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海と兵隊 悲しき兵隊
 







 
火野葦平/著
出版元: 社会批評社 
四六判202頁 並製
本体1500円+税
ISBN4-907127-09-1 C0093

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目  次
  海と兵隊――広東進軍抄  5
  悲しき兵隊――傷痍軍人たちの戦後  131
  解  説――社会批評社編集部  198
 
【註】
   本書の底本は、火野葦平兵隊小説文庫『悲しき兵隊』(光人社)である。同書の中に「海と兵隊」  は、「広東進軍抄」として収められているが、本書は原題の「海と兵隊」(1938〜39年  毎日新聞夕刊連載)に書名を戻し、合わせて「悲しき兵隊」を原題のまま収めた。
   なお、本書には、今日からみると不適切とみられる表現が多々あるが、時代的な制約を勘  案し、原作者の意思を尊重して原文のまま掲載した。
 
 社会批評社編集部 解説
 火野葦平は、一九三七年七月七日の盧溝橋事件を契機とする、日本軍の中国への侵略―日本軍の予備役の動員開始という中で、陸軍第十八師団歩兵第百十四連隊(小倉)に召集(下士官伍長)され、同年十一月、中国・杭州湾北砂への敵前上陸の戦闘に参加した。
 以後、中国侵略戦争が急激に進展していく中で、中国大陸各地に転戦するとともに、アジア・太平洋戦争が拡大していく中では、フィリピン戦線・ビルマ戦線など、ほとんどアジア全域の戦争に従軍していく(一九三八年の芥川賞受賞以後は、陸軍報道部に所属する)。
 この一九三七年十一月からの、火野の最初の戦争を記録したのが、『土と兵隊』(抗州湾敵前上陸記)であり、同年十二月から翌年四月までの杭州駐屯警備を記録したのが、『花と兵隊』(杭州警備駐留記)だ。 
 火野は、この杭州に駐屯しているときに『糞尿譚』で芥川賞を受賞し、それがきっかけで陸軍報道部勤務を命じられた。そして、この最初の従軍記録である一九三八年五月からの徐州作戦が、『麦と兵隊』(徐州会戦従軍記)として発表されている。
 火野は、この「兵隊三部作」で一躍「兵隊作家」として有名になり、以後、軍報道部所属の作家としてアジア各地に転戦していくのだ。
 こうして火野は、一九三八年七月から始まった武漢攻略戦と同時の広東作戦(「援蒋補給路」の遮断のための、香港の近くのバイアス湾に奇襲上陸――同年十月、広州占領)に参加したが、これを描いたのが、本書の原題『海と兵隊』(広東進軍抄)だ。
 その後、火野は一九三九年二月、中国最南端の海南島上陸作戦に参加し、『海南島記』を、また、一九四二年二月には、フィリピン作戦に参加し、『兵隊の地図』などを発表している。さらに、一九四四年四月からは、アジア・太平洋戦争史上、最悪の作戦と言われたインパール作戦に従軍し、『密林と兵隊』(原題「青春と泥濘」)を発表した。
 以上は、アジア・太平洋戦争の時期を描いた作品だが、戦後の「戦犯」指定解除後に、旺盛な執筆を再開した。
 その戦後における兵隊の苦難を描いたのが、本書収録の『悲しき兵隊』である。古い世代は記憶に残っているが、一九七〇年前後までには、例えば東京・上野公園前には、「傷痍軍人」たちが白衣を着て歌を歌いながら、戦争障がいへの寄付を求める姿があった。戦後、白眼視された兵隊たち、とりわけ傷痍軍人たちには、それ以外に生きていくすべがなかったのだ(大島渚監督は、日本政府による朝鮮・韓国人の傷痍軍人[元日本兵]たちの切り捨てを、ドキュメンタリー『忘れられた皇軍』の中で描いている)。
 そして戦後、火野自らの「戦争責任」などについて、全編でその苦悩を描いたのが、四〇〇字原稿用紙一千枚に及ぶ『革命前後(上下巻)』(小社復刻版)だ。
 このように、火野葦平がアジア・太平洋各地の戦場を歩いて執筆した戦争の記録は、おどろくほどの多数にのぼっているが、この全編の火野葦平の著書には、彼の戦争体験をもとにしたものが「兵隊目線」から淡々と綴られている。
 中国大陸の、その敵前上陸作戦から始まる、果てしなく続く戦闘と行軍の日々、――しかも、この中国戦線の戦争は、それほど華々しい戦闘ではなく、中国の広い大地の泥沼と化した道なき道を、兵隊と軍馬が疲れ果て倒れながら、糧食の補給がほとんどない中で、もっぱら「現地徴発」を繰り返していく淡々とした戦争風景――。そこには、陸軍の一下士官として、兵隊と労苦をともにする著者の人間観がにじみ出ている。この人間観はまた、火野の著作のあちらこちらで中国民衆に対してもにじみ出ている。
 だが、他方で現地徴発を繰り返し、さまざまなところで中国の大地を侵していながら、そこには「侵略者」としての自覚は、ほとんどないし、この戦争の非人間性のついての自覚もほとんどない。
 
