侯爵失踪事件 ーA marquis is missingー

〈-prolog-〉

勿論、こんな事はいけない事だとわかっていた。
喧し屋の伯母からは、私がまだ年端もいかぬ子供の時分から幾度も言って聞かされていたものだ。

淑女たるもの、男性と二人きりで逢うなどという行為は決してしてはならない。とーーーーーー

しかし、私は求めているのだ。狂おしいほどに。彼を。
彼の愛と、私を抱く熱い腕と唇を。
その事実を、私以上に、相手は十分承知しているようであった。

部屋一杯に響き渡る音色。
長く白い指が鍵盤の上を走り、魔術のように旋律を紡ぎ出している。
彼は確かに一流の芸術家であった。

やがて、指の動きを止めて軽く息を吐き、こちらを振り向いた。
私を見つめると、口の片端を少し上げ、
それから優雅な動作で椅子を引き、立ち上がった。
一歩、一歩。
ゆっくりと私へと近づいて来る。
まるで、「逃げてもいいのだぞ」と言っているようであった。

静寂が、部屋に重くのしかかる。
先ほどまで音で溢れていたのが、まるで嘘のようだ。
だが、その代わりに、
信じられない程の大きさで耳元を打ちつけている己の鼓動が、頭を揺さぶっていた。

逃げることなど出来はしない。
怖くないと言えば嘘になる。言い知れぬ恐れはあった。だが、
逃げた方が良いという気持ちと、逃げてしまえば彼の愛を失うかもしれないという不安がせめぎ合い、
私の身体を麻痺させていた。
彼を愛していた。たとえ、周囲から何と言われようとも………。

彼が私の手をとり、私の名の母音をその優美な口に形作った。
発せられた音の余韻に酔いしれながら、私はうっとりと彼の瞳を見つめた。
その、愛せずにはいられない瞳を。

***

〈act.1〉

その夜、執事のセバスチャンは沈鬱な気分でいた。
初冬に入り、だいぶ冷え込むようになってきた為で、
70半ばを過ぎた身体には、寒さはことさら応えるからであった。
持病の腰痛が出る懸念もあった。
毎晩広い屋敷内を巡回している彼はその途中に、ふと、
もう自分は隠退すべきではないか……と思う事もあった。
しかし、いつもすぐにその考えを頭から振り落とした。

ー御主人様は私を必要として下さっている。
ーそうとも、私以外に誰がこの屋敷内を維持管理し、御主人様の支えになり得ようか!
ー私は先々代よりこの侯爵家に勤めているのだから。

しかし、目下、彼の一番の悩みの種はその主人にあった。
現侯爵に仕える事は、老執事にとって何よりの誇りに違いなかった。
幼少の頃からその非凡な才能は頭角を現しており、『神童』という存在を目の当たりにした感動は、今なお色褪せる事無く、彼の心に鮮明に刻み込まれていた。
長じて変わらず、父である先代侯爵存命の時にも、素晴らしい補佐役として非の打ち所の無いものであった。
使用人に対しての心遣いもきちんとしている。
そこいらのボンクラな放蕩息子と違い、生活態度もちゃんとしており、浮ついた噂など皆無である。
……そう、危惧があるとすれば、
完璧すぎて、まるで人間ではなく機械のように思える時があることであった。
女性にもまるで興味を示さない。
世継ぎの事を考えれば、まあ追い追いに…などと笑って済まされる問題ではなくなっていたのだ。

ー1年前にお亡くなりになられた先代侯爵も立派な方だったが、女性が大層お好きで、お若い頃はかなりの浮き名を流された。
ー勿論ご結婚なされてからは奥様一筋で、それはもう仲睦まじいご夫婦仲であったが。
ーその奥様を熱病で失われたときの悲しみようといったら、見るに忍びないものであった……。
ーそして先代もまた、後を追うように同じ熱病で死の床につき…………

