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もじテナーニ:その1

文字はいったい、どこからやってきたのだろう?

「その書かれた文字はこうです。 『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン』」聖書Dan5;25

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Rep-1▶ 訓読み、こころで見ることば Rep-2▶ 文字、神との交信 Rep-3▶ 光も音もないコミュニケーション Rep-4▶ 落書き—歪んだコミュニケーション Rep-5▶ 算数なんて嫌いだ

2008/07/03/thu/ Ysasa

▼ Rep-1

「訓読み、こころで見ることば」

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中国の文章である漢文を、自国の言葉に訳しながら読み下す?!日本人は何とすばらしい解読技術を持っているのでしょう。漢字の「訓読み」を巧みに取入れながら、漢文の流れを日本語の流れに置換える「訓読くんどく」という技術です。「訓読み」とは、漢字を母語に取り入れる時、その漢字の意味内容を相手国から聞き取り、当時の自分たちの島で似た使い方のことばがあれば、その読み方をも抱合わせておこう、という約束ごとです。

漢字の字形を「見る」と同時に、自分たち国、日本の文化に根ざすことばの「イメージ」を媒介させて「読む」、実に賢いメタファー(隠喩いんゆ)です。当時の日本に、記録道具としての「文字」がまだ存在していなかったかどうかは歴史学者の研究にゆだねるとして、この技術は、相手国を深く知ろうとする勤勉な民の「こころの表れ」ではないかと思えてなりません。「訓という読み方」をますます知りたくなりました。

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左図は、日本最古の歴史書「古事記」の現存最古写本「真福寺古事記三帖上巻」(†1)の序文(抜粋)を書写したものです。この中に、当時「訓読み」と「音読み」との使い分けや組合わせを、試行錯誤しながら用いた事実が記されています。册封関係にあった大国の中国に対して、自国存在の威信をかけた特別な思いのこめられた技術開発だったのでしょう。訓によってのみ漢字は国語化され、意味が把握される。訓のない字は記号にすぎない。(†2)わが国漢字研究第一人者の白川静氏は、そう言い切ったのですから。

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うみ、やま、かわ、ひと…、なんとまるい響きでしょう。圧倒的な文明力を奮う漢字に一帯が魂抜かれる時代にあっても、日本のことばは「もじ」としても生き残ります。百済、任那、高句麗、新羅の朝鮮半島公式文字が七世紀末まで中国語であった(†3)ことを思えば、まさにメタファー(隠喩)の生存力です。「はい、このことばの意味を知っている人!」とは教師の常套句ですが、その「意味」とは、一文字にひとつの意味を持つ表意(表語)文字である漢字を超越した象徴記号、通時的ともいえる日本語(日本のことば)そのものを問うていると言えます。ジェスチャーで、相手に山や川を連想させる象徴の力と同意なのです。

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「訓読み」は、こころで見る「もじことば」のようです。 漢字の「言」は形声文字で「口」から「心」が発し出たもの(参照:大修館新漢和辞典)(†4)と記されていますが、象形では「口」から「辛」=罪の意(同辞書参照)が出ている表現(左図3の左部)なのです。これは、ことばがそのひとの「心」と必ずしも一致するものではない、という戒めかもしれません。そんな漢字文字「言」に、ゆらにもゆらにこころに響く「イメージ」の流れ「川」を保有させたとき、「訓読み」日本ヤマトの「もじことば」が育まれたのではないか、そう想像します。

一方「音」の象形は偶然にも、「言」の「口」に横一本を加えたものだと知りました。節度がある状態を示す(同上辞書参照)らしいのですが、私には舌のようにも見えます。サウンドそのものとも解釈できます。(左図4=音の象形)
※追記します:漢字研究第一人者の白川静氏によれば1:言=古代中国において、サイ(鼎かなえに似た祭器)の上に辛(入れ墨の具針)を添え、下の諸都市代表が上の王と盟宣を誓う辞(偽った場合は入れ墨刑を受ける宣誓)を「言」という。発掘された甲骨文、金文に刻まれ、鋳込まれていた数多くの盟宣史実による。2:音=神(王もしくは先祖霊)に誓って祈ることば「言」に対して、同じくサイの中に神の応答を示す印「一」をもって、神の訪れを示した記号

