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佐倉の祭礼
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祭礼の歴史
 明治天皇が崩御し、大正と元号がかわり、佐倉の町なかにも映画館が開館し、新町通りに煉瓦造りの建物「川崎銀行佐倉支店」が建設されます。この時代は大店ともいわれる各商店主が祭礼を取り仕切っていたと伝えられています。これらの商人達と共に、麻賀多神社祭礼も発展していきました。

佐倉の祭礼の歴史 大正時代 祭礼制度の確立
1、祭礼資料発見

 平成2510月、麻賀多神社御神輿倉より「麻賀多神社 重要書類」と書かれた木箱が発見されました。
中には『大正六年十月 祭禮年番帳 新町六ヶ町』(大正6年~昭和22年までの記録)
『大正七年十月 麻賀多神社 大年番帳』(大正7年~大正14年までの記録)
『大正十五年 麻賀多神社 大年番帳』(大正15年~昭和8年までの記録)
『御例祭関係文書綴』(大正9年~昭和31年までの祭礼関係文書、欠年あり)等祭礼関係の資料が入っていました。


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 この「重要書類」が発見されるまで、資料は江戸時代の『古今佐倉真佐子』、明治時代の『佐倉堀田邸宅家扶日記』ぐらいで、あと祭礼古写真、山車、御神酒所等の祭礼用具しか残っておらず、「神社御神輿の渡御は毎年おこなわれていたのか?」「「古今佐倉真佐子」には、新町六町と弥勒町が祭礼をおこなっていたと言う記述が残っているが、他の氏子町会はいつ頃から祭礼に参加したのか、また2日間だった祭礼期間がいつ頃3日間になったのか?」「3年に1回の大祭はおこなわれていたのか?」等祭礼の制度や方法の遷移がわかりませんでした。
 今回、これらの資料が発見された事により、現在も続けられている大年番制度成立のいきさつや、神社御神輿渡御の変遷、戦争時の対応等がわかってきました。ここからは、これらの資料を基に祭礼の歴史を振り返ってみます。
「麻賀多神社 重要書類」と書かれた木箱と中に入っていた祭礼関係資料
2、大正6年以前の祭礼

2-1 祭礼年番
『大正六年十月 祭禮年番帳 新町六ヶ町』最初のページに
   一 神輿渡御せざる場合は年番累番のこと
   一 神輿渡御せざる場合は鏑木町若者神酒料は金5円贈与すること
   一 神輿渡御の節は提灯は必ず道路提灯掛け出来のこと
     渡御せざる時は軒へ下げること

と書かれています。
 この文章には日付等の記載がないので、申し送り事項を書き記してあるのだと考えられます。

 これ以前の資料は発見されておらず推測になってしまいますが、題名が『祭禮年番帳 新町六ヶ町』とあり、年度ごとの記述者も新町六町の各総代となっていることから当時の祭礼は新町六町の横町、上町、二番町、仲町、肴町、間之町が1年毎に「祭禮年番」となり麻賀多神社の祭礼を取り仕切っていた。そして、神社御神輿が渡御しない年はその翌年も引き続き祭禮年番をおこなっていたと考えられます。
 では、当時麻賀多神社の祭礼は新町六町だけでおこなっていたのかを『祭禮年番帳』で調べてみると、大正6年は930日に大暴風雨があり渡御を見合わせしており会合の記述がありませんが、大正7年に「米新(二番町にあった割烹旅館)で新町六町の他に野狐台町、裏新町、宮小路町、並木町、鏑木町、中尾余町の総代も参加して総代人宴会をおこなった」との記述があることからこれらの氏子町会も麻賀多神社の祭礼に参加していたのではないかと思われます。


『祭禮年番帳』表紙
2-2 鏑木青年会
次に、「一、神輿が渡御しない場合、鏑木町若者に神酒料として5円贈与すること」
と、書いてあります。

 ここに書いてある「鏑木町若者」とは、神社御神輿の担ぎ手たちのことを指し現在は「鏑木青年会」と呼ばれています。その時代から現在も、神社御神輿を担ぐ事ができるのは、鏑木町在住の男性に限られていて、担ぎ手約40人、棒頭4人、世話役6人、大世話役(赤だすき)4人で構成されていています。
 『大正六年十月 祭禮年番帳 新町六ヶ町』によると、神社御神輿が渡御したときは神酒料10円、渡御しないときは5円を新町六町が折半で贈与していて、『祭禮年番帳』で記述されている昭和22年までは毎年続けられていますがその後については分かっていません。
『祭禮年番帳』最初の頁
2-3 道路提灯
最後に、「一、神輿が渡御する場合、提灯は必ず道路提灯を下げること 渡御しない場合、提灯は軒へ下げること」
と書いてあります。

神社御神輿が渡御する時は、その道順の道路の両脇に柱を立てて、その間に板を通し提灯を吊す。渡御しない場合は、提灯は軒に下げると書いてあります。
現在はおこなっていませんが祭礼古写真をみると昭和10年代まではこの道路提灯をおこなっていたと考えられます。
『麻賀多神社 大年番帳』表紙
『麻賀多神社 大年番帳』背表紙
3、大正7年 大年番制度

 大正7年になると『大正六年十月 祭禮年番帳 新町六ヶ町』とは別に『大正七年十月 麻賀多神社 大年番帳』が作られました。この冊子の注目すべきところは、本の背表紙に、「鏑木町外拾弐ヶ町」と書かれてあることです。