 「多くの兵隊は、家を持ち、妻を持ち、子を持ち、肉親を持ち、仕事を持っている。しかも、何かしら、この戦場に於て、それらのことごとくを容易に棄てさせるものがある。棄てて悔いさせないものがある。多くの生命が失われた。然も、誰も死んではいない。何にも亡びてはいないのだ。兵隊は、人間の抱く凡庸な思想を乗り越えた。死をも乗り越えた。それは大いなるものに向って脈々と流れ、もり上って行くものであるとともに、それらを押し流すひとつの大いなる高き力に身を委ねることでもある。又、祖国の行く道を祖国とともに行く兵隊の精神でもある。私は弾丸の為にこの支那の土の中に骨を埋むる日が来た時には、何よりも愛する祖国のことを考え、愛する祖国の万歳を声の続く限り絶叫して死にたいと思った」(『麦と兵隊』)
 しかし、火野は、右の『麦と兵隊』の記述を引用しながら、戦後、自問する(『革命前後』)。
 
 「……これはまちがっていたであろうか。この文章が書かれたのは昭和十三年、まだ戦勝の景気よい時代であったのだが、それから七年経って、敗色は掩いがたいとき、柘榴(ざくろ)の丘で得た感想はたわいもない戦勝時の一人よがりであったろうか。兵隊の運命へのこのようなうなずきは、末期の症状の中では通用しないであろうか。たしかに、いくらかの文学的誇張があったと思う。しかし、嘘は書かなかったつもりだし、今でも嘘ではないと、昌介は頑迷に考えた。祖国という言葉が、今も全身に熱っぽくひろがって来る」
 火野が絶えず思考し、苦悩しているのは、自らの「戦争責任」の所在である。それは戦後の著作『革命前後』『悲しき兵隊』などの著書に、脈々と流れている叙述でもある。しかし、火野は、戦後、GHQの尋問に応えて、「恐らく私がお人よしの馬鹿だったのでしょう。軍閥の魂胆や野望などを看破する眼力がなく、自己陶酔におちいっていて、墓穴を掘ったのでしょう」などと答えているが、本当の解答を見いだしてはいない。
 作家の中野重治は、この火野の著述全体について、「人間らしい心と非人間的な戦争の現実とを何とか調和させたいという心持ち」と表現していたという。この中野重治による火野への視点は、同世代の作家として、同じく苦悩を味わった者が共有するものであろう。「従軍作家」を始め、戦争に協力した多くの知識人らが何らの戦争責任も省みない中で、この火野らの真摯な問いかけは見直されるべきことだ。
 火野葦平は、また「火野葦平選集第4巻」(東京創元社)の解説の中で、「自分の暗愚さにアイソがつき、戦争中の言動を反省して、日々が地獄であった」とも述べているが、この戦争責任との狭間の中で、一九六〇年一月二十三日、自死した。この日は、『革命前後』の初版発行の一週間前である。
 「兵隊三部作」から始まり、『革命前後』で完結する、火野葦平が残したこの壮大な、類いまれな戦争の長編記録は、日本だけでなくアジア―世界の共同の戦争の記録として、後世に語り継ぐべきものであろう。
 来年二〇一五年の、戦後七〇周年を迎えるにあたり、改めてこの火野葦平の戦争文学を世に送り出したいと思う。
 
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