「文字」は、その文化の敗北によって滅びます。イメージ遊びが過ぎると言われる現代の日本語ですが、イメージあっての日本ヤマトもじことばでしょう。大いに想像しようではありませんか。

†1「真福寺古事記三帖上巻」東京書林柏悦堂1870発行;国立国会図書館近代デジタルライブラリー
†2「漢字百話」白川静 著;中公新書500;中央公論新社1978.04
†3「文字の歴史」アルベルティーン・ガウアー著;矢島文夫・大城光正訳;原書房1987
†4「大修館新漢和辞典」改訂版 諸橋轍次・渡辺末吾・鎌田正・米山寅太郎 著;大修館書店1985.04
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2008/08/05/tue/ Ysasa

▼ Rep-2

「文字、神との交信」

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ひふみと、かずを数える不思議さは、弥が上にも耳に残ります。 ましてや平仮名ばかりだと暗号のようです。平仮名は、草仮名をさらに簡略化して次第にできあがってきた文字である、そう考古学者が言えば、平田篤胤の「神名日文伝」は、御国の文字を加奈といふは、加牟奈の略なり、加牟奈を漢字に訳して、神名と書くべしと我が国特有の古代文字であると言う。「日本書紀」の欽明天皇二年三月の条などにも「古字ふるきな」「新字にいな」「和字くにな」が書いてあるとか、論争は絶えないのです。
 このひふみ歌、神社神職が宣る祝詞だと知るのですが、神話にまで話が及びます。天照大神が天岩戸に隠れてしまった時、外で天宇受賣命アメノウズメが面白おかしく踊って祈りを捧げた時の詩である、とも言うのです。さて祝詞は、文字として書かれていたのでしょうか?

日本民族学の大家、折口信夫氏は自著「古代研究-民族学編」(†1)の中で、祝詞が平安朝はじめから100年ばかりの間に作られたもので、新旧入り交じってしまっていること祝詞自体は口伝であるため、内容の保存が定かでないことを危惧されています。神からの命である祝詞のりとと、それに従属する神への寿詞よごとがあるとも書かれています。これは即ち「言葉」ということに他なりません。延喜式(927年)以前は無論のこと、各神職が秘伝として代々伝え宣るため、暗号や印での記録が必要だったのではないかと推測します。ひふみ祝詞の解釈はその確証がなく、かごめ歌のように秘密に包まれています。しかし祝詞である以上、記録された文字は神との契のフォルムに違いないのです。
※追記:古代中国の、祝詞を文字記述する役の者「史」に相当する、古代日本の神職者が存在しなかったか、残すことを畏れたか、残すべき文字がなかったか。

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今から約5500年も昔の紀元前3500年、アジアの西域。 チグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミア地方南部で興った都市文明シュメールに、楔形文字(Cuneiform)は生まれました。現存する世界最古(エジプトアドビスのサソリー1世出土象形文字や、中国寧夏回族自治区の絵文字解析は除く)の文字体系で、形は抽象的かつ数学的、多分に幾何学構築図式です。その中にあって「AN」という文字(左図)だけは、現在もなお異彩を放ちます。意味は「星、天の神、神」(†2)。天空の星の輝きは、言語や人種を超越して、その確かなイメージを伝播する力を持っていることに驚き、神秘を感じます。シュメール人は太陽暦を使い、一週を7日と定め、60進法を発見したと言います。占星術はやはりここでも、神との交信、卜占として発達したのでしょうか、チグリス・ユーフラテス両川の氾濫を予測するためにも。楔形文字(Cuneiform)は現在、Unicode化され(U+12000-123FF)だれでも閲覧可能です。

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そして今から凡そ3300年遡る紀元前1300年、漢字が起こる。 殷商第22代帝 武丁ぶていの頃から多発した亀甲獣骨文字が最古の母型とされています。王の命による卜占が亀甲や獣骨で行なわれ、その吉凶の結果を記録するための印として、刻み込まれたのです。(左図参照:郭振祿「小屯南地甲骨綜論」)そうです、天との交信の記録です。しかしなぜ突然の大量卜占だったのでしょうか?

