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フィリピンと兵隊
               





 
火野葦平/著
出版元: 社会批評社 
四六判208頁 並製
本体1500円+税
ISBN4-907127-12-1 C0093
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目    次
兵隊の地図  5
木の葉虫   127
鎖と骸骨   139
白 宮 殿  185
編集部解説  202
 
 社会批評社編集部 解説
本書の底本は、「火野葦平兵隊小説文庫2」『土と兵隊』、「同文庫4」『悲しき兵隊』(光人社)に、それぞれ収められた長編・短編である。発表初年月は、「兵隊の地図」が一九四二年八月、「木の葉虫」が一九四三年十一月、「鎖と骸骨」が一九五二年十月、「白宮殿」が一九五〇年一月である。
 
 火野葦平は、一九三七年七月七日の盧溝橋事件を契機とする、日本軍の中国への侵攻――日本軍の予備役の動員開始――という事態のなかで、陸軍第十八師団歩兵第百十四連隊(小倉)に召集(下士官伍長)され、同年十一月、中国・杭州湾北砂への敵前上陸の戦闘に参加した。
 以後、中国侵略戦争が急激に拡大していくなか、大陸各地に転戦するとともに、太平洋戦争が進展していく過程では、フィリピン戦線・ビルマ戦線など、アジア全域の戦争にほとんど従軍していく(一九三八年の芥川賞受賞以後は、「陸軍報道部」に所属する)。
 
 この一九三七年十一月からの、火野の最初の戦争を記録したのが、『土と兵隊』(火野葦平戦争文学選第1巻所収)であり、同年十二月から翌年四月までの杭州駐屯警備を記録したのが、『花と兵隊』(同第2巻)だ。 
 火野は、この杭州に駐屯しているときに『糞尿譚』で芥川賞を受賞し、それがきっかけで陸軍報道部勤務を命じられた。そして、この最初の従軍記録である一九三八年五月からの徐州作戦が、『麦と兵隊』(同第1巻所収)として発表されている。
 火野は、この「兵隊三部作」で一躍「兵隊作家」として有名になり、以後、軍報道部所属の作家としてアジア各地に転戦していくのだ。
 
 こうして火野は、一九三八年七月から始まった武漢攻略戦と同時の広東作戦(「援蒋補給路」の遮断のための、香港の近くのバイアス湾に奇襲上陸――同年十月、広州占領)に参加したが、これを描いたのが、『海と兵隊』(同第5巻所収)だ。
 その後、火野は一九三九年二月、中国最南端の海南島上陸作戦に参加し、『海南島記』を、また、一九四二年三月には、フィリピン作戦に参加し、『兵隊の地図』(本巻所収)などの多数の長編・短編を発表している。さらに、一九四四年四月からは、アジア・太平洋戦争史上、最悪の作戦と言われたインパール作戦に従軍し、『密林と兵隊』(原題「青春と泥濘」同第4巻)を発表した。
 
 以上は、アジア・太平洋戦争の時期を描いた作品だが、戦後の「戦犯」指定解除後に、旺盛な執筆を再開した。火野自らの「戦争責任」などについて、全編でその苦悩を描いたのが、四〇〇字詰めの原稿用紙一千枚に及ぶ『革命前後(上下巻)』(同第6・第7巻)だ。
 
 このように、火野葦平がアジア・太平洋各地の戦場を歩いて執筆した戦争の記録は、驚くほどの多数にのぼっているが、この全編の火野葦平の著書には、彼の戦争体験をもとにしたものが「兵隊目線」から淡々と綴られている。
 中国大陸の、その敵前上陸作戦から始まる、果てしなく続く戦闘と行軍の日々、――しかも、この中国戦線の戦争は、それほど華々しい戦闘ではなく、中国の広い大地の泥沼と化した道なき道を、兵隊と軍馬が疲れ果て斃れながら、糧食の補給がほとんどないなかでの、もっぱら「現地徴発」を繰り返していく淡々とした戦争風景――。そこには、陸軍の一下士官として、兵隊と労苦をともにする著者の人間観がにじみ出ている。この人間観はまた、火野の著作のあちらこちらで中国民衆に対してもにじみ出る。
 
 本巻に収めた「兵隊の地図」などのフィリピン戦線での従軍記にも、火野らしい兵隊目線の叙述が印象に残る。
 米比連合軍約八万人が立て篭もったバタアン半島攻防戦――ここでは、日本兵たちのジャングル生活の日常風景が描かれるが、敵である米比軍の兵士たち、特にフィリピン軍兵士たちのユーモラスな戦場での生活が、生き生きと語られる。
 太平洋戦争開戦後のフィリピン戦線は、日本軍の初期の勝ち戦のなかで、大量の米比軍の捕虜を生み出したが(バタアン死の行進)、この捕虜たちを通して語られる日本軍の占領の実態も、貴重である。「鎖と骸骨」では、その捕虜収容所の悲惨な実態だけでなく、日本軍の宣撫工作の実相も赤裸々に照らし出されている。
 日本は、フィリピンに独立を与えると言いながら、実際は日本語・日本文化などを強制し、一貫して同化政策をとった。だが、この同化政策にもかかわらずフィリピン人たちは、日本の占領に対して激しい抵抗(ゲリラ戦)を行う――ここには「大東亜共栄圏」なるものの、完全な破綻が示されている。
 そして、一九四四年十月、連合軍のレイテ上陸から始まる悲惨きわまりないフィリピンの戦場――ここでは、およそ五十万人の日本軍将兵が戦死し(日本の民間人多数も)、フィリピン市民約百万人が戦禍に巻き込まれ、亡くなったとされている。
 
 この戦場での実態は、大岡昇平などの『野火』などでも描かれているが、まさにこの世のものとは思えない出来事だ。飢餓の極限にまで追い込まれた日本軍の将兵たち(日本の民間人も)は、「本土防衛」のための「長期持久戦」の名の下で、フィリピン各地のジャングルや山野をさまよい、餓死していく。兵隊同士が殺しあい、「人肉」まで奪いあうという、まさしく、この世の地獄にまで行き着いたのだ(本巻所収の「白宮殿」)。
 
 この連合軍フィリピン上陸直後の一九四五年一月、火野葦平は、本来はその戦争の初期と同様に、従軍作家として同国に派遣される予定であった。しかし、火野が出発する直前になって、米軍はリンガエン湾に上陸し、制空・制海権とも完全に失っていた日本から、飛び立つことはできなかった。この出発が少し早かったならば、作家火野はフィリピンの戦場に斃れていたことであろう。それほどフィリピンは、アジア・太平洋戦争の、もっとも過酷な戦場の一つとなったのだ。 
 
 「兵隊三部作」から始まり、『革命前後』で完結する、火野葦平が残したこの壮大な、類いまれな戦争の長編記録は、日本だけでなく「アジア――世界の共同の戦争の記録」として、後世に語り継ぐべきものであろう。
 二〇一五年、戦後七〇周年を迎えるにあたり、私たちは改めてこの「火野葦平戦争文学選」全7巻を世に送り出したいと思う。
 
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