星ところどころ

 私が星の伝承を求めて各地を訪れるようになったのは、昭和49(1974)年5月に日本海の小さな 離島(山形県酒田市飛島)に渡ったのがきっかけでした。そこで、元漁師の古老から思いがけず星の伝承を 聞かせていただいたのです。しかも、イカ釣り漁という生業のなかで星が利用されてきたという事実に 深い感銘を受けました。

旅情豊かな海の夜明け
〈 東京都八丈島にて 〉

 こうして始まった採集の旅も、途中いく度かの中断をはさみながら44年ほど経過しました。この間、 実に多くの方々との出会いと語らい、そして時には名残惜しい別れがありました。採集カードは1400枚を 超え、残念ながら星の伝承を記録できなかった方々も含めますと2000人以上の人に声をかけたことに なります。私を長年にわたって伝承の採集へと誘ってくれたのは、かつて北海道の岩内で私の研究にご協力 くださったTさんより送られた次の言葉でした。

 すれ違っても分からない 星の狩人ただ一人
      肩にこぼれてくるものは 春告げ星のしずくです

 〈星ところどころ〉は、東日本を中心とした旅のなかで、特に印象深い人々との出会いや暮らし、景観、 風土などを紀行風に綴った読み物です。以前、『てんぶんがく』という同人誌に不定期で掲載したものを、 内容はそのまま生かしながらさらに読みやすく書き改めました。なお、地名等は調査当時の表記によって記載 してあります。


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ゴドリイカの海【北海道積丹地方】

 イカ釣りの星の伝承を求めて積丹半島の町や村を訪ねたのは、ちょうど冬の最中の二月であった。 半島に程近い小樽の街に滞在しながら、雪のなかを何日も通い続けたのである。入舸や泊、神恵内 といった地名は、もうすっかり心の裡にとけ込んでしまっている。
 イカ釣りに星が観られていたことは、山形県の飛島で初めて聞かされた。これが星の和名に 惹かれるきっかけにもなったが、それ以来、私は久しい間北国の漁村に興味を抱き続けてきた。 本場といわれた函館や松前ではなく、鯡が去ったあとの忘れられた積丹の地にその思いを叶えて みたかったのである。冬という季節も雪に閉ざされた厳しい自然のなかであればこそ、そこに暮らす 人々の温かい持て成しを十分に伝えてくれたし、漁師らの星を語る朴訥さは、冬海に生きるゴドリイカの ような深い哀愁に満ちていた。

冬の積丹半島
〈 浜辺を行く馬橇 〉

 かつての積丹の漁師らは、川崎船にトンボやハネゴとよばれるイカ釣り具を積んで海に出た。 長い時間櫓を押さねば漁場に辿り着けなっかたという。普通はひとつの船に七、八人乗込んでいて、 漁場の選択は船頭の大事な仕事であった。日暮れのナドキイカにはじまり、夜は星や月の出を観ながら イカを釣った。星の出にはイカが騒ぐという。だから、目あてとする星に名前をつけて、もうじき マスボシの出る時刻だからと、東の空を眺めては暗い海に鉤を沈めたのであろう。 「わしらのときは電気もねェ。船の居場所がやっとわかるぐれェのガス灯がひとつきりだ。」 そんなとき、トンボでイカを釣っていると、グ糸を手繰る間にみるみるイカが浮いてきて、辺りの海が 真っ白になるほどであった。その頃にはもうトンボを掴んだまま釣り上げたが、素早くハネゴに切り 替えなければならない。ハネゴの操作は手首で返すのがコツである。左右に一本ずつ持って、同時に 上げるよりも交互に上げるようにする。このリズムが狂うと数はあがらないという。はじめは一つ、 二つと数えても、一晩で五千も釣れるようなときは、とても覚えてはいられない。そんなときは箱で 勘定をした。
 この辺りで捕れるのはスルメイカで、ところによりあるいは時季によってさまざまな呼び名がある。 初期のイカはハナイカ、ハルイカ、ハシリイカなどとよばれるが、九月を迎えると本格的な秋イカ漁の シーズンとなる。漁師らにとっては、この秋イカ漁がいわゆる"稼ぎ時"であり、いかに多くのイカを 釣り上げることができるかということに強い関心を示すと同時に、そのためのさまざまな工夫が 凝らされてきた。
 昔から十一月二十日を過ぎるとイカは釣れないといわれてきたが、全くいないわけではない。 「冬場は日にさんじゅう(30)かごんじゅう(50)もあがればいいほうで、これは正月用の刺身にした。」と 積丹町泊の漁師は話してくれた。その冬場のイカをゴドリイカとよぶことを、雪のある日忍路の浜で聞いた ことがある。
「ゴドリとは、方言で雪のことだ。」
北国の冬に相応しい言葉の響きではあるが、あまり耳慣れないせいもあって、本当のところは半信半疑であった。 その後もゴドリイカの名はあちこちで採集する機会を得たが、真意を語ってくれた人はついに誰もいなかった。 「ゴドリは後取りで、秋イカのあと捕るからだべさ。」と言ったのは積丹町美国の漁師である。十一月から冬至の 頃までが漁期で、海水の温度もずっと下がるから秋イカより身が引き締まって厚味があるという。刺身にしたら 歯ごたえがあって美味いそうだが、岩内ではこれを冬イカとよんでいて、こちらは身が薄いというからおもしろい。 冬イカが釣れるのは十二月末までである。
 当時は、釣り上げたイカを鯣に加工するのが一般的であった。日本海に突き出した積丹半島では、古平や 美国などの漁港がある東海岸に比べると西海岸一帯はどことなく閑散とした雰囲気が漂ったところであるが、 かつては鯡の千石場所として賑わった地域であり、その影が消えてからはひっそりと息衝いてきた感がある。 神恵内村で出逢った金沢老人も、そういう時代とともに生きてきた漁師の一人である。父親は加賀の出身と 聞いたが、足を病んでいるそうでもう船には乗っていない。私が声をかけると、凍てついた坂道を息を切らして 踏みしめながら星の名前やイカ釣りの話など、親切に教えてくれたことを思い出す。
「鯣は二十枚ずつ束にしてな。これが百把で一行李だ。」
一行李は約二十一貫だから、おおよそ七十九キログラムである。もっとも、秋イカの場合は夏イカよりも大きく身が 厚いので七十五把ほどで一行李になるという。いずれにしても、干し上げられた鯣は岩内からやって来る検査官に よって等級が付与されることになる。上等品は一等鯣で、次に二等鯣、三等鯣と続く。イカが完全に干し 上がるまでには、夏場の小さいもので一週間、秋イカでは十日ほどかかったそうだが、これは天候がよいときの話で、 仮に秋の長雨が続いたりするとその分日数が延びることになる。そのようなときには、赤味を帯びた等外の鯣が 多かったようだ。
 金沢老人に限らず、積丹半島の漁師らはみな素朴である。それも小さな集落のほうが、より飾り気がない。 荒くれた風貌の奥底には鯡に笑って泣いた昔日の想いを秘めて、朴訥とした言葉の端々にその名残を見出すことができた。 しかし、イカ釣り漁業が大きな変貌を遂げた今となっては、トンボやハネゴなどの漁具を使って星を頼りにイカを 釣っていた時代があったとはとても考えられない。ムジナボシ(すばる)であるとか、サンコウあるいは ジョートーヘイボシ(三つ星)、メシタキボシ(あけの明星)などの星の名も、それを知る人のみがかろうじて 記憶の片隅に繋ぎ止めているという状況である。早晩消え去ろうとする運命にあることは間違いない。1960年代頃まで 利用されていたとみられる古いイカ釣り具なども大方は処分されてしまったようで、私はぜひ実物を確認したいと 考えていたが、実際に巡り合うまではひと苦労であった。その甲斐があってか、泊村ではトンボとヤマデ (手製の三本釣り用トンボ)を、神恵内村ではハネゴと真鍮鉤、増毛町では赤いカナ巻き鉤、そして岩内町では手製の 竹鉤を資料として採集することができた。これらのイカ釣り具も日本海沿岸で呼び名の異なる地域があることは、 星の伝承とともにたいへん重要な意味をもっているようだ。

イカ釣り鉤3種
〈 左から竹鉤、真鍮鉤、カナ巻き鉤 〉

 積丹の冬は厳しく、海は荒々しい。鯡が去り、沿岸のイカ釣り漁も衰退した浜で、私はたくさんの漁師と出会い、 イカ釣りに関するさまざまな体験や想いを記録することができた。当時すでに七十歳を超えた人たちにはもう二度と 会えないのではないかと思う。繰り返し通った町や村も大きく変貌してしまったかもしれない。しかし、イカ釣りの 星について本格的な調査の出発点となった積丹の人々とその風景は、冬海に生きたゴドリイカへの郷愁とともに しっかりと私をとらえて離さないのである。

[1977年初稿]