「沈黙の王」宮城谷昌光氏の作品に呑まれそうです。漢字学者 白川静氏によれば、殷商王朝は王が巫祝王として、祭祀と卜占を宰する神聖王朝でした。太陽が十個、各々に十干の名があり、それを司る十人の神巫(巫咸、巫即、巫頒、巫彭、巫姑、巫真、巫礼、巫抵、巫謝、巫羅)がいたと、山海経せんがいきょう(怪しいですが中国最古の地理書)にも記されています。自然と先祖と神への畏怖は、卜占による政となって日々行なわれていたのでしょう。1976年、河南省安陽市小屯村、甲骨文字の原点とされる殷虚で、かの武丁の后であった「婦好ふこう」の墓がほぼ完全な形で見つかり、大量の副葬品が出土しました。その中に、女性将軍の優れた業績賛辞と、祭祀・卜占を司る「薩満シャーマン」としての卜辞記録も発見されたのです。婦好が日本の卑弥呼に重なります。智と気をまとった天の使いだったのかもしれません。

2005年10月5日、甲骨文字よりも数千年古い絵文字が、中衛県大麦地から大量発見され、現在、中国西北第二民族学院岩画研究センターによって細部を調査中です。文字は、「光が炙り出すイデア」だと、なぜか感じるようになりました。

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文字と絵との境界は、何でしょう? 客観と主観の、概念と観念との差?……。神との交信つまり「祈る」「念ずる」場合、卜占する巫覡ふげき(巫は女性の、覡は男性のかんなぎ)はどこまでも完璧に客観的なのでしょうか? それを通じて生まれる文字母は、一般的よりむしろ「言霊」というものなのかもしれません。
 左図は、文字かどうか現在も未解読の遺物です。ちょうど100年前の1908年、地中海に浮かぶクレタ島のファイストス神殿から見つかった、直径16cmほどの円盤形焼物(†2)です。両面に絵文字のようなものが渦巻き状に、印形で押しつけて焼き込まれています。推定紀元前17世紀と、仮説以上の進展はしていません。
 ロゼッタストーンの解読で有名になったのは(仏)フランソワ・シャンポリオンだけれど、その突破口を開いたのは、かの(英)医師トーマス・ヤングでした。彼は光に興味を抱き、「光三原色理論」を起草した人物です。光に導かれ、光にまつわる偉業を遂げたのは、偶然ではないかもしれません。このファイストス円盤も、必ず解読されるでしょう。なぜなら、渦巻きは宇宙や生命の永遠性を表わす「祈りの文様」だと言い伝えられ、またそう信じ解読されているからです。

†1「古代研究-民族学編」折口信夫著;大岡山書店1929-30
†2「文字の歴史」アルベルティーン・ガウア著 矢島丈夫・大城光正訳;大島書房1987
参考:「よみがえる文字と呪術の帝国、古代殷周王朝の素顔」平勢隆郎著;中央公論2001
参考:「沈黙の王」宮城谷昌光著;文藝春秋1992
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2008/09/12/fri/ Ysasa

▼ Rep-3

「光も音もないコミュニケーション」

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点字、あなたは読めますか?

