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祭礼の歴史
1 古今佐倉真佐子

佐倉の祭礼の歴史を辿って行くと『古今佐倉真佐子』という江戸時代に書かれた一冊の本に出会えます。著者「渡辺善右衛門守由」が佐倉に住んでいた間(享保2年(1717)~享保8年(1723))に見聞した佐倉の様子、佐倉城や寺社、民話や伝承などを書き記した本で、麻賀多神社祭礼の様式やつけ祭りの様子、御神輿の事などが書かれ、現在、確認できる祭礼の記録では、最も古いものであると言われています。

現在、佐倉の秋祭りは10月第2金・土・日曜日の3日間で行なわれますが、『古今佐倉真佐子』によると、この頃の祭礼日は、旧暦の91415日の2日間で神社御神輿は、14日の申の上刻(午後3時半)頃に麻賀多神社より出輿し、漆坂の上から武家屋敷前を通り、薬師坂を下りて鏑木村を渡り、皿田橋際で小休止となり、その際に神楽を奉納したようです。その後、猿が脇の坂を上って新長屋前通り(新町)から八軒町、弥勒町、間の町、肴町と渡御され、仲町の御旅所へ入輿し、1日目の渡御が終了しました。2日目の渡御は、夕七つ(午後4時)過ぎに御旅所より出輿し、新町から横町へ渡り、麻賀多神社に入輿され祭礼が終了したと書かれています。この事から、現在の道順と比べると1日目の行程が長く、御旅所も仲町にあった事が判り、神楽が奉納されるなど、渡御の様子も変わった部分がある事が判ります。

 徳川家康が江戸に幕府を開き日本の中心として大きく発展し、それに伴い江戸の祭礼文化も大きく花開きました。佐倉の祭礼の始まりははっきりとは判りませんが、江戸幕府の要衝であるこの地を親藩、譜代大名が治め、江戸からの影響を受け祭礼文化が花開き、その様式を残しながら現在まで受け継がれてきたのではないかと考えられます。


佐倉の祭礼の歴史 江戸時代 古今佐倉真佐子

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 現在は御神輿の渡御や山車・御神酒所の引き廻しが中心ですが、この頃は仲町にある御旅所の前通り(新町通り)に舞台を建て、歌舞伎や狂言を鑑賞したようで、近隣の町や江戸からも役者を呼び、年によっては地元の人々が狂言を行ない、町の人々や見物客が大変楽しみにしていたようです。
「佐倉の祭礼がわかる写真展」展示パネルより
大神輿渡御の行列は、
町方の幟
わく入榊


金の幣
鹿に紅葉作物
賽銭箱
大鞨鼓
猿田彦大明神
町同心
御輿
別当騎馬
神主騎馬
町同心

と書かれていて、現在の渡御行列よりかなり大きな規模の行列であった事がうかがえます。
 また、神社御神輿渡御の記述だけでなく、各町会が、山車と共に「歌舞伎の演目」のねり祭や、今で言う「仮装行列」を行っていたとの記述があります。
 この頃の江戸では、徳川将軍家の守り神「山王権現(現在の日枝神社)」の山王祭と江戸の総鎮守「神田明神(現在の神田神社)」の神田祭が一年おきに祭りをおこなっており、江戸城内に入り将軍の上覧をうけていたことから「天下祭」といわれていました。この祭りは氏子町会が山車を仕立て、この他に当番町が「ねり祭り」といわれる、歌舞伎の演目などの「出し物」を屋台で仕立て行列を成していました。このことから麻賀多神社の祭礼も江戸の祭礼の影響を受けていたと考えられます。
 著者の主君である稲葉正知が在城の時には、明六(午前6時)前に大聖院の脇へ各町の屋台が引かれ、五つ(午前8時)過ぎから昼九つ(午前11時半)過ぎまで田辺左仲御預屋敷にて一番からねり出しをご覧になり、屋台1つに1荷ずつ10匁蒸籠を下さり、その後、宮小路より町へねり行列が行なわれ、上総、東金、鹿島、潮来あたりから大勢見物客が来て、江戸の祭りの様な賑わいであったと書かれています。
「佐倉の祭礼がわかる写真展」展示パネルより
「横町・武蔵野の山車と湯立の屋台」

「上町/上二番・桜の山車と曽我五郎矢の根の屋台」

「上三番・樽に盃の山車と国姓爺の屋台」

「上四番・三本幣の山車と揚巻助六の屋台」

「肴町・薄の山車と出世太平記の屋台」

「間の町・吉野の桜の山車ともりつきの屋台」

「弥勒町・瓶に猩々の山車と猿大名行列