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なるほど!易学入門ここでは易学=易経(周易)に基づく占いの成り立ちについて、初心者向けに解説しています。易の起源は中国の有史以前、まだ文字がなかった時代だと言われています。

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\ 男尊女卑と女尊男卑

序卦伝に込められた女尊男卑への警戒心

父と子の関係

 現代人にとっての文語体の文章は、堅苦しく読むのに骨が折れる。しかし敢えてここに取り上げた。何故なら、その処世術としての面白さや各卦の配列に注目したかったということもあるが、もう一つ、今後の社会を考えると実に興味深い箇所があったからである。下篇冒頭の次の文章である。

 天地ありて然る後に万物あり。万物ありて然る後に男女あり。男女ありて然る後に夫婦あり。夫婦ありて然る後に父子あり。父子ありて然る後に君臣あり。君臣ありて然る後に上下あり。上下ありて然る後に礼儀錯くところあり。

 一見、儒教の価値観に従って当たり前のことを当たり前に書いているようでもあるが、注意深く読むといささか気になるのころがある。
 「夫婦ありて然る後に父子あり」
 何故、「父母と子」ではなく「父と子」なのか、男尊女卑だから母親はどうでもよいというのだろうか。
 いや、そんないい加減な態度ではなく、もっと重要な人間社会のメカニズムを踏まえたものだったのである。
 ヒントは中国雲南省の奥地に住む少数民族にある。

モソ族の場合

 まだ平成になったばかりの頃、中国政府の許可を得て産経新聞が中国雲南省奥地を取材した。
 上海から揚子江を溯ること二千キロ、南はベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接し、西にはアジアの屋根と呼ばれるヒマラヤを控えた山深い雲南省、そこには苗族を始め、それぞれ独自の伝統文化や風習を持った数多くの少数民族が暮らしている。
 そんな中にモソ族と呼ばれる人々がいる。

 モソ族は道なき道で険しい峠をいくつも越えたところにある濾沽湖(ろここ)という湖水の辺に住み、湖での漁と僅かばかりの田畑を耕して糧としている。
 ※Googleマップなら簡体字の泸沽湖で検索すればすぐ見つかります。
 何やらのんびりしていて楽しそうだが、そんな彼らには、近代科学文明とは無縁だという以上に、我々とは全く異なる点があるのである。
 モソ族は女性が社会の主導権を握っていることから、俗に女人国とも形容されていて、家督は代々母から娘へと受け継がれて行く。
 対する男性は生涯自分の母親もしくは家長たる女性の支配管理のもとに、与えられた仕事をこなすだけに過ぎない。
 そして、驚くべきことに、ここでは夫婦という単位が存在しないのである!
 モーソ族の女性には特定の男性に恋愛感情を抱いたり、貞操を守るという意識は全くなく、その日の気分で夜毎異なる男性を自分の寝室に招き入れ、一夜を共にするのである。妊娠しても父親が誰だろうと全く気にせず、そのため彼女達の言語には「父親」という単語すらない。
 日本人の感覚からすれば、父親が判然としないことは不幸にも思えるが、社会全体がそうであることにより、それを不幸とは感じさせないのだろう。と同時に父親を特定させないことで、女性優位すなわち女尊男卑の社会構造を作り上げているのである。
 男性に子の親としての地位を与えないことになるからである。
 親子では親の方が発言力が強いが、モーソ族の場合、女性が男性の親になることはあっても、男性は女性の親になり得ない。
 なお、ここに書いたのは、かなり前、確か平成ヒトケタの前半頃の産経新聞の記事を元にしている。
 その後、中国政府による近代化政策により、今ではモソ族の住む村へも車が通れる道路が開通して簡単に行き来できるようになった。
 彼女たちも大都市に出稼ぎに出たり、学校に通うようになり、今は中国政府の考え方を少しずつ受け容れているようである。

母権制社会と父権制社会

 このモソ族ような社会形態は特殊な環境が生み出した異端だとする見方もあるが、古代中国ではかなり身近な存在だったからこそ、下篇冒頭の文章があるのだと言えよう。

 男女が結婚して夫婦となることで初めて父と子の関係が生じ、父と子の関係があって初めて君臣や上下の序を整える礼儀すなわち儒教道徳は成立するといった意味だが、逆に言えば、儒教道徳を否定すると生まれてくる子の父親を特定することが無意味になり、父と子の関係は成立しなくなると共に、女性達は不特定多数の男性との性交を楽しむため、結婚という制度も崩壊すると示しているのである。
 すなわち儒教道徳は男尊女卑を前提としているので、男尊女卑があって初めて女性は性交相手を特定して夫婦となろうとする、ということである。