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尻屋崎の春【青森県尻屋村】

 下北半島の東端、尻屋の村にもようやく春の風が吹き始めたころであった。北に向かって、白亜の灯台が柔らかな陽射に ひときわ映えていた。かつては、濃い霧のために海の墓場と呼ばれた尻屋崎沖も、今では二百万燭光という巨大な光で海の 安全が守られている。津軽海峡を航行する船舶にとっては、大事な指標であろう。
 まだ雪の残る灯台の周辺では、春を待ちきれない馬たちが長閑に放牧されていた。海岸を歩いていると、いったいどこから 漂流してくるのかと思われるほどの夥しい流木などが、あちこちの浜に打ち寄せられている光景に出会った。
 ここは、太平洋に面しているので、ヤマセ(東の風)が吹くと必ず海が荒れるといわれるように、めずらしい漂着物が たくさんある。私は硝子の浮き玉を捜して歩いたが、いつの間にか漁船の溜まり場まで来ていた。そこから眺めると、尻屋の 集落は背後を切り立った山に阻まれ、その懐に抱かれながら、緩やかに傾斜して海へと落ちているように見えた。バスこそ 通ってはいるが、昔ながらの僻地に変わりはない。
 しかし、ここには恐山に代表されるような重く沈んだイメージは全くなかった。民家のたたずまいや人々の表情も、不思議な ほど活気に満ちていて、女衆がいっせいに浜へ出る海苔とりの日は、終始華やいだ雰囲気に包まれる。老いも若きも冷たい海に 浸って忙しなく岩肌を削る仕草が、見ている私にもほほえましかった。小柄な体からは想像もできないほどに、力強く頼もしい 女たちなのである。
 浜辺にひとり、海を眺める老漁夫の姿があった。私が挨拶すると、振り向いた顔に白い歯がキラリと光った。
「こんにちわ、何かみえますか」
「ああ、海がなぁ・・・・・・」
 そう言って、老漁夫は考え込んでいる。私は、暫く黙っていた。そして、もしこの人がイカ釣りの漁師であったなら、昔の話を 聞かせてもらえるかもしれない、と思ったのである。やがて、老漁夫の口からぽつぽつと出た言葉は、やはりかつてのイカ釣りに 見た星への郷愁であった。
「イガ釣りの星はなぁ、ムヅラ、アトボシ、サンコボシ、サンコノアトボシに・・・・・もひとつアトボシがある。それからアオボシ、 ヨアケボシの順だ」
 五月、六月は星の出が遅いので、ナドキイカ(日暮れに釣れるイカ)と朝イカを捕ると終いになった。星を見るようになるのは 八月からで、ムヅラ(おうし座のプレアデス星団)にナドキイカがつくのは、最盛期の十月ころである。このときが、イカは いちばん多く釣れたという。当時のイカ漁は、川崎船に七、八人乗り込んで、一人で千二百も釣ると船は満杯になる。その ようなときには、大漁旗を揚げて帰って来たものだと話す老漁夫の顔を私はじっと見つめた。
 釣ったイカのほとんどは、大事に干しあげてスルメとして加工される。これをまとめて函館の問屋へと出荷していたが、その 船賃が重さではなく、荷姿によって一個あたりいくらと決まっていたので、大きさの限られた行李の中に一枚でも多く詰め込み たいのが人情であったという。そうやって苦労を重ねて得た代金は、問屋が送ってくれる手筈になっていたが、どういう訳が なかなか届かないこともあった。それでも、こちらに出来の悪いスルメだから仕方がないなどと引け目を感じれば、催促もできずに 待つほかはなかったのである。星の出が頼りとばかり、自分の技量を信じて釣ったイカに待つことの歯痒さを教えられて、スルメ 作りの苦労が偲ばれるようである。
 今、川崎船が繰り出す海は、もうここにはない。私の知らない長い空白の時間を語ることもなく帰って行った老漁夫を 見送りながら、私はつい前日、同じ下北半島の大畑港で会った大型イカ釣り漁船の若い漁師を思い起こしていた。その大畑には 近代的な装備をもった大型船が多く、私が訪ねた百トン近いその船も、最新鋭の魚群探知機やシーアンカーなどを装備し、自動化 されたイカの巻揚げ機は、片側四十五本、ダブルで九十本のイカ鉤を自由に操作することができた。一本釣りの時代には、とても 考えられなかった変化である。
 イカの習性が次第に解明されると、それを利用した新たな漁法が考案され、船はイカの群れを追って遠方まで出漁する時代に なったが、何もかも科学的な考え方に移っていくと思われたその片隅で、意外にも昔からの伝承が生かされていることを知った。 私と同じ世代の若い漁師から思いもよらぬ星の和名を聞かされ、私は驚きと同時に戸惑いを感じたことをはっきりと憶えている。 昔のように星を見ることはなくなったものの、たとえ魚群探知機でイカの群れを捉えても必ず釣れるという保証はない。したがって 漁場の選択は、今でも月の出の時刻をみながら行っているという話に、まだまだ理屈では証明しきれない部分があることを心強く 感じたのである。尻屋崎へ行こうと決めたのは、そのときであった。
 夕暮れがせまっている。西の空が茜色に染まり始めた。あの大畑港での賑わいがどこかに消え去ったような静けさである。 さきほどの老漁夫が帰った家では、いつもと変わらぬ夕餉のひとときを迎えているころかもしれない。今は、どの民家も山の影に すっぽりと包まれて、黒い稜線だけが異様に鮮やかさを増していた。そろそろ、私も宿に引き揚げようか。先ほどから気には なっていたが、二つあると聞いたサンコノアトボシについて、ゆっくり考察してみよう・・・・・。
 サンコボシというのは、一般にサンコウ(三光)と呼ばれる星で、オリオン座の三つ星のことである。そのアトボシが二つある ことについて老漁夫は、
「サンコボシよりも少し北寄りに一つ、また一つと出てくる星だ」と説明していた。次に出るアオボシの名から察しておおいぬ座の シリウスでないことは明らかだし、おそらくふたご座の二星(カストルとポルックス)であろう。イカ釣りの星としては伝承の少ない星座だが、 固有の名では各地でいろいろに呼ばれている。二つ星、蟹の目、門柱など、いずれも私の好きな呼名である。ともあれ、二つの アトボシは後になって別な漁師からも教えていただくことになり、尻屋ではイカ釣りの目当てとなる大切な星であったと推測される のである。
 宿のおばさんが、毎年イカ漁の時季になると尻屋の沖合に大畑から出漁した船が集まり、その夜景はまるで海の上に大きな街が あるのかと錯覚を起すほどだと話していたが、残念ながら未だにそういう機会に恵まれない。いつかはイカ釣り船に乗り込み、この ヤマセ吹く海で星を眺めてみたいものだと思うのだが、難破船の残骸を目の当たりにして、私は下北の春にさえ乗り遅れてしまった。

[1979年初稿]


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飛島紀行【山形県酒田市飛島】

 かつて日本海の孤島であった飛島へは、酒田の港から日に一便の小さな定期船が通っている。周囲はわずか 十キロメートル余りで、勝浦、中村、法木の三集落からなる離島である。ただし、十一月ころに飛来するウミネコは、 日本海における北限の繁殖地としてよく知られている。江戸時代には帆船の風待ち港として栄えたが、なによりも この島の歴史を物語るものは、過去に幾度となく積み重ねられてきたその呼び名の変遷であろう。都島、渡島、 別れ島、鶴路島、潮島、豊島、とど島、そして飛島と、容易ならぬ歴史をたどりながら現在に至っている。
 上野からの夜行列車に乗ると、まだ目の覚めやらぬうちに酒田の街に降り立つことができた。早朝の港は人影も まばらで、魚市場からは威勢のいい競声が聞こえてくる。その傍らを、これから行商にでも出かけるところなのか、 二人のおばあちゃんが新鮮な魚を箱いっぱいに詰めた車を押して、何やら楽しげに街の中へと消えていった。 そろそろ、港の新しい一日が始まるころである。遠くで汽笛がひとつ鳴った。材木を満載したソビエト船が港に入る 合図だろうか。空はライトブルーに澄み渡り、爽やかな風に旅の朝を満喫しながら、私は倉庫裏の屋台に飛び込んだ。
 今年は喜寿を迎えるというそこの主は、いかにも庄内の人間らしく人の良さそうなおばあちゃんであった。この 商売を始めてから四十年になるが、ほとんど人との付き合いなので今更やめられないという。それに少しくらい風邪を ひいたって、ここへ来て世間話をしていればすぐに治ってしまうらしい。一本二十円のコンニャクの味は、今日まで四十年の 生き方を証明していたし、口にくわえたキセルの煙にはその余韻さえ感じられた。
「新潟地震のときは川(最上川)が溢れてェ、この辺はみな水浸しになってな。そんときが可笑しんだぁ。町の人が バナナの籠さ背負ってきたんで、おじさんそんなもの背負ってどこさ行くだねェって聞いたんだ。そしたら、地震で川の 魚が浮いちまったから、これから捕りに行くんだと。港の人は水が出たんで慌ててるっちゅうのに、まったく町の人は 暢気なもんだと笑ってしまったよ。あん時は定期船もここまで入って来られんで、あっちの大きな港へ避難したからね」
 おばあちゃんとの語らいは、この後もしばらく続いた。

 先ほどから空高く船上を舞っていた一羽の海鳥は、やがて急速にデッキへ近づいたかと思う間もなく、海面をすべる ようにして鳥海山めざして飛び去った。酒田を出てから約二時間、島はもう目前に迫っている。昼近い太陽が五月の陽射しを 空いっぱいに振り撒くなかで、次第に数を増したウミネコたちは、遠まきに船を出迎えながら挨拶を交わしていた。海の 蒼さはそのまま空へとつながり、浜辺の長閑な風情にこころ和らぐ時が流れていた。
 その日の午後、私は夕暮れまでワカメとりの磯舟で過ごした。水深三、四メートルの海底に生えるワカメやアラメを長い 鈎竿で引っ掛けてとるのだが、足で櫓を操りながらの妙技には感心させられた。海水は予想外に透きとおり、稀にアワビや サザエもみつかるが、まだ時季が早いのでとることができないという。浜では、細かく刻んだアラメを筵の上に干している。 舟から眺めると、それがまるで浜辺に敷き詰められた黒い絨毯の如く鮮やかに目に映った。その中では母も子も、浜にいる 誰もが島の昼下がりを楽しんでいるかのようであった。岩場に憩うウミネコの群れさえ、どれも一様に頭を太陽に向けたまま 身動きひとつしない。耳を澄ませば、聞こえてくるのは遥か沖合の漁船のエンジン音と磯舟を操る緩やかな波の砕ける音ばかり。
 やがて、私は偶然にも舟の若い漁夫から星の名をきくこととなった。
「サンコウ?それはどんな星です」
「うんだなぁ、冬の夜八時ごろさホスが三つ並んでよ。ああ、サンコウが出たから今何時ごろだとか」
「ほかには?」
「おら、あんまり知らねェだ。そうよなぁ、アオボシちゅうのも出るだ。明るい星だですぐわかる」
「じゃ、その星は青い色をして・・・・・・・・・・」
「うんだ」
 結局、憶えていたのは二つだけだったが、思えばこれが星の和名(方言)との初めての出会いであった。土着の生活に 深く根をおろした星の存在を知り、この小さな島の夜空にもそういう時代があったという事実に、私は改めて強く心惹かれた のである。その夜、小雨にけむる勝浦の家々は深い闇のなかに重く沈んだままひっそりと静まり返っていた。防波堤の辺りでは、 赤と青の進入灯が忙しなく点滅をしていたようで、ふと、あの騒がしかったウミネコたちも館岩や百合島の塒で眠りについた ころだろうかと思った。
 奥山老人は、勝浦の古い漁師である。小柄な体に似合わず、その厳しい横顔には永い間海に生きてきた男の逞しさが溢れている。 まだ夜明け前だというのに、老人は浜に出て海を眺めていた。夕べ沖に仕掛けておいた網を、これから引き上げに出るところなの だろう。幸い、海は穏やかであった。寝つけぬままに早く起きてしまった私も一緒に出かけることにした。
 島の朝焼けはすばらしい。水平線上の叢雲から橙色の歪んだ太陽が顔をのぞかせると、刺網におどる魚はたちまち銀鱗に輝いた。 節くれだった漁夫の手も、顔も、飛沫を浴びて光っている。私は時のたつのを忘れていた。老人とはこれが縁で親しくなり、宿に 戻ると早速、島に伝承された〈イカ釣りのヤクボシ〉について説明してくれた。それはキョクボシに始まり、アカボシ(カペラ)、 シンバリ(スバル星)、シンバリノアトボシ(アルデバラン)、サンコウ(三つ星)、アオボシ(シリウス)、オオボシ(金星)と 続く星空の一大パノラマであった。もとより、スバル−アルデバラン−三つ星−シリウスと結ばれる線は、各地でイカ釣りに欠かせぬ 星として広く知られていたが、その呼び名は地域によりさまざまである。いずれも素朴な発想から生まれ、今日まで伝承されてきた もので、特におうし座のアルデバランは「シバリノアトボシ」「ムヅラノアトボシ」など、またおおいぬ座のシリウスも「サンコウノ アトボシ」「マスノアトボシ」などという具合に、ほとんどアトボシ系の名でよばれている。スバルとアルデバランが約十四度、 アルデバランと三つ星とシリウスはそれぞれ約二十三度の間隔で、これほど見事な物差しは他のどこを探しても見当たらないのではない だろうか。イカ釣りの漁師らにとっては、大きな仕事の支えだったに違いない。
 ところで、奥山老人の話のなかではキョクボシという和名が深く印象に残った。この星は六月に夜中の十二時ころ酒田よりも少し 南よりの"窪み"から昇ってくるが、付近には明るい星はないという。飛島では、この星が姿を現すとイカ釣りが始まるそうである。 そのときには何の星とも見当がつかなかったが、後になって私はこの星を晩秋の南の空に光るみなみのうお座のフォーマルハウトでは ないかと考えるようになった。近くにはめぼしい星がないので一際夜空に映えて見えるが、その名も中国では「北落師門」とよばれる。 確かにどこか淋しい雰囲気がある。キョクボシとは、南の方角に見えるという意味から名づけられたものだろうか。人の記憶にも限り あることゆえ、老人からはとうとう詳しい説明を聞くことができなかった。

