真実は現場にあリ − 追悼としての事実の究明

大倉忠夫

 旧海軍の大本営参謀だった奥宮正武氏の著書『海軍特別攻撃隊』(朝日ソノラマ文庫)の中に「八月十一日、零戦特攻五機が喜界島を中継基地として夕刻沖縄周辺の敵の艦船群に向かい内二機が突入した模様であるが戦果は不明であった」という記述があり、同書中に掲示されている連合艦隊告示には「神風特別攻撃隊第二神雷爆戦隊戦闘三〇六飛行隊付海軍中尉岡嶋四郎、同海軍一等飛行兵曹星野實「昭和二十年八月十一日」とあり、防衛庁防衛研修所戦史叢書も市井の幾つかの特攻研究書も喜界島発進最後の特攻を八月十一日としている。

  実は当時十四歳の私は喜界島の特攻基地に隣接した集落に住んでいた。家は空爆で吹っ飛びムヤと呼ぽれる横穴式墓地の遺跡に避難していたのだが終戦直前のこの時特攻出撃は知らなかった。半信半疑で探索を始めた私は出撃日の情報に混乱があることに気がついた。 

 零戦搭乗員会編『海軍戦闘機隊史』戦死者名簿では岡嶋中尉は八月十一日、星野一飛曹は八月十三日の戦死となっており、古本屋で見つけた戦記雑誌「丸」に載っていた「神雷部隊作戦年表」には「八月十三日、第二神雷爆戦隊出撃(岡嶋中尉以下一名戦死)」と記されていた。出撃日の僅かな相違など国の歴史にとっては取るに足らないことであろうが、私は予備学生出身の岡嶋四郎と甲種予科練出身、星野實の短い一生を思い、孤独な島の出撃風景を思い、せめて最期の日だけでも明確にしたいという想念に駆られていた。 

 彼らが所属していた神雷部隊は第五航空艦隊直属の航空部隊で一式陸上攻撃機に桜花と呼ぽれるロケットを積みこれに特攻隊員を乗せて発射する窮極の航空特攻隊であったが最初の攻撃部隊が米国戦闘機隊に阻まれて桜花を発射できずに全滅した以後は護衛なしの単機出撃となったので、同隊の零戦に五百キロ爆弾を搭載して突入させることにしたのだという。これが、神雷爆戦隊だった。彼らの司令長官宇垣○中将は終戦当日の夕刻配下の艦爆隊に同行出撃を命じ死を遂げたことで有名であるが、その日記『戦藻録』八月十三日に「今薄暮過ぎ喜界島よりの爆戦隊艦艇及び空母に各一体当たりせること概ね確実なり」と書き、翌日の東京新聞は「南西諸島基地発特電」として、「わが航空部隊は十三日夕刻沖縄本島中城湾在泊の敵艦船に対し猛攻を加え現在までに判明せる空母に必中突入を報ぜるもの二機である」と報じている。

 やがて偶然の契機で元整備兵で喜界島にいたという人から連絡を受けた。彼自身記憶が明確でないということであったが当該特攻隊の隊長だった人が干葉に健在だという。私は早速連絡して話を伺った。岡本と名乗る老人の話は私を驚かせた。喜界島には宇垣長官直々の命令で六月一〇日に六機で進出し出撃命令を待ったという。
 特機中に一機が空襲で破壊された八月十一二日突然出撃命令が出たが、空爆を避けてガソリンを抜き森陰げに隠していたので整備に手間取った。漸く十三日夕刻出撃となり二編隊に分かれて飛び立ったが岡本機は油が漏れ、他の一機は片脚が入らないというトラブルが生じていたので、編隊を組んでいた三機で喜界島に帰投した。岡島中尉の率いる二機はそのまま帰らなかったという。 

 私は米国情報公開法に基づき八月十三日の沖縄海域の艦船被害情報を郵便で請求してみた。拍子抜けする程あっさりと米国国立公文書館から情報の存在と費用について通知が来た。特攻零戦二機は一九時四八分掲陸輸送艦ラグランジに突入し一機が甲板を貫き爆発し負傷者多数、即死一八人の損害を与えていた。 

 鎌倉の建長寺境内の山すそに「神雷」の慰霊碑が立っている。喜界島で搭乗機が破壊されて出撃不能となった隊員が僧になり、その縁で院の一隅に元隊員たちが建立したものという。碑には岡嶋四郎と星野實の名も見え、昭和二〇年八月一三日戦死と刻まれていた。 

ジュリスト1999年9月1日号より、著者の許可を得て転載