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検証 内ゲバ
日本社会運動史の負の教訓








 
いいだもも・生田あい・栗木安延・来栖宗孝・小西誠著
出版元: 社会批評社 
四六判 345頁 並製
2300円+税
ISBN4-916117-47-6 C0036


 

  目    次
 
序 章 なぜいま内ゲバの検証が必要か ────────────────小西誠 5
第1章 革共同両派の内ゲバの歴史・理論と実態 ────────────小西誠 20
 第1節 内ゲバの前史 20
 第2節 海老原事件と革マル派・中核派 28
 第3節 「内ゲバ戦争」の本格化 39
 第4節 内ゲバの停止を求める文化人の提言 50
 第5節 革共同両派の内ゲバの理論 58
 第6節 中核派の対権力武装闘争への転換と内ゲバ 70
 第7節 新左翼運動と民主主義 74
 第8節 黒田組織論の批判的検討 85
 結 語 党派闘争の倫理基準 91
 
第2章 内ゲバ───その構造的暴力と女性・子ども ────────生田あい 95
 はじめに 95
 第1節 ブントの内ゲバ時代の背景 100
 第2節 内ゲバ時代の只中にキューバから帰国 106
 第3節 わたしの〈内ゲバ〉経験 110
 第4節 〈内ゲバ〉の中の女性・子どもたち 127
 第5節 連合赤軍事件と内ゲバ殺人 140
 第6節 内ゲバの思想・理論を考える 153
 本稿を終えるにあたって 183
 
第3章 内ゲバの主要因── 新旧左翼の唯一前衛党論 ────────栗木安延 186
 第1節 内ゲバの要因分析 186
 第2節 唯一前衛党論の批判 194
 第3節 統一思想の欠如 206
 第4節 大衆路線戦略の欠如 217
 第5節 内ゲバの日本的な要因 222
 
 
第4章 スパイ、転向、内ゲバで潰滅した戦前日本共産党 ──────いいだもも 237
 第1節 日本の革命運動の伝統の革命的批判 237
 第2節 戦前共産党の発展と崩壊 250
 第3節 スパイに潰された日本共産党 261
 第4節 宮本「スパイ・リンチ」事件の党史的意義 272
 第5節 新左翼にも通じる共産党の内ゲバ 287
 
第5章 日本共産党の「五〇年問題」と党内抗争 ────────────栗栖宗孝 302
 第1節 「五〇年問題」の意義 302
 第2節 「五〇年問題の経過」(その一) 305
 第3節 朝鮮戦争と共産党中央委員らの追放、分裂の激化 318
 第4節 「五〇年問題」の経過(その二) 326
 第5節 新左翼に繋がる「内ゲバ」 330
 第6節 「内ゲバ」の主要要因 341
 
序 章 なぜいま内ゲバの検証が必要か
                                   小西 誠
  内ゲバの死傷者
 
 本書は、「検証 内ゲバ」について約一年間の共同研究の報告である。日本社会運動の崩壊的危機の主体的要因である内ゲバに触れることは、当事者にとっては重くてつらい課題だ。当事者のみか、運動全体にとっても内ゲバは、忘れ去ってしまいたい問題である。
 膨大な死傷者を生じせしめたこの内ゲバについて執筆することは、私自身、当事者のひとりとして真摯な自己反省なしにはすまされない。だが、深い自己反省も必要であるが、内ゲバの根本的原因の思想的解明を行うことなしには、その犠牲者たちは追悼されない。
 恐らく大半の人々は、今さらなぜ内ゲバなのか、と問うかもしれない。なるほど確かに内ゲバは、七〇年〜八〇年代と比べてはるかに少なくなっている。しかし、少なくなっているとはいえ、内ゲバを発生せしめた根本的動機・要因が何ら変わっていない以上、情勢によっては、いつこれが再燃するか分からない。この新たな内ゲバを防ぎ、根本から廃絶するためにも、内ゲバの思想的解明が必要になっているのだ。
 内ゲバが激化していた七〇年代から、今日、すでに三〇年が経過しつつある。私たちは、日本での社会運動・左翼運動後退の最大の要因といえるこの内ゲバについて、そろそろ歴史的検証に取りかかるべきではないか。
 内ゲバを検証するにあたっては、その死傷者数を把握するところから始めてみよう。内ゲバによる正確な死傷者数は、これまでのところ発表されていない。
 インターネットを駆使し、各種資料を総合して判断すると、その死亡者は総計一一三人、負傷者は約四六〇〇人以上、発生件数は約一九六〇件以上である。この場合、負傷者・発生件数とも概算である。というのは、内ゲバの多くは、特に革共同両派や革労協以外の新左翼党派では、内ゲバは隠密に内部で処理されているからである。だから、負傷者数・発生件数は、この数字よりもはるかに多いと言わねばならない。
 左の表は、発生年度ごとの死亡者数である。
 
