●●● 生産と祈りの意匠
十五夜というと、みなさんはどのような情景を思い浮かべるでしょうか。年配の方であれば、子どもの頃に見た故郷の十五夜が
脳裏に焼き付いているかもしれません。一方、十五夜の行事を知らずに育った人たちも、各メディアからの溢れ出る情報を精査
すれば、よりリアルな疑似体験を容易に享受できる時代になりました。月面の科学探査が進むなかで、月を信仰の対象として崇める
日本人はほとんどいないでしょう。それでも、月のある風景は場所を問わず眺める人びとの心を癒してくれます。それが望の月
(満月)となれば、感慨もひとしおです。
中秋の名月といわれる旧暦八月十五日の夜、かつては日本の各地で供物を捧げる人びとの暮らしがありました。この展示では、
そうした光景を「十五夜の象」として振り返ってみたいと思います。その際、重要な構成要素としてまず考えられるのは「供えの場」
です。以下、供えの形態、供えものの構成などについて概観します。

象の基本は場所と供えるもの
〈左〉古い民家の縁側と玄関先 / 〈右〉饅頭とイモと果物
◆ どこに供えるか 》》》 時と空間の共有
供えの場として理想的なのは、東方が開けて月の出を眺めることができる場所です。しかし、この条件を満たす土地は少ないでしょう。
そうなると、せめて少しの時間でもよいから月が見える場所を探すことになります。幸い、農村部では屋敷が広いので南の空は比較的
明いていたでしょうし、山間部においては古い集落ほど尾根筋に立地していましたので、周辺の地形にも依りますが視界の条件は良好
であったと推察されます。
こうして景観としての場が確保され、次はどの空間を利用するのか見極めることになります。具体的には、屋敷の庭にするかそれとも
母屋の中にするかの選択です。各地の調査記録をみると、庭を含めた屋外に供える事例は少なく、大半は屋内に供えられています。
この記録の背景となる時代は古くとも明治期ですが、多くは大正から昭和期のものです。特に第二次大戦後の記録では、行事の内容に
変化が生じている可能性が高いと思われますので、供えの場がほぼ屋内に集約されるとする見方は早計かもしれません。本来は屋外で
あった供えの場が、社会の変容とともに次第に屋内へ取り込まれた事例があったのではないかと考えられるからです。いずれにしても、
屋内の利用が広く定着していた理由はどこにあるのでしょうか。
日本の農山村部においては、昭和30〜40年代までいわゆる草屋根(茅葺、藁葺きなど)の構造を有した住宅が一般的でした。多くは
正面に広縁があり、外気を遮るのは板戸のみです。戸を開ければ屋外と屋内双方を共有した空間が生まれます。制約の少ない土地であれば、
通常家屋は南面して建てられますので、縁側は月を眺めるにも最適な場所であったわけです。しかも、団子突きなどの慣習にはこうした
「ウチ」と「ソト」の共有空間が重要な役割を担っていたことが容易に推測できます。つまり、家の住人と来訪者が供えものを介して
「儀礼」という時間を共有する場でもあったのです。その後、生活環境は急激な変貌を遂げることになり、縁側という地縁コミュニティの
空間は一気に瓦解してしまいました。
それでは、各地の記録から興味深い事例をいくつか紹介しましょう。まず、屋外に供える場合です。
・庭の池の縁に供えものを並べる(山形県山形市)
・庭に大きな竹籠を伏せ置き、その上に箕を載せて供えものを並べる(群馬県長野原町)
・庭に稲わらを円錐状に立て、その上に丸盆を載せて供えものを並べる(静岡県菊川市)
・庭に臼を置き、その上に箕を載せて供えものを並べる(鹿児島県肝付町)
山形県と静岡県の事例は、生産用具を利用しないタイプで、しかも稲藁を台として使う発想はたいへんめずらしいものです。次に屋内の
事例ですが、既に記したように場所はほぼ縁側に集中しています。僅かに玄関(千葉県)や部屋の中(埼玉県、千葉県)などもみられますが、
住宅事情などによる例外とみてよいでしょう。
縁側での特記すべき内容としては、岩手県大船渡市の事例があります。ここは半農半漁の集落で、かつての住居は三部屋続きの間取りに
玄関と縁側が付随していました。このうち中央の部屋は「オガミ」と呼ばれ最も重要な場所であり、十五夜の供えものはオガミの部屋の前に
続く縁側に設える習わしがあったそうです。供え方も台などは使用せず、ござを敷いてそこに供物を並べる簡素なものでした。
◆ どのように供えるか 》》》 意匠の多様性
供え方の基本は、全体の意匠を構成する要素で決まります。
@ススキや十五夜花などをさす容器
A団子を筆頭とする作りものを盛る器
B全体あるいは一部分を収容するための土台、用具など
Cその他の特別な機構
要は、これらの組み合わせがその場における十五夜の象となるわけです。当然、供えものの種類や量による影響はありますが、これまでの
記録をみる限り、@については花瓶、徳利、一升瓶がほとんどを占めています。Aは特に定型化されておらず、その場で適当な容器(多くは皿)
が使われているようです。一般的なイメージでは三方に盛られた団子を連想しがちですが、調査では千葉県と神奈川県、宮崎県に僅かな事例が
あるだけでした。茨木県や埼玉県には重箱を利用した事例も伝承されています。
さて、全体の象を左右するBですが、基本は適当な台あるいは机がほぼ全国的な定番スタイルといえるでしょう。ただし、本来はござなどを
