、北条長連合軍との合戦に望み敗れた。小柏顕重はこの戦の時に戦死したものと思われる。9月27日、同所で再び対陣した両軍は今度は扇谷上杉朝良軍側が負けて朝良は川越に退いた。顕定は川越城を包囲して長期戦になったが、翌年には和睦がなり顕定は平井城に帰還した。

 

関東管領は古くは、足利尊氏が二代ほど勤めた事もあったが、代々上杉家が任じられていた。その殆どが山内(鎌倉山内)上杉であった。

犬懸上杉からは朝房・朝宗・氏憲が飛び飛びに任じられた他は、山内上杉が31人の内18人を輩出している。詫間上杉からは2人が任じられている。1363年より1578年まで実に214年にわたり、上杉家だけで連綿と関東管領の職を奉じているのである。

小柏顕重の後継となった顕高は小柏駿河守であり、後に剃髪して浄印入道と号した。父が戦死した後も上杉顕定・上杉兵庫頭憲房に仕えて、顕定から顕の一字を使うことを許されて顕高と改名した。毎日、関東管領居城の平井城に出仕した。後、上杉兵部少輔憲寛に仕えた。

顕高の後継者は高道である。又の名を小柏大學といい法名は道徹である。管領の上杉兵部少輔憲政に属し、幾度もの軍功を挙げた。天文14年(1545年)川越合戦の時にも戦功を挙げた。

高道の代においても合戦が多く繰り広げられた。第21代の関東管領の憲寛は憲政に家督を譲り、憲政は第22代の関東管領となった。この頃、北条氏(後北条)が急速にその版図を拡大していた。

北条氏綱は川越城を攻略し、松山城をも落として上野国に迫る勢いを見せていた。憲政は川越城を奪回すべく扇谷上杉と手を結び、天文14年(1545)川越城を包囲した。

 

北条氏康は川越城を救援すべく入間川で憲政軍を破り、憲政は平井城に退いた。この時の合戦において小柏高道は戦功を挙げている。その後、北条氏康・氏政親子に攻められ、平井城は落城の憂き目にあい憲政は越後へ落ち延びた。この平井城攻めでは氏康は大金を投じて、忍びの者を使い上杉方の家老や武将を抱きこみ城下をも攪乱せしめたという。

憲政は越後へ落ちて行く時に清水峠を越えるため、暫く水上町付近に滞留した為、現地には多くの憲政の伝承が残っている。(ふるさと人ものがたり)

後、憲政は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に管領職を譲り後を託した。こうして上野国は武田氏、北条氏、上杉謙信の三つ巴となった抗争の時代に突入していく。この頃の有力武将と在地武士集団の関係は、完全な主従関係ではなく緩やかな同盟ともいえるものであった。それゆえ、その時々の力関係、情勢によって離合集散が繰り返された。

上杉憲政が越後に落ちて行った後、小柏高道は小幡尾張守重定に招請を受けたが応じなかった。やがて重定の姪を息子の高政が娶ることになり、これにより小幡重定と和睦した。

「ふるさと人ものがたり」によれば、上杉氏の平井落城後、主を失った小柏高道を国峰城主小幡重貞が招いた。しかし小田原の北条氏に内通して憲政から離反、その先駆けとなって上杉氏を没落させた重貞を許せず応じなかった。

小幡氏と後に和睦し小幡家に内紛が起こった時には、孫の命を救いこれを援助して小幡本家存続のために働いたとしている。

 

高道には高景という弟があり、その幼名を小柏小次郎といった。高景は管領の上杉憲政に属し、兄と供に平井城に出仕していた。高景の力量は群を抜いていたとされる。豪胆で且つ大力があったらしく、後に駿河守を名乗った時には鬼駿河と人をして言わしめた。



 

               平井城 土塁

 

               上杉一族の碑

 

高景の子は景氏であり幼名を小柏新吾という。景氏もまた大柄の体躯をもち、その力は父の高景に劣らないものだった。そのため、叔父の高道にも一目置かれ、本家の後見役として重きを成した。

西城州の諸士は上杉憲政が越後に退いた後、一時は長尾景虎に従ったがすぐに進出してきた武田信玄に従った。

景氏の弟は高治でありその幼名を小柏新助といった。高治は、上日野の細谷戸の地守に任じられていたが、やがて武田信玄より信州佐久郡田ノ口村の、代官を命じられ赴任して行った。今にその子孫が田ノ口相木村に残っているとされる。

 小柏景氏の子は高元であり、若年の頃は宮内介を名乗っていた。母は本家当主の高道の娘である。

高元の子は高久・小柏加兵衛であるが、その実は養子であったらしく、大塚村の何某の男と記されている。高久の後継者は光氏・小柏作重郎であるが、やはり小柏弥五兵衛の嫡男を養子にしたのである。

 光氏の子は高次・小柏武兵衛であるが、実は堀口氏の次男を養子に迎えたものであった。武兵衛は後に一無という号を名乗った。(養母の弟なりとも言うが詳細は不明である。)高次の子は高連・小柏浅次郎であり後に武兵衛と名を改めた。

 (以上は小柏氏の傍系である。)

 

 小柏高道の長女は従兄弟の小柏新吾景氏の妻となった。法名を貞範尼という。この女子も男子に負けず、力持ちと評判をとった。その委細は別に記録があるとされている。高道の次女は、上日野小柏の奥隣の奈良山の後藤新太郎基道の妻となった。後藤家は古くから、奈良山に住みついていた有力武家である。

基道の子、道兼は姓を改め小柏新左衛門となり、以後小柏本家を脇から支える重責を担った。新左衛門は後に、「奈良山竜源寺」の開基となり、小柏氏の祖、平維盛の墓を建立して供養している。

母方の先祖をたどっていき、供養したのである。

「宝積寺史」に次のようにある。 

 

上日野奈良山「奈良山竜源寺」、創建不詳、本尊不詳、開山芳谷永磨、開基小柏新左衛門道兼。沿革、奈良山の領主、小柏新左衛門道兼は小柏氏の祖、維盛(平)の墓所を建立し、宝積寺12世芳谷永磨を請じて開山とする。

 同地の春日神社には、奈良山小柏氏の始祖、後藤大和守基明を祀る。後藤氏は基道の代に小柏氏と改称したという。現在は廃寺であるが、跡地には歴代住職の墓石三基がある。

寺地の上の方に、小柏氏の屋敷跡および墓地が残っている。この他、宝積寺の小幡氏の墓地の隣に歴代先祖の墓地がある。27世万仭道坦は進山披露のため、宝暦八年(1758)一月二十三日に当寺を訪問した。

その記録に「奈良山に赴く、殊の外難所なり、竜源寺にて喫茶、次に新左衛門にて吸い物、終りて麺子を出す、次に安五郎方にて吸い物、新左衛門より僕三人にて荷物を送る。薄暮れに本山に帰着す」

 

とある。宝暦六年の進山記録には、

 

二十四日 石原の利済寺方丈尊来入院祝賀なり、他門故に応対入念を入る。蕎麦切を出す。同日小柏八郎左衛門子息を名代に〆入院の祝賀を勤む、旧例は五百文三本入なり、今度は三百文三本入なり□□なり。

 二十八日 小幡屋敷より熊井戸園右衛門を使者と〆去する比口屋敷にて出頭の検察あり、副寺チンキンの間にて応待す。

 

とある。この八郎左衛門は小柏祝重と思われる。名代としたのは長男の重簡であったのだろうか。また別の進山記録では当時の宝積寺の住職が養命寺に来て、小柏八郎宅へ泊まったとの記述もある。

 

 七村城

 上日野御荷鉾の名無村にその城跡がある。鮎川の水源に近い峰にあって、東端の郭(春日神社がある)から山頂の本丸まで二百七十m。小田原の北条氏の家臣後藤基明が同氏滅亡後、十余名を従えて来住して築いたと伝えている。

基明は後、奈良山に移って小柏と称した(奈良山小柏家)その跡を後藤屋敷と呼び、基明の墓がある。(多野藤岡地方誌・各説編)

「多野郡誌」には本村住民小柏喜伊三郎の祖先後藤基明、北条氏康の家臣たりし時、同家落魄以後この地に来たとある。全然酋長の如く何れへも納租せず耕作をして生活をなし、その後間もなく同地に移住し、その姓を小柏と改め今なお古墳があるとしている。

 

山内上杉氏が関東管領の職を代々勤めていた時代は,平井城下町が最も繁栄を極めた時代である。京都が打ち続く戦乱により荒廃していた為に、多くの人が地方へ流れそれに従って文化も分散したという。

上杉顕定は連歌でも名を成して、戦乱の中にも歌会を開いたりした。関東管領のお膝元は比較的平和との事で人と物資が集まった。このため、東平井一帯の城下町は一時は鎌倉にも劣らないとまで言われる繁栄を見せた。

「甲陽軍艦」に平井城には相模、武蔵、下総、安房、常陸、上野、信濃、越後、佐渡、出羽、陸奥、飛騨の国の諸侍が勤務していたとある。「上野伝説雑記」には十五カ国とある。これならば正に鎌倉を凌ぐものがある。

京都からも白拍子が多く下ってきて賑やかに栄え、武士たちは軟弱になって武を忘れた為に滅びてしまったとの記述がある。(多野藤岡地方史・総説編)

 

 

豪族 高山氏

 

西上野きっての名族、高山氏は古くから記録に現れ「吾妻鏡」「源平盛衰記」にも名前が現れる。上杉家の筆頭家老であったとの説もあり、戦国時代には既に高名の存在となっていたと思われる。

