HOME
佐倉の祭礼
 山車人形
 山 車
 活動履歴
祭礼の歴史
時代は昭和になり、佐倉に京成電車の駅ができた頃、世界は大恐慌にみまわれ、不況が佐倉にも及びます。そんな中、町方の商人達は工夫をこらし渡御を続けました。しかし、長い戦争がだんだん佐倉の祭礼に影を落とします。

佐倉の祭礼の歴史 昭和初期~戦前 不況、そして戦争
昭和5年 裏新町御神酒所
昭和11年 御通知
昭和3年 肴町御神酒所
昭和19年 渡御見合わせ文
1,昭和4年 昭和恐慌と佐倉の祭礼

 大正時代「佐倉新町江戸まさり」と言われていた佐倉の発展も、昭和に入り影をさしてきました。
 『大正一五年十月 麻賀多神社 大年番帳』 昭和4103日の記述では、
例年通り14,15,16日に例祭をおこない神社神輿渡御もおこなうが、政府の緊縮方針や、神社昇格の積立や社務所建設等出費が多い為、今年に限り神輿御通路の貫打ちをしない」

と、書かれています。
同『大年番帳』翌年、昭和5年9月28日の記述には、
「例年通り14,15,16日に例祭をおこない、神社御神輿は裏新町(に関しては)警察署前まで渡御すること。
御神酒所は、今年は町内引き廻しをおこなってもよいが次の引き廻しは3年後の昭和8年とする。」

と、書かれています。
その後の『大年番帳』には昭和6年、7年も101日に祭礼の協議をおこない、例年通り14,15,16日に例祭をおこない、裏新町(に関しては)警察署前まで渡御することが決定されたとの記述があります。
 「神社御神輿の渡御はおこなうが、各町会の御神酒所の引き廻しは2年間おこなわない」
当時、各町会は祭礼の度に着物をそろえ、近隣のとび職人を雇って山車、御神酒所の引き廻しをおこなっていたと、聞いています。祭礼を盛大にやればやるほど費用はかかります。
 昭和4年にはじまった世界大恐慌、そして翌年の昭和恐慌による不況が新町六町や氏子町会の人たちを直撃し、2年間は御神酒所の引き廻しをおこなわなかったと考えられます。


Copyright© 2016 E kitazume All Rights Reserved

  TOP
2,昭和8年 満3年目の大祭

 『大正一五年十月 麻賀多神社 大年番帳』の昭和8年の記述には、
「満3年目に大祭をおこなっているが、大年番は6組で1年交代のため肴町、最上町、中尾余町と上町、宮小路町が大年番の時に大祭が繰り返しまわってきてしまう。今後は大年番が2度目の大祭に当たりたる場合は、その組は1年休み次年度の組が大年番を引き受けることとし、昭和11年の大祭で肴町、最上町、中尾余町が大年番をおこなった後より実施する。」

と、書かれています。
 「戦前の麻賀多神社祭礼では、町方は3年に1回を大祭とし、その時は山車と御神酒所を引き廻し、それ以外の祭礼は御神酒所のみを引き廻していた」という口伝をもとに、残されている古写真や今回発見された資料を組み合わせてみると大祭とされる年の古写真には山車と御神酒所の写っているものが多数残っています。
 当時、山車、御神酒所は解体されて保管していたと言われています。各氏子町会は神社御神輿が渡御した場合、神社御神輿を御神酒所に「掛ける」ため祭礼の度に御神酒所を組立てます。
  山車も引き廻しの度に組み立てられますが、組み立てる前に御仮屋(おかりや・組み立てた後、山車を風雨から守る小屋)も建てなければならないため費用と手間がかかり、3年に1回を大祭とし、山車と御神酒所を引き廻したと考えられます。

昭和11年 上町山車 御神酒所
3,昭和11年 袋町の祭礼参加

 昭和111010日の御通知に、
「袋町は本年より参加、代表2名参列」

の記述があります。
 「御通知」とは、氏子総代や区長、町総代、組長に配られた印刷物で、麻賀多神社祭礼の大祭式の式典時間と神社御神輿の道順と時刻の予定表です。
 その後袋町は間之町、野狐台町の組に入り、昭和13年に大年番をおこなっています。

昭和年 並木町御神酒所 新調記念か
4,忍びよる戦争

4-1昭和12年 渡御中止文
 昭和12109日「麻賀多神社氏子の皆さんへ」という題でチラシが配られました。
101日協議の結果、本年は上司の御意図、各地方の行事の有様、時局殊に藤井部隊の日々の戦況等を総合して・・・秦、福井両部隊の凱旋後の大祭に譲ることになりました。従って神社としては荘厳厳粛なる式典を取行うこととし、神輿の御渡御は行はせられぬことになりました。」

と書かれていました。
佐倉は軍隊の町ゆえに、祭礼より戦勝ムードに沸いていたと考えられます。


4-2昭和16年 御祭礼延期願
 昭和16年、御祭礼延期願には
「1014日は例祭日だが、今年は防空演習期間中にあたり神輿渡御等に支障をきたしてしまうため、1025日に延期したく許可を御願いしたい。」

と、書かれています。
佐倉の祭礼にも戦争の影が忍びよってきました。


4-3昭和19年 渡御見合わせ文
 昭和191010日の「渡御見合わせ文」には、
「昭和19101日、夜の氏子総代会に於いて御神輿渡御と決定したが、8日の夜、緊急氏子総代会を再度開き御神輿渡御を見合せのことに決定した。
例祭も14,15日に縮小し、式典の服装は通常服、子供神輿も中止、軒提灯も昼間、軒先に下げる」

等が書かれています。
一度決定したが、再度協議して中止したこの「渡御見合わせ文」からも当時の戦争が緊迫してきている様子がうかがえます。

昭和16年 上町御神酒所