今昔余話 Ⅱ

    高天原の侵略   新編古事記    神々の降臨

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八咫烏のくりごと

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町の歳時記

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   日本人はどこから来てどこへ行ったのか?原住民族のアイヌは沖縄と北海道に分かれたという。
   アマテラスは本当に皇室の祖先であったのか?古代氏族の多くは、朝鮮半島からの渡来の痕跡を残している。
   中国からの渡来氏族は南方系が多かったのか?
   高天原とは、古に実在した何処かの地名であったのか
高天原の侵略

   目次

 

 日本人のルーツ          3

言語と習俗から辿る日本人の故郷  6

 

 第一章

 

 神世七代 神皇正統記       9

聖婚説話            19

 イザナギとイザナミの本貫地   21

海神・アマテラスの誕生     25

住吉大社神代記         28

最古の英雄スサノオ       29

天の石屋戸隠れ説話       33

ヤマタノオロチ伝説       37

スサノオの神裔         39

アマテラスとスサノオの人物像  41

大国主神の死生譚        44

大国主神の妻と神裔       47

饒速日尊の大和降臨       51

葦原中国の侵略         58

武神・建御雷神         63

大国主神の敗北と講和      65

天皇家の始祖・穂邇邇芸尊    68

三種の神器と神剣の行方     72

草薙剣 歴代の所有者      76

海幸彦・山幸彦日向神話     80

日向王朝と西都原古墳      85

 

第二章

 

遥かなる邪馬台国        88

箸墓は卑弥呼の墓か       90

徐福渡来伝説          93

神将 神武天皇         95

八咫烏と高倉下        102

戦時の歌謡・久米歌      103

伊須気余理比売の結婚     104

銅鐸は祭祀に使う楽器だった? 105

綏靖天皇           108

大帝・崇神天皇        111

伊勢神宮の創始        112

豪族・伊勢津(都)彦      113

大毘古と奥州安東氏      116

垂仁天皇           118

精力絶倫・景行天皇      122

倭建の東国遠征        124

神功皇后の密通        128

香坂王と忍熊王の聖戦     131

侵入者・応神天皇       135

天之日矛の正体        141

ワカタキル大王・雄略天皇   147

継体天皇は新王朝か      147

唐書・新唐書・三国史記   149

参考文献           151


言語と習俗から辿る日本人の故郷


 日本人のルーツ

 

 日本の歴史はいつから始まったのかアマテラス大神が生まれたときか?ニニギノミコトが降臨して来たときなのか、それとも地球がまだ混沌としていたときに生まれたアメノミナカヌシノミコトが現れたときなのか、はたまた神武天皇が東征に成功したときなのか

 いまこの問いに答えられる人は居ないのではないか。宮内庁の陵墓要覧には、ニニギノミコトの墓は鹿児島にありと記されている。ではニニギノミコトの祖母であるアマテラスの墓は何所にあるか?

 陵墓要覧には記載されていない。同様にアマテラスの子のアメノオシホミミノミコトの墓の記載もない。地上界に降臨したとされるニニギノミコトの墓が、一番最初に記されていて次に后・子の墓と、ニニギノミコトから歴代の天皇陵が連綿と記載されている。ニニギノミコト以前の祖先は、天上界に居る事になっているから記載できないのだろう。

 「古事記」に天上界の唯一の地名として現れる「高天原」も、その説明は一切なされていない。おそらく天上界にある概念の世界なのだろう。或いは朝鮮などの海外にあるため、記載を憚ったのだろうか。

 

 日本の最古の歴史書は「古事記」と「日本書紀」の二つしかない。古事記は上程された後、焚書扱いされていたのか、史上から姿を消していた。再び姿を現したのは200年ほども経ってからだ。

 このため後世の作であるとか偽書扱いもされ、その序文は後から付加されたものであるとか、いや序文だけは信憑性があるとかの議論も闘わされた。しかし近世この偽書説はすっかり影を潜めている。

 古事記の編纂に関わり、その序文を上梓した太安万侶の墓とおぼしき遺跡が見つかり、安麻呂の名前入りの墓誌が発掘された事も影響を与えたのだろう。

 

 古事記・書紀に書かれている神話・出来事は、現代世界ではあり得ない出来事も多く記されている。これらの伝承・説話は一体何を物語っているのか。只の伝説なのか荒唐無稽の話を参考までに紹介したのだろうか。

 それとも何らかの真実があり、それを元にして編集・脚色したものなのか。そうであれば数ある説話の中から僅かの真実・史実を知りたい欲求に駆られる。

 日本各地の古い神社には多くの古文書が伝わっている。これ等は多いに参考になるものだが、その縁起書などの多くは古事記或いは日本書紀の記述を踏襲したり抜粋したりして作成されているようだ。

 即ち記・紀以前の記録はないかの如くだ。

 

 アマテラスは実在したのか。別の名前はあったのか。男だったのか女だったのか。タカミムスビノミコトとの関係は。高天原は何所か。出雲の国譲りはあったのか。ヤマタノオロチとは何なのか。大国主命はスサノオノミコトの子供だったのか。神武東征はあったのか。邪馬台国は何所か。

 

 これ等の答えを探し続けて、今は二十有余年の歳月が流れ去った。様々な書籍を読み漁り、学者の論文、関係資料を渉猟した。一冊の本を読むとその関連資料のタイトルが載っている、または巻末に参考文献が載っている。これ等を目に付く限り収集して読み尽くした、否これ等の文献・資料には文字通り際限がない。事ここに至っては一区切りつける時が来たと思える。そして集大成として、この思いを著すべくペンを執る日がやって来たようだ。

 

 

 日本の起源と記・紀

 

 古事記・日本書紀に語られる日本の起源を示す説話の多くは不可思議な内容に満ちている。一体日本の古からの歴史が、ありもしないようなおとぎ話のような形で語られたままで良いのだろうか。

 日本の歴史はどこから、そしていつ始まったのか。日本の民俗、統率者は誰であったのか、そしてどこからやってきたのか。いまだに百家争鳴で、だれがどんな説を唱えても、それはそれでありうるかもしれないこととして通ってしまう。即ち、その新説を完全には否定できないからである。

 否定する材料が限りなく少ないのである。アマテラスなる女神が本当に天皇家の祖先であるのか。神武天皇は実在の人物であるか。邪馬台国はどこにあったのか。大国主の説話はどこまで信じられるのか。

 世界一ともいわれる仁徳天皇陵(大山古墳)の、巨大な古墳に祀られているのはいったい誰なのか。二十一世紀になっても分からないことだらけである。

 今日では日本書紀は藤原不比等が中心になって編纂されたという説が有力なものになっている。

 

 日本の歴史書は「日本書紀」とされているが、実は古の公文書には「日本書紀」という書名は現われていない。他の国史史料や「続日本紀」にも「日本紀」と記されている。この「日本紀」なる書は今に伝わっていない。現在「日本書紀」と「日本紀」は同じものとされているが、この見解は完全に定着したものではなく異論や所説が提起されている。

 初めて「日本書紀」の名前が現われるのは、738年成立の公式令集解の古記である。「日本書紀」は720年の完成とされているが、その後のかなり後世の記事も幾つか掲載されている。

 歴代天皇のを選定したとされる淡海御船は、721年生まれであり紀が成立した翌年の生まれである事も大きな謎になっている。

 天武天皇が681年に国史撰修の詔勅を出し、これにより川島皇子や中臣の連大島、平群臣子首などによって「帝紀」「上古諸事」が成立した。日本書紀の原資料となったのは他に、各氏族の墓記、寺院の縁起、芸文類聚、百済記、百済新撰、百済本記などである。

 日本書紀には系図一巻が付属していたが、いつの間にかその貴重な史料は失われてしまった。薗田香融は日本書紀には系譜の説明が全くない人物が、4人いるがそれは添付の系図を見れば明らかなので本文上では説明しなかったとみている。またその4人・葛城高額姫などの人物は古事記に系譜が記されており、分からなかったのではなく説明する必要がなかったと受け取れるとしている。

 平安時代に「新撰姓氏録」が成立したことにより、一巻の系図が自氏にとって不都合なものとなった、藤原氏によって焚書が行われたと想定できると示唆している。

 

日本書紀は漢文体で書かれている為に、どこに返り点をつけるかで意味が違ってくる上に、当て字が多く別の意味に捉えられている部分があるかもしれない。これに対して古事記は、一音一文字で書かれていてカナや読み方の記載があり、当時の言葉の発音がはっきり分かる利便性がある。

日本書紀は古事記にしか見られない歌謡を、引用しているところから古事記をも参考にしたとみられる。梅原猛は古事記・日本書紀とも宗教書であり、思想書であるとする。古事記も不比等が中心となって作られたと推定している。

日本書紀の資料になった古書の一つに「日本世紀」がある。同書の著者は高句麗の僧・道顕であり、日本の対外関係の記事を収録していたとみられるが、完本は残されていない。同書の成立は七世紀後半と見られる。

 

古事記について三谷栄一は持統から元明へ、女帝から女帝へと受け継がれたものといっている。古事記は712年の成立であるが、原本は伝わっておらず最も古い写本は14世紀の後半とされている。

古事記は天皇家に伝わる物語を、記録しておく私的な物語集であった、と言うのは武光誠である。

その為、なるべく多くの神々の話を取り上げている。日本書紀は天皇家中心の朝廷の、公式の歴史として作られたとも述べている。

また古事記は百済系の新撰姓氏録に対して、多人長が反発して812年頃に書いたとする説もある。(近江雅和)紀・記を編纂するにあたっての、原資料となった「帝紀」や「旧辞」「墓記」などの元資料が紀・紀の完成とともに姿を消していることも不審な事である。

 

 そもそも紀が日本の紀年を120年繰り上げたり、脚色をしたり、事実とは違う記事を載せていることが疑念を挟む元になったのではないか。後年の史家や研究者には分からないだろうと思ってしたことなのか。

 だとしたら、それはあまりにも浅はかでお粗末としか言いようがない。「神」と書いてあるところは「人」に置き換えて読めば済む。記の語る天皇の長大な年齢は、1年を春と秋で区切り、2年と数える二倍年齢とみればこれも収まる。

 記の歴代天皇の崩年干支表を見ると全てが月の前半になっている。後半に亡くなった天皇はいないのである。このことは、一か月は15日で形成されていたことを窺わせる。

 古田武彦はパラオやインドネシアには、1年を2年として生活する習俗があるという。会計年度の上期、下期や、盆と正月の長期休暇、夏冬に出す葉書は二倍年暦の痕跡で、明確な証拠は6月と12月に行われる大祓の祝詞に現れていると述べている。

 

 伊藤真二の「天皇崩年干支の謎」は、「周易」や「陰陽五行」「九星原理」などを詳細に論述している恐ろしく難解な論文である。記の序文には周易でしか使わない言葉がある他、易経や陰陽五行の字句が色濃く反映されている。

伊藤はこの論文で記の天皇の崩年干支は、陰陽によって割り出された数字であるとしている。ちなみに伊藤は記と紀の死亡年月日が違っている事から、両書はそれぞれ別の原資料によって編纂されたと言っている。(東アジアの古代文化)

 

 出てくるたびに名前の変わり、表記文字までもが変わる神々。そして何世代も超えて再び現れる神は、どう解釈したらよいのか。

 歴代の天皇は持統天皇と明治天皇のほかには伊勢神宮に参拝していない。(神皇正統記では聖武天皇が伊勢に行幸している。)持統の場合は前代の天智が伊勢の斎王を決めたり、国史の編纂を指示したことによるものであろう。

 明治天皇は時の政府方針で天皇は現人神で絶対犯すべからず神聖なものとして思想教育されたことで参拝の必要に迫られたのであろう。してみると125人もの歴代の天皇は伊勢神宮に参拝していない。

 この事実は必然的にアマテラスを祖先として仰いでいないということになる。大嘗祭の主神は高御産巣日神である。

 

 国宝の「海部氏系図」を擁し有名になった、籠神社の先代宮司が著した「神台並上代系譜略図記」には、「アマテラス大神は国常立尊すなわち大元神の所顕であらせられる」とある。アマテラスは人格神ではなく、アラハバキ神であると断定している。(記紀解体)あるいはそうかもしれないが、だとしたらロマンのないことこの上もない。アマテラスは夫もなく神秘的な影が漂っている。処女で懐胎したイエスの母マリアのイメージも付きまとう。

 シャーマンであったが、侵略の指示を出したりもする。そして天下りの頃を境に方針を出すのは、パートナーと見られる高木の神に変わってくる。こうした論理が一貫していないところが、また神話たる所以でもありこれがために却って真実味を持たせる効果を生んでいる。

 アマテラスを祀る神社が少ないことも、また大きな謎を秘めている。全国著名神社151社中、アマテラスを祭神とするのは8社だけで伊邪那岐の9社よりも少ない。ちなみに大巳貴・大国主を祀る神社は17社に上る。

 

 古事記偽書説では記に出てくる国名が後世の造作とされていたが、藤原宮跡より多数の木簡が発見され、これにより対比するとそのほとんどが大宝前後の古い表記であることが証明された。

 紀のそれよりも一段階古い形を存していることが明らかになり偽書説の成立し難い一論拠となる。記と紀の関係をみるに神功皇后の段などを対比すると、両書は親子関係ではなく、兄弟或いは従兄弟の関係のように、並列の関係で結ばれている。

九州地方の古風土記には表記などから甲類、乙類とその他の第三類があるとされている。

この三文献はそれぞれ成立時期が少しずれている。古い乙類風土記は紀の編纂の際に参照されたとする説がある。

しかし乙類は甲類より古い物の紀以前の成立の証拠はなく、いずれが何れに拠ったという性質のものではない。国家的見地と地方所伝の立場から編纂目的と態度を異にしており、両者に直接の交渉はない。(田中卓・古典籍と史料)

また古田武彦は古事記の内容は原初的、本来的真実性を持つことが数々の面から裏書きされているという。更に国語学上の甲類乙類の表音表記が、七・八世紀以前の特徴を十二分に備えていると述べている。

記・紀編纂の主な原資料となったのは「帝紀」と「旧事」である。帝紀には歴代天皇の名前、皇居、妃、子供の名前とその御代の重大事件が記されていたとされる。旧事には、神話や天皇の言動に関わる物語が記されていたとみられる。

 

 

言語と習俗から辿る日本人の故郷

 

 言語学者の大野晋は日本人の祖先はインド南部のドラヴィダ語族タミル人が、南シナ海から対馬海流に乗り、北九州と南朝鮮にやってきたと推測している。

ドラヴィダ語の文法は日本語と同じ構造で、日本語とそっくりの単語がいっぱいある。米に関してだけでも糠、粥、餅などの対応語があり、長歌や短歌の形式もある。115日には赤い米を炊いてそのお粥を食べる風習は日本と同じで、小正月の行事や冠婚葬祭なども日本とそっくりという。

 日本語は母音終わりでハワイ語やポリネシア語と同じ、縄文期にまずこの言葉が入って来て、後にタミル語が到来しヤマト言葉が生まれたとしている。このタミル人は稲作と鉄・機織りを持ってきた。

 ユダヤの失われた十支族が中央アジア・ビルマなどを経て、日本にやってきたと説く論者もいる。ユダヤの菊の紋章は皇室と同じという。更に、日本にはヘブライ語を語源とする言葉が千二百語以上あるとも言う。中には日本語の発音そのままの地名や人名もあるとしている。(天皇家とユダヤ人)

 宇野正美は騎馬民族の「スキタイ」が古代ユダヤ人を連れて来たと言っている。王朝の始祖ダビデの孫の時にイスラエルは分裂し、十部族の北朝・イスラエルと二部族の南朝・ユダの二国になった。後にイスラエルはスキタイに滅ぼされ、十部族は日本の東北地方に導かれた。東北には今もスキタイの遺跡・環状列石が多く残っていると論じている。

 

 従来日本語はアルタイ語系とされてきたが、文法構造が似ているだけで対応語がないが、タミル語はこの条件を満たした、とも言っている。長田夏樹は日朝両語は同系列であり、共にアルタイ語に属していると説く。主語と述語、修飾語と被修飾語の語順が一致している他、「てにをは」から派生した名詞・動詞が類似している。日朝両語には母音調和が見られ、基礎語彙に同源語が多いと述べている。更に詳しい日朝語の対応表なども示しているが、門外漢から見ると同じ発音のものはないように思われる。

 日本語について、幾つもの著書を持っている金田一春彦は上代には八つの母音があった。日本語アルタイ語同源説は、母音調和が見出されないのが弱点とされていると述べている。そして日本語は琉球語を除いて、他に全然類似の言語を持たない孤立した言語であるという。日本語と同じ語順を持つのは朝鮮語、満州語、現代蒙古語、アイヌ語であり、アルタイ諸語は連体詞の使い方が違うと言っている。

 

森博達は漢音と呉音では呉音の方が日本語によく溶け込んでいるという。

 古事記や万葉集は呉音系で日本書紀だけは漢音である。また呉音より古い古韓音も残っていて、埼玉稲荷山の鉄剣銘の仮名がそれであると論じている。このほか森は文武・元明朝での国史撰述の担当者を挙げるなら、山田史御方が随一の候補であるという。日本書紀の巻十四からの述作は続守言が担当し、巻二十四からは薩弘恪が担当し、巻三十の撰述は紀清人が担当したとしている。

 森は三宅臣藤麻呂が全巻にわたって、漢籍による潤色を加え若干の記事を加筆したと述べている。

 

 三品彰英は神話は直線的に歴史を語るものではないと言い、日本列島の原住民は南方系の民俗が主体であったと想定している。松本清張もこれに賛同し、この民族を制圧して占拠したのが朝鮮系移住民である。

次にこの朝鮮系移住民を居住地帯・土地勢力を分断して大和を占領したのが、後来の北方系朝鮮氏族(夫余族)であると述べている。

 前二世紀頃に満洲の中央付近にあった「夫余国」の習俗は、人が死ぬと連日宴会を催したり、兄が死ぬと弟が兄嫁と結婚するなど日本と非常によく似ている。この夫余から一派が高句麗へ入り、始祖王の朱蒙となった。

 朱蒙が夫余を去る時に母は五穀の種を与えたが、朱蒙が麦の種を忘れたために母は鳩となって届けたという。これは母のアマテラスが押穂耳に、斎庭の穂を与えた話と同じである。

 高句麗の王氏高麗の八関祭は十月に盛大に行われる、収穫祭であり王が封冊を受けた時に大祭を行う王の即位と結びついた際儀である。このような日本の大嘗祭と同じく、収穫祭が王の即位式でもあるというのは日本と高句麗だけである。また八関祭は死者の霊祭りでもあり、朱蒙は穀物起源神話を持っている。(日本人とは何か)

 ここまで似ていると「夫余国」や高句麗が、日本の神話・伝承や文化に影響をもたらしている事は否定できない。

 魏志によると「夫余国」と倭人の習俗は似ているが、高句麗と倭人はあまり似ていないという。だがその王権文化は多くの共通点を持っている。「夫余国」を母国とする人たちが日本へも来ていたのだろう。

 「魏書」に「百済国はその先、夫余より出ず。」とあり、百済王は夫余国の王子とされている。夫余の東明王の神話は、百済の神話とその内容において殆ど同じものである。高句麗の朱蒙の神話は詳しく物語風になっているが、大筋では夫余と百済のものと同じである。

 中国の雲南州の人々の顔立ちは、日本人とそっくりと言われその風俗もまた似ているという。村の入り口には木造りの門を建てる。アカ族は門に注連縄をはり、拉祜族は道の両側に立つ木に鬼の目を付けた注連縄をかけ渡す。

 この鬼の目を付けた注連縄を張る習慣は奈良・滋賀・三重に多く見られる。また韓国でも陰暦正月には、村の入り口に注連縄が張り渡される。この注連縄の習俗は北緯三十八度線の北側には見られない。(古代朝鮮と倭族)

 考古学の成果からは、中国の東北部に現れた支石墓が南下して朝鮮に伝わり、対馬に伝わり北九州にも弥生期に伝わったとされる。

 

 

神々の誕生・創世神話

 

 古代の人々にとって神様は身近な存在であり、毎日の生活の中に神様が介在し共に暮らしていたといえる。古代に科学はなく分らない事は神様の行為として、困った事も神様に聞いていた。

 地には地神、水には水神、山には山神、海には海神、風には風の神様、火にも火神、鏡にも神様が宿り、ありとあらゆる物に神様の概念が籠められていた。

 現代では一笑に付される怪異現象もそのまま信じられ受け入れられていた。近くでは平安時代の京都でさえ、人々は霊魂と一緒に暮らしていた。鬼が住み、菅原道真の怨霊が祟りをなしていた。

 

 このため時の為政者は怨霊から護るため、寝ずの警護番士を立てて一晩中かがり火を燃やして警戒していた。森羅万象には節理があり全ての物質には創造主がいると考えられていた。宇宙の元となるその根源の神は即ち「天之御中主神」に寄託されている。

 神道教理にあっては天之御中主神と国常立神、御食津神(ウカノミタマ)は、いずれも豊受大神の別名・同神とされている。

更に天之御中主神と国常立神は大元尊神と同一であるという。大元尊神とはアラハバキ神を指しているらしい。「高天原」という言葉は記・紀編纂者が勝手に作ったのではない。

天日明系、富氏系、宇佐氏系とそれぞれに出所を異にする伝承が、一様に高天原を伝えているのはその言葉が初めからあったからである。高天原とはアラビア語でタカマアハラアで、聖地の上空にある神の家という意味である。(記紀解体)