日本語には、漢字-平仮名-片仮名-ローマ字、数字までは数えられますが、点字は指折られません。ユニバーサルを謳う現代なのに、記述されている情報内容が分らないのなら、コミュニケーションは形骸化してしまいます。さあさあ、点字の勉強をご一緒に、すこしずつ始めましょう。

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点字は、世界が求め続けていたコミュニケーションツールでした。日本には1879年(明治12)、アメリカパーキンス盲学校からの点字技術情報が紹介されました。初代校長で医師であったサミュエル・ハウと盲ろうのローラ・ブリッジマンの教育、視覚障害者でパーキンス教師のアン・サリバンと盲ろうのヘレン・ケラーの教育で、世界中の歓喜感動を生む学校です。同校は、ブライユ(Braille)点字を基盤に応用開発した独自の米語版点字:修正点字Modified brailleを1878年に確立していました。(参照:点訳のてびき:全国視覚障害者情報提供施設協会://www.naiiv.net/) (参照:パーキンス盲学校HP://www.perkins.org/
 そのブライユ(Braille)点字は、フランスの若者が編み出した、6点の希望の光です。1824年、パリ王立盲学校に在籍していた当時16歳の全盲フランス人ルイ・ブライユ(Louis Braille)君は、仏軍人シャルル・バルビエ(Charles Barbier)発案の暗号夜間書法を改編・応用して、盲人が簡易に読み書きできる試作文字を作りだしました。たった6つの点の組合わせで、26文字のアルファベットと10文字の数字、それにいくつかの補足記号のすべてを表現してしまう画期的な文字システムです。「文字」ではあるのですが、その文章は「単音」でもある「アルファベット」の連続表記です。

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ニホンゴ」テンジワ」スベテ」カナモジ」

日本語版ブライユ点字は、1890年(明治23)東京盲亜学校教員の石川倉次氏が創案した「カナ」文字仕様です。漢字文化も伝えようと、1969年(昭和44)川上泰一郎氏による8点式の「漢点字」も開発されました。読み出す時、日本のことば、語彙イメージを呼び起こすため、感性は磨かれるのでしょう。前項の「ひふみうた」など、贅沢すぎる疑問だったかもしれません。

全盲でしかも全ろう、ヘレン・ケラー女史と同じ大きなハンデを背負いながら、日本で初めての大学教授になられた福島智さん(東大先端科学技術研究センター助教授;08年5月東京大学博士号取得)の言葉から——私が最もつらかったのは、見えない・聞こえないということそれ自体よりも、周囲の他者とのコミュニケーションができなくなってしまったということです。私から声で話すことはできました。しかし、相手の返事が聞こえず、表情も見えない私には、会話をしようという意欲さえなくなっていきました。コミュニケーションとは、双方向的なものなのだな、とそのとき理屈抜きにつくづく実感しました。もう一つ強く実感したのは、人間には、空気や水や食べ物と同じように、コミュニケーションが生きる上で不可欠なものなのだな、ということでした。——

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コミュニケーション

想像もできない、つながる術のない、不安も愚痴も消え去らない、孤立の世界なんて。歪んだ世界にひかりを導くのは、人との会話なんでしょう。福島先生のお母さんがあみだした偶然も、指点字という会話だったとか。祈りや行動も重要ですが、日々の何気ない会話が、本来コミュニケーションなのですから。

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2008/10/09/thu/ Ysasa

▼ Rep-4

「落書き—歪んだコミュニケーション」

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感動をどこに置いてきてしまったんだろう?

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町中に、いいえ世界中に、「落書き:Graffiti」というラベルを貼られた代物が蔓延しています。公衆トイレは言わずもがな、ガードレールに電柱、廃墟ビルや倉庫、公共電車であろうが国定公園内であろうが、国宝級建造物であろうが、ところはばからず。これではまるで権勢症候群に陥ったボス犬です。マークアップする道具をその場で手にする不自然さ、気付かなければなりません。らくがき……嫌な響き。他人や公共の所有物に、無断で、描きなぐられた文字や絵。所有者はがっかり、降って湧いた災い。世界共通の犯罪。対象物に目鼻耳口、手足がないことをいいことに、自己欲求だけThrow-up。ねえ、天国のキース・ヘリングさん、何とか言ってよ!バスキアさんも、どう思う? ペルソナのままでいいからさ、UKバンクシーさんも考えて欲しい。あなた方はKING Writerです。最初から罪を背負うアートがあったとしても、真理に相反するパブリックアートなんてしかし、成立するでしょうか。稚拙なTaggingは、Vandalって言われる始末。ヴァンダル人の末裔に何と釈明するのですか? これでは双方入乱れてハラスメントです。人として恥ずかしい。