長閑な浜のようす

 日本海の荒波が規則正しく打ち寄せてはひくたびに、長径十センチメートルほどの玉石はカラカラと虚しい音をたてた。ここは 死人の集会所、賽の河原である。島を発つ日の朝、私は遠い昔に流人となった百合若大臣が鷹をつかって都の妻と文を交わしたと 伝えられる恋待つ浜から磯伝いに歩いてきたが、えもいわれぬ淋しさに耐えかねて早々に立ち去った。そのまま林の中に分け入って 柏木山に登れば、その頂に一つの碑があった。高さ約七十センチメートル、コンクリート製円柱の表面には小さな銅板が嵌め込まれていて 「経緯度観測点」と刻まれている。これは昭和三年の夏、大陸移動説立証のために行われた観測点の跡で、場所の選定は寺田寅彦博士が、 そして実際の測量に従事したのは、当時東大の助手で位置天文学を研究していた元東京天文台長の宮地政司氏であるという。
 それから最早半世紀。いま記念碑は草に埋もれたまま人知れず日本海の大海原に向かってたち続けている。宮地氏が飛島で 眺めたはずの星は、いったい何であったのだろうか。

[1978年初稿]

丘の上にたつ経緯度観測点の碑

〈 下は経緯度観測点の碑に嵌め込まれた銅板 〉

経緯度観測点
1928年7−8月
文部省測地学委員会測定


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サンダイショウの春に【福島県霊山町】

 星の伝承を求めて旅を続けていると、見知らぬ人との出逢いが、ときとして不思議な縁を生むことがある。 別れてしまえばもうそれっきりで、おそらく二度と逢うことなどないのだが、ふとしたきっかけで懐かしさを 憶えずにはいられない。それが、星を介した出逢いであってみればなお更であろう。
 福島市から東へバスで一時間あまり入った伊達郡霊山町下小国で当時七十六歳を迎えた「みさと」さんは、そんな 忘れられない一人である。「みさと」は、この家が営むユースホステルの名称にもなっており、ここを訪れる若い 宿泊客からは婆ちゃんの愛称で親しまれていた。
 私が訪ねたのは、まだ寒さのぬけない冬の終りである。夕方まで庭に出ていた婆ちゃんは、日暮れが近づくと 部屋にもどって炬燵の端にちょこんと座り込むのが日課であった。ときには乞われるままに昔語りなどしてくれた ようであるが、普段は何か考え事でもしているかのように、夕食のあとも長い間そこを動かなかった。
 そんな婆ちゃんが気になって、私はいつものように声をかけたのである。ひとしきり旅の話がはずんだあとで、 私は婆ちゃんに星の名を覚えていないか訊ねてみた。目を細めながらボソボソと語ってくれたのは、サンダイショウと ムヅラボシである。ムヅラボシは、六連星(スバル)から訛った呼び名で、主に東日本で広く伝承されている。 青森県の下北地方や八戸などでは単にムヅラと呼んだほうが通りはよいが、一部の地域では同じ名がオリオン座の 三つ星と小三つ星の総称にもなっているから注意が必要である。
 また、サンダイショウというのは「ムヅラボシのあとから出てくる三つ並んだ星」のことで、野尻抱影氏はこれに 〈三大星〉の字をあてているが、婆ちゃんは言葉の意味までは知らなかった。その夜が晴れていたならば、ちょうど マンドキ(南中)にあったはずのミツボシである。私はいちばんにサンダイショウという言葉の響きが好きになったが、 この名は東の空から直立して上る不安定さより、西空に整然と横たわった姿のほうが相応しいのではないかと思う。 その安堵感は、まさに〈三大星〉にぴったりである。いずれの呼び名も、婆ちゃんが子どものころに年寄から教えられた ものであるが、「今じゃ、孫にきかせても分からない」時代になってしまった。幾星霜の時がながれ、たとえ星の輝きは 変わらずとも、人びとがそれぞれの生活のなかで受け継いできた素朴な星の名は、もはや親から子へと伝えられることもない。
 その後、私は三つ星を見るたびに婆ちゃんのことを思い出していたが、ある年の冬を迎える前にサンダイショウを眺める こともなく俄かに逝ってしまった。「長生きしてくださいよ」というあのときの言葉が、虚しくこころに響いた。これが 別れの挨拶となったのも、なにかのめぐり逢わせであろう。しかし、婆ちゃんは多くの若者たちに惜しまれて亡くなった のである。それがせめてもの慰めであることに、救われる想いがした。いつの日か、春宵のサンダイショウを求めて、 婆ちゃんの面影をたずねてみたいと思っている。

[1977年初稿]


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開拓と星と【福島県裏磐梯地方】

 年の瀬を迎え、あわただしく一年が過ぎ去ろうとしていた冬のある日、私は雪深い裏磐梯にいた。新しい年をどこか 静かな場所で迎えたいと何気なく出かけた旅であったが、例年にない大雪ということで山はいつになく荒れる日が多かった。
 東北と関東の境に位置する福島県には、浜通り、中通り、会津という三つの大きな生活圏がある。これは単に地理的な 区分ではなく、気候・風土・社会などそれぞれに特徴をもった圏域を構成している。私が会津地方の山村に惹かれたのも、 そこに息衝いてきた暮らしと文化に大きな関心を寄せていたからである。この地域は、ふるくから木地職人が住みついた 地として知られ、今でもその名残を見出すことができる。彼らの生活は、特徴的な規律のもとに良材を求めて山から山へと 渡り歩くことが基本となっており、舞台が人里離れた山間の地だけに、そこが別世界のような違和感を抱かずにはいられない。 もちろん、会津に限らず木地職人と深いかかわりをもつ場所は各地にあり、東北地方の一部にみられるこけし作りなどは、 その伝統が形をかえて現在に受け継がれている事例の一つである。
 木地職は自然木の加工をもって生業とする仕事であるから、一般的に考えれば自然とのかかわりは相当に密接であると 想像される。しかし、これまでの関係資料をみる限り木地職人たちの星に関する伝承は、同じように自然木を利用する 炭焼きに比べてはるかに少ないのである。おそらく、屋内での作業を主たる日課とする暮らしでは、星を利用する必要が なかったのではないだろうか。とはいうものの、今回の旅は木地職人を求めての調査ではなかった。まして、観光地である 裏磐梯の地に厳しい開拓の歴史が刻まれていようとは思いもよらぬことであった。
 裏磐梯と呼ばれる景勝地は、磐梯山の噴火によって形成されたものであり、それまではいくつもの山襞を縫っていた渓流が あちこちで堰き止められ、長い時間をかけてさまざまな湖沼が点在する景観を生み出してきたのである。会津盆地の東方に あってひと際秀麗を誇る名山も、その陰の部分は痛ましいほどに乱れ、自然界の奥深い造形美に心打たれるばかりであった。
 それは、なんと穏やかな朝であったことか。前日の吹雪も収まり、柔らかな陽射しが新雪を煌かせ私の心をより一層眩しく 清々しい想いで満たしてくれた。五色沼の岸辺に立ちひとり静寂をかみしめていると、眼前に広がる雄大な山容の深層で かすかな鳴動を感じた。それが錯覚に過ぎないことはわかっていたが、素直に認めがたい雰囲気が漂っていたのも事実である。
 その日訪ねた集落は、五色沼への入口付近にある蛇平という開拓村であった。もとは小野川に入植した人たちがここに移って きたもので、小野川の集落にも家を残してあるという。私は一軒の農家を訪ね、この土地の暮らしぶりについて話を聞いた。 ほんの立ち話のつもりであったが、ぜひ寄っていきなさいということばに甘え、家の中へお邪魔することになった。持成しに 出された熱い茶と漬物で一息ついた私に、老夫婦は開拓の仕事に明け暮れた昔日の苦労を偲ぶかのように屈託のない笑顔をみせた。
 話によると、ここに移転した当時は石ころだらけの荒地だったそうで、開墾には十年を費やしている。それも折悪しく戦時中の ことであり、毎日毎日食うことだけに追われていた時代である。
「それじゃ、星を眺めるゆとりもなかったでしょうねぇ」
「ああ、星なんかいつだって空にあるもんだしなぁ。いちいち見てる暇はなかったんべ」
 私は面映かった。軽率な自分のことばに、どう言い訳をしたらよいのだろうか。いまさら探したところで、慰めになるはずもない。 それより、星を星として眺めることもなくただひたすらに鍬を振った日々のなかで、この老夫婦を支えてきたものはいったい何で あったのだろう。
「そういやぁ、冬に出る三つ並んだ星のことを確かサンタイボシと呼んだ覚えがあるなぁ」
 星の名前を聞いて、私は幾分気を取り直した。すると、それまで黙っていた奥さんも急に思い出したかのようにホウキボシの名を 教えてくれたのである。長く尾をひいたこの星が現れると何か不吉な出来事が起こるといった話はこれまでにも幾度となく採集して いたが、開墾前の荒涼とした蛇平の地においては、それがより生々しい光景として映ったに違いない。
 話は次第にはずみ、星の話題から山の生きものへと移っていった。この辺りでは、ムジナはタヌキと同じ動物である。一方 アナグマは“ささぐま”と呼ばれ、その肉は美味であるという。ただ、ササグマは寒くなって雪が降ると穴に籠ってしまう。
「あれはな、穴に入るときゃ足にいっぱい蟻をつけてくってよくいうよ。穴ん中で嘗めてるだんべきっと」
 老人の語りには説得力があり、どの話も興味はつきない。いつしか私は、からだの温もりと気持ちの高揚を感じ、思わす 息をのみ込まずにはいられなかった。それでも、あまりの長居はかえって迷惑となるので、頃合をみて席をたつことにした。
 外は相変わらず一面の雪景色である。開拓で流された汗や涙がしみ込んだ大地では、いったいどんな花が春を彩ってくれるので あろうか。今、私が立っているこの道は、蛇平の集落を抜けて小野川へと通じているはずである。そこには二十五戸あまりの家があり、 人々が雪に閉ざされた暮らしを続けているという。行ってみたい、できることならすぐにでもこの足で訪ねたかった。ほだ火を囲んで 四方山話に花をさかせたなら、きっと星の名の一つも飛び出すに違いない。しかし、深い雪に消えゆく長い道のりを想うと、私の足は ただ冷たく動かなかった。