桓武平氏の系統の秩父重綱の三男重遠が、秩父郡高山村(飯能市)で高山氏を名乗り祖となったとされる。重遠は後に緑野郡山高郷(金井、高山)に移り、その一帯は高山の庄・御厨と呼ばれた。

重遠の子重久は木曾義仲軍に加わり、信濃横田河原での平氏との合戦(1181)に参陣しその後、源頼朝に属し奥州藤原攻め(1189)にも参加している。重久の子重治は、和田義盛と執権・北条泰時が対立した和田合戦において討死した。南北朝時代には高山時重が、新田義貞を武州関戸において迎えうちこの時に討死している。時重の子重栄・遠江守は義貞に従い、義貞没落後は足利尊氏方に転じた。その武功は「太平記」にも記されている。

高山重栄の孫の重康・重直兄弟は、足利義満軍に加わって山名氏の乱の時に共に討死した。重康の子頼重は、上野国の旧領を回復し上杉氏に属し同氏との絆を深めた。重秀・重友父子は結城合戦(1440)の時に反幕府軍と戦った。

 

 顕定(山内上杉)に属していた重友の子、高山盛重は、扇谷上杉氏との武州菅谷原(嵐山町)で行なわれた合戦(1486)で討死した。憲重・重員兄弟も顕定と共に越後六日町長森原の戦いで、敵長尾為景との合戦において討死した。

 平井城落城後は行重・定重兄弟は武田信玄に属した。武田氏滅亡後は織田信長や北条氏に属していたが、江戸時代に入りその子孫は帰農したものとみられるという。

 江戸中期に重寛は金井の稲荷神社の別当に千体地蔵を寄進した。(ふるさと人ものがたり藤岡)

 高山憲重・重員兄弟の討死については、「長森原古戦場史上杉顕定公」にやや詳しい記述がある。同紙によれば憲重は日野金井東城主で遠江守、弟の重員は甚二郎で平井城主、上杉顕定公の側近(重臣)として永正六年(1509)上州兵八千名と共に越後に進撃した。越後国の三分の二を制するも翌年六月、長森原(南魚沼郡下原新田)の戦いに於いて顕定公と共に討死を遂げる。

 顕定公の墓は立派な多宝塔で管領塚に祀られ、討死した家臣の憲重や重員ほか三百余名の墓は管領塚近くの寺西珠院門前に祀られている。後、憲重の養嗣子重純は顕定公の四女を嫁に迎えたという。

 尚、同史の別項によると長森原で対陣した人数は、顕定軍八百余騎、為景軍五百余騎であり、最初は顕定軍が優勢であったが、横合いから高梨勢七百余騎が突撃して来た為、顕定軍の敗走が始まったと言う。(鎌倉九代後記、鎌倉管領九代記、関東管領記)

 幕末の頃に生まれ、明治時代に養蚕事業に多大の貢献をしたのが高山長五郎である。

 

長五郎は養蚕事業の改良・研究に取り組み、日野村の父の隠居所で飼育した蚕が豊作だった事にヒントを得て、天候に左右されない養蚕の方法を造り出した。後に「養蚕改良高山社」を設立し養蚕を指導した。また新道開設に私財を投じたり、貯蓄の奨励など農村振興にも貢献した。(ふるさと人ものがたり)

 現在、高山氏の主な子孫・旧家は三家(金井・東平井・高山)あり、その何れもが系図・古文書・領地を所有しており何れが嫡流か本家か判然としないという。系図上では金井東家が嫡流で、満重が拠った山城跡を所有していて、栗須・神田の神明宮の祭祀を営んでいた。

 高山にある南家は高山氏が在城した金山西城近くに邸があり、古文書を最も多く所有している。高山重遠が始めて住んだ清水山城や高山氏の菩提寺の興禅院も高山にある。

 平井家は満重が建立したという満重山高源寺が近くにあり、満重の子定重は法号を

 高源寺殿という他、高山氏の住んだ城跡も同寺の所有地になっていた。(多野藤岡地方誌・各節編)

 

 高山氏と小柏氏の関わりの詳細は明らかになっていない。高山氏は頼朝に属し、後上杉に属し更に武田信玄に属し、その後織田、北条にも属した。この流れは小柏氏の航跡と殆ど一致している。この為、同じ合戦に参加したり行動を共にしたりする事もあったと思われる。

 小柏氏系図には所々に主な事跡が記載されているが、高山氏に言及した箇所はない。また高山吉重文書の高山氏の二つの系図を精査しても、小柏氏に言及している部分は見られない。高山家は小柏家の主家筋に当ると言った人がいるが、それは的を得ていないようだ。

小柏氏が、高山氏の指示で行動した形跡が全く見られないのである。また日野七騎の小柴氏・小此木氏と小柏氏は縁戚関係を結んでいるが、高山氏とは縁戚関係になかった。高山氏は小幡氏とは縁戚関係を結んでいる。

この点は小柏氏も同様である。近代に至り八郎治の妹才の長女が、高山村の高山武十郎の後添えとなっておりこの時点では縁戚関係が生じている。更に才の二女さとは金井村の高山菊次郎に嫁いでいる。

小柴氏と小此木氏は同祖で平氏の落人とも、源氏だったが平氏と婚姻を結んで一門と同格の待遇を得ていた、ともいわれる。源平の大乱により御荷鉾山山麓に隠れ住んだという。「小此木」は鎌倉の追及を受けて「小柴」の柴の字を分解したという。小此木氏は長篠の合戦に出陣して戦死したと云われている。(藤岡市史通史編)

 

 はっきりしている事は後代の高山長五郎(近世の世襲名か)が、昭和10年に小柏家にて小柏系図を筆写した事、上日野小柏家墓地の前に立っている小柏家の家系図・同由来の板碑に高山長五郎が文章を書いている事だけである。

  

 

 

 

   高山氏系図  

 

    

豪傑 小柏 高政

 

 血糊の宮

 

小柏高道の三女は早世であったが、後に長男の高政が生まれている。小柏氏800年のうちでも、もっとも勇名を馳せたのがこの高政である。高政は当初小柏左馬介を名乗り後に六郎右衛門と改めた。

高政は父と共に上杉憲政に属していた。天文二十年(1551年)に北条氏康・氏政父子の攻略により、上杉氏の居城平井城が落城し憲政は越後に敗走した。この後、西方から勢力を拡張してきたのが武田信玄である。

西上野国の諸氏は誓詞を差し出すなどして、ことごとく武田信玄に属すことになった。永禄十年(1567年)武田信玄に捧げた起請文(誓約書)の中に、小幡親類中として小柏左馬助高政の名前がある。

高政も小幡氏と共に武田家に仕える事となり、後に信州佐久郡田ノ口(現在の臼田町か)を俸地として賜った。そして伝来の揚羽蝶の家紋・幕紋を定丸ノ内釘貫紋に変更した。一部では丸に三つ柏の家紋も残し平行して使われたようだ。

その他の事績・詳細一切は別に記録をとってあるという。(小柏氏正系図)系図には簡単な紹介しか書けないので、別に記録した文書があるとの趣旨である。或いは逆にこの古記録から系図が組み立てられたものかもしれない。

この記録は今のところ探索・閲覧するまでには至っていない。本家子孫の方に聞くしかないが….。ぜひ見たいものである。

 

 上日野小柏()の南側に流れる清流鮎川を渡り、左に行くと西荷鉾山の山麓、奥ノ反から流れ落ちてくる小川がある。この小川を渡って行くと、すぐ右側に野宮神社(或いは野々宮神社ともいう)がある。

この道は、ここからは緩い登り坂の林道となる。「藤岡市史」によれば、高政はこの神社の二キロメートルほどの上流で敵勢のうち十人を斬ったという。このため川が血の流れとなり数日間、赤い川となったという。このため、血の宮神社、野宮神社と呼ばれるようになったという。

明治12年調査の神社明細帳によれば、無格社、野々宮神社、由緒は不詳、相殿7座は明治1012月合祭、祭神は鹿屋野比売神、宇迦之御魂、大山津見神、火産霊神、建御名方神、大物主神、須佐之男命、菅原道真であり、末社は御鉾社(大和建命)、八幡社(品陀和気命)、琴平宮(金山毘古命)であるという。

                       

このうち、御鉾社は小柏屋敷内にあった御鉾神社のことであろう。祭神も同じである。

 「群馬懸多野郡誌」によれば、小柏(村)をさかのぼること約2.2キロメートル(約二十町)の渓谷に千ヶ滝という滝がある。投石通りの左側に高さ約9m(三丈許り)の二段の岩盤の滝がある。永禄年間(1558~1570年)に武田信玄に属していた高政が、小田原北条の軍勢をこの地に迎え撃ち、敵千人をこの滝に斬り落とした遺跡と伝えている。

 この為、千ヶ滝と名付けられた。この時に七日七夜にわたって、血の川となりこの下流、鮎川と合流する所にある社が、血(のり)の宮(野宮神社)と呼ばれるようになった。という。

この神社、今は野々宮神社と呼ばれる事のほうが多いようだ。この千人という数字はあまりにも多く、当初これを読んだ時には、伝承されるうちに誇張された数字が出来上がったものと考えた。

しかし、かなり経ったある時、ふと思いついた。野宮神社の上流には重家(庄司)が築城した鼠喰城があるではないかと城攻めとなれば、千や千五百の軍勢を揃えて当ってきても少しも不思議ではない。

