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前の卦=24地雷復 次の卦=26山天大畜

25天雷无妄 てんらいむぼう

 

无妄 震下乾上(しんか けんじょう)

八卦の(しん)の上に、(けん)を重ねた形。

无妄(むぼう)は妄(みだら)では无(な)い、妄想、妄念ではなく、天性自然のあるがまま、至誠至実といった意。
この卦は乾を天、震を動くとすれば、天の動き、すなわち天道の運行ということになる。
天道の運行には意志はないので、妄であろうはずがない。
だから无妄と名付けられた。
人間社会に於いて言えば、天道のように無心で動くことが大切なときである。
また、来往生卦法によれば、もとは天地否より来たものとする。
天地否は、乾と坤と相対して、天地がその位置を定めている形であるが、三才(天地人)の大義を備えてはいない。
そこで初九の一陽の人が、卦の外よりやって来て正位を得て成卦の主爻となり、震の長男の祭主となったのである。
これにより、天地人の三才の大義が備わったことになり、これこそ、天性自然にして内に主となる者、である。
だから无妄と名付けられた。
また、天の下に雷が行く様子でもある。
天も動き、雷も動くものだが、その動くことは無為自然である。無為自然に動くことは、真誠性正ということである。
だから无妄と名付けられた。

ところで、このように无妄とは、ミダラではないのだから、真正である、と言っても差し支えないはずだ。
しかし、なぜ真正と言わず、回りくどく无妄としたのだろうか。
それは、易が儒教のモノだからなのだ。
論語は儒教の入門書、易経は奥義書といった位置付けである。
その儒教では、この世の中に真と呼べるものは何ひとつない、と考えていて、そのため儒教の典籍には「真」という字が一度も出てこないのである。
老荘などには真の字が出てきて、その道の至極を説くときに、それを真(真理)と呼ぶ。
しかし真が本当に真であるか否かは、合理的に説明できるものではない。
儒教は思想、哲学、宗教といったものではなく、言うなれば社会を安泰にするための学問なのである。
そもそも儒は、難行苦行や霊感、霊能者などを指す言葉ではなく、学者という意である。
したがって、儒教は「学者の教え」すなわち「古の学者の教えを勉強すること」なのである。
学問であるのなら、それは仮説の積み重ねでしかないわけであり、それを真理だとするわけにはいかない。
真理という言葉を持ち出せば、そこで学問的考察はストップしてしまい、それが真理だと信じる必要が出てくる。
真理を信じるのは学問ではなく宗教である。
だから、真の字は使わず、ここでも敢えて无妄としたのである。

 

卦辞

无妄、元亨、利貞、其匪正有眚、不利有攸往、

无妄(むぼう)は、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただし)きに利(よ)ろし、其(そ)れ正(ただ)しきに匪(あら)ざれば眚(わざわ)い有(あ)り、往(ゆ)く攸(ところ)(あ)るに利(よ)ろしからず、

ものごとは无妄すなわち無為無心で行えば、大いに通じるのは言うまでもない。
また、乾を健やかとして、震を動くとすれば、健やかにして動く様子となるが、このようであれば、これもまた大いに亨通するものである。
だから、元いに亨る、という。
そもそも天雷无妄は天性の卦である。
天性とは天の性すなわち天の秩序正しい運行であり、簡単に言うと貞正ということである。
だから、貞しきに利ろし、という。
これが私欲をもって行動すれば、貞正ではないのだから、亨ることもなく、眚いが有る。
だから、其れ正しきに匪ざれば眚い有り、という。
そして、往く攸というのは、希望であり願いでり求めるところである。
希望や願いや求めるところは、要するに私欲から出ていることである。
无妄は無為無心にして、私欲を持たないことである。
だから、往く攸有るに利ろしからず、という。

彖伝=原文と書き下しのみ

无妄、剛自外来、而為主於内、

无妄(むぼう)は、剛(ごう)(そと)より来(き)て、而(しこう)して内(うち)に主(しゅ)(た)り、

動而健、剛中而応、

(うご)いて而(しこう)して健(すこや)かに、剛(ごう)(ちゅう)にして而(しこう)して応(おう)あり、

大亨以正、天之命也、

(おお)いに亨(とお)るに正(ただ)しきを以(も)ってするは、天(てん)(の)(めい)なれば也(なり)