高天原を大和の葛城山、金剛山の一帯という人もいる。これらの山を高天山と呼び、山麓には葛城族が住んでいた。奈良市には今も高天町の地名がある。

 宇佐家の伝承では、高御産巣日神系が原日本民族の北方系で、神産巣日神系が南方系であるとしている。

 天之御中主神を祀っている神社がない事から、武光誠は内陸アジア系の人々が日本に移住した比較的新しい時期に、天之御中主神の観念が持ち込まれたと考えられると述べている。

 

 

  新編古事記

 

 天と地が分れ生成された時、天上界・高天原に初めて神が生まれた。世界の根源を創造した概念の神様でその名を天之御中主神と呼ばれた。

 次に姿を現したのは生産の神様、高御産巣日神と神産巣日神である。この二神は天神系出雲系とも言われる。

 この三神は独り神で何時の間にか姿を消し、その系譜は伝わっていない。

 国土は固まらず、さながら油が浮いてクラゲが漂っている如き時代に、葦の芽が出るように誕生したのは、カビの化身・宇摩志阿斯可備比古遅神である。(初めての生物誕生を思わせる。)

 次に永遠の拠り所を包含した天之常立神が現れ、いつしか姿を消し足跡は残していない。

 

 

 神世七代 神皇正統記

 

 多くの神様はペアで語られている。中国のあらゆる世界の二物は陰と陽から成り立っているという思想・中国の陰陽道の影響を垣間見ることが出来る。天之御中主神は世界の中心であるとされ、高御産巣日神と神産巣日神はさながら山と海の生産を象徴としているのか。

宇摩志阿斯可備比古遅神と豊雲野神は地と空の神。天之常立神と国之常立神が天上地上の神、宇比地邇神と須比智邇神は土と石を表しているか。角杙神と活杙神は稲作に必要となる水路を作る様々な杭のようでもある。

意富斗能地神と大斗乃弁神は大地の男女神。於母陀流神と阿夜可志古泥神は湿地帯が生産に適した耕作地へと変化していく状況を表しているようだ。伊邪那岐神は伊邪那美神はアダムとイヴ、人類の始祖そして自然の創造主として語られている。これらの思想の下敷きには陰陽五行説が垣間見えている。

 

 井上光貞は古事記と日本書紀は皇室の系図「帝紀」と昔物語「旧辞」とを典拠として作られたとする。津田左右吉は帝紀と旧辞は、六世紀半ばの継体天皇の頃に作られたとする。帝紀と旧辞は残念ながら原本はおろか写本も今に伝わっていない。両書が現在に伝わっていたなら、現在様々に論じられている神話・歴史ストーリーがかなり変っていたと思われる。

神皇正統記は後醍醐天皇に仕え、大納言をも務めた公卿の北畠親房の著述である。神代からの歴史を解きあかし後村上天皇までを記述している。従って14世紀中頃の成立となろうか。著者は折に触れて中国の歴史を織りまぜて、豊富なボキャブラリーで文章を構成している。時には神道や仏教を取り上げると共に、人の道の在るべき姿をも説いている。

一見すると名文を弄しているように見受けるが、その状況説明においてナレーションのような口ぶりからは、平家物語を彷彿とさせるものがある。その立場からか北朝の天皇は歴代天皇の中に入れていない。一番多くのページを割いているのは後醍醐天皇である。記・紀や旧事本記、古語拾遺の記事にも少し触れているが、多くは独自の資料によっているとみられる。

神皇正統記は国之常立神の次に現れた五神は木・火・土・金・水の五行の徳を表したものであるから、全て国之常立神の事であるという。国之常立神のまたの名は天の御中主で、その子が高皇産霊、神皇産霊、津速産霊であるとしている

 

 

  新編古事記 

 

 次に国を作る国之常立神、空を形成する豊雲野神が誕生した。この二神は独り神で足跡は不明のままやがて消えていった。

(独り神はここまでで次からはペアの神の誕生が続く。)

次に地上を形成する土の神、宇比地邇神とその妹須比智邇神が誕生した。

 更に水路を形づくる角杙神、その妹活杙神が生まれた。次に住居の守り神、意富斗能地神その妹大斗乃弁神が生まれた。

 次に於母陀流神その妹阿夜可志古泥神が生まれ、次に国産みの神が誕生する。すなわち伊邪那岐神その妹伊邪那美神が生まれた。

以上の神を神世七代という

 

   国之常立神、

   豊雲野神

宇比地邇神  須比智邇神 

   角杙神    活杙神  

   意富斗能地神 大斗乃弁神 

   於母陀流神  阿夜可志古泥神

   伊邪那岐神  伊邪那美神 

 

 (以上の神を神世七代といい、これ等十二神で神の世界を構成する。その前の創世神話に登場する五神は神の世界から外れている。従って自然現象を写した自然神であったのだろう。)

 

 

  国生み神話

 

 伊邪那岐は鉾を持っていた。この事から伊邪那岐が比較的新しい神様だったと理解できる。この矛は恐らく銅矛を想定していると思われるが、鉄の矛であればさらに時代はくだって弥生後期くらいを推定する事が可能になってくる。

田中卓はこの国生み神話を、禊祓いの行われる難波の八十嶋祭と関係づけて考えている。仁徳天皇が磐之姫が亡くなった時に難波の津で禊祓いした形跡があり、淀川の河口には八十嶋と呼ばれる大小の島々がある。

更に仁徳天皇の歌に於能碁呂島の名がみえることから推敲している。古は海水が凝り固まって塩ができ、島もそのようにして出来たと想像していたのだろうか。少なくとも関連付けを意図しているように受取れる。

 常識的に考えると一番最初に覇権を確立した島、或いは支配者の出身地を最初に生んだとするのが順当であるがここではそうはなっていない。宮を建てて住んだとあれば尚更である。

しかし一番最初に出来たとされる於能碁呂島は重要な島である。何故最初に出来たのが於能碁呂島なのか場所は何所なのか。その所在地は今瀬戸内海説と北九州説がある。瀬戸内海説には淡路島の東南の友ヶ島とする説があり、この場合重要な島になってくるのが淡路島である。

ここの神話は淡路島に伝わっていた神話・伝承から採用したとみられるが、祭祀跡や遺跡などの裏付けが必要になってくるであろう。伊邪那岐の墓(祀られている所)は紀では淡路島とあり、記では「淡海」()とあるがこれも淡路島であろう。淡路島には近世創建のおのごろ島神社があり、そこには天の浮橋と伝えられる黒い岩がある。

 

於能碁呂島の表記を「自凝島」ととるか「御能碁呂島」と解釈するかによっても、その比定の位置が変わってくるようだ。「自凝島」とすると意味が通り過ぎて後世の付会のように見えてくる。

地名は固有名詞であり、意味のわからない、当て字のようなものが多いことから「御能碁呂島」の方が古い伝承を伝えているようだ。

古田武彦は於能碁呂島を博多湾内の能古島に比定している。伊邪那岐が途中経過を言わずに天下っていることから、天国(実は海人国)の領域外でしかも近接している場所であることは明らかである。於能碁呂島の於「お」は接頭語で呂は地名接尾語であるから、固有の地名は「のこのしま」であると説明している。

 

また淡島は淡路島ではなく、瀬戸内海の小島であるとするのが一般的な解釈である。その理由は四国を産む前に産んだという、淡路之穂之狭別島を現在の淡路島と考えるからである。もしその通りとするならばこの段の神話は瀬戸内海・淡路島の神話を挿入したといえるかもしれない。

淡路島には伊佐奈岐神社があり、今も阿万(アマ)という地名がある。日本神話にはすべからく天の浮橋、天の沼矛、天の御柱、天神など天の○○という言葉が往々にして出てくる。「天の」は地名や部族名を表しているようだ。

「天の安河」「天の浮橋」という言葉をみると明らかに「あま」という地名のことをさしている。「高天原」という地名は「天の台地(原)」に、尊称としての「高」を冠したのであろう。

ちなみに古田武彦は、高天原を対馬海流圏の島々と見なして「天国」として中心地を対馬に比定し、同島をアマテ伊邪那岐ラスの誕生地としている。

 

「天の沼矛」は「天(あま)」に住む大氏族が、使っている特殊の矛・沼矛という意味にとれる。天の宇受売命や天の手力男命の「あま」は地名と同化しているものであろう。

西方から中央に進出してきた「海人族」の「あま」が源になっていると推考される。高天原はどこかに実在した地名・土地を指しているのではなく、イメージを具現化したものと思われる。田中卓は天孫降臨と、天の岩戸隠れの神話には丹波が深く関係していると論じている。

 丹波には比冶の真名井や藤神社があり、その地の御食津神、等由気太神が外宮に祀られた。峰山町の足占山の山頂の池が麻奈井と思われ、そこからは天の橋立てや久美浜までが一望できる。

 天の石戸別神を祀る大社の櫛石窓神社も、丹波国多紀郡にあり大宮売神(古語拾遺)を祀る大社の大宮売神社も丹波国丹波郡にある。仮に高天原が丹波ならば、天の香具山から殖土を取ってくることもさほど難しくはなかった筈である。比冶の真名井からは、天の真名井を連想させられるが天の真名井は北九州にもある。

 

 

 

 新編古事記

 

 高天原を支配していた神々(権力者)たちは、伊邪那岐神・伊邪那美神両神に、小勢力の混在で不安定な近隣国を配下に治めよと指示をくだした。

 これにより両神は天の浮橋の近くに陣取り、鉾の威力に物を言わせて諸勢力を配下に組み入れた。

 これを於能碁呂島と名づけ、そこに太い柱を使い広い住いを建て拠点とした。

 


 イザナギとイザナミの本貫地

 

 聖婚説話

 

 イザナギとイザナミの結婚は、古くは兄弟婚や肉親間での婚姻もあったので、さして奇異なことではない。このアダムとイヴ系の神話は日本のみならず、インドネシアやインド、東南アジアなどによく似た神話が伝わっている。

茂在寅男は古代ポリネシア語に、「イサナギ」「イサナミ」という言葉があるとしている。

 古代人の主流をなす種族は、縄文時代に江南や東南アジア等からの南方から、稲作技術を持って日本に渡ってきたと考えるのが自然の成り行きというものであろうか。

水蛭子は不具者説のほかに、日女(ひるめ)に対する日子(ひるこ)であるとする論者がいる。

 

 大倭氏の伝承を物語る大倭神社註進状には、椎根津彦が難波で釣りをしていると磐樟舟が流れてきたので、これを迎え蛭子のご神体として奉祭したとある。即ち広田西宮良殿がそれである。

 難波の海は淡路島の付近と考えられ、古事記の所説と大倭氏の家伝は一致する。椎根津彦は畿内に原住するオオナムチ系の氏族で、西宮付近を中心に大阪湾から明石海峡に勢力を張っていた海部の首長であったと考える。

後代のニギハヤヒノミコトが天下ったのは河内とされている事も考えると、ニギハヤヒノミコトのことをここで蛭子と言っているのだろう。蛭子が流されたのはニニギノミコトの、天孫降臨の前であると記・紀ともに記しているところである。ニギとハヤは美称で「ヒ」(ヒル)が名前であろう。

蛭子を「御子」の数に入れなかったのは、数に入れると天孫系の主流が物部氏に移ってしまうからではなかったか。(田中卓・神話と史実)

 似たような話が「名八幡宇佐神宮託宣集」に載っている。次に要点を紹介する。

 

    大隅宮縁起中に云う、陳大王の娘大比留女七歳にして懐妊、九か月を経て子を産む、天子・王臣が怪しみ問い正すと交接はなく夢を見ただけという、生まれた子が二歳の時に誰かと問うと、我が名は八幡と答えたという。

     三四年後に親子ともに空舟に乗せて流した。この舟は大隅の磯岸に着いた。そこを八幡崎という。

 

    武光誠は「日本神話と神々の謎」の中で沖縄の「オトジチョ」という悪神を流す話を紹介している。日神の子にやくざ者がいて、田畑を荒らすので根の国に送ったという。

 蛭子は全く抹殺された訳ではなく、今も徳島県の蛭子神社や福岡県の麻氏良布神社に祭られている。また蛭子すなわちスサノオであるとする説は、泉谷康夫などに見られる。

 

 

 新編古事記

 

 伊邪那岐神は妹の伊邪那美神に聞く。あなたの体はどうなっている。伊邪那美は答えて体は成長してきたが一箇所なりあわない所がある。

 伊邪那岐は自分の体は成長を遂げ、なりあまる所が一箇所ある、そのあまりたる所をそなたのなりあわぬ所に塞いで国を生みたいと思うと言った。

 伊邪那美も承知し、天の御柱を回り、出会った所で交接する事を約束した。伊邪那岐は右から回り伊邪那美は左から回り始めた。出合ったところで伊邪那美は「まあ何と素敵な人」と言った

 伊邪那岐は「やあ素敵な人」と言った。次に伊邪那岐は女人から先に物言うのは良くないと言った。そして交わい、生まれた子、水蛭子は葦船に入れて流して捨てた。次に淡島を生んだがこれも子の数には入れなかった。

 

 (流産したものか或いは奇形児だったのだろうか、どちらにしてもありがちなことではある。水蛭子()と淡島の攻略には失敗した事を物語っているのだろうか。)

 

 

 大八島生成

 

 出雲風土記では、八束水臣津野命が国引きによって出雲の国を整えたとある。この国つくりをした重要な人物八束水臣津野命は古事記には登場しない。代わりに於美豆奴神の記載があるが同一人物であろう。

 於美豆奴神はスサノオの四世の孫であり、大国主の祖父に当る人物である。耳で聞いた音は漢字に置き換えるときに、人によって選択する文字が微妙に変わる故である。 

 井上光貞はこの国産み神話を、政治的な国土とそれを支配する大和朝廷の祖神を生む物語であり、政治的な意味を持つものとしている。

 更に西部の本の古代文化が北方よりも、太平洋諸島や東南アジアの文化に多くの共通点を持っている他、習俗や考古学上の事実からも同じことがいえると論じている。

 森浩一は二神が生み出したこれら島々は全て海上交通の要衛であるという。

 これらの島々は日本地図からみた場合、小さな島が含まれているなど、実態に即していない多少いびつなものであるが、海部族のルート確保と考えると合点がいく。

国生み神話の原点は天之沼矛にあり、その国々の分布は筑紫を中心とする細形銅矛・細形銅戈・細形銅剣の分布と大筋において一致している。(古代史を疑う)

 

 

 新編古事記

 

淡島の攻略に失敗したイザナギとイザナミは、大本営である高天原に報告し指示を仰いだ。

 高天原の天神は太占で占って指示を出した。姦計を仕掛けるべく先に女人を出したのが良くなかった、勇猛な男子の武将に先乗りさせるべし。

 

 そして今度はイザナギが自から指揮して攻略を開始した。その結果、攻略した所は

淡路之穂之狭別島、次に伊予の二名島、この島には四国あり。

 それぞれ頭領あり。伊予の国の頭領を愛比売といい、讃岐国の頭領を飯依比古という。粟国の頭領を大気都比売、土佐国の頭領を建依別といった。

 

 次に隠岐の三つ子の島、頭領の名をアメノオシコロワケという。次に筑紫島にも進出した。この島にも四国あり。国ごとに頭領あり。

 筑紫国の頭領を白日別、豊国の頭領を豊日別、肥野国の頭領を建日向日豊久土比泥別、熊襲の国の頭領を建日別という。

 次に壱岐の島の頭領のアメヒトツハシラ、次に対馬の頭領のアメノサデトリヒメにも影響力を及ぼした。

 次に佐渡島を知り、次に大倭豊秋津島の頭領のアマツミソラトヨアキツネワケを知った。ここにおいて八島の地理を理解し大八島国と呼んだ。大国だけに権威のある名前を冠した。

 

 最後に吉備の小島、又の名を建日方別と小豆島の頭領オオノデ姫にも影響力を及ぼした。

 次に大嶋又の名をオオタマルワケ、次に姫島又の名をアメヒトツネ、次に知珂の島又の名をアメノオシオ、次に両児島又の名をアメフタヤを支配下に収めた。

 

 

 イザナギとイザナミの本貫地

 

 島の次に神々を生むくだりが展開されるが、勿論その通りの順番ではなく、島々を攻略(或いは地理を知る)しながら子孫を増やしていった状況の描写が投影されているのだろう。古事記を素直に読めば於能碁呂島は瀬戸内海に比定できる。

 イザナギとイザナミは多くの神々を誕生させる。その舞台は主に出雲である。イザナミを葬った比婆山は出雲と伯耆の国境であり「黄泉の国」は出雲とみられている。「黄泉の平坂」も一般に出雲とされている。

 「佐田大社之記」をみると、「イザナギは淡海国日少宮に隠れ、イザナミは比国に崩御し垂日山に葬る」「比婆山は蓋しここなるか」と記載している。

 

記には「伊邪那伎大神は淡海の多賀に坐すなり」とあり、今の多賀大社にはイザナギが祀られている。

淡路島の伊佐奈岐大社は朝廷から一品という神格を与えられている。イザナギ、イザナミの伝説は淡路島を中心に分布している。

この事からこの両神は元は淡路島の航海民が祀った神で後に記紀に採り入れられたのであろう。(日本神話と神々の謎)寶歴14(ママ)の「熊野村神社萬指出帳」には次の記事が載せられている。

「熊野大社は天神イザナミ尊の神廟なり、山陵を比婆山と号す、或一名天宮山ともいう、或いはアマテラス大神始めて青垣の宮を造りし故、元宮山とも青垣山ともいう」

(神道大系)

 またイザナミの神陵は出雲に7か所、広島、鳥取、和歌山にそれぞれ1か所ある。(謎の出雲帝国)

 イザナギはカグツチを十握の剣で斬っている。この剣は十握であるから十握りの長さの剣であったと思われ、剣を持っていたことから弥生時代の伝承を彷彿とさせるものがある。

 古伝「上記(うえつふみ)」にはイザナギとイザナミの前に沫凪と沫波の名前が記されて、イザナギとイザナミは威清凪・威清波と表記されている。この字を充ててみると両神は海洋神であった事が窺われる。水に深い関わりがあり、航海の際に信奉された神であったのだろうか。

 

 

 

 

 新編古事記

 

イザナギとイザナミは次の自然神を創造した。

オオコトオシオの神、イワツチビコの神、イワスヒメの神、オオトヒワケの神、アメノフキオの神、オオヤビコの神、カザモツワケノオシオの神、海の神・オオワタツミの神、水戸神・ハヤアキツヒコの神、ハヤアキツヒヒメの神。

 

 アキツヒコの神、ハヤアキツヒヒメの二神は、アワナギの神、アワナミの神、ツラナギの神、ツラナミの神、アメノミクマリの神、クニノミクマリの神、アメノクヒギモチの神、クニノクヒギモチの神を生む。

 

 イザナミは次に風の神・シナツヒコの神、木の神・ククノチの神、山の神・大山ツミの神、野の神・カヤノヒメの神又の名をノズチの神を生む。

 大山ツミの神、ノズチの神は、アメノサズチの神、クニノサズチの神、アメノサギリの神、クニノサギリの神、アメノクラトの神、クニノクラトの神、オオトマトヒコの神、オオトマト姫の神を生む。

 

 イザナミは次に鳥のイワクス舟の神・天の鳥船、オオゲツメの神、ヒノヤギハヤオの神・ヒノカガビコの神・ヒノカグツチの神を生む。

 ヒノカグツチの神を産んだことにより、イザナミはホトを焼かれ病んで臥せた。嘔吐物から金山彦の神、金山姫の神が生まれ、糞からはハニヤスビコの神、ハニヤスヒメの神が生まれた。

 尿からはミツハノメの神、ワクムスビの神・トヨウケビメの神が生まれた。イザナミは火之神を産んだ事で死亡した。

 以上の十四島、三十五神を創造した。能碁呂島とヒルコと淡島は数のうちに入れない。

 

 

 火之迦具土神(カグツチ)

 

 田中卓は神代史の主要な説話は、後世の著名重大な史実を原核として成立したものであり、史実が反映されているらしいとしている。(神話と史実)豊受大神は保食神、大気都姫、豊受賀能売命と同神と言われている。

 記の次のくだりでは生まれた神(人)の名前からその由来を関連付けて説明している。神々の系譜の説明をここで一挙に展開している。

 

 

 新編古事記

 

 イザナギはイザナミの枕辺で泣いた。その涙からナキサワメの神が生まれ、今は香具山の麓の丘の上に居る。

 イザナミは出雲と伯伎国の境の比婆の山に葬られた。イザナミは十握剣を抜いてカグツチを斬った。

 剣先に付いた血からイワサクの神、次にネサクの神、イワツツノオの神が生まれた。剣の根元の血からはミカハヤヒの神、ヒハヤヒの神、タケミカズチノオの神・タケフツの神・トヨフツの神が生まれた。

 

 柄に溜まった血からは、クラオカミの神、クラミツハヤの神が生まれた。

カグツチの頭からは、マサカヤマツミの神、胸からはオドヤマツミの神、ホトからはクラヤマツミの神が生まれた。

 左手からは、シギヤマツミの神、右の手からは、ハヤマツミの神、左足からはハラヤマツミの神、右足からは、トヤマツミの神が生まれた。その剣の名は天のオハバリ又の名をイツノオハバリという。

 

 

 黄泉の国は魔界

 

 「黄泉の国」は出雲をイメージして説話の文章構成が組まれたようだ。だがこの黄泉の国の一節は、日本書紀本文には記載されていない。このことはどう考えたらよいのだろうか。黄泉の国の物語は元々出雲の伝承であったものを、中央で天皇家の神話として取り入れたのだろうか。

