タナバタの伝承 2019/07/25

 

☆ タナバタとオリヒメ

 七夕伝説のオリヒメは、日本古来の「たなばたつめ」と習合し、いわゆる織女(こと座のベガ)と牽牛(わし座の アルタイル)の二星説話と結びつけられるようになりました。一方、関東地方の養蚕が盛んだった地域や織物の産地 などでは、機神様や蚕神を祀るところが多くみられます。群馬・栃木の県境付近に位置する桐生市や足利市、佐野市 などの周辺地域もそのひとつで、この辺りから埼玉県や東京都多摩地区などに点在する産地を経由し、さらに神奈川 県内を南下して横浜港へと至るルートは「絹の道」の一部として知られています。江戸末期から明治にかけての主要 な輸出品であった生糸を増産すべく、各地で養蚕が広まっていった時代です。
 繭を作る人びとにとって蚕がいかに大切な存在であったか、それは蚕神の信仰に根差した暮らしをみればよく頷け ます。年に3回から4回の繭をとる農家の生活では、餌となる桑の栽培から繭の出荷に至るまで何をおいても蚕優先 の状況が続き、家族はいろいろな意味で肩身の狭い想いを余儀なくさせられます。そうして大事に育てた繭から糸を 紡ぎ、その糸を使って機を織るのもかつての養蚕農家ではよく見られた光景です。養蚕、紡織という一連の工程をと おして、蚕神はやがて機神としても祀られるようになったのではないかと考えられます。甲信地方や関東地方の一部 には、蚕神あるいは蚕影様を祀った神社や石塔が多くみられますが、先の群馬・栃木県境一帯の地では織物業がより 栄えたためか織姫神社や機殿神社などをよくみかけます。現状は、合祀などによって全く別な社の境内社あるいは境 内神として存続しているケースがほとんどですが、それらの一部は現代的な七夕伝説と関連づけられ、地域観光の発 展に寄与している事例もあります。これまでに確認されたオリヒメの社や石塔類について、いくつか紹介しましょう。

機 殿 神 社(栃木県佐野市)

▲ 機殿神社の扁額

 佐野市大蔵町の星宮神社境内にある、いわゆる境内社のひとつです。祭神は日本書紀に記された栲幡千々姫命で、 機織の神とされます。地元では、機屋を中心に機神様として篤い信仰があり、毎年8月7日に機神祭(タナバタ)が 盛大に行われてきました。しかし、近年は機屋がめっきり少なくなり、往時の賑わいはみられないようです。
〔2010.05.15調査〕

織 姫 神 社(栃木県足利市)

▲ 織姫神社の鳥居

 市街地の外れ、両崖山城跡へと続く尾根を少し登った高台に社殿があります。麓の鳥居から階段が連なり、境内か らは下野の里を一望することができます。祭神は、天八千々姫命と天御鉾命の二柱で、機織とかかわりの深い神です。 もともと織姫神社の多い地域ですが、昭和12年に建立された新社殿は国の登録有形文化財に認定されるほど立派なも のです。かつて(旧社殿)は地区の機神様として信仰されていたものと推測されますが、現在は7月の七夕祈願祭や 二星説話にあやかった「縁結びの神」をうたうなど、七夕の織姫伝説を多分に意識した神社となっています。
〔2015.05.01調査〕

機織姫の石塔(埼玉県東松山市)
   

▲〈左〉小剣神社の全景 /〈中〉 像容は機神様 /〈右〉幡織姫大神の銘文

 埼玉県東松山市高坂の東部、都幾川べりの小剣神社境内に高さ70a足らずの小さな石塔として祀られています。1858 (安政五)年に、男女二名の施主によって造立されたものです。糸巻き(カセ)を持った像容から判断して、この幡 織姫は機神様のことと理解できます。この石塔とのかかわりは分かりませんが、当地には「幡織姫の伝説」がのこさ れています。
 むかし、正代部落にオリモトヤマという山林がありました。そのヤマの下にヒルモの池があり、織姫さまは池に生 える蓮から糸をとって機を織っていたそうです。出来上がったのがオマンダラ(曼荼羅)と呼ばれる反物で、今は高 坂の高済寺にあります。さて、オリモトヤマにはオイセ塚と呼ばれる塚が築かれ、「惚れて通えばオリモトヤマの  オイセ塚でも怖くない」という歌が伝わっています。また、織姫さまが使った筬を埋めた場所をオサ塚といい、これ が後にサ塚となって現在も都幾川の対岸にサヅカという地名がのこっているということです。かなり断片的な内容し か語られていませんが、文献資料の別な説話を重ね合わせると、蓮の糸で曼荼羅を織ったのは、嵐の晩に村の和尚に 助けられた娘という設定になっています。娘は織るところを絶対に見ないように言いますが、和尚がこっそり覗いて しまったため娘の正体が大蛇とわかり、娘は消えたという結末です(『東松山市歴史寸描』)。なお、聞き取りの説 話には別な話が付随して伝わっています。いつの時代か分かりませんが、高坂のある人が刀を振り回しながらオリモ トヤマのヒルモの池に飛び込んだまま帰ってきませんでした。後に、その人は元の姿で帰ってきたのですが、そこに はかつての知り合いが誰一人いなかったそうです。ここに、浦島伝説の結末が伝承されているということは、ヒルモ の池には龍宮があり、そこで織姫が機を織っていたのかもしれません。
 いずれにしても、こうした説話が古くから存在したとすれば、幡織姫大神の石像が造立された背景にも何らかのか かわりが想定されます。
〔2018.01.12再調査〕

