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>>空の色

 


頬に少し冷たい風が触れる。
宮廷の庭は、すでに梅が咲き始めていた。
風に運ばれて香る梅の匂いに、花は久々に外に出られた開放感を
味わいながら、隣を歩く孟徳に視線を移した。


孟徳を庇って出来た傷はすでに癒えているのに、
花に対してのみ異常なほど過保護な孟徳は、「看病」という名目を
盾に花と離れる時間は少なかった。
今も、多忙なはずの丞相の時間を花は独占している。
それが後ろめたいのか、くすぐったいのか判らない気持ちに
花は少し眉を下げた。



「空は、こんなにも綺麗なものだったんだね。」
 



吸い込まれそうな高く蒼く澄み渡った空を見上げていた
孟徳が、目を細めて呟いた一言に、花は瞳をまたたかせた。



「全部が全部綺麗な色だとは思わないけど・・・どうしたんですか?」


「花ちゃんがあの日言ったでしょ?『綺麗な空だ』って。」


思い出すのは、襲撃を受けた後。
しばらく経って意識を取り戻したその日の朝は、
雨上がりの朝だった。
今までの重くて哀しい灰色の雲がゆっくりと消えて、
白い雲とその間から差し込む透き通る金色の光と、
わずかな青紫の膜。


身体の痛みよりも、襲われた恐怖よりも、抱きしめてくれた孟徳の肩越しから
見えた空の色が、あまりにも綺麗さに心を奪われて。


その美しさを真っ先に伝えたくて、孟徳に言ったのを覚えている。


それを見て、孟徳も「そうだね。」と返してくれたのだが。







「・・・思い出しました。気の無い返事を!」





「いや誤解だよ、あの時は本当に綺麗だと思ったんだ。
 なんだかそう思ったのは、初めてで。とうとう俺も
 歳を取ったかと・・・」


「え?なんでそうなるんですか?」


「小さい頃、祖父が『綺麗な空』だとよく朝焼けを
見せてくれたんだけど、いまいちこう良さってもの
がわからなくてね。そういう教育方針かなのかと思っていたよ。」


「・・・はぁ。」


「祖父も俺が興味がないってこと、わかってたんだろうね。
もう少し大きくなったらわかるって言っていたけど、
この歳になるまでわからなかったよ。」


「大きくって・・・年齢を重ねるとわかるようになるって
思ってたんですか?」


「うん。祖父と同じ歳くらいになったらわかるようになるかと。」


「・・・。」


最近、わかってきたことだが、もしかしたら孟徳は多少「天然」の
ところがあるのではないかと、花は思う。


だけど


綺麗だと思う感性は、人それぞれなのだから。
それを強要するのは間違っている。
感動を共有したいと思うのは、ただの自己満足かもしれない。


「・・・すみません。私・・・考え無しでした!」


土下座でもしかねない花を止めるように、孟徳は花の
両肩を掴んだ。


「え?何で謝るの、花ちゃん。ちょっと顔を上げてよー。
俺は感謝したいって思ってるんだから。」


「感謝?」
「あの日の空は本当に綺麗だって思ったし。
今もこの空も綺麗だと思った。そう思う理由がわからなかった。
でも、今やっとわかった。」


 綺麗だと思うことに、理由なんてあるのだろうかと思ったが、
花はそのまま孟徳の言葉を待った。


「人とはちょっと違うかもしれないんだけど、空そのもの
というよりも、忘れられない・・・もしくは忘れたくない気持ちを
重ねるからそう見えるんじゃないかと、思う。」


「?」


色とかではなく、思い出を重ねる。


「簡単に言えば、君がいる空の下だから。花ちゃんが
綺麗だと言って笑った空だから、綺麗だと思った。そんな理由だね。」


「・・・そんな理由。」


「ダメかい?」


悪戯っぽく微笑む孟徳と、その上から見える空を見て、
孟徳が言った言葉がわかったような気がした。
孟徳が言う「綺麗」がそこにあったからだ。


「多分、わかる気がします。」


「それは嬉しいなぁ。」




遠いところから声がする。
きっと休憩といって行方不明になった
孟徳を探す役人の声だろう。その声は必死さを帯びている。




「行こう、花ちゃん。」


「はい。」


きっと幾度も見上げる空に、今の空の色に似たような
色見るたびに、思い出すのだろう。


そしてきっと「綺麗だ」と思うに違いない。








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