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青春の岐路
火野葦平戦争文学選 別巻





 
火野葦平著  
出版元: 社会批評社 
4-6 237ページ 並製
1500円+税
ISBN4-907127-17-6 C0093
       

目 次
火野葦平戦争文学選別巻 目 次

 青春の岐路  3
 編集部解説  234 
 
編集部解説

 本書の底本は、「火野葦平兵隊小説文庫8」(光人社刊)『魔の河』の「青春の岐路」に収められた長編であり、発表初年月は、一九五八年である。
 本書の主人公・辻昌介は、まぎれもなく火野葦平自身であり、これは彼の自伝的小説である。

 火野葦平の兵隊小説のなかでは、 彼の中国戦線をはじめとする戦争記は広く知られているが、これ以前の軍隊への入隊に至る経過とその体験などはあまり語られていない。

 火野葦平は、早稲田大学の在学中に陸軍の幹部候補生である「一年志願兵制度」を志願して入隊した。本来、この制度の入隊者は、除隊時には軍曹・曹長へ昇任し、試験に受かればその後、少尉に任官する。しかし、火野は幹部候補生終了後には伍長にしか昇任せず、その後に召集された中国戦線でも長い間この階級のまま過ごすことになる。その理由は、本書に詳しくしたためられているが、彼が軍隊内で「コミニスト」の烙印を押されたからだ。

 もっとも、これは火野自身が軍隊内で何らかの活動をしていたからではなく、彼がコミニスト(共産主義)に関係する書物を読んでいたことが理由とされている。この事情は、今まであまり知られていなかったが、学生時代に長年、小説家を志していた火野が、小説家志望を断ち切ってまでして、自らコミニスト活動へと動かされたことが状況としてあるようだ。

 『青春の岐路』の書き出しは、火野が上海での務めを果たし、故郷の北九州若松に帰ってきたところから始まっているが、この仕事は、一九三二年の「上海事変」に際し、石炭荷役のために彼の生家の石炭沖仲仕たちとともに、上海へ出張したことである。火野葦平は、この前年に若松の沖仲仕たちを「若松港沖仲仕労働組合」に組織し、自ら書記長に就任、同年八月には洞海湾荷役のゼネストを決行したと言われている。

 この時代、石炭荷役を担う沖仲仕たちは、三菱・麻生などの独占的石炭資本の搾取のなかで、極端に貧しい最底辺の肉体労働者として酷使されていた。また、この一九三〇年前後には、日本全国を覆う大恐慌のなかでの労働者の組合結成とストライキが広がり始め、その運動は同時に青年学生たちをコミニズム運動へと引き入れていった。

 火野葦平が、日本で初めてという沖仲仕労働組合を結成し、コミニズム運動に加わった動機もこういう時代の流れのなかにあったのだ。

 『青春の岐路』は、この沖仲仕労働組合の結成に至る前の段階で終わっているが、当時の組合の結成やゼネストの決行は、直ちに特高警察の重要監視の対象になったことは予測される。そして、その後、この特高警察の監視・弾圧のもとで、火野自身がどのように「転向」したのか、それは明らかになっていない。

 しかし、当時のアジア・太平洋戦争に突き進む日本の凄まじい状況の中で、火野の行動を誰も責めることはできないだろう。
 
 このような経過を経て火野葦平は、一九三七年七月七日の盧溝橋事件を契機とする、日本軍の中国への侵攻――日本軍の予備役の動員開始――という事態のなかで、陸軍第十八師団歩兵第百十四連隊(小倉)に召集(下士官伍長)され、同年十一月には、中国・杭州湾北砂への敵前上陸の戦闘に参加した。

 以後、中国侵略戦争が急激に拡大していくなか、大陸各地に転戦するとともに、太平洋戦争が進展していく過程では、フィリピン戦線・ビルマ戦線など、アジア全域の戦争にほとんど従軍していく(一九三八年の芥川賞受賞以後は、「陸軍報道部」に所属する)。

 この一九三七年十一月からの、火野の最初の戦争を記録したのが、『土と兵隊』(火野葦平戦争文学選第1巻所収)であり、同年十二月から翌年四月までの杭州駐屯警備を記録したのが、『花と兵隊』(同第2巻)だ。 

 火野は、この杭州に駐屯しているときに『糞尿譚』で芥川賞を受賞し、それがきっかけで陸軍報道部勤務を命じられた。そして、この最初の従軍記録である一九三八年五月からの徐州作戦が、『麦と兵隊』(同第1巻所収)として発表されている。
 火野は、この「兵隊三部作」で一躍「兵隊作家」として有名になり、以後、軍報道部所属の作家としてアジア各地に転戦していくのだ。

 こうして火野は、一九三八年七月から始まった武漢攻略戦と同時の広東作戦(「援蒋補給路」の遮断のための、香港の近くのバイアス湾に奇襲上陸――同年十月、広州占領)に参加したが、これを描いたのが、『海と兵隊』(同第5巻所収)だ。

 その後、火野は一九三九年二月、中国最南端の海南島上陸作戦に参加し、『海南島記』を、また、一九四二年三月には、フィリピン作戦に参加し、『兵隊の地図』(同第3巻所収)などの多数の長編・短編を発表している。さらに、一九四四年四月からは、アジア・太平洋戦争史上、最悪の作戦と言われたインパール作戦に従軍し、『密林と兵隊』(原題「青春と泥濘」同第4巻)を発表した。

 以上は、アジア・太平洋戦争の時期を描いた作品だが、戦後の「戦犯」指定解除後に、旺盛な執筆を再開した。火野自らの「戦争責任」などについて、全編でその苦悩を描いたのが、四〇〇字詰めの原稿用紙一千枚に及ぶ『革命前後(上下巻)』(同第6・第7巻)だ。

 このように、火野葦平がアジア・太平洋各地の戦場を歩いて執筆した戦争の記録は、驚くほどの多数にのぼっているが、 この全編の火野葦平の著書には、 彼の戦争体験をもとにしたものが「兵隊目線」から淡々と綴られている。

 中国大陸の、その敵前上陸作戦から始まる、果てしなく続く戦闘と行軍の日々、――しかも、この中国戦線の戦争は、それほど華々しい戦闘ではなく、中国の広い大地の泥沼と化した道なき道を、兵隊と軍馬が疲れ果て斃れながら、糧食の補給がほとんどないなかでの、もっぱら「現地徴発」を繰り返していく淡々とした戦争風景――。そこには、陸軍の一下士官として、兵隊と労苦をともにする著者の人間観がにじみ出ている。この人間観はまた、火野の著作のあちらこちらで中国民衆に対しても表れている。

 「兵隊三部作」から始まり、『革命前後』で完結する、火野葦平が残したこの壮大な、類いまれな戦争の長編記録といえる小説は、日本だけでなく「アジア――世界の共同の戦争の記録」として、後世に語り継ぐべきものであろう。

 この二〇一六年、戦後七〇周年を経て、私たちは改めてこの「火野葦平戦争文学選」全7巻、同別巻を世に送り出したいと思う。

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