初 生 衣 神 社(静岡県浜松市)
 

▲〈左〉初生衣神社の社殿 / 〈右〉奉納された絵馬

 浜松市三ヶ日地区にあり、天棚機姫命[アメノタナバタヒメノミコト]を祭神とする神社です。案内板には、「神 服部家の旧記によれば久寿二年(1155)以来、境内の機殿において三河の赤引の糸をもって御衣を織り、八百年の長 い間毎年皇太神宮(伊勢神宮)に奉献した古例を有する他社に比類ない古社であって、当社が遠州織物発祥の地」と あります。その織殿は社殿の手前に位置する古屋で、1801(享和元)年に建てられ、昭和2年に静岡県の史蹟となっ ています。
 近くの浜名惣社神明宮にも、天棚機姫命と天羽槌雄命[アメノハヅチヲノミコト]が境内社として祀られており、 4月に行われる「おんぞ祭」では、初生衣神社から神御衣が古式の行列とともに神明宮に運ばれ、お祓いの後で一旦 天棚機姫命社に納められて再び初生衣神社にもどされます。その後、豊橋市の湊神明社、田原市の伊良湖神社を経て 伊勢神宮へと奉納されます。
 このように、天棚機姫命を祀る神社のなかでも特別な存在といえますが、地元(岡本地区)の氏神さまではないた め、主に遠州織物関係の人びとの信仰に支えられて現在に至っています。また、神明宮も含めてタナバタとのかかわ りを示すような行事は見あたりません。
〔2019.03.26調査〕


 

☆ 星田の七夕伝説

 大阪府の枚方市から交野市にかけて広がる交野ヶ原一帯には、七夕伝説が伝わっています。天棚機比売大神や栲幡 千々比売大神などを祀る機物神社は、織姫の社として知られ、交野を流れる天野川をはさんで、対岸に牛石なるもの が存在していたことから生まれた伝承のようです。機物神社の由来をみると、本来は「秦者(養蚕布織の技術を持っ た渡来人)」の人たちが祀る社であったのではないかということで、後に「機神様」として祀られるようになった古 い信仰の形態をみる思いがします。さらに、彼の地が古代の為政者にとって重要な祭祀の場であったらしいというこ とにも心惹かれます。機物神社では、毎年7月7日にたなばた祭が行われています。
 ところで、交野市の星田に妙見宮があり、降星伝説の地として知られています。実は、機物神社からさほど離れて いないこの地区にも七夕伝説がありました。天之御中主大神ほか二柱を祀る星田妙見宮(小松神社)には影向石[よ うごうせき]と呼ばれる御神体がありますが、この磐座を織女[おりめ]石とし、天野川の対岸にある天田神社を牽 牛が耕す天田の宮とみた伝承のようです。同神社の由緒によれば、天田は本来「甘田」であり、そこに田の神を祀っ て建てた甘田の宮が起源とされています。したがって、天野川も「甘野川」が本来の意味であったようですが、「甘」 が「天」に変化した背景には平安貴族の深いかかわりがあります。当初の祭神は物部氏の祖といわれる饒速日命でし たが、その後住吉四神に変わりました。七夕説話との関連はなく、たまたま天田(甘田)の地に存在した古社という ことで、脚光を浴びたのでしょうか。
 ただし、神話では饒速日命が天の磐船で河内(交野付近)に降臨したとされていますので、織女石の磐座と全く接 点がないとも言えないようです。機物神社の七夕伝説が織姫由来の発祥であるのに対し、星田のほうは磐座信仰に基 づいた伝承かもしれません。いずれにしても、交野一帯の星物語は古くから存在した自然崇拝の習わしに降星伝説や 七夕伝説が習合して形成されたものではないかと推測されます。丘陵上にある妙見宮からは、当地とともに星が降っ たとされる星の森や光林寺が望まれます。また、眼を転じて市街地を流れる天野川を遠望すると、かつて大陸から渡 来した人びとが眺めたであろう異国の星空に思いが至りました。