〈 右の写真はアナグマの敷き皮 〉

[1980年初稿]


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浦山谷紀行【埼玉県秩父地方】

 秩父の浦山谷へは、それまでにも二度ばかり訪れたことがある。一度は正丸から正丸峠、山伏峠を越えて名郷に出、そこから さらに鳥首峠を越えたのと、二度目は名郷までバスで入って妻坂峠から大持山へ登り、小持山への途中から小さな尾根道を下って 武士平という集落に出るコースであった。その頃は、ただ歩くことが目的であり、浦山という土地に特別な想いを寄せていたわけ ではない。それが、再三訪ねてみたいと思うようになった背景には、それなりの理由があったのである。
 それまでの数年間、私は暇ができると東京都奥多摩やそれに連なる山間の集落を訪れ、星の民俗についての聞き書きをまとめてきた。 そのなかで、カワハリ(またはカーハリ)とよばれる星の存在がかつてこれらの地域で炭を焼いていた人たちにとってひじょうに 重要な意味をもっていたことを知り、それがきっかけとなって爾来カワハリ星の行方を追い求めてきたが、この星の和名の伝播状況を 把握するには、どうしても奥多摩周辺山域の調査が必要となっていたのである。
 埼玉県内を流れる荒川の上流域は奥多摩とは山続きの地であるが、この一帯でもかつてはさかんに炭焼きが行われており、支流筋に あたる浦山谷もその例外ではなかった。地形図を広げると、この谷にはいくつかの集落が点々と連なっているのがよくわかったが、 行政的には秩父市に属しており、現在でも山間の僻地であることに変りはない。昔の人びとが山の尾根筋に住みついたといわれるように、 浦山の古い集落では谷沿いの自動車道とは離れた高い土地で人びとの生活が営まれてきた。しかし、その数年後にはその様相も一変する ことになっていたのである。
 もともと浦山水系には大規模なダム建設の計画があり、永いこと地元住民との話し合いがまとまらなかった。当時はその決着が図られ、 着工に向けて本格的に動き出す気配が濃厚な時期であった。工事が始まれば谷への出入りも制限されることは明らかで、なによりも山が 崩されてからでは手遅れになると思われたので、善は急げとばかりに出かけることにしたわけである。この旅は民俗調査が目的であった から、浦山口より入って地図上に記された集落をひとつずつ訪ね歩く計画をたて、さらには以前と逆のコースを辿って鳥首峠から名郷へ 出ることにした。距離的にみても悠々一日の行程であるが、途中でどれだけ時間を費やすかわからないので、もし峠越えが無理ならば 浦山口へ引き返してもよいだろう。
 秋も深まった十月三十一日の朝、私はまだ暗いうちに家を出た。六時七分発の電車に乗って秩父へと向かったが、横瀬駅に着いたところで 急に深い霧となった。滲んだ朝の陽光が駅のホームに不思議な光を投げかけていたのを記憶している。秩父の街中に入ると、どの家並みも 霧の底に重く沈んでいた。駅前から出るバスに乗ったのは私一人であった。運転手は地元の人で、きょうは天気もよさそうだし、紅葉が 見ごろだろうなどと話している。私は相槌をうちながらぼんやりと沿道の風景を眺めていたが、陽が高くなるにしたがっていつの間にか 霧はすっかり消えていた。
 浦山口に着いたのは八時頃であった。七つ道具を入れたリュックサックを背負い、地図とメモ用紙を片手に首には双眼鏡をさげて歩き 始める。自動車道を暫く進むと、荒川村と秩父市の境界付近に道明石(みちあかりいし)という集落が現れた。ここから左手に細い山道を 行けば、大谷(おおがい)、日向(ひなた)、岳(だけ)、茶平(ちゃだいら)、武士平(ぶしだいら)という集落が点々と連なっている はずである。入口には、文字のみの庚申塔があって花が供えられていた。ちょうど野良仕事へ出かける人がいたので話を聞くと、今でも お日待講と称して信仰されているという。以前はこの上の旧道にあったが、自動車道ができてからここに移されたようだ。この人が浅見 キンサクさんの名を教えてくれたので、さっそく訪ねてみた。
 山道は次第に自動車道から離れてゆくものの、勾配は比較的ゆるやかである。すぐに左手の山肌が無残にも抉りとられた姿が目に入って きた。ダム建設に伴う道明石住民の代替地だということだが、私は何か追い立てられるような気持ちで先を急いだ。大谷の集落に入ってから キンサクさんの家を確かめると、すぐ隣りがそうだった。しかし、生憎野良に出ていて家にはいないという。仕方がないので畑まで行こうと 思ったら、その家の嫁さんらしき人が呼びに行ってくれたようで三十分ばかり話をすることができた。いくつか星の名前などを聞いてから庭の 丸太に腰を下すと、母屋の縁側にススキや野菊などを挿した大きな花瓶が見えた。そういえばきょうは十三夜だったかとすぐに納得したが、 今はどこの家でも昔ほどやらなくなってしまったという。十五夜も十三夜も、以前は子どもたちにとって待ち遠しい行事だったが、食べる ものに不自由しない今の子どもたちには、月見の供えものを勝手にとって食べるという感覚はどのように映るだろうか。大谷では、かつて 七夕の折に竹飾りといっしょにネブッタ(ネムノキ)の枝にも短冊などを飾って竹の根元に挿したといわれ、その理由を知りたいと思い ながらも、キンサクさんの口からは聞けずに終わった。