其匪正有眚、不利有攸往、无妄之往、何之矣、天命不佑行矣哉、

(そ)の正(ただ)しきに匪(あら)ざれば眚(わざわ)い有(あ)り、往(ゆ)く攸(ところ)(あ)るに利(よ)ろしからず、无妄(むぼう)のときに之(こ)れ往(せい)することありとも、何(いず)くにか之(ゆ)かんや、天命(てんめい)(たす)けざれば行(おこな)はれんや、

 

象伝=原文と書き下しのみ

天下雷行无妄、先王以茂対時育万物、

(てん)の下(した)に雷(かみなり)(ゆ)くは无妄(むぼう)なり、先王(せんおう)(も)って茂(さかん)に時(とき)に対(たい)して万物(ばんぶつ)を育(いく)せり、

爻辞

上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○

初九、无妄、往吉、

初九(しょきゅう)、无妄(むぼう)なれば、往(な)すこと吉(きち)なり、

初九は成卦の主爻にして剛正の徳を得ているので、妄(みだ)らなところのない者である。
これは実に无妄の主爻として相応しい者である。
このように、真実に无妄である者は、公正にしてその天性を乱すことはなく、何をするにしても天の道を以ってする。
したがって、どこに往き、何事を為すにしても、吉となるのである。
だから、无妄なれば、往すこと吉なり、という。

上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━

六二、不耕穫、不菑*畭、則利有攸往、

*畭は、正しくは余の下に田と書くのだが、JISにもユニコードにもないので、*畭で代用しておく。

六二(りくじ)、耕穫(こうかく)するに不(こころあらず)、菑*畭(しよ)するに不(こころあらざ)れば、則(すなわ)ち往(ゆ)く攸(ところ)(あ)るに利(よ)ろし、

耕穫は、耕し収穫すること。
(し)は休耕田、*畭(よ)は耕し始めて二年目の田=最も収穫が上がるときの田のこと。

さて、この爻の辞にある「不」の字は、無心という意である。
これは、この卦が无妄を意味するからである。
今、この六二は中正の徳を得て、初九の剛正の无妄の成卦の主爻と剛柔正しく比している。
これは、実に公正にして、无妄=みだらなところのない者である。
みだらなところがない、というのは、無心、無欲といったことである。
したがって、農業をするときも、公正で無心に耕穫するので、耕穫の結果として得られる利益については、始めから気にしない。
休耕田を復活させるにしても、耕して二年目の田を続けて使うにしても、それぞれの利益を予測したりはせず、淡々と作業をする。
だから、耕穫するに不(=心あらず)、菑*畭するに不(=心あらざれば)、という。
これを人事について言うときは、何事をするにしても、天性公正自然にして、やるべきことをきちんとやるが、その結果がどうであろうと気にしないのであって、これこそ実に无妄と言うべき者である。
その无妄であることを以って物事を為すときは、自然と天性に適中しているものなので、どこへ往き何をしようと、何ら問題はないのである。
だから、則ち往く攸有るに利ろし、という。

上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━

六三、无妄之災、或繋之牛、行人之得、邑人之災、

六三(りくさん)、无妄(むぼう)の災(わざわ)いあり、或(あるひと)(うし)を繋(つな)げり、行人(こうじん)の得(う)るは、邑人(ゆうじん)の災(わざわ)いなり、

およそ人が災害に遭うことは、すべて妄意妄行なるより起こるものであり、これは当然の定理にして、免れないことである。
しかし自らは无妄を心がけているからと安心してしまうのも、いささか早急である。
自らは无妄であっても、災いに遭うこともある。
これは天運の巡り合わせといったもので、偶然有ることである。
これが、无妄の災い、というものである。
今、この六三の爻は、陰柔不才、不正不中なので、この災いに罹ることが有るのである。
だから、无妄の災いあり、という。
例えば、ある人が来て、道端にある杭に牛を繋ぎ止めて、ちょっとその場を離れた。
すると、たまたま通りかかった別の行人=旅人が、その牛を杭から外して盗んでどこかへ連れて行ってしまった。
しばらくすると、牛を繋いだ人が戻って来て、牛がいないのに気付き、その邑(村)の人が盗んだのだろうと、邑人に濡れ衣を着せた。
牛を盗まれた人にとっても災難ではあるが、安易に牛から離れた自分の不注意もあることなので、自業自得だとも言えよう。
しかし、濡れ衣を着せられた邑人にしてみれば、何ら予測不可能なとんでもない災難である。
この邑人の受けた災難が、无妄の災い、である。

