昭和34年の修理記録には、

「このときの神輿師は市川市行徳の後藤直光で、金四拾四万円をかけ立派なものにした。但し社宝であり文化財でもあるので、原型は聡も崩さない様に留意した。尤も奉舁の際、破損せぬ様お胴の内部に四隅に蔭柱を入れて一層堅牢なものにしてある。」(昭和38年「佐倉市文化財審議委員会議資料」より)

と記載されています。

明治8年の修理記録には、

「この時は神社拝殿に紙帳をつかって金粉の飛散を防ぎたるとのこと、神輿の胴の四隅の昇り龍降り龍などは原型のまま金箔漆塗りだが、屋根の社紋が巴紋と卍紋二様あったものを巴紋だけに改められた。これは神仏混隋廃止令に従って卍字紋を除いたものであろう。地塗りもこのとき金梨地の豪華なものに仕上げられた。」(昭和38年「佐倉市文化財審議委員会議資料」より)

と記述されており、明治8年の修理時に、屋根に巴紋と卍紋二様あった社紋を巴紋だけに改められ、黒漆塗りから金梨地(なしじ)になったことがわかります。

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明治45年大祭式 拡大写真

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享保6年に制作された神社御神輿は、その後、明治8年、昭和34年、平成15年と3度にわたって修理が行なわれました。

現在の麻賀多神社御神輿

昭和34年大祭式 拡大写真
麻賀多神社御神輿の修理
平成15年の修理では、

「この時の修理は東京都台東区西浅草の宮本卯之助商店にて施工し、大屋根を支える枡組一つに至るまで分解し、欠損箇所の補修および彩色を行い、漆塗りの部分は塗膜を全て剥がし、木地の補修および漆塗りをおこなった。瓔珞は編み直しと金メッキを施し、その他の飾り金物も、欠損部は新調し全て金メッキを施した。」(麻賀多神社 宮司 宮本勇人氏談話より)

とのお話を伺いました。