 
▲ 〈左〉妙見宮の御神体「織女石」  /  〈右〉妙見宮から天野川を遠望

 
▲ 〈左〉機物神社の鳥居と社殿   /  〈右〉天田神社の社殿

☆ 宗像(大島)の七夕伝承

 神湊の沖合に浮かぶ大島には、2017年に世界遺産として登録された「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群のうち、 宗像大社中津宮と沖津宮遥拝所の二つの構成遺産があります。中津宮は宗像本宮である辺津宮と沖ノ島の間に位置す る重要な社で、宗像三女神の次女である湍津姫神を祀っています。
 中津宮の南には天の川が流れ、これを挟むように織女社と牽牛社が祀られていますが、鎌倉時代まで遡る七夕神事 の記録によって、日本の七夕伝説発祥の地と呼ばれているようです。二社にまつわる伝承は、貝原益軒が『筑前国続 風土記』において紹介しているように、旧暦7月1日から7日までの七日間それぞれの宮に入って籠り、天の川に三 重の棚を構えて星祭を行い、手洗(たらい)に水を入れてそこに映る姿から男女の縁を占うというもので、風流な世 界を感じさせます。その出典となっているのは『石見女式』(益軒の書では『石見女式髄脳』で鎌倉末期以降の成立 と推定されている)と『古今栄雅抄巻四』(益軒の書では『古今集栄雅抄』で成立年代不詳)の二点で、両書の記述 には細かい点でいくつかの相違がみられます。そのひとつは、前書が織女社を「七夕の宮」としているのに対し、後 書は「織女の宮」と記しています。また、手洗の扱い方についても、前書では「三つの手洗に水を入れて影を見たと きに、いずれも逢うべき男の姿が手洗にうつればその男に逢うべきと知る」とありますが、後書では「手洗の上中下 三つに水を入れ、それぞれに男の名を書いて祭りその男女の縁を定める」となっています。
 ところで、織女社と牽牛社の相対位置については、たいへん興味深い事象に気付きました。現在の二社の関係は、 鳥居を入ったすぐ左手を流れる天の川の対岸に織女社があり、牽牛社のほうは境内を外れて道路を挟んだ恵比須神社 の奥に祠があります。つまり、西から東へ流れる天の川の北に牽牛社、そして南の川岸に織女社が位置していること になります。近世の絵図には中津宮と織女社、牽牛社を描いたものがいくつかありますが、それらを比較したのが下 の表です。

◇ 近世絵図にみる中津宮の描写 ◇

絵 図 史 料 年  代 中津宮の表記 織女社
の表記
牽牛社
の表記
備  考
 筑前国中の絵図
(宗像郡)
 17世紀後半以降  湍津姫社 織女社
〈南側〉
牽牛社
〈北側〉
 
 大島図
(平岡家所蔵)
 寛政九年(1797)  中津宮本社 七夕社
〈北側〉
牽牛社
〈南側〉
* 牽牛社は天の川の奥部
にある
 天保国絵図
(筑前国)
 天保九年(1838)  湍津姫社 織姫社
〈南側〉
牽牛社
〈北側〉
* 天の川は二股に描かれる
 筑前国郡絵図
(宗像郡)
 (不 詳)  湍津姫神社 織女社
〈南側〉
ケン牛社
〈北側〉
 

註):〈 〉内の方角は、絵図の中で天の川を基準にした二社の位置関係を示す

 これら4点の中では、『大島図』だけが本殿を「中津宮」、織女社を「七夕社」としています。そして、最も注目 されるのが天の川に対する二社の位置関係です。他の絵図が北側に牽牛社、南側に織女(織姫)社を描いているのに 対し、大島図だけは全く逆で北に七夕社、南に牽牛社があります。さらにこの詳細絵図では、牽牛社が天の川の奥部 にある天の真名井の近くにあり、七夕社のほうは池の右側(北)に描かれていることが分かります。
 さて、実際に七夕の星空を眺めてみると、織女(こと座のベガ)は北に近い位置にあり、天の川を介した南側に牽 牛(わし座のアルタイル)が対峙していますので、大島図の二社の配置はこうしたイメージに近い状態を表現してい ることになります。他の三点の絵図は宗像郡あるいは筑前国全域を対象としたもので、大島の部分はかなり簡略化さ れているものの、二社の相対位置はしっかり統一されています。また、『石見女式』や『古今栄雅抄』の記述も北に 牽牛、南に織女であることを考慮すると、大島図の描写はいったい何を意味しているのでしょうか。未見の史料も含 めて、今後の課題としておきます。