〈 右の写真は現在の浦山ダム直下の風景−調査当時の面影をのこしている 〉

 さて、大谷を後にして再び山道を行くと、今度は日向の集落に辿り着く。とっつきには学校があり、その手前の左手に炭焼き用の窯が 小屋がけしてあった。キンサクさんから聞いてはいたが、きょうは焼いている気配はないようである。学校のある場所で道は二手に分かれて おり、左へ行くと岳から茶平の集落に、右手の道を下れば日向の集落を抜けて寄国土(ゆすくど)へと通じている。とりあえず右に折れたら 運よく買物に出かける婦人と行き会い、浅海シノゾウさんを紹介してもらった。
 シノゾウさんの家は日向のいちばん外れにあり、道を教わらなければわからない場所であった。それと思しき家で声をかけると、洗濯物を 干していた嫁さんが、今しがた籠を背負って畑に行ったところだという。きょうはずいぶんと行き違いが多いものだと思いながらも、炭焼きの 話を聞きに所沢からやって来たことを告げると、せっかく来たのだからと大工仕事をしていたその家の主人は、わざわざ畑まで案内してくれた。
 小さな尾根をひとつ巻いたところで急に視界が開けたかと思うと、そこは急峻な斜面に拓かれた畑地である。その一角で、シノゾウさんは 桑の枝を切っている最中であった。少し耳が不自由らしく、大きな声で話さなければならなかったが、手を休めたシノゾウさんと並んで腰を 下すと、南に面した傾斜地なのであたたかい秋の陽射しをからだいっぱいに浴びることができた。眼下に広がる眺望は、浦山の谷がいくつもの 山襞をぬって奥山へと続いている様子がよくわかった
。  ひととおり話を聞いたあとで、私はここから岳への近道があるかどうか尋ねてみた。実は先ほど、斎藤たまさんが岳にいることを耳にした からである。シノゾウさんもこの人のことは知っていて、みんな山を降りてしまった場所で空家を借りて住んでいるという。以前はシノゾウさんの 家にも味噌などを貰いに来ていたそうだが、近頃はあまり姿を見かけないそうだ。斎藤たまさんのことは『野に遊ぶ』という自然遊びの伝承を まとめた著作で初めて知り、その後『南島紀行』を読んだときに、星の和名に関する記述があったことから少なからず関心をもっていた。そして、 機会があればぜひ浦山谷に居住するこの人を訪ねたいと思っていたのである。
 シノゾウさんは岳への山道を教えてくれたが、時刻はすでに十時を過ぎていた。せっかく行っても不在では元も子もないし、それに岳へ立ち 寄ってから鳥首峠を越えるには時間的にやはり無理なようである。最初の予定通りに歩くことにして、原島鉄五郎さんがいるという金倉(かなぐら) へ向かうことにした。斎藤たまさんには、その後四回目の調査の折に会う機会があり、短い時間ではあるが話をすることができた。
 金倉へ行くにはまず自動車道まで降りなければならないが、ここでもシノゾウさんは近道を教えてくれた。畑から杉の植林帯に入り、道のない 急な斜面をまっすぐに降りると日向からの道に出た。そこはちょうど林道の工事中で、少し迂回したあとすぐに寄国土への道が続いていた。  もう少しで自動車道に出るというところで、私はひとりの老人に行き会った。鉄五郎さんの家をたずねると、それは金倉だから毛附(けつけ) の川向こうになる。ここから四キロメートルほど行くと赤い永久橋があるから、それを渡って行きなさいと言われた。この人は中山さんといって、 もとはずっと奥地にある細久保に住んでいたとのことである。しかし、何分にも交通の不便な地区なので、孫の高校進学を契機に以前からバスが 通っていた寄国土へ五年前に移ってきたのだという。細久保では永い間炭焼きをやっていたというので、それならば星の名をおぼえているかも しれないと尋ねてみたら、やはりいくつかの方言を聞くことができた。
 浦山谷では、からす座の四辺形をカワハリ(またはカーハリ)と呼ぶのをはじめとして、スバル星については誰に聞いても「スイノウボシ」と 答える。スイノウというのは、昔から使われている柄の付いたあげ笊のことで、秩父の人が考案したという説があるがよくわからない。武蔵野台地 の農家ではよく使われていたし、川崎市でも利用されたそうで、こちらでは「団子あげ」と呼ばれた。この生活用具自体はそれほどめずらしいもの ではないのに、スイノウボシとなると地域は限られてくる。だいたい奥武蔵から秩父を中心とするその周辺地域ではスイノウボシで通用するが、 隣接する東京都側の奥多摩地方に行くとこの和名はさっぱり聞かれない。星の方言を探求するおもしろさは、案外こんなところにあるのかもしれない。 寄国土を出ると、しばらく民家が途切れた。山道もいいが、こうして谷間のアスファルト道を歩くのもけっこう楽しいものである。谷の両岸にせまった 山肌は、すっかり秋の装いに包まれている。時折自動車が通り過ぎるだけで静かであった。
 川が大きく蛇行するところで、左手から大神楽沢が合流していた。途中には栗山や山掴(やまつかみ)などへ通じるいくつかの岐路があり、時間 さえ許せばゆっくりと訪ねてみたい集落である。なお、大神楽沢には林道がとりついていて、そこを歩けば武士平という集落へ行くことができる。 合流点からしばらく歩くと、ようやく赤い永久橋が見えてきた。ここはもう毛附の入口で、橋を渡れば金倉である。今はこの金倉橋まで秩父から日に 六便のバスが通うようになったが、もしバスに乗ってしまったら浅見キンサクさんやシノゾウさんには会えなかったわけだし、聞きとり調査はやはり 足で稼ぐのが基本であることを実感させられた。
 時間が気になって時計を見ると、すでに昼近い時刻であった。原島さんを訪ねるには都合がよくないので先に昼食を済ませることにした。近くに バスの待合所があったので、そこの椅子に腰掛けて腹ごしらえをしたが、その間も私はまだこれからの行程を決めかねていた。名郷へ抜けるには のんびりとしていられないし、かといって原島さんの家に寄らないで行くことも惜しまれる。せっかくここまで来たのだから、やはり訪ねてみよう。 昼食を済ませると、私はすぐに家をさがした。
 屋敷はわかったものの、あいにく原島さんは不在であった。何でもきょうは奥山で紅葉祭りがあるとかで、朝から出かけているらしい。いつもは 家にいるのに、たまたまきょうは出かけてしまってと済まなそうに応対した奥さんらしき老婦人に、私は「またいつか改めて伺います」と述べて 金倉をあとにした。こうなれば、もはや鳥首峠へ向かうほかはなかった。
 毛附の集落を過ぎた辺りで、川の縁にたつ月待塔を一基見つけた。文字だけの二十三夜塔であるが、上部には日月が刻まれている。 月待塔は、 今回の調査対象のひとつであり、ここまで来てようやく巡り会えたという感じで嬉しかった。調査を済ませて歩き始めると、川俣という集落を過ぎてから 民家が見られなくなった。その後道路工事中の現場を過ぎると砂利道となり、いつの間にか鳥首峠への分岐点に着いた。林道はなおも本谷の奥へ続いて いるが、私は左に折れて沢沿いに登って行った。この山道の途中には、浦山谷最奥の集落である冠岩(かんむりいわ)がある。川俣で道を尋ねたときに、 冠岩にはまだ一軒だけ人が住んでいると聞いていたので、それならばぜひ立ち寄ってみようと考えていた。
 朝から歩き続けた足は、すでに相当の疲れを感じている。それほど重くはないはずのリュックサックも、両肩に容赦なく食い込んでよりいっそう重く、 痛かった。渓流の岩を食む音に耳をかたむけては小休止すること数回、道が沢から離れて尾根へと巻きはじめた所で一軒の民家が現れた。ここに住んで いるのは上林さんという老夫婦で、仕事の関係から山を降りずに残っているとのことであった。
 冠岩という地名については、峠を隔てた名栗村の白岩(しらいわ)と何か関連があるのではないかと考えていたが、上林さんの話によると、白岩に 住みついた落武者の家来がこの冠岩の地に移り住んだといわれ、白岩の神林(かんばやし)に対して一段低い上林(じょうばやし)の姓を名乗るように なったとのこと。聞いてみれば何処でもそれなりの由来があるわけだが、山間の集落で年寄の姿しか目に入らないのは淋しい限りである。上林さんは、 子どものころの思い出として七夕や十五夜、十三夜、十日夜などのようすを話してくれたが、なかでも十日夜の日には小芋のカラを藁で包んだ藁鉄砲を 作り、これを叩きながら各家を廻って歩いたことが懐かしそうであった。
 三十分ばかり立ち話をして少しは足も軽くなったので、いよいよ峠への登りにとりかかる。これから先はほとんど一本道で間違うこともないから、私は 一歩一歩自分の足どりを確かめながら進んだ。時間に追われて、ゆっくりと野鳥を観察する時間もなかったが、冠岩ではアカショウビンというカワセミの 仲間を「ミズホシドリ」と呼ぶことを聞いていたので、この伝承が浦山谷にも存在していたことは満足であった。
 峠に着くと、陽は西に傾き、晴れていた空も半分以上雲に覆われていた。上林さんは、雲が北へ動いているから天気が悪くなりそうだと言って いたが、果たしてその通りになってきた。私は登ってきた道を振り返り、今一度浦山谷の村々に別れを告げてから名郷へと下った。

〈 小屋がけされた炭焼き窯 〉

[1982年初稿]


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炭焼きと星とよもやま話
【東京都奥多摩地方】

 山は、まだ冬の装いを解いてはいなかった。沢の水音にも勢いがない。冷たい沢風に揺れる木々が、春の陽をひたすら待ちわびながら、 ふくらみかけた小さな芽をそっと温めていた。もうじき、萌えるような新緑を見せてくれることだろう。
 その老人が日溜りのなかでまどろんでいる間、春は確実に近づきつつあった。山で生まれ、山で育った老人の目に、懐かしい煙の匂いを 見つけたときから私と老人との出逢いがはじまっていた。
 ここ奥多摩の山間で、炭焼きひとすじに生きてきた島崎の爺ちゃんが脳溢血で倒れたのは、私が初めて水根の集落を訪ねた五年前のこと だった。そのときは左半身が全く動かなくなって、もう駄目だと誰もが半ば諦めていたが、その後どうにかもとの体にもどって好きな酒も 飲めるようになったのだという。島崎さんには聞きとり調査で何度かお世話になったが、いつも温和な雰囲気を漂わせながら、それでいて 芯の通った語り口はなんとも味わい深いものであった。ときおり、ことばの切れ間に深い皺の奥から笑みがもれることがあるが、そんな とき私はきまって島崎さんが生きていてよかったと思わずにはいられなかった。病気を患ってから炭焼きの火は消えたままであるが、裡に 秘めた仕事への情熱だけはさめることがない。不自由な体で五百枚もの炭俵を作ったのは、まさにそうした心意気の顕れであろう。

〈奥多摩の炭焼き小屋〉

「ああやって、体を動かしたのがよかったんでしょう」
 茶碗酒を煽る傍らで、おばあちゃんが静かに微笑んでいた。
「炭焼きについちゃ、自分なりにいろいろ研究をしたもんですよ。この辺りにある木は大方試し焼きをしましたがねェ。でもやっぱり黒炭は 樫の木がいちばんいい」
 だが、水根には樫の木が少ない。だから島崎さんが焼いた炭はほとんどが楢の木であった。
「今までいくつの窯をこしらえたかって、そりゃ数えてみたこともないんで分かりませんけどねェ。きっとずいぶんな数になるでしょう。 窯といえば、わしが工夫した窯が五日市(現あきるの市)のほうでも使われて、あちこちから見に来たもんです」
 そういう自信の裏には、若い頃に知事賞を授かったという誇りが感じられる。人生の働き盛りを二度の応召で棒にふりながら、戦争から もどれば躊躇することなく炭焼きに没頭できたのは、何事に対しても人一倍の関心を抱き、さらに地道な努力を怠らなかったからであろう。
 山の暮らしと炭焼きが話題になれば、やはり星のことが気がかりである。島崎さんは、かつて利用していた星について語りはじめた。
「夏の間は、ミツボシの高さを目あてに山へ行ったもんです。冬にゃカーハリが目あてでした。これはヨツボシとも呼びますがねェ」
 また、晩秋になると炭焼きから帰って足を洗う時分にミツボシが東の山から顔をみせるので、仕事仲間ではアシアライボシとも呼んでいた という。カーハリ(ヨツボシ)は、いうまでもなくからす座の四辺形で、水根の空に限らず奥多摩の各地で山の生活に深く根付いている。 しかし、私はそれ以上に〈足洗い〉の星に興味をそそられた。
「あの星を見ると、疲れがどっと出てきたもんです。そういやあ、むかし変りもんの炭焼きがいましたよ。名前は八つぁんといったが、毎日 朝早く出かけちゃ帰りも遅かった。その八つぁんが、どうしたわけかどこの山へ行っても必ずムジナに呼ばれたということです。なんでも ムジナが腹を撫でながら出す声が『オイッ、オイッ』って呼んでるように聞こえるっていいますがねェ。ほんとかどうか、わしゃまだ聞いた ことがないんでねェ。そんなこんで、その人は〈ヨガマの八つぁん〉って呼ばれてました」
 ここでいうムジナとは、ほかでもない狸のことである。実は、おばあちゃんが一度だけ夜道でムジナに呼ばれたことがあるらしい。その ときは一瞬立ち止まって振り向いたものの、なにこんちきしょうと思って相手にしなかったら、もうそれっきりだったという話である。
 島崎さんの語りは、まだ続く。
「わしら〈狐の提灯〉っていってますが、泊り込みで炭焼きなんかしてるとときどき見えるもんです。これは近くに見えると狐は遠くにいて、 反対に提灯が遠くに見えるときゃそばに狐がいるもんだなんて言いますがねェ。いつだったか、向かいの山に提灯が出たんで『なにくそ!』 と窯の灰を撒いたらプツリと消えちまって。その晩は一人で窯場に泊まるつもりでいたけんど、どうも気味悪くてねェ。それで近くの仲間の とこまで行こうと思ったら、なんと飯をつまみ食いしていた狐をふんずけちゃったなんて、ながい間山で暮らしているといろんなことがあり まさぁ」
 狐の提灯というのはよく耳にする話だが、この他にも、山中で人がいないのにギーコ、ギーコと木を伐る音がしたり、雨でもないのに屋根が ザーッと鳴ったり、とにかく不思議なものはみな天狗や狸の仕業にしておいて損はないようである。
 ところで、アシアライボシより早く現れる星をクヨウノホシ(クヨウボシ)という。別な呼び名をオオクサボシともいい、東北地方に伝承 されたオクサを連想させる。私は、おうし座のスバルをなぜオクサと呼ぶのか以前から気がかりだったので、そのことを島崎さんに尋ねると、 「草がぼうぼうと生えてるのを〈大草〉っていうから、それと同じこんでしょ」という説明があった。