または、日本書紀の一書のうちの幾つかには記載のあることから、古事記以前の書「旧事」に記されていたということもできる。イザナミの墓の描写からは、古墳と石室の印象が彷彿として伝わってくる。

今、島根の東出雲町に揖夜神社がある。根の国は島根の「根」であろうと思われる。田中卓は黄泉の国訪問説話は六・七世紀の成立としても、所伝の基本的な内容は更に遡る時代に求めることも可能であろうとしている。

 そして神話と神代史の関係に対応するもの、なんらかの史実の反映と考える田中卓は仁徳天皇と磐之媛との関係を想定する。磐之媛は嫉妬に駆られ天皇の意に背いて、山城国に行ってしまい天皇が迎えに行ったが磐之媛は逢わなかった。暫くして磐之媛は亡くなり山城国に葬られた。

 確かによく似たストーリーになっている。

 

 桃が魔物や邪気を払う話は「山海経」や「淮南子」にあり、古代の中国では桃は清浄な果物と考えられていた。妻から逃げる話は「五代史」に記事があり、黄泉の国の神話は南太平洋の神話に非常によく似ている。(井上光貞・日本の歴史)

 岡政雄は、北方神話のタカミムスビとイザナギ・イザナミの南方神話、そして古来からの太陽信仰のアマテラスが混在して構成しているという。(紀記解体)

 島根県の八束郡鹿島町にある佐太神社は、上古には出雲四大神とされていた。祭神は佐太大神であるが、「佐陀社内證記」によると、佐陀大明神とはイザナギ、イザナミの尊なりとある。

 熊野三山の古伝にはイザナギとイザナミの記事が多く出ていて、この地域と両神の縁が深かった事が窺える。「御鎮座祭文」には、崇神65年にイザナミが有馬村より熊野邑高倉下に移り、高倉下の子孫及び国造八門の神主に命じて祀らしたとある。イザナミの御神体は白銅鏡であると記されている。

 

 

 新編古事記

 

 イザナギは妻のイザナミに会いたくなり黄泉の国へと訪ねて行く。墓の前でイザナギは語りかける。愛しい妻よ、汝と作りつつある国はまだ完成していない、帰ってきて手伝ってくれないか。

 イザナミは地下から答える。あなたが早く来てくれなかった事が口惜しい、私は既に黄泉の国の洗礼を受けて帰れない体になってしまった、見ないで欲しい。

 諦めきれないイザナギは髪に差していた櫛に火をともして墓の中をのぞいた。

 

 イザナミの体は腐って蛆がたかっていた。頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、ホトには析雷、左の手には若雷、右の手には土雷、左の足には鳴雷、右の足には伏雷あわせて八種の雷神がたかっていた。

 

 醜いところを見られたイザナミは恥をかかせたなといい、ヨモツシコメにイザナギを追わせた。イザナギは黒の髪飾りを取って投げた。

 髪飾りは山葡萄となり、ヨモツシコメがこれを食べている隙に逃げる。また右の髪に差していた櫛を投げるとそれは筍となった。ヨモツシコメが食べる間に更に逃げる。

 イザナミは八種の雷神に千五百の軍勢をつけて追わせる。

 イザナギは十握の剣を抜いて後ろ手に振りながら逃げた。黄泉比良坂の阪本に来た時、そこにあった桃の実を三つ投げた。

 軍勢はこれにより退散した。イザナギは桃に告げて、吾を助けた如く葦原中津国の人が苦しむ時には助けてあげよと言った。桃にオオカムズミニミコトと名前を与えた。

 

 ついにはイザナミが自ら追って来たので、イザナギは大きな岩で坂を塞いだ。ことどを渡して、イザナミはこの仕打ちに対して汝の国の人を一日に千人殺してやろうと言った。

 イザナギはそれなら一日に千五百人の人を生もうと答えた。そしてイザナミを黄泉津大神と名づけた。または道敷大神という。大岩は道返大神と名付けた。又は、ヨミドニイマス大神という。この坂は今の出雲の伊賦夜坂だという。


住吉大社神代記

 

海神・アマテラスの誕生

 

 神話の舞台は黄泉の国出雲から一転、九州へと移っていく。イザナギは筑紫の日向に行き禊祓いをする、この橘の小戸の所在には諸説はあるが素直に読めば宮崎県になる。田中卓は綿津見の神と筒男命出現の所伝は架空の場所ではなく、現実に存在するある地点を中心に伝えられていたらしいと述べている。

宮崎県には信憑性はともかく、神話をそのままになぞる伝説地が全て完備されている。今も「橘」や「小戸」「阿波岐原」の地名が存在している。

梅原猛は宮崎市の橘や小戸の名前は古い地名であり、小戸は薩摩にあったとみられる綿津見の神の国との貿易港であったとみている。小戸神社はイザナギ・イザナミを祀っている古い由緒のある神社である。江田町にはやはりイザナギ・イザナミを祀る江田神社がある。

阿波岐原のあおき遺跡は日向でも突出して古く、出土物から弥生前期中期の遺跡であるとされる。このような状況からも、イザナギが禊祓いをし、三貴神が生まれた橘の小門は日向の宮崎市になろう。(天皇家のふるさと日向を行く)

江田神社の北に位置するところに、塩路の地名があり塩土の神との関連を窺わせる。さらにその北には住吉神社が鎮座している。

 

田中卓は禊祓いで生まれた綿津見神が、祀られている志賀海神社が筑前にあり、しかも社家は綿津見の神の後裔の安住氏であること。

更に住吉神社やヤソマガツヒの神、カムナオビの神、オホナオビの神が祭られている警固神社の存在などから博多・那珂川付近に求めている。安曇氏の本貫は筑前粕谷郡安曇郷であり、応神天皇の頃に畿内に進出した。禊祓いで生まれた綿津見の神と筒男命は共に神功皇后の新羅征討に加わっている。

この新羅征討の際に神功皇后は、博多湾で髪を洗い禊をしているが、イザナギが禊祓いした橘の小戸も北九州に比定できる。

 皇后の新羅征討に参加した綿津見の神と筒男命の史実が、イザナギの禊祓いと両親の誕生に投影されている。(神話と史実))

 田中卓はこの他にも幾重にも傍証を取り上げて、思わず納得してしまう見事な論理を展開している。

 

神皇正統記ではイザナギが禊をしたのは、日向の小戸の()檍が原としている。福岡市の姪の浜に小戸神社がある、古田武彦はこの地をイザナギが禊をした地でありアマテラス誕生の地と論証している。

記・紀の記述からイザナギが禊祓いをして、三貴神が生まれた場所を探して特定する考証は楽しくもあるが、「筑紫日向」の日向は一定の場所ではなく、九州や日向などのどこかという意味に解する向きもある。

つまり日向の神話であるから名辞的な表現で「日向」とした、或いは日に向かう良い場所などの意で用いた表現とみる説である。同説に立てば現実の場所を探し求めることは無駄な事となる。

しかし様々な角度からその場所について考証を重ねることは、日向神話の根本を考えることであり、神話や古文献の理解を深めることにも繋がり意義のあることと思われる。

 

 天照大神はアマテラスオオミカミと読まれているが、果たしてそう読んで正解なのだろうか。「アマテル」と読めば天が照り輝くという意味になる。天が照るに大神を繋いでいる。

この場合個人としての神を特定する固有名詞がなくなり、神名の中身が薄くなり、一般的な広い意味の太陽神・日神の意味で用いられていることになる。

 現にアマテルと読む天照神社はいくつか現存している。弥生時代は文字通り太陽と共に生活していたのであろう。明るくなれば起きて活動を始めて、日が沈み暗くなれば家の中に入りやがて眠りについた。

 日照時間により作物の出来不出来も決まり、猛獣からも守ってくれる太陽は自然と信仰の対象となったのであろう。太陽を神格化し神の名前として、皇祖神と一体のものに仕立てたと考えられなくはないか。

 こうした太陽崇拝はインドネシアに広くみられるように、農耕民族により多く崇拝されていた。

 

また天照大神は「オオヒルメノムチ」とも呼ばれたと言われているが、オオは大きなという意味でムチは貴人という意味を持っている。そして残されたヒルメは「日の女」即ち巫女のことと解釈される。してみるとこの名前も「日を祀る偉大な巫女」という意味になり、個人名ではなくなってしまう。

オオヒルメノムチが一人しか居なかったという保証はなく、年月を隔ててオオヒルメノムチと呼ばれた人が他にも居た可能性が浮かび上がってくる。

播磨国風土記には、アマテラスが乗っている船に猪を献じる説話が乗っている。天神は天の磐船にのって天下って来たと古文献に散見され、このことは宇宙船でない限り海を渡って来た事を想定させるのである。

従って(あま)とは空のことではなく、海の事と考えるのは必然の帰結であろう。アマテラス」もまた空を照らすのではなく、暗い海を照らすという意味に受け取れる。沿岸航法でも日が暮れた海を航海するのには危険が伴う。

当然照明が必要であり、そんな暗闇を照らす灯台のような効果を生む方法があれば神の助けとも思えたであろう。

そこで「(あま)照らす大神」となったかもしれない。古代氏族の多くが海部(あま)族の出自であることも何らかの関連性を持っているのだろう。アマテラスには太陽神のイメージが定着していることから、「天照す」といえば空が照っているかの如くの現象として捉えがちであった。

 

しかしアマテラスとは「晴れてる」という意味ではない。明らかに「天」を照らすということであろう。よく考えると空を照らすことなど出来はしない。東京タワーのライトアップでも、空のほんの一部しか光が当たっていない。

広大な空を広い範囲で照らし出すことは無理な事である。天上界から下界を照らすという意味だとしたら、表現は「天ヶ下(を)照らす・大神」とならなければおかしいのである。

上の数行を書いた数日後に似たような論説を目にすることになった。「日本神話と神々の謎」の中の一項目がそれである。この本は買っておいた物で、まだ目を通していないままだった。

この本ではアマテラスは元は海神であったとしている。やはり天照すの意味は元々は天を照らすためのものではなく、海を照らすものであったと述べている。そしてアマテラスという言葉自体は太陽神をあらわすものではないと言っている。

イザナギとイザナミは重要な神であるが、宮廷祭祀の中には現れず天皇家は両神を祀った形跡がない。朝廷は四、五世紀には三輪山の大物主を祀り、六世紀以降にはアマテラスを重んじていた。(武光誠)

 言語学の立場から神名を考証している川崎真治は、対馬の「阿麻氐留神社」の名前を「アマテ」と助詞の「ル」であるとして、「ル」は「ノ」と同じと解釈できるという。この場合の「テ」は方角のテではなく、「先手」の手で広義には部族を指すと捉えている。

 「アマ」は海人族となるとしている。この考証方式をアマテラスに当て嵌めることができるだろうか。やや強引に当て嵌めてみると「海人族のテラス」ということになろうか。テラスという名前は奇異にみえるが、それをさておくとアマテラスは海人族の支配者層であったことが想像できるのである。(あま)を照らすように航路が読める、航路を知っている海人の代表、それがアマテラスだった。これは案外、当たらずとも遠からずの説となり得る。

 

 三貴子の中の月読命は三神の中では一番影が薄い。月読命のエピソードは取ってつけたかのように一回しか語られていない。早くに亡くなってしまいこれといった事績がなかった為なのか。

それとも太陽と月として陰・陽を顕す必要から設定されたものなのか。ツクヨミとは月齢を読んだり、暦を数える事と言われている。山城国葛野郡の月読命は壱岐から勧請された神である。

 この辺一帯は帰化人、秦氏の根拠地である。松前健は月読命は渡来人がもたらした亀卜の神だったようで、大陸的色彩が強い神であると論じている。

月読神社は壱岐や山城や伊勢などに存在している。松本清張はこのアマテラスと月読命の誕生話は、中国の「五運歴年記」の盤古の説話からとられたことは明らかであるという。

そこには「左眼は日となり、右眼は月となる」と記されている。月読命は月を読む神ではなく月そのものであるとしている。しかし同時に生まれたアマテラスは巫女をモデルにしているという。太陽()であるならば天地開闢の項に生まれていた筈であるとする。

 

 ではなぜ、月である月読命は天地開闢の項で生まれていないのであろうか。松本はこの矛盾については何も語っていない。スサノオと月読命は同神であったとする説もある。紀の異伝には海原を治めるのは、スサノオとする伝と月読命とする伝の二つがある。

 また記ではスサノオが大気都比売を殺しているが、紀では月読命が大気都比売と同神とみられる保食神を殺している。以上の二項目と先に述べた月読命の事績が殆どないことを考え合わせると、スサノオと月読命は同一人物であった可能性が高まってくる。

 更に近江雅和はスサノオと月読命の、モデルであったらしい二神の話が「契丹古伝」の中に出ている事を紹介している。(逆説としての記・紀神話)

 出雲の佐太神社に伝わる「佐陀大明神縁起」によると、天竺の鳩留国にあった小山が波に浮いて流れてきて、島根山になったという。

 またイザナミは妊娠し、イザナギと別居して加賀潜戸に住み、この地でアマテラスを生んだ。そこの岩窟中に乳房の形の岩を作っておいた。イザナミが潜戸を出ないときは天下は暗く、潜戸を出ると天下は明るくなった。その時にイザナギが「嗚呼赫赫」と言ったので、その地は加賀となった。としている。他書には見ない不思議な伝えである。

 

 新編古事記

 

 イザナギは吾は汚い国に行ってしまったので、禊をすると言い筑紫の日向の橘の小門に阿波岐原に至り禊をした。杖を投げるとツキタツフナトの神になり、帯を投げるとミチノナガチワの神となり、袋を投げるとトキハカシの神が生まれた。

 

 衣を投げるとワズライノウシの神となり、褌を投げると道俣神となり、冠を投げるとアキグイノウシの神となり、左の腕飾りを投げるとオキザカルの神、オキツナギサビコの神、オキツカイベラの神がうまれた。

 

 右の腕飾りを投げるとヘザカルの神、ヘツナギサビコの神、ヘツカイベラの神が生まれ、ここに十二神の誕生となった。

 体を洗うと穢れから、ヤソマガツヒの神、オオマガツヒの神が生まれ、次にカムナオビの神、オオナオビの神、イズノメの三神が生まれた。

 

 水底からはソコツワタツミの神、ソコツツノオの命、中ほどからナカツワタツミの神、ナカツツノオの命が生まれた。

 水の上からはウワツワタツミの神、ウワツツノオの命が生まれた。この三柱のワタツミの神は安曇の連の祖先である。

 

 三柱の男神は住吉神社の三座の大神である。次に左の目を洗った時に天照大神。次に右の目を洗った時に月読命、鼻を洗った時にタケハヤスサノオノミコトが生まれた。

 イザナギは天照大御神に汝は高天の原を統治せよといい、月読命に夜の食国を治めよ、スサノオに海原を治めよと指示した。

 

 

住吉大社神代記

 

 ウワツツノオ、ナカツツノオ、ソコツツノオ、気息帯長足姫の、四神を祭神とする住吉大社が伝える住吉大社神代記は記・紀とならび重要な資料である。ウワツツノオ、ナカツツノオ、ソコツツノオ、三柱の神名は海の深さを象徴するような奇妙な名前の不思議な神である。

 「ツツノオ」は津の男を言うとする説がある。三神が誕生したとき、それぞれの神とセット・ペアで生まれた綿津見三神は安曇氏の祖先とされ、住吉三神は住吉に祀られ子孫はいなかったことになっている。後に住吉三神は、神功皇后の新羅征討の際に託宣を下している。

 綿津見の神三神は武光誠によると、奴国の航海民が祀っていたという。この三神は志賀島の志賀海神社に祀られている。同時にペアで双子のように生まれた六神のうち、三神が住吉大社に祀られ、三神は志賀海神社に祀られた訳である。なぜ引き裂かれて西と東に分かれることになったのかは謎である。

 武光は綿津見三神と住吉三神は元々無関係であったが、安住氏が大阪湾の安曇に本拠地を移したことにより、兄弟とされるようになったとしている。住吉三神を祀る津守氏は長門から摂津に移り安曇氏の監督を受けた。

 

 大和朝廷は四世紀の初頭に九州を制圧した。志賀島を本拠地とする航海民は大和側に従って安曇氏と呼ばれるようになった。安曇は「あまつみ」が訛ったものである。綿津見三神は元は一柱であったが三柱に変えられた。(日本神話と神々の謎)

 

神代記はそれまでに、大社に伝わっていた二つの書物を一つにまとめたものであるという。神代記は神代の誕生から筆を起こし、大筋では紀と軌を一にしているが、祭神の神宮皇后の記事に多くを割いている。

編纂したのは大社宮司家の津守氏であり、天平三年731年)に奉られている。

 したがって成立年度は更に遡り、大宝二年に原撰、養老三年勘注したものとされる。だが田中卓はその末文などから、更に古い斉明五年・659年にはある程度の形(旧記)が出来ていて、天平3年に言上されたと推考している。

これならば記・紀よりも古く最古の歴史書になってしまう。神代記には紀を参照し引用したと見られる個所もあることから、原資料はともかく編纂が終了したのは紀・紀の成立後まもなくのことであろう。

神代記の内容について、田中卓は紀にはない記事や表記が見られることから、津守家の独自の古伝が多く取り入れられたとみている。そして紀の方が神代記の原資料を参照したのではないかという。

神代記と記との関係では、記の文章は取り入れ、または引用されていない、記と一致しない内容もあり、構文・用字の点からも、両書の間に直接の史料的親子関係は全くないと断じている。しかしながら、紀と説を異にし、もしくは欠けている内容に関して、記と説を同じくする事例が少なからず存する、と分析している。(住吉大社神代記の研究)

 

 

 最古の英雄スサノオ 

 

 「神皇紀」にはスサノオの元の名は「多加王」であったと記され、タカミムスビの曾孫となっているが父名の記載はない。豊阿始原を占領するべく、大陸から千三百人余を率いて高天原へ攻め込んだという。この時に大巳貴命は八千人の軍勢を編成してスサノオ軍を皆殺しにしたとしている。

 アマテラスは多加王を出雲に追放し、スサノオは出雲を平定した。スサノオは作らせた剣、鏡、置物を持って各地に巡行し、平定した後に剣をアマテラスに奉じた。アマテラスは多加王に「スサノオ」の名前を与えた。(古代文書の謎)

 

 三輪高宮家系譜によるとスサノオは、紀伊国牟婁郡熊野大神なりとして、またの名を八束水臣津野神としている。八束水臣津野神は記紀には表れないが、風土記において出雲の国引きをした神として有名である。

 記・紀では同神の功績などをスサノオに転化したものなのか。同系譜では更にスサノオの別名を、遊美豆奴神、熊野加夫呂神、熊野加夫呂神櫛御気野神、気都御子神と伝えている。「出雲国造神賀詞」では熊野大神(櫛御気野神)を「いざなきの日まな子」と呼んでおり、イザナギの子スサノオと同神と分かる。

 

 記ではスサノオノミコトは出雲勢力の代表・首長として描かれている。「須佐」の地名は今も島根県に存在する他、スサノオノミコトを祀る「須佐神社」は同地に数多くある。「須佐の男」にミコトをつけ名前としているのは、明らかに天孫族の対抗勢力と解るように設定したかのようでもある。

 スサノオが渡来神であったかどうかはともかくとして、出雲国風土記には同神の伝承が豊富に語られている他、記紀に現れない同神の子の名前が幾つも記されている。

 このことはスサノオが出雲の地方神、或いは出雲に先着した神であったことを窺わせる。

スサノオの影響力下にあったのは出雲を始めとして、大和や北九州に亘る広大なものであったとも考えられる。大和にも「出雲」の地名がある上、出雲神社が幾つもある。スサノオは息子と共に新羅に行き、暫くソシモリに居たとの伝承もあり、新羅や北九州に縁が深いことが窺われる。スサノオノミコトの娘である三女神も宗像大社に祀られている。

関係は不明だが、松江市の忌部神社の「忌部大宮濫觴記」には「韓山」の地名も見えている。紀の一書では、熊成の峯から根の国に渡ったと記載している。この熊成は朝鮮の地とみられ、任那の熊川もしくは百済の熊津は、いずれも古くは久麻那利と呼ばれていた。

松前健はスサノオと朝鮮との結びつきが深いことは認めるが、スサノオの前身が全くの渡来神とすることには疑問を持っているという。スサノオと韓土の結びつきは56世紀の頃、盛んに韓土と往来し交易や征討に従事した紀伊の海人の活動によるとしている。

 

また「宇佐宮劔玉集」には、豊葦原中国之宇佐嶋は云々、スサノオは天降りて筑紫宇佐州に居て、今の小椋山の頂に大神として祭られたとしている。このスサノオの治める芦原中津国に、アマテラスは天のオシホミミや天のホヒノカミ等の征討軍を次々に送り込んで来たようだ。

  スサノオは原出雲系の神ではなく、朝鮮半島から渡来した神であるとする説も多く唱えられている。一名を牛頭天皇といい、紀が朝鮮のソシモリに行ったと記す、その「ソ」とは古代朝鮮語で牛のことだという。

 ソシモリとは江原道・春川府牛頭州のことで、ここに牛頭山がる。京都八坂神社の社伝では、」斉明天皇二年に新羅の牛頭山からスサノオの神霊を迎えて祀ったとしている。石見で「韓」ないし「辛」の字がつく地名のところには、必ずと言ってよいほどスサノオ伝承がある。

