明治時代になっても佐倉には陸軍(歩兵第二連隊)が駐屯するなど発展は続きます。
その頃新町六町は江戸日本橋方面より、江戸型山車や山車人形を買い揃え、3年に1回の大祭には御神酒所(おみきしょ 屋台を佐倉ではこう呼ぶ)と共に引き廻ししていたと言われており、神社御神輿の渡御とあわせ、その祭礼の華やかさは「佐倉新町江戸まさり」という言葉で表された程でした。
 江戸時代、佐倉城築城と共に東へ城から弥勒町(みろくまち)に通ずる1本の道を通し、道の両側に新しい城下町「新町六町」〔横町(よこまち)上町(かみちょう)二番町(にばんちょう)仲町(なかまち)肴町(さかなまち)間之町(あいのまち)〕を造成し、佐倉藩総鎮守 麻賀多神社の氏子としました。そして、幕府は、江戸城の東域を守る重要な拠点として佐倉に、信任の厚い譜代大名を統治させました。
 江戸時代中期の文献「古今佐倉真佐子」によると、当時の麻賀多神社の祭礼では、神社御神輿の渡御や、新町六町と弥勒町の山車や屋台がねり祭をおこない、多くの人々で賑わったとの記述が残っています。
 その後、昭和初期にかけて、新町六町以外の各氏子町会も御神酒所を所有し、鍵の手のような城下町を三日間、御神輿、山車、御神酒所が盛大に練り歩くようになり、現在の「佐倉の祭礼」の形となりました。

 戦争によって佐倉の祭礼は一時中断されましたが、昭和20年に神社御神輿の渡御は再開されます。しかし、敗戦により軍隊が撤収され、佐倉の発展に陰が差し始めます。

 高度成長期、佐倉の祭礼は一時衰退しましたが、昭和48年の「若潮国体」記念の大祭のあと各氏子町会の人たちは気運が序々に高まり「佐倉の祭礼」は復活しました。

 平成5年には「佐倉の秋祭り実行委員会」が発足され、麻賀多神社の祭礼は「佐倉の秋祭り」となり、現在は佐倉市20町会、麻賀多神社と共に六崎麻賀多神社、愛宕神社、神明神社、八幡神社の氏子町が加わり5社の合同祭の形による祭礼が新町通りを中心に、10月第2金、土、日曜日の3日間行われております。
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佐倉の祭礼
 山車人形
 山 車
 活動履歴
明治2810月 佐倉練兵場ニ於ケル歩兵第2連隊招魂祭
  左側に山車7本が写っている

祭礼の歴史


佐倉の祭礼の歴史 はじめに
昭和1110月 大祭写真
  新町通りに各町会の山車、御神酒所が集合
佐倉の秋祭り参加町会 町割図 「佐倉の祭礼」より転写
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