老執事は大きく溜息を吐いた。
先代侯爵が残した遺言の内容を思い出した為で、それが彼を悩ますそもそもの発端であるからだ。

ーいったい御主人様はどうなさるおつもりなのだろうか?
ーまさか妹様のミズキ様に全てを託されるおつもりではあるまい……。いや、まさか。

そんな事はあり得ないと彼は思った。

ー以前は、もしかしたらそうなさるおつもりなのかもしれないと考えた時もあったが、ミズキ様があの、どこの馬の骨ともしれぬ画家風情に熱を上げてしまっている現状でそれはあり得ない。
いや、断じてあってはならない。
ーだが、もうすぐ期限の日が訪れる。
ーもう日が無いのだ。御主人様の30歳のお誕生日までには………。

ふいに、何か嫌な予感がした。
何と問われても答えようのない不安だ。
しかし、もう日が無いという事実は、老人を脅かすのに十分なものであった。

ー御主人様は何をお考えなのか?………

彼は主人を敬愛していたが、主人が何を考えているのか全く分からない事が度々あった。
実を言うと、1週間程前に遂に耐えきれなくなり、使用人という立場からすれば誠におこがましい事であったが、その件について口を出してしまっていたのであった。
自分の今後の事もあるので……と言い訳がましく付け加えながら。
若き侯爵は、老人の肩を思い遣り込めて叩きながら、
「お前は何も心配しなくても良い」と言った。
その言葉を聞き、老執事は、心配する事は何も無いのだと心底信じきれた。
その瞬間は確かに。
だが、未だ何の進展も見受けられないのが現実であった。

ーこちら側を見回ればしまいだな。やれやれ……。

屋敷の長い廊下の突き当たりに、侯爵の寝室があった。
その扉が少し開かれ、中の光が廊下に漏れているのに気が付いた。
おかしいぞ……と老執事は眉根を寄せた。
侯爵は非常に几帳面なたちであるので、扉はいつもきちんと閉められており、
少しでも開いているなどという事はただの一度も無かったからである。
今夜は来客も無かった。
執事は足早に扉に近づいた。
開いている隙間に顔を寄せ、主人の名を呼んだ。
返事は無かった。
もう一度呼び、やはり返事が無いのを確かめると、ノブに手をかけ、ゆっくりと扉を引いた。
部屋の中に入り、侯爵の姿が見当たらない事に怪訝さを覚えた。

ーどちらかにお出掛けになられたのか?
ー何か緊急な用件でもあったのか?だが、家の者に何も告げずに……?

そのような疑問が頭によぎった次の瞬間、ベッドに近づいた執事は眼を見開いた。
真っ赤なシーツ。
いや、真っ白なシーツが真っ赤に染まっていたのだ。
シーツ一面が、おびただしい鮮血の色にーーーーーーーーーーーーーーー

一瞬のうちにして違う世界に迷い込んだかのような感覚が、執事を襲った。
次に、これは侯爵様が粗相をしてシーツの上に赤ワインを瓶ごと零してしまったのではないかと考えた。
しかし、鼻につく生臭い臭いが、彼のその希望にも似た推測を無情に否定した。
それはまぎれも無く、血の染みであった。

ところで、人が突然の恐怖に見舞われた直後、小説や映画のように悲鳴を上げる事など滅多に無い。
老執事は無論悲鳴など上げようとは思わなかったが、ただ、今すぐ家の者を呼ばなくてはならないと考えた。
であるから、家中の者を呼び起こす気で大声を張り上げた、つもりであった。
「誰か、来てくれ……」
実際出た声は、自分の耳にやっと聞こえる程の小声でしかなく、しかも舌がもつれた為、至極不明瞭なものとなっていた。
そのような情けない状態に照れを感じ、意識が俄にはっきりと現実に返った。
そして、自分が床にへたりこんでしまっている事にようやく気が付いた。

ー立ち上がらなければ、そして、それから……とにかく家の者を集めよう。
ー誰か、御主人様を見なかったか?誰か………

シーツは一面の血の海。だが、そこには何も無かった。
誰の死体(これだけの量の血を流したとすれば、生きているなどとは考えられない)も無かったのだ。
見渡す限り部屋の何処にも。
窓は全て閉めきられており、部屋に立ち籠もった澱んだ空気が胸をむかつかせた。
執事は、喉元まで込み上げてきている吐き気を懸命な努力で堪えた。

ー侯爵様はどこにいるのか?………

よろめく足をようよう引きずるようにして、扉へと向かった。

***

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