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東京人権連 > 同和問題について > 解説 八鹿高校等事件控訴審判決について

            

 全国人権擁護委員会連合会が発行する『人権通信』1988年6月1日号(第133号)に、法務省人権擁護局人権擁護管理官室が発表した解説「八鹿高校等事件控訴審判決について」の全文をご紹介します。

(漢数字は算数字に直しました)


解説 八鹿高校等事件控訴審判決について

法務省人権擁護局人権擁護管理官室

一 八鹿高校事件の概要

本年3月29日大阪高等裁判所において、いわゆる八鹿(ようか)高校等事件に関する刑事事件についての控訴審判決(以下本件判決という。)が下された。

八鹿高校事件とは、昭和49年秋に兵庫県南但馬(たじま)地方において部落解放同盟(以下「同盟」という。)が行った確認・糾弾行為について、同盟沢支部長Aら同盟員13名が、換金、逮捕監禁、障害、強要等の刑事責任を問われた事件で、朝来(あさご)事件といわれる一連の事件と八鹿高校事件からなっている。

(1)朝来事件といわれる一連の事件とは、

@   当時兵庫県教職員区見舞い朝来支部長であったB教諭らが同盟の行う確認会・糾弾会を批判したビラを配付したのは、部落差別であるとして、同盟員約200名がB教諭ら10名に対し、兵庫県朝来郡朝来町の路上及びその付近の空き地に設置したテントにおいて、約10時間にわたり、同人らを取り囲み、あるいは多数でテントを包囲し、こもごも怒号するなどして糾弾したことが、監禁罪に問われたもの(元津事件)

A   B教諭に対し、その自宅を約91時間にわたり、多数の同盟員が取り囲み、こもごも怒号し、夜間は大型投光器を使用するなどして、同人方からの自由な出入を困難ならしめたことが、監禁罪に問われたもの(B教諭宅包囲事件)

B   B教諭の支援者ら20名が、B教諭への糾弾を不当とするビラを国鉄生野駅で配付した際、10数名の同盟員がこれを阻止し、右20名に対し、両腕をかかえるなどして付近に停めてあったマイクロバスまで連行して、これに押し込め、約1300メートル離れた南真弓公民館に連れ込み、4時間半にわたって同人らを取り囲みあるいはその前面に立ちはだかり、その際13名の者に対し顔面を殴打し、背中をけるなどの暴行を加えて傷害を負わせたことが、逮捕、監禁、傷害の罪に問われたもの(生野駅・南真弓公民館事件)

等である。

(2)八鹿高校事件とは、同高校内への部落解放研究会の設置をめぐって、かねてからこれに反対する同高校の多数の教諭と、同研究会生徒及びこれを支援する同盟との間で紛議が生じていたところ、研究会の生徒がハンガーストライキを行うに至り、その処理に関して同盟員等から激しい糾弾を受けることを察知した教諭60余名が、授業を中止し、年次休暇をとって集団下校をはじめたところ、同盟員2、300余名が教諭らを町中の路上で包囲し、同人らに対し、殴る、けるなどの暴行を加え、両腕をとるなどして同高校内へ連れ戻し、同盟員ら多数で包囲、看視するなどして脱出を困難ならしめ、さらに殴る、けるなどの暴行を加えて同人らを畏怖、困惑させ、内29名の者に自己批判書の作成を強要するなどして糾弾し、その際、右暴行により46名の者に傷害を負わせたことが、逮捕監禁、強要、傷害の罪に問われたものである。

二 判決の概要

これらの事件に関し、昭和58年12月14日神戸地方裁判所は、13名の被告人全員に対し、懲役3年執行猶予4年(被告人A)以下懲役6月執行猶予2年の有罪判決を下した。

同判決については、有罪とされた被告人全員が控訴し、検察側においては一連の事件で総指揮官の立場にあったAについてのみ量刑不当により控訴していたが、今回大阪高等裁判所はこのいずれの控訴も棄却したものである。

本判決は、被告人による前記事項について、それが糾弾権の行使として正当行為に当たる、あるいは可罰的違法性を欠くものであるとの被告人らの主張に対して、まず総論として次のとおり判示した。

「糾弾行為の許される一般的限界について考えてみるに、所論が述べるとおり、今日なお部落差別の実態は極めて深刻かつ重大なものがあるにもかかわらず、差別事象に対する法的規制若しくは救済の制度は、現行法上必ずしも十分であるとはいいがたい。そのため、従来から、差別事象があった場合に、被差別者が法的手段に訴えることなく、糾弾ということで、自ら直接或いは集団による支援のもとに、差別者にその見解の説明と自己批判とを求めるという手法が、かなり一般的に行われてきたところである。この糾弾は、もとより実定法上認められた権利ではないが、憲法14条の平等の原理を実質的に実効あらしめる一種の自救行為として是認できる余地があるし、また、それは、差別に対する人間として堪えがたい情念から発するものであるだけに、かなりの厳しさを帯有することも許されるものと考える。しかし、そこには自ずと一定の限度があるのであって、個々の糾弾行為につきその違法性の有無を検討するに当たっては、当該行為の動機・目的のほか、手段・方法等の具体的状況、更には、これによって侵害された被害法益との比較など諸般の事情を考慮し、法秩序全体の見地から見て許容されるかどうかを判断すべきものである。そして、右の見地から見て許容されないものについては、刑法上それが正当行為に当たるとも、また可罰的違法性を欠くともいえないのである。」