とすると何故大国主と結びつけ、その祖先としたのか、考証を急がねばならぬ。出雲国風土記ではスサノオは侵略者とし登場している。

 スサノオは牛族でその神紋は十字紋であった。播磨国風土記に新良(しら)(くに)と名づくるは新羅の人来て、新良(しら)(くに)と名付けた。山の名前も同じ。とあり白国神社には牛頭天皇(スサノオ)を祀っている。

大国主の末裔・富氏の伝承では、同氏の祖神はクナトの大神で何世かの後に大国主があり、また何世かの後に富のナガスネヒコや伊勢津日子に繋がっている。出雲の熊野神社にはクナトの神を祀っていたが、後に全国の熊野神社と共に祭神はスサノオに変えられてしまった。(記紀解体)

クナトの神との関係は不明であるが、「クナト」とは「()な」と「()」を合わせたもので、悪いものが入ってくることを防ぐ門の役目を持つ者を指すという。この点、道祖神信仰に繋がるものとみられる。衝立船戸神の船戸はクナトが訛ったものと言われている。

 スサノオはアマテラスの元では乱暴者の悪神であるが、出雲に行ってからは民衆のヒーローになっており、正と悪の二面性を持っている。出雲風土記では大衆の中に溶け込んだ平和の神として描かれている。

 この二重人格のような矛盾について、松前健は全く別な二つの神格が結びつけられた同一神と考える。スサノオは出雲や紀伊で祀られた地方神で本来は平和な神であったという。

彼が犯した悪行は後世の大祓に、列挙される罪の名と同じである事から、この悪い事をする例(者)としてスサノオが挙げられたとみているようだ。つまり悪のキャラクターとしての役割を担わせられている。

松前は出雲の東西各地にスサノオの崇拝や口碑があり、その崇拝は紀伊、備後、播磨、隠岐などの広い領域で行われていたとしている。紀伊国在田郡の名神大社「須佐神社」がスサノオの原郷ではないだろうかと言っている。

 

 スサノオは高天原から根の国へ行き支配者となった。その足跡は韓半島にも及び、韓の神とも出雲の神とも言われている。スサノオは須佐の男であり、この名前だけを取れば文字通り須佐(出雲)の男である。

 古事記の言うところの建速須佐之男命の建は勇猛な意味の籠められた敬称であり、速も同様の接頭語とみられる。

 書紀の第一の一書にはスサノオの子は清(すが)の湯山主三名狭漏彦八島野であり、この神の五世孫が大国主命であると記している。この伝承は須佐神社資料と一致している。

(すが)は須賀の宮・須我山()に通じ、ここにスサノオと出雲との関わりが色濃く反映されている。スサノオの足跡を線で綴ると韓半島からの航路となり、渡来人の足跡とも重なるようだ。

 

 

 新編古事記

 

 スサノオノミコトは指示された国の統治をせずに、その髭が長くなり胸元に垂れる頃になっても泣いていた。

 その泣く事により青山を枯らし川や海は干上がり、悪い神が台頭し蠅の大軍が現れ様々な災い事が起こった。

 イザナギが理由を問いただすと、スサノオは母の根の堅州国に行きたいのだと答えた。イザナギは怒って、ではこの国には住むなと言って追放した。

 

そのイザナギは死去して今、近江の多賀神社に祀られて居る。

 スサノオ軍が迫ってきた時、高天原の山川は揺り動き国土は振動した。アマテラスはスサノオが吾国土を奪う積りに違いないと言った。髪を解いて男髪のみずらに結い、左右のみずらとみかずらにも左右の手にも八尺の勾玉を多く巻き、背に大きな矢筒を負い脇にも矢筒をつけ、左の手に鞆をつけ武装した。

 弓をふりたてて庭の土を踏みしめ、淡雪を蹴散らし雄叫びを上げ、すっかり戦の準備を整えてスサノオを待ち構えた。

 

 

 天の安河の停戦交渉

 

 人類の祖先神イザナギはここに亡くなり、これ以上登場する事はなくなるがその御陵については詳しく触れられてはいない。記では淡海(近江)の多賀としているが、紀ではイザナギの御陵は淡路としており、淡路島の神話・海人族の伝承が浮かび上がって来る。

 松前健は近江の社は古い記録に見えず、延喜式では小社となっているとして、イザナギは5、6世紀頃は単なる島の神であり、皇室との関係はなかったであろうと言っている。

 イザナギの陵については宮内庁が作成した「陵墓要覧」にも記載がない。イザナギは神代の神様であったから当然の措置か。

 「陵墓要覧」の陵墓の記載・位置などは、降臨してきたニニギノミコトから始まっている。高天原は記・紀に記載記事の状況証拠から、必然的に北九州・博多湾付近に比定することができる。田中卓も高天原は筑後国山門郡の辺りにあったと論じている。

 それを原ヤマト国と呼び、その本拠地から移転したのが皇室の祖先であり、九州に留まったのが後の邪馬台国であると推考している。

 

 「(ほつ)()(つたえ)」では高天原を仙台地方にあったとしている。神代文字で書かれている同書を論じる学者は殆どと言ってよい程いない。また同書はアマテラスを男神として12人の妃があったと述べている。

 北九州の沖ノ島の近くの大島には宗像神社中津宮がある。ここには天の川と天の真名井があり、神官は天の真名井で禊をしている。天の川の両岸にはそれぞれ牽牛、織姫を祭る神社がある。

七夕祭りの時に男女の出会いの場所となる。これらの事柄はスサノオとアマテラスの誓約の場面に酷似している。(神々の流竄)アマテラスとスサノオは誓約して子を作ったとあり、両神は一時期夫婦の関係にあったと考えられる。

二ギハヤヒの項で後述する熊野連の和田家系図には、熊野加夫呂櫛御気野命とアマテラスの二人は姉弟であり、夫婦であり天忍穂耳命を産んだと記されている。神皇正統記によると、安河の誓約でスサノオは「まさやあれかちぬ」と言ったとしている。

 

 

 新編古事記

 

 アマテラスの高天原に征西軍を率いて到着したスサノオは、高天原軍と対峙し優勢のうちに小競り合いを繰り返した。この戦いは長びき、高天原の田畑は荒れて農民は戦に駆り出され収穫も出来ない状態に陥った。

 アマテラスは降伏を申し出た。スサノオは高天原人心の掌握のためアマテラスを妃に迎えた。スサノオは十握剣をアマテラスに献上し、アマテラスは八尺の勾玉、みすまるの玉を差し出して交換とした。

二神は天の安河の近く、天の真名井に宮を建てて住まいとした。やがて生まれた神は多紀理姫命、またの名は奥津島姫命、次に市寸島姫命、またの名を狭依姫命、次に多岐都姫命が生まれた。

また次に正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命が生まれた。

更に活津日子根命、熊野久須毘命の二神が生まれた。

 

 多紀理姫命は今宗像の沖津宮に祀られ、市寸島姫命は宗像の中津宮に祀られ、多岐都姫命は宗像の辺津宮に祀られている。

 三柱の神は宗像の君の祖先である。多岐都姫命の子の建比良鳥命は出雲国造、武蔵国造、上総国造、下総国造、対馬県直、遠江国造などの祖先である。天津日子根命は紀の国造、倭の田中直等の祖先である。

 

 スサノオノミコトの勝利

 

天の安河の誓約で、スサノオの物実であるとされた十握の剣とは精子を象徴しているように思われる。スサノオの種を貰って生んだのが三女神ということになる。その後生まれたのが五男神である。

この勝利により、三女神が祭られている宗像の辺津宮、沖ノ島と韓半島へ続く壱岐をスサノオが領有することになったのではないか。宗像氏はスサノオの後裔三輪氏と同族である。

 

スサノオは、出雲の支配地を侵食するアマテラス軍を放逐するべく、北九州に大軍を持って上陸した。戦いに勝利したスサノオは妻問いの慣例に従って、敗軍の旗印となっていたアマテラスを娶って妻とした。

 こうすることによって完全制圧するのではなく、吸収合併した形を取り一体となり領土を一緒に統治する姿勢を領民に見せることが必要だったのであろう。

 

 

 「新編古事記」

 侵略戦争に勝利したスサノオは慣例により、当地支配者層の娘アマテラスを妃にして、高天原の統治・経営に専念した。だが農民は静かな抵抗を続け統治はうまくいかなかった。

 スサノオは見せしめとして、抵抗した農民の田の畦を切り離し溝を埋めた。アマテラスは、神事だけを司る立場に追いやられ咎め立ては出来なかった。スサノオの悪行はやまず、アマテラスが機屋で機を織っているときに、屋根に穴を開け斑馬を投げ込んだ。

機を織っていた織女は驚いてにホトを付いて死んでしまった。やがて水面下で、勢力を立て直していた高天原の高木神の策略によって、出雲へと撤退せざるを得なくなった。スサノオは出雲を経由して、紀伊に入り山の権利を掌握し支配した。スサノオが親権をとった三女神は北九州に残り、後に宗像神社や沖ノ島に祀られた。

 

 

 天の石屋戸隠れ説話

 

 アマテラスが石屋戸に籠ってしまい、世の中は真っ暗になってしまった。研究者によるとこの頃に日食があったという。祭祀の途中に日食が始まった事があり、これが一部に伝承されていたのではなかったか。

 そして古事記編纂の際に、アマテラスと日食とを結び付けられるストーリーになった可能性が高い。この日食神話のモチーフは西はインド、東はカリフオルニアにまで及んでいるという。特に内容が似ているのは中国南部からインドアッサムにかけての地域の神話である

 この他、天の石屋戸神話を、鎮魂祭(みたましずめまつり)・冬至の祭りであったとみる説も古くから存在している。

田中卓は天の磐戸隠れはスサノオ等の、オオナムチ系氏族に対する大和朝廷側の敗北という史的事実が投影されている史的神話である。

 

 大巳貴命系氏族の元来の本拠地は畿内・大和を中心としていたらしい。このことは大物主を含む三輪山と畿内の信仰と伝承が、この氏族と密接に結びついている。神武天皇の東征により出雲へ敗退・転出したとみられると言っている。

 この説に従えば時代は遡るが、スサノオが出雲斐の川上に降臨したことと辻褄が合うことになる。

 アマテラスの別名は大日女命とされているが、この名前は当然のように今まで太陽・日神を祀る祭祀を司ることによると考えられていた。しかし中国の南朝の最後の大王陳の娘の名前が大比留女だという。

 このことからは何が考えられるのだろう。単なる偶然なのか。それとも日本語読みが全く同じ名前なので何らかの関連があるのだろうか。

 

鹿児島県隼人町の鹿児島神宮の縁起によると、大比留女は七歳で懐妊し生んだ男の子が二歳の時に自分は八幡だと名乗った。

 後に母子を船に乗せて流したところ、大隅の海岸に流れ着いたという。大比留女は日本に来ていたということになる。(海を渡った人びと)

渡来伝説といえば、徐福は秦の始皇帝の命によって前210年頃、三千人の男女を引き連れて渡来したという。五穀の種も持参して辿り着き王になったが帰国はしなかったとされる。

日本各地には徐福の墓や伝説が残っている。船が難破したとしても千五百人くらいは日本にたどり着いた可能性がある。

アマテラスは男神であったと唱えているのは、津田左右吉や折口信夫であるが、この説にもそれなりの理由が存在している。折口は「日女」は「日妻」であるとして、即ち太陽神の妻であるという。

アマテラス男神に仕える巫女がヒルメであり、代々の巫女のイメージが祭神の姿に重なり、いつしか巫女がアマテラスになったと考証している。仕える者が主の名前で呼ばれることはままある事である。ある神を奉じて戦う武将や氏族が、年月を経るとその代表としての神の名前で伝承されていくこともある。

神事などでの巫女の振る舞いは一種神秘的に見えるものであり、神意を告げる巫女そのものが次第に神へと昇格していった可能性は十分存在している。

 

敏達紀には宮廷内に日祀部を設置したと記載されている。これは神祗官以前の宮廷の祭官であり、太陽神の祭祀を司ると言われている。

敏達帝の宮があった大和の他田には、他田坐天照御魂神社があるがその祭神は天照御魂・火明命である。アマテラス男神説はこれらの内容とは混同していないであろうか。

松前健はこれらのことから、敏達帝当時の宮廷にアマテラス崇拝はなかったと言っている。また上田正昭は伊勢の渡会氏の奉じる日神の地に、皇祖神アマテラスを祀ったのは伊勢と宮廷の交渉の記事の多い雄略朝であろうという。

松前はこの説を肯定し、最初は守護神程度に祀った時期が長く続き、継体朝頃から中臣氏や忌部氏を送り込み皇祖神化していったとみている。(日本神話の謎)

 アマテラスが岩屋に隠れて、世の中が真っ暗になったとする現象をアマテラスの死、或いは一度死んで復活する儀式と捉える論者も少なくない。松前健はアマテラスの岩屋戸隠れは「死」を象徴するものであったらしいという。

 実際に紀の一書では、機屋の中でにホトを付いて死んだのはアマテラスであったとしている。

 

 鎌倉時代の「年中行事秘抄」の神楽歌を見ると、日神の死が歌われており、冬至には太陽が一旦死んで生まれ変わるというのは、世界的な信仰であるとしている。(日本神話の謎)

吉田大洋はアマテラスという神はいなかったと断じている。延喜神明式によると、宮中で祀っている神は、ムスビ系の八神でありアマテラスやスサノオはいない。伊勢神宮におけるもっとも重要な、新嘗祭の祭儀は豊受の神を祀る外宮優先である。アマテラスが伊勢の神となったのはかなり後世であり、神宮の形を整えた天武天皇の頃であるという。

松前健の主張でも、宮中のアマテラス祭祀は固有と思われるものは一つもなく、みな後世、ずっと後の平安時代になって神話の影響などにより成立したものである。としている。(謎の出雲帝国)

 

 アマテラスが、古くから宮廷内に祀られていたという証拠は何一つなく、アマテラスに天皇が礼拝するなどは平安時代中葉に始まった。タカミムスビは八神殿の主神として古くから宮廷に祀られていた。

 この八神はタカミムスビ、カミムスビ、イクムスビ、タルムスビ、タマツメムスビ、ミケツカミ、オホミヤノメ、コトシロヌシで天皇の守り神であり、鎮魂祭や祈年祭、月次祭などにも祀られた。タカミムスビとは本来、田の傍らに立てた神木に降臨する田の神なのである。(日本神話の謎)

住吉大社では今も天の香山の埴土を取りに行く行為を続けている。もっとも、江戸時代以降は天の香山から畝傍山に変更されている。(住吉大社神代記の研究)

出雲の佐太神社に伝わる「佐陀大明神縁起」よると、天竺の鳩留国にあった小山が波に浮いて流れてきて、島根山になったという。

 またイザナミは妊娠し、イザナギと別居して加賀潜戸に住み、この地でアマテラスを生んだ。そこの岩窟中に乳房の形の岩を作っておいた。イザナミが潜戸を出ないときは天下は暗く、潜戸を出ると天下は明るくなった。

 その時にイザナギが「嗚呼赫赫」と言ったので、その地は加賀となった。としている。他書には見ない不思議な伝えである。

 古田武彦は、高天原を紀の一書日本旧記にある「天国」として、その領域を北九州の北方、日本海中の対馬を含む島々であったとする。天石屋戸は「天国」の中心に位置していて、全島岩で覆われている沖の島と断じている。

 

 

 新編古事記

 

 アマテラスはスサノオ軍と戦った際に、傷を負いその後遺症が元で死んでしまった。

天の石屋戸を開き一時その中に埋葬した。高天原の人心は暗く沈んでしまった。毎日民衆のさざめきは蠅の大群のようになり様々な犯罪が起こった。長老たちは天の安河に集まり、アマテラス復活の祭祀・儀式の段取りを相談した。

タカミムスビの子のオモイカネが指揮を執ることになった。鶏を集め鳴かして、天の安河の川上の天の堅石と天の金山の鉄を取って、鍛冶のアマツマラに鏡を作らせ、タマノオヤに八坂の勾玉の御すまるの玉を作らせた。

 アメノコヤネ・フトダマに天の香具山の、鹿の肩骨と波波迦木を採って占なわせた。

天の香具山の真賢木を根こそぎとって、上の枝に八坂の勾玉の御すまるの玉を架け、中枝に八尺の鏡を架け下枝に白丹寸手・青丹寸手を架けた。

 これ等をフトダマが持ち、アメノコヤネが祝詞を称えアメノタジカラオは石屋戸の脇に隠れ、アメノウズメが天の香具山の蔓を架けて、天の真折として、天の香具山の笹葉を結って石屋戸の前に桶を伏せて踏み鳴らした。

 

 神がかりして乳房をむき出して、衣を臍の下まではだけて踊り続けた。人々は笑い、二代目のアマテラスが石屋戸から覗いた時に、タジカラオが手を取り一気にアマテラスを引き出した。

 すかさずフトダマがその後方に縄を張り巡らした。人々の顔は明るくなった。長老はスサノオの髭と手足の爪を切り武器を取り上げて新羅へと追放した。スサノオは息子のイタケルとともにしばらく新羅のソシモリにいたが、なかなか勢力を伸ばせないので出雲へ帰った。

 イタケルは新羅から多くの樹種を持ち帰り、筑紫から大八島にまで播いてことごとく青山にしてしまった。楠や杉檜槇等の木がそれである。このことからイタケルはイサオシの神と及ばれ、紀の国、伊太曽神社に大神として祀られた。この後アマテラスは高木神と結婚し、二人で様々な命令を出し国土の発展と経営に努めた。やがてアマテラスは日神の祀りごとに専念するようになり、オオヒルメノムチと呼ばれ政治・行政面は高木神が務めるようになった。

 

 スサノオの神裔


五穀の起源

 

 追放されたスサノオがいきなり大気都比売に会うシーンから始まる。伊手至はこの話は後から挿入した説話かと言っている。

むろん古事記は一つの伝承・歴史だけではなく、各地に伝わる色々な伝承をモザイクのように織り込んでいる。当然天皇家に関係のない伝承をも、いかにも関係あるかのようにそれらしく記述して構成しているのである。

どの箇所が皇室・系譜に関係のない挿入なのか慎重に見極めなければならない。

 スサノオは紀では海原ではなく根の国を治めよとなっている。スサノオはアマテラス以前に韓半島から来て出雲を支配していたと考えられる。

越に出雲の神々が式内社として祭られており、出雲の支配地域ないしは出雲が影響力を及ぼしていたのは、越から北九州福岡の沿岸地域までのエリアとみられる。沿岸航法で小さな船でも往来できる日本海沿岸の地域である。

 

 後に進入してきたアマテラスは北九州で勢力を拡大し続けていた。新撰姓氏録には宗像氏は、「大国主の六世孫の吾多片隅命の後なり、大三輪朝臣と同祖」と記されている。

しからば、出雲系のスサノオの子である三女神を祀っていても違和感なくとらえられる。また三女神は宗像大菩薩縁起には出雲簸河上より筑紫宗像に移ると記されている。(神話と史実)

これに対しスサノオは出雲から進軍して反攻を試みて一時は勝利を収めた。アマテラスの直轄地まで支配する勢いだったが、施政・行政に失敗し民衆の反感には抗えずまた出雲へと撤退したのではなかったか。

 この時にスサノオは屈辱的な降伏の条件を呑み、携えていた草薙の剣をアマテラスと高木に簒奪された。スサノオと大気都比売の説話は、紀では月読命と保食神との物語になっている。

 

 

 新編古事記

 

 撃退されたスサノオは、出雲へと帰還する途中で会った大気都比売に食物を乞う。比売はスサノオの汚さをなじって食べ物を与えなかった。スサノオは怒って大気都比売を殺した。

 大気都比売を埋葬したその土地からは、小豆や大豆が取れるようになりカミムスビが種を保存・利用するようになった。また後には粟や麦や稲が生産されるようになった。

 

 

 ヤマタノオロチ伝説

 

 出雲系神話か。島根県大原郡大東町須賀にスサノオと稲田姫を祭る須賀神社がある。櫛名田比売と少し名前が違うが「櫛」は「奇し」で尊い・神秘的という意味の美称であろう。

 ヤマタノオロチ退治の説話は、勿論大蛇を退治した時の伝承ではない。出雲の斐伊川流域には古くから蛇神信仰があった。斐伊川の川の神は肥長比売であり、蛇の化身であったとする伝承もある。渓谷には蛇が多く棲息し山や田で作業している村人を害し恐れられていた。

 こうした危険な動物を恐れ敬い、祟りのないように守り神として祀ったのである。古事記では高志のヤマタノオロチとしているが、これは勿論「越」ではない。越との間には鳥取や福井もありいかにも遠すぎる。出雲市に古志町があり、ここなら斐伊川とはさほど遠くない距離となるがどうか。

 福井県三国町に河口を持つ九頭竜川の上流に日野川がある。日野川は鯖江市の西方に位置するが、ここに八岐大蛇伝説があるという。九頭竜川は文字通り九つの頭を持つ竜であるが、名前のようにたくさんの支流をもっている。ちなみにこの近くには越廼村(こしの)や国見岳の地名が残っている。

 

オロチの形は背に桧・杉が生え、体長は八谷・八峡に亘るとある事からやはり谷川のイメージを表現したものであろう。水田の生命線となる川が急流であり治水が難しかったと思われる。

 ヤマタノオロチの神話はギリシャの「ペルセウスーアンドロメダ神話」と言われる。大蛇と処女の人身御供の話であり、若者が大蛇を退治するというもので非常によく似たストーリーになっている。