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グラフィティで頂上取るには、どうすればいい?

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悪戯には必ず、罰があります。保育園児の頃、私は兄と背比べをして、我が家の茶の間柱にマジックで黒々と、それも堂々とラインを2本書きました、おまけに名前も。すると祖父の頭が大噴火して「柱の身にもなれんのか!この馬鹿者!!」。それから小学一年生、買ってもらった机を洋間に据えて、鴨居に一筆ヨレヨレと覚えたての文字をまたしても油性マジックで「べんきょうするとこ」。今度は父の頭が噴火して「カモイが書いてイイヨと、言ったか?この馬鹿やろう!!」。へらへらと判断おぼつかない学童に、恐ろしいほどの権幕でした。「グラフィティは不法であるが故に、グラフィティである」という哲学は、芸術の的を射ていません。他人の所有物、みんなの共有物を無断で、異なる姿に破壊する行為を不法とするのです、アートを行なう精神と描いた絵を指しているのではありません。グラフィティで頂上取るなら、アートという範疇に殴り入り、調和のベクトル弾を打ち上げるのです。Train-BombだのTaggingシャッターだの、言葉遊びは幼稚です。正真正銘の落書きですか?

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1100mのグラフィティは、不器用に語り続けていました。

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壁はなくなります、横浜桜木町の旧東横線高架下の壁。(2008年10月現在、順次取り壊され、線路跡地の再整備、補強工事中。)掲載は、今はもうないグラフィティ/落書き(1995)。横浜博YES'89で一度は白く塗りつぶしたものの、すぐに無断ペイントが再燃。ライターと東急がイタチごっこで疲れ切っている時期でした。赤レンガ倉庫はさらに惨憺たるもの、白スプレー文字に毒され、見るも無惨な体でした。ガードウォールに沿って歩いてみると、桜木町駅舎付近はほとんど荒れた書き殴りのタギングがまばら、紅葉坂あたりに時の尊氏キャラもありました。雪見橋までくるとやっとピースらしくなるのですが、進むほどにGo-overされてさらに複雑になり、初根荘のあった内田町第1架道橋あたりでやっとグラフィティに出会える気がしたことを、よく覚えています。ライターの罪の心理が見えるような、1100mの歪んだコミュニケーションの流れが印象的でした。2004年の高島町-桜木町間の廃線以降、横浜市管轄のお絵かきスペースと化したドラゴンは、骨が抜かれ死にました。

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グラフィティはライブ

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不法行為を正当化する気持はありません。ライターたちの成熟・未熟に関わらず、弾き出るエネルギー、創作パワーを認めたいのです。ある商業施設企画の創作ジャンクデザインに頭を抱えていた頃です。ここ桜木町ガードに来てはそのイメージを持ち出し、現場施設シーンに当てはめようとしましたが、巧くいきません。グラフィティは、それを取り巻く環境すべてを吸着している装置だったからです。騒音も埃臭さも、空気も、そして問題の道徳性も、すべてをのみ込んでいるのです。四六時中、同じであることがないのです。これこそがグラフィティパワーだと考えました。表面だけ格好つけても、グラフィティには到底なり得ないのです。固定された限定疑似空間で、映画のようなライブ感を発生させようとする演出ディズニーとは違うのです。グラフィティの現実/非現実のシンクロ瞬発力と、周囲を巻き込むライブ発信力は、想像以上のエネルギー集積であることがよくわかったのです。

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初めての落書きは、何ですか?