この二十町ほど遡るというくだりを、私はてっきり鮎川のことだと決め付けていたのだった。

 

          上方は大谷川  右方は鮎川

     

 

よく読めば「渓谷」とある、鮎川は渓谷というほど深い谷になってはいない。したがってこの渓谷は、鮎川の支流で野宮神社の西側を流れ、神社に沿って北側へ廻り、そのすぐ下で鮎川に合流している現在の大谷川の事であろう。

この川は、小さい清流であり草木などにより、川幅は判然としないが、およそ3mほどであろうか、水流のある部分は幅が約1.5mほどか。鮎川沿いであれば合戦の記録や、戦場となった形跡・影も感じられなかったので、ただの伝説ではと思っていたのだった。

しかし最近になって、何の根拠もないが、私は近在の歴史に詳しい好事家から、鼠喰城で合戦があった、というような趣旨の話を聞いたのだ。

長く関東経営の中心をなしている平井城を攻め、さらにその足を少し伸ばせば小柏(村)に至る。

ここは山中領や下仁田を通って、信州に抜ける要衛の地でもある、鎌倉街道(古道)もこの地を貫いて通っている。(今でも古老の話によく出てくる。)

鼠喰城は西御荷鉾山の北麓にある山城であり、かなり高低差がある細長い城である。

これを鮎川を渡って下から攻めたなら、上から大石や大木、水や油を落としたり、長槍などで突けば将棋倒しに、数百人は渓谷に向けて落ちて行くだろう。

平井方面から攻め上ってきたなら当然、下から上の城に向かって攻めるこのコースになる。

楠正成も要害の金剛山に籠り、この戦法で十倍以上の軍勢を迎えうち、半年以上に亘って落城を許さず死守したのだった。

 さすれば城主高政が指揮して何波にも亘り、攻め登る敵を繰り返し谷に突き落としたのではあるまいか。鼠喰城は標高900mの位置にある。

鼠喰城はいま杉や奈良の木立に覆われているが、当時は登山道などが整備されていて、砦としての用途の他に、鮎川沿いの街道などに対処する役目や山の管理などの目的をもって築かれたものであろう。

したがって小柏館(城)と別に、対岸の山に築城の運びとなったのではあるまいか。同城の守城軍が、渓谷に突き落とした敵勢を数百人と解釈しても、高政が直接手を下して斬ったのが、十人であったとすればこの伝承も無理ではなくなるように思う。

或いは撃退した敵勢の人数が千人であったのであろうか。この後、「多野郡誌」に次の記事を見い出した。

 

千ヶ瀧 御荷鉾山鼠食城ノ直下ニ位シ高二丈幅五尺許往昔小柏某ナル者武田家ノ臣タリシ時北条氏康ノ軍勢トコヽニ戦ヒ鼠食城ヨリ敵兵千人ヲコノ瀧ニ切落シタルニヨリ千ヶ瀧ノ名ヲ得タリトイフ

 

鼠喰城には、西御荷鉾山頂上の不動明王を本社とする不動明王の社が祀られている。

「奥ノ反」の奥にある鼠喰城の登り口には、不動明王の大鳥居が鎮座しておりその足元には立派な御影石の碑が設置されて、今なお地元の人たちの手によって大切に鎮護されている。

その碑文には、御荷鉾山不動明王は古代より小柏城城主小柏八郎ほか地域住民の願望により開山され今日に至る。昭和7年八月落雷によりご本尊が焼失されたが、住民有志により昭和八年十月復興された。

その後、荒廃が激しく地域有志一同の発願により参道・鳥居・境内地の修復・美化を遂行する。

とある。この碑は平成三年に設置された物である。

 

      

         鼠喰城登山口 不動明王の大鳥居   

      

          不動明王の大鳥居下 石碑

 

      

 

 野々宮神社          

 

      

          野々宮神社境内奥の橋 (大谷川)

 

「多野郡誌」を引き継いだであろう「多野藤岡地方誌・各説編」は、野宮社は上日野小柏にあって、祭神は日本武尊。永禄年中(1558~70)の事、当社から半里ほどの谷合で、小柏左馬助高政が十人の敵を斬ったという。

そのため社前の沢の流れが七日七夜血に染まったので、血(のり)の宮といったのが野宮になったと伝えている。祭神を鹿屋野比売命ともいう。槻三本野宮にあり。一本は目通り一丈九尺六寸廻り、一本は一丈九尺廻り、一本は一丈ニ尺廻り。杉十六本。(慶長三年御用木帳)明治初年の修築の時、鏡二面、刀一口、土器などが発掘されたという。社地は古墳であろう。  としている。

 

地方史に十人斬りは永禄年間とあるが、更に資料をつぶさに検証したところ、多野藤岡地方誌の付記に、北条五代記に天文二十年三月十日小田原より三万余騎にて上州平井へ寄る。とある記述を見つけた。

これによれば平井よりも途中へ出て防戦、上杉方敗れ憲政厩橋へ遁れる。平井城は悉く焼払云々。としている。

憲政は途中まで軍勢を出して北条方を迎えうったがひどく敗れた為、平井城を放棄して戻らずそのまま前橋へ落ち延びた事が分る。

平井城を落とした余勢を駈って周辺の鼠喰城にも押し寄せたのであろう。小柏系図にも「天文二十辛亥年氏康・氏政父子の為に平井城落城、憲政敗走」との記載がありこれを裏付ける。

 「豆相記」にも「天文二十年辛亥年十月北条氏康・氏政父子囲山内上杉憲政居上州平井城攻敗。 中略 山内憲政出奔北越矣。」

 とある。

 

また「箕輪軍記」に憲政愚将にて長野業政の諌を不用 中略  上原兵庫之助が巧言に迷、非業の政道多かりしかば諸士背民恨て終に北条氏康に国を被奪、天文二十年平井を落城後に走云々。とあり、他の諸武士団と共に高政も憲政に愛想をつかしたのかもしれない。

 勇猛で鳴らした高政にとっては、長年本拠地とした城をほっぽり出して一気に遠い前橋まで逃亡する事など考えられなかったのかもしれない。

 

小幡氏系図が「鷲翎山宝積寺史」に収載されている。

 

 第十三代小幡顕高   十四代憲重   十五代信真

              女子(小柏高政室)

              女子(白倉道左室)

                      (国峰小幡氏に集う会作成系図)

 

 となっている。これを信じるとすれば高政の妻は、憲重(重貞)の妹となる。よって高政は重貞の義弟という事になってしまうが….

 他の文献は重貞の姪を妻とした事になっている。

 

 小幡龍蟄の著した「上毛菊婦傳」の末尾に、小柏高政について次の記述がある。

 

  覚性浄林居士 小柏左馬介高政

  光岩智明大姉 同人妻 小幡尾張守重貞姪女

 

 こちらは小柏系図と同じ重貞の姪である。

小柏系図にある小幡重貞は誰なのか?憲重か?他の小幡家系図を見ると

 

旧領弁録の小幡系図

 

       顕高        重定        信真

     (播磨守)  (尾張守憲重・新龍斎)  (尾張守信貞 上総介)

 

 

上野人物誌の系図

                  妻長野娘

       顕高          憲重        信貞

     (一に重定)    尾張守泉龍斎 憲景 信定    上総介、尾張守

 

  更に「甘楽町史」によりやや詳しくみていく。

 

 小幡正系譜

 

        顕高      重定       信真  (旧領弁録と同じ)

 

 安中市野殿 木村氏所蔵系譜(信秀 江戸小幡氏の子孫)

 

        顕高      憲重     信真

 

 上野伝説雑記    

    新龍斎    妻長野妹

        実高      重定     信真           

 

 吉井町史

      実高       重定         信定     

            顕高 憲景 泉龍斎      信貞 忠甫斎

                          弾正忠信長

 

 一宮神主志摩所持系図

                重定(尾張守後上総介 信真 新龍斎)

                信氏

                昌高

 

 寛政重修諸家譜

          顕高     憲重      信真

        播磨守法名宗顕  尾張守法名新龍    上総介

 

 以上の小幡氏系図の中で最も信頼出来るのは、最後に記載した寛政重修諸家譜であるという。重貞はやはり憲重であり、少し混同が見られるが時に信定、信真、顕高、憲景、新()龍斎を名乗ったようだ。

 起請文などでは信真を、同じ「のぶざね」読みの信実と記載している。

                                                                                                                              

 小柏氏系図では高政の室は重定の姪であるので、寛政重修諸家譜、旧領弁録と同じである。やはり高政の妻は小幡憲重の妹ではなく姪である。

甘楽町史の「小幡氏関係の社寺ならびに縁故者の一部」によれば、小柏高政の妻は小幡信貞の姪であり、高政は小幡定政(源助)と同一人であるとしている。

出典は不明であるが、小柏正系図とは不一致であり高政とその子の定政を混同している。

尚、小柏正系図では定政は高政の二男であり、左馬助後源重郎であり、源助と名乗った記録はない。ただ宝積寺の位牌名の写しには定政初号源助とあり、一時名乗っていた可能性もある。

後述する菅原神社寄進の、鰐口記載の名前の順も新龍斎、信真、高政の順であり、旧領弁録と一致する。

 小幡龍蟄によれば、泉龍斎は新龍斎の誤りであろうとしている。さもあろう。ただ高政が、信真と近しく行動を共にしている形跡が見られる事から、その妻は憲重の妹であった可能性も残されている。

 妹であれば信真にとって高政は義理の叔父に当り、高政から見ると甥という近い縁者になる。

 