敷いた上に供えものを並べていたでしょうから、その後ござの代用としての台や机の利用が普及したものと考えられます。そして、このような
変遷と一線を画した象が箕の利用です。
箕は農具の一種で、片口と丸口の二つのタイプがあっていずれも十五夜で利用されています。関東地方では、群馬、埼玉、千葉各県と東京都の
うち畑作を主体とした地域での事例が顕著です。とりわけ埼玉県の中西部においては、濃密な分布を示す地域もみられます。以上はすべて片口箕の
利用ですが、九州南部の宮崎県や鹿児島県には丸口箕(通称バラ)を使った供え方がのこされています。そのほか、お膳の利用が茨城県、栃木県、
埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県で、丸盆あるいは角盆の利用が新潟県、千葉県、長野県、岐阜県、熊本県などで確認されました。箕やお膳、
お盆については、それぞれ単独での利用以外にも箕とお膳、箕とお盆などの併用がみられ、別な用具(竹籠や臼など)との組み合わせも含めて実に
多様です。

〈左〉片口箕の一種(埼玉県) / 〈右〉丸口箕の一種(栃木県)
最後に、Cの特別な事例として神奈川県湯河原町の供え方を見てみましょう。当地の構成は@徳利、A皿に盛った饅頭、B脚付き膳で、さらに
Cでは、天井などから垂らした2本の紐に横棒を渡し、そこに枝付きの柿や栗の実、ホオズキを下げます。一見してタナバタや盆の習俗と類似した
要素を感じますが、めずらしい供え方として注目されます。
◆ 何を供えるか 》》》 感謝と祈りの実現
ここでは、ススキと十五夜花を除く供えものについて概観します。要素別の分類としては、a作りもの、b農作物、c果物類、d御神酒、e灯明、
fその他となり、基本形は(a)+(b)で代表されます。
作りものの筆頭は、何と言っても団子でしょう。通常は米粉を練って丸めて蒸したものですが、特殊な事例としていくつかの変形タイプがあり、
餡や黄粉などを絡める場合もあります(長野県、大阪府、徳島県)。
団子以外では、饅頭やおはぎの事例が多いようです。特に饅頭は関東地方で顕著な分布がみられ、埼玉県などでは箕を利用する地域とほぼ重なります。
一口に饅頭といっても、餡入りや餡なしの区別、蒸かすか茹でるかの違いなど一様ではありませんが、いずれにしても主原料は小麦粉です。団子の
背景にある稲作文化的要素に対する麦作(または畑作)文化的要素と位置づけることができそうです。因みに、この麦作文化的要素は、タナバタ行事で
供えられる「うどん」にも顕著に現れています。
餡を絡めた団子といえば、おはぎや餡餅などを連想しますが、沖縄県宮古島市平良でオハギと称しているのは、粟や麦を炊いて片手で握りその
周りに味付けしないで煮た小豆をまぶした食物です。一般にはフカギ餅とかフキャギなどと呼ばれるもので、基本的な作り方は練ったもち粉を片手で
握って蒸したあとに煮豆をまぶしました(同市池間)。ただし、家庭によっては糯米を蒸してそのまま片手で握って黒豆をまぶす場合もあります。
また、宮古島からさらに南の石垣市川平では類似のもちをマメモチと呼び、米粉を練ってから片手で握って蒸したあとに茹でた赤豆(少し塩味をつける)
をまぶします。その際、手で握らずに鍋の中で塊にしたものをフカンギと呼んでいましたが、十五夜に供えるのはマメモチのほうです。
次に農作物ですが、里芋に関しては既に別項で解説していますので、ここでは他の作物を見てみましょう。まず、比較的広域で使われているものに
さつま芋があります。里芋のように生で供えるほかに蒸かすなどの調理を加える場合も散見されます。そして、「豆名月」の別称をもつ十三夜には、
優占的に豆類を供える地域があり、大豆(枝豆)や小豆が主流となっています。埼玉県の山里で、ススキや野の花々とともに箕いっぱいに小豆を供えた
象は、まさに信仰に根付いた行事の一面を窺わせてくれます。また、大根を供える事例が茨城、栃木、長野などの各県にみられますが、本来は十日夜
とのかかわりが深い作物で、一部の地区においては十五夜、十三夜と十日夜の習合がみられますので留意する必要があるでしょう。長野県などで
一斗枡に大根を供える事例には、その傾向が強く現れています。
果物類が供え物の一部として定着した時期は定かではありませんが、それほど古くはないものと思われます。ただし、柿や栗に関しては屋敷林の
中で植栽され、ススキとともに枝付きの状態で花瓶などにさしていましたので事情が異なります。食生活の変化や果樹栽培のひろがりによって
りんごや梨、葡萄などが容易に入手できるようになり、順次供えものに加わったことが推測されます。こうした供えものの変遷は、戦後日本の
生活文化の向上を示すバロメーターの一つと言えるかもしれません。子どもたちによる貰い歩きの慣習とも無関係ではないと考えられます。
食物以外では、埼玉、神奈川、山梨、岐阜、奈良、宮崎、沖縄の各県で酒を供え、群馬、埼玉、千葉、神奈川、山梨、静岡、奈良の各県で灯明
(ろうそく)の記録があります。埼玉県には線香を一本だけ点すという事例もみられ、古い時代にはより普遍的に行われていた可能性を感じます。
いずれにしても、供えものは豊饒に対する感謝と祈りの象徴であり、そこには盗るあるいは盗られるという行為によって仮想から現実世界への
転換を図りたいという先人の願いがあったのです。
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