 中国南部やインドネシアにもこれとよく見た神話が伝えられている。田中卓は八岐大蛇退治の神話を、出雲風土記に見える大巳貴が越の八口一族(あるいは川の激流)を平定した話と捉えている。

「豊受太神宮禰宜補任次第」には、越国の荒ぶる凶賊阿彦を平定するために(しるしの)(つるぎ)

を賜って出征したと伝えられている、大若子命の祖先が天牟羅雲命であるとされている。(伊勢神宮の創祀と発展)また出雲国風土記にある大国主が越の八口を討った話を、記の編纂者が八十神に変えたと言うのは武光誠である。

 梅原猛はオロチ伝説の土地は大和である。三輪山の神は蛇であり、大蛇はこの三輪山のシンボルとして書かれている。三輪山にはいまでも全山に酒が供えられている。そして大蛇は大巳貴のイメージであり、大蛇の死は大巳貴の死であるとする。

 草薙の剣は三輪山のふもとに居たナガスネヒコが持っていたものとしている。

 

 

 新編古事記

 

 一度は高天原に攻め込み天の安河で勝利をものにしたものの、次第にスサノオ一族は高天原勢力に、筑紫を追われて出雲へと撤退を余儀なくされた。

 

 出雲には越の八口一族が収穫物の簒奪を狙って季節ごとに襲撃して来ていた。スサノオ一族の大巳貴がこれを征伐するべく部下を引き連れて、出雲の肥上の河上の鳥髪の集落に来た。そこで泣いている老人夫婦と少女に会った。老父は土地の豪族オオヤマツミの子でアシナズチ、妻はテナズチ、娘は奇稲田姫と名乗った。

 

 老父は年毎に越の山賊八口が来て、今年も収穫の時期になり山賊が来る頃になったので困っているという。

 八口の目は酒に酔って血の如くで、腹は常に血にただれていると言う。大巳貴が助けてやるから、汝の娘をくれないかと持ちかけると老夫婦は承諾した。大巳貴は少女を櫛に変身させおのが鬟に差した。

大巳貴はアシナズチに強い酒を造らせて八口を宴会で歓待させた。八口は酒を飲み酔って寝てしまった。この時、大巳貴は十握剣を抜いて八口を斬った。

 

 八口の持ち物の中から、都牟羽つむは)の大刀が見つかった。後に言う草薙の大刀がこれである。大巳貴は「須賀」に到りその地に宮を建て、アシナズチに「稲田の宮主」「須賀之八耳」の名を与え仕えさせた。

 

 

 スサノオの神裔 

 

スサノオは土地の豪族の娘、櫛稲田姫と結婚した。この地に水田があったことを窺わせる名前である。稲田に櫛を冠しただけなので、個人を特定する固有名詞のようなものは見当たらない。単に「田の神」を指しているようだ。

スサノオとは関係が深い熊野三山の「新宮神社考定」には、イザナギの日真名子、加夫呂伎熊野大神、御気命、出雲風土記に熊野加武呂之命とあるこれなり、と出ている。

そしてスサノオの別名は熊野坐神、家津御子大神、櫛御気野命とも称え奉られていたとしている。この伝承は三輪高宮家系譜を裏付けるものであり、相互に傍証を形成している。

出雲と紀伊の類似神社

   出雲国

    紀伊国

名神大社 熊野坐神社

 名神大社 熊野坐神社

名神大社 速玉神社

   大社 熊野速玉神社

      須佐神社

名神大社 須佐神社

      加多神社

加太神社

 神社坐韓国伊太氐神社

名神大社 伊達神社

 

 大国主は記の系譜上では、スサノオの六世の孫となっているが二人は何故か同世代として行動している。

紀によれば大国主はスサノオの子供である。(第二の一書では六世となっている)また出雲国須佐の国造家の末裔で、須佐神社の宮司家・須佐家の系図では大国主はスサノオの孫になっている。(吉田大洋)

三輪高宮家系譜では、大国主はスサノオの子供となっている。そして他所には見えない大国主の別名を次のように記している。「八島士奴美神、三穂津彦神、玉垂彦神、今三輪大神是也」

この他、記では大国主の子となっている八重事代主は、高宮系譜では孫と記載されている。不思議な事に、記も同系譜も母は共に神屋楯比売命()としている。

よりしっくりはまるのは高宮系譜の方となる。もっとも同系譜では事代主が二代続いている。また大田々根子命は記では大物主の五世になっているが、同系譜では十二世(十世)になっている。

血統をより有益なものに糊塗することもなく、その間に六世代もの名前を入れていることが却って系譜の信憑性を高めているようである。

同系譜には建甕槌命の名が現われており、記に登場する建御雷と同名であるが世代的にはかなりのギャップがある。表記の用字は異なるものの「タケミカズチ」と六音までもが同じということは、どう見ても同一人と思えてくる。

大物主を祀る由緒作りに気を取られすぎて、別の名前を付けるのを疎かにしてしまったのだろうか。

いずれにしても高宮系譜は各当主の名前にも欠損がなく、別名や母親の名前も記されていて明治まで連綿と続いている。

何回も紙幅を加え書き継がれたと思われ、全く遺漏がない完璧な系図に仕立てられている。何はともあれ宇佐郡菱形山「比義」など、重要な名前が多く含まれており更なる研究と考証が必要であろう。

 

三輪高宮家系譜を整理して要点だけを次に掲げる。

 

  三輪高宮家系譜

 

    建速素盞烏命

 

    大国主      (和魂大物主神 荒魂大国魂神)

 

    味鉏高日子根命 

 

    都美波八重事代主 (猿田日彦神・大物主神)

 

    天事代主籤入彦命 (事代主 玉櫛彦命)

 

    奇日方天日方命

 

    飯肩巣見命

 

    建甕尻命     (建瓶尻命 建甕槌命)

 

    豊御気主命

 


    大御気主命

 

    阿田賀田須命

 


    建飯賀田須命   (建甕槌命)

 

    大田々根子命   (大直禰古命) 

    

 

 記の系譜にあるスサノオから、大国主の間に挟まれた五人の神は記紀上では殆ど記事に現れていないことから、この五世代は後にはめ込まれたとする説がある。(日本国家の成立と諸氏族)合理的な論理で納得できる説である。

 しかし、ここに有力な反論がある。スサノオの系譜が記載されている、和銅元年(708年)の撰とされる「栗鹿大神元紀」によるものである。系図を文章で説明する書法には古くは二通りあったと田中卓はいう。

 この読み方によって一番最初の語句を主客とするか、途中で随時主格が変ってゆくかの違いである。つまり前者の方式で読めば大国主はスサノオの六世になるが、後者の読み方で読めば、大国主はスサノオの子供になるとしている。これが二つの説の生じた理由であるという。

 「栗鹿大神元紀」は用字法や形式に古形を残しており、なおかつ記・紀と類似の記事もあるが、記紀や旧事紀に伝えられていない神部氏の古伝をも伝えている。ちなみに同書に見える系譜文では、大国主はスサノオの六世である。この神部氏は祖を大国主として、大田田祢古命の後裔としている。

 また因幡の「伊福部氏」の系図では、大巳貴はスサノオの子供とされている。また 饒速日は大巳貴の八世として記載されている。

ただ同氏の系図は綺麗に整理されていて、各世代の名前に遺漏がなく完璧なものになっていることが少し気になる点である。古い系図では海部氏系図と双璧とされている和気氏の系図では、所々虫食い状態のように名前が欠損している。そのことが却って古さを伝えているように思える。

スサノオの子・五十猛を葬った場所が、鬼神神社になり後に伊賀多気神社に移転したというのは「風土記鈔」である。(神々の里)

 

 

 新編古事記

 

 スサノオと奇稲田姫は、ヤシマジヌミを産んだ。スサノオとオオヤマツミの娘カムオオイチヒメとの間には、大年神、ウカノミタマが産まれた。

 

 ヤシマジヌミはオオヤマツミの娘コノハナチルヤヒメをめとり、フワノモジクヌスヌを産んだ。

 フワノモジクヌスヌとオカミの娘ヒカワヒメは、フカフチノミズヤレハナを産んだ。

 

 フカフチノミズヤレハナはアメノツドヘチネを娶ってオミズヌを産んだ。オミズヌはフノズノの娘フテモミミを娶って、アメノフユキヌを産んだ。

 

 アメノフユキヌが、サシクニオオの娘サシクニワカヒメを娶って産んだのは大国主、又の名は大巳貴又の名は葦原色許男、又の名は八千鉾、又の名は宇都志国玉といい五つの名有。

 

  

 

アマテラスとスサノオの人物像  

  天皇家の祖先とされるアマテラスではあるが、注意して記を読んでみるとその記事は驚くほど少ない。

 

アマテラス

スサノオ

日向の橘で誕生

日向の橘で誕生

スサノオを待ち受ける

海原へ行かずに泣いていた

天の安河で誓約

天の安河で誓約

服織りして後に天の岩屋籠り

田を荒らす

オシホミミ・次にホヒを降す

大気都比売を殺す

ワカヒコ・鳴女を降す

大蛇を退治する

タケミカズチを降す

大国主を苛めて後に許す

ニニギを降し宇受売に問わしむ

 

(高倉下の夢に現れる)

 

      

 上記の表を見るとアマテラスの伝承は、ほんの僅かしかなかったことが窺われる。

 独自の説話は訪ねてきたスサノオを、警戒しながら待ち受ける姿と服屋で服織りをしていたこと、天の岩屋に籠った事だけである。その他の説話は全て高木神と共同で行ったものである。

困ったことがあると隠れてしまう女らしい気の弱さ・気難しい一面を持っている他に、一朝事ある時には武装して戦陣に立ち、指揮を執る勇ましい面とをあわせもっている。だが作戦会議では配下の武将の意見を採用して、自分の意思を示さない優柔不断の側面をも有している。

人類の始祖神イザナギの子であることを除けば、普通のおばさんのようにも見える。占いを行ったこと、託宣を行ったことなどの神事に携わったことは一片も語られていない。

その事績や功績については一切記されていないことから、古事記著述以前にアマテラスのキャラクターや、ストーリーが設定されていなかったことが分かる。紀においても月読命を怒り別居したこと、稲を初めて植えたという事が述べられているが基本的な違いは見出せないようだ。

 

記の方が紀よりも古く素朴な伝承を伝えている、ということは多くの先学が言っている事である。古田武彦も紀にあって記にない記事は、大いなる疑いを持って臨むべしというような主旨を述べている。

こうした考え方を持っている論客は少なくないようだ。日本にいた先住の農耕民族が信仰していたのがアマテラスであり、後に渡来してきたのが高御産巣日神一族であるとする説がある。またその逆を唱える識者もいるが前者の説をとると違和感を感じない。

 

農耕民は太陽を軸として、日々の暮らしを立てている。その太陽の神が「天が照らす神」であり、やがてアマテラスと同一視されていき、太陽神とそれを祀る巫女と共にアマテラスと呼ばれていった可能性を考えたい。

ある時期から「アマテラス」は固有名詞ではなく、普通名詞となっていたかもしれないのである。

このことは大気都比売を殺したり、大蛇を退治して土地の人を助けたりしたスサノオとは対照的である。良いにしろ悪いにしろ、スサノオは活き活きとした説話となっているが、アマテラスに至っては一向にその人物像が伝わってこない。

松本清張はスサノオは狂言回しとして、無性格に作られている。記・紀の作者がスサノオに与えた役割はただ一つ、大巳貴の舅になることだけであったという。このようにスサノオが、天孫族と出雲を結びつける役割りを担ったと見る論者は少なくない。

 

 アマテラス像は、はるか遠い過去の記憶の片隅、一握りの伝説を膨らませてようやっと、少しの物語を形作ったという印象が否めない。とても高貴な至高の極みにある天皇家の祖先とは到底眼に映じないのである。

 このことは何を意味しているのだろうか。どこかの一地方に辛うじて、伝えられていた伝承だったのか、その土地の地神だったのか。古田武彦の言うように対馬の神様であったのか。

更なる探求が必要であるが、残念ながら今は詳らかにできない。松本清張はアマテラスは太陽神として、元々性別のなかったものを記・紀が構成される間に物語の都合次第で、男になったり女になったりしたと思うと述べている。

「アマテラス」の名前には「アマ」がついているが、高天原関連の名前には全て「アマ」がついている。アマを取れば「照らす」となり、行為か事物の神格化になりそうである。だとすると太陽の光を照らす鏡の神名化と考えられる。と言っている。(古代史疑)

 武光誠は七世紀後半に天皇家はアマテラスを、国全体の守神として位置づけようとした。そのため「大宝律令」によって豪族たちが、アマテラスの祭祀に強制的に参加させられるようになったとしている。

 アマテラスが始めて伊勢に移り住んだ所はただの祠にすぎなかった。井上宏生は、天武とその妃・持統の時代になって皇祖神に昇格したと述べている。

 

 由緒がいま一つはっきりしない「ホツマツタエ(秀真伝)」では、アマテラスは男神であり96カ月もイザナミの胎内にいたとしている。またスサノオは紀伊で生まれたと述べている。

 同書ではイザナギの亡骸は淡路の伊佐奈神社に葬られ、その魂の緒が近江の多賀神社に戻ったとしている。更にニニキネが茨城県に最初の都を作り、後に富士山麓に広大な土地を開墾したとある。その関東の国を「ホツマの国」としている。

 また宮下文書(徐福の項で後述する)にあっては、スサノオはタカミムスビの血統であり、大陸から眷族千三百人を引き連れてきて、瑞穂の国・高天原を占領しようとしたと述べている。

 この時にアマテラスは山奥の岩穴に籠り、スサノオは大巳貴命によって捕縛され忠誠を誓い、出雲(隣国の信濃という)へ追放された。後に各地を平定し三種の神器を作りアマテラスに奉った。ちなみに同書では高天原は富士山の北麓にあったとしている。

スサノオは戸隠山で死去して、鳥上山に葬られたという。鈴木貞一はスサノオの陵を長野市の伊豆毛神社と想定している。

 


 大国主神の死生譚

 

 大国主神の死生譚

 

 須佐神社に伝わる「須佐社由緒記寫」には、大宮の南西の原田村に湯山主尊誕生の山があり、名を「おろし子山」または「誕生山」という。との記事がある。また「須佐大宮略記」には、「原田村に誕生山という山あり、ここで大巳貴命が誕生した。反部村湯村にて産湯を使った。」と出ている。

 この両書の記事からは、湯山主尊と大巳貴命は同神であるとも受け取れる。でなければ、おなじ山から湯山主尊と大巳貴命の二人の偉人が誕生したことになってしまう。

 この伝えは紀の第一の一書と同じであり、その信憑性が浮かび上がってくる。紀には大国主神の記事は殆どないが、一書にはスサノオの息子とされ政策的に画策した跡が感じられる。

「石に焼かれて死んだ時にキサガイヒメとウムギヒメとが、母の乳汁を塗ったところ立派な男子になり蘇生した。」このくだりは性交からの誕生の手順を思わせる。ここで本当に死んで、すでに産まれていた子が後に親の名前で呼ばれたのではないのか。大国主神が多くの名前を持っている事がそれを窺わせる。

「大国主神」は同じ文節の中ですぐに「大穴牟遅神」の表現に変わっている。この事は、今は大国主神としてつとに知られている存在だが、前は大穴牟遅神と呼ばれていた事を自ずから物語っている。

 出雲国風土記によれば、支佐加地売(きさかじめ)()()()()()は、御祖神魂の命の子供になっている。

 大国主神を一目見たスサノオは、この男は葦原色許男命だと言って迫害した。これは大巳貴命が、侵攻の意図を持って根の国に来た事を推測させるものである。

 大国主神は他に幾つもの名前を持っていた(呼ばれていた)

 

 大穴牟遅神   (大巳貴 大汝命)

葦原色許男神

八千矛神

宇都志国玉神

大物主       別人?

大国玉神

倭大国魂神    大巳貴の荒魂

幸術魂辞代主

八嶋男命

伊和大神

 

大倭神社注進状その他によれば、大国魂神は大巳貴命の荒魂であるという。また大物主は大巳貴命の和魂という。(日本文化史論考)

妻とした女性は次の七人。

 

 八上比売 木俣神 沼河比売 須世理毘売命

 多紀理毘売命 盾比売命 鳥取神

 

 松本清張は大国主の名前のうち四つまでもが、大和のものであることから出雲は大和にあったとしている。また武光誠は大国主の名前の多くは、各地の農民が祀った神の名前・土地の神の集合体であると述べている。

吉田大洋は、大国主は代名詞であり、数代にわたって何人もいたという。これが事実とすれば、スサノオが六世も後代の大国主と交流があったのも頷ける。記がスサノオの六世としたのが、六代目の大国主であり最後の大国主かもしれない。

宇佐神宮の宇佐家でも、七代に亘り同じ名前を名乗っている事もあり、特に違和感は感じられない。親から相続した後に、代々名乗る当主の名前が決まっていたのだろう。

異常なる長命とされている武内宿禰もまた、何代にも亘って同じ名を名乗ったのであろう。紀の一書では大巳貴と大物主は同一神とされているが、松前健は大物主は大和固有の国津神であり、元々は関係なかったといっている。

だが三輪の神や賀茂の神が大巳貴の族とされたのは、記紀にとどまらず出雲の賀詞でもそうなっていると論述している。たしかに幾ら精力絶倫の大巳貴でも、こう広範囲に浮名を流すことは難しいと思われる。

しかし三輪の司祭家の大神氏の先祖、太田田根子は出雲臣の同族の神門臣の娘ミケ姫を妻としている他、十世の孫のオオミケモチは出雲のクラヤマツミ姫を妻にしている。

 

松前はこのことを、かって出雲勢力が三輪の家系に入り込んで来た事の反映であると述べている。また三輪山の麓に出雲ノ庄という地名が古くからあることや、狭井神社が薬法の神とされ、少彦名との関係をしのばせる。アジスキタカヒコネなどは、葛城の神でありながら出雲にも神社があったり、出雲風土記にも説話が載っているとその関連性を述べている。

出雲神話は大和朝廷によって取捨選択され、拾い上げられたものが記紀に組み込まれ、捨てられたものが出雲国風土記に載せられたというのは門脇禎二である。このことは、記紀神話と出雲国風土記との間には、同じものがほとんどないことからも分かる。出雲の人々が崇めてきた神々も、出雲の主な氏族の祖先神も高天原の神々の後裔に変歪されてしまった。

出雲の神々は主に大巳貴と神産日とスサノオの、三系流に結び付けられ神産日とスサノオの神系は子神との婚姻によって大巳貴に結合されている。スサノオは須佐の地に生まれた神で、神産日は島根郡、出雲郡、神門郡の神で大巳貴は本来「意宇王」が祀っていた神であろう。大巳貴と子神の神話・伝承は、佐太大神の居る秋鹿郡を除くすべての郡に亘っているとしている。

 

武光誠は、出雲は荒神谷の斎場が作られた二世紀半ばに、統一され全盛期を迎えたと論じている。荒神谷遺跡から出土した銅剣の四列は、それぞれ意宇郡、島根郡、出雲郡、神門郡の神社の数にきっちり対応している。

出雲各地の豪族が銅剣を一本ずつ持ち寄って祀りを行っていた。出雲王国は四世紀半ばまで続いていたと述べている。

大国主神の神話は、朝廷が神代史に出雲神話を取り込んだとするのが大方の見方となっている。昔話や童話に見られるようなほんわかとした、さもありそうな庶民に近い話が展開されていて、他の神話の部分とは何か異質なものを感じさせる。

稲羽の白兎の伝説を、メルヘンチックなものではなく、沖ノ島からの宗像氏の撤収であるとする説がある。

兎は宇佐岐であり、兎神は宇佐岐神である。紀の第三の一書に、日神の生れませる三女神は芦原中国の宇佐嶋に天下り、いま海北の道の中にいますとある。この宇佐島は沖ノ島であろう。沖ノ島には海水で禊をするという厳しい掟がある。禊をして海風に吹かれると大変に辛いという。

 

韓半島への中継基地で休みどころでもあり、祭祀の場所でもあった沖の島が白村江の敗北により、数百年の間持っていた半島の権益から完全撤退を余儀なくされたため、宗像一族は沖の島に留まっている理由がなくなった。

このため大挙して九州の拠点に引き揚げることになり、安曇氏に船団の提供を依頼したが、謝礼の支払いに際してトラブルが生じたと推測する。ワニは安住氏を表象しているという。(神々の流竄)

 宇佐家の伝承では、この時に古代氏族のワニ族から迫害され、苦しんでいたのは因幡国の兎狭族であったとしている。

 記には大国主がスサノオの六世とする系図、娘婿としている系図と異なる二種が記されている。古田武彦は後者の系図が正しいものとして、前者には四世代の神の名前が意図的にはめ込まれていると論じている。

 

 

 新編古事記

 

 大国主には八十人の兄弟がいたが、兄弟はその国を大国主に譲る事になった。稲羽の矢上姫に求婚する時には大国主を従者として連れて行った。

 途中で於岐ノ島から渡って来ていた白兎に出会った兄弟たちは、嘘を教え悪さをするが遅れてやって来た大国主は真実を教え苦しみから救ってやった。

 

