十五夜の民俗
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十五夜の月は「中秋の名月」とも呼ばれ、中国では古くから観月の慣習がありました。唐代には、中秋節として盛んに
行われたことが知られています。これが9世紀末から10世紀初頭にかけて日本へ伝わり、宮中や貴族社会において、観月
の宴が催されるようになったのです。ただし、民間での「月見」の風習は、近世以降のことと考えられます。 中秋の名月とは、旧暦(陰暦)の八月十五日に見られる月の意味ですが、必ずしも満月になるとは限りません。むしろ、 満月よりも少し若い場合が多いようです。清代の江蘇地方の中秋節では、「各家とも瓶花・線香・蝋燭を供え、空を望ん で頂礼する」と当時の様子が記されています(『清嘉録』)。このように、中秋は観月に適した時節と捉えられており、 それなりの理由が認められます。 月の動きは、位相(満ち欠け)の変化によって出現時刻が日々の平均で約50分ずつ遅くなります。ところが、この時間 は季節による変動がみられ、例えば秋分時分の満月で比較すると春分頃よりも約40%短縮されるのです。その後も、十九 夜月の頃までは同じように推移します。十五夜は、秋分を中心とする前後の各15日間のいずれかに行われるので、中秋の 名月についても然程待つことなく月を拝めるというわけです。
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大きな満月の輝き
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伝統的な供えもの
〈左〉生の里芋 /〈右〉栗は身近な秋の味覚
【 各地の供え方 】
* その他 *
* その他 *
* その他 *
(左):雄綱・雌綱の展示(与那原町)/ (右):雄綱と雌綱を繋ぐカナチ棒
十三夜の供えもの
■ 十五夜の象
十五夜の設え方には、地域によりさまざまな象をみることができます。かつての古い民家には、ウチとソトを分ける空
間として縁側と呼ばれる構造があり、そこが行事全体の主要な舞台となったのです。この場所は基本的な供えの場であり、
具体的な供えの形態と構成に関して多様な組合せを認めることができます。
本来は屋外での設えが基本であったと推察されますが、聞きとり調査では僅かな事例に止まりました。以下に比較的め
ずらしい供え方を紹介しましょう。ただし、これらは記録を基に再現したイメージであり、実際の状況とは異なる部分が
含まれています。
◇ 台や机などを使ったよくみられる事例 ◇
《基本的な組合せのイメージ》
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○場所:家屋の中
○用具:台あるいは机など
○ススキ:大きな徳利に挿す
○団子:一升桝に盛る
○里芋:生のまま
○さつま芋:生のまま
○栗:生のまま
◇ 机を使っためずらしい事例 ◇
《静岡県駿東郡小山町の伝承による》
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○場所:民家の縁側
○用具:座卓
○ススキ:花びんに挿す
(写真は徳利)
○饅頭(あん入):お皿に盛る
○里芋:生のまま籠に盛る
○果物:(写真はナシです)
何よりもベースとなる机の上にススキ
の葉を敷き詰めているのが大きな特徴
です。ススキを神聖な対象と捉えてい
ることが分かります
◇ 農具の箕を使った一般的な事例 ◇
《東京都東村山市の再現展示》
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○場所:茅葺民家の縁側
○用具:片口箕
○ススキ:徳利に挿す
○団子:皿に盛る
○里芋:生のまま皿に盛る
○さつま芋:生のまま皿に盛る
◇ 膳だけを使っためずらしい事例 ◇
《神奈川県津久井郡藤野町の伝承による》
註)藤野町は現在相模原市の一部
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○場所:民家の縁側
○用具:脚付き膳
○ススキ:徳利に挿して別におく
○団子:供えない
○里芋:生のまま膳に
○さつま芋:生のまま膳に
○栗:生のまま膳に
団子を供えず、新しい野菜を供える行
事とされています。脚が付いた膳に里
芋の葉を敷くという方法は、ほかには
みられず、とりわけ里芋に対する特別
な想いを感じとることができます
◇ 藁を台として利用した事例 ◇
《静岡県菊川市の伝承による》
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○場所:民家の庭
○用具:藁を立てて丸い盆を載せる
○ススキ:びんなどに挿して別におく
○団子:入れ物に盛って盆に
○里芋:生のまま盆に
○さつま芋:生のまま盆に
○栗:生のまま盆に
大きな特徴は、稲藁を束ねて立てて使
うところで、これまでの考え方を一か
ら見直す発想といえます。ススキとい
っしょに挿されるコウシバと呼ばれる
植物にも心惹かれます
十五夜の行事では、十三夜を含めて地域特有の習俗がみられます。このうち、最も広範な分布を示すのが貰い歩きと盗
みに関する伝承で、多くは各地区の子どもたちがその主役を務めていたのです。また、九州南部から南西諸島にかけて、
十五夜に行われる綱引きがあります。他の事例も含めて、これらは農耕とのかかわりが想定され、古来の月の信仰に連な
るものです。
中秋の後、旧暦9月13日に行われるのが十三夜です。満月よりも少し若い月が対象で、『躬恒集』の延喜十九年九月十
三夜の宴が最も古い記述と考えられています。「後の月」と称せられ、朝廷や幕府においては、十五夜に倣って観月の宴
が開かれました。ただし、十三夜の月を祭るようになった理由は明確になっていません。
民間においても、十五夜と十三夜は一つの体系として捉えられており、小豆などの豆類を供えることが多いため「豆名
月」の別称があります。地域によっては、「片月見」と称してどちらか一方だけの月見を忌む伝承があり、さらに十五夜
及び十三夜の天候と穀物の収穫量を関連付けた伝承が関東を中心に広く伝播していることは、やはり農耕との繋がりが背
景に存在することを示唆しています。
※このような象はほとんど見られなくなりました。
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