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象徴行動ではないかとも思える「文字書き」連鎖反応です。グラフィティの鉄則として、描かれたピースの上にはより精度の高いグラフィティを画かなくてはいけないのですが、記憶に残る「らくがき」シーンはどれも、だれかれが寄せ書きの最上級といえるくらい書き込んだ、まさにCross-out状態でした。ルールがなくても上書きが行なわれるのです。そして残念ですが、(らくがきは)してはいけない行為だとみんな気付いているのです。環境が誘発するのか、書かれた文字が挑発するのか、科学的な根拠はありません。左写真の、演出用に掲示された疑似地図に、色が変わる程無数に書き込まれた「落書き」状態が、偶然なのか、必然なのか、それとも念入りに計画された戦術なのか、想像する以外に方法はありません。

どうして落書きするのですか? 私たちは子どもの頃から、たくさん文字の練習をしてたくさん線を引いて、絵を描いてきたはずなのに……!そうでした、国語や算数・数学に英語の、三分の一にも満たない美術授業でしたね。感動を描く、そんな暇はなかったかも。私たちは、芸術に感動する訓練を置き去りにしてきたのです。

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2008/11/03/mon/ Ysasa

▼ Rep-5

「算数なんて嫌いだ。」

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1000万の1/10の数??

教科書内の質問「100万、1000万の10倍の数はそれぞれどんな数でしょうか?」また「1000万、1億の1/10の数はそれぞれどんな数でしょうか?」
 教科書内の解説:整数は位がひとつ左へ進むごとに10倍に、位がひとつ右へ進むごとに1/10になる仕組みになっています……。

さて上記の教科書の日本語、おかしな文ですね。「1/10倍の数」「1/10倍になる」とか「十分の一」「十等分」とか、数字の語彙化をしない日本の「数学語」に苦しむのです。
 子どもの頃の笑い話:少年野球のプレイサインで監督が「いいか、俺がタオルで顔を拭いたら盗塁だぞ」と決めたけれど、当日の日照り暑さで顔首を拭くわ拭くわ。選手はエッ、エエッ??と戸惑うけれど、監督サインだからベースめがけて走る、走る。あまりに紛らわしいので監督からタオルを取上げたキャプテンは「監督、サイン、守ってください!」と苦言。
 この「1000万の1/10の数」も戸惑いは同じ。やっと習った分数と違う表現の分数が、当然の顔をして「問題」や「解説」の側の文中に並んでいると混乱するのです。監督が決めたタオルサインを自身で守らず、暑くて当然のように顔を拭ったり、英語教師が年号を「ナインティーンごじゅうご」と読んだりするようなもの。会話は「〜分の一にする」、記述なら「〜等分する」など日本文は編めるのに。数字の横柄な使い方「小学校4年生の算数上」掲載の一例でした。

写真は、「塵劫記じんこうき」の上巻、桁の紹介ページ。江戸前期の算学者、吉田光由(1598〜1672)が著した数学の入門書(寛永4年1627年版)です。生活に密着したわかりやすい実用の算学であったため、広く世間に受入れられ、一家に一冊と言われるほどのミリオンセラーいや、塵劫セラー。人望に厚く、商才も土木術も優れた祖父 角倉了以すみのくらりょうい(1554-1614)の算術に対する思いも、重版の大きな支えとなったことは間違いないでしょう。ゆったりとありたいですね、くらしに根ざす算数・数学の教科書は。(塵劫:法華経の教え、永遠に等しい数えきれない数の比喩から、普遍の真理を指す)

参考:「塵劫記」東北大学附属図書館 「資料を探す」>「デジタルコレクション」>簡易検索入力
Eukleides-Elements-1482

理論より難解な、数学の日本語。

問題「バスは今から、−10分前に発車して、東に−5km進みます。」 この文を普通の言い方に直しなさい。(正負の数の学習数学テストより)
 正解「バスは今から、10分後に発車して、西に5km進みます。」