●年度別内ゲバ死亡者統計
 69年2人 70年1人 71年8人 72年14人 73年2人 74年11人 75年21人 76年3人 77年10人 78年7人 79年8人 80年8人 81年2人 82年1人 83年0人 84年0人 85年0人 86年2人 87年0人 88年1人 89年3人 90年0人 91年0人 92年1人 93年1人 94年〜98年0人 99年〜01年7人
 
 これを党派別にふるいわけてみると、次のようになる。
●党派別内ゲバ死亡者内訳
 中核派による革マル派への攻撃での死亡 48人
 解放派による革マル派への攻撃での死亡 23人
 革マル派による中核派・解放派への攻撃での死亡 15人
 中核派ー元中核派での内ゲバによる死亡 1人
 解放派内での内々ゲバによる死亡 9人
 マル青同による攻撃での死亡 1人
 京浜安保共闘内での内々ゲバによる死亡 2人
 連合赤軍内でのリンチによる死亡 12人
 ブント内での内ゲバによる死亡 1人
 民青による革マル派への攻撃による死亡 1人
 [註、連合赤軍内の死亡者数は、発見時の年度にした。]
 
 この内ゲバの死傷者統計で明らかなことは、死者・負傷者の異常な数である。特に七〇年代前半から半ばにかけて、それはある種の「戦争」ともいえるほどの死者が出ている。そして、この統計に表れていないのが内ゲバの中で「廃人」と化したり、「障がい者」となった人々、自殺した人々である。これらの人々の数はまったく不明だが、内ゲバの様相からして相当の数にのぼることは推定できる。 
 また、この統計で明らかなもうひとつが、内ゲバは、新左翼の全党派を巻き込んでいるばかりか、日本共産党をも巻き込んで起こっていたことである。つまり、内ゲバはすべての社会運動・左翼運動が根本的に内包していた問題であったのだ。 
 
  左翼運動後退の主体的要因
 
 ところで、日本における新左翼運動の崩壊、ひいては左翼運動の後退の要因は、客観的にはソ連・東欧の崩壊による「共産主義への根本的疑問」を歴史的背景としている。だが、その主体的要因は、内ゲバに代表される左翼運動の思想的荒廃にあることは、誰の目にも明らかだ。
 この内ゲバという左翼運動内部のモラルの崩壊は、同時に党や組織への疑問であり、それらが掲げてきた共産主義―人間解放という思想への疑問であり、運動を担っている人々への根本からの不信として現れたのだ。
 ところが、にもかかわらず、この内ゲバを発生させてきた思想と運動・組織の根本的原因の分析・解明は、ほとんどなされていない。もっとも、実践運動の内部では一部においてであるが、この内ゲバを回避するために「共同行動の原則」という努力は行われてきた。
 しかし、実践運動でのこのような原則的な努力だけでは、内ゲバを一時的に回避することはできても、内ゲバ自体を根絶することにはならない。いわんや、「左翼の荒廃」をいやというほど見せつけられている民衆には、何らのメッセージも伝わっていかない。
 今大事なのは、なぜ新左翼運動―左翼運動がここまで荒廃したのか、その原因となった内ゲバをなぜ生じせしめたのかという、その思想的背景を根本から分析・切開し、それを乗り越える思想と実践の展望を広く民衆に伝えていくことだ。日本における左翼運動の解体的再生は、まさにこの根本的切開を除いては一歩も前へ進むことは出来ない。
 私たちのここでの課題は、その最大の当事者である革共同両派においての内ゲバを生じせしめた思想的要因を解明することである。と同時に、その歴史的後退のもうひとつの要因であった連合赤軍内の「内々ゲバ」の解明である。これはまた、連合赤軍事件を発生せしめた共産同―ブント内での内ゲバの検証にも繋がる。
 ところで、これらの内ゲバの思想的背景にあるのは、ソ連型のスターリン主義、特にその「唯一前衛党論」の日本への「注入」にあることは明らかである。しかし、問題はそれがなぜ日本において、独特の内ゲバとして現れたのか、ということを解明することが本稿の最大の課題である。
 言うまでもなく、七〇年代から今日まで膨大な死傷者を出した新左翼の内ゲバの本当の根源を探るとすれば、それはスターリン主義の思想にまで行き着く。
 一九二〇年代から三〇年代、そして戦後に至るまで、ソ連を中心として世界中に広がったスターリニズムは、ソ連国内はもとより、スペイン、中国、ベトナムなど各国でトロツキー派をはじめ、あらゆる反対派をテロルで押しつぶしてきた血の粛清の歴史である。これらの、スターリニズムに対する反対派は、「帝国主義の手先」「スパイ」「反革命」「人民の敵」などのレッテルと悪罵を投げつけられ、そのほとんどが各国の共産主義運動から暴力的・テロル的に圧殺されようとしてきた。 
 しかし、私たちは問うべきだ。このスターリニズムに抗し、それを乗り越えるとして創始された日本の新左翼運動は、なぜ、スターリニズムと同様の反対派へのテロル、内ゲバを横行させることになったのか、と。
 一九六〇年前後から始まり六〇年代に本格化した新左翼運動は、フランス、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパはもとより、アメリカなど世界中に広がっていった。だが、日本を除くこれらの諸国では、運動内部での反対派へのテロル、内ゲバという事態は、ほとんど発生していないと言われている。
 とすると、日本での内ゲバの横行は、単純にスターリニズムの「注入」ということだけでは捉えきれない。スターリニズムの「注入」であると同時に、独特の日本型の思想としてのそれを把握しなければならないだろう。
 私たちが本論で検証する、一九三〇年代および五〇年代の日本共産党内の内ゲバは、言うまでもなくスターリニズム型のそれである。しかし、六〇年代から始まる新左翼運動内での内ゲバは、スターリニズムのそれを踏まえながら、日本型の独特の思想として検討しなければならないだろう。
 