 この兎は、あなたが矢上姫を得る事になるでしょうとい言いその通りになった。今にいう兎神である。

 矢上姫は兄弟たちの求婚を拒み、大国主を選んだ。兄弟神は怒り大国主を殺そうとした。

 伯岐国の手前まで来たとき、山の上から大石を転がして大国主に抱きとめさせて焼き殺してしまった。

 悲しんだ親が天に舞い上がりカミムスビに誓願した。カミムスビはキサガイヒメとウムギヒメを遣わして生き返らせた。

次に兄弟たちは大国主を木の割れ目に挟み圧死させた。この時も母神が駆けつけ蘇生させる事に成功した。

 そしてここに居ては危険だからと紀の国のオオヤビコの所へ行かせた。八十神は追いかけて弓を構えて引き渡すよう迫った。

 オオヤビコは大国主を逃がして、スサノオの根の堅州国へ行くことをすすめた。

 

 

 根の国での試練

 

 因幡から紀の国を経て舞台は出雲へと移ってゆく。従来、大国主などの説話は出雲での出来事・伝承とされてきた。ところが梅原猛はそうではなく出雲は大和にあり、大和での出来事であったとする。

 出雲は遠国の流刑地であって、地神系の流懺の地として設定されていたとする。そして出雲の歴史は古くないとみており、出雲大社も大国主の説話ができた頃、つまり八世紀初頭頃に建設されたとしている。

 従来からの出雲の中心勢力は意宇郡にあり杵築郡にはなかったとする。この論は一般的に受け入れられているようだ。

 

 新編古事記

 

 大国主はスサノオの所に行き、まず娘のスセリ姫と会った。スサノオは蛇の部屋に大穴牟遅神を寝かせた。

 スセリ姫は夫となった大穴牟遅神に蛇のヒレを授けたため、蛇の難を避けられた。次にスサノオは百足と蜂のいる部屋に大穴牟遅神を入れた。

 

 この時も百足と蜂のヒレを授けられて難を逃れた。スサノオは更に大穴牟遅神を野の中に入れて周囲から焼き殺そうとした。この時は鼠に逃げる場所を教えられてことなきを得た。

 スサノオは次に頭の虱を取らせる。そこには百足が多数いたが妻の機転により難を逃れスサノオは寝てしまった。

 

大穴牟遅神はスサノオの髪を柱に結び付けて、出口に大石を置いてスセリ姫と逃げ出した。この時スサノオの太刀と弓矢、詔琴をもって逃げた。

 スサノオは黄泉の比良坂まで追ってきて、その太刀と弓矢をもって汝の異母兄弟を追い落とし、大国主神・宇都志国玉神となって宇迦の山に太い宮柱を建て宮殿を作れと言った。

 大穴牟遅神は、八十神をその太刀にて切り伏せ追い払い国つくりを始めた。矢上姫はやって来たが、スセリ姫を恐れて産んだ子を木の又に挟んで帰ってしまった。よってその神を木の又神・又の名を御井神という。

 

 

大国主神の妻と神裔

 

 記は白兎の話とスサノオの虐待の話が終わると、大国主神はすぐに八千矛神と呼称が変わっていて、越の国へ妻を求めに行く話となっている。

 この大国主神と八千矛神は別神との説もある。大国主神は八上姫に妻問いした時も須勢理姫に妻問いした時も歌は読んでいないが、八千矛神は越の沼河姫を妻問いする時には長い歌を交換している。

 この歌自体が誰の作であったのか問題は残るが、性格の違いの描写からは別神であった可能性が浮かび上がってくる。互いに大領主を連想させる名前を持っているところが、良く似ている事から弟とか親族であったのだろうか。

 別神であったが分り易くするためによく知られている大国主と接合されたものか。

 この項になると大穴牟遅神が八千鉾神の表現に変わっている。八千鉾神は越の沼河姫の所に求婚に行く。

 戸を挟んで歌の交換をした後、次の夜に会った。また妻の須勢理姫は大変嫉妬深かった。そのため出雲から大和に行くときも歌を交換して愛を確かめあった。

 

大国主を祀る杵築大社(出雲大社)が杵築へ移ったのは、716年の事でそれまでは熊野にありクナトの大神を祀っていた。(謎の出雲帝国)熊野大社は意宇川の上流に位置する八束郡八雲村に鎮座している。祭神は熊野大神櫛御気野命であるが、別命はスサノオとも言われている。

熊野大社は元は杵築大社よりも上位の大社とされていた。出雲国造家が意宇の地より杵築大社に移ったことにより衰微していったとみられる。スサノオの系譜に大国主の系譜を繫いだものか。記は八島士奴美神と八島牟遅神を同神としている。

 

出雲国風土記の楯縫郡の条に、高天原の宮殿とみられている「天の日栖宮」が出てくる。この宮をモデルとして大国主の宮を造れと神魂命が指示している。古田武彦は大国主が実在とすれば、「矛神」の名を持っていたことから弥生期の人物とする。

そしてこの宮を(同氏の言う)「天国」隠岐の島海士町に比定している。その背景には黒曜石の流通があると論述している。

 

 

 新編古事記

 

 八千鉾神は越の国の沼河姫は美人だと聞き、妻にしたいと思い出かけて行った。その家の前の立ち、姫に向かって恋心を歌にして唄っていたが夜が明けてしまった。

 沼河姫は戸の内側から歌を返して、夫は求めていますが今暫くは心の準備をさせてください、明日の夜お待ちしていますと唄った。

 

 大国主とタギリ姫とはアジスキタカヒコネ、イモタカヒメ・シタテルヒメを産んだ。アジスキタカヒコネノはいま賀茂の大御神という。

 カムヤタテヒメとの間にはコトシロヌシノが生まれた。ヤシマムジの娘の鳥取との間には鳥鳴海が産まれた。

 鳥鳴海がヒナテルヌカダビチオイコジを娶って産んだ子はクニオシトミ。

クニオシトミがアシナダカ又の名をヤガワエヒメを娶って産んだ子は、ハヤミカノタケサハヤジヌミ。

 

 ハヤミカノタケサハヤジヌミがアメノミカヌシの娘、先玉姫を娶って産んだ子はミカヌシヒコ。

ミカヌシヒコがオカミの娘ヒナラシヒメを娶って産みし子はタヒリキシマヌミ。

 

 タヒリキシマヌミがヒヒラギノソノハナマズミの娘イクタマサキタマヒメを娶って生みし子はミロナミ。

 ミロナミがシキヤマヌシの娘アオヌウマヌオシヒメを、娶って生みし子はヌノオシトミトリナルミ。

 

 ヌノオシトミトリナルミがワカツクシメを娶って生みし子は、アメノヒバラオオシナドミ。

アメノヒバラオオシナドミがアメノサギリの娘、トオツマチネを娶って生みし子はトオツヤマサキタラシ。

 

 以上のヤシマジヌミからトオツヤマサキタラシまでの神々を十七世の神という。

 

 

 少名毘古那神 八束水臣津野命

 

 大国主が出雲の東端、美保の岬に侵攻し従えた土地の豪族が、少名毘古神であり後には代官として大国主に協力して現地を統治したのではないか。少名毘古那神は粟と縁があり、穀物神であったとする説がある。

 八束水臣津野命は出雲風土記では主役とも言える位置にいる。国引きをして出雲を大きくしたことでつとに有名な神である。記に見える淤美豆奴神と同じとされる。八束水臣津野命の地名説話は意宇郡、嶋根郡、出雲郡にあり、大巳貴やその他の神よりも多い。

このことから八束水臣津野命はこれらの地方で勢力を張っていたのであろう。記では淤美豆奴神を、八束水臣津野命の祖父として位置付けているが風土記では明らかにしていない。

 八束水臣津野命の信仰はより古いものと考えられ、大巳貴の信仰は本来的な根深いものではなく、次第に力をつけ八束水臣津野命の信仰にとってかわったということが窺われる。(日本国家の成立と諸氏族)門脇禎二は八束水臣津野の国引き神話は意宇を中心にして、五世紀後半から六世紀初めにかけての国造りの足跡を、出雲の人々が語り継いだものではないだろうかと言っている。

 

 

 新編古事記

 

 大国主が出雲の美保の岬にいる時、天の羅摩の船に乗って来る神がいた。周囲の神も名を知らなかったので名前を聞いた。

 すると少名毘古那と名乗ったので、カミムスビの祖神に訪ねると彼は自分の子である、兄弟となって国つくりをせよと言った。

 

 国つくりが終わると少名毘古那は又去っていった。かれ「くえびこ」は今では山田のソホドという何でも知っている案山子になった。また大国主が困っていると海を照らしながらやって来る神があった。その神は私を祭れば国作りに協力すると言い大国主は大和の御諸山に祭った。

 

 

 大年神の神裔

 

 大年神の子には韓神と曾富理神、白日神、聖神がいる。加羅を意味する韓神、新羅の王都とみられる曾富理、百済人が祀った聖神。いずれもスサノオと朝鮮との繋がりをうかがわせる。

 白日(しらひ)も新羅が訛ったものと考えることもできる。大年神が父の故国の名前を子供たちに付けたのか。或いはこの韓の名前がつく子供たちが韓で生まれたのであったか。

ところがこの子神たちの解釈は、古田武彦によると少し違ったものになってくる。まず大国魂命は出雲、韓神は加羅、曾富理神は日向高千穂添山、白日神は筑紫の白木原、聖神は筑紫の井尻である。

 つまり「天国」周辺の古代政治地図であり、大八島国の伝承より古い性格を有しているという。

 

 

 

 

 新編古事記

 

 スサノオの息子・大年神はカミイクスビの娘・イノヒメとの間に大国御魂の神、韓神、曾富理神、白日神、聖神を産んだ。

 また佳代姫との間には大香具山戸臣の神、御年神が産まれた。アメチカルミズヒメとの間には、オキツヒコ、オキツヒメ、オオヘヒメが産まれた。

 

 次にオオヤマクヒ・ヤマスエノオホヌシ(近江の日枝山にいる)次にニハツヒ、アスハ、ハヒキ、カグヤマトミ、ハヤマト、庭高津日、大土・ツチノミオヤを産まれた。

 

 ハヤマトがオオゲツヒメを娶って生みし子はワカヤマクイ、若年、イモワカサナメ、ミズマキ、ナツタカヒ・ナツノメ、アキビメ、ククトシ、ククキワカムロツナネ。


 饒速日尊の大和降臨


 

 饒速日尊の大和降臨

 

 記では天降らせた最初の神は邇邇芸であるが、神皇正統記ではまず 饒速日を天降らせたが早くに死んだとしており、次に押穂耳を降そうとしたと述べている。アマテラスは出雲・大和への侵攻を指示した侵略者である。アマテラスが二度目に天降らせた、天若日子こそ即ち 饒速日尊であろう。

 

天若日子は天降る時にアマテラスから、天真鹿児弓と天羽羽矢を授けられている。

紀では饒速日尊に仕えている長髄彦が、天孫の印として神武に天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を見せたとあり、記では天津御璽を献じて仕えたとある。弓とユキと表現の違いはあるが同じものと考えて差し支えないであろう。古くは末弟が相続することが多く、それは記録にも表れている。

そうしたことからか、饒速日尊の弟とみられる邇邇芸の系統が、正統と見なされ三種の神器が成立した。しかし長男の饒速日尊が正統とされていたなら、二種の神器になっていたかもしれない。記では「饒速日尊」を「邇芸速日命」と表記していて、邇邇芸命との関連性を窺わせるものとなっている。

 

饒速日尊の別名天火明はアマテラスの孫であり、天若日子はスサノオの孫の下照姫と結婚している。ならば饒速日尊も天若日子も共に孫の世代の人となる。天若日子の父は誰の息子か語られていない。

つまり天若日子の父の天津国玉命は突然現れており、その系譜は記されておらず、誰の子か分からないのである。芦原中国平定の話がここまで進行・展開してきたところで突然現れる神である。

 

天の菩日神を天降らせる時には、父の名前を記載していないが、若日子のときだけ「天津国玉命の息子の天若日子を..」と、わざわざ父の名前を記載しているのがその証左と思える。天津国玉命の名はここにはじめて登場し知ることになるのだが、他には一切記載がない。本来ここには饒速日尊の名前を書けばこと足りたのではないか。 

記・紀の描く天若日子の葬儀の様子と、先代旧辞紀の饒速日尊の葬儀の様子はよく似ている。

天津国玉命の名は大巳貴の別名、宇都志国玉神の対局・ライバルとして登場させた様子がある。記・紀は両書ともに饒速日尊を登場・活躍させたくない意図が明らかに窺える。また饒速日尊につながる物部の系統に箔をつけたくなかったのかもしれない。

その為にここで急遽天の若日子を創造し嵌め込んだとみることができる。

アマテラスが芦原中国平定のために派遣した神は次のとおりである。

 

 天忍穂耳命  アマテラスの子

 天菩日神   アマテラスの子

 天若日子   天津国玉神の子

 建御雷之男神 アマテラスの兄 

天鳥船神   アマテラスの兄 イザナミの子

 邇邇芸命   アマテラスの孫

 

こうしてみると天若日子を除けば、すべての神がアマテラスの近親者である。系譜が分からず正体不明の神が天若日子となる。

若日子の名がここにはめ込まれずに饒速日のままだったとすれば、全てがアマテラスの孫・近親者となるから、一貫して近親者を降したことになり辻褄が合う。饒速日尊の別名は天火明という説はかなり有力なものであるが、栗田寛は饒速日と火明は別の神であったが一神として皇孫のように偽り作ったと言っている。

吉井巌はこの二神の混同は、物部氏と尾張氏の密接な交渉に基づく始祖伝承の合体とみている。また天火明は記が成立する直前に考え出された比較的新しい神であると論じているのは武光誠であるが、同氏はその根拠を示していない。逆に天火明の存在を隠蔽するために、饒速日などの複数の別名を付けて記・紀を作ったと論じるのは近江雅和である。

「天照国照天火明櫛甕玉饒速日命」の名は、分散された名前を一つに統合したもので、これらは全て天火明のことに他ならないとしている。天火明系は海人族であったことは、籠神社に浦島伝説があることによっても裏付けられる。同社の伝によると、神代に彦火火出見命が籠船で、竜宮に行かれたので篭宮というとある。そして彦火火出見命とは天火明の別名だという伝えがある。

末社に蛭子神社があり、彦火火出見命と事代主を祀っており、彦火火出見命は別命を浦嶋太郎という伝えがある。本社末社共に竜宮に行ったという伝えが一致しており、蛭子神社は「元伊勢根本宮」と言われている。

尚、極秘伝によれば、天火明は山城の別雷神と異名同神である。天火明は大和国と丹後・丹波地方に降臨しこれらの地方を開発され丹波国造の祖神であるという。(逆説としての記・紀神話)

ここでは、ありそうな話が次々に展開している。

 

「籠神社」という如何にも変わった名前の由来ついては確かに疑問が氷解した。天火明と彦火火出見が同一人とする説は、天火明と彦火火出見は「火」が共通しており記では叔父甥の関係である。

世代も近接している上に、国宝の系図二巻を所有する古神社の伝えであるので、あるいは事実はその伝えの通りであったのかもしれない。しかし次の二点の検証が済まないうちは賛意の表明は出来ないのである。

その一点は国宝に認定された系図二巻であるが、これはその内容が政府によって認証されたのではなく、作成年次が古いことによる国宝指定であったこと。従って古い貴重な史料であるだけでなく、その内容に踏み込んでの検証が必要である。もう一点は天火明と彦火火出見が同一人物とすると、山幸彦の舞台が日向ではなく丹後になってしまうことである。

日向三代である彦火火出見の父の邇邇芸、子のウガヤフキアエズの両人が丹後に居た形跡はあるのか。この三代の事績や伝承が、丹後に残っているかどうかの検証も必要になろう。住吉三神を祀る津守氏も三神ではなく天火明のその系譜を繋いでいる。

神皇紀では天火明は彦火火出見の第二皇子で、尾張国造に任じられたと述べている。神皇紀の記述は記紀その他の文献とは大きく異なっているが、矛盾するところは殆どなくその論旨は筋が通っている。

 

また武光誠は尾張氏も饒速日を祖とする、物部氏の同族とされていたが、没落した物部氏との関わりを避けるために、天火明の子孫とする新しい系譜を作ったという。

 「先代旧事本紀」は他の古文献からの引用や、その逆の引用などから成立は807年~859年、遅くても823年~906年とみられている。どちらにしても非常に古い文献であることは間違いない。

 「先代旧事本紀」には10巻本、30巻本、72巻本の三種類がある。異論もあるが10巻本は、聖徳太子が撰びはじめ蘇我馬子が完成させたと言われている。30巻本は白河の神祗の家に伝わっていたものであり、72巻本は旧事大成経ともいわれ、これは一般に偽書とされている。

 30巻と72巻は後代の成立といわれている。安本美典は縷々研究した結果として、先代旧事本紀の序文は後に付加されたものであるが、本文には偽書というものはなく一古史と言うべきと述べている。古事記、日本書紀、天書、古語拾遺から記事を採ったが、他に最古の原書があったとしている。

その先代旧事本紀には天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の、またの名は天火明命またの名は膽杵磯丹杵穂命とあり、父は天押穂耳尊、母は幡千千姫とある。新撰姓氏録には見えないようだが、熊野連「和田家系図」はイザナギから始まっている大変珍しい系譜となっている。

 

      和田家系図

 

 

   イザナギ   イザナミ

 


      アマテラス   熊野加夫呂岐櫛御気野命

 

          天忍穂耳命

  

      天照国日子日明櫛玉饒速日命  邇邇芸命 

 


           高倉下    宇摩志麻遅命

  

           天村雲

              

先代旧事本紀に饒速日は河内の河上の哮峰に天下り、大和の鳥見の白庭山に移ったとある。住吉大社神代記には、膽駒神南備山の四至は東限、膽駒川、南限、賀志支利坂、西限、母木里公田、北限、饒速日山とある。田中卓はこの地を生駒山脈の北方、田原村の辺りとしている。(住吉大社神代記の研究)

旧事本紀にも種々の異本があるが、森浩一は平安時代初期には出来たとみられると言っている。

 古語拾遺に神鏡は姥命神によって二度鋳造され、一度目は少し不満足なもので紀伊の日前の神となり、二度目の鏡は秀麗で伊勢大神として祀られているとある。田中卓は饒速日が奉斎したのが日前の神のご神体の鏡で、邇邇芸命が奉斎したのが伊勢神宮のご神体であろうとしている。

饒速日は紀では天津神の御子櫛玉饒速日尊と記され、天の岩船に乗って神武以前に降臨したと語られている。

 アマテラスと高木神が邇邇芸尊に天下りを指示した時の言葉「この豊芦原水穂国は汝知らさむ国なり。」は持統天皇とその孫の文武帝、あるいは元明天皇とその子孫の聖武天皇がモチーフになっているという学者もいる。

 当時の朝廷の状況から言ってもこの説に間違いはないだろう。それでなければ、壮年の父が居るのに産まれたばかりの赤子を派遣する筈はない。アマテラスのセリフ「汝知らさむ国なり。」には、お前が正統の後継者であり、私がそれを決めてやろう、という意味が込められている。

その他に皇位を淡々と狙っている者も多いが、ぜひとも我が血脈に継がせたいという切実な願いが込められている。この説が正しいとすると日本神話の根本部分・説話は持統天皇の時代、或いは持統帝の時代からそう遠くない時に新しく創作されたとみることができる。

 饒速日を大年神と同神とする説がある。倭大国魂は大物主であり、饒速日とされている。記には大国主が少名毘古を失って悲しんでいる時に、海から来たのが三輪山の神であり、その後に「故、其大年神」と書いているから饒速日と大年神とも同神ということになる。

また大物主という名前は、記・紀が創作したものであるから両書以外には出てこない。奈良県磯城郡の鏡作坐天照御魂神社は天照国照彦火明が祭神で、「大和志料」によると、天照御魂あるいは火明の別号があるとしている。

 大物主は火明でもあったことを裏付けているようにも見える。崇神朝により宮殿から、アマテラスと一緒に外に出された倭大国魂は、一般に大巳貴とみられているが、近江雅和は倭大国魂は饒速日の事であると論述している。

また大神神社は本来、火明を祀る神社であったものを、記紀成立によって強制的に大物主としなければならなかった。 

 京都の上賀茂神社の社伝によると、下社の火電神社の火電神は火明であるとしている。火明は時にイカズチ、ワケイカズチともされていた。(「記紀解体」)

 ここで饒速日の別名を概観してみよう。

 

 天照国照天火明櫛玉饒速日尊

 大物主

 大年神

 天照国照

 櫛玉

 イカズチ

 別雷神

 天火明

 

 これに大国主と同神となれば更に大国主が持っている数々の別称が加わることになる。火明は尾張氏、海部氏、渡会氏など古代氏族の祖神でもある。


饒速日十種の神宝


先代旧事本紀では饒速日は十種の神宝を授かって天降りしたとしている。

 次の十種である。

旧辞本紀

十種神宝秘伝記  

十種神宝秘伝記

沖津鏡

金 火気       

  外宮神体

辺津鏡

銀 水気

  古伝八咫鏡異名也

八握剣

金気

 (八都剣神台剣形添加)

生玉

赤 火玉   

  陽 精魂

死返玉

赤(生玉と同体)   

  陰 

足玉

青 木玉

  陽

道反玉

青(足玉と同体)

 陰

蛇比礼

鱗虫の災い痛み止め

  水字象

蜂比礼

甲虫の災い痛み止め

  火字象

品物比礼

鳥獣の災い痛み止め

 鳥金気雙有 伊勢宝殿奉

 「布留神宮記」には要約次の如く出ている。ちはやふる神代にスサノオ尊が、ヤマタノオロチを切りたまう十握剣、名を蛇の麤正という。スサノオ尊天上より帯びてくだり給う、石上布留の神体これなり。