温度計、通帳、歴史年表、生活の中でいろいろな「正負の」実例を見つけては、学習意欲を子どもは高めます。それなのに、どんどんかけ離れて嫌な数学になる。それは算数/数学の日本語、「数学語」に悩み始めるからです。算数から数学への「数学語」落差は、とても大きい。大人たちは今一度、小中学生の子どもたちが学ぶ算数/数学テストに、お付合いしてみてください。「複雑だなあ」と感じる表現の問題に出会うたび、数学嫌いの原因に気付かれるはずです。基礎だからこそ、おもしろい!と直感できる言葉、表現であって欲しいと思います。数字の横柄な使い方_中学1年生数学の一例でした。

写真は「原論 Elements」ヴェネツィア1482年版の第1卷、第1章-定義より。ご存じアレキサンドリアの数学者エウクレイデスEukleides(英名ユークリッドBC365?-AD275?)が編著した、数学教科書の世界基準です。全13卷。完成は紀元前300年頃と言われています。自国の言葉に翻訳しようと人から人へ、千年を経てもなお印刷機にかけられ、聖書に匹敵するか?!とまで言わせる程に、世界の言語で版が重ねられました。1482年以来、それは現在も続いているのです。これは「塵劫記」と同じく、数学の複雑な世界を単純・簡易化する理論こそ、数の学問を志す世界中の人々にとっての望みである、そう証しているのだと思います。

参考「原論 Elements」金沢工業大学ライブラリーセンター「工学の曙文庫」110選より「幾何学原論 ユークリッド(エウクレイデス)」
Queen's College Sundial

時の数字は、憧れへの入口

子どもの頃、鴨居の上で右、左と振れ動く振り子の柱時計を見上げては、見えない時間が見えるような気がして、文字盤上に円く並ぶ十二の数字を、穴が穿くほど凝視したものです。某時計ショップロゴ開発の際、日本で時計数字と呼ばれているそのローマ数字に、のめり込みました。アルファベット文字だとばかり思っていたのに、「」も「」も「」もそうじゃなかった。算用数字と日本で呼んでいるアラビア数字も、アラビア文字でもインドのデーバナーガリ文字でもない。実は漢数字も、漢字文字ではないことを最近知って驚きました。数字は文字じゃない、特殊な記号ということになります。

ローマ数字の記号イメージは、どこか荘厳です。直線的な字形はまるで、フォカスFocasの記念柱や、聖アンドリュー・クロスSaint andrew's Crossなどを想起させます。時を計る、時を刻むという天的な装置には最適の「記号」なのかもしれません。「 Roman-No.4(Unicodeなく画像)」と刻む形も、人の行動として至極根元的であることを、数字の歴史研究家ジョルジュ・イフラーの著述から知りました。神秘性をローマ数字が帯びるのは、宇宙に似て、空:ゼロという概念を持たなかったからかもしれないと、幼稚な頭で考えます。

写真は英国ケンブリッジの、クイーンズカレッジ(1448年ヘンリー6世王妃マーガレットによる創設)に現存する壁面式日時計の文字盤。参照先の大学によれば、アイザック・ニュートンによるデザインだという「噂」の、1642年設置の年代物。経年で劣化する盤面を、丁寧に慎重に補修・調整・新調し続けて現代に至っているとか。数字の魔力、いえ魅力は褪せることなく、確実に未来へ、未来へと時を繋いでいます。学校の算数・数学も、そんな数字の楽しみを、誰もが望んでいるのです、暮らしに役立つ数字の学問を。

参考:「数字の歴史」ジョルジュ・イフラー著;平凡社1988
参考:「零の発見」吉田洋一著;岩波新書1939
参考:クイーンズカレッジ日時計:英国クイーンズカレッジ のSundial項より
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