西上州の白倉氏

                                                                                                                                        

 永禄三年1560年)長尾景虎(後の上杉謙信)が、関東に出陣した時に従った諸将の陣幕を調べた「関東幕注文」に、下野国足利衆として小幡次郎の次に小幡道左の名前があるが、白倉道左と同じ人物で白倉氏であろう。

 「上野人物志」に白倉氏に関しての記述が見える。これによれば、白倉道佐の碑として、城(白倉城であろう)の西南、一丁ばかりの所にありて、野石を刻み、碑面に「捐官白倉院殿天漢道佐大居士神儀」とあり、さらに「天正八壬戌暦林鐘三日」と刻まれているという。

 白倉氏については、「上野人物志」に「白倉五佐衛門」という項があり、次のような説明が記されている。甘楽郡白倉村の人なり、西上州四家の一つにして、山内上杉氏四宿家老の一人なり、碓氷峠の戦いに武田の勇将、板垣信形の馬を射て勇名を顕わす。後、北条氏に属して、天正十八年白倉掃部之助、小田原に入城し(後、落城)白倉氏滅ぶ。(関東古戦録)

 別説では、白倉周防守、白倉左衛門佐、白倉左馬助などという(名乗った)。白倉氏、鎌倉(時代)以後、代々ここに住む。永禄六年、武田信玄が侵略してきた時は、上杉氏の武将、白倉左衛門慰宗任、五十騎を率いて降参を申し出た。以後、白倉源左衛門慰、上杉氏の兵を導いて天引城を攻めたが勝てなかった。

と記述している。

戦国時代の武将は、仕える大名が変わると自分の名前を変えたりしたので、後世、少し混乱するところである。源左衛門慰を別にして、いずれも白倉氏を代表する人物、白倉道左のことであろうか。

 「甘楽町史」の白倉城の項目に、白倉氏について触れている所がある。それによれば、白倉城は仁井屋城と麻場城の二城からなる。白倉氏は小幡氏と並んで上州八家の一つであったという。関東管領の山内(鎌倉)上杉氏の重鎮で、小幡・白倉・安中・倉賀野・桐生・由良・山上・沼田氏がそれである。白倉氏は四宿家老(長尾・大石・小幡・白倉)にも名を連ねていた。

 小田原の役の時には、掃部助重家が小田原に籠城し、居城は弟の重高が守っていたが、北国勢により落城しその後廃城となったという。

 

 織田家と宝積寺の確執

 

「甘楽町史」に収載の幡氏旧領弁録(小幡龍蟄著述)によると、富岡市妙義町の菅原神社に、小幡氏一族が奉納した鰐口に、一族の名前が彫りこまれている。その中に小柏高政の名前もある。

小幡新竜斎全賢(重定、尾張守憲重)の次に子息の信真(のぶざね)の名前があり、その次に高政の名前がある事から、かなり重く用いられていたものと推定できる。高政の次には信直の名前がある。

史家によると関東幕注文にある、この小幡次郎が鰐口に記載された高政であろうとしているが、宝積寺の史料なども参酌して考えると、どうもそのようには思えない。この鰐口に記載されている地名は、上野州高田庄菅原郷(妙義町菅原)とあり、現在の妙義町高田の包含地であったようだ。

続いて「大神宮御神前鰐口寄進部類眷属一味和合祈」とあり、一族が結束して鰐口を奉納したことが分る。この際の趣意を奉じて祈願した者は、小幡新竜斎、高政、信直であり、一族の安全、子孫繁盛、武運長久祈願とある。

 

尚、源勝頼の名があり、一族が結束して武田勝頼に従い助けることを誓約した物でもある。続けて敵を打ち破り、住まいを安泰に、たとえ七難が降りかかってもたちまち消えるように、小幡一門が息災延命であるよう祈願文を刻んでいる。

鰐口は仏塔や神社の拝殿の前に縄で吊るし、参拝者がその太縄を持ち鰐口にぶつけ鈴をならす為の物である。

この鰐口は寄進された後、火災にあいその背面は焦げてしまったという。「幡氏旧領弁録」を著した、松代藩士(中老職)の小幡龍蟄によれば、新龍斎は信竜斎と書く事もあり上総介重貞であり、全賢は入信してからの道号であろうとしている。(甘楽町史収載)

大族の小幡氏の系図は幾つもあり、少しずつ違う物もあればかなり違う物もある。龍蟄は伝え言うところでは、背面になお次の三十七文字がある。「妙法華経如来神力品第二十一諸仏救也者住於大神通為悦衆生故神力現無量天正元年」。

寺僧が作った模型板の旧記には天正五年とあるが今、元年に訂正するという。

織田家の城下町、甘楽町のはずれの秋畑に、関東の名刹宝積寺がある。宝積寺史が語るところでは、小幡上総介は初め信実で信真、信貞、信定と四回にわたり改名した事になっている。

甘楽町では今でも華やかな、武者行列のお祭りがある。宝積寺は古い寺で伝統・格式を有している。寺史によれば現職の住職が、公用で外出する時は輿にのり、供ぞろえが十数人つくことに決まっていた。衣装や供の持ち物などに至るまで細かな規定があったという。

 

正規の寺名は後ろにある山を、鷲翎山というところから「鷲翎山宝積寺」という。この宝積寺は小幡伝説やお菊伝説などでも有名な寺である。檀家である小柏氏と同寺は深い繋がりがある。小幡家の墓地の隣に小柏家(奈良山小柏)の墓地がある。

宝積寺は住職が代替わりするたびに、その披露・供養を目的として「進山式」を行っている。

この進山式は曹同宗の各寺にも行く他、同寺内でも檀家を呼んで盛大に執り行われた。ある進山式のときに小幡家、小柏家、織田家が参列した。

その時に寺が用意した席次は上記の通り、織田家が三番目だった。これに感情を害した織田家は、後に崇福寺を再興してそちらへ菩提寺を移したといわれている。

これを宝積寺史でやや詳しく見てみると、東昌寺と宝積寺との間で本寺、末寺の紛争があり、織田四代の信久がこの仲裁に入った。

和解を画策していたが、両寺とも聞き入れず裁判沙汰にまでなってしまった。その以前に信久はこの裁判で、宝積寺が敗訴したなら檀家を離檀すると警告していたが、案の定宝積寺の敗訴となってしまった。

感情を害した信久は、小幡(村)の真言宗崇福寺を改築し、臨済宗に改めて織田初代から三代までの墓碑を移した。

 

別の説では先にあげた進山式の席次の不満である。宝積寺は宝徳二年(1450年)の開山以来、国峰城の小幡氏の菩提寺であり、竹花城主・小柏氏と共に大檀越(援護者)をなしていた。

織田氏は時の領主とはいえ、檀家としては新参でありその為、式宴の席次は第三席となった。この処遇が信久の不満となり、離檀に拍車をかけただろうとしている。

時代が移り、後に崇福寺が廃寺の憂き目にあい、先祖の供養もなかば打ち捨てられているのを、見かねた時の宝積寺住職が供養を申し出て、織田家もまた檀家として戻ってきたとされる。

この宝積寺が編纂したのが、先に挙げた「鷲翎山宝積寺史」である。装丁も立派な分厚い本である。同寺の歴史や収蔵品、伝説、寺に関わった士族の歴史などが、詳細に著述されている。

 

菅原神社・妙義神社の鰐口

 

「幡氏旧領弁録」は、小幡氏の直系の子孫で当時、信州の松代藩士(中老職といわれる)小幡龍蟄の著である。

龍蟄が先祖の遺蹟を訪ね、細かく調査した記録を著述したものである。丹念に調査・取材・収集され、客観的に細かく分析されている。

安政六年(1859年)の成立である。(翌万延元年に巻の弐を著している)鷲翎山宝積寺史にも、その幡氏旧領弁録が詳しく収載されている。この弁録によれば、再考として鰐口の分析考を記載している。

江戸時代の文章なので、一部の意味は正確に把握し難い面もあるが、下仁田村近戸明神と、隣村の菅原村天神の鰐口は、小幡重定君の寄進した物であろうとしている。系譜や諸書に記録されている新龍斎は誤りで、重定は始め新龍斎と称したが甲斐公(信玄)より信の字を拝借して信龍斎に改めたという。

 

詳細は不明ながらも証拠もあれば「信」の字のほうが正しいとしている。重定の没年は未年であるが、鰐口の銘文によって考えれば、天正五年には存命であったが、天正十八年の小田原の役には在陣していたとは記録がない、故に天正十一年1583年)である、この事疑うべからず。万延元年 龍蟄識 とある。

 

同史収載の旧領弁録は、この記事のあと数項を挟み、また鰐口寄進の記事になっている。 

 

補遺 前巻に記した下仁田村近戸明神へ、永禄九年重定君が鰐口を寄進したの

は事実である。いまも同社の旧記にはその記録があるとはいえ、その後、同社

は火災にあい、鰐口を焼失して今跡形もないのは残念である。

(追記再考)上総介信真君は永禄の初め頃、尾張守信真と称したと由緒書きに

見えるので、近戸明神の鰐口は永禄九年なので信真君が寄進した物である。

 

 と書いている。この近戸明神の物については、重定が寄進したというのを信真が寄進したと訂正したもののようである。重定の嫡男・信真は天正二十年1592年)に没している。旧領弁録は続けて菅原天神(神社)の鰐口の記載に移っている。

 