大蛇の体内より出てきた草薙の剣、尾張国熱田の社の神体これなり。「十種神宝秘伝記」には沖津鏡・辺津鏡共に白銅円鏡と出ている。沖津鏡はある説では金鏡・日の形の火気の鏡である。

辺津鏡はある説では銀鏡・月の形の水気の鏡である。としている。(神道体系)同秘伝記の図によると八握剣は直刀ではなく、八角に分かれた円形の台に両刃らしい刃先を付けたものになっている。

従って刀を使う時には片手で握るようになっている。ここでの最大の謎は旧事本紀が、十種の中に八握剣として十握剣を記していない事である。また「布留神宮記」との異同が生じているのである。旧事本紀によると八握剣とは軽い罪を罰することを教えるものとされる。

 

 

     

 

      

石神神宮では上述の十種神宝とは別に、拝殿裏の地中から各種神宝・神剣が発掘されている。明治7年の「石上神発掘の件」報告書では要約次の如くである。

 

拝殿後の封土は正中線の一丈ほど後にあり、高さは二尺八寸余、中央に要の木の一株がある。

右平地より凡そ一尺余の地中に一面瓦で蓋をしてあり、尺或いは尺余の石を積み重ねて境界をなし、地面より三尺ばかり下に緑色の曲玉・管玉など甚だ多く土石に交じっていた。

正中より五尺ばかり西側に四つに折れた剣があり、又東側正中を距てること三尺ばかりの所から、剣一振り出現、此れは折れ損じ候所もこれなく。伝説の如くこの剣孁なること疑うべきにあらねば、神庫に鎮安仕置候。

 

  神剣が神殿や神庫ではなく、地中に秘蔵されていた理由について同社は応仁以来、人の横暴により神社・寺の破壊が数多くあり、同社も永禄11年には尾張の武士によって宝蔵所等が破壊された。

  その為、宝物や記録が散逸してしまった経験から神剣を埋蔵していたと説明している。この時に発見された神剣は長さ二尺八寸、幅一尺一寸の長刀とみられ、先の十種神宝秘伝記の神剣、十握剣(短剣)とは明らかに違うものである。

菅谷文則は石上神宮の神宝の殆どは、前期古墳時代のものと言っているが、秘伝記の神剣や神宝の形状などは、何故か仏教殊に密教の仏具をイメージさせるものがあるように思われる。

 拝殿後の地中より出てきた神剣は、長さや形状が埼玉稲荷山古墳の鉄剣にやや近いようである。推測にすぎないが、十種の神宝は神剣よりも後に伝えられた物ではないだろうか。

記の記事にはスサノオの娘須勢理姫が大国主に蛇の比禮と蜂の比禮を渡したとある。また綿津見の神が山幸彦に塩満玉と潮干珠を授けている。

 

 これらの記事からは上代には危難にあった時に比禮を振ったり、珠をだして祈願する信仰があったことが窺える。この比禮も玉も饒速日は天神から授かっていた。この十種の神宝のうちの幾つかは今も実際に使われている。十一月に行われる石上神宮の鎮魂祭がそれである。

祭りの中盤、神主と禰宜が拝殿中央の御簾の中に入り、灯りは消され、ひーふーみーよーいーむーなーやーこーとーふるえゆらゆらと、と呪文を唱え鈴をチャリンと鳴らすという。正に死者蘇りの儀式であろう。 

石上神宮略記では、祭りの起源を神武天皇の即位元年十一月、宇摩志麻遅命が勅命により神剣・布都御魂を宮中に奉仕し、その父饒速日から伝わる神授の十種の神宝と、鎮魂神業とをもって天皇のために奉仕したことに始まると記している。(謎の出雲帝国)

天孫の邇邇芸命はこれに対し三種の宝しか授かっていない。これでは危難にあった時に対処できないのではないか。これを普通に解釈すれば饒速日が嫡流であり、邇邇芸命は傍流ということになろうか。紀の一書の六と八では邇邇芸命の兄が火明となっている事も傍証を固めることになろう。饒速日の降臨説話が邇邇芸の降臨譚に盗用され、とり込まれたことさえも考えられる。

石上神宮で今も唱えられている「十種の祓詞」には、 饒速日は河内の河上の哮峯に天下り、後に山辺郡布留の石上神宮に移ったとしている。鎮魂祭で唱える祝詞は先代旧事記とほぼ同じ内容である。

 どちらも数を数えた(唱えた)後にふるへ、ゆらゆらとふるへ、などの言葉が入っている。

神皇正統記では宇麻志間見命が叔父の長髄日子を殺して、神武に従い饒速日の持ってきた十種の神宝を献上した。神武は甚だ褒めて天より持参した神剣を授けた、この剣を豊布都の神という。初めは石上にあり後に鹿島の神宮にある。神武は十種の神宝も後に宇麻志間見命に預け石上に安置した。と述べている。

古代氏族、宇佐家の伝承では物部氏の原住地は筑後平野で高良神社がその氏神であり、神武東遷以前に饒速日は部族を率いて大和に移ったとしている。

  饒速日を祀る主な神社は次の通りである。

 

大和 鏡作坐天照御魂神社、他田坐天照御魂神社 

山城 木島坐天照御魂神社、水主坐天照御魂神社

摂津 新屋坐天照御魂神社

丹波 天照玉神社

播磨 揖保坐天照御魂神社

 

 天照御魂神はアマテラスとは別の日神であり、尾張氏が奉斎する神であり、饒速日を日神とみなす人たちの手で祀られている。(谷川健一)

生駒山の北にある饒速日山は別名を草香山という。饒速日山には太陽信仰があり、神体山として礼拝されていた。頂上には饒速日を祀る上ノ社があり、生駒郡富雄村にある長弓寺の登弥神社が下ノ社と呼ばれていたという。物部氏が滅ぶと山上の饒速日の神霊は下ノ社に移されたという。

長髄彦は伊勢国風土記逸文によると、「胆駒長髄」と記され、生駒山とは関係が深いことが分かる。谷川健一は饒速日の降臨は、銅鐸などを作る工人の東遷に符合しているとして、物部氏は倭国の大乱に、見舞われた弥生中期後半頃に東遷したと論じている。

また谷川は筆を進めて、邪馬台国が東遷してきた時に、大和に居た先住者・政治主体は饒速日を中心とした物部氏であるとする。この邪馬台国と饒速日の戦いが神武東征説話の中核の物語る所である。

 

 そして饒速日は天の磐樟船に乗って河内湾の日下にやってきた。物部氏には「マラ」の付く人物が多く、銅や鉄の精錬に従事する集団であったことが分かると述べている。

物部氏の東遷の時期は二世紀の後半で、摂津、河内、和泉、大和へと入った。

邪馬台国の東遷よりも早くから大和に侵入した物部氏は筑紫平野の出身である。それは氏名から分かり、今に残っている信仰からもそれと分かるのである。

畿内に移住した物部氏は、大和に勢威を張っていた長髄彦と婚姻を結んだ。この物部氏の東遷は邪馬台国の東遷の先発隊に他ならない。

大和朝廷は服従した物部氏を厚遇し、それは内物部氏と呼ばれ屈服しなかった物部氏は蝦夷と行動を共にして東国へと去った。

異伝として、延岡市の五ヶ瀬川の二子山速日峯に天孫降臨の伝承がある。その近くの臼郡与狩の天神社には饒速日が祭神として祀られている。(白鳥伝説)

 

 物部氏は更に常陸国にも降臨説話を残しているのである。まるでこちらが天孫族の本家であったかのようにも思えてくる。

「常陸国風土記」には古老の話として、大昔に天降ってきた「普都の大神」が日本各地を巡行して荒ぶる神を平らげた。この普都の大神は物部氏の神で石上神宮に祀られている。

 物部氏は常陸の地に信太群を領有しており、下総の香取社は物部氏が奉斎する神社である。長い史料と論証を重ねた末に民俗学の大家、谷川健一は次のように断定したのである。

 

 物部氏の東遷は倭国に大乱があった時で、河内の日下に根を下ろし「ヒノモト」と称し王国を築いた。邪馬台国の東遷は楽浪・帯方両群が消滅した時期に行われた。

倭国の中心であった邪馬台国は機内で物部を打倒し、「唐書」にいう「日本」を併合しその国号を簒奪した。

 記紀に征討の記事がない国は近江、美濃、飛騨、尾張、山城、河内である。安本美典はこれらの国々は既に、饒速日の治める領域に入っていて天皇家との連合政権が成立し、次第に天皇家が領有し物部系が現地の管掌権を持つようになったと推考している。また尾張や美濃など大和朝廷による征討伝承のない国々を、宇摩志麻治が平定したという伝承があると論じている。

 先代旧事本紀には饒速日の天降りに随伴した豪族や船長、40人余の名前が詳しく記されている。その豪族の名前の多くは、北九州の地名と類似のものとして読みとることができる。

 これらの地名の中には大和と同じものも見受けられ、九州から大和へと地名が移って来たという事も考えられる。


葦原中国への侵攻開始



  葦原中国への侵攻開始

 

 葦原中国とは高天原以外の東日本を指しているように見受けられる。中心的な役割を演じているのは、北九州から出雲、畿内にかけてと紀州の地である。局所的な言い方をするときは、大和平野を想定しているとみられる。

 平坦で芦が生い茂り、豊富な水・土壌があり水田耕作に適していると思われたのだろう。大和には巻向川、初瀬川、草川、五味原川などがありいかにも芦原の名がふさわしく思える。

 大和には今も芦原に似た茅原(●●)大墓古墳の名前が残っている他、桜井市に出雲の地名が残っている。古代の大和平野の纏向遺跡の辺りは出雲庄(初瀬町)であり、三輪山には国神系の大物主が祀られていたことから、この地域の支配勢力は出雲系だったと知れるのである。

 岸俊男によると文明年間の絵図に、初瀬川沿いの江包と大西の中間にオオナムチの小字名があるという。そのすぐ近くには素盞鳴神社がある他、大西にある杵島神社の末社には稲田姫が祀られているという。

 近年、大和は原出雲族の支配地だったとする識者が増えてきている。武光誠は三輪山の大神神社は、大和の大国主信仰の核となっていたという。高天原勢力は葦原中国に対し再三の侵攻を試みてついに国譲りを成功させたが、後に侵入した土地は大和であって出雲ではなかった。日向降臨譚を別にすれば、天孫は何故出雲に降臨しなかったのかその謎も氷塊するようだ。

 

 弥生時代の山陰は、早い時期には北九州との密接な関連が見られるが、三世紀の頃には畿内勢力と結んでいたことが窺われる。出雲には特異な勢力が、存在していたとみられがちだが事実はそうなってはいない。出雲にある前期の古墳からは鏡が出土しているが、量は多くなく鏡式にも種々あるので、畿内勢力によって分与されたと考えられる。(新修島根県史)

 高天原勢にとって、当初から水の豊かな平野が広がる大和は垂涎の土地であった。大和にその豊かな土地があることは、饒速日やその他の一族が既に何度も移住していたことで高天原にも伝わっていた。

 日向に天孫降臨して勢力を拡大した後に、大和へ侵攻を開始し国譲りを迫り、大和での支配権を徐々に確立したものと考えられる。すなわち国譲りと天孫降臨の順序が逆であったのではなかろうか。この場合、邇邇芸命の日向降臨が神武の大和侵入譚に反映しているとみられる。

 日向三代と言われる邇邇芸、穂穂手見、鵜葺屋葺不合は、何れも九州南部の豪族と婚姻を通じて深い関係を持っている。天皇家の原郷は九州南部にあったと考えても決して可笑しくはないと思われる。

 

 出雲は神話のほかには、政治的な事績を具体的に語られている部分は少ない。門脇禎二は遺跡などから、四世紀中頃の出雲は健部郷、塩路郷、杵築号、宇賀郷の四地域が連合体制を敷いていたとみている。日御碕は海上交通の重要港であり、連合体制の中心にはキツキ神があったという。

 出雲国造の神賀詞に三輪山や葛城山の神奈備に、神々を鎮座させたという件が出ているが、これは蘇我氏政権下に出雲西部に進出したことを考え合わせると自然に理解できる。出雲西部が大和政権の服属下に入ったのは、六世紀後半から七世紀初めの頃でこの時に出雲の祭祀権が献納された。(出雲の古代史)

 鹿児島県の肝属郡には唐仁古墳群と呼ばれる大古墳群がある。そこには前方後円墳六基、円墳百三十三基もあり、唐仁大塚古墳は全長137メートルもの大古墳である。その時期は五世紀前半と推定されているようだ。

 唐仁古墳群の北には全長135メートルの横瀬古墳がある。森浩一はこの古墳は「ヤマト・カワチ」的で大和か河内から古墳造営の技術者を派遣しないかぎり、築造できないという印象を持っているという。

 これらの大王墓ともいえる規模の大きさの古墳を、築造できるほどの勢力はいったい何者であったのだろう。畿内地方へ東遷した高天原の残存勢力が更に発展を遂げたのではなかったのか。

 九州南部とみられる熊襲は、時代に応じて何度も反乱をおこしている勇敢で好戦的な勢力である。一派を畿内地方に送り出しても、地元を有利な扱いにしてくれないのなら、首をすげ替えてやるといった気概が窺われる。薩摩が中心となって成し遂げた明治維新が思い起こされるのである。

 

 記紀の編者は収集した全ての説話・伝承を網羅し記事に仕立てあげた為に生じた矛盾であった可能性が考えられる。記紀では一つの説話を別の時代の出来事として、二つの説話を作り二つの記事にしている所が幾つも見られる。

 この場合、登場人物の名前も変えられて説話の内容も少し変ったものになっているが、全体を貫くストーリー性・プロットはほぼ同じである。少し注意して読むと、良く似た話が前にも出てきたとすぐに察せられるのである。

 近江雅和は伊勢の伊雑宮は原出雲族の「イサワトミ」を祀る神社であったという。「イサワトミ」は神名帳考証などによると伊勢津彦の子供とされる。

「宗像三神奉齋神社調」によると宗像三女神または、そのうちのどれかの女神を祭る神社は京都府に146、全国で6,117もあるという。(古代史の窓)

大変な数である。これらの地域には、大巳貴系氏族の影響が及んでいたことが考えられる。

 大国主の末裔とされる富氏の伝承によれば、大和や紀伊は出雲の分国であるとしている。出雲王朝は北九州から新潟に至る地域を領有していたのである。(謎の出雲帝国)

 柳田康雄によれば、吉野ヶ里遺跡の近くで出土した銅矛の鋳型は、島根の志谷奥遺跡や荒神谷遺跡の一部の銅剣と共通の鋳型である可能性を指摘している。(海を渡った人びと)

 弥生中期から後期にかけてはその墓の数などから、近畿よりも北部九州の人口の方が圧倒的に多かったという。(諸王権の造形)

 アマテラスはよそ者だとする説、天皇家の祖先ではないとする説を唱える論者は多い。これに光明を当てると思えるのが、岡政雄の論証である。次にその要約を紹介しよう。

 

 「高御産巣日神系の北方民族が侵入して来て、アマテラスを信仰する先住の農耕民族を征服し王朝の基礎を築いた。これが後の天皇族であるが、民族の人数が少なかったことから先住民族との混淆が急速に進んだ。

女子は多くは伴って来ていなかったから先住民族との通婚が行われ、その習俗の基に夫婦は別居し子女は母の家で育てられた。先住者の文化が必然的に多く取り入れられ、その奉斎するアマテラスを天皇家の祖先として仰ぐようになった。」

 

先住民族は南方系の文化を担う種族であり、その象徴的な名前が天忍穂耳である。

出雲に中東から移住民がやって来たという説もある。その端を発しているのが旧約聖書に云うエサウとヤコブの兄弟の物語である。弟のヤコブ(イスラエル)とその子孫に迫害され続けた、エサウの子孫はやがてエドムから追放された。このエサウ族が辿り着き住んだのが出雲だという。だが出雲の国もまた国譲りによって失うことになったとしている。(船と古代日本)

 

谷川健一は、邇邇芸命、穂穂手見命、鵜葺屋葺不合命の三代は全て南方系の海神族と結婚しているという。

この南方系種族は中国の揚子江沿岸から、海南島にかけて居住する海人族で大きな耳輪を下げていた。先の三代の子の殆どに「ミミ」の名前がついている事と関連している。倭人は呉の太白の後裔と称しているが、倭の原郷である南中国の痕跡は補陀落渡海にも見ることができる。

カムヤイミミを祖とする耳族の根拠地、肥後の伊倉や高瀬からも補陀落渡海が行われているのである。南方系の原始的な金属文化が稲作を伴って日本にもたらされ、各地に定着していった。その後に馬や古墳を伴う北方系の支配種族の文化が齎された。その時期は四世紀以降とみられる。(青銅の神の足跡)

 古語拾遺には高御産巣日の子の名前と部下の名前が次のように記されている。栲幡千々姫命、天忍日命、(大伴の祖先)天太玉命、(齊部氏の祖先)

 

 天太玉命の部下は阿波の忌部氏の祖先の天日鷲命、讃岐忌部氏の祖先の手置帆負命、紀伊忌部氏の祖先の彦狭知命、出雲忌部氏の祖先の櫛明玉命である。

 これにより高御産巣日の子孫は強大な勢力となったことが判明する。また同書によると高御産巣日は八十萬の神を、天の安河に招集していることから最高度の権力を掌握していたことも窺われる。

 谷川健一は高御産巣日と縁の深い神社に、山城の月黄泉神社があるほかに大和の高御魂神社にも祭神として祀られているという。高御魂神社には新羅からの使者が貢物をもたらした時には、そのあくる月に新羅の調を奉っている。

 こうした事実から高御産巣日は新羅と縁の深い、或いは新羅からの渡来神とする説があることを紹介している。

 この他、対馬には高御魂神社があり壱岐でも高御祖神社に高御産巣日を祀っている。このように高御産巣日は初めは対馬や壱岐に根拠を持っていて、大和・山城へ招請されて天孫降臨では主役を果たすことになった神である。これらの事から高御産巣日の出自が、朝鮮半島と関係あることは自ずから窺われる。(青銅の神の足跡)

 

 

 新編古事記

 

 アマテラスは豊葦原の瑞穂の国・大和は、どうしても我子の忍穂耳に与えたい国であると言い忍穂耳を攻略先遣隊として派遣した。

正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は、海人族が常に使っていた沿岸航法で侵攻して行ったが、攻勢に備えていた大和軍の待ち伏せに会い撤退を余儀なくされた。帰着した正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は、敵は頑強な布陣をしていてとても破れそうもないと報告した。

この時にはアマテラスは既に死亡していたので、高御産巣日が天の安河に幹部を集めて協議した。「大和の豪族共はなかなか手ごわい、これを打ち破るには誰を派遣したらよいか。」参謀格の知恵者、思金ほか幹部は天之菩卑能が適任と判断した。

 

 天忍穂耳命に変わって大和に侵攻を開始した天之菩卑能は、当初は善戦したものの二~三ヶ月もすると食料や衣服の調達に支障をきたすようになった。困った天之菩卑能は大国主に停戦を申し入れ、食料などの提供を受けるに至った。

 時は流れ天之菩卑能は大国主から小領地を与えられ、いつしか土着の豪農へと変身していった。

 天之菩卑能からの報告がないまま三年ほど過ぎたため、高御産巣日は再び幹部を集め協議した。大和の国はどうしても支配したい豊かな国である。大和軍に勝てる者はいないかと。ここに思金は、天津国玉の子の天若日子ならやってくれるでしょうと答えた。そこで若日子に当時の最新の武器・天の真鹿弓と天の羽羽矢を授けて派遣した。

 

若日子が出雲の国に到着すると、待ち構えていた大国主は下照姫を差し出して同盟を持ちかけた。下照姫の美しさと、与えられた領地に満足した若日子はそこに住みついて8年程を過ごした。

 高御産巣日は雉鳴女を使者として遣わして、復命しない理由を問わしめた。天若日子は鳴女の叱責に怒り、天の波士弓・天の加久矢をもって鳴女を射殺した。

鳴女の従者はその矢を持って高天原に帰った。怒った高御産巣日は密かに刺客を送り若日子を殺した。

 

 

 侵攻・第二波第三波

 

 忍穂耳は派遣されたがすぐに帰ってきた、次に遣わされたのは天之菩卑能神である。紀では天穂日神と表記される。田中卓の研究によれば、国造(たか)(よし)が記した「天穂日命神社棟板」に「天穂日命大巳貴の命と君臣になる、また後兄弟になる。」と記されているという。

 出雲の「千家鎮守社旧記」には「天神の許しを受け、大巳貴の尊を祀り奉る、…中略…吾体は即ち是天穂日命なり…中略…元は能義郡能義宮に祀られていたが、後に此処に新しく建てた」とある。(新撰姓氏録の研究)

 上記二者ともに後世の資料ではあるが、天之菩卑の子孫たる国造家の伝承を伝えている。

 天之菩卑能は大巳貴家から嫁を娶り、土地を貰って大巳貴が祀る神を信奉することになったのだろう。新撰姓氏録は16年の歳月を費やして、815年に成立したといわれている。天菩卑は出雲大社の摂社に祀られている。この出雲には、天之菩卑は高天原から釜に乗って天降ってきたという伝説がある。神魂神社には今もその釜が本殿の脇の建物内に置かれている。(古事記の暗号)