〈「クヨウノホシ」の語源とされる九曜紋 〉

 一時は、箱根地方でヤマボウシをクサということを知って、何か手がかりになるかもしれないと思ったが、水根にはクサと呼ばれる木は ないから、今のところは草に由来する方言と考えるのが妥当なのだろう。それにしても、スバル星の方言を介して東北地方と奥多摩の地を 結ぶものの正体はいったい何なのか。その伝播の道筋をたどることができれば、オクサの正体が明らかになるはずである。
 ところで、島崎さんと星のつき合いにはもう一つおもしろい逸話がある。
「いつだったか、誰かが昼間でも星が見えるなんて言ってねェ。それじゃわしも見てやろうって、暇をみつけちゃ捜したもんです。そしたら、 確かに見えましたよ。太陽の道筋にね、チカチカ光ってた。あんまり嬉しかったんで、年寄や子どもにも教えてやりましたがねェ」
 それからは、注意していると毎年のように見えて、これが夕方には西空で明るく輝くという。
「きっと、島崎さんは人一倍星が好きだったんですね」
私は、思わずそう言ってしまった。少し恥ずかしかったが、おばあちゃんのことばに救われた。
「ここいらで見る星は、むかしからヒチヨー、クヨウ、サンコウ、シコウと決まってましたよ」
 正に、その通りであった。ヒチヨー(北斗七星)もクヨウ(スバル)もサンコウ(三つ星)もシコウ(からす座)も、どれもみな水根の空に おいては人々とともに炭焼き全盛の時代を生きぬいてきたな馴染み深い星たちであったのだろう。山の暮らしに星が活かされていた時代は、 それほど遠い過去ではなかったのである。このような言い回しは他の地方でも知られていて、山梨県北巨摩郡高根町では「ミツメ、ヨツボシ、 クヨウボシ」、新潟県西頚城郡能生町では「ミツボシ、ヨツメ、クヨウセイ」と伝承されているし、さらに岐阜県飛騨地方にも「ミツボシ、 ヨツメ、クヨウボシ」があるという。これらは、いずれも炭焼きを中心とした山の生活に根ざした伝承である点が注目される。
 あるとき、帰り際に島崎さんはひとかけらの炭を分けてくれた。それはホオ炭といってホオノキを焼いたものであり、いわゆる研き炭として よく知られた炭である。私は、島崎さんの星に寄せる想いが込められた黒い塊を大事にリュックに収めた。何度も礼を言って家を出ると、外では 短い冬ののこり陽が早々と山の端に沈もうとしていた。

[1978年初稿]


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ツルボの墓【千葉県白浜町】

 房総半島から東京湾、相模湾を隔てて伊豆半島に至る漁師らの間では、りゅうこつ座のカノープスを「メラボシ」と呼ぶことが知られている。メラは、 房総半島の南端付近に位置する布良という地名に由来するとの見方が一般的だが、別な見方もある。さらに、白浜町にはこの星の別名として 「ニュウジョウボシ(入定星)」が記録されていた。
 いったい、布良とはどんな土地なのであろうか。もう随分と前に、私はそこへ行こうとして出かけられないまま、なおもその思いを断ち切れずにいた。 今となっては、観光地の中の一漁村に過ぎないであろうことも十分に分かってはいたが、まだ一人くらい昔堅気な布良漁師が生きているようにも思えたので ある。私は地図を広げ、布良から白浜付近の海岸線を自分なりに思い描いてみた。確か野島崎の懐には、星の和名に深いかかわりをもつ一つの墓がある はずであった。
 その墓に眠る人は、西春法師という。土地の人たちの間では「入定様」の名で親しまれ、この人が入定して星になったと伝えられる話は、長い間気がかりな ほどに私を惹きつけて離さなかった。しかし、生活が変わり、あまり時間的な余裕というものがなくなってくると、いつの間にか気持ちの張りも衰えて、ふと 忘れたころに、「ああ、あのときに行っておけばよかった」と、ほんとうに残念でならないことが多い。それが、この頃になってようやく南房総を訪れる 機会に恵まれ、私は何としてもメラボシの生まれた特異な風土に触れながら、予てからの希望であった入定様の墓を訪ね歩きたいと考えたのである。
 さて、私が白浜を訪れた季節、外房の海には、そろそろ秋の気配が漂いはじめていた。野島崎灯台の界隈では、夏を敬遠した観光客らが、三々五々と思い 思いの散策を楽しんでいたが、やはり予期したとおり、そこに暮らす人々も見える限りの情景さえも、もはや往時の面影を残す物は何一つないように思われた。
 昼下がりのひととき、小さな浜辺の片隅に、どこからともなく集まってきた老人たちの見るからに漁師然とした顔つきだけが、せめてもの慰めであったかも しれない。その中の老漁夫からは、ついにメラボシの名を聞くこともなく、わずかに「サンボシ」と「シソウ」を採集したに過ぎなかった。それでも、三つ星 とは言わずに三星(サンボシ)と呼ぶところがいかにも漁師臭さを感じさせて、そんな言葉の響きがミツボシのもつ温かさとは裏腹に、よりいっそう寒寒とした 冬の星空を思い起こさせるから不思議である。もちろん、これは漁師だけに限られた呼び名ではないし、各地にも似たような和名があって、みなそれぞれに長い 暮らしの奥底で連綿と受け継がれてきたものに他ならない。
 ただ、少し気になったのは「シソウ」の星で、ここでは一般的に言われるようなおおぐま座の北斗七星に対する呼び名ではなく、おうし座のすばる星のこと だという。そもそもシソウの原意は、賽の目の「四」と「三」を七つの星に当てはめたことばであるから、すばる星は誤伝であろう。三浦半島の三戸浜で聞いた シソウは紛れもなく北斗七星であった。

〈 賽の目の四と三が七つ星を表わす 〉

 灯台の磯に夕暮れが迫っていた。メラボシの手がかりがないままに、私は入定塚を捜さねばならなかった。こうなると、入定星の行方も気がかりであるが、 幸い塚のある場所については六十歳前後の女性からすぐ近くにあることを教えていただき、やっと落ち着いた心地になれた。この人が、記憶の糸を手繰りながら 語ってくれた入定様の話は、こうである。
 昔、隣村の原田という集落に変わり者の若者がいた。ある日のこと、その若者は急に地べたの中に入ってしまい、上からそっと中の様子を窺うと鉦を叩く音がした。 それでも飲まず食わずでいたので、七日目にはとうとう死んでしまったという。その後、この人を入定様と呼ぶようになり、墓のある横渚地区では毎年旧暦の 三月に市がたつようになった由。内容の信憑性はともかくとして、これには曖昧な点が多かった。もっと詳しい状況をつかめないものだろうか。
 翌朝早く、私は朝食もとらずに入定様の墓を訪ねてみた。海岸通りから右に折れて五百メートルほど進み、さらにまた家並みをぬって緩やかな坂道を上り 詰めると、そこは小さな広場になっていて、その一角に「西春法師位、寛文七年三月十八日」と刻まれた立派な石碑が建っていた。近年作られたと思われる 案内板によれば、西春法師は名を武田長治といい、十六歳のときから漁師となったが、なぜか奇怪な行動が多かったという。その後仏門に入り、高野山奥州にて 修行の後、寛文七年三月十八日、西春三十一歳のときに不食行三百日を終えて地下の石室に籠った。そして鉦の音がしなくなったら、三年後に掘り出して堂に 安置してほしいと言い残した・・・・云々、ということである。
 そもそも、旧暦三月十八日に開かれていた入定市は、西春法師供養のため不動尊を墓に祀るものといわれ、これが三、四年前から四月十五日に行われている。 古くからあったという松の大木も、今はその面影さえなく、また修行中だった近くの寺からこの墓まで「修行の道」と呼ばれる道があったということであるが、 こちらも宅地造成によって跡形もなく埋もれてしまっていた。
 半ば諦めと捨て所のない寂しさを感じ、私は静かに合掌した。ふと辺りを見れば、それまで気づかなかった可憐な花が墓のそこここに咲いているではないか。 それは、淡い紫色の花穂をスーッと伸ばしたツルボの花であった。いつの頃からか、毎年秋の初めにはこうして墓を飾ってくれている。きっと、入定星の息吹を 感じ取って、精いっぱい透き通った空に語りかけているのだろう。

〈 ひっそりと咲くツルボの花 〉

[1980年初稿]


