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佐倉の祭礼
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 活動履歴
祭礼の歴史
旧堀田邸「黒門」
右側、麻賀多神社正面
麻賀多神社氏子 並木町(なみきちょう)

並木町は、新町の北西に位置する町会で、江戸時代には海隣寺門前から横町大木戸まで松や杉並木があったといわれています。
御神酒所は昭和8年に町衆が積立金をして、町内の宮大工 川名部徳三郎氏が制作したといわれています。鬼板は「並」、懸魚は「松に鶴」の彫刻があります。

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麻賀多神社氏子 袋町(ふくろまち)

袋町は、肴町の曲がり角から坂を下った所に位置し、江戸時代は八軒の店が並んでいたので「八軒町」と呼ばれていたと言われています。また地形が袋小路のようになっているので、いつしか袋町と呼ばれるようになったとも言われています。
現在の御神酒所は昭和11年、表町から譲り受けたものを引き廻していると言われています。佐倉囃子発祥の地でもあります。

麻賀多神社氏子町の御神酒所 
並木町より新町交差点方向

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麻賀多神社氏子 野狐台町(やっこだいまち)

野狐台町は、弥勒町の南端に位置する町会で、佐倉藩の薬草園として拓かれ、梅林が広がり藩主の茶室もありました。
現在の御神酒所は2代目で昭和26年に制作されました。鬼板は「や」の一文字、懸魚は「鶴と松」の彫刻が施されています。囃子台の水引幕には「や」の字と的矢をかたどった二重丸が染め抜かれています。

肴町より袋町入口の坂

麻賀多神社氏子 宮小路(みやこうじ)第1町内会

宮小路町は、麻賀多神社の近くにある町で神社があるということが地名の由来といわれています。現在は第一町内会、第二町内会と二つの町会で祭礼を行っています。
御神酒所は2代目で昭和32年に宮大工の川名部氏によって制作されたと言われています。鬼板は雲に「宮」、懸魚は「松に鶴」が飾られています。


新町より鏑木町方向
麻賀多神社氏子 鏑木町(かぶらぎまち)

麻賀多神社は鏑木村の産土神社であった為、秋祭りの主役である御神輿を担ぐ者は代々鏑木町の青年が奉仕し、現在もその伝統は続いています。
現在の御神酒所は二代目で鏑木町の大工 川名部良一氏の手によるもので昭和62年に新調されました。鬼板は「鏑」、懸魚は「松と鶴」の彫刻が施されています。


麻賀多神社氏子 栄町(さかえちょう)

大正の終わり、鏑木町小田野に京成佐倉駅ができました。昭和37年、この駅が北側に100メートル程移転し、駅跡の周辺が区画整理され商店や住宅が建ち始め、町の発展・繁栄を願い栄町と呼ばれるようになりました。
現在の御神酒所は二代目で平成元年に諏訪の宮大工によって新調されました。鬼板は雲に「榮」で懸魚は「雲龍」「鳳凰」の彫刻が施されています。


麻賀多神社氏子 中尾余町(なかびょうまち)

中尾余町は仲町の北側に位置し、寛文年間以降、武家屋敷増設に伴いできた町と言われています。尾余とは低地に突き出た台地のことを言い、地形の呼び名が町名になったのではないかといわれています。祭礼では、町内御輿を担いで参加しています。


麻賀多神社氏子 宮小路(みやこうじ)第2町内会

宮小路第二町内会は、「武家屋敷」が建ち並ぶ町会です。昭和中期、高橋板金制作の町内御輿と小型の屋台があり祭礼をおこなっています。祭礼中には町内に風情のある万灯がたくさん掲げられています。


栄町より京成佐倉駅方向
麻賀多神社氏子 最上町(もがみちょう)

最上町は佐倉小学校の北側一帯の町で、佐倉城築城にあたって、出羽の国の藩士が移り住んだので最上町という町名になったのではないかといわれています。祭礼では、町内御輿を担いで参加しています。