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>>春風駘蕩

 
とてもよく晴れわたった空の下、細い棒で吊るされた、
洗いたての何枚もの衣服が、さわやかな風にはためく。
その壮観な眺めと、達成感に花は一人満足げに頷いた。


孟徳の奥方ということで、あまり何もすることがなくなって
しまった花に、孟徳は自分の世話を焼いてほしいという
お願いをしてきたのは、少し前の話。
孟徳の世話一般を請け負い、「使用人の仕事をしないでください」
と花に仕える女官たちに言われつつも、今の仕事に充足感を
もっていた。


これが終わったら、床の乾拭きでもしようかと振り向いたところで、
眉間のしわが通常よりも3倍深くなった文若と、目が合った。


いつの間にか後ろに文若が立っていたのだ。
髪型も、服装ともに乱れた様子はまったくないのだが、
焦りの色を滲ませた凄みを花は感じ取り、合ってしまった目を
必死に彷徨わせた。


「ぶ、文若さん・・・いつの間に後ろに?!」
「今来たところだ。それより花。丞相はどこだ?」


文若が握っている書簡が、ギシギシと立てた音に気をとられつつ、
花は、あわてて首を振った。


「孟徳さんはここには戻ってきていませんよ?」


文若は冷静に眉間のしわをまたひとつ、増やした。


「墨はまだ固まってはいないから近くにいるとは思うが・・・
 そうか・・・邪魔をした。」


独り言のようにつぶやくと「すまない」素っ気無く付け足したように言い、
すばやく文若は廊下へと消えていった。
呼び止める暇も無いほど、文若は素早かった。
それだけ、孟徳を必死に探しているということだろう。


墨の固まり具合で、孟徳がいなくなった時間が文若にはわかるらしい。
まるで刑事のようだと花は、少し驚きながらも文若に心の中でエールを送りつつ、
花は雑巾をかけに再び部屋に戻ろうと、廊下を歩き始めると、
今度は元譲が、青ざめた顔で立ちすくんでいた。
柱の影からにょっきりと見える姿は、心臓にとても悪かった。


しかも青から緑に色が変わりそうな顔色の悪さで、目だけは少し血走って潤んでいた。
拳は心なしか強く握られている。


「花、孟徳はどこだ?」


何の前触れも無く、元譲は花に尋ねる。


「し、しらないです。どうしたんですか?」
「いつの間にか逃げたんだ。そして、いつの間にか逃げた!」
「同じことですけど・・・」
「大事なことだから2回言った。あいつは本当に霞か霧か!?」
「あの・・・文若さんも探しに来ましたけど、」
「別件でも探されているとは・・・まだ椅子は暖かいから近くにいるはずだ。
 もし、見つかったら首根っこを持って俺のところに来てほしい。・・・いいな?」
「わかりましたっ」


いつも以上に切羽詰った元譲の気迫に押されて、花はつい頷く。
鬼の形相とまでは言わないが、近い形相ではあった。


元譲の早く歩き去る姿を見送りながら、花は雑巾がけを延期を心の中で決定した。


そして孟徳を探すために、廊下を再び歩き出した。


検討はついていた。
だから、まっすぐとその場所へと花は向かっていた。


花の検討どおりの場所に、孟徳はいた。
あっさりと見つかったことに、花は安堵して、心なしか足早に孟徳の元へと歩いた。


兵に見つかりにくい死角の、良い香気が漂う花木の下で孟徳は
行き倒れていた。
というよりも、昼寝をしていたようだ。
手元には、書簡やら書物やら乱雑に開かれている。


訴えの書状や、町民ではやっている歌。
軍策やら、臣下への指示する書簡。


ここで仕事をしていたのかな、と花は思いながら孟徳の傍に寄る。
気がついていないようで、まだ孟徳は起きる気配は無い。
規則ただしい寝息が微かに聞こえる。


よく見れば、木陰のせいだけではなく顔色がなんとなく悪いような
気がして、花はそのまま起こすことは無く、孟徳の横にちょこんと座った。


ふわふわと揺れる孟徳の髪の毛が風でゆれる。
何の意味もなく、その髪の毛を撫でると、まるで猫の毛みたいで
さわり心地が気持ちがいい。


「花ちゃんのの手は気持ちいいね。」


その声に驚いて花が手を引っ込めると、残念そうに孟徳が眠い目を擦った。


「起きてたんですか?」


「今、起きたけど・・・。起きたら撫でてくれないの?」


甘えてねだる孟徳に、花はくすぐったく笑って、じゃああと少しだけ
と手を伸ばした。


「ここでお仕事していたんですか?」
「たまには場所を変えてみようと思ってね。」
「はかどりました?」
「まあね。」


空は青く高い。


孟徳は見上げてつぶやいた。


「こんな日が続くといいねぇ。」


静かで穏やかな時間が過ぎる。


孟徳は気持ちよさそうに、目を細めると、花にそっと寄りかかった。


「・・・そうですね・・・。」


花は、ふわり微笑み頷いた。


孟徳が春風駘蕩でいられる時間は、残りわずか。
それまでは、二人ひっそりと隠れていよう。
こんな日が続くように、花は目を閉じて柔らかな髪に顔を寄せた。




遠くから、孟徳を必死で探す哀れな書官の声を聞こえていた。












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