  左翼運動の解体的再生への道
 
 さて、このようにみると、日本における内ゲバの背景、思想的要因は、スターリニズムとその「注入」による「唯一前衛党論」にあることは明らかである。これについては、本論で詳細な検証を行うことになる。
 結論を先に述べておくと、この思想は、党の複数主義を認めない、党内外の反対論・異論を認めない「一党独裁主義」「党内独裁主義」にあるのだ。つまり、党外の反対党の存在を認めない「唯一前衛党」や「一党独裁」は、同時に、党内の異論を認めない「党内独裁主義」(「一枚岩の党論」や民主集中制など)に陥るのであり、逆もいえる。
 言い換えると、「唯一前衛党論」などの理論的注入の背景には、民主主義の軽視があり、真の民主主義を実践的・思想的に作りだしていくことへの無視がある。
 これはまた、スターリン主義論の本質的規定の問題でもある。中核派などの革共同の潮流は、スターリン主義の本質を「一国社会主義」論を軸に展開している。なるほど、スターリン主義をその発生の次元で見れば、「一国社会主義」論を軸に形成されていることは明らかである。だが、スターリン主義は、「一国社会主義」論を発生起源にしたとしても、そこに本質があるわけではないのだ。それはそれをテコとしつつも、党と国家を貫く「一党独裁主義」「中央集権的官僚主義」として形成・確立されたのである。
 ところで、六〇年安保を前後する日本での新左翼運動の歴史的登場は、日本共産党に代わる新たな革命党が続々と誕生していく上では、大きな意味があった。この過程においては、唯一前衛党という「神話」は完全に崩壊していった。
 とりわけ、日本においては、国際共産主義運動におけるスターリニズム的呪縛からの解放がなされ、主体的な運動を作りだしていく大きな契機となった。
 しかし、これらの新左翼運動の潮流は、スターリン主義を乗り越える、日本共産党を乗り越えると言いながら、実際は、これを乗り越えることが出来なかったのである。いや、内ゲバということだけを取り上げるならば、新左翼運動はそれ以下であったといえる。
 こうしてみると、内ゲバを検証すること、その思想的要因を切開・分析することは、今日の新左翼―左翼運動の思想的深化を大いに促進することに繋がる。
 これはまた、二一世紀を迎えた今日の内外情勢の危機と激動の中において、新左翼―左翼運動を「解体的に再生」し、同時に本格的な統一戦線を形成していくことにも連なるものである。混迷し、崩壊しつつある日本の運動の危機を打開するには、こうした根底的な思想的営為を為していく以外にはない。
 
