3 昭和24年 栄町「大年番」となる
昭和24年の「御通知」に初めて大年番「栄町」の名前が記述されています。
「大年番」制度とは、麻賀多神社の氏子13町会が6組に分かれて1年交代で「大年番」となり、その年の祭礼をとり仕切る制度で、大正7年からおこなわれていましたが、昭和11年に袋町が氏子になり、その後昭和13年に「大年番」をおこなっています。
そして、昭和24年に「栄町」が初めて大年番をおこないました。
栄町がいつ頃氏子に入ったかは、記録が少なくよくわかりませんでした。ただ、戦争が緊迫していた昭和19年、祭礼をおこなうかどうか再度協議をおこなう案内文には氏子として「栄町 清水陽太郎殿」の名前が出ており、この頃には氏子になっていたと思われます。
昭和21年の記述には
「本年度祭礼は復員等により若入増加せるを持って九月中より會号を加さねたり。若衆の意気大にして三日間の祭礼盛大なり」
「御神酒所引き廻しは全町内御神酒所を間之町に集合し夕刻六時より出発し並木町に至り盛大にかかりたる御神酒所娘子軍の祭音頭 若衆連の大漁節等道々行くところ人人人にうずもれたり。」
と書かれています。
これらを基に考えると、戦争が長引き昭和18年は神社御神輿の渡御はおこなわれたが御神酒所の引き廻しはおこなわれず、昭和19年は神社御神輿の渡御も見合わせた。
終戦の年昭和20年は神社御神輿の渡御はおこなわれたが御神酒所の引き廻しはおこなわなかった。
昭和21年は、終戦で佐倉に戻ってきた若人たちによって最終日の16日に全町会の御神酒所が間之町に集合して、新町通りを並木町まで行列を組んで引き廻しをおこなった。
と考えられます。
1、昭和20年 新日本建設の第一歩として御神輿渡御
昭和20年10月11日の麻賀多神社「祭典参列案内文」には
「本年の御祭礼に当たり一同協議の結果、人心の萎縮挽回、新日本建設の第一歩として御神輿も渡御することとなり、来る十月十四日午前十時より御例祭典を厳粛におこなう」
と、書かれています。
また、栄町が氏子に入ったことより大年番6組は下記のように改編されました。
1,横町 並木町 の氏子総代及び町総代
2,上町 宮小路町 同
3,二番町 裏新町、栄町 同
4,仲町 鏑木町 同
5,肴町 中尾余町 最上町 同
6,間之町 野狐台町、袋町 同
4 昭和29年 三年に一度の大祭
今までの調査によってデータ化した祭礼古写真の撮影時期を見ると、昭和21年より35年までは氏子町会が山車や御神酒所を引き廻している写真が残っています。
また、仲町に残っている祭礼記録によれば、昭和29年、32年は大祭で山車と御神酒所の両方の引き廻しをおこなった記録が残っています。
ここに仲町町会に残っている「仲和會 備忘録」というノートがあります。これは仲町祭礼係が書いた昭和17年11月より22年1月までの祭礼記録です。
これによると、昭和18年は御神酒所引き廻しについての記述はなく、昭和20年の記述には
「本年の祭禮は終戦後とて何等見るべき物もないと思いしに思の外に盛大に出来、町内會各氏非常なる喜びなり」
と書かれています。
昭和21,2年 野狐台町御神酒所
2,昭和21年 御神酒所引き廻しの再開
一方、戦時中の各氏子町会の山車、御神酒所等の引き廻しについては、昭和16年に「二番町御神酒所」で芸姑さんが踊っている写真が残っていることから昭和16年は引き廻しがおこなわれていたと思われますが、その後終戦までの祭礼写真は残っていません。終戦の年、佐倉では神社御神輿の渡御が再開されましたが、山車、御神酒所等の引き廻しはいつ頃から再開されたのでしょうか。
昭和30年代前半 栄町御神酒所
昭和20年代後半 弥勒町御神酒所
昭和20年 本町神明神社御神輿、御神酒所
昭和32年 宮小路町御神酒所新調
昭和24年 御通知
昭和21年 渡御
昭和20年8月、敗戦という形で戦争が終わりました。戦争が長引いて食料や物資や不足していた年にもかかわらず、佐倉では終戦の2ヶ月後に神社御神輿の渡御がとり行われました。
戦争が長引き、敗戦という形で終わっても、その年佐倉では神社御神輿の渡御がおこなわれました。
昭和29年 表町御神酒所
佐倉の祭礼の歴史 昭和20年~昭和35年頃 終戦 渡御再開
昭和30年 上町御神酒所
昭和30年 鏑木町御神酒所
昭和29年 仲町山車
昭和26年 野狐台町御神酒所新調
昭和22年 仲町御神酒所
昭和20年 麻賀多神社 祭典参加案内文
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昭和29年 田町御神酒所新調
昭和32年 仲町山車
昭和29年 間之町御神酒所
昭和21年 宮小路町御神酒所
仲町 仲和會 備忘録