上九━━━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九四、可貞、无咎、

九四(きゅうし)、貞(ただ)しくす可(べ)し、咎(とが)(な)し、

九四の爻は陽爻であり、上卦乾の進むの卦の一体中に居るが、不中不正である。
したがって、妄りに騒ぎ動こうとしやすいので、これを惧れ戒める。
だから、貞しく可し、という。
一に貞正の道を守り、騒ぎ動いて无妄の時を犯すようなことがなければ、咎もないものである。
だから、咎无し、という。

上九━━━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九五、无妄之疾、勿薬、有喜、

九五(きゅうご)、无妄(むぼう)にして疾(や)むことあり、薬(くすり)すること勿(なか)れ、喜(よろこび)(あ)らん、

疾とは疾病のことにして、言わば災いということと同義である。
それをことさらに疾と言うのは、疾は癒えることが有ると教えるためである。
たとえば、一旦は无妄の災いが有っても、自然に消滅する、ということを知らせているのである。
そもそも九五は、中正なので、もとより无妄なるとろこの者である。
しかし、時には災難に出遇うことも有る。
これは无妄の災いにして、自ら引き起したわけではない。
例えば、堯(ぎょう)の代に七年の洪水が有り、殷(いん)の湯(とう)王のときに三年の旱魃が有り、周(しゅう)の文(ぶん)王が殷の紂(ちゅう)王により羑里(ゆうり)に囚われたことなどが、これに当たろう。
このような時には、あたふたと策を労するのではなく、一に正しきを守り、順受するのを道とするべきである。
病気ならば、あれこれ薬を飲むよりも、黙って寝ていればそのうち治る、といったところである。
だから、无妄にして疾むことあり、薬すること勿れ、喜び有らん、という。
これは疾と言って癒えるという字を省き、喜と言って憂うるという字を省いているのである。
したがって、詳細に言うのであれば、无妄にして疾むこと有りて憂はしけれども、妄りに薬すること勿るべし、自然に癒えて喜ぶこと有らん、ということである。
これを互文省略法という。

上九━━━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

上九、无妄行、有眚、无攸利、

上九(じょうきゅう)、无妄(むぼう)のときに行(おこな)えば、眚(わざわ)い有(あ)り、利(よ)ろしき攸(ところ)(な)し、

上九の爻は无妄の時にして无妄の極に居る。
これは公正にして徳を修めるべき者である。
しかし、不中不正にして乾の進むの卦の極に居るので、妄りに動き進んで无妄の時を犯し、貞節の戒めに背き、正しくない咎を履む。
したがって、自ら災難を招くのである。
だから、无妄のときに行えば、眚い有り、という。
これは凶害の甚だしいことであり、戒めないといけない。
だから、利ろしき攸无し、という。

前の卦=24地雷復 次の卦=26山天大畜

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01.乾為天 02.坤為地 03.水雷屯 04.山水蒙 05.水天需 06.天水訟 07.地水師 08.水地比 09.風天小畜 10.天沢履 11.地天泰 12.天地否 13.天火同人 14.火天大有 15.地山謙 16.雷地予 17.沢雷随 18.山風蠱 19.地沢臨 20.風地観 21.火雷噬嗑 22.山火賁 23.山地剥 24.地雷復 25.天雷无妄 26.山天大畜 27.山雷頤 28.沢風大過 29.坎為水 30.離為火 

31.沢山咸 32.雷風恒 33.天山遯 34.雷天大壮 35.火地晋 36.地火明夷 37.風火家人 38.火沢睽 39.水山蹇 40.雷水解 41.山沢損 42.風雷益 43.沢天夬 44.天風姤 45.沢地萃 46.地風升 47.沢水困 48.水風井 49.沢火革 50.火風鼎 51.震為雷 52.艮為山 53.風山漸 54.雷沢帰妹 55.雷火豊 56.火山旅 57.巽為風 58.兌為沢 59.風水渙 60.水沢節 61.風沢中孚 62.雷山小過 63.水火既済 64.火水未済

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては易学入門をご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は無料易占いのページをご覧ください。
占いながら各卦の意味がわかるようになっています。

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最終更新日:平成30年09月15日 学易有丘会
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