 
▲ 〈左〉鐘崎から望む大島  /  〈右〉中津宮と海に注ぐ天の川

 
▲ 〈左〉天の川と織女社   /  〈右〉牽牛社(祠は奥で見えない)

 

☆ タナバタの史跡

 各地で見聞したタナバタに関するあるいは七夕の名を冠した史跡や文化財などについて、掲載しておきます。

タナバタ磯(茨城県日立市)

▲ 満潮時の岩礁の一部

 会瀬漁港の防波堤のすぐ外側にある岩礁を、地元ではタナバタ磯と呼んでいます。現地を訪れたときは満潮時で、 海面に二つの岩を確認しました。潮の状態によってその姿は刻々と変化するようですが、いずれにしてもこの岩礁 全体がタナバタ磯になります。漁港で、ある漁師から「タナバタ磯は七つの岩だ」と聞きましたが、実際に確認し ていないのでよく分かりません。また、七夕に因んだ伝承があるとも聞いていますが、詳細は不明です。
〔2010.03.27調査〕


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タナバタの俗信 2018/02/20

 

 タナバタにまつわる俗信はいろいろありますが、ここでは主な習俗ごとに埼玉県を中心とした事例を紹介します。

タナバタの日の雨に関する俗信

  1. タナバタに雨が降れば天の川が開くので、この日は雨が降ったほうがよい〈埼玉県所沢市〉
  2. タナバタに三粒でも雨が降れば、その年は雨が多い〈埼玉県吉川市〉
  3. 8月6日(七夕の前日)に雨が降れば、その年は病気が少ない〈埼玉県久喜市〉
  4. タナバタのころには「タナバタ荒れ」といって、雨が降ったり風が吹いたり天気が荒れるものである 〈埼玉県北川辺町〉
  5. タナバタの日は天気の荒れ日なので、荒れないように祈る〈埼玉県入間郡〉
  6. タナバタに雨が降ると天の川が溢れて男神と女神が会えなくなる〈長野県塩尻市〉
  7. タナバタに雨が降ると天の川が流される〈徳島県阿南市〉

田畑への出入りに関する禁忌

  1. タナバタの夜は、タナバタ馬がキュウリやマメの畑を歩きまわるので人間は入ってはいけない。 もし入ると驚いた馬がツルに絡まってしまう〈埼玉県川越市〉
  2. 8月7日はタナバタさま(男星と女星)がササゲ畑で逢うことになっているので、この日はササゲを収穫 してはいけない〈埼玉県所沢市〉

タナバタの竹に関する俗信

  1. タナバタの竹を川に流すとき、早ければ早いほど願いがよく叶う〈東京都奥多摩町〉
  2. タナバタ竹は7月7日の朝早く川へ流す。遅くなるとタナバタ様がいなくなる〈東京都檜原村〉
  3. タナバタの竹は、その年に芽を出した新しい竹を使う〈東京都東大和市〉
  4. タナバタの笹竹は、早く流さないと親に会えない〈東京都西多摩郡〉

ネムノキに関する俗信

  1. タナバタの日は、メブタ(ネムノキ)の葉を洗面器に入れて顔を洗うと眠くならない〈埼玉県大滝村〉
  2. ネムタ(ネムノキ)の葉で眼をこすると眠くならない〈埼玉県横瀬町〉
  3. ネブタの葉で眼を洗うと、眼がわるくならない〈埼玉県両神村〉
  4. ネブタの葉で眼をこすりながら顔を洗うと病気にならない〈埼玉県本庄市〉
  5. ネブタの枝を水に浸けて眼を洗うと眼がよくなる〈埼玉県吉田町〉

タナバタ馬に関する俗信

  1. タナバタのマクモ(マコモ)馬は蔵の外にある柱にしばり付けておき、もし子どもなどが川でおぼれた ときには、この馬を燃やして煙にあてると水を吐いて助かる〈埼玉県吉見町〉
  2. タナバタのマクモ馬を自宅の軒下に吊るしておき、もし川や沼でおぼれた人がいたら、この馬を燃やして 暖めてやると助けることができる〈埼玉県行田市〉
  3. 雌雄のマクモ馬を川へ流すとき「いいところへ宿りなさい」と唱える〈埼玉県幸手市〉

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