その上で、被告人らの右行為について、それぞれその動機・目的・行為の態様・相手方に与えた結果等を詳細に検討し、結局被告人らの右行為は、いずれも社会的に相当と認められる範囲を超えているから、これをもって正当行為または可罰的違法性を欠く行為ということはできず、監禁・逮捕監禁・傷害・強要等の罪に該当すると判断した。

三 本判決の総論的判旨の意義

1 本判決が世に出されるや、いわゆる確認・糾弾行為について言及した前記総論的判示部分が大きな波紋を呼び、「この判決は糾弾権を認めた。」あるいは、「糾弾権を憲法14条に根拠を置く権利として認めた。」との論が唱えられ、マスコミの論調もこれに同調するものが多いように見受けられる。

しかしながら、右判示は、糾弾行為を権利の行使としての行為として認めたものとは、到底解することができない。判示は、「糾弾は、もとより実定法上認められた権利ではないが(中略)、一種の自救行為として是認できる余地がある。」と述べているに過ぎないのである。

ここで「自救行為」とは何かがまず吟味されなければならない。

自救行為とは、権利者が、自己の権利を確保または実現するために、法定の手続きをふまないで、自ら行う実力行動をいうものである。

近代法では、私人間の紛争を強制的に解決するにはすべて国家的救済機関の手を通して行うものとし、自力救済を厳に禁止するものであるから、自救行為を原則として違法とするのが、近代国家における法理論である。ただ、例外的に、法律上の正式の手続きを踏んでいたのでは、権利の回復が不可能となるか、または著しく困難になるような緊急の事態において、正規の手続きによる救済をまっていては時期を失する場合に限り、自救行為が許される余地があると論じられている。その要件としては、

(1)法益に対する違法な侵害があること。

(2)国家の救済機関の発動を求めるいとまがないこと。

(3)侵害に対する回復行為として、社会通念上相当なものであること。

(4)即時にこれをしなければ権利の回復を不可能もしくは著しく困難にするおそれがあること。

が必要であるとされている(沼野輝彦「刑法学2」132頁)。

自救行為とは、以上のようなものであって、刑事法における刑事責任または民事法における不法行為責任の場で違法阻却事由の一つとして論じられるものであり、事実行為に対する評価の問題であって、「実定法上認められた権利」に基づく行為ではない。ちなみに、実定法とは、自然法に対置される概念で、慣習、制定、判例等人の行為によって作り出され、一定の時代、一定の社会において法としての実効性をもっているもの(有斐閣・新法律学辞典)であって、成文法よりは広い概念である。

本判決は、右の意味で、「糾弾は、実定法上認められた権利ではない」と言っているのである。

2 本判決の判旨によっても、ある糾弾行為が、一種の自救行為として違法性を阻却されるか否かは、その行為の動機・目的・手段等判示の諸事情を詳細に検討し、それらが自救行為としての前記の各要件を充たすかどうかを判断した上で個々的に決せられるべきものである。判旨が「是認できる余地がある」(「余地がある」に傍点=筆者)としたのは、この趣旨と読むべきである。

したがって、本判決は、一般的・包括的に、糾弾行為を自救行為として是認したものではないことに留意しなければならない。

四 本判決と地対協の意見具申等

本判決によって、確認・糾弾行為を否定する地域改善対策協議会(以下「地対協」という。)の意見具申は否定され、覆されたという意見がある。しかし、これは的をはずれた議論である。

昭和61年12月11日の地対協の意見具申は、次のとおりいう。

同和問題について自由な意見交換ができる環境がないことは、差別意識の解消の促進を妨げている決定的な要因となっている。民間運動団体の行き過ぎた言動が、同和問題に関する自由な意見交換を阻害している大きな要因となっていることは否定できない。いわゆる確認・糾弾行為は、差別の不合理性についての社会的認識を高める効果があったことは否定できないが、被害者集団によって行われるものであり、行き過ぎて、被糾弾者の人権への配慮に欠けたものとなる可能性を本来持っている。また、何が差別かということを民間運動団体が主観的な立場から、恣意的に判断し、抗議行動の可能性をほのめかしつつ、さ細なことにも抗議することは、同和問題の言論について国民に警戒心を植え付け、この問題に対する意見の表明を抑制してしまっている。」

これによって明らかなとおり、意見具申は、同和問題解決のための今後の重要課題である心理的差別の解消のためには、同和問題についての自由な意見交換がなされることが必要であるが、確認・糾弾行為は、これを阻害する要因の一つになっているとして、同和問題に関するあるべき施策の観点から、確認・糾弾行為を否定する評価をしているのである。それに対して、本判決は、糾弾において刑罰法規に触れる行為がなされた場合に、可罰性の観点から、違法阻却事由を認めることができる場合がありうるかを論じたものである。視点が、光の当て方が、全く異なるのである。

意見具申の立場からすれば、確認・糾弾において刑法に触れる行為が行われるなどは、沙汰の限りであり、そのような行為がなくとも、地対協の右の意見は全く変わるところがない。したがって、本判決は、前記のとおり、「糾弾する権利」を認めたものではないから、もとより「糾弾を受けるべき義務」を認めたものでもない。糾弾行為に応じるか否かはあくまでも本人の自由意志によるべきことは、本判決によっても何ら代わるところはないものである。

(おわり)

   

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