   前巻に記す菅原村天神鰐口は、天正五年重定君がご寄進したのは事実である。

  だが寛政八年(1796)同社の火災により、鰐口も三個ほどに砕けてしまったので鋳掛けなおして重宝とす。かつ古い物なので焼失した後は、その図を板に彫って希望する人には刷って与える。略図次の如し。

      

鰐口略図 

       

 次に鰐口の図が記載されていて、次のように彫られた文字も記載している。

 

   鰐口表径一尺四寸三分程 右の鰐口の銘が前に細い字で書いてあり、読みずら

  いので左に記す。正面(に)字数三 天神宮 右(側に)字数三十弐 大日本国上野州高田庄菅原郷天神宮御神前鰐口寄進部類眷属一味和合所 同内(側に)字数十九 源勝頼魂情追月倍増喜悦累月出来皆令満足 左外(側に)字数参十壱 右意趣者小幡信龍斎全堅信真高政信直并一類安全子孫繁盛武運長久所 同内(側に) 字数二十 怨敵滅却住所安泰七難即滅小幡一門息災延命

 

 

 

 

 

 

この鰐口は概ね円盤であり、古の銅鏡を思わせる。円のてっぺんの所に縦書きで大神宮とありそこから時計回りに、真下の部分まで「大日本」から始まる文字があり、「和合所」で終わっている。

大神宮の所から左へ反時計回りで、「右意趣」の文字が始まり、真下まで「長久所」で終わり真下の余白となる。 

その内側の同心円部分に、右上から右下にかけて「源勝頼」から始まる文字があり、左上から左下にかけて「怨敵滅」で始まる文字となる。同心円の真ん中には紋章があるが、小幡家が幾つか使っている家紋には、どれも合致しないので、何の紋章かは今のところ不明である。

 旧領弁録では先に彫られた文字を、説明した後に次のように解説に移っている。

 

  鰐口の裏は焼失の際微塵に砕け、散乱したため不便だが次の文字が、有ったというのでこれもまた板にした。 妙法華経如来人力品第二十一諸仏救也者住於大神通為悦衆生故神力現無量天正元年 「金石私志」には天正五年とあるが、ここに天正元年とあるので思うに、これは焼失のあと板にした物だから、「金石私志」にいう天正五年のほうが事実であろう。

  鰐口名の全堅は重定君の御号なるべし、高政・信直の両氏はまだ不明であるが、ここに来て宝積寺から事績の研究の参考になればとして、次のように覚性浄林の牌名(位牌か)の中から書き抜いて送って来てくれた。それによれば重定君には姪があって小柏氏に嫁いたようだ。

これは、はっきりとは判らないが、本当の事であろう。よって先に記された銘の高政は、すなわち御姪婿の小柏高政であろうが、なお研究の余地を残す。小柏氏は小松重盛公末孫の由也。今現在も日野村に小柏を名乗る郷士があり、この家が菊女伝説に記す源介は次の定政であろう。

 覚性浄林居士  小柏左馬介高政 

 光岩智明大姉  同人妻 小幡尾張守重貞姪女

昌室浄久居士  小柏左馬介定政 初め源介と号す

  右者小柏八郎左衛門      牌名之内

 

 としている。ここの八郎左衛門は定政の孫の小柏重高であろう。

上記、鰐口の図は旧領弁録のものであるが「上野国郡村誌」に収載の鰐口の図は少し趣を事にしている。下記の如くの物で、文章末尾の「所」という文字が「祈」となっているが、他の説明文章などは旧領弁録とほぼ同様である。

柄はなく全体が円盤状になっている。見たところでは旧領弁録の物の方が精巧であり真実味がある。

 

      

            菅原神社

 

      

          菅原神社 鰐口 郡村誌より

 

 下仁田(町)と妙義町の菅原村に鰐口の寄進があり、この地域で一番大きく由緒ある妙義神社に寄進がないのは何故なのか、不思議に思っていたが、よくよく読んでみると妙義神社にも寄進したとの記事があった。

 それは先の文章に続けて記された次の小さな記事であった。

この記事は菅原村も妙義山の麓で妙義町に属している事から、菅原神社の追加説明と理解していたが、妙義山とは妙義神社の事を指している。

 

  天正五年妙義山金皷の銘に小幡□信龍斎全賢信真高政信直云々とあり、今この皷 甲州古府(甲府)塩部八幡宮之社檀にある由。江戸の人黒川春村という者が先年甲州に行った時に、自ら摺り取りて所持せる由。旧臣新居又太郎がいう。

  追記 金皷とは鰐口の事なり。□の中に入るのは恐らく平の字か。

 

『金石私志』は市川寛斎が著述した歴史書である。龍蟄がこの記事の後に、記した系図では重定は初め尾張守憲重であり、後に剃髪し新龍斎と号し上野国国峰城、宮崎城の城主であると記している。

重定の子が信真であり、初め尾張守、後に上総介であり剃髪し忠甫斎と号した国峰・宮崎両方の城主であるとしている。

信真は34回改名(信実―信真―信貞―信定)しており、父も改名している他、尾張守も共通しているため、この二人の事跡は混乱をきたしているところである。

特に戦国時代は仕える武将が、何度も変わった時代であり、変わるたびに主人の名前を一字貰ったり、前の主人の名前を一文字使っているのが、気に入らないなどの理由から、何度も改名するのが一般的だった。

小幡氏の先祖は村上天皇から出ている。二十六代目の祖、赤松播磨守則景は,広島に住んでいたが源氏だったことから、頼朝の挙兵に呼応し関東に来て、児玉党と縁を結んだ後、子孫が児玉忠行の養子になり武州児玉の庄を領したという。

後に上州、奥平之郷を領し姓を奥平と改め、更に甘楽郡小幡郷の郡司となり、再び姓を小幡に改めたという。

この後の嫡子の吉行が奥平郷を与えられ、源姓奥平(別家)の祖となり、小幡郷は次男の崇行が継いだとしている。

 

小幡重定の子、信真(定)は武田信玄・勝頼二代に仕え、二十四将の筆頭としてその名を馳せた人物である。その軍勢は赤備えの騎馬軍団として勇名を轟かせた。小幡氏は本城の国峰城(現甘楽町)を本拠として白倉城(仁井屋城・麻場城)、庭谷城を代々有しており、他にも宇陀城、宮崎城等の支城を持っていた。

小幡景憲は、ことに有名な甲陽軍鑑の最終的な編集者と見られているが、景憲も上野国小幡氏の一族とする説もある。

実際は景憲は甲州小幡氏であり、上州小幡氏よりも古くから武田に仕えていた別族と思われ、後に上州小幡氏から姓を譲られたようだ。

甲陽軍鑑の品第十七にある「武田法性院信玄公御代惣人数の事」には、ご親類衆として

 

1、勝頼公 旗白色に大文字、、二百騎、、、、中略、、、

信州先方衆として

1、真田源太左衛門 旗色黒四方 二百騎、、、中略 

西上野衆(五十七名略)

1、小幡上総守 五百騎 

1、和田 三十騎 

1、たいら 四十騎

とある。小幡氏の五百騎というのは群を抜いて多い人数である。

二番目に多い高坂弾正(譜代家老衆)で、四百五十騎であり、あとの殆どの将が率いる人数は二百、百五十、五十、三十騎などである。一騎の武者が四人の供を連れ参陣する事を想定しており、総人数を四万五千六百五十人と見積もっている。更に旗本足軽八百八十四人、総家中の足軽五千四百八十九人を合計すると、軍の編成人数は五万二千二十三人になるという。

武士と農民が、はっきりとは別れていなかった時代であるから、殆どは農民とも言える。先方衆とは占領地の軍勢を組み入れたものという。(甘楽町史・歴史読本)

 

 生島足島神社の起請文と養命寺

 

「甘楽町史」に小幡弾正信高が、武田氏宛てに出した、従属を誓約する起請文が記載されている。

 

敬白起請文  

1、為始長尾輝虎自御敵方以如何様之所得申旨候共、不可致同意事。

1、甲信西上野三ヶ国諸卒雖企逆心於某者無二奉守信実御前可抽忠節之事。

1、甲州之御前悪儀不可批判事。

上ニ者奉始梵天帝釈四大天皇下ニ者堅窂(ママ)地神殊ニ者八幡大菩薩、摩利支天諏方上下大明神、天満大自在天神、甲州一二三大明神、忽而日本六十余州之小神祗各可蒙御罰候。此旨可預御披露候。仍如件。

永禄十年丁夘

八月七日  弾正左衛門慰信高(花押血判)

左馬介 高政 (花押血判)

自徳斎 道佐 (花押血判)

能登守 行実 (花押血判)

熊井土対馬守 重満 (花押血判)

金子与三郎 (殿)

 

 永禄十年(1567)小幡信真の親類で、家臣となっている者が、信州の生島足島神社に捧げ、信真(実)に忠節を誓う事により、武田信玄への服従を誓った起請文。戦国の時代にあっては、このような文書が数多く作られた。あらゆる神を引き合いに出して、やや大げさに誓約しているように見える。

同史は信高は弾正忠信氏(信真の弟)と推定している。信氏はこの起請文を奉納した二年後の、永禄十二年(1569)に駿河蒲(神)原で討死している。高政については関東幕注文にある、小幡次郎がこの人か。としているが、これは左馬介(助)という名前からいっても時代からいっても明らかに小柏高政である。

 