  当事者としての責任
 
 私は二〇〇〇年五月、『新左翼運動その再生への道』(社会批評社刊)という本を刊行した。この本では、私の運動的・組織的経験に基づき、中核派の内ゲバと軍事路線、そして大衆運動や組織論について批判的検討を行ってきた。
 もちろん、中核派のこうした路線を批判的に検討する場合、私自身、当事者のひとりとして自己反省的に検討を加えたつもりである。
 ところが、この私の論考については、おそらく第四インターの関係者と思われる読者から、その内容の全体については肯定しながらも、八三年の第四インターに対するテロ事件について、私自身の反省が弱いのではないか、という指摘があった。この八三年の事件については、第1章で触れているので、詳細は省く。
 指摘された問題は、八三年における中核派の第四インターに対するテロルに対して、当時、私が内部で反対していながら、その反対を公にしなかった、つまり、公然と反対しなかった責任を問う、というものだ。
 当事者にしてみれば、いくら内部で反対を唱えていたとしても、その責任を許容することは出来ないかもしれない。実際、テロルを加えられ、今なおその障がいに苦しむ人の立場からするならば、なおさら当然のことである。この意味では、当時私自身の力が及ばなかったことを深くお詫びしたいと思う。 
 ただ、一言弁明させてもらえるならば、当時私自身が公に反対を唱えることが正しい選択だったかどうか、ということである。言うまでもなく、中核派ではこのような党の路線に対して反対を公言したものは、即除名である。つまり、この当時、中核派との絶縁を賭けて、このテロルに対して反対を公言することが適切な選択であったか、ということだ。
 私は、当時の中核派の第四インターへのテロルはもちろん、軍事主義路線や官僚主義にも反対していた。そして、この中核派の根底的誤りを糺すのは、中核派内部の思想的成熟が必要であると考えていた。これはどういうことかというと、当時中核派は、対革マル派のテロルから対権力への武装闘争へと大きな転換をしていた時期である。つまり、内部は「軍事主義一色」に染まっており、命令主義的・官僚主義的統制が行き届いていた。
 こういう状況の中では、私一人がそれに公然と反対したとしても、私とともに行動するものは皆無といえただろう。
 もちろん、一定の状況の中では、たった一人といえども反対を公言することは、重要だ。私は、これにはまったく躊躇しない。しかし、私自身が七〇年代当初から決意していたのは、中核派をその根底から変革することであり、その時期を待つことであった。私自身の属する反軍戦線内部では、私はこれを遂行していたが、中核派全体の変革のためにはその情勢の成熟を待つことが必要であったのだ。
 そして、九〇年、中核派の軍事主義路線への極端な純化の中で、私はこれを開始することになった。この路線への純化は、中核派の組織的危機を生じさせ、この事態と現実は心ある中核派活動家たちには、ぼんやりとだが見えはじめていたからである。
 こうした、第四インター関係者の指摘は、七〇年代での私の立場についても同様に言えるだろう。中核派、革マル派の内ゲバ戦争をくい止めるために、なぜ公然と反対しなかったのかと。
 私は、先に示した本でも書いたが、七〇年代初頭、内ゲバそれ以前に内部対立で崩壊・解体していく新左翼運動と諸党派に絶望していた。客観的に見ても、それほど大した路線の違いもないのに分裂・対立を繰り返す党派に大きな疑問を感じていたのである。
 そして、そこでの私の結論は、よりベターでしかない党派であったとしても、それに加わり、長期的に時間をかけて、その変革を進めていくということであった。それが「結果として選択した中核派」であったのだ。
 当時のほとんどの活動家たちがそうであったと思うが、当時の私も、自衛隊の中で生涯をかけての闘いを開始し、「よりましな新左翼運動」にすべてをかけて「共闘」していったのである。この新左翼運動は、当時の私の目から見ても大きな思想的・実践的誤りを内包していた。しかし、この誤りは、変革できる性質のものであると認識していた。
 こういう状況の中で、内ゲバは激化していったのであるが、これについても同様である。誰が見ても異様な内ゲバ、人命が軽視され民主主義のかけらもない新左翼運動、これらは根本から変えていくべきものであった。その運動に対して、生涯をかけて起ちあがったものであればなおさらである。
 だが、雪崩のごとく広がっていく内ゲバに対して、人命や民主主義一般の重視を唱えるだけでは、まったく無力である。この状況の中では、諸党派の内ゲバを超える思想的・理論的提起が必要であった。このことを欠落させたのでは、単に分裂に次ぐ分裂を促進するだけになってしまうのである。こういう思いが私にはあった。党派からの離脱は、簡単であっただろう。内ゲバへの公然たる反対もまた、簡単であっただろう。中核派内部でも、内ゲバが激化するにつれて叫ばれ始めていた。「反対するものは去れ」と。
 だが、そうすることは、私にとっては「逃避」以外には見えなかったのだ。
 なるほど、内ゲバ反対を唱える党派も存在したから、公然と内ゲバに反対して、彼らとともに活動をすることも出来ただろう。しかし、この選択は、内ゲバの責任からは免れるが、それを乗り越える思想的発展を作り出すには、無力である、と認識していたのである。
 