 一般にモーソ族のような社会は母権制社会、他の結婚という制度を有する社会は父権制社会と呼ばれているが、この両者を比較してみると、男女平等は幻想に過ぎず、人間社会は男尊女卑か女尊男卑の何れかでしかなく、それは社会が結婚をどのように位置付けるかで決まって来るのだと言えよう。そして多くの場合、人類はその太初より男女が夫婦という単位を構成する父権制社会だったと考えられているが、そこには大きな誤りがあったのである。
 太古の母権制社会を神話の彼方に封印することで、父権制社会を確立しようとしたのが、古代の歴史書や宗教だったのである。

 もっとも、母権制社会を窺わせる記述は、司馬遷の『史記』や『日本書紀』にはちゃんとある。
 『史記』の場合は「商君列伝第八」に、「始め秦という国は、戎翟の野蛮な教えに従い、父と子の区別もなく、同じ女性を性交相手として暮らしていた」(原文「始秦、戎翟之教、父子無別、同家而居」とあるが、これこそ母権制社会を描写したものである。
 『日本書紀』の場合も、第十二代・景行天皇の四十年秋七月条に、「蝦夷は是尤だ強し、男女交じり居りて別、父子無し……」とあり、これは、蝦夷が母権制社会であることを示した記述に他ならない。
 しかしこれまでの歴史学者は、敢えてそれを取り上げないようにしている。なぜだろうか。何か政治的な意図でも働いているのだろうか・・・。

女系天皇についての議論

 秋篠宮悠仁親王殿下ご誕生まで、よく、女系天皇という言葉を耳にすることがあった。これまで、皇位継承は男系で来たわけだが、現在の宮家では将来男系での皇位継承が難しくなる可能性があったので、その回避策として言われだした言葉である。
 しかしこれは、天皇の存在意義とは何か、について、歴史的な検証は一切なされていない。
 日本人が系図を作るとき、その出発点は○○天皇にする。それが事実かどうかは判然としなくても、そうするのが普通である。これは、『日本書紀』を見ると、△□氏は○○天皇の子孫、○△氏は△△天皇の子孫、といったことが、ものすごく詳細に書かれていて、編纂当時の人々は、すべて天皇の子孫ということになりそうな気配である。なんでそんなふうになっているのか。
 父系の血統を大切にする、という男尊女卑社会の最重要テーマがあるからである。
 自分の父系の先祖が誰でも構わない、ということになれば、父系の血統の存在価値、延いては父親の存在価値がなくなり、社会は女尊男卑に傾くからである。
 皇室の先祖は天照大御神という女性の神様である。その天照大御神の子供から、男系の血を継承して初代の神武天皇に至り、さらに男系で皇統を継承し、現在に至っている。途中、皇統が途絶え、かなり離れた男系の皇統を継承する人物を捜して来て天皇とした例もあるが、とにかく男系で皇位は継承されてきた。一部、ピンチヒッター的な色彩で女性が皇位を継承した例もあるが、そこから女系で皇位が継承された、という例はない。
 これらのことから推測すれば、日本は昔、母権制社会であって、あるときそこから脱却したことで、今日に続く父権制社会が確立された、ということである。言うなれば、母権制社会時代を神話の中に封印することで、父権制社会を確立したのである。それが皇祖の天照大御神と皇室の関係である。だから女系天皇を認めることは、いくら憲法や男女平等に相応しくても、歴史的に見ると、問題なのである。
 父系の血統に社会的価値を付けるためには男系相続の王様が絶対必要なのである。
 もしそれを否定するのであれば、百年単位での変化になるだろうが、確実にモーソ族のような女尊男卑の母権制社会に逆戻りすることになるだろう。

 『古事記』『日本書紀』は、表面上、古代日本は有史以前から父権制父系社会であったかのように描いているが、それはウソだと断言できる。
 真実を隠すために、そういう歴史物語を偽作したのである!


 ・・・と、強く言うには、それなりの根拠がある。
 その根拠を書いたのが古事記と易学のページである。
 かなりの長編ではあるが、よろしければ、ご一読ください。

 ちなみにキリスト教国では、キリスト教がその男系相続の王様の役割を果たしている。例えば、ローマ法王は男性しかなれない、というシステムが、無言のうちに、男尊女卑を人々に植え付けているのである。しかし、キリスト教国であっても、国民のキリスト教への信仰が薄れると、やはり男尊女卑はぐらつく。例えば次のような事例がある。

男女平等が進むと・・・

 もう十年以上前のことだが、ヨーロッパの女性についての興味深い記事が新聞に載っていた。
 男女平等が最も進んだ国のひとつデンマークでは、結婚する男女の数は年々減り続け、代わって未婚の母が急増し、今では全出生数の約2割が婚外子だという。それにその婚外子、父親が特定できない場合も相当数あるらしい。また、未婚で未出産の女性の中にも、結婚はせずに子供だけ欲しいと考える人々も少なくないとのことである。
 この傾向は単にデンマークのみならず、実数には多少の差異があるものの、他のヨーロッパ諸国や米国でも顕著で、将来的にはさらに進むものと予測されている。
 考えてみると、女性が自立し、婚外子が差別されない社会であれば、わざわざ結婚という手続きを踏み、父親役を男性に求める必要はどこにもなく、父親が不必要ならば、生まれて来る子の父親が誰であろうと問題ではなくなるのが、自然の成り行きというものだろう。