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八重山慕情【沖縄県八重山地方】

 ♪月ぬ可愛しゃ 十日三日 (つきぬかいしゃ とぅかみーか)
  女童可愛しゃ 十七つ (みやらびかいしゃ とぅななつ)・・・・・

 石垣の空港に降りてから、川平へ向かうタクシーの中で、土地の若い運転手は、私たちのために自慢のノドを聞かせてくれた。夜道を歩く寂しさを 紛らわせるため、昔から歌い継がれてきたという。
 海沿いをはしるその道は、夜になれば今でも寂しそうな感じであった。しかし、日中は南国特有のライトブルーに光る海が眩しい。名蔵川では、 河口に群生する"ひるぎ"の種が引潮にさらわれ、海中にまで根を張っていた。あの時と少しも変わっていない・・・・・・・・・・。
 三年前の春、私は友人を訪ねて鹿児島から船を乗り継ぎ、はるばる石垣島までやって来たことがある。一度は行ってみたいという旅人の気まぐれも あったが、それよりも南の島々に伝わる古謡に歌われたという星の存在を確かめたくて、友人には前もって案内をお願いしておいたのである。石垣港 ではわざわざ友人が出迎えてくれ、久しぶりに見るその笑顔に船旅の疲れも忘れた私は、早速石垣測候所を訪ねたり、バスで島内を巡ったりして、 ずいぶんと楽しく過ごすことができた。だが、その後間もなく友人は島を出て行ってしまった。東京から一度は郷里へもどり、「やっぱり俺は、島でしか 生きられない」と言っていた彼が、なぜ再び島から離れなければならなかったのだろう。居場所がわからぬままに、いつの間にか三年の月日が経過して いる。島の住人になりきれない私には、友人の気持ちを解する心はないが、その豊かな島の自然も窮屈と思われる生活の代償にはなり得ないのかも しれない。
 私たちの眼前には、川平の美しい海が広がっていた。黒真珠養殖用のいかだが浮かぶ湾内は、八重山の自然を象徴するかのように、あくまでも透き 通っている。亜熱帯林の緑と白い砂浜の眩しさが、南の島にやって来たことを改めて感じさせてくれる。民家の生垣や道端では、赤や黄や八重咲きの ハイビスカスが大きな花を咲かせ、それが屋根の赤瓦と調和しながら、いかにも開放的な明るさをみせていたが、荒れたトウキビ畑に目を移すと、 可愛い実をつけたパパイヤが潮風に揺られて心なしか寂しそうであった。きっと、この島に新たな土地を求めて移り住んだ人々の歴史を静かに見つめて きたことだろう。
 翌日は生憎の空模様であった。風もあるらしく、時折大粒の雨が窓ガラスに当たっては幾筋も流れ落ちていく。梅雨入りの後で覚悟はしていたが、 やはり残念である。それでも、はやる心を抑え、前の晩に予約しておいた竹富島へと出かけた。竹富といえば、まず星砂の島とよばれるほどすっかり 有名であるが、小さな連絡船には私たちのほかにも数組のカップルが乗船しており、観光シーズン中はこうして毎日華やいだ雰囲気に包まれている のかもしれない。元来小さな島であるから、これほどたくさんの人たちが訪れる前は、きっと昔ながらの静かな暮らしが続いていたに違いない。
 船を降りてからも雨は止まなかった。村の中心部は桟橋から少し離れているので、濡れた砂利道を歩いて行かなくてはならない。重い雨雲を見上げ ながら集落に入ると、どの家もひっそりとしていた。観光用の牛車だけが、狭い路地をゴトゴトと動き廻っている。そういえば、この島では時計を 必要としなかった。日常の暮らし自体が自然にとけ込んでいるから、何事にも急ぐ必要がない。たとえ急いだとしても、歩いて海は渡れないという 事実以前に、島から出ることを忌む考え方が長い間人々の心を閉ざしてきた一面が垣間見られるのである。このような風土が、同じ八重山群島の中に あって島ごとに独自の文化を育んできたのではないかと思われる。

〈 右の写真は竹富島の民家のたたずまい 〉

 午後になって民俗資料館に立ち寄った私たちは、そこで上勢頭享氏にお会いすることができた。竹富島の民俗、芸能を丹念に蒐集されている方で あることを聞き、どうしてもお話を伺いたいと思ったのである。上勢頭氏が自宅の一隅に開設したこの資料館には、これまでに収集された民具や 工芸品などが数多く展示されており、それらはどれ一つとってみても島の暮らしを知る上でたいへん貴重な資料であることが判った。
 廊下に腰をおろすと、上勢頭氏は竹富島に伝わる星の名について語り始めた。鹿児島以北では聞くことができないめずらしい呼名に、私は次第に 高まる気持ちを抑えきれずにいた。沖縄や八重山地方では、一般に星は「フシ」と発音されるが、有名なムリカ星(ブシ)ユンタに謡われたおうし座の プレアデス星団は、ウルウルシとよばれる。これには「群がる」という意味があるらしい。ミツボウというのは、オリオン座の三つ星のことで、 北の空で動かないのはニイヌファプシあるいはトマリプシである。また、南の空に現れるケンタウルス座の二星はパイガフシで、南への旅情を 誘われる。さらに、アカキンブシは夜明け前の大きな星で、これが西空に移るとシカマプシと呼名が変わる。竹富島では、日没後もこの星の光を 頼りに、ほんのわずかな間だけ仕事を続けることができるという伝承から「仕事の星」つまりシカマプシと呼んでいるという。南の海と見事な金星の 輝き、夢にでも出てきそうな情景が私の脳裏をかすめていった。
 これらの星の名は、上勢頭氏が島の古老から受け継いできたものであるが、とりわけ関心をもったのは流れ星を本州などと同じように人の魂とみて ヒトゥダマーと呼んでいたことである。流れ星が落ちた所では必ず人が死ぬという伝承などもよく似た内容で、できればもっと詳しく知りたいとも思う。 それにしても、ようやく八重山の星と巡りあえた嬉しさに、私は帰りの船の時刻が迫っていたことを忘れていた。残り少ない時間を惜しみながら、上勢頭 氏に教えていただいた「星見石(プシィミイシ)」を捜す。
 それは、私が八重山に惹かれた一つの切っ掛けでもあり、星見と稲作のかかわりを示すたいへん重要な石であった。いくつか遺されているはずの 石垣島では出合う機会がなかっただけに、ようやく対面したときは深い感銘を受けた。元は海の近くにあったものを遺跡として保存するため、現在地に 移されたという。星見石に正面には、次のような文字が刻まれていた。

  星見石ノ由来
   往古ハ暦ナク草木ノ緑ノ模様
   星ノ出没ノ模様等デ春夏秋冬ノ
   季節ヲ定メ以テ作物ヲシタト言フ

竹富島の星見石
※正面に由来が記され(右写真)、側面の孔は形状と大きさが異なっている

 実際には、石にあけられた直径十数センチメートルほどの小さな孔からウルウルシの高さを観察して米などの播種期を決めていたそうで、その昔年寄り たちが集まって、この石から星を眺めていた様子が偲ばれる。しかし、先島と呼ばれていた時代の人々の厳しい暮らしを思うと、生温い感傷に浸る 気持ちにはなれなかった。
 そろそろ石垣行きの船が出る時刻だ。一時止んでいた雨が、また降り始めた。八重山の旅も今日が最後である。せめてもう一度だけ珊瑚礁の輝いた 海が見たかったと、そんな会話を交わしながら私たちは帰路についた。

[1978年初稿]


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ザマタの星【新潟県佐渡地方】

 越後や佐渡地方には、漁師らの間でザマタと呼ばれる星がある。この名は、まず『佐渡海府方言集』に現れ、私が知ったのは野尻抱影先生の 『日本星名事典』によってであった。同書には、越後の漁夫が指を二本広げて「ザマタはイカ釣りに使う二またの漁具だ」といって、Y字形の木片を 示したとあり、おうし座のヒアデス星団をさすものであろうとされている。そのころ、北海道積丹地方にのこされたイカ釣り用の古い漁具に強い 関心を寄せていた私は、このときからザマタの星に執着するようになってしまったのである。
 積丹地方では、Y字形のイカ釣り具をハネゴと呼んでいる。これは、海面近くに浮いてきたイカを釣るためのもので、大方は漁師の手作りに よるものがほとんどである。ザマタというのは、きっとハネゴのことに違いない。いつしか私はそう思い込んでいた。その一つの根拠として、ある 漁具解説の本にハネゴの柄の部分を「座股」と表記してあるのに気づいたからである。一般的に、この柄は桐材で作られており、先端にはY字に 二本の細い竿が付くのであるが、残念ながら積丹地方の呼称はハネゴ台あるいは単に台だけで、座股という呼名は一度も採集したことがなかった。 そうであれば、最早佐渡を訪ねてザマタの正体を突き止めるのが肝心と考え、逸る心を抑えながら久方ぶりの旅へと出かけたのである。
 十一月の終り、初冬の佐渡島は雪の到来を間近に控えて束の間の穏やかな日和に包まれていた。千メートルを超す高い山並みに目をやれば、島とは 思えぬその雄大さに驚かされる。かつての流人たちも、こうして金北山を眺めては儚い望郷の念にかられたのであろうか。今は昔、遠い過去の感覚は、 ことば一つさえ推量る術もない。両津から相川へ向かうバスの中で、私はしばらくもの思いに耽っていた。夏のシーズン中は、この島も観光客で 賑わうことだろう。佐渡の歴史を知ろうとする者にとって何よりもやりきれないのは、そういう己自身の寂しさかもしれない。土地の人々の心情は、 ときに旅人の感傷とは相反することが多いのだから、私も無意味な詮索はやめにしよう。
 終点の相川は、どことなく寂れた感じのする町であった。ここからさらに北へ向けて、小さな漁村が点点と連なっているはずである。そこはもう 外海府の海で、内海府の明るさとは裏腹に日本海の強い風をまともに受けながら、僅かな平地に肩寄せ合ってたたずむ集落の凡そ観光とは縁のない 暮らしに思いが及ぶ。街中を抜けると、それからはもう単調な海沿いの道を歩き始めた。どこまで行くという当てはない。見知らぬ村々を訪ねて、 誰でもよいからザマタの星の話が聞きたかったし、そうすることによって少しでも佐渡の漁師らとふれ合えるような気がした。しかし、手がかりは 一つしかない。Y字形の漁具だけが頼りである。リュックのポケットから用意しておいたハネゴの写真を取出し、私は浜辺の漁師を捜した。

 