 その『大年番帳』大正7年の記述に
「大正7年度より麻賀多神社例祭の時は氏子総代及町総代より祭典委員を選定し大年番とし会計及び諸般の事務を扱うこと」

と書かれています。これは現在も続けられている大年番制度のことです。
 大年番とは、「氏子町会がグループを組み、1年交代で神社が行う祭礼等行事全般の会計、総務を担当します。ただし、神社御神輿が渡御しない場合は翌年もまたおこなう。」という制度です。
 大正7年の記述には、大正7年度より麻賀多神社の氏子13町は6組に分かれて1年交代で「大年番」という祭礼委員会を組織する。大年番は神社宮司と相談しながら祭礼予算案を作り、氏子総代総会に提案しその予算案を審議してもらう。そして、審議された予算内で神社宮司の請求に応じ現品を支給する。と記されています。
6組とは、      1,横町 並木町の氏子総代及び町総代
       2,上町 宮小路町       同
       3,二番町 裏新町         同
       4,仲町 鏑木町              
       5,肴町 中尾余町 最上町   同
       6,間之町 野狐台町      同
を指します。

 その後、袋町と栄町が加わり、袋町は間之町の組に、栄町は二番町の組に編入されます。そして、昭和36年には、それまで6組だった大年番を7組に改編し現在にいたっています。

  また、平成5年に佐倉の秋祭り実行委員会が発足してからは、例祭全ての会計、総務、渉外を担当していた大年番ですが道路使用許可や交通規制等の警察との協議、ガードマン、ポスター、チラシの発行、各町会間の運行調整等を秋祭り実行委員会がおこなうようになりました。
昭和11年 仲町山車 建物の前に道路提灯が吊されている

4,大正8年 休憩所の設置

『大正七年十月 麻賀多神社 大年番帳』大正8年の記述に
「並木町と肴町の間の二番町郡役場前に神輿休憩所を大正8年度より設置する」

と書かれています。
 現在、神社御神輿は例祭の1日目と3日目の2日間をかけて氏子町会を御渡し、各氏子町内に渡御すると神社御神輿を「台」にのせ休憩します。また、各町会に渡御するとその場で神社宮司が祝詞奏上をおこないますが、平成22年より氏子総代が玉串奉奠をおこなうようになりました。
 この時代、氏子町会への渡御は例祭1日目におこなわれました。そして、各町会の御神酒所のお囃子台には御神酒を入れた白い二本の瓶子が三方に載せられて供えられ、神社御神輿が渡御され、お囃子台の欄干に御神輿の花棒を「かけ」御霊代が御神酒を食されたのち、お囃子や町内の引き廻しが始まったと言われています。担ぎ手の白丁たちは、神社御神輿を御神酒所の欄干に掛ける間は休憩できるため(その間は青年会世話人が交代し御神輿を担ぐ)新町通りには休憩所がなかったと考えられます。しかし、担ぎ手たちには多少の「無理」があり、担ぎ手たちのために新町通りに1ヶ所休憩所を設けたと考えられます。
大年番制度記述部分

5,大正9年 祭礼期間の延長と裏新町への渡御

5-1祭礼期間の延長

『大正七年十月 麻賀多神社 大年番帳』大正9年の記述に
「大正9年度より麻賀多神社例祭は10141516日の3日間とする」

と書かれています。
 現在、麻賀多神社の祭礼は、10月第2金、土、日曜日におこなわれていますが、例祭神事は10141516日の3日間もおこなわれています。
 江戸時代中期『古今佐倉真佐子』の時代、麻賀多神社の例祭は旧暦の91415日でした。
 時代は代わり、明治5年に旧暦から太陽暦に改暦がありました。改暦により日にちが約1ヶ月ずれることから例祭日を9月から10月にずらしたと考えられます。
 そして、大正9927日、役場2階に各町氏子総代や区長が集まり例祭日を協議し、今まで101415日の2日間であった麻賀多神社の例祭を大正9年度より1日延長し、10141516日としました。

横町山車 吉田書店発行絵葉書
お囃子台には御神酒を入れた白い二本の瓶子が三方に載せられて供えられている
5-2 裏新町への渡御

同じく『大年番帳』大正9年の記述に
「大正9年度より裏新町へ神輿渡御の件を、年番氏子総代、二番町総代、鏑木町氏子総代、区長で協議し14日に渡御することを決定した」

と書かれています。
 現在、神社御神輿の道順記録で残っている最も古い資料は昭和7年のもので、祭礼1日目に鏑木町、裏新町、並木町、新町六町を渡御し旧堀田邸に向かい仲町の御假屋(御旅所)に入る道順が書かれています。
 鏑木町、新町六町以外の氏子町渡御は、旧堀田邸(野狐台町)と並木町、裏新町ですが、旧堀田邸へは『佐倉堀田邸宅家扶日記』に明治29年より渡御した記録が残っています。
 並木町への渡御については、記録は残っていませんが大正9年以降の『大年番帳』に新たに道順を増やし並木町へ渡御するようになったという記述は無く、裏新町2ヶ所への渡御決定以前に並木町へは渡御していたと思われます。


大正11年 二番町山車、御神酒所
大正9年渡御推定図 「佐倉の祭礼」より転写