 いや、むしろ積極的に父親を特定できないようにした方が、女性には好都合である。
 結婚しないのだから、当然嫁姑の関係に悩まされることはなく、子供は自分の思いのままに育てられ、自由気ままに不特定多数の男性とセックスを楽しみ、さらにはそのことで金銭を受け取ったとしても、誰にも咎められないどころか、却って憧れの眼差しで迎えられよう。
 欠点と言えば、男女間に「愛」といった精神的な繋がりがなくなることだろうが、愛を信じて結婚しても不幸になる場合が往々にしてあることからすれば、自分の母親や兄弟姉妹およびその子供といった肉親の絆を強固なものにしておけば、心の寂しさは癒せよう。
 もっとも優れた能力を有する特定の男性だけは、この競争社会の中、優秀な子孫を残そうとする女性達から子種提供者として引っ張りだこになり、父親としての地位も与えられよう。しかし一般庶民の男性は、そうはいかない。女性に快楽を提供するための、言うなれば使い捨てのモノでしかなくなってしまう。
 これではモーソ族と同じ女尊男卑の母権制社会の到来である。
 と言うと、何やら誇大妄想の様相を呈しているかのように思われても、致し方ないところだが、昨今の性を取り巻く風潮には、どうしてもそんな兆候を感じてしまう。
 少なくとも男尊女卑の否定が叫ばれるに従って、羞恥心を顧みない女性が増えつつあるのは事実である。

『旧約聖書』の場合

 羞恥心と言えば、『旧約聖書』冒頭の「創世記」、そのアダムとイブのところに、こんなことが書いてある。
 神は、禁断の木の実を食べて羞恥心を知ったアダムとイブを、エデンの園から追放するわけだが、その時イブに対し、「おまえは夫に情熱を燃やすが、夫はおまえを支配する」と告げているのである。
 夫に情熱を燃やすというのは恋愛感情、おまえを支配するというのは男尊女卑を指すわけだが、何やら羞恥心により恋愛感情が育まれ、それが社会を男尊女卑にすると示唆しているかのような印象を受ける。
 また、イブが先に禁断の木の実を食べ、アダムはイブに勧められたから自分も食べたとあるのだから、羞恥心を知る前は、イブすなわち女性がイニシアチブを取っていたのであって、要するに二人の間は、それまで女尊男卑だったことになる。とするとここでも羞恥心のあるなしが、男尊女卑と女尊男卑を分けているのだと言えよう。

 モーソ族のような閉ざされた少数民族ならば、社会全体がひとつの大家族のようなものだからそれでよいが、我々が住む巨大社会にあっては、他人同士の男女が夫婦という単位を構成して家族となることで、初めて人々に思いやりの心が培われ、社会は平和になるのではないだろうか。
 街行く見知らぬ他人も、もしかしたら自分とどこかで血の繋がりがあるかもしれない。あるいはこれから親戚の誰かと夫婦になり、一族の和の中に入って来るかもしれない。
 コーヒーショップの窓辺に腰掛け、ガラスの向こう側の風景の中に、そんな幻想を思い描ける世の中であってこそ、他人に対して優しくなれるのではないだろうか。
 しかし個人主義と称して、「家」という単位や父系の血統を無価値としてしまえば、要するに他人は永久に他人のままであり、利害関係以外の繋がりを持ち得ない。その結果、人間は利己主義になり、力で他を圧倒することが謳歌され、目先の利益や直情的快楽追求を人生のテーマとしない慎ましやかな人間は行き場を失い、社会は荒廃し、犯罪や暴力の蔓延になす術がなくなる。
 いささか悪夢のようなシミュレーションになってしまったが、要するに儒教の根底に流れる価値観では、女尊男卑は人間を打算的にし、思いやりの心を育むためには男尊女卑が必要なのだということである。ただし、男尊女卑があれば自然に思いやりの心が育まれるのだと考えてはいけない。生活の中に、それを実践する心の余裕ができるということである。男尊女卑の上に胡座をかいているだけでは、無論、思いやりの心など生まれようはずがない。
 キリスト教が男尊女卑を前提に、「すべての男の頭はキリストである、男は女のかしらである」(コリント人への第一の手紙)と言い、貞操や博愛、正義の重要性を主張するのも、このようなシミュレーションに基づいていたのではないだろうか。

 いささか蛇足となってしまったが、そろそろ本題に戻り、次に具体的な易占いのやり方に触れておこう。

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最終更新日:平成30年02月02日 学易有丘会
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