知育とは

 

 

 

必要な“条件”を自ら設定する能力の開発である。最近は機械は相手にできるが、“人間”を相手にできなくなっている。マニュアル化される環境の中で想像力が痩せこけ野生を失って、人間のような、どう動くかわからないものに対する応対の能力を失いつつあるのではないか。

“動き方”の知恵としての武道の心得といっても、腕力レベルの実力や試合成績しか問題にしない現代の風潮の中でイメージが描きにくいが、本来、武道は“試合競技”ではない。武道人とは“競技者”ではないのだ。利害対立する中で、自滅を避け、護るべき者たちを護りぬく知恵と、動き方の原理、および行動力が武道の本質部分である。

武道が教える人間像として、まず自主独立の気概と実力を内包した弱者にやさしい、いかに社会的に地位が高くても無為無冠の人間とも気持ちが通じ、敵方とも話合いができる、他人と喜びや悲しみを分ちあえる一片の“素心”を失わないことである。

他人と自分は別人である。また、別人格でもある。これを武道では“見切り”と呼ぶが、他人の言動との間には隙間があるということが解るのは“知”のはたらきである。「あ、そうか」と気付くのが“知育”。人を自己啓発や自己修練に向かわせるには畏れ”であり、つまり、危機感である。代表的なものに“自滅への恐怖”がある。

人は一人でいるときは自力で生きなければならない。そこで感覚は鋭敏に研ぎ澄まされる。“集団化=思考停止”という方程式の見本である。この“集団化”と“思考停止”の関係を見抜くことも“見切り”である。見切り”に普遍性をもたせて“動き方”の心得として置き換えることに成功したら、その効果は武道の実用性と実益という視点からいっても、また、武道が担うべき社会責任ではめざましい成果である。

理想の実現には、実現のための方法論がなければならない。思想は“動き方”に、“実力”になっていなければならない。武道の練習は、理想実現のための具体的な動き方の追及である。“礼”による護身は腕力で護るより、はるかに効率的である。“礼”による護身効果を比較検討させることが“知育”である。

 


 

 

 

徹心館