  斃れた人々の追悼と顕彰
 
 中核派の第四インターへのテロルや、連合赤軍内のリンチ事件と違い、中核派、革マル派などの内ゲバにおいては、責任のあり方は異なるように思う。
 前者のテロルやリンチ事件は、逃れられない一般活動家たちに対して、一方的にテロルなどを行使したものであり、指導部の責任は重い。
 だが、後者の内ゲバは、双方とも思想・信念に基づく闘いであり、内ゲバの当事者である活動家たちには、離脱する自由も、内ゲバに加わらない自由もあった。にもかかわらず、多くの活動家たちは、「内ゲバ」にそれぞれの党派の未来、革命運動の未来を賭けて闘っていった。内ゲバの死者たちは、自らの信念に基づいて弊れていったのだ。
 もちろん、この思想・信念なるものは、大きな誤りを含んでいたし、その意味では、内ゲバ党派の指導部の責任も重い。しかし、私は、内ゲバのもっと大きな誤りは、日本の革命運動をここまで荒廃させ、退廃させていったことにあるように思う。新左翼運動に関わった膨大な人々は、内ゲバの激化を理由として運動から離れていった。そして、多数の青年たちは、内ゲバを理由に新左翼運動に対して背を向けていった。
 
 こういう意味において、内ゲバでの死者を真に追悼するには、この内ゲバの根本的な思想的解明が必要である。
 しかし、内ゲバに弊れた人々の家族・友人にしてみれば、これだけでは死者の追悼になり得ない。やはり、革共同両派を含む、内ゲバの当事者たちが、内ゲバの根本的反省と思想的解明の上に立って、死者を追悼し顕彰することが必要だろう。
 だがこれは、現時点の中核派、革マル派をはじめとした新左翼党派のあり方からすれば不可能に近い。恐らく、これらの党派の内外で内ゲバについての真剣な検証・総括が行われるとすれば、「古い世代」が退場し、若い世代が登場してきたときにおいてであろう。
[付記 本稿の脱稿直後、社会批評社から『公安調査庁スパイ工作集―公調調査官・樋口憲一郎の工作日誌』という本が刊行された。同書は、作家宮崎学氏、元都学連委員長で弁護士である三島浩司氏が、公調のスパイであるという衝撃的事実を全文、実名入りで公表している。そして、同書の中には、この三島氏の「情報提供」としてこういう記述がある(第一部二〇頁)。
「今の革共同の中心人物の水谷とも今年会ったが(早大のよしみ)、堂々としていてすごく大きな人間になった。『八・一路線』の推進者と言っていた。陶山と共に対革マル戦を収めるべく革マル派実力者塘(書記長)と話しあったという。」
 つまり、同書には中核派、革マル派の双方が内ゲバの停止についての「会談」を行ったという驚くべきことが記述してある。この記述がもしも事実とするならば、これは大いに歓迎すべき出来事である。すなわち、四半世紀にもわたって「内ゲバ戦争」を繰り返してきた当事者たちがその停止について合意をした、という重大なことだからである。そして状況的には、この「会談」以後、両者の間には内ゲバといえるほどのものは全く発生していないし、その死傷者も出ていないことから、この「会談」は、ほぼ事実であると推定される。
 しかし大きな問題は、この「会談」内容が中核派、革マル派双方のすべての活動家たちには(指導部の相当部分を含めて)何も知らされていないということだ。双方の活動家たちは、相変わらず大衆運動の現場では、暴力的衝突には至らなくても激しい対立・抗争を繰り広げているのが現状である。
 ところで、数年前、ある中核派系の労働運動指導者のひとりは、清水丈夫「議長」に「内ゲバの終結宣言」を社会的に行うことを「進言」したのであるが、これを拒否されたという。これは大衆運動・労働運動を担う活動家たちにとっては切実な思いであろう。だが、必要なのは「終結宣言」だけでなく、その思想的解明であり、犠牲者の追悼である。
 だからこそ、中核派、革マル派双方とも、この「会談」について内部ではもとより、社会的に公表・公開する義務がある。そして、これこそが内ゲバの死者を追悼する第一歩である。] 
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