道佐は鰐口に記載のある白倉道佐であろう。記載順も信真と信高が違うだけで、鰐口と同じ並び順である。熊井戸()氏はこの時、小幡氏の家老クラスの重職にあったと思われ、縁戚関係もあった筈であるが、何故か親類衆の後方の順位になっている。ずっと後代になってからは、小柏氏の子孫が熊井戸氏に従って大阪夏の陣に加わっている。

同じ永禄十年に、小幡信真の家臣団中別格の三氏(松本、友松など)が、やはり生島足島神社に捧げて、信真への忠誠を誓った起請文があるが、宛名が熊井土対馬守殿御中となっている。

これも熊井土氏が重職にあった裏づけとなる。「甘楽町史」では、生島足島神社に奉納された起請文中の、小幡氏の一族・家臣団を合計すると、二十四名にのぼり同様文書中に、これ程の大集団を擁する者は他に見られない。

これをもっても小幡五百騎が、武田軍団の中心兵力であったと肯定できよう。と結んでいる。小幡氏と武田氏との間で、交わされた多くの文書は旧家などに今も残されている。

「群馬県の地名」の国峰城の項を見ると、巨大な山城であった事が詳しく紹介された後、小幡一族を紹介している。小幡氏の当主信真(実)は小幡一族の信高・高政・道佐・行実や有力家臣の熊井戸重満、鏑川筋とその縁辺高瀬・上条・武河・南蛇井・伴野・尾崎・湯浅・山口の各氏。

南牧衆の小沢・市河・懸河・高橋らの諸士を家風・同心として従属させ、彼らも信実への忠節を媒介に武田信玄の領国支配に服している。とあり、小幡氏に属し協力或いは行動を共にした周辺の武士団の名前が良くわかる。

小幡一族の中の高政とあるのは小柏高政である。

 

高政は小柏館のすぐ下に、養命寺(曹洞宗)を建立・開基している。同寺は宝積寺の末寺の一つとなった。同寺は小柏山と号し、本尊は十一面観世音菩薩である。天正年間(1580頃)に小柏氏の開基で、甘楽郡小幡町の宝積寺を本寺として、その十世魯嶽林誉禅師が開山。小柏氏とその家臣の菩提寺とした。

その後荒廃したが、天保の頃(1680頃)宝積寺二十一世祥山寂瑞禅師を中興開山として再興した。宝物は涅槃像 一軸 十六善神画像 一軸 二十五菩薩画像 一軸 大般若経 六百巻

茶釜(銅) 壱個 梵鐘(元禄十五年) 一口 (多野藤岡地方誌・各説編)

 

「宝積寺史」によれば、小柏山養命寺、藤岡市上日野464、創建天正年間(1573~92)、本尊十一面観世音、開山魯岳林誉、開基小柏高政となっている。

そして沿革として、天正年間に竹花城主・小柏高政が開基し、宝積寺十世魯岳林誉を請いて開山とする。小柏氏の祖は小松内大臣重盛の子維基で、小松を小柏と改めた。鎌倉幕府滅亡後は、山中郷を領し平井城主上杉氏に出仕していた。当寺は小柏氏とその家臣の菩提寺である。

 天和年間(1681~84)に宝積寺21世祥山寂端が、中興開山として再興する。との記事である。

              養命寺

       

 

 「多野藤岡地方誌・各説編」の年表を見ると、1575年の長篠の合戦で討死した者の中に小柏高政を入れている。これが事実とすると、同誌は養命寺の開基を1580年頃としているので、養命寺を開基したのは二男の定政という事になる。しかし先に述べたように、宝積寺はその末寺養命寺の開基は小柏高政としている。

養命寺は、碑名の内の抜書きとして高政や定政の名前・法名を書いて小幡龍蟄に送っている。大檀家である小柏家の位牌や過去帳があった事になり、その他の記録もあったものと思われる。

 その宝積寺が、自分の寺の住職が開山した養命寺の開基者の名前を間違えるはずはない。したがって「多野藤岡地方誌・各説編」の年表にある長篠の合戦での討死にの記事は何らかの誤りと考えられる。

 

 他に古文書・古文献はない事から、同誌はおそらくその典拠を「小柏氏正系図」に求めたのであろう。だが同系図をよく読めば、高政が長篠の合戦で戦死したとの記事は載っていないのである。

 嫡子の定重には子供がなく弟の定政が後継者となっている。この事から、定重は長篠の合戦で討死した1575年には21歳であったと推定すると、父の高政の年齢は46歳と推定する事が可能である。

 当時としては高齢でもあり、長篠の合戦には出陣せずに息子の定重が陣代として、出陣したのではなかろうか。養命寺が開基されたとする1580年には高政は51歳となり無理のない仮説が成立する。

 この仮説が間違っている時は、養命寺の開基は6~7年遡った1574年頃となる。いずれにしても「多野藤岡地方誌・各説編」のどちらかの記事に誤りがある事になる。

 

竹花城と小柏城

 

「竹花城」の名前は他の文献には見られないものである。藤岡市教育委員会の「小柏館跡(2)埋蔵文化財発掘調査報告書」を見ると、「館南西(裏鬼門)嶽ノ本~嶽ノ鼻には、小柏氏累代墓所及び掘切が残り、館の東西外周付近には科人断罪の伝承が残る」とある。

したがって、小柏館、敷地に隣接し低地に向って、突き出ているような墓所の部分が「嶽ノ鼻」と呼ばれていた事が分る。そこに隣接する所が「嶽ノ本」という地名で呼ばれていたのである。

してみると、「嶽ノ鼻」が美字で簡略された「竹ノ花」に変わり、呼び易い詰めた音の「竹花」に変わったとみる事が出来る。とすれば小柏館が「竹花城」と呼ばれていた事になる。一山を隔ててはいるが隣村にあり、小柏氏との繋がりが深かった、宝積寺ならではの知識、呼び方であったのだろう。また地元の人のみがそう呼んだのではなかったかと思われる。

この頃は、重家が築いた、西御荷鉾山の山麓に踏み込んだ鼠喰城よりも、街道沿いに位置していて、周囲の山や集落の支配にも便利な、小柏館の方に主な拠点を置いていたのだろう。

 

小柏氏墓所の前に、高山長五郎が筆を取った板碑が二つある。その一つには桓武天皇以来の小柏氏の家系図が書かれていて、もう一つの板碑に小柏氏の由来が書かれている。そこに小柏舘の東側の山は、城山(しろやま)と呼ばれているが、城山(じょうやま)と呼び習わすべき。とある。

更にその横に立つ石碑の碑文に「小柏八郎を主とし小柏城を中心に今日に至る――中略――三本木より小柏城までは日向組十戸の――後略。」と、小柏舘を小柏城と呼んでいた事が明確に記載してある。

また奥ノ反の鼠喰城の入口にある石碑にも「小柏城主小柏八郎。」とあり、上日野地区では小柏舘、或いは城山の保塁を小柏城と呼んでいた事が分る。

これにより、その時期によって竹花城又は小柏城と呼ばれていた事が分る。小柏(村)の交差点に「小柏」というバス停がある。このバス停の北側は雑木林の斜面になっていて、南傾斜の小高い丘となる。

この小高い丘が城山(じょうやま)と呼ばれ砦が築かれていたようだ。私も最初に現地を訪れた時には、小柏舘跡はこの丘の辺りであろうと見当をつけたものだった。したがってこの砦を含めた小柏舘が小柏城と呼ばれていた可能性がある。

 

      

      小高い丘の頂上に城山の文字が見える 

  

近年では城山の北の道を隔てた天神山に小柏城があったとする説も出ている。

 

上日野板碑 

 

     

 

        上 上日野 板碑  下 石碑  小柏氏由来 

 

      

 

 

第二章 豪族 小幡氏

 

 小幡氏の領地

 

 小柏氏を語る上で、上杉氏或いは武田氏の元で行動を共にし、縁戚関係にあった小幡氏の動静も知らねばならない。「甘楽町史」から小幡氏の足跡を概観してみよう。

 

 「小幡村郷土史」に次のようにあるという。小幡氏の所領は十八万石といわれ、東は多胡、緑埜(みどの)の境まで、西は西牧・南牧に及び、南は神流川を越えて武蔵の国境に接し、北は碓氷川を境として、磯部あたりの地域全てを古代小幡の里といった。

 

かなり広い領地を持っており、他の大名に比しても遜色はない。地名は小幡氏からとった説、上毛野氏の家臣名、織機説、小墾田説、その他諸説がありはっきりしない。小幡氏の祖についても幾つかの説がある。

「上野名跡志」の武蔵七党の系図、児玉氏の中に小幡平四郎輔行の名前があり、「東鑑」(吾妻鏡)には小幡三郎左衛門慰の名前がある。七党には児玉、横山、猪俣、野与、村山、西、丹党とするものと、児玉、丹治、私市、猪俣、西野、横山、村山党とするものがある。

 また安芸国藤松朝臣貞行が、勅命により小幡羊太夫宗勝を誅して、その功で小幡の姓を取得し、羊太夫の領地を貰い同時に字を小幡としたという説もある。その祖を甘楽郡司だった小葉多連とするものもある。

 「上野人物志」では小幡氏の祖を、児玉党、秩父平四郎行高として、次に行頼とする。小幡氏正系図では、平姓畠山(秩父)――氏行――崇行としている。安中市木村氏所蔵の、小幡氏系譜では具平親王をその祖とし、「上野伝説雑記」には祖、実高――重高――信真とあり、一宮神主一ノ宮志摩所蔵の系図では、重貞(信真)から始まっている。

 