〈 二股のイカ釣り具"ハネゴ" 右の写真は台座の側面 〉

 こうして最初に出会ったのは、海からもどったばかりの老夫婦で、ちょうど船を引き揚げているところであった。私は十分に注意して邪魔に ならぬよう声をかけたところ、その小柄な漁夫はわざわざ仕事の手を休めて、私の話をきいてくれた。イカ釣りに利用した星は、フタツボシ、スバリ、 アケノミョウジョウなどが出る。ザマタと呼ばれる星は自分も聞いた憶えがあるといったが、それがどのような星かは判らない。また、同じ名のイカを 釣る道具があるというので、すぐにハネゴの写真を見てもらったが、この辺りではツノと呼ばれているそうで、ザマタとは別物という。時間があれば、 さらに詳しく訊ねることもできたが、これ以上の長居は迷惑となるので老夫婦に礼を述べ、先を急ぐことにする。
 実は相川で昼食をとったとき、そこの主人から姫津へ行けばイカ釣りの漁師が大勢いると聞いていたので、多少の心残りはあったが気持ちはすでに 姫津へと向かっていた。それから一時間以上も歩いて、私はようやく姫津に着いた。さっそく港へ立ち寄ると、いくつも帰ってくる船があって活気に 満ちていた。どの人も忙しなく働き、時折大きな声がしたかと思うと、ゴムの前垂れを着けた威勢のいいおかみさんが、ゴトゴトと荷車を引いて向こうの 坂道を上って行くのが見えた。その後を子どもが追い、私はフーッと小さく息を吐いた。どこにでもある見慣れた光景なのに、それは何故か疲れを 忘れさせてくれた。
 しばらく歩き廻ったが、話を聞けそうな人の姿が見当たらないので、ひと先ず宿をとってから再び港まで行ってみると、先ほどの賑わいはすっかり 消えていた。空には厚い雲が垂れこめて、寒々とした日本海の荒波の砕ける音が鳴動となって響いてくる。間もなく、宿の近くで一人の老漁夫と出会った。 昔はイカつけの漁師だったということで、期待したとおり星の名を憶えており、これまで記録にない呼名も含めて多くの伝承を採集することができた。
 その利用体系は、ヤザキボシ(ぎょしゃ座のカペラ)に始まり、スンボシ(不明)、スマル(プレアデス星団)、アカボシ(アルデバラン)、ワボシ (不明)、カラスコ(三つ星他)、シロボシ(こいぬ座プロキオン)と続いている。さて、肝心のザマタについては、「ザマタいうのは、シロボシの あとから出る。これが海に入ると夜があけるっちゃ」と、さも懐かしそうに呟いた。私は、ぜひザマタの正体が知りたい一心でさらに詳しく尋ねて みたが、ハネゴをミズカンダと呼ぶこと以外に手がかりは得られなかった。一度途切れた記憶の糸は、最早元に戻ることはなかったのである。
 その後、私は内海府の黒姫や玉崎でもザマタの話を聞いた。しかし、いずれも曖昧な内容ばかりで決め手を欠く伝承であった。それらは、違う星の ようでもあり、発想の拠り所となっている形状との関係、つまりV字形に並ぶ星かどうかさえ判然としないのである。少なくとも、佐渡ではハネゴが ザマタと別物であることは確認できた。ということは、かつてハネゴに類似した重要なイカ釣り具が存在したことを示していることになる。
 旅を終えて帰ると、期待が大きかっただけになおさら残念でならなかった。イカ釣りの星の名についてはそれなりに収穫もあったが、当初の目的で あるザマタの星に関しては、以前にも増して複雑な存在となってしまった。機会があれば、またいつか佐渡へと出かけてみたいと思う。私は今、 島で会った人たちの顔を一人ひとり思い浮かべながら、改めて民間伝承を探求する難しさを実感している。

[1978年初稿]


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カンムリボシのふるさとを訪ねて
【埼玉県入間市】

 カンムリボシとの出会いは1997年。しかも地元所沢での出来事ですから、それはたいへんな驚きでした。時代が平成へと移り、地方へ行っても そう簡単には星の伝承と巡り逢えない状況のなかで、東京近郊に残された丘陵地の一角にこのようなすばらしい星の名が埋もれていたことは、まさに 奇跡的と言ってよいかもしれません。
 伝承者は七十歳代の農家の女性で、そこからさほど離れていない隣接市の出身でした。この人から教えていただいた星の名はいくつかありますが、 最初に出てきたのがこのカンムリボシです。初めはかんむり座のことを言っているのかと思いましたら、星の説明が全く違います。それは、明らかに オリオン座の三つ星とその周辺の星々でした。そのときの印象ではエリダヌス座の一部の星を含むようにも思えたのですが、確証はありません。対象と しては、三つ星と小三つ星、それにη星を結んだ形が基本になります。しかし、この形がカンムリとはいったいどのような見方をするのでしょうか。 冠といえば一般に円形の王冠のようなものをイメージしてしまいますし、西洋の星座でいうカンムリはまさにこれです。星の配列が円形ではないとすると、 全く別なものをイメージしなくてはなりません。
 こうして明らかにされたのが、観音様の頭上を飾る宝冠と宝髻[ほうけい]でした。この観音様というのは、伝承者が子どもの頃に親といっしょに お参りに行った新久の龍円寺(入間市)に祀られた千手観音のことです。武蔵野三十三観音霊場の一つ(第二十番)として知られた龍円寺では、毎年12月に 「朝観音」と呼ばれる行事があり、まだ暗い早朝より近在の人々が参拝に訪れるということでした。このとき、西空で傾きかけたオリオン座の星々を見て、 カンムリボシというと母親から教えられたとのことです。それを聞いて、私は自分なりに観音菩薩の顔を思い描き、それを西空の三つ星付近に重ねてみました。 するとどうでしょう。二つのイメージは何の違和感もなくしっくりと合うではありませんか。まさに、日本人が独自に見出した東洋のカンムリにほかなりません。
 その後、龍円寺に電話をさせていただき、朝観音の様子や現在もまだ行われているとの情報を得て、加治丘陵の一角に位置する寺院のたたずまいや、 そこから眺めることができるであろう西天のオリオン座に思いを巡らせることができました。しかし、実際に現地でカンムリボシの姿を確認するまでには、 さらに多くの月日をやり過ごすことになってしまったのです。
 こうして、感動の出会いから10年後の2007年になって、私はようやく龍円寺を訪れる機会を得ました。実際に現地に立ってみますと、その景観や 雰囲気は当初思い描いていたものとほとんど変わるところがありません。さっそく、ご住職から話を伺ったところ、以下のようなことが新たに わかりました。

・朝観音は現在も行われ、近年は12月10日と固定せず、その付近の日曜日に開催されている。
・この行事は、一年を締めくくる納めの時期にあたり、御札等のお焚きあげを行うものである。したがって、早朝よりお参りをすることでご利益があると いわれている。
・いつ頃から始まったかは不明であるが、少なくとも昭和の初めにはさかんに行われていた。
・朝観音の当日は、早い人で4時頃から参拝に来る。寺では6時より護摩を焚き、甘酒を振舞う。

 私が伝承者から伺った内容では、暮れの12月10日と翌年の1月10日が朝待ち(朝観音)ということでした。母親からカンムリボシを教えて もらったのは昭和12年頃で、当時はずいぶん多くの参拝者で賑わっていたといいますから、戦後60年以上も経った現在とはだいぶ様子が異なっていた のかもしれません。ご住職に礼を述べてから観音堂へまわってみますと、新しい堂を建立しているところでした。今回の現地調査では、いったいどこから カンムリボシを眺めたのであろうかという素朴な疑問がありましたので、寺院の周辺を含めて少し散策してみたところ、方角や視界の状況などから 判断して、もっとも可能性が高い場所として車道から境内へ至る参道付近と観音堂脇の墓地に目星をつけ、次回はいよいよ早朝の星空を見て確認する しかないと意気込みを新たにしたのです。それから、もう一つ気がかりだったのは、カンムリボシのふるさとである龍円寺周辺で、この星の伝承がまだ 残されていないかどうかということでした。しかし、散策中に出会ったご婦人からミツボシサマやナナツボシの名は聞かせていただいたものの、 カンムリボシの伝承については全く手がかりを得られず残念な結果に終わりました。
 龍円寺が位置する加治丘陵の南側には、大規模な茶畑が広がり、狭山茶の一大産地となっています。丘陵内の展望塔からは、こうした光景を一望できる ほか、遠く奥武蔵や秩父、奥多摩などの稜線を見渡すことができます。私は、眼前に展開されるパノラマを眺めながら、狭山茶というこの地の特産物を 育んできた歴史と風土に思いを巡らし、カンムリボシのふるさとに生きる人々の心の一端にふれさせていただいたような気がしました。

 

〈左〉新しい観音堂 : 〈右〉加治丘陵南側の茶畑

 それからさらに一年後の年の瀬が迫る12月7日、私はようやく天候に恵まれた朝観音の日を迎えられたのです。前夜からの星空が朝まで続くまたと ない絶好の機会でした。午前4時頃より寺院の周辺で冬から春の星座を確認したあと、裏手の墓地を抜けて一旦観音堂の前を通り、そのまま参道へ 向かいました。そこから西の空を眺めると、下見の際に想像したような雄大なオリオンの姿が目に入ってきます。そして、横倒しになった三つ星は紛れも なく観音様の冠を象徴するような輝きを放っていたのです。
 その感動を写真に収めていますと、境内では何やら人の話し声が聞かれ、参道を歩いて来る人にも出会いました。地元の世話役の人たちが、これから 朝観音の準備をするのだそうです。私が境内へ移って、観音堂の上にかかるカンムリボシの撮影をしている合間にも準備が進められ、観音堂の前では いつの間にか焚き火の炎が明々と揺らいでいました。その幻想的な光景に誘われて何気なく観音堂の西側へまわると、なんとそこに建立されている 石造の大きな十一面観音像のすぐ脇の空間に、ちょうどカンムリボシを望むことができたのです。それこそ、11年越しに思い描いてきたカンムリボシの ふるさとそのものの光景でした。

十一面観音とカンムリボシ
※この石造十一面観音像はカンムリボシが生まれた当時はなかったものです。
〈 写真を拡大する 〉

 近年は朝観音の参拝者も少なくなったということで、この日は5時を過ぎても一般の参拝者の姿はまだありません。かつて、ここに集まった人々が カンムリボシを眺めたことも、今は遠い昔話になろうとしています。しかし、この観音堂の存在とそれを支える観音信仰が続く限り、カンムリボシは いつまでもこの地に生きつづけることでしょう。幸運にも、その記録のお役を担わせていただいたことに感謝したいと思います。

[2009年初稿]


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