 天若日子が、神の放った返し矢にあたって死ぬくだりは「旧約聖書」の創世記にある話と同じである。中国或いは韓国から伝えられた古伝をここに挿入したものと思われる。

 天之菩卑能神一族は出雲に移住して、大巳貴に協力して行政等の手助けをしていたののあろう。後の子孫は出雲国造になっている。

 谷川健一は 阿遅志貴高日子根神は元々大和葛城の高鴨神社に、祀られていた神で賀茂氏の神と見るのが常識となっていると述べている。

 

 

 

 

 

 新編古事記

 

 天若日子の遺族は喪屋を作り葬儀を営んだ。河雁を給仕として、鷺を片付け係とし、翡翠(かわせみ)を供え物の係とし、雀を米つき女、雉を泣き()として八日八夜葬送の宴をした。

このとき、阿遅志貴高日子根神が弔問に来たが、若日子の父や妻は若日子は死ななかった、蘇って帰って来たと言った。

 若日子に似ていたことから間違われた高日子根神は怒り、友人だから来たのに汚き死人に間違えるなと言った。

 そして怒りにまかせて剣を抜き喪屋を切り伏せ壊してしまった。その伝承地は美濃の国・藍見河の川上の喪山である。その太刀を大量(おおはかり)又の名は神度(かむどの)(つるぎ)という。

 

 

武神・建御雷神 

 

 支配者が天から降臨する、天から高い峰に降りて来たという類の神話は、朝鮮から蒙古にかけての地域にも伝わっている。この点は北方的要素を持っているが、日の御子の降下・稲作(穂のににぎ)などの要素は南方的であり、南朝鮮の伝説と親近性を持っている。

 北方的なものと南方的なものとが南朝鮮で結びついて、日本に入ってきたのではないか。(井上光貞)天孫降臨と大嘗祭には密接な関係があるとする説があり、構造が似ていることや類似の言葉が出てくることが根拠となっているようだ。

 建御雷は不思議な人物である。記紀においては何らかの操作が加えられたと思われる。梅原猛は建御雷は津主と同神であるとする本居宣長の説に賛同している。

建御雷の別名は津であり、また別の名は豊布都である。

 建御雷が高倉下に与えた剣の名は布津の御霊であり、常陸国風土記に登場する「天降り来る神の名を布都大神」と同神とみる。

 後に建御雷は鹿島に、津主は香取神宮に祀られた。これに対し古語拾遺では津主は下総の香取神宮(中臣系)にいるとしている。

 

建御雷が記に登場するのはたった二回しかない。出雲国造神賀詞にも、天夷鳥に津主を添えて、天降し遣わしとあり、建御雷の名前がない。神道五部書では建御雷を「天津美香星」だと言っている。

 鹿島神宮の宝物・剣は津の御霊、石上神社の神剣は津の御霊である。松前健は津主は元々は中臣氏や出雲氏とは関係がなく、物部の霊剣布都の御霊の神格化なのであると言っている。

梅原猛は建御雷に活躍させるのは、両神を祖神として祀っている藤原氏の策略という。津主を表に出して活躍させると、それは物部氏の功績を際立たせことになるからという理由である。

 従って建御雷を創作しここに嵌め込んだという論理を展開する。津主も藤原氏の支配下にあり、記の作成が藤原氏の影響下にあったことを知られたくなかったとする。

 確かに建御雷の存在性はあやふやなもので、大きな功績を挙げた割には一回しか登場していない。

もう一回の登場は行動ではなくセリフだけで登場している。建御雷はイザナギの剣についた血から生まれた神であり、親もいなければ子孫もいないとされている不思議な存在である。

強いて言えばカグツチの血から成り出た神なので、カグツチの子になるのかもしれない。芦原中国を攻略した最大の功労者にしては、出自もはっきりせずその後の事績も語られていないという、不可思議なキャラクターである。

 

 記の国譲りでは主役を演じている建御雷神だが、松前健は本来の功績者は紀が主将としている津主であったことが、神賀詞に語られているとしている。すなわち建御雷神は中臣氏が自分の祖神である建御雷神を割り込ませたとみている。

 中臣氏は67世紀頃から中央に台頭著しかった氏族であり、後には重要な祭祀を殆ど一手に引き受けるようになった。

 ここに誰も論じていない不思議なことがある。建御雷の持っていた剣は天降りをして国譲りを迫った時には十握の剣と呼ばれていた。

しかしながら建御雷が、熊野にいる高倉下に与えた剣の名は「佐土布都神」と名前が変っている事である。この剣は建御雷が「吾は降らずとも専らその国を平けし横刀あれば、この刀を降すべし。」と言って、高倉下に与えた物なので両者は同じ剣である。

 しかるに記の、この項ではその剣は又の名を甕布都神、または布都御魂という、と説明している。

 

十握の剣が国譲りの功績で箔がついて、佐土布都神と名前が変わったのであろうか。布都(ふつ)は光ること・神の降臨することとされる。甕(みか)は御厳(みいか)の意接頭語である。(次田真幸)

 建御雷の父は伊都之尾羽張神(又の名は天の尾羽張神)とされているが、伊都之尾羽張神はイザナギがカグツチを斬った剣の名である。すると更に不思議なことが出てくる。イザナギが持っていた剣が建御雷に伝わっている事である。

記では建御雷は伊都之尾羽張神の子としているが、その前段ではイザナギがカグツチを斬った時に、剣についた血から建御雷が生まれた、と語っている。ということは

建御雷の方が先に生まれた、あるいは建御雷と伊都之尾羽張神は兄弟であったとも考えられる。

いずれにしろ建御雷を生みだしたイザナギが父であるとみられる。すると、イザナギからその剣を受け継いだ正当な系譜・嫡流であったのだろうか。建御雷は中臣氏の氏神であるが、物部の神宝を授かっていた。このことは暗に中臣氏が物部の神宝を簒奪し、その権力を継承したことを物語っているのかもしれない。

 

 

 新編古事記

 

 高御産巣日は今度は誰を差し向けようかと言った。思金ほか幹部は天の安河の川上の天の岩屋に住む伊都之尾羽張は天の安河の水をせき止めている。彼が適任ではという。

 伊都之尾羽張は、それは我子の建雷を遣わすべしと言った。高御産巣日は建雷に天鳥船を添えて派遣した。

 二人は河内湾から上陸し、長刀・十握剣を旗印として木に掲げ進軍した。何回かの小競り合いに勝利した後に大国主に問いただした。

 汝の葦原中国は海人族の御子の治める国との仰せだが汝は如何に。大国主は吾は引退しているので答えられぬ、今は漁に行っている我子の八重事代主神と交渉せよ。と返事をした。

 建雷は天鳥船を遣わし、事代主を呼び戻し改めて問うと、この国は海人族の御子に奉らんと答えた。そして神籬を造りその中で自害して果てた。

 

 

 建御名方神 諏訪に敗走

 

 建御名方は軍部を掌握している将軍のような、存在であったと見ることができる。あるいは戦士達に人気があり、影響力を持っていたと考えられる。出雲の海に程近い荒神谷遺跡から、整然と並べられ埋納された358本もの大量の銅剣が発掘されている。これらは弥生時代の製作になるものとされている。

 荒神谷遺跡を取り囲むように、建御名方を祀る神社が六社あるのも関連性を窺わせる。高天原勢力の軍事力に屈した建御名方が埋納したものではなかったか。武器を捨てること諏訪へ退くことを、降伏の条件とされた可能性もある。大巳貴は出雲に太い柱で高い宮を建てることを望んだ。

 諏訪神社にも御柱祭が今に続いている。太い木を伐り出し、運び立てる行事は大巳貴の故事にどこか似ている。

紀の一書には、大巳貴の神殿の建築の様子が詳しく書かれているが、従来それは誇張されたものと考えられていた。しかるに先頃の柱穴の発見で紀の記事の正しさが証明されたのである。

 諏訪神社は戦国期いらい武将の信仰を集め、全国に七百社ほども勧請されその末社が存在している。神名大鑑にある信濃の神社約百社のうち、三割強が建御名方を祀っている。建御名方の後裔諏訪神家は三十三氏があった。その後氏族はさらに増えて一族は百六十氏近くにもなった。

建御名方は信濃に第二出雲王朝を建てたのであった。(謎の出雲王朝)記の建御雷と建御名方の力比べの話は紀には出ていない、松前健はこの話は水の精霊お諏訪大神の格闘の話としている。建御名方は諏訪の祭神で出雲とは全く無縁の神であるという。

 中世にできた「諏訪大明神画詞」によると、先住の幾多の神を打ち負かし征服者として乗り込んできたとされている。

 

 

 新編古事記

 

建御雷、天鳥船神両人は事代主は承知したが他に意見を聞く人はあるかと大国主に尋ねた。

 大国主は我子建御名方がいる、そのほかにはいない。と答えた。其処に大石を下げもって建御中方が現れ、わが国に来て難題を突きつけているのは誰だと言い、建御雷軍に襲いかかった。

 

 一旦は退いた建御雷は夜陰にまぎれて焼き打ちをかけ、混乱の中に一気に攻め込んだ。建御名方はこれを恐れて退却した。

 建御雷は信濃の諏訪まで追いかけて行った。建御名方は降参し諏訪からは出ないことを誓い、葦原中国は海人族に献上するから命は助けてくれと懇願した。

 

 

 

 大国主神の敗北と講和

 

 出雲神話は出雲の伝承・説話を、中央が刈り取り記紀に組み込んだといわれる。ところが、この出雲神話は本から中央で創造されたものであるとする説がある。大和朝廷が作り上げた説話であれば、出雲国風土記に見られない理由が納得できる。記・紀を読んだ後世の人々が、その説話に基づいて自分の国に地名説話などを創り上げていったとも考えられる。これらが今も伝えられている伝承になった可能性はある。

 

 田中卓は出雲の国譲りは、崇神天皇の時代の神宝検校の史実が反映しているという。

国の唯一無二の神宝を、手放さなければならない事態とは降伏を意味し、従属の証として差し出したものであると考えるのが普通であろう。

 出雲族の根拠地は大和であり、国譲りは大和において行われ、出雲族とその神は出雲へと放逐されたと論じるのは梅原猛である。出雲族の子孫は三輪氏、賀茂氏であり、賀茂氏の神は葛城の高鴨神社である。大巳貴の息子事代主の本拠も大和の高市郡雲梯神社である。(神々の流

これは大変魅力的な説であり、おそらく事実はその通りであったのだろう。事代主の説話は出雲風土記や延喜式には見えていない。事代主が海で船を傾けて隠れたという美保の崎もミホススミの鎮座地で事代主とは関係がないという。松前健は「コトシロ」は普通名詞で、託宣を行う依り代を指しているとしている。

事代主を祀る神社は、大和の葛上郡鴨都味波八重事代主命神社、高市郡の御県坐鴨事代主神社などである。

 出雲国造の神賀詞は記・紀の説話に近い内容を伝えている。概要を示せば次のとおりである。

 

  天孫降臨に先立って天菩比が国見をした後に、その子の夷鳥に布都主を副将として遣わし、大巳貴を鎮め国土を献上させた。大巳貴は隠退にあたって自分の和魂を鏡につけ、大物主という名で三輪山に鎮め、御子のアジスキ、事代主、カヤナルミ等の御魂を、それぞれ葛城、雲梯、飛鳥などの神奈備に鎮め、自らは杵築大社に静まった。

 

またこの由来によって玉・剣・鏡などの神宝の献上がなされたとしている。松前健はこの話は、国造が自家の世襲の時に用いていた呪術を、天皇家に対する服属・奉祝の儀礼に転化したものと考えている。

 物部氏が神宝を持って自家の鎮魂方式を宮廷に持ち込み、鎮魂祭での天皇の鎮魂の方式が始まったのと似ていると考証している。

古語拾遺には大巳貴(オオナムチ)と事代主の二人が退去する際に、国を平定した矛を二神に授けたという記事がある。おそらくこの事を指しているとみられるが、武光誠はこの矛を何故か広矛と断定している。

そして広矛は、弥生時代の末期にあたる三世紀末の矛を指しているという。広矛を献上する伝承は、弥生時代末に出雲氏が朝廷に対して行った事を示すことになる。この時に出雲氏は銅矛を用いる祭祀を捨てるとともに、古墳作りを始めて鉄剣を愛用するようになったと論じている。

 

少彦名が去って大巳貴が困っている時に、御諸山の神が現われて我を倭の青垣の東の山の上に祀れと言った。これは大和の三輪山の事である。さらに天香具山が大和にある事も一つの傍証になりうる。ちなみに出雲風土記にはこの国譲りの話は載っていない。

 

梅原猛は出雲大社が出来たのは比較的新しく記・紀が成立した頃であるという。(先述したように原出雲族の古伝承では、出雲大社が熊野から杵築へ移ったのは霊亀二年・716年としている。)  

 国譲りの際に水軍の将、事代主は、天孫族に恨みの言葉を残し海に飛び込んで自害した。その時の模様を再現するのが美保神社の青柴垣の神事である。

また大国主は出雲大社の裏山の、鵜鷺峠の神がくれの岩屋に幽閉されて死んだと伝えている。出雲を占領した天菩比一族は、更に大和へ進攻してここの出雲族をも降した。(謎の出雲帝国)

 この国譲りの大事件を松前健は、出雲一族を物部氏がバックアップして大巳貴祭祀権を掌握させたことを神話的に物語った、と簡単に片づけてしまっている。その時期は物部氏が中央で勢力を張っていた56世紀の頃としている。

 その後は物部氏は没落し津御霊(布都御魂)の祭祀も中臣氏に奪われている。

 

出雲大社に祀られている大国主は西を向いている。これに対して参拝者は南から拝礼するので、大国主の横顔を拝んでいることになる。

 参拝者が来る南側を向いているのは、御客坐五神の天之常立神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、神産巣日神、高御産巣日神、天之御中主神である。井沢元彦はこの現象を取り上げ、参拝者は客坐の五神に拝礼しているのと同じという。

人あるいは神に挨拶するのに、その人が横を向いているところへ頭を下げるのはおかしいからという。

更に出雲大社のこの構造は保安官事務所と同じであり、大国主は留置場にいるように見える。この五神は大和朝廷の神であり、閉じ込めた大国主の監視役である。出雲大社の注連縄は、一般の神社と左右を反対にして張ってある。出雲大社は祟りを恐れて大国主を祀っている死の宮殿であるとしている。

 また井沢は「出雲」は当て字であり、「イツ」は「厳」で「モ」は「モノ」(霊魂)とする千家尊統説に賛同している。

 神皇紀では、アマテラスが出雲に獄舎を設け「天獄」と名づけ、スサノオを監督官にしたとしている。

 

 武光誠は六世紀初めまでは大国主だけを、国造りの神として祀る信仰が全国に広がっていたという。王家の勢力が伸びる継体朝頃から、アマテラスが大国主よりも遥かに上位の神であると主張し始めた。六世紀の半ば頃に大国主の上に、アマテラスとスサノオを繋いだ神話が整えられたと推考している。

 

 新編古事記

 

 建御雷、天鳥船両人は諏訪から帰って大国主に対した。大国主はこの国は献じるが、我の住処を太い柱で天高く建てて吾は永遠に隠居する。我子孫は事代主が仕えていれば反乱しないでしょうと言った。

 出雲の多芸志の小浜に屋敷を立てて、水戸の神の孫・櫛八玉神に神饌を供えさせた。


三種の神器と神剣の行方


 

 天皇家の始祖・邇邇芸尊

 

 天皇家の祖先の発祥地は九州とされている。記・紀の説話からは高天原の所在地は九州と想定されていたようだ。或いは海外・天空ともとれる曖昧な存在として記述を進めている。

 国の観念や国境などがない古代にあって、九州は大陸や朝鮮半島との深い関係を持っていた。全国にある八幡社の総本社・宇佐神宮の近くには、加羅からの渡来人の集落・辛島郷がある。時代は下るが北部九州の霊山・英彦山の開創者は魏の善正と伝えられている。このほかに雷山は天竺の清賀、背振山は天竺の徳善大王の皇子、求菩提山は高麗の行善と伝えられている。(田村圓澄)大陸や朝鮮半島からの渡来者が頻繁にあったことを窺わせる。

 番能(ほの)邇邇芸尊の名前は水田に稲穂がにぎにぎしく、豊かに実っている様を表す名前になっていると一般に解釈されている。神代の説話はここに終わり邇邇芸尊からは人代の物語が展開されていく。

 

 倭国大乱の時に邇邇芸は、大伴氏と久米部氏を伴い南九州に逃避したと論じているのは相見英咲である。紀における多くの随伴神は物部氏の伝承を採ったと推定する。

 また前之園亮一は邇邇芸の降臨地について、伊勢を本籍地とする猿田彦に道案内されて、伊勢へ天降った筈であると言っている。

 神皇紀では邇邇芸の時に西北の大陸から、異国の大軍が壱岐から筑紫を攻めて来たとしている。対馬から筑紫を攻められて、一時は四国まで敵軍が抑えたという。これに対し、武知男を総司令として、経津主、武甕槌、玉柱屋、建御名方を大将として一万八千人で迎え撃ったと述べている。

この時に多くの皇子(幹部)が戦死したという。また戦陣にあった木花咲夜姫がその妊娠を、邇邇芸に疑われ三人の子を室で産んだ後に、富士の火口に飛び込み自害したとしている。いま浅間神社では木花咲夜姫を祀っている。

 

ひるがえって田中卓は天孫降臨の伝承は不可解なことが多く、首尾一貫していない、だがそれは無理な習合造作せずとせざるを得なかったのであり、そのことは動かしがたい定着性があったとしている。

 つまりその個々の伝承をなかったものと出来るなら、もっと辻褄のあうストーリーを形作れたと言いたいのであろう。梅原猛は邇邇芸が降臨した場所を鹿児島の野間半島の笠沙と推考している。

同地は邇邇芸の一行の船が漂着した所と伝えられていて、近くの黒瀬海岸には邇邇芸尊上陸地の碑が建っている。

 そこは邇邇芸が通ったとして、「神渡」とも呼ばれているという。邇邇芸の旅程を考察するに、韓国から笠沙に来て、稲作に適している高千穂に行ったとする。霧島は白州台地で農業は難しいということも考証の理由に挙げている。

 木花咲姫と出会った笠沙の御前は日向にもあったと推定している。これを裏付けるように、今宮崎市に木花台、木花駅、木花小・中学校の名前がある。

 

 日向風土記713年詔)に、邇邇芸は日向の二上峯に天降ってきたが天は真っ暗で、昼も夜もわからず困っていた。そこで土着の民、土蜘蛛の忠告通りに千穂の稲をモミとして投げたところ、天は晴れたとされている。

 ちなみにこの籾を撒くと霧が晴れた話は霧島山にも伝わっている。

宮崎県西臼杵郡の高千穂は「知鋪(ちほ)の里」と呼ばれている。高千穂は狭いので天孫族は西都市に移った。三代目のウガヤフキアエズは日南市で生まれ、四代目の磐余彦は霧島山麓の狭野で生まれた。

天孫族は南九州の一帯を支配下におさめた。高千穂には神武を案内した猿田彦を祀る荒立神社がある。同社には天の鈿女も一緒に祀っている。高千穂神社には神武の兄、御毛沼命を祀っている。

 

高千穂神社の伝承では御毛沼命は東征から、故郷へ帰って来た事になっている。

高千穂の二上山中の二上神社にはイザナギとイザナミが祀られている。荒立神社から串触峰の方に下がった所に二十体王宮社があり、邇邇芸の従者を祀った所といわれている。

串触峰の近くには四皇子峰があり、ここは神武の四兄弟五瀬、稲飯、御毛沼、磐余彦を祀ったところである。西都市には都萬神社があり、都万は妻であり、木花咲姫を祀っている。(天皇家のふるさと日向を行く)

 都万神社の西に御舟塚があり、ここは邇邇芸の船が着いた所で、この一帯が笠裟沙の御前といわれている。日向には前方後円墳が多く、夥しい出土品も優れていて近畿の出土品と類似している。

 「日本書紀注釈上」の「仮名日本紀」の一書によると、天の浮橋は日向の襲の高千穂の串日の二上の峯にあるとしている。

 朝鮮の「三国遺事」の檀君神話では、天帝がその子の桓雄に三符印という宝を持たせ、三人の風雨の神と三千の部下を供に、太白山の山頂の壇という木の傍らに降下させ、その子が朝鮮を開いたとしている。更に朝鮮では、祖神が山頂に降下する神話は他に幾つも伝えられており、日本神話と類似しているだけではなく、言語上の一致も見られるといわれている。

 

渡来人から伝えられたそうした伝承を、奈良時代の役人たちは日本神話に採り入れてしまったのであろうか。天孫降臨の説話は本来が、高御産日と邇邇芸の話であったが、そこによそ者のアマテラスと押穂耳が入ってきたというのは松前健である。紀の本文には高御産日が邇邇芸だけを天降らせたとある。

 松前健は、この素朴な伝承が宮廷公認の伝承であり、大嘗祭に結びついているという。そして天の岩屋戸の伝承と、伊勢神宮に結びつくアマテラスと押穂耳の話が政治的に結びつけられたという。

 このため話の筋が、ややおかしなものになってしまったとする。高御産日が天皇家の元々の祖神であったとすると、ではアマテラスはいつ何処からやってきた神なのであろうか。

この点が理解に苦しむところであるが、松前は天の岩屋戸神話を伊勢・志摩の海人らの伝えた東南アジア系の神話であろうとしている。朝鮮半島との交渉が盛んになって、大陸の日の御子の思想が朝廷内にも浸透してくると、大王家の祖神としてのもっとも適当な太陽神が探し求められた。