吉井町史では小幡平太行頼――氏行――崇行となっている。氏行は始め安芸国に居たが、秩父に来て畠山氏となりついで山を越え小幡に来て小幡氏を唱えた。小幡の地は水清く、土地が肥えており、桑の木の養生に適していたため、早くから養蚕が盛んだった。国峰城を居城として、宮崎城を第二の城として上総介信貞の弟信秀を守将としていた。

 国峰城は大城郭であり、南北2.5キロm、東西2.5キロmに及び、山頂は標高434mである。麓近くに小幡城、内匠城を配し国峰城直衛堡としていた。小幡城は熊井戸対馬守の舘城であった。

 吉井の長根衆も一族であり、庭谷、八木連、高田氏も小幡の騎馬衆として、その旗下に連なっていた。

 

小幡配下にあって連携した城・砦は、日の谷(上日野)の七村城から始まり、甘楽・富岡・高田・菅原(妙義)・下仁田に及び、六十一にものぼった。

 小幡氏の研究書として、定評を得ている「上野国小幡氏の研究」には、上州小幡氏は鎌倉以来の名家であるが、永禄年間に入り、甘楽一帯に安定勢力を樹立し、その後は甲斐武田軍の有力武将として、先方衆の西上野衆に属し後武田二十四将にも数えられた。

 武田滅亡後は、織田の武将滝川一益に従い、滝川氏西上の後は、小田原北条氏の勢力下に入り、天正十八年の北条氏没落と時を同じくして、本貫の地、甘楽より姿を消している。とある。

そして武田には以前から、別の小幡氏が従属しているが、この甲州小幡氏は、上州小幡氏とは別の系統(縁戚関係はない)であるとしている。

 甲州小幡氏の、山城守虎盛は武田二十四将の一人に、数えられていてその孫が「甲陽軍鑑」の著者と見られている勘兵衛景憲であるとしている。

 

小幡伝来記など幾つかの系図は、甲州小幡氏の祖を上州小幡氏の系譜に、繋いでいるが同伝来記は、信真を小田原で切腹を仰せつかった(史実とは違うようだ)と、記載しているなどの事もあり、「上野国小幡氏の研究」の言うように、両小幡氏の血縁関係はなかったように思える。

小幡龍蟄が著した「幡氏旧領弁録」の中にある系図にも、甲州小幡氏の系譜は書かれていない。甲州小幡氏は始め、葛俣と称し後、小畠さらに小幡と称したという。

 先の「羊太夫」という人は、天引城辺りに居住していた豪族であり、天馬を駆って従者の「八束の小脛」と共に、大和朝廷へ毎日出仕を欠かさなかった、という伝説の人物である。

その碑が今に残る有名な「多胡碑」として吉井町に残っている。羊太夫の姓は、藤原或いは小幡とするものがあるが、いずれにしても小幡氏の祖にはならないのではないか。多野郡に八束村という地名があり八束山という山もある。

八束の小脛の名と共に、出雲風土記に出てくる国引きをした神、八束水臣津野命との関連性を考える人もいる。古墳時代の舟形石棺は確かに出雲と上野国と共通している。舟形石棺はこの他、丹波・讃岐・肥後などに見られ、大和文化とは無縁とされている。

出雲の国譲りの際に、建御名方神が逃げて来た諏訪も隣県にあり、上野国にも諏訪社が数多くある事も関連があろうか。

 

国峰城落城 落武者信秀

 

 「上毛伝説雑記」巻の十一に「上野志料集成」が収載されて、「小幡傳來記」が載っている。少し読み易く修正し次に大略()を紹介する。

 

 小幡家譜の事

 尾張守重定は實高の嫡男。後に新龍斎日永と号す。上総介信貞は重定の嫡男、長野氏の妹婿。風山宗家居士と号す。弾正忠信氏は信州神原で討死。播磨守昌高は長篠にて討死。又八郎昌定は遠州三方が原にて討死。

 

 小田原攻の事國峯城合戦の事 

天正十八年関白秀吉公、小田原の北条氏政を滅ぼさんと思し召され、三十万騎を引率し、氏政と対陣す。また御加勢には、徳川家康公、織田信雄公、都合五十万騎と聞く。

小田原城中に相詰める人々には、武州忍(藩)の城主成田下総守長康、岩槻の城主太田三楽、新田金山の城主由良信濃守国繁、足利の城主長尾顕長、佐野の城主宗綱、松井田の大道寺駿河守、鉢形の城主北条安房守氏邦、これは小田原へ子息を遣わし、

その身は北国の押さえとして、

鉢形に在城し桜沢八幡前に砦を築き、藤田正龍寺の後ろの大山の上に、楼閣をつくり大鐘を釣り北国勢が攻めて来て、藤岡八幡山に見えたなら、この大鐘を鳴らし相知らすべしとの約束なり。

今に至りそこは撞鐘堂と名付けられた。国峯の城主小幡上総守、これも同じく小田原城に相詰める。城代に子息左衛門佐信秀を置いて、宮崎城には小幡左衛門・同彦三郎が参百余騎にて相守る。

その他前橋、倉賀野、松山、川越、沼田、古河、関宿、平井、八幡山、館林、宇都宮も催促されて小田原城に相詰める。

文明、応仁以来の大合戦である。北条氏も早雲より五代続いて、八カ国の管領となっているので一族も増え、何十万人とも数知れぬ籠城となり、五年、十年では落城するはずはないと見えた。

これにより、関白秀吉公は長陣の支度をして、七十間に渡って陣小屋を作らせ、京都、大阪、奈良、堺より町人どもを呼び寄せ町を作り、店を出させ何でも不足のないように、種々の品物の商売をさせた。

 

金銀銅鉄の細工職人まで悉く、呼び寄せたのであたかも京都、大阪のようになり急に賑やかになった。このとき、北国よりも秀吉公へ加勢として、加賀の国守菅原の朝臣利家、越後の太守上杉景勝、両大将が北陸道七カ国の勢を率いて笛吹き峠(碓氷峠)を、攻め破り坂本を焼き払い、松井田を十重二十重に取り囲み、昼夜息をもつかせず、攻めたればこらえられず落城す。

それより先には宮崎城をなで斬りにし、国峰城へ押し寄せ鯨の咆哮の如く、鉄砲を撃ち矢を射掛け喚き叫んで攻め戦う。この城は追手北向きで山はなく、南は秋畑山、

秩父まで連なる高山、西は岩染・五賀・高瀬まで、屏風を立てた如くの険山なり。城山は遥かに秀で続く峰なし。

 

寄せ手大軍にて取り囲み、数日戦うといえども、基より名城にて要害なり。殊に浅鹿民部という智謀あり、武勇を兼ね備えた士である。

計略を廻らし、戦わずして勝利を得、大敵を滅ぼしければ、流石の大軍も呆れ果てて控えたり。さりながら、この城は山上に水がないので、東の方の谷の水を汲んでいる。ここに加賀大納言利家の家臣、山崎勘斎という者がこれを見つけ、大勢の番人を付けたので、これにより城中渇きに苦しむ。

数日のことなれば、梅林を指すに術なし。時に浅鹿は思案し、馬を数多く高い所へ引き出して、白米を流しかけ、水がたくさんあるように見せかけた。寄せ手これを見て、城中に水不足はないから馬どもを洗っている、無駄骨折りて益なしと水番人を引き上げた。

 

しかし寄せ手多勢なれば、入れ替え入れ替え、息をもつかせず攻めたので、今は門を一つ押し破り、櫓も塀も引き倒し、えいやと声を上げて攻め上る。城中からも矢玉を透間もなく射かけ、ここで死ぬ積りで防いだ。

ここにおいて、寄せ手の軍兵、二町ばかり引き退く。浅鹿民部は五十騎ばかりを従えて、逃げる敵を追いかけ此処の谷、あそこの落とし穴に追い込み、大勢打取り引き返し、太刀の血を拭い本丸に上がり、左衛門佐殿に軍の次第を申し上げ、涙をはらはらと流し、君の御武運もこれまでにて御座候。

 

随分城中の者共、防ぎ戦い候といえども、敵大勢の事にて候へば大水の堰を切ったる如くにして、防ぐべき術なし。君には早々後ろの山より、ひとまづ何処方へもお落ち下さい。某は城中に踏み留まり、おっつけ日暮れたなら城に火をつけ、殿は御自害のように見せかけ御跡を慕い参るべし。

はや得々と諌めれば信秀是非もなく、暮れ方に供をも連れずにただ一人、城中を忍び出て南の方、秋畑山は大山のことなれば、敵の入る懸念はなく、樵の通路ありて、草深く九十九折のような所を、ようよう辿り鷲翎山の峯に上りて、国峯を見れば民部は、はや城に火をつけたと見え、炎天に登り日中と異ならず。

屋形、櫓焼け崩れる音に、敵の勝どきの声夥しく聞こえける。信秀は民部が来ないが、峰を伝い鹿島という所に下り給えば、夜は東雲になりにけり。

信秀思し召す様は、おっつけ夜も明ければ、日野谷の者共、我が身の態を見るならば、必定咎め捉え置き敵陣へ注進すべし。

 

もしそのような事になれば、逃れ出て来た甲斐もなく、莫大の恥辱也。如何せんと思し召し案じて、煩い給いしに傍らを御覧ずれば大なる森あり。この中へ立ち寄らせ給い、見れば大社ありて鹿島明神と額あり。

これ究竟の隠れ家と思し召し、戸を押し開き立ち入らせ給う。それ鹿島明神は往古よりも軍神と、申し伝え候へば、信秀行く末安穏に守らせ給へと祈念して、勿体なくも神殿の内に隠れ居させ給へば心細い事なり。

 

大澤不動の由來信秀向陽寺に入り給ふ事 

さるほどに、信秀は既にその日も暮れければ、鹿島の神殿を立出でさせ給い、暗夜に紛れ、細道を谷川の流れの音を頼りにして、方角も判らぬ山中をあなた、こなたと踏み迷い、谷より峰また峰伝いに、そこはかとなく行くほどに、ようやく三里の所を十里ばかりにも歩き給うぞは憐れなる。

 向こうを見給へば、ほの暗き中に堂と思しき物見えたり。近くに立ち寄り見させ給へば、不動明王のお堂なり。信秀幸いと喜び給い、日野にては鹿島明神の社に通夜し、いままた計らずもこの堂に来たり、明王を拝し奉る事、不思議の因縁と末頼もしく思し召し、拝殿に跪き出世の事を御祈誓なされた。

まだ夜も明けざれば、暫く御堂の柱に寄りかかり眠らせ給う。そのうちに日はほどなく三笠に落ちたり。

 

その所へ雨(天)引村の向陽寺の傳州和尚、この不動へ参詣なされ、順礼読経の事終わりて、傍らを見給へば十八、九なる容貌清やかなる士一人、御堂の柱に寄りかかり前後も知らず眠り居たり。

傳州この有様を見給うに、羽二重の黒き小袖に、軍配団扇の中に七五三笹の紋をつけ、大広口の裾を高くさしはさみ、黄金つくりの総巻の太刀を帯し、糸の草鞋召されたり、傳州不審に思し召し立ち休らい、伴僧の行者を頻りに呼ばせ給う、

その声に信秀うち驚き目を覚まし、顔を押し拭い両膝押立てもの申さんとし、少し遠慮の態に見えければ、傳州のほうより申されけるは、愚僧の儀はこの隣里、天引村向陽寺の住持にて候が、毎月二十八日この明王へ参詣仕り候。

 

今日おりしもまた二十八日故、参詣をいたし候なり。貴公には如何なる人にて、此処に渡らせ候ぞや。いぶかしと申されければ信秀聞召し、さては向陽寺にておはするか、しからば事情を話しましょう。

某(それがし)の事は定めし聞き及びでしょうが、国峰の城主小幡上総介の愚息にて候。北国勢と戦い、寄せ手多勢故、終いに打ちまけ落城に及びし、是非もなく此処へ落ち延びて参りたる。

お目にかかるこそ幸いの儀に候へば、暫く貴寺に隠し置き給われと、慇懃に述べ給う。傳州聞きて驚き入り、近くよりて手を束ね、さてさて如何なる人ぞと思いしが、御物語を承りては、聊か疎かにすべき儀ではなく候。

これと申すも偏に不動明王の、お引き合わせと覚え候。よくよくこの不動明王は春日の作にて、霊験いま以ってあらたかに候。

由来を申せば、昔此処の城主、羊太夫という人は神変奇異の名将にて、奈良の都まで百五六十里の行程を、日々参内怠らず。また家僕に八束小脛といい、権化なる者ありて主人に従い往来す。

 

この者の脛は八束ある故、八束小脛と申すなり。その頃羊太夫、奈良にてこの不動を求め来たり、堂を建立し安置し治世安民を祈らせ給うと、古老この事を語り伝える。それ春日の作と申す事は、ある説に藤原政純の刻みたるを申すなりと。

この政純は、春日明神より柄に鹿を彫りたる小刀を、お社参のとき申し受け、奇妙に細工を刻み浮かべ給うとなり。

即ち春日の化身といへり。さるによりてこの作は別して霊験に候なり。よくよく御祈念なさるべし。ご出世疑い候わず。まづ愚寺へお立ち入り候へと、伴い寺へ帰りたる。この傳州忠的和尚は、俗姓を尋ねれば、甲斐信玄公のご一族にて先年信玄公と、上杉憲政公と笛吹き峠にて合戦の節も、向陽寺より打って出て甲州勢に加わり、幾多の手柄を致されたる人なれば、甲斐甲斐しくも情けを懸け時節を待たせ給いけり。

 

秀吉攻め 小田原籠城

 

武州鉢形の城合戦の事小田原落城の事

国峰の城、既に落城せし故、直ちに武州鉢形の城へ押し寄せ、勝負を決せんとす。平井八幡山の者共、早馬にて鉢形へこの事を注進す。

柳澤砦の者、慌て騒いで鉢形へ逃げ籠る。高根山の後なる大鐘を打ち鳴らし、事の急を鉢形へ知らす。

城中にては安房守氏邦、諸軍勢に触れて手分け手配りし給い、城の北なる荒川を、末野という所で土俵を数多積み重ね、また大石も重ねて水を締め切り、敵が川下を渡るならば、一度に水を切り落とし流す知略なり。

 

既に北国勢、平井八幡山を踏み破り、広木・大仏・用土などを乱取し、二手に分かれて押し寄せる。大手小前田の方へは、加賀利家八幡余騎にて向う。

一手は越後の景勝五万余騎、用土より分れ飯塚にかかり、寄居の方へ攻め寄せる。ほどなく、越後勢桜澤に着きければ、八幡山を本陣として幕打ち回し、合戦の手合いは明日と議定し、人馬を休め居たるところへ、越後勢の中よりも糸井川平六という勇士が、ただ一騎一族二百人ほど言い合わせ、兵糧をつかい馬に草飼い、明日の陣ぶれはなかなか遅かりし、この方、追手小前田よりも道のりも近くして、加賀勢に先を越されては越後の者の油断なり。

 

今日、未だ八つ時なり続けや一族家来共と、多勢の中を乗り抜けて、荒川端に臨みてあれば、さしもの大河思いのほか水浅くありければ、この間の旱魃に水少なくなったと覚ゆるなり。

心安く渡らんと一度にさっとうち入れければ、敵方時分は良しと湛え置きたる水を、土俵をどっと切り流せばたちまち、大水漲り来て二百人の者供一度にどっと、押し流され浮きつ沈みつ流れけり。

糸井川平六は馬を流しけれども、その身は越後の海辺にて育ちし者なれば、水にも溺れず岸に上がり、本陣に立ち帰り面目を失い居たりけり。景勝大いに立腹し、糸井川がいらざる抜け駆けして、敵の計略に乗りて戦わずして流れ死にする事、味方の恥辱言語道断也、抜け駆けすべからずと陣中に触れられけり。

既に明日になりければ、二手の勢い東西より押し寄せ散々に相戦う。寄手は道すがらの合戦に勝ち、勢い盛んに振舞いければ、城中の甲兵も随分防ぎ戦うといえども、多勢に無勢のことなれば、弓折れ矢尽きて過半のもの落ちて行き、籠城持ちがたく見えたり。

ことに小田原も落城近かるべしと、風聞が諸兵の間に蔓延し、氏邦も仕方なく降参するか、和睦するかと案じ煩いおられし所へ、菩提所の藤田正龍寺、布州和尚が参られ軍労の程を述べられ、その上にて申されけるは、公には如何思し召し候ぞ。

最早御武運も末になり、落城近かるべしと相見え候、早急に開城なされ、敵の幕下に属す事を請い、籠城の兵士女人子供までお助け候はば、これに過ぎたる御慈悲は更に之あるまじく候と。

 

言葉を尽くして諌(いさ)め給へば基より、氏邦も降参の心掛けありければ、布州の諌めを幸いと思われ、某も左様にとは存ぜしが、人口の程(意向か)は如何と思い候也、然らば尚、会稽山(中国の山)を下るの旨趣、敵陣へ至ってよくよく取り計らい給はれと、ありければ布州その意を了解候と、城外へ出でられ両大将に面会せられ、さても氏邦、両大将の大軍に囲まれ、籠鳥の如くにて遁るべき様なし。

 

之によりて氏邦も討死と思い定め、今一度命限りの合戦いたし腹切るべしと申し候を、愚僧諫言仕り候。氏邦も思い定め候へば城兵必死の合戦いたしなば、御軍士大勢亡び申すべく候へば、曲げて降参お許しあるべし、

囲みを解いて、籠城の者共をお助け給うべしと、言葉を尽くし申されければ、両将得心ありて然らば降参の印に、髭髪剃らせご同道あるべしと申されけり。

布州喜悦致され城中に立ち帰り、両将の申越されし趣、氏邦へ手立てを尽くして演説致されければ、氏邦も降参の上からは、兎も角もとて剃髪染衣の姿となり、布州を伴い降人に出でられけり。

 

それより寄せ手、城を巻きほぐせば城中の軍兵は、群鳥の籠より放されたる如くにて、万歳を謳いけりこの時、氏邦よりも布州東播和尚へお礼として、徽宗皇帝の鷹の絵の掛け物、毘首が達磨に東坡が竹・恵心僧都十三仏を進ぜられけり。

即ち正龍寺の宝物となり、宝蔵に秘し之あり。さて両将は、松山・川越をば破竹の如く攻め負かし、小田原に着陣し秀吉公に対面あり。

上州・武州の城共、悉く攻め破りし事共を申し上げられければ、秀吉公御喜び限りなく、両将の武功比類なしと御賞嘆なされ、御盃をくだされその上種々饗応、結構を尽くされけり。

 

既に北国勢の大軍、小田原に着きければ、五里・十里の中には尺寸の地もなく充満せり。氏政父子も、